米独立戦争・南部戦域において1つの転機となる会戦がありました。キャムデンの戦いと呼ばれることになるこの会戦で独立派・大陸軍は危機的な戦況へと追い込まれることとなります。
 英国軍の練度と装備が充実していたため優勢だったと言われることの多い独立戦争ですが、この時に見せた王党派・英国軍の戦術は実に明確でかつ果敢なものでした。
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(以下本文敬略)


軍事背景

ah2_m002 アメリカ独立戦争は1775年に始まり当初の予想を上回り次々と戦線が拡大していった。同年6月にワシントンを総司令官とする大陸軍(Continental Army)を結成し民兵の寄せ集めだった軍隊を組織化していった。ただそれでも苦境は当然長く続いた。
 装備は足りず個人の練度は足りず組織としての統一性や部隊連携もまだまだ発展途上であった。
 数多の会戦での敗北が独立戦争でアメリカに刻まれている。
 それでもワシントンや独立派は必死で戦力をかき集め時に略奪して戦争を継続する。

 英国側も苦しかった。世界帝国を築いたが故に世界中で同時に複数の戦争を遂行しなければならずどうしても戦力・資金を集中させられなかった。
 しかもワシントンが会戦に敗北しても戦力をなんとか保持させたまま撤退に成功することもあり、英軍はかなりの規模の軍を送り込んでいたが北部戦域は行き詰まりを見せ始めた。
 そこで王党派の多い南部が戦略的に注目されるようになっていく。この地域で勝利して確固たる基盤を築けば北部へ戦力を回すこともできる上に対外的に宣伝になる。そして何よりも独立派への精神的打撃を与えられると期待された。

 そのため南部戦域は少しずつ拡大を始めついに1780年大きな動きを見せる。

キャムデンへの道_チャールストン市の陥落

 キャムデンの会戦が行われることになった最大の理由は要衝チャールストン港が英国軍に奪取されたことだ。それまで南部戦域は英国軍は大きな進軍をできていなかった。
 1776年に一度英国軍は上陸を図り第1次チャールストンの戦い(サリバン島の戦い)では英国軍は艦隊を動員している。しかし海図に載っていない浅瀬に座礁してしまい、砲撃を受けたことで撤退した。
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 英国軍は1780年3月末に再度来襲した。率いるのはクリントン将軍とコーンウォリス将軍たちであった。今度は陸軍をしっかりと展開しチャールストン市を包囲し、2ヶ月強の包囲戦の末に次々と各要塞地点を落としていった英国軍に対し大陸軍防衛部隊は降伏した。リンカーン将軍が途中で奪取作戦を試みたがあえなく失敗し彼自身が捕虜になってしまったことで更に拍車をかけた。この時に失われた大陸軍の戦力は5000以上に登り更に多数の武器弾薬が捕獲された。
 ただでさえ乏しかった戦力・装備が大幅に削られた大陸軍南部戦域は急激な危機に陥った。独立派にとっては悪夢に近いことに危機は終わるどころか広がることとなる。

 5月にチャールストン港湾を占拠するとコーンウォリス将軍はそこから北上を開始、ワトソン要塞、モッテ要塞を経由してウォーターリー川を上ってカロライナを侵攻していった。

 対するワシントンはカロライナの危機を知らされており残存兵と増援で南部の戦域において英軍を止めるよう望んでいた。大陸軍南部方面軍を率いていたのは「サラトガの英雄」と呼ばれていたゲイツ将軍である。彼は1777年の数的に2倍近い優越を得ていたとはいえサラトガの戦いで英国軍を破り多数の捕虜を得たことで名声を手にしていた。1780年に危機に陥った南部を救うため大陸会議によって指揮官に任命された。

 こうして1780年8月、2人の実績のある将軍がキャムデンの地で相まみえることとなる。

戦力

 ゲイツの大陸軍は数々の増援を加えて3000人を超していた。キャムデンに近づいて来たゲイツの軍を先に来ていたラウドン卿率いる英国軍1000名が発見した。コーンウォリスはゲイツの動きを警戒をし会戦の約一週間前に街を出立し会戦3日前に増援に駆けつけている。

