古代ギリシャでは戦争術の歴史の礎となった数々の会戦が見られます。
 今回はその中から基礎軍事理論の1つ、戦力集中原則の古典戦例を紹介したいと思います。
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 会戦の名は「デリウムの戦い」または「デリオンの戦い」と呼ばれ、ペロポネソス戦争中にアテネとテーベが相対した重要な戦闘の1つです。
 典型的なギリシャ・ファランクスの戦闘であると同時にそこから次の時代へ繋がる戦術の端緒を伺わせる戦いでもあります。

会戦背景

 前431年に始まったペロポネソス戦争はデロス同盟軍(アテネ盟主)とペロポネソス同盟軍(スパルタ中心)が覇権を争う形で激化した。
 アテネは陸戦でも時にスパルタに勝利したが、
→【戦例スファクテリアの戦い
 少しずつ経済は悪化し疫病が流行ったことで戦況は悪い流れになっていく。そのうちでもペロポネソス同盟側の勢力として都市国家テーベを中心とするボイオティア地方連合はアテネと以前から対立しており、この戦争でも激しい戦闘を繰り広げることとなる。
location_Viotias
<ボイオティア地方>

 その中でも最初の大会戦と位置づけられるのが前424年のデリウムの戦いである。アテネは前424年に大規模な北進を行った。ボイオティアやメガラを含むコリントス地峡一帯の制圧を目論んだことからこれは始まる。

デリウムへ到る

 アテネの侵攻計画はヒポクラテス将軍とデモステネス将軍によって主導され、方針として3つの軍勢からなった。
 まず都市シーパイ(Siphae)がペロポネソス同盟に対して反乱を起こす。そこに海上からデモステネスが反乱軍と合流。同時並行で陸上からヒポクラテスが都市デリウムへ進撃する。この分進と合撃によりコリントス地峡周辺を占領しようというものだった。
 しかしヒポクラテスとデモステネスはうまく情報のやり取りができず、攻撃を呼応して行う時期を合わせられなかった。デモステネスが大規模な船団を集め動いたときヒポクラテスはまだ遠く離れてしまっていた。更に都市シーパイの反乱も情報漏洩からボイオティア連合が鎮圧にやってきたことでほとんど蜂起もできずに失敗した。
 アテネにとってはまずいことに、下手に反乱をしようとしたことでボイオティアの軍勢が各所から集結してきてしまい、先手をうつことができなくなったのだ。そのためデモステネスは仕方なく引き返すことにした。
 されどヒポクラテスはこのタイミングでデリオンへの侵攻を開始してしまっていた。彼はしばらく侵攻してから敵領内に要塞を作り、その後でアテネに引き返そうと考えた。
 この間にテーベ等のボイオティア連合は軍勢を更に集めた。一部では引き返すアテネとわざわざ戦う必要はないと訴えるものもいたようだが、テーベのパゴンダス将軍は敵勢力の主力を撃滅する機会を逃すべきではないとして演説し、日暮れにも関わらず出立した。

戦力

アテネ軍:総勢15000
     指揮官:ヒポクラテス

ボイオティア連合(テーベ中心):総勢18500
       ( 重装歩兵[ホプリタイ]:7000、軽装盾歩兵[ペルタスト]:500
          騎兵:1000、その他軽装歩兵等10000  )

     指揮官:パゴンダス
greek-phalanx
 互いにギリシャ・ファランクスを編成し、主力と成る重装歩兵はほぼ同数であったとされている。
 ※この時期は既に重装歩兵の軽量化が始まっていますので画像は参考程度のご容赦ください。

デリウムの会戦

 テーベのパゴンダス将軍は軍を進め、両軍の視界を遮っている丘の陰で軍勢を整えて合戦に挑んだ。アテネのヒポクラテス将軍も敵来襲を聞き休ませていた重装歩兵を集め戦場に待機させた。

【アテネの布陣】

 重装歩兵を中心にして横陣を敷き、深さは8列の典型的なギリシャ・ファランクスを形成した。両翼端には騎兵が配置された。
 (トゥキュディデスによると)アテネは訓練と武装の整った軽装歩兵を常設する習慣は無く、傭兵や外国勢力招集で補っていたようだが、この戦いでは一部が帰途に着いていたため少数しか会戦に加わらなかったとされている。

