包囲を行ってくる敵に対してどう対処するかという命題について戦史には様々な応えが記されています。そもそも包囲を行える部隊組織を持ち、発案しくる敵指揮官は優れた相手であることが多く、それを上回る戦術は卓越したものとなります。

 第3次ラムラの戦いは包囲を企図した者とそれに対抗した戦術が現れた良質な戦例です。

 この戦いの指揮官、十字軍国家の王ボードゥアン1世は中東で戦歴を積み重ねてきました。
 直近の会戦で対決したファーティマ朝軍は数で上回っていたためか尽く包囲を試みており、第1次ラムラ会戦では包囲が失敗し、第2次ラムラ会戦では前回の欠点を見事に改善し包囲戦術を成功させボードゥアンを破りました。学習し成長したとも言えるこの敵に対してボードゥアンもまた戦術的な変化を持って再び戦に挑みます。
スライド9

(以下 本文敬略)
第1次ラムラ会戦及び第2次ラムラ会戦に関する記事は本リンク参照

戦争の背景

 第1回十字軍によりエルサレムを含む西シリア・パレスチナ一帯を失いエジプトに勢力を後退させたファーティマ朝は挽回を狙い1099年以降に一連のイスラエル遠征を行う。これは宰相アフダルが主導し国家の命運を賭けたものだった。それはエルサレム王国にとっても同じであった。

crusadercavarly 戦ったのはエルサレム王ボードゥアン1世である。第1回十字軍に従軍し主導的な役割を果たし数々の戦を越えエルサレムに入場した彼は十字軍国家の中では最も求心力がある内の1人になっていた。彼のもとには第1回十字軍以降中東で経験を積んだ歴戦の騎士達が集まった。

 ファーティマ朝軍は前線の街アスカロンより北上しヤッファやハイファといった拠点を獲得しようと攻め込んだ。その途上に有るイスラエル中央部ラムラの街は交通の要衝であったため、この地で複数回ボードゥアンとファーティマ朝は剣を交えることとなる。

 1101年の第1次ラムラ会戦ではファーティマ朝軍は両翼包囲を企図しボードゥアンのエルサレム王国軍を敗北寸前まで追い込んだ。しかし側面攻撃を受けながらもボードゥアンは最後の予備を投入し果敢な中央突破を成功させ逆転勝利する。包囲戦術の失敗となった。包囲の圧力がかかりきる前に広がった敵戦列を突破したことはシンプルだが有効な対包囲戦術であった。ただやはり中央突破は容易ではなく参戦の30%以上に及ぶ多くの騎士たちの戦死によりなんとかもたらされた瀬戸際の勝利であった。

crusaderdeath 第2次ラムラ会戦は僅か半年後の1102年に行われた。第1次の生存者が含まれていたと思われるファーティマ朝軍はリベンジに燃え、多数の軍勢を慎重に運用した。ラムラの街に侵攻し周辺で略奪を始めボードゥアンが救援に来るように挑発した。急いで駆けつけたエルサレム王国軍は歩兵がほとんど参集できていなかったと言われる。これまでの経験で騎士の突撃力に自信を深めていたボードゥアンはそれでも勝てると踏んでいた。だがファーティマ朝軍はしっかりと前回から改善を行っていた。まず大軍の利に油断せず騎兵を使い先制攻撃を行い主導権を奪った。そのまま連続的に攻勢をしかけ包囲に持ち込む。ボードゥアンは第2次でも騎士による突破を狙い突撃するが、ファーティマ朝軍の中央歩兵戦列は厚みを増しており油断もしていなかったため騎士達は跳ね返され立ち往生した。確かな成長により包囲が成功し、騎士たちはほぼ全員が戦死・捕虜となる。

 第2次ラムラ会戦で包囲殲滅を受けたボードゥアンは夜陰に紛れ屈辱の逃走をした。その後は戦線を後退させる。ヤッファ街の攻城戦が行われ危機に陥ったが城塞で粘り続けファーティマ朝軍は遠征を続ける力がなくなり一度撤退する。

3度めのラムラ会戦へ到る

location-ramla 1105年8月、ファーティマ朝軍は再度侵攻を行う。もう資金は尽きかけていただろう。絶対にこの遠征でイスラエル中央部を制圧しなければならなかった。宰相アフダルはその全力を投入するだけでなく別のイスラム勢力と連合軍を組む戦略をとった。十字軍が来る前から来た後までイスラム勢力同士は戦いを続けており全面的な同盟はやや珍しいことである。
 組んだ相手は大都市ダマスカスに拠点を置くテュルク系のブーリ王朝であった。

