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 629年、イスラムの敵として戦いムハンマドを打ち負かしさえしたハーリドがイスラム勢力に参加したことは大きな出来事でした。彼は30代後半で既にアラビアの中では随一といって良い軍歴を持っていましたが、この後の戦歴はそれを遥かに上回ることとなります。これは彼のムスリムとしての最初の会戦の記録です。

 ムタの戦い。この会戦でイスラム勢力は敗北します。
 ただ、敗北したが故に、ムタの戦いをして彼はこう呼ばれるようになります。

 『神の剣』ハーリド・イブン・アル・ワリード

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<ウフドの戦い_625_ムハンマドに勝利したハーリド>
→ ウフドの戦いは本リンク参照
(以下、本文敬略)

5-1. ムタの戦いの背景_膨張を始めるイスラム

map_AD565 629年、ハーリドがイスラムへ参画した時期、メディナのイスラム勢力はムハンマドを中心に急激に影響力をアラビア一帯に広めていた。小規模な遠征が行われ各都市を制圧したり盟約を結んでいる。

 その遠征のうちの一つとして北方シリア方面へ行軍が行われることとなった。シリア方面は貿易の重要地であり支配を広めることは経済的に必然の流れであった。シリア地域は東ローマとササン朝の中間地点に位置している。この地にはガッサーン朝(Gassanids)などのキリスト教系アラビア人部族の勢力が2大国の緩衝国として建立されていた。ガッサーン朝は優勢であった東ローマに従属し比較的自由に貿易を行っている。

 ムハンマドが隊商を送った際にシャルハビールというガッサーン朝の統治者の1人に襲撃され、略奪と殺害をされたことで対立が決定的になったと言われている。
 各方面にもアリーなどが派遣される中で9月になりシリア方面に本格的な攻勢が実施された。その中にハーリドは従軍することとなる。対するガッサーン朝は東ローマの増援を得て迎撃に討って出た。

 ハーリドはこの時点ではまだ参画して半年も経っておらず流石にいきなり指揮権を与えられはしなかった。彼はこの戦いに一兵卒同然の地位で参加することとなる。

5-2. 戦力

  シリア・ヨルダン方面は特に重大な地域であるとムハンマドは理解しており、派遣軍にそれが現れている。

イスラム軍:総兵力 3000

 第1指揮官:ザイード (Zayd ibn Harithah)ムハンマドの養子
 第2指揮官:ジャーファル (Ja'far ibn Abi Talib)アリーの兄
 第3指揮官:アブドアッラーフ (Abd Allah)アンサール(ムハンマド支援部族)の代表の1人

東ローマ・キリスト系アラブ連合軍:総兵力 1万人前後

  指揮官:シャルハビール (Shurahbil bin Amr)ガッサーン朝の統治者
      マリク (Malik bin Zafila) ガッサーン朝部隊の指揮官
      東ローマ軍の指揮官は不明

locationofmutah 3000人というのはこれまでの戦からもその前後に行われている遠征軍から見ても、当時のアラビア人口の中ではかなり大規模な派遣軍である。更に率いているのはムハンマドにとって重要な人物ばかりである。

 ただ本当に武力衝突する気だったのかは不明で、できればこの軍を見せて有利に交渉したいといのが基本方針であった。しかしガッサーン朝はすぐさま軍を集め東ローマにも支援を要請した。イスラム軍がヨルダンの東に到達した時に姿を現したときには明らかに数の優位を持っていた。古の記録では10万人と記されるが歴史家たちは実際は1万人前後であろうと推測している。
 イスラム側の指揮官達はかなり驚いた。主力はガッサーン朝であるとはいえ1万弱という軍隊をこれほど早く集められる東ローマ勢力の国力は彼らの想像の外の存在であった。急いで増援軍を送るようムハンマドに伝令を送ったがそれは間に合わなかった。正確な数は不明だが少なくとも倍する相手とイスラム勢力は会戦に入ってしまった。

 戦場はムタの村の東近郊であり、この場所は平野部だったが僅かに起伏の丘が点在していた。

5-3. ムタの会戦_前半_東ローマ勢の優越

 ヨルダンの9月29日、高い気温の中でイスラムは事実上初めての東ローマ勢との戦いを迎えた。動員数と速度だけでもその国力がイスラム勢がこれまで戦ってきたアラビアの諸部族とは一線を画することは明らかだった。加えて戦闘を行った兵士たちも弱兵などということは全く無かった。深い密集隊形で望んだ。
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 第1指揮官のザイードは1つの中央部隊と2つの両翼部隊という基本の隊形を展開した。ザイード自ら指揮する中央部隊の中にハーリドはいた。
 イスラム軍の後ろにはなだらかな丘があった。

