戦史において古代ギリシャとオリエントは欠かすことのできない発展の礎と位置づけられています。トゥキュディデスやクセノフォン、アッリアノス、フロンティヌス等の戦史家達は軍隊の動きをある程度把握できるほど詳細な記録を編纂し残してくれました。

 本稿はペロポネソス戦争初期において、個々の戦闘技術で上回るスパルタ軍の重装歩兵にアテネ軍が作戦・戦術によって対抗したスファクテリアの戦いについて記述します。
BC425_Battle of Sphacteria_1

(以下本文敬略)

軍事背景

 前431年に始まったペロポネソス戦争はデロス同盟軍(アテネ盟主)とペロポネソス同盟軍(スパルタ中心)が覇権を争う形で激化した。
 スパルタは言わずと知れた屈強な戦士たちをようし、こと陸戦に置いては並ぶものの無いと考えられていた。これはリュクルゴス制と後に呼ばれる厳しい軍事教育や半常備軍に近い体制を敷いていたこともあり、市民軍主体のデロス同盟に対し優位にたった。
 しかし対するアテネもまた強大な海軍を保有し海戦においてはエーゲ海で覇を唱えていた。
ペロポネソス戦争全域

 陸戦のスパルタと海戦のアテネという構図であったが必ずしも両者が各々の得意分野で常勝であったわけではない。
 互いに敗北と勝利を繰り返してペロポネソス戦争は数十年に渡り続くことと成る。

スファクテリアへ到る作戦過程

map-Sphacteria 度重なるスパルタの侵攻を撃退していたアテネであったが、次第にデロス同盟内から離反がでるようになり苦境に立っていく。しかし前425年、侵攻を強めるスパルタに対しピュロスの海戦でアテネは反撃を行い見事に勝利した。その結果として440人のスパルタ軍がスファクテリア島に孤立することなった。
 和平交渉が彼らとの間で行われたが結局決裂してしまう。

 アテネ軍の指揮官デモステネスはピュロスの海戦で勝利をもたらした将軍であった。彼は最初スパルタ軍の戦闘技術を警戒し、交戦するよりも兵糧攻めにしてしまおうと企んだ。
 だがスパルタ軍の耐久は彼の予想をはるかに越え、スパルタ軍を支援する人々もいたため長引いてしまった。逆に数で勝っていたアテネ軍はそれ故に必要な補給量が多く、飢えが彼らを襲った。それ故に戦わずに倒すことをデモステネスは諦めざるを得なくなった。

 クレオンなどの支援も有りアテネは船で軽装歩兵(ペルタスト)や弓兵を多数送り込んだ。周辺の制海権はほぼ得ていたためこれはスムーズに行われた。

戦力と地形

 アテネは弓兵や軽装歩兵を1万人以上動員したと記されているがこれはおそらく誇張であろう。ただ実際にスパルタ軍の数倍を揃えてからデモステネスが会戦に望んだことは確かだと思われる。彼にとってこれでも慢心できないのがスパルタ軍というものであった。
battle-of-sphacteria
 アテネ軍:総勢2000~11000 
               (重装歩兵ホプリタイ:800以上)
       (軽装歩兵及び弓兵2000~10000)  
      指揮官:デモステネス
          コモン(メッサニア部隊指揮官)

 スパルタ軍:総勢440
      指揮官:エピタダス  

 スファクテリア島は両側が高地となる箇所があり細長く広がる地形で、中央部にややくぼんだ渓谷のような形状があった。北端には要塞が設置されていた。全域が当初はスパルタ軍の占領下であるが周辺海域はアテネ海軍の制圧下である。