【ボイオティアの布陣】

 ボイオティア軍も全体としては横に長い陣を敷いた。
 左翼には(テスピアイ、タナグラ、オルコメノス)諸ポリス。中央には(コロネイア、コーパパイス湖周辺)ボイオティアの諸ポリス。そして右翼には主力のテーベ軍が集結した。横陣の左右両端には軽装歩兵と騎兵が配置された。
 ここのパゴンダスの采配で重要だったのはその戦力配分である。まず連携を取りやすい各ポリス兵ごとに分けていったのは当然だが、主力のテーベを右翼の一箇所に集めたのだ。その結果、他の諸ポリスは深さ8~12列の従来どおりのファランクスだったが、テーベ軍の戦列は25列にも及んだ。

【両軍の進軍】

 丘を挟んで並んだ両軍だったが、先手をとったのはテーベを中心とするボイオティア軍だった。ヒポクラテスもパゴンダスも互いに自軍の兵士を鼓舞する演説を行い各部隊に声をかけていた。ヒポクラテスは心得を思い出すよう激励していたが、それが終わらぬ内にボイオティア軍が前進を開始した。アテネ軍もここで少し遅れて前進を開始し、丘をテーベ軍が越えた所で槍の届く間合いと成った。
 両翼端の兵士は両軍ともに地理的障害にぶつかってしまいうまく前進できなかったようで、激しい戦闘に持ち込むことができなかった。それ以外の歩兵戦列は問題なく進み攻撃を開始した。
 槍ぶすまが迫り互いを刺し合い、ついには盾と盾をぶつけるファランクス同士の戦いとなったと記されている。
ギリシャ・ファランクス戦闘

【アテネ軍中央と右翼の前進成功と混乱】

 ファランクスの傾向として、右斜め前に動いていきやすいというものがある。理由は様々であろうが個人レベルで見ると、盾を左肩に備え槍を右手にもち進むため必然的に斜め右に少しずつ全体が動くためと言われている。デリウムの戦いでもこれは該当した。

 アテネ軍の右翼は例にもれず前進圧力を強めボイオティア軍左翼を押し込んだ。これに連動して中央もアテネ有利で進んだようだ。特にボイオティア軍左翼のテスピアイ勢は部分的に崩され包囲されてしまうまで押し込まれた。この時の部分包囲は片翼または両翼の包囲であり、完全な側背へ打撃するものではなかったと思われる。彼らは切り崩され壊滅した。
 だが必死で抗戦したためかアテネ軍右翼もやや乱戦となり包囲的に進んだ結果として混乱に陥ってしまった。この混乱は同士討ちにまで発展するほどだったというのだからアテネ右翼の組織性は崩れていたものとみなしてよいだろう。

 ただアテネ右翼が打ち勝ったことで中央も前進し、ボイオティア軍の左翼と中央は壊乱して右方や後方の友軍位置へ逃れる者も出始める結果と成った。

【ボイオティア軍右翼の前進成功】

 だがボイオティア軍はやられっぱなしではなく、敵と同じ様に右翼テーベ軍が前進に成功していた。パゴンダスは主力のテーベ軍を集中したことで、ここで勝たなければならないことをわかっていた。
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 最初は一寸刻みに押していたと記録されている。しかしテーベ軍は従来のファランクスの3倍にも及ぶ深さ25列の縦深陣を展開していた。この戦力集中にはさすがのアテネのファランクスも次第に苦境に立たされていった。
 最終的に根負けしたのだろう、アテネ軍左翼は次第に退却を開始した。状況は槍の刺し合い、盾の押し合いから一方的な追撃の形へと変化した。

