包囲戦術・作戦は軍事史において古今東西変わらずその有効性を示し続け、今や米軍の教範に戦術上最も検討優先度の高いマニューバとして記されています。
 しかし包囲を行おうとすれば勝てるというわけではなく、相手もまた優れた軍事知識を持つ将校である場合に包囲を成功させることは至難であり、逆襲を受け敗北することもあります。特に相手の包囲を上回り逆襲する手法は対包囲(反包囲)という括りを為され、恐らく戦術という観点では最も高度な手法の1つが見られるでしょう。
 といっても複雑な対包囲もあればシンプルなものもあります。時に対包囲というより包囲側の自滅的な要素もありますが、いずれも迅速で大胆な決断力を必要とします。なぜなら全て巨大なリスクを背負わなければできないマニューバだからです。

 今後このサイトではある程度、包囲戦術の各タイプごとの戦例をあげた後、それらに対する対包囲戦術・包囲戦術失敗の戦例を定期的に投稿していこうと考えています。

 この記事はその最初の投稿となります。会戦の名は「ラムラの戦い」、中世に行われた十字軍騎士とアラブ兵の戦闘です。
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(以下本文敬略)
(対包囲戦術の例:第3次ラムラの戦いは本リンク参照

戦争の背景

 ラムラ(ラムレー)は現在のイスラエル中央に位置し交通の要衝であったためか数多くの戦いがこの地で行われた。今回は第1回十字軍直後に形成されたエルサレム王国とエジプトに拠点を置いていたファーティマ朝が12世紀初頭に連続して行った3つの会戦に注目する。十字軍国家側の指導者は全てボードゥアン1世である。

 ボードゥアンは1096~1099年に行われた第1回十字軍に参加して中東にやってきた。
crusaderorders 歴史に多きな影響を与えたこの遠征軍によって欧州とアラブの文化や技術が互いに伝搬を加速させたことは有名だが、戦争術においてもそれは同様だった。
 西欧仕込みの鎧を着込み従卒を率いた騎士たちは時にアラブの兵士たちに勝利し、時に大敗を喫した。どちらの勢力が優れていたと言うよりも会戦ごとの指導者と兵卒の力量を詳細に見ていきたい。

 ボードゥアンの戦歴はまさに勝ちと負けを繰り返しており、大いに戦史家達を助けている。彼は第1回十字軍において主導的な役割を果たした1人であり、内紛と未知の敵に苦しみながらも時に寡兵で勝利を得て中東に領土を獲得する。そして1100年にはエルサレム王となる。

 だが再びイスラム勢の1つ、エジプトに撤退していたファーティマ朝の軍隊が反撃を開始して聖地を取り戻しに動き出していた。この遠征軍はいくつかの撤退と再侵攻をあわせ1099~1105年に渡り継続されたものである。
 ファーティマ朝は全盛期を過ぎ勢力を衰えさせており、なんとかイスラエル、シリア領域を取り戻そうと必死であった。この戦いは宰相アフダルの肝いりで遂行された。

第1次ラムラの戦い_1101年_包囲に対しての中央突破

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 イスラエル南部のアスカロン街から出立したエジプト・ファーティマ朝軍は1101年の5月半ばに一度中部ラムラに到着したが、ボードゥアン1世は素早く反応し迎撃部隊を差し向けた。

 これに対して偵察を行ったファーティマ朝軍は軽率な対応はせずに一度アスカロンまで退き、増援を集めた上で再度ラムラの地に侵攻した。この動きは実に慎重で十字軍騎士たちに対して用心していたことを示している。

 そしてこの遠征でのラムラでの最初の会戦は1101年9月に行われた。イスラエルのこの時期は間違いなく猛暑であったろう。
 それでも兵士たちは迂闊に鎧や盾を捨てればはるか昔より強大な威力を示してきたアラブの弓矢に貫かれてしまう。彼らは薄着であったろうが欧州風の鎧武器を少しずつアラブに適合させていっていた。

 イスラエル中部に数千の兵士たちが会した。
 まだ両国家ともにこの地で3度に渡って剣を交えることになるとは想像だにしていなかった。だがこの第一次ラムラの戦いからその様相は文字通り死闘というべき激戦を繰り広げることになる。