上陸

BC425_Battle of Sphacteria_route
 島を占拠しているスパルタ軍であったが数がいかんせん少ないためその警戒線は薄かった。

 デモステネスはそれでも安心しなかった。

  一箇所で上陸しようとしている所にスパルタの突撃を受けると崩壊させられる可能性があった。そこで彼の率いるアテネ軍船は分散し複数箇所に一挙に上陸をすることにした。

 島の南域のスパルタ警戒部隊はわずか30人しかいないことを確認したデモステネスは主力の重装歩兵800人をそこから上陸させた。島の両側からアテネの軍船が多数近づき兵士を降ろした。
 しかも一夜に上陸作戦を実行するという念の入れようである。




スファクテリアの会戦 [ Battle of Sphacteria ]

 スパルタ軍は不意を突かれる形となったが、指揮官エピタダスは兵を集結させ島の中央部でアテネ軍と対決した。

【アテネ軍布陣】

 アテネ軍は前衛に軽装歩兵を展開し、その後ろに重装歩兵という布陣で隊列を組んでいた。これは古代ギリシャの基本的な戦闘形態の1つである。数で勝っているのだからこれで充分勝算はあった。だがこの様式で、時に圧倒的寡兵にも関わらずスパルタ軍は名声を勝ち取ってきたことをデモステネスは忘れていなかった。

【スパルタ軍布陣と狙い】

 スパルタのエピタダスは自軍の兵力を整列させると前進を命じた。彼の狙いはシンプルだった。寡兵であるが戦力を集中させ一挙に前進させ敵の軽装歩兵部隊を突破する。敵の懐に飛び込めばアテネ軍に多い弓隊や軽装の投槍部隊は用をなさなくなる。続いて後方のアテネ重装歩兵部隊を押し込み海に突き落としてしまおうというのだ。移動能力・個々の戦闘技術で優越すると想定しているが故の戦術である。あるいはそれ以外にこの不利な状況を打破できはしないと賭けていたのかもしれない。選択肢はほとんどなかったであろう。ただそれでも戦わずに降伏を選ぼうとはしないのがスパルタの名に恥じなかった。

【軽装歩兵同士の戦闘】

BC425_Battle of Sphacteria_0

 スパルタ軍が主に前進したがアテネ軍の軽装歩兵も正面から攻撃に向かっていた。よって最初は両軍の軽装歩兵がまず戦闘を開始した。

 アテネ軍軽装歩兵の最初の攻撃は成功せずスパルタ軍はこれに耐え弾き返した。

 続いて重装歩兵を攻撃しようとスパルタ軍は前進した。

【アテネ軍軽装歩兵の両翼展開】

BC425_Battle of Sphacteria_1 ここでデモステネスは軽装歩兵をその場で戦わせるのではなくスパルタ軍の攻撃をいなすように両側の高台へと移動させた。そして高台付近から少しずつではあるがスパルタ軍へ投擲攻撃を繰り返させたのだ。

 両側面へ廻った高台の部隊はスパルタ軍がそのままアテネ軍中央の重装歩兵を狙い前進すれば両側面から近づいて攻撃を行い牽制をしながら少しずつ削った。それを嫌ったスパルタ軍が近づいてくると高台にしっかりと陣取り激しい投擲攻撃で迎撃した。
 スパルタといえど重装歩兵が力を発揮するのは密集陣形の時である。高台へ登るために隊列が乱れたところに待ち構えられた矢と投槍が来ては撃破はできなかった。何よりも数で優越されていたこともある。

【軽装歩兵による弾性の攻撃】

BC425_Battle of Sphacteria_2 スパルタ軍はそこでアテネ軍に向かって走って迫ろうとしたが、するとアテネ軍の軽装歩兵部隊は接近戦はせずに逃げ出し距離をとった。スパルタ軍といえど重装歩兵で高台を登っては流石に軽装歩兵に追いつくのはできなかった。
 スパルタ軍が深追いできず引き返すとアテネ軍軽装歩兵は戻ってきて攻撃を再開した。これは最初から指示されていなければできなかったであろう。デモステネスは弾性のような包囲戦術を実行していたのだ。