  戦闘が始まると互いに攻撃しあい完全に組み合う形になった。これは戦術というより兵士各人の士気と体力がものをいう形態であったという。

【次々と戦死する指揮官】

 この正面対決状態になったのを見たイスラム軍の指揮官ザイードは自らも剣を抜いて最前線で戦闘に加わった。

 序盤にも関わらず指揮官が全体への指令をほぼできなくなることからも戦術的なマニューバはほぼ期待できなくなった。勿論利点も有るが今回はイスラムにとって悪い方向へと傾いていく。
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 ザイードは前線戦闘に参加して長くたたぬうちに戦死してしまったのである。一騎打ちのために名乗り出た可能性がかなり高い。他の兵士たちはまだ本格的な衝突をしていなかったからだ。
 当然イスラム側の兵士たちは動揺した。ただすぐにジャーファルが指揮権を引き継いで戦いを継続した。しかしジャーファルもまた前線で戦い始め多くの傷をおい戦死してしまった。

 次第にイスラム側の劣勢が明らかになっていった。指揮官でありムハンマドの近親が次々と死んでは当然のことである。この戦例は数の不利を士気で覆そうとしたのかもしれないが、指揮官が身を晒すことが完全に裏目にでた。

 それでもイスラム側はなんとか崩れず3人目の指揮官アブドアッラーフが引き継いだ。彼はムハンマドを支援する有力部族のうちの1つの代表者で威厳があった。おかげで戦闘は継続されることとなった、ただしアブドアッラーフが生きていた間はである。
 なんと恐らく比較的年長であったであろうアブドアッラーフすら戦闘に最前線で参加したようで、しばらくすると彼もまた戦死してしまったのだ。

5-4. ムタの会戦_中盤_イスラム勢の敗戦と将軍ハーリドの誕生

 統括指揮官が戦死したのがあまりに速かっただけでなく、その後継の指揮官たちまでもが次々と戦死していった状況はもはや会戦の行方を明らかにしていた。全体としてはほとんど激しい衝突はおきていなかったが、元々数で上回る東ローマ勢の優勢は明らかだった。

 全体に威光を及ぼせるような人物はほぼいなくなってしまったイスラム側は戦術どころか普通の統率がとれるかも怪しかった。何名かの逃亡者がでたのも仕方ないことであるがそれでも大多数は戦い続けた。指揮官を死なせてしまったことが逆に彼らを奮い立たせたのかもしれない。2~3のグループに分かれてなんとか東ローマ勢の攻勢に耐えていた。総攻撃をかけていれば恐らく崩壊していただろう。気づいていたかどうかは不明だが東ローマ勢がこの指揮官の戦死という優位を活かすタイミングを逸してしまったのは確かである。
 イスラム軍の4番目の指揮官格にいたのはサービトという男であった。彼は3番目の指揮官アブドアッラーフが戦死した後に本来なら指揮官に就任し部隊を動かすことになるはずであったが、驚くべき判断を行った。

 彼は己ではなく、隣に立っていたハーリドを指さしてこう叫んだと伝承されている。
 「ムスリムたちよ!どうかそなた達の指揮官になる男に賛同してくれ!!」
 サービトは自身の指揮能力ではこの窮地をくぐりぬけることはできないと謙虚にそして現実的に判断したのだ。ハーリドはこの人事転換が果たして適切か集中して考えた。彼自身はムスリムになったのはつい最近でありまだ彼らの指揮官として立ったことは無く、兵士の信頼を得られ命令を聞いてもらえるのかわからなかった。ハーリドはサービトに自身よりも貴方が適格ではないかと問うたが、サービトは明確に答えた。「私ではない。そして何者もそれに値しない。貴方を除いてな。」
 彼は敵としてのハーリドが今まで行ってきた軍指揮を知っていたのだ。その時周囲に居た全員がハーリドが指揮官になることに賛成の声を上げた。

 この瞬間にイスラムの将軍としてのハーリドが誕生した。

5-5. ムタの会戦_後半_凌ぎ切るハーリド

 指揮権を得たハーリドを取り巻く状況はまさに危機的だった。既に趨勢は決している。ハーリドは名誉欲にかられここから逆転勝利を賭けに出て狙うなどするような人物ではなく、すぐに現実を受け入れた。後はどのように兵を退かせるかである。それが重要だった。