 対するボードゥアンも第2次ラムラで敗北し多くの騎士を失っていた彼に余裕など一切無かった。再侵攻を予期しておりその迎撃には持ちうる全力を投入し、これまでの油断や焦りは無い入念な戦力の招集を行った。
  3年の間に小競り合いこそあったもののここまで大規模な会戦は無く、お互いが今回の戦いのために準備を整えていた。

戦力_第3次

 勝利と敗北の両方を味わった両者の経験は行動を慎重にさせた。互いに焦った進軍はせず情報を集め兵士を集め同盟勢力を募った。
 そのため第3次ラムラの戦いはこれまでのエルサレム王国とファーティマ朝の会戦の中で最大規模のものとなる。

 ボードゥアンの招集した騎士の数はこれまでの倍にのぼり、対するファーティマ朝軍はテュルク系の弓騎兵1300騎の増援を得て会戦に望んだ。当時持ち得た総力であった。

 エルサレム王国:総勢2500人以上(騎士500、歩兵2000、その他従卒及び傭兵、騎兵有)=3000前後
     指揮官:ボードゥアン1世

 ファーティマ朝:総勢6300人以上 (テュルク騎兵1300、エジプト軍歩騎混合5000以上)
     指揮官:セナ・アル・ムルク(宰相アフダルの息子 Sena al-Mulk Hussein)
 
 ※この数値は現代の歴史家たちの研究で推定されている現実的なものを表記。
セルジューク軍
crusadesvsarab





 < セルジューク兵 >     < ファーティマ朝と十字軍国家の戦い >

 ボードゥアンはこれまでの3倍に及ぶ兵力と騎士のみで500という限界に近い勢力をもって戦場に赴いた。
 過去2度の会戦では騎士の突撃力に対する信頼と特別な階級である誇りからか、戦場では歩兵を置き去りにするかほとんど注意を払わないことが度々記録されてきた。しかし今回は歩兵にも戦闘参加を求めており、いくつかの部隊ごとに歩兵部隊を騎兵部隊に随伴させていた。歩騎混合型の可能性も指摘されている。
(故に今回の歩兵、騎兵の表記はあくまで部隊の主力構成兵科の参考程度の扱いとなる)

※歩騎混合及び下馬騎兵は中世軍事史で議論がある研究テーマであり本サイトは安易な結論を書くのを避けます。ご容赦ください。

 少なくとも彼に騎士突撃のみで勝てるという驕りは全く無かった。これまでを遥かに上回る兵力の結集がそれを証明していた。

第3次ラムラの会戦

【戦闘配置】

スライド1 ラムラ街近郊の荒野に両軍が顔を合わせた。お互いに偵察を行っていたためか奇襲を受けるようなことはなかった。前進してきたボードゥアンは歩兵と騎兵をいくつかの小隊にして全体としては横陣を敷いたようだ。

 対するファーティマ朝軍も全体を横に広く整列させた。左翼にはファーティマ朝がこれまで使用してきた騎兵を回し、中央にはエジプトの歩兵を並べ、右翼にはダマスカスからの増援のテュルク騎兵を配置した。
 つまり歩兵を中心とし両翼に騎兵を置いた。これは両翼の移動力を活かして包囲戦術を展開するための最もオーソドックスな陣形である。両翼の騎兵がいつ頃展開したかは不明だが最初の接敵時は少し後ろに位置していたとも考えられる。

【エルサレム王国軍の中央攻撃】

 互いに様子見をした後の本格的な衝突はボードゥアンの前進命令から始まった。エルサレム王国軍前列の部隊が進み出る。この部隊は騎兵を中心としたものだったことは確かだが歩兵がどの程度随伴していたかは不明である。この突撃はファーティマ朝軍の中央のエジプト歩兵戦列を指向して行われた。
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 ファーティマ朝軍は第1次ラムラ会戦で中央を騎兵突撃で破られ負けたが、第2次ラムラの戦いで中央戦列を強固にして突撃を防ぎボードゥアンを破っている。それらの経験は受け継がれておりこの戦いでもしっかりと騎士突撃の対策は行っていた。
 中央のエジプト歩兵戦列は落ち着いており強固な陣形を展開していた。騎兵を含んだエルサレム王国軍の波はエジプト歩兵の前にその勢いを停められ反撃を受けてしまう。ボードゥアンの最初の攻勢は撃退された。