 英国軍:戦闘員総勢2239
  指揮官:コーンウォリス将軍

 大陸軍:戦闘員総勢3052~3850名 (周辺域各部隊を合計すると約7000名はいたと言われる)
  指揮官:ゲイツ将軍

 報告ではゲイツの率いる大陸軍の2/3は民兵であったとされる。急いで各部隊を合流させ数を揃えたため当然全体の統率は高度にはなっていなかった。ただこれらは独立戦争ではそこまで珍しいことではない。この戦闘の直前に兵士たちに食あたりが起きていたという記録が残されている。
 8月15日に両軍はキャムデン近郊の道路で接近し会戦を望むことと成った。

キャムデンの会戦

【夜間に進軍する両者】

 大陸軍のゲイツ将軍は夜間に優位な位置に移動しておくことを狙い夜10時にキャンプを引き払い前進を部隊に命じた。前衛は騎兵が先導し両脇に歩兵が補助する形で進んでいく。
 この時実は全く同じ時間、即ち夜10時に英軍のコーンウォリス将軍も部隊に夜間の前進を命じていた。こちらも先導は竜騎兵隊が行った。
 そのため両者は夜間に先頭がかち合うこととなってしまった。

【大陸軍の部隊展開と位置】

deployment-camden 大陸軍が配置することに成った戦場はキャムデンへ向かう道が中央に走り、両脇が小川と湿地帯で占められて細くなっている箇所であった。この箇所ならば移動能力の有る敵部隊によって広く回り込まれて側面攻撃がされる可能性は少なくできるという考えであっただろう。

 ゲイツは会戦に向けて行軍縦隊から戦闘用の横隊へと移行させた。
 最左翼には軽歩兵とその傍に騎兵隊を置き、隣の中央左翼にはヴァージニアの民兵隊、全体中央にはノースカロライナの民兵隊、道を挟んだ中央右翼にはデラウェア連隊、最右翼には第2メリーランド隊を置き、道の後方には第1メリーランド隊を予備として配置した。
 つまり右翼に練度の高い部隊を集め、左翼には民兵が多くした。

 左翼は不安があったためか騎兵を後方に置いて備えた。比較的練度の高い部隊は右翼に集められてカルプ将軍の麾下にまとめている。数としてはある程度均質であるが戦力としては右翼に集中的であったと言える。
 ただし総計8門(or 7)あった大砲は左翼に2門、右翼に2門、中央に2門と後方に2門という全体に良く言えばバランスよく、悪く言えば分散的に配置されていた。

【英軍の部隊展開と位置】

 英軍のコーンウォリス将軍は数で劣っていることをおそらく把握していた。ただ詳細は分かっておらず1.5倍もの敵とは気づいていなかっただろう。それでも英軍の攻撃漸進の練度に自信を持っていたことが伺える。
 彼は川を渡り背水の位置で横陣を展開している。後退する気など毛頭無いことがはっきりしている。
 コーンウォリスの展開した部隊はバランスよく行われている。
 最左翼にはハミルトンの連隊、中央左翼にはアイルランド志願兵隊等、道を挟んだ中央右翼には第33歩兵連隊、最右翼には第23歩兵連隊と軽歩兵隊(4個中隊)が並べられた。更に中央左翼後方にはブライアンのノースカロライナ志願兵隊、そして道の両脇に第71歩兵連隊、道上に騎兵隊を配置してある。
 大砲は総計6門(or 4)しかなかったがその全てを集めて中央の道沿いに設置した。

【先手を選んだゲイツ_大陸軍右翼の前進】

 戦闘において相手が来るのを隊列を整えて待ち構えるか、それとも主導的に動くかというのは難しい判断である。どちらが常に正しいということは無く、指揮官は現場を把握して判断しなければならない。大陸軍のゲイツ将軍はこの会戦で自軍を見て英軍より先に攻勢をしかけることを決意した。

 攻勢は練度の高い部隊が集められた右翼を主攻として行われた。カルプ将軍が前進の命令を部隊に伝える。これは深夜2時半頃のことである。

【英軍の右翼の前進】

 しかしこの2人は深夜行軍と言いどこか思考が似通っていたようで、英軍のコーンウォリス将軍もほぼ同じようなタイミングで同じ様に自軍右翼に攻撃命令を出していた。
 まず英軍の騎兵隊が移動力を活かして大陸軍最左翼にいる敵騎兵隊へ攻撃をしかけた。これはかなりの速度で接近したようで不意をつかれた大陸軍騎兵隊は直ぐに壊乱して後退を余儀なくされてしまった。
 この騎兵の動きにより大陸軍左翼は隙間ができ、左翼ヴァージニア民兵隊の側面が攻撃に晒される危険が出たためやや下がり気味になった。
 コーンウォリスは右翼側全面で押し込むことを決心する。最右翼の軽歩兵隊、中央右翼の第23及び第33歩兵連隊を一斉に前進させた。
 大陸軍中央左翼ノースカロライナ民兵たちは白兵戦の距離に英軍が突進してきたのを恐怖と共に見ることと成った。銃剣を付けた英国第33歩兵連隊が姿を現した。
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【回転する両軍陣形】