 スパルタ軍に、エピタダスに彼らを倒す術は存在しなかった。ギリシャに武名を轟かせた戦士たちは勢いを殺されじわじわと削られ続けた。寡兵であったためその戦術的選択肢はもともと少なかったことに加えて、移動能力と投射攻撃でも優越されたことは致命的に彼らを追い込んだ。それでも崩壊はせずに耐え続けたが、接近戦に持ち込めないことを悟ったエピタダスは諦めて北端の要塞に撤退した。
 野戦でスパルタ軍が敗北したのである。

【要塞攻略】

 堀などが造られた北端の要塞に混乱しながらもスパルタ軍はなんとか撤退し、そこで最後の望みをかけて抵抗をエピタダスは行った。
 アテネ軍は数で勝っていたことと野戦で勝利したためか、やや安易にこの要塞へ攻め寄せた。スパルタ軍の強化点にもろに突っ込んだアテネ軍は被害を出し撃退された。この状態でもこれほどの戦闘を行えるスパルタ軍の練度と戦闘意志は壮絶なものがある。
 だがやはり結果は変わらなかった。
BC425_Battle of Sphacteria_スパルタの敗北
<Battle of Sphacteria_maneuver>
 要塞への攻勢に失敗したのを見たアテネ軍メッサニア部隊の指揮官コモンがデモステネスに進言した。自分に部隊を与えてくれれば、一見すると通行不可能に思える海岸浅瀬を踏破してスパルタ軍の要塞へ踏み込んで見せるというのだ。
 デモステネスはこれを承認した。そしてコモンは見事にやり遂げる。部隊を率いて迅速に動き南東側浅瀬へと辿り着くとそこに沿って北上、スパルタ軍に気づかれる前に要塞へ侵入した。
 そしてスパルタ軍の防衛組織を破綻させることにコモンが成功すると、アテネ軍が総攻撃を行いついにスパルタ軍は崩壊した。
 エピタダスは戦死し、残されたスパルタ軍は降伏を決心した。

戦果

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 スパルタ軍:(総勢440名)戦死:148
              捕虜:残り全員

 アテネ軍:(総勢2000~11000)戦死・負傷者:約230
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 陸戦に置いて最強であり、たとえ負けるときでも不屈の戦闘を行い降伏しないと恐れられたスパルタ軍をデモステネス率いるアテネ軍は破ることに成功した。捕虜を得たことはスパルタの神話に大きな打撃を与える情報戦の材料となった。

 だがこの会戦でもスパルタ兵の戦闘士気の高さは貶められるようなことは本来はないであろう。和平交渉が決裂し島に孤立しても降伏は選ばず、野戦で破られても戦闘を継続し要塞で絶望的な最後の戦いに挑み、軍が崩壊し指揮官が戦死してようやく槍を下ろしたのだ。これ以上の戦闘などそれこそ全員戦死しか無い。
 アテネは大量の物資と兵卒を動員し、長期に渡り軍船と部隊を拘束されてしまった。それは間違いなくエピタダスとスパルタ兵の戦果である。

 だが会戦そのものは間違いなくデモステネス率いるアテネ軍の勝利である。ピュロスの海戦の勝利を活かし敵を孤立させ、野戦ではかのスパルタ兵を無力化しわずかな犠牲で敵を撃滅し捕虜を得た。

 決してスパルタ軍は陸戦に置いて無敗ではなく、数で押し込む以外にも戦術的に彼らを倒すことは可能だったのである。デモステネスはそれを証明した。

 この後もアテネ軍とスパルタ軍は熾烈な戦いを続けていく。デロス同盟とペロポネソス同盟は遠征と離反、そして消耗を繰り返しながらペロポネソス戦争で数多の戦例を戦史に残すこととなる。

→ 【戦術小考 弾性包囲概説】

 ここまで古戦史を読んで頂きありがとうございます。
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【参考文献】
トゥキュディデス "ペロポネソス戦争"

サイト
http://www.livius.org/articles/battle/sphacteria/
http://darkwing.uoregon.edu/~klio/maps/gr/battles/