戦力_第1次

 ボードゥアンは遠征軍が根付いた十字軍国家に多くの歴戦の兵士たちを揃えていた。彼はそのことを認識しており強い自信を持っていた。一方でファーティマ朝軍は歩兵を多く揃え騎兵もいたが団結力が有るとは言えず雑多な集まりであった可能性が指摘されている。指揮官はベイルートの支配者であったサードという人物であった。

 エルサレム王国:総勢1160人(騎士260、歩兵900)
     指揮官:ボードゥアン1世

 ファーティマ朝:総勢3000人以上 (スーダンの弓歩兵とアラブ及びベルベル人の騎兵含む)
     指揮官:サード・アル・ダウラ(Sa'ad al-Dawleh)
crusader1st
arabarmymiddleage
<初期十字軍の装備> ※この絵は多少年代がずれている可能性があるがご容赦を    <アラブ軍の装備> 
 (十字軍側は騎士の数がほぼ正確に記述される傾向がこの時代は見られた。恩賞のためにも記録が求められていたといった要因があるおかげでこの数値は多くの場合信頼されている。しかし従卒その他傭兵に対しては記録は朧げになることは避けられず全体の数を正確に把握することは難しい。一方でイスラム側は更に把握が困難である。この戦いでイスラム勢力は数万人という信じがたい勢力であったと記されているものもあるが、現在の歴史家たちは数千と見込んでいるのがほとんどである。ただ十字軍側にとって自軍を遥かに優越する数と感じていたというニュアンスは伝わってくる。)

会戦_第1次ラムラ

 ボードゥアンはラムラの地で敵を確認すると、騎士たちのグループを5つの部隊に編成したと記されている。
スライド1 これは戦術的な意味合いもあるが騎士ごとのつながりを重視して連携をとれるように分けたという面も強い。ボードゥアンは歩兵はほぼ攻撃において使用する気が最初から無かったと思われる。
 騎兵突撃を繰り返すための攻撃発起点を保持させるために歩兵を使用し、後方にほぼ置き去りにするような形となった。何よりもボードゥアンは先制攻撃をすることを決めていた。

 対するファーティマ朝軍ははっきりしないがどうやら横に広い布陣を敷いていたようだ。
 戦術的傾向は投射攻撃をまず行い敵正面を瓦解させ、それから突撃で粉砕するというものであった。

 だがボードゥアンはそれをしっかりとは把握できていなかったようだ。あるいはお構いなしだったのか、彼は一気に騎士たちの突撃を実行した。
 十字軍遠征で得た自信が背景にあっただろう。そして歴戦の騎士たちはその期待を裏切らぬ激しい戦闘意欲を見せ5つの部隊は槍と剣を振るうこととなる。

 まず2つの騎兵部隊が一番槍を競い突進していく。続いてその反対側の翼の騎兵部隊が前進した。歩兵はほぼ随伴しなかったと考えられている。
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 しかしファーティマ朝軍は簡単に崩れはせず激戦が展開された。
 最初の2つの騎兵部隊は完全に壊滅させられた。更に右翼にいた3つ目の部隊も多くの死傷者に苦しみ、撤退せざるを得なかった。

 ファーティマ朝軍の左翼は彼らを追撃し戦場から駆逐した。彼らは後方のヤッファの街まで撤退したが、ファーティマ朝軍左翼はヤッファ街まで追いかけ城壁までやってきたことが記録されている。
 これは戦術的に非常に重要な記録である。片翼が局所的勝利を得たのは確かであるが、
勝利した部隊が眼の前の打倒された敵を追撃し主戦場から離れ」ていき、「中央方向へ転進し複数方向からの包囲攻勢」をその全力ではしかけなかったということである。即ち中央への包囲戦術が不完全であったということを示している。
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 これこそが包囲戦術を行うことが難しい理由の代表的なものである。追撃が重要なのは確かであるがかといって眼の前の部隊を深追いしてしまい側面攻撃をしかけない、あるいは遅くなりすぎるという事象が起きるのだ。片翼包囲戦術を遂行するには少なくとも以下の行動が必要不可欠である。