【エルサレム軍の後退と右翼テュルク騎兵の小迂回】

 エルサレム軍の中央突破を狙った初撃は失敗したが騎兵部隊が壊滅したというわけではなかった。詳細は不明だがボードゥアンは恐らくその全軍を投入したわけではなく、無理に押し込むことをしなかったようだ。傷口が広がる前にさっぱりと後退を選択したのは彼の戦闘経験の為せるものかもしれない。
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 このエルサレム軍の後退とほぼ同じタイミングか、あるいはその少し前からファーティマ朝軍右翼後方に位置していたテュルク騎兵が始動していた。
 セルジュークの内紛から彼らもまたファーティマ朝と同じく複雑な背景を抱えて戦に臨んでいた。
 テュルク騎兵隊は弓を使いこなしていたようだが状況次第では接近戦もこなせる騎馬の民である。彼らは一挙にエルサレム軍に突撃するような軽挙はせず、むしろ戦場の中心から離れるように右斜めに行進をし始めた。この移動の意図はエルサレム軍の側背へ小迂回し包囲を行うことである。側背へ奇襲するために気づかれないよう戦場を広く回り込んだ

 この時点ではボードゥアンは敵包囲運動に気づいてはいなかっただろう。しかし想定していた可能性はある。

【左翼エジプト騎兵の小迂回】

 テュルク騎兵の逆側、ファーティマ朝左翼に配置されていたエジプト騎兵を中心とする部隊も動き出していた。彼らもテュルク騎兵と同様にやや戦場中心を小迂回するように移動した。

スライド4 中央の歩兵部隊が敵の突破を撃退し右翼と左翼がその側背へ回り込むことを企図する。即ちファーティマ朝軍指揮官の狙いは両翼包囲であった。
 
 左翼のエジプト騎兵は既に中央で十字軍国家の騎士たちが撃退され後退していくのを見ており彼らは意気揚々と前進したようだ。エルサレム軍がもう敗退して逃げ出したと一部が考えたのもそこまで不思議ではなかった。
 そのため一部が北方のハイファ街へ略奪行へ向かってしてしまった。当時の軍隊において略奪は正統な報酬である場合が多かった。逆に言えば命を賭けた報いは略奪をしなければまともに得られない場合もあった。彼らは自分たちの取り分を確保しておこうと気がはやったのだ。
 ただし全体が離れてしまったのではなく残りは依然として指揮官の意図通り左翼からの包囲を狙い動き続けた。

【エルサレム軍部隊の再編と方向転換】

スライド5 後退したエルサレム軍は敗北などしていなかった。むしろボードゥアンが適切に引き際を見極めたため被害は大きくなかったのだ。後退したにも関わらず組織性は失われていない。これにはボードゥアン個人の影響力が見て取れる。彼らは後方に残っていた一部の歩兵部隊の前で態勢を整え直した。

 その時、ボードゥアンに重大な情報が入ってきた。ファーティマ朝軍右翼テュルク騎兵部隊が小迂回をしてこちらの左側背へ向かってきているというのだ。この意図が側背への攻撃から包囲へ繋げることであるのにすぐさまボードゥアンは気づいた。あるいは既に想定済みの事態だったかもしれない。この後の部隊の動きはあまりにスムーズであった。

 戦況は第2次ラムラ会戦と同じく包囲成功へ流れていっている。第1次ラムラ会戦のときのような中央突破はできないことはもう証明されていた。しかし、だからこそ彼はより発展した戦術を決意する。
 彼の指令が騎士たちだけでなく全軍に通達された。エルサレム軍の主力部隊全軍が見事な速さで転進し自軍左横方向へ矛先を向ける。狙いは1つ、各個撃破であった。

【包囲移動部隊の各個撃破】

 ボードゥアン自ら率いるエルサレム軍主力は部隊編成を整え自軍左側背へ突進を開始した。まだテュルク騎兵隊はエルサレム軍の側背への本格的な攻撃を開始しておらず、おそらく隊列の一部は接敵行軍の途中だったと思われる。