 ハーリドは主に3つの選択肢があった。
1つ目はすぐさま後退を開始し兵士たちを救おうとすることだった。ただこの場合は追撃を受け崩壊する可能性が高く生き延びられるか怪しかった。
2つ目はこのまま諦めずに戦い続けることであるが、その先には全軍の戦死しか待っていないことはわかっていた。殉死というものを得られるかもしれないがここでそれを選ぶほどハーリドは満足していなかった。
3つ目は攻撃に討って出て、敵のバランスを崩しておきそれから撤退するという作戦である。被害は出るがおそらくもっとも最小限に抑えられるだろう。ただし成功させるには細心の注意と的確な状況判断が必要とされる。

 ハーリドは当然の如く3つ目を選んだ。イスラム軍を全線戦にわたって鋭く攻勢にでるよう命令した。そしてハーリド自身も士気を保つため前進に参加した。ここで後方からこの過酷な命令をだすだけでは死んでいった前任者たちと比べられ兵士たちに幻滅されていただろう。それしかおそらく選択肢は無かった。ただハーリドが優れていたのはここで戦死するようなことも無く、更に全体への指揮も続けれたことである。

 この時右翼の指揮をとっていたクトバが疾駆してガッサーンの指揮官であるマリクと一騎打ちをしたとされる。そして彼を討ち取ることに成功した。(あるいはハーリドが倒したとも言われる)
 流石にイスラム側だけが指揮格が戦死するというわけではなかったのだ。
 指揮官のうちの1人が戦死したことを受け東ローマ勢は混乱した態勢を立て直すため一時的に戦列を下げさせた
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 この時をハーリドは見逃さなかった。すぐ戦線全体を整理して軍を丘に後退させた。お互いに軍を下げた形となったため戦況は小康状態となった。ハーリドはこのときまでに9本の剣を折り10本目を使って戦っていたという。この逸話が真実かはともかく彼は勇猛さを示し威厳を保った。

5-6. 撤退戦

 夜が訪れ最も危機的な状況をハーリドは凌ぎきった。だが余談は許されない。撤退するにしても追撃戦を受けては軍はやはり壊滅することに変わりがない。そこでハーリドは一つの策をこうじた。

 彼は夜の間に比較的負傷者の少ない兵士を集め部隊を編成し後方地帯へ送った。彼らをそのまま逃がすのではなく視界の外まで行ったら踵を返して丘に戻ってくるよう命じた。丘の前線には部隊が減ったことがばれなように広く展開させた。
 朝になると離していた部隊が戻ってきた、彼らはまるでイスラムの増援が到着したかのように振る舞った。損害が少なく服も汚れていない者達を選んだのはそのためだったのだ。それを見た東ローマ勢は警戒を強めた。それを利用しハーリドはなんとかこの日の戦闘を激化させずに戦線を安定させたまま乗り切った。
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 そして援軍が着いたように偽装した後で夜になると全部隊を戦場から撤退させ、急いでメディナへ戻りに行軍した。
 東ローマ勢はイスラム軍に増援が到着し始めたのなら、下手に追いかければ偽装退却からの伏撃を受けると判断し、追撃を本格的には行わなかった
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 ハーリドは無事に撤退戦を成功させ軍を救った。

5-7. メディナへの帰還

 メディナへ戻った兵士たちを待っていたのは批難の嵐であった。メディナのムスリム達は指揮官が何人も戦死するほど必死に戦ったのに部下が逃げ延びてきたのは恥ずべき臆病者だと扱い、あまつさえ兵士の顔に砂を投げつけたと伝えられている。
 有力者たちの何人かも同じ様にハーリドを糾弾したようだ。しかし(やや伝説的ではあるが)ここでハーリド達生還した兵士をムハンマドは庇ったと言われている。
 ムハンマドは砂を投げる人たちを押しとどめて言った。
 「彼らは逃げてきたのではない。もし神の思し召しがあれば戦いに戻ることであろう」
 預言者とムスリムに呼ばれる男は声を張り上げ叫んだ。
 「ハーリドこそが神の剣なのだ」
 これで批難は少なくとも表面上は収まったという。

 ハーリドはこの先指揮権を与えられ数々の勝利をあげることとなる。しかし彼が「神の剣」と呼ばれるようになったのは勝利を得たからではなく、敗戦において兵士たちの命を救ったときであった。