① 翼部隊指揮官は眼の前の敵の組織力を瓦解させ主戦場から駆逐した時点でそのタイミングを的確に見極め追撃を中止する。
(もちろん敵翼部隊が再度戻ってこられるようなことが無くなるまで攻撃は続行されなければならない)
② 翼指揮官は戦闘で散らばった部隊を再度集結させ組織性を復活させる
③ 迅速に部隊が進んでいた方向を変え、突進する。

 兵士は機械的な駒ではない。思った通り動いてはくれないし、すぐ伝令は届かないし反応してくれもしない上そもそもどこにいるのかも戦場で把握するのは大変な労力を要する。
 更に当時の社会制度によっては厳格な指揮系統を造るのが難しいことが珍しくない。各部隊の騎士・貴族たちは己の金と部下を率いてきた矜持があるのだ。簡単に指揮権を渡してくれると期待するのは酷である。特に封建制でそのようなことができる強権的な王やカリスマのある指揮官が如何に貴重かは歴史家達が述べてくれるだろう。

 追撃戦は戦果拡張に重要であるし眼の前の勝利への欲望は抗うのが非常に難しいものである。ましてや広い戦場を鳥のように的確に把握するのは想像を絶する大変さである。故に片翼が勝ったのに逆転敗北するという戦いは戦史において他にも見られる。この会戦も恐らくその戦例の1つ。
 片翼が勝ったからといって包囲戦術に持ち込めるとは限らない
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 ただし最善の形の包囲が形成はされていなかったとはいえ、ほぼ両翼が押し込められ、ファーティマ朝軍の攻撃は中央後方の歩兵まで届いたようだ。もはやボードゥアンは敗北したかに思えた。

 しかしボードゥアンは諦めてなどいなかった。中央に残していた残る2つの騎兵部隊を自ら率いて反撃に討って出たのだ。周囲は不完全とはいえ包囲の様相を見せているが、見せているからこそか、ボードゥアンは一切のためらいを見せず眼の前の敵戦列中央にのみ集中する。騎士の一群が全力で駆け敵戦列のど真ん中に突っ込んだ。
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 この時の騎士たちの団結力と勇敢さは証明されることとなる。

 またたく間にファーティマ朝軍の弓矢の懐に飛び込み接近戦に持ち込むと、歩兵戦列を突破することに成功したのだ。両翼が勝ち中央が油断していたのかもしれないが、そこに反応が間に合わないほどの速度と威力で突進したボードゥアンの騎士たちが勝ったと言うべきだろう。

 指揮官であったサードが戦死したことは戦況がどうなったかをはっきり見せた。
 ファーティマ朝軍はほぼ包囲を形成していたが、包囲環を収縮し圧力をかける前に戦列が真ん中から崩れ、左右の連携はおろか壊乱し逃走を始めた歩兵達を統率することもできない。ボードゥアンは攻撃を続行したため組織的な抵抗ができなくなったファーティマ朝軍は全体がその場から離脱するしか無かった。
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< 第1次ラムラ会戦マニューバgif >編纂者作成

戦果_第1次ラムラ

 戦いそのものは撃退に成功したボードゥアンのエルサレム王国の勝利と言える。
 この戦いは確かに包囲を形成しつつあった状態から予備を投入した中央突破により勝利した戦例である。ただ片翼が完全に崩壊しその部隊は後方の街のヤッファまで追撃を受けたことからもギリギリの戦いであったのは間違いない。

 エルサレム王国:(総勢1160人)
         戦死:騎士80人(31%)、歩兵80人以上
         負傷者:不明

 ファーティマ朝:総勢3000人
          戦死:数百~数千指揮官含む
         負傷者:不明


 ファーティマ朝軍はその継戦能力を失ったわけではなく宰相アフダルも諦めておらず、この先も戦いは続いていく。むしろ更に兵力を増強して行われることとなる。また勝利したとはいえそのために払ったエルサレム騎士たちの喪失は大きかった。やはり包囲が途中まで成功するほど最初の突撃が撃退され両翼が進まれたことが影響している。