【ボイオティア軍の騎兵部隊の移動】

 即ちこの時、両軍は互いに右翼が前進に成功し、左翼が壊乱状態という戦況だった。

 違いとしては2つある。1つはアテネは右翼と中央が押し込んでいたこと。ボイオティアは右翼のテーベのみだった。
 しかし2つめ、アテネの優勢な中央と右翼は完全な突破を成功させていなかった。まだテーベの中央は抵抗を続けていたし、前進したアテネ右翼は包囲を行った結果混乱しておのが組織を麻痺させてしまった。一方でボイオティア右翼のテーベ軍は縦深陣を使い混乱もなく目の前の敵を圧倒して突破の成功はほぼ確実と成っていた。

 これはどちらが全体として優勢なのだろうか。お互いの指揮官は確信を持てていなかっただろう。
 だがこの時に最終的な一押しとなったマニューバが行われた。それはボイオティア側の騎兵によるものだった。
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 ボイオティア左翼の苦境を伝えられたパゴンダスは増援として右翼の2つの騎兵部隊を抽出して左翼への援軍へ回したのだ。騎兵隊はその移動力を活かして戦場の混乱に巻き込まれること無く、丘の後ろを小迂回して左翼へと到着した。

 これが思わぬ効果を現した。あくまでパゴンダスは左翼の崩壊を止めるかあるいは遅らせて、主力の右翼が突破後に中央も崩すための時間稼ぎといったつもりだったろう。数が多くもない部隊にそれ以上を期待するのはまず酷というものだ。だが騎兵部隊は決定的な仕事を果たすこととなる。

 アテネ軍右翼は勝利に浸ろうとしていた所に、丘の反対側から急に2つの騎兵部隊が現れた。丘の死角と騎兵の迫力の効果が合わさったのだろう、かなりの衝撃をアテネ軍に与えた。これは心的な衝撃であり、完全にアテネ軍はボイオティア騎兵隊を過大に誤認したのだ。騎兵だけでなく更にボイオティア増援が到着したのだと想像が膨らんだと記されている。
 そのためアテネ軍右翼の心境は勝利から一転して恐慌状態へ陥ってしまった。

【アテネ軍の崩壊】

 ヒポクラテスは必死に前線に立ち兵士を鼓舞し指示を飛ばし態勢を整えようとした。整えさえできれば、実際はボイオティア騎兵の数が少ないことからアテネ軍は押し返せただろう。しかし組織性を失い、更に集団的なパニックが広がった部隊を前に1人の指揮官の声はあまりに無力だった。
 アテネ右翼は後退を開始してしまった。その時点で趨勢は決した。一度引き始めた右翼は止まれず、しかも左翼は既にテーベ軍に突破され被害が中央にまで拡大を始めている。アテネ全軍の崩壊に時間はそれほどかからなかった。

 総崩れになったアテネ軍は四散して逃走した。そこにパゴンダスは油断せずに追撃を行った。逃げるアテネ兵を追い次々打ち倒した。特に彼らの騎兵隊と、更に増援に到着したロクリス人騎兵が追撃で活躍したという。アテネには幸いなことに夜陰がすぐに訪れたことで追撃戦は収束していった。

戦果

 会戦はテーベを中心とするボイオティア連合・ペロポネソス同盟側の勝利に終わる。しかも勝利しただけでなくその後の追撃戦で戦果を拡張させアテネに大打撃を与えた。その最たる結果が指揮官ヒポクラテスの戦死である。夜陰が訪れなければさらなる打撃となっていただろう。
 この野戦の後にボイオティア軍は死者を埋葬し、アテネの要塞も陥落させた。

 アテネ軍:(総勢15000人)
       死傷者:約1200人 (指揮官ヒポクラテス含む)
       捕虜:200名以上
       その他、軽装歩兵及び輜重隊も被害を受けた

 ボイオティア連合軍:(総勢18500人)
       死傷者:約500

 アテネは元々苦しくなり始めていたがこのデリウムの会戦での敗北で更に危機が強まることと成る。名政治家ペリクレスは前429年に死去しており熱狂する民衆を抑える事はできずペロポネソス戦争は継続されていく。かつて栄華を極めたアテネの落日の時は近づいてきていた。

 テーベはこの勝利でボイオティア連合内だけでなくギリシャは全体に対し影響力を強めた。それはこの戦争の後も更に増していくこととなる。かつてギリシャ・ファランクスを導入したアルゴスが握った覇権はテーベとスパルタの勢力争いへと続き、この両者は疲弊していく。