 午前4時半頃のようやく太陽が照らし始めた時、情勢は奇妙な状況となっていた。互いの右翼が前進して中央を軸に反時計回りに回転するように陣形が動いていたのだ。
(これは戦史において右翼を主攻とするのが普通だった時代では稀に見られた戦況である。)

 ただし突破に成功しつつ合ったのは英軍の右翼の方であった。この時に得た捕虜などの情報や視界が照らされてきたことでコーンウォリスとゲイツ両者は状況に気付くと同時に驚いた。特にコーンウォリスはこの時に敵軍がかなりの数であることを把握したようで、右翼が前進に成功したとはいえ余談を許さない状況であることを認識した。

【右翼攻撃を続行した大陸軍】

  ゲイツはこの状況を認識した上で多少の議論をしたようだ。そして攻撃を続行することを決めカルプ将軍の右翼へ伝令を飛ばした。カルプはこの命令を受け取った時、もはや目の前の戦闘に勝利する以外に道はないと悟ったと言われている。この先の後退は全体が追撃を受け崩壊へとつながることを認識していた。カルプは攻撃続行を命じた。

【英軍右翼の突破成功と戦果拡張_片翼包囲】

 カルプが英軍左翼へ攻撃を続行しているとき、既に英軍右翼及び中央右翼は大陸軍左翼の突破にほぼ成功していた。
battle_of_camden-single-envelopment これに対して大陸軍の後方予備として控えていた第1メリーランド隊が動いて大陸軍左翼の援護に向かったようだ。彼らは英軍の軽歩兵隊の突撃を押し留めたが代償として部隊が乱れて組織的な動きがほとんどできなくなってしまった。しかしそれでも左翼はもはや手遅れだった。

 大陸軍中央左翼のヴァージニア民兵隊とノースカロライナ民兵隊は駆逐され更に追撃を受け逃走を始め戦列は完全に崩れたのだ。英軍第33連隊の銃剣突撃に対処できるほど練度は高くなかったのであろう。大陸軍騎兵隊の残存していた兵も援護に回ったようだがあえなく撃退され民兵と同じ様に撤退してしまった。
 突破に成功した英軍右翼は追撃をし戦果を拡張しながらも中央へ向けて旋回を開始した。そして続けざまにその先の大陸軍の側面へ攻撃を始めた。
 即ち英軍は右翼による片翼包囲を成功させたのだ。

【大陸軍右翼の行き詰まり】

 大陸軍左翼が崩壊を始めていた時、右翼のカルプ将軍は必死で突破しようとしていた。しかしコーンウォリス将軍は左翼をきっちりと待ち構えさせ砲撃を行い、適切に予備を動かしていた。大陸軍右翼はある程度前進に成功したが突破できないことはもはや明らかだった。そこでカルプは最後の勝負をかけるため予備として後方に置いていた第1メリーランド隊を増援によこすよう要請した。彼らを連続的に投入して突破に望みをかけたのだ。
 しかし予備の第1メリーランド隊は既に使用されていた。片翼包囲を受けつつ合った左翼の救援に向かっていたのだ。カルプが受け取った返答は崩壊しつつある左翼を見ろ、予備は送れないというものだった。最後の希望は絶たれたのだった。
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【崩壊と包囲】

 趨勢は決まった。予備を使い果たし、しかも片翼包囲の状況を解消できずかといって突破もできなかった大陸軍に残された勝利の道は存在しなかった。しかも勝利が無くなっただけでなく、ギリギリまで勝利を狙い前進したことで右翼全体が包囲の危機に陥り大敗北が迫ってきていた。
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 英軍コーンウォリスは逃走した敵民兵よりも戦闘を続ける敵の正規部隊を殲滅するべきだと考え予備を投入した。右翼は突破後に中央へ反時計回りに旋回し敵側面を攻撃し更に前進したことで、大陸軍右翼カルプの部隊の後方へと回り込んだ。