再び戦へ

第2次ラムラの戦い_1102年_包囲に対しての突破失敗

 1101年9月の第1次ラムラの戦いから半年しかたっていない1102年5月、再びファーティマ朝とエルサレム王国は剣を交えることとなる。
 やはり進軍の拠点はファーティマ朝の要塞アスカロンからであった。宰相アフダルはここを起点に度重なる攻勢にでている。前年度の敗北で騎士たちの脅威を改めて認識したファーティマ朝はしっかりとその反省点を取り込んで戦いに望むこととなる。

戦力_第2次

 やはりファーティマ朝軍はスーダンの弓歩兵とベルベル人及びアラブ騎兵を多く動員していたようである。彼らの弓撃にかなりの信頼を置いていた。今回は宰相アフダルの息子サラーフが直接率いていたことからその本気度が伺える。
 前年度の生き残りが多数含まれていたと思われる。彼らは復讐戦に燃えていただろう。

 対するボードゥアンは十字軍での功績に加え前年度の勝利で自信を過剰なまでに深めてしまっていた。数ははっきりしていないが騎士は200名、騎兵最大数でも700名程度であったと言われている。

 エルサレム王国:総勢:1000弱(騎兵:約200~700 、歩兵:従卒以外はほぼ無し)
     指揮官:ボードゥアン1世

 ファーティマ朝:総勢3000~5000人 (2万とも言われる)
     指揮官:サラーフ・アル・マアリ(宰相アフダルの息子Sharaf al-Ma‘ali Sama’ al-Mulk)

会戦_第2次ラムラ

 ファーティマ朝軍は増援を得てから出立しラムラの街を攻撃し始めた。周辺の地では略奪を行いこれはエルサレム王国への挑発にもなった。

スライド1 サラーフの出陣をボードゥアンはヤッファの街で聞き、騎士たちを招集し進軍した。
 イスラム勢力相手にためらいなく出発したのは野戦で撃退できる自信に満ちているが、ボードゥアンは敵数を充分に把握していなかった可能性が高い。ラムラ街を救援するために急いだためかもしれない。定かではないが急いで迎撃に向かったエルサレム王国軍は戦闘員は明らかに少なかった。特に歩兵が間に合っていなかった。

 野戦はラムラ近郊のヤズール付近であった。これはヤッファから16kmの地点である。

 ファーティマ朝軍はこの戦いでしっかりとした戦闘方針を見せる。
 まず少数の利点を活かし高速で接近してきたボードゥアンのエルサレム軍に対して動じることはなく、部隊を後退させることも無くすぐさま野戦に討ってでた。それどころかエルサレム軍の先手をとって迅速に先制攻撃を発起したのだ。これは数の有利に驕ることなく主導権を積極的に取りに行った高判断であった。騎士の突撃力が組織性の低い部隊に対して何を引き起こすか、これまで見てきた故の改善であった。

 主導権を得るとすぐさま数で上回る利点を活かし、両翼はより広く動き包囲に持ち込んだ。
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 対するボードゥアンはこれまで寡兵で勝ってきた経験から騎士の突撃力ならまだ勝てると考え、退却をするより攻撃を選んだと思われる。あるいは退却が間に合わないと判断したのかもしれない。やはり突破攻撃を仕掛けたようだ。

 しかし今度はファーティマ朝軍はしっかりと中央を持ちこたえさせた。前回と同じ轍は踏まなかったのだ。翼部隊もきっちりと周囲から圧力をかけ、包囲を完成させると次々と騎士たちを殺害していった。
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 ボードゥアンが数にあまりにも差があること、敵騎兵がしっかりと用意されていることに気づいたときにはもはや遅かった。突破は頓挫し脚を止めた騎士たちは攻撃を全方位から受け組織性は崩壊していく。
 野戦での敗北は明らかだった。それでも何名かの騎士は包囲を打ち破りヤッファまで撤退に成功したと記されている。
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 第2次ラムラ会戦マニューバgif >編纂者作成

