古代ギリシャにおいて黎明期を迎えたギリシャ・ファランクス(槍密集方陣)は確固たる部隊編成を持ち指揮系統・マニューバが明瞭であるため、戦史において重要な役割を占めています。ファランクスは数々の会戦でその威力を発揮し戦術発展の礎となりました。

 様々な工夫がなされ応用が生み出されていきました。各戦術を詳述する際に理解をしやすいように、その基盤となった典型的なギリシャ・ファランクスの戦例を1つ紹介したいと思います。

 会戦の名は(第1次)マンティネイアの戦い。エーゲ海一帯にその名を轟かせ、今なお尚武の代名詞として扱われるスパルタがその力を見せつけた戦いです。
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※戦争の経過記述が長いため戦術のみに着目する場合は会戦の章まで飛ばしてください。

<関連戦役>
スファクテリアの戦い[軽装歩兵によるスパルタ重装歩兵に対する勝利]
デリウムの戦い[縦深陣による戦力集中]

ファランクス簡易概説

 長槍と盾、それに鎧を備えた歩兵が密集的な隊形をつくり組織性のある群れとして行った戦闘様式はファランクスと呼ばれる。
 最も大雑把な分類で古代オリエント・エジプトといった原初期のファランクス、エーゲ海沿岸で洗練されたギリシャ・ファランクス、そして更なる発展を遂げたマケドニア・ファランクスという分け方がある。
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 槍と盾を歩兵が密集して陣形を組み使った形跡はペロポネソス戦争よりはるか以前の古代オリエントやエジプトで見つかっており様々な資料を研究者達が発掘・記述してくれている。
 ファランクスを構成する各種要素はバラバラに発展を遂げたかもしれないが、ギリシャ・ファランクスは導入期は前8世紀前後であり、その後は貴族軍と市民軍などの影響の形跡が見られる。そしてアルゴスという都市国家が洗練されたファランクスを導入し強大な影響力をもたらし黎明期を迎えていく。

 初期は巨大な盾と重いすね当てなどかなりの重量だったがペルシャ戦争を経て前6~前4世紀には軽量化が進み、アテネなどでは貴族軍から市民兵、民主制と奴隷制の影響を受けた軍制改革が社会制度変革と関連して行われた。軽量化は戦術的なマニューバの可能性をより広げたと指摘されている。
 その変革の中でスパルタとアテネの第1次マンティネイアの戦いは行われた。

ペロポネソス戦争後期の始まり

 前431年に始まったアテネ盟主のデロス同盟スパルタ盟主のペロポネソス同盟の戦争はそれぞれの派閥を巻き込み全ギリシャ・エーゲ海の島々・植民地を戦場とし広がっていった。互いに国力を削り合い消耗する中、特にアテネは疫病の蔓延や材木の欠乏などで不利となっていく。しかしスパルタもスファクテリアの戦いで敗北し軍事神話が崩れるなど苦しんでいた。
 そんな中アンフィポリスの戦いでアテネ・スパルタ両軍の好戦派の将軍が互いに戦死したことで前421年にニキアスの和約が結ばれ一度戦争は沈静化する。

 されど同盟の離脱・領土返還の不履行など軍事衝突の危険は常にはらんでいた。アテネスパルタが直接当たらなくても扇動者アルキビアデスはデロス同盟を盛んに煽りアルゴスエピダウロスなどと争いを始めた。それに続く形で前419年アテネは同盟諸国とともに軍事行動に参加しスパルタもそれに応じて動きだした。

スパルタ王アギス2世の進軍

 アルゴスの攻撃を受けていたエピダウロスのためにスパルタは大軍勢で進軍を行ったのは前418年であった。
Map_peloponnesian_war 率いていたのはスパルタ王アギス2世である。当時の彼は王ではあるが他に共同統治者のパウサニアスがおり各貴族の意見を伺う必要もあり決して絶対的な権力をもっているわけではなかった

 やってきたアルゴス軍をスパルタのペロポネソス同盟軍は3方向から囲む圧倒的優位状況に持ち込んだ。デロス同盟主力の1つアルゴス軍を殲滅する大チャンスにも関わらずアギス2世は講和を簡単に受け入れ引き上げてしまった。しかもアルゴスが攻撃を続けたことでスパルタ王アギスは国内で激怒を浴び十万ドラクマの罰金と彼の邸宅の取り潰しを議論されるはめとなった。