5-8. 戦果

 何人かのムスリムはムタの戦いは小競り合いで終わり両軍とも戦力を保ったままひいたのだから引き分けであると訴える。ただ一区切りが着いたこの会戦を当初の戦略目標の達成で見るなら東ローマ・キリスト系アラブ連合軍の勝利であったと言えるだろう。

イスラム軍:(総兵力 3000人)
      死者:12人以上
      負傷者:不明
      捕虜:不明

東ローマ・キリスト系アラブ連合軍:(総兵力 1万人前後)
      死者・負傷者:不明
      捕虜:0人

 死者・負傷者はイスラム側に記録されている12名以外は不明である。ただ大きな衝突に至ることはなくにらみ合いが主だったようであり数は多くないと推測されている。
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 ムタの戦いは旧きアラビアの騎士たちの傾向を調査する上で大切な事象を教えてくれている。一騎打ちを好むと言われる伝統がこの戦いからはっきりと見て取れるのだ。戦い全体での死傷者が少ないにも関わらず上級指揮官が上から3人死亡するというのはいくらなんでも異常である。他にも数々の戦いで指揮官達による一騎打ちが記録されているが、(それの一部は後世の脚色であろうが)少なくともある程度の一騎打ち嗜好があったことは確かであろう。
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 東ローマ勢の力の片鱗を垣間見たムハンマドは慎重になり、足元の地を固めることに注力する。まだメッカのクライシュ族も残っていた。

 複数の指揮官格を失ったイスラムの中で、確かな統率を取れるハーリドの存在は際立ち始めていた。彼は次第に軍の指揮を任されるようになっていく。

【→次回 ジャディマー部族の殺戮 へ続きます】
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戦術の小考

 この戦いは大規模な会戦にはなりませんでしたが2つの重要な事柄を見せてくれています。
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<battle of Mutah - gif>
 1つ目は一騎打ちのリスクです。
 指揮官が己の身を晒して戦闘を行うことは部隊全体の士気を大いに向上させることが多く、戦術的にそれを選択する将軍も歴史上何名も記録されています。ですがこの戦いは戦術的と言うより部族慣習的な戦闘形式、あるいは戦士の名誉と呼ぶべきものが背景が合ったと思われます。兵士たちがそうしないとついてこなかったかもしれません。
 しかし指揮官が前線に出ると全軍は殆どの場合統率の取れた動きが取れなくなります。更に指揮官が戦死すると指揮系統は崩壊するか再編まで機能不全になってしまいます。そして何よりも兵卒の士気に巨大な影響を与えます。
 そのため後の時代でこういった指揮官の前線戦闘参画は得られるアドバンテージとリスクが到底釣り合っていないとして少なくなっていきますが、まだまだこの時代地域では現役だったことがムタの記録からわかります。

 2つ目は撤退戦において考慮すべきこと、即ち相手の追撃をどうかわすかということです。
 ただし、ハーリドは増援が来たように見せかける策を用いましたがそれはあくまでこの戦いで見れた策略であり、軍事理論において重要な事項は別にあります。
 ただそれはこの戦いが軍隊同士では大きな衝突にいたらなかったことから、はっきりと現れているとは言い難いので、この記事で言及することはしないでおきます。
 今後別の撤退戦で明記しようと思います。
 
 ここまで派手ではない戦いにも関わらず読んで頂きありがとうございました。
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【余談】
 ムタの戦いにまつわる逸話は数々の議論を読んでいます。後にハーリドがあまりにもめざましい活躍を上げるため、彼のイスラムでの最初の指揮をとった戦いに対するムスリムの反応が後世の人々に脚色された可能性があるからです。
 事実として確認されるのは、東ローマ系の勢力とイスラムが初めて戦ったこととそこでムスリムの重要人物が複数戦死したこと、そしてハーリドが指揮を受け継いで撤退に成功したことです。
 戦闘の内容は疑われており、さらに言えばムハンマドが彼らを庇いハーリドを「神の剣」と名付けたことも少しあとの歴史家たちが書いたのではないかといった指摘が有ります。ただいずれも疑いの段階であり実際はどうであったかという別の記録は見つかっていません。
 
 ハーリドはこの撤退で何名かのイスラムウンマの有力者たちからあまり良くない心象をもたれたようで、後の軋轢に繋がっている様子が見られます。撤退戦は評価されるのが中々難しいのでしょう。それでもムタの直後から指揮を取り始めていることからムハンマドは信頼を高めたのは事実と思います。