 ボードゥアンは極僅かな供と夜陰に紛れなんとか逃げ出した。
 その他の野戦で生き残った主な騎士たちはラムラの塔にこもったが、そこもすぐに包囲され攻撃を継続されたため勝ち目はなかった。とても補給戦に持ち込めるような状況でもなかった。

 朝になってファーティマ朝軍は猛撃を開始しラムラの街は陥落した。残りの騎士たちは全て戦死か捕虜となった。

戦果_第2次ラムラ

 この会戦は完全なファーティマ朝軍の勝利に終わる。街を救援しようと急いで来たボードゥアンのエルサレム軍は野戦で撃滅され、ラムラの街もすぐに陥落させられる。

 エルサレム王国:(総勢1000人弱)
         死傷者・捕虜:ほぼ全軍、騎士200名弱

 ファーティマ朝:総勢3000~5000人
          戦死:軽微

 戦死・捕虜となった騎士たちの中にはブロア伯やブルクハルト伯といった名家が多数含まれている。この喪失は十字軍国家にとって大きなものであった。
 第2次ラムラの戦いで破れたボードゥアンは戦線を後退させるも、崩壊することはなく各所で激戦を行っていく。彼はこの戦いでの敗北をしっかりと受け止めていた。

 そして3年後の1105年、再びラムラの地でボードゥアンはファーティマ朝軍と大規模な野戦を戦うこととなる。第3次ラムラの戦いである。彼はそこで、これまでの戦いの見識が積み重ねられた戦術を戦史に記すこととなる。
第3次ラムラの戦いに記事続きます
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戦術面の小考

 第1次ラムラの戦いは対包囲戦術として考えるなら最もシンプルな「中央突破」です。それも進行方向は正面に真っ直ぐ進むタイプです。シンプルが悪いわけはなく、むしろいじくり回さないことで突進力は間違いなく最大化されると思われます。
 ただ包囲をしてきている相手にそのまま中央突破を試みるのは非常に大きなリスクを背負います。なぜなら包囲戦術はほとんどの場合、相手を中央に拘束する形にしておきサイドを切り崩すからです。つまり相手の思惑通りの進行方向である可能性が高いのです。
 高名な戦例を調べれば、相手を中央に誘い込んでいるものを見つけるのは容易でしょう。ただ包囲側も適切に相手の突破力、タイミングを見極めなければ崩されてしまい、この戦例のように全体が崩壊することになります。包囲するために戦列は長く広げなければならず、どうしても他の隊形より薄くなります。
 他にも第1次ラムラの戦いは包囲戦術をする側の失敗例として有用なものを示してくれています。
 文中に書いた「翼部隊が勝っても目の前の相手を深い追いしてしまい中央への攻撃が発生しない」という事態はまさに典型です。
 第2次ラムラは反省点を洗い出し、多勢で挑み主導権を取り中央を突破されないよう厚くししっかりと包囲しています。

 第3次ラムラの戦いでは更に別の特性が顕現することになります。その対包囲戦術はやや高度なものとなります。

 ここまでマイナーな戦例にも関わらず読んで頂き、大変ありがとうございます。
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参考文献 (第3次ラムラ会戦含む)
William Barron Stevenson, (1907) "The Crusaders in the East: A Brief History of the Wars of Islam with the Latins in Syria During the Twelfth and Thirteenth Centuries"
Alan V. Murray,(2006)  "The Crusades - An Encyclopedia"
Alan V. Murray, (2000) "The Crusader Kingdom of Jerusalem: A Dynastic History 1099-1125"
Charles Oman, (1978) "A History of the Art of War in the Middle Ages Vol.1"
サイト
http://www.worldhistory.biz/middle-ages/22539-ramla-first-battle-of-1101.html
http://www.worldhistory.biz/middle-ages/25456-ramla-third-battle-of-1105.html
https://deadliestblogpage.wordpress.com/2017/07/27/the-crusades-part-3-battle-of-antioch-and-the-march-to-jerusalem/
http://crazyhis.web.fc2.com/war/battle/1101ramleh.htm
https://deadliestblogpage.wordpress.com/2017/12/02/the-crusades-part-4-jerusalem-and-the-kingdom/