 そしてある男の登場でギリシャの覇権はテーベの手に渡ることとなる。その者の名はエパメイノンダス、戦史における最重要人物の1人と言われる将である。

会戦の小考

 デリウムの会戦は古典的なギリシャ・ファランクスの戦闘ではありますが、将来の軍事的発展に欠かすことのできない要素をいくつか見せてくれてもいます。

Battle_of_delium_map まず騎兵の効果です。特にその中でも移動力奇襲性が見られました。

 戦況に合わせて陣の端から端まで素早く移動できるその能力はこの会戦の行方を決めました。そして軍事的には心的な影響というものを示してくれています。突撃の際によく言及される衝撃力とも関連しますが、心的側面に関しては突撃しなくても、ただ脅威として存在するだけである程度効果を発揮します。このときは騎兵の速度に丘が加わることで奇襲性を大きくしました。その結果としてアテネ軍右翼は(機械的に計算するなら)戦力で上であったにも関わらず自壊に等しい後退をしてしまいます。

 会戦そのもので特筆すべき戦術的判断は、両翼端の騎兵と軽歩兵の位置が地形上激しい戦闘に至らないことを悟ったパゴンダスが騎兵を大胆に抽出し、戦闘が必要な場所へ投入したことでしょう。単純に陣形にこだわらない戦力配置をしたことは素晴らしい指揮です。

 追撃戦における騎兵の重要性もこの戦例から見て取ることができます。

 次に戦力の集中です。今回は特にテーベの縦深陣と呼ばれる方式でそれが示されました。
 アテネはバランスよく並べていましたがアテネは自ら偏りを作っています。
 ファランクスによる縦深陣戦闘の効果は多少の議論はありますが、軍事理論的には端的かつ絶対的な戦力集中原則の例です。ただし戦力の集中というのはそれ単体ではあくまで原則論の1つであり、実践においては別の要素と組み合わせられて初めて戦術・作戦・戦略となります。
 この場合は全体に兵力を均等に並べるのではなく、どこかを薄くするかあるいは陣を狭くするリスクを冒してでも戦力を集中させるという決断が相手を崩す成功に繋がりました。

 リスクを冒し同時にリスクを抑えることこそが軍事理論の発展の歴史であり、この古き会戦はその中の最初期の1ページです。

 加えて丘の向こうという死角によって状況判断を誤ってしまったことは軍事における難しい項目を教えてくれているでしょう。史家Adcokはそれを認めながらもやはり後世との比較ではアテネ軍の練度に問題があったことを指摘しています。

 ここまで拙稿を読んで頂きありがとうございました。
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次回
→【第1次マンティネイアの戦い】
→【レウクトラの戦い】
→【第2次マンティネイアの戦い】 に続きます。
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参考文献
トゥキュディデス, "戦史 (中)" 久保政晃訳
John Kinloch Anderson, (1970) "Military Theory and Practice in the Age of Xenophon" University of California Press
F.E.Adcock "ギリシア人とマケドニア人の戦争術"  山田昌弘訳

サイト
https://alchetron.com/Battle-of-Delium
http://crazyhis.web.fc2.com/aspar/leuktra.htm#d1
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【余談】
 この一連の戦闘の途中で恐らくエパメイノンダスを思い出した人は少なくないと思います。
 デリウムでテーベに使われた縦深陣は後にテーベ出身のエパメイノンダスが戦術において部分的に組み込むことでさらなる発展を見せます。名高き「斜線陣」です。その構成要素の一部である縦深陣はテーベでは少し昔から見られていました。ですがエパメイノンダス斜線陣縦深陣の原型がどこだと断言することはあまりされません。なぜなら軍事において重要なのは要素の組み合わせの結果として顕現する戦術・作戦・戦略であり、単一の要素の源流というのはあくまで一部なので、より包括的かつ複合的に考えなければならないからです。
 しかしこういった要素の一部を知ったとき戦史の積み重ねを感じられることは嬉しいものです。