 そこに先手を取る形でエルサレム軍が突然踏み込んだ。攻撃は騎士だけでなく歩兵も参加したとすればほぼ全軍の集中攻撃である。
 兵数について全体ではファーティマ朝軍はエルサレム王国軍の約2~3倍であった。しかし包囲のために戦力は広がり、しかも側背へ奇襲をしかけるために長い距離を素早く移動した両翼の騎兵部隊は事実上中央の部隊と分離していた。右翼側包囲部隊のテュルク騎兵は1300騎、補強されていたとしても1500人には満たない数である。一方でエルサレム軍の集中攻撃である。彼らの数を低めに見積もっても、多少の数的不利を接近戦なら度々覆してきた騎士達が敵歩兵戦列に邪魔されることなく攻撃できたことから考えて有利なのは明らかだった。
 即ち3つに分散したファーティマ朝軍は局所的な優位をエルサレム軍に作られてしまっていた。
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 この各個撃破は成功した。それも凄まじい速度で集中攻撃が行われたようだ。馬術に定評のあるテュルク騎兵ですら為す術もなく粉砕されファーティマ朝軍右翼部隊は完全に崩壊した。

【連続する集中攻撃と各個撃破】

 敵右翼部隊を各個撃破したボードゥアンはそこで動きを止めること無くすぐさま部隊全体を翻し、次の攻撃へ移行した。敵は未だ全体では数的に勝っているため、残りの部隊を集結される前にこの各個撃破を連続させることを決意していたのだ。
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 ボードゥアンは続いて逆側のファーティマ朝軍左翼エジプト騎兵隊へ突撃を決行したと思われる。
 左翼エジプト騎兵隊は勝ったと思いこんでおり一部が略奪行へ向かってしまい残りはエルサレム軍右翼後背へ、反対側のテュルク騎兵に続いて包囲攻撃するために回り込んでいた。その眼の前に突如エルサレム軍が猛然と突進してきた。
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 壊乱したことから察するに彼らは距離を取ることもできず一挙に懐に飛び込まれたようだ。エルサレム軍の集中攻撃は驚異的な速度であった。ただでさえ離脱者がでていたエジプト騎兵はまともに戦って勝ち目はなかった。彼らが戦場から撤退するのに長い時間はかからなかった。
 ボードゥアンは両翼の包囲のために広く回り込む移動をしていた敵を両方とも各個撃破したのだ。

 中央のエジプト歩兵戦列は騎兵の攻勢に耐えていたが、両翼をもぎ取られた形になった後はもはやダマスカスの友軍の後を追うように崩壊を待つだけであった。
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 エルサレム軍最後の総攻撃が残存兵力へ行われ一連の各個撃破の仕上げとなった。ファーティマ朝軍は全面崩壊し各部隊は散り散りにアスカロン街まで退却していった。

戦果_第3次

 ファーティマ朝とエルサレム王国が互いの命運を賭けた第3次ラムラの会戦は終わった。ボードゥアン率いるエルサレム王国軍の勝利である。戦果は不明瞭な点が多いがエルサレム王国軍はこれ以降の戦争の進展を考えると大きな被害ではなかったようだ。
 
 エルサレム王国軍(総勢2500人):不明

 ファーティマ朝軍:(総勢6300人以上):戦死者:1000人以上
                      負傷者:不明
                       捕虜:不明
 
 一方でファーティマ朝軍は取り返しのつかない敗北を喫した。兵力を失ったことはもちろん膨大な資金と権威を無くした結果と成った。
 この後はボードゥアンの最大の拡大期へとつながる。ダマスカスのブーリ朝も破り周囲一帯を制圧し領土は広がった。ファーティマ朝は南部のヘブロン街などへ何度か攻勢に出たがその勢力は小さく、大きな会戦に到ることもなく撃退され逆にエルサレム王国の攻勢を受け戦線を後退させた。

 数々の場所で戦い抜いたボードゥアン1世は王国拡大を続ける中1118年に没する。彼の名声は広く欧州まで轟いていた。

戦術の小考

 この戦いは包囲を企図した敵に対して、それに気づいて包囲を打破するために的確なマニューバを行った非常に明確な戦例です。
 各個撃破による対包囲戦術であったと分類することができるでしょう。

 包囲側は中央に耐久力の有る歩兵、両翼に移動力の有る騎兵という典型的な布陣をまず敷いています。セオリー通り中央が攻勢を受け止めたら両翼が回り込んで敵の側背を狙う、実に基本通りの包囲戦術です。しかし結果は完全な包囲失敗に終わります。