 包囲されたカルプ将軍は文字通り必死で部隊を撤退させようとしたが次々と死傷者をだし、彼自身も傷をおい捕虜となった。果敢に前線で指揮をとった彼は数日後に死亡してしまう。
 戦場を英軍が完全に制圧し戦闘は終結した。

戦果

 会戦は英軍の勝利で終わった。大陸軍はほとんどの正規兵を失いカルプ将軍が戦死、散り散りに逃げ出していた大陸軍民兵達は追撃を受けまともな軍組織として機能することは無くなるという大敗北である。ゲイツはなんとか追撃を躱して後方へ離脱する。

 英国軍:(戦闘員総勢2239名)
     死者:68
     負傷者:245
     行方不明:11

 大陸軍:(戦闘員総勢3052~3850名) 
     死者・負傷者:約900  (カルプ将軍含む)
     捕虜:約1000

 ゲイツ将軍がかつて得た信頼は失われ、彼は解任されてしまう。だがワシントンは後任にナサニエル・グリーン将軍を任命し南部戦域を諦めはしなかった。それは恐らくワシントンの想像外の形で実を結ぶこととなる。
 キャムデンの戦いで圧倒的な勝利を得た英国軍は更に侵攻を強め、キングスマウンテンの戦いへ続いていく。そしてその場所で独立派が行った反撃はアメリカ軍の戦史に刻まれることとなる。

キングスマウンテンの戦い詳細は本リンク参照

戦術の小考

 この戦いは片翼包囲の典型的な例と言えると思います。更に細かく分類するならば、包囲を企図した側が自ら能動的に動いて形成した包囲であるとみなせます。
 コーンウォリス将軍は川を渡り暗いうちから戦闘を始めていることからかなりの自信があったことがわかりますが、その自信に基づいて能動的・積極的な戦術を立案し最初から最後まで一貫しました。それ故に片翼包囲が綺麗に現れたのだと思います。

 一方で大陸軍ゲイツ将軍も片翼の突破、おそらくその後の片翼包囲へ繋げる意図をもって攻勢にでています。彼は練度の高い部隊を主攻として動かし、比較的練度の低い民兵たちは前進させませんでした。これはそこまで不可思議な采配ではありません。可能な限り主攻を強化し、一方で崩れやすい兵を敵と接しないようにするのはまともな判断であり戦史において多数の例が見られます。というより如何にこの強化を行い弱点を敵から守るかが作戦・戦術ひいては戦略の大きな焦点であると考えています。今回はゲイツ将軍はおかしなことはしていませんがかといって充分な対処をしていたわけではなかったというのがこの結果につながった理由でしょう。
 どうも文献を見る限りかなり早く民兵隊が崩れているため彼らをほとんど戦闘させないようにできるような戦術を展開しなければならなかったのかもしれません。それは非常に難しいことです。
 あるいはもう少し待ち構えるような形にするのも考えられますが、コーンウォリスは優れた将軍であり主導権を渡せば的確に弱点を狙ってくるのではないかとも感じます。

 作戦的にもっと数を集めれた可能性もあります。いずれにせよもはや答えを知ることは叶いません。

 ここまで長い拙稿を読んで頂きありがとうございました。
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参考文献
H. L. Landers, Lt. Col., (1929) "The Battle of Camden South Carolina August 16, 1780" U.S. Government Printing Office, Washington

サイト
United States Military Academy WEST POINT Department of History
http://battleofcamden.org/battle_perspec.htm
http://www.jcs-group.com/military/war1775military/800815camden.html
https://www.civilwar.org/learn/maps/camden-august-16-1780 
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【余談】
 ゲイツ将軍は一時期は英雄として扱われワシントンの地位にとってかわるかという勢いがありました。しかし今ではアメリカ戦史においてかなり低い評価を為されています。
 キャムデンでの大敗北も理由の一つですが、ゲイツは名声を得た後にかなり露骨に政治的な工作を行い総司令官になろうとしていたと言われているのが最大の要因です。軍人が戦争中にも関わらず前線よりも地位や政治に注力したというのは、現代の軍人の在り方から言って最も避けるべき道です。
 このことに賛同はします。ただこのサイトの方針としてそういったこととは独立して各戦での采配を考察するため、ゲイツを貶めるような書き方は可能な限り避けるようにしました。おそらく書籍を読めばかなり厳しい評価を見ることができると思います。
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 …おかしい。A4の2ページにまとめるつもりだったのに、どうしてこんなことに…こんなに長い文章を読んでくれる猛者たちに本当に感謝します。