 包囲を受けそうになったボードゥアンはそれが完成する前に、側背を狙い包囲運動を行う敵片翼が他の部隊から分離していることに気づきます。そして敵に複数方向から同時圧力をかけられる前に自分から討って出て、この孤立している部隊を集中攻撃し撃破します。兵数が包囲のために分散していたため各個撃破の様相を呈しました。エルサレム軍歩兵の動きははっきりしませんが、その後も他の包囲のために広がっている部隊が集結する前に間髪入れず攻撃を続行し各個撃破を最後まで遂行しきります。既に敵を前にしていた距離で各個撃破を行えたということは想像を絶する速度です。

 包囲の失敗要因はいくつも考えられますが単純なものではありません。兵力分散したから悪い、という説明だけでは不十分であることは第1次~第3次ラムラ会戦まで追ってきたことでおわかりかと思います。
 なぜ側背へ向かった部隊が各個撃破されたのか、大きな理由は拘束が充分で無かったことだと考えます。それどころか逆に中央が拘束されて身動きが制限されていたとも言えます。

 中央エジプト歩兵は最初にエルサレム軍の攻勢を防いだことは素晴らしい対応力です。しかしここで簡単に後退を許し、追撃もできませんでした。エジプト歩兵は最初に攻撃を浴びせられたことで騎兵を跳ね返すため戦列を強固にしましたが、そのために動きがどうしても鈍くなり且つ受動的になってしまったと考えられます。その結果としてエルサレムの主力部隊は後背へ回ってきた敵部隊に対処する自由と時間を得たのです。より長く戦闘を続け相手を中央に釘付けにするか、後退した敵に圧力をかけ続ければ拘束効果は現れ両翼の騎兵に集中攻撃されることは避けられました。
 ですがエジプト歩兵は迂闊な前進をすればそれこそ騎士に反撃を受け蹂躙されることは十字軍との数々の戦いで証明済みです。この歩兵が慎重になったことはそこまで間違いだったこととは思いません。ここで注目すべきはファーティマ朝軍の包囲がある程度理論的な行動であるが故にそれを利用したボードゥアンの各個撃破のための秀でた戦術的判断とそれを実現したエルサレム軍の迅速さだと考えます。
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<1105 Battle of Ramla - gif>

 当初この会戦を知った時は包囲されそうになった際に信じがたい対応速度で動きを変えたと感想をいだきました。ですがボードゥアンがそれまで経験してきた第1次と第2次ラムラ会戦、そして十字軍での戦歴を詳細に調べると、敵の包囲戦術を予測していたと考えるほうが異常な各個撃破のスムーズさに納得できると今は思うようになりました。どちらでもボードゥアンが率いたエルサレム軍が見事なことには変わりませんが。

 ファーティマ朝軍左翼のエジプト騎兵は略奪等関係なくとにかく各包囲部隊が同時的に圧力をかけられるように移動速度を上げるしかなかったのではないでしょうか。あるいは中央歩兵戦列が賭けに近い前進を行うかです。それをしたとしても自分からテュルク騎兵隊の方向に先手をうって向かっていったボードゥアンの各個撃破を防げたかは断言できません。
 包囲を狙わず正面から削り合いをした場合はファーティマ朝軍はその先に待つ城攻めの戦力を保持できず戦略的に詰んでしまうかもしれません。

 この包囲失敗の戦例は包囲戦術最大の難題を明示してくれています。
 「包囲は各部隊の時間的・地理的連携が取れなければ戦力分散となり各個撃破されてしまう」

 ファーティマ朝の狙った包囲戦術は実績に則ったものでした。今回は経験を積みそれを上回ったボードゥアンへ惜しみない賛辞を送り終わろうと思います。
 
 ここまで長い拙稿を読んで頂き本当にありがとうございました。
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参考文献は第1次ラムラの戦いの記事参照


(余談:各個撃破を行ったことは確かなのですが順番はファーティマ朝軍右翼騎兵→中央歩兵→左翼騎兵の時計回りという書き方にとれるため曖昧です。ただ重要なのは包囲翼の各個撃破であるため、ここでは有力な反時計回り説を取りました。実は時計回り案も gif 作りました…。こっそり後で貼っておきます)

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