 アギスは謝罪しもう一度遠征を行いこの失策を取り返す機会を与えてほしいと願い出た。一応これは受け入れられたが勝手なことをできぬように、スパルタ内から10人の顧問を選び彼らの承認なくては王たりとも軍勢を率いて出る権限を行使できないこととされてしまった。

 その頃アテネのデロス同盟はオルコメノスを陥落させ、続いてマンティネイア方面にある都市テゲアへ侵攻を開始した。
 都市国家テゲアはスパルタへ使者を送り、即刻援兵を派遣してもらわなければ我々がアテネ側につくのは時間の問題であると伝えた。スパルタはこれを聞くやいなや市民と農奴の総兵力を動員しアギス王を指揮官にし出立した。大軍勢でのこの迅速さはかつてないほどのものであったという。

戦力

 スパルタ側諸国:総勢9000 (うちスパルタ兵3500)

 アテネ側諸国:総勢8000
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 数値は定かではないが互いに1万人前後でわずかにスパルタ側が多かったと見られている。騎兵は居たが多数ではなかったようだ。主力の重装歩兵同士の正面からのぶつかり合いがこの会戦の要となることは明らかであった。

マンティネイア前哨戦

 スパルタ側諸国軍はテゲアにいる敵野戦軍へ直接向かうのではなく、その傍のアテネ側領邦マンティネイアへ侵攻することでその救援にこさせテゲアから引き剥がす作戦としたと思われる。スパルタはマンティネイアへ到着するとすぐさま付近の耕地に破壊工作活動を加えた。

 アテネ・アルゴスら諸国軍は敵兵の姿を見ると要害堅固の高台を占拠し陣を整えた

 当初アギス王はその高台へ平攻めをしようと寄せていった。しかしスパルタ側の長老格の人物があまりに危険なこの攻め方を諌めた。
 「禍を禍で癒やすつもりか
 長老はそうアギスに言ったと伝承されている。アギスは直前の失態を挽回しようと気がはやり蛮勇となってしまっていることを諭され、直前で兵をひいた

 アギスは敵を平野での会戦に持ちこませなければならないと考え策を練った。彼は少し離れた場所で河川の流れを変える工事を始めた。この河川は下流に多大の害をなすためにその水路をどちらに向けるかということで昔からマンティネイア人とテゲア人とで争いを生んでいた。それを利用して敵軍を誘い出そうというのだ。

 アテネ・アルゴスら諸国軍は姿が見えなくなりつつ合った敵を追撃しなければ戦果を逃すと思ったこともあり高台を下り進軍した。これはアギスの期待以上の動き方をしたため、翌日敵軍の姿を思ったよりだいぶ近い位置で発見したスパルタ軍はかなり驚いたと記されている。
 しかしスパルタ軍は瞬時に遅れを取り戻し戦闘準備に入りたちまち隊形を整えた。
 こうして前418年のマンティネイアの会戦が始まったのである。

スパルタの指揮系統

【古代の戦史家トゥキュディデスによるスパルタ指揮系統の記述抜粋】

 スパルタの制度では王が軍勢を指揮する問には、全軍は王1人の命令下に置かれる。そして王自身は直接、軍司令らに必要な指令を下すと、軍司令らは大隊長たちに、大隊長らは中隊長に指令を伝達し、さらに中隊長から小隊長を経てそれぞれの小隊員に命令が伝えられる。したがって王が必要とするときはその命令伝達はこの順序によって行われ迅速に末端にまで徹底される。
 というのはラケダイモン人(スパルタ)の軍隊組織は極少数を除けば全員が命令者であると共に命令に従わねばならぬ立場に置かれていて、一々の指令を徹底させる監督は、多勢の者の責任においてなされる仕組みに成っているからである。

 スキリーティス(山岳の民)部隊を別にすれば(マンティネイアの戦いは)7大隊が戦闘に加わった。
 各大隊は4つの中隊からなり、各中隊は4つの小隊をもって編成されている。各小隊の第1戦列は4人からなっていた。
 戦列を何層組むかは一定しておらず、各大隊長の裁量によって決められたが、一般的な慣習では8層に組むしきたりであった。

(よってスパルタ軍の第1戦列人数= 4人 x 4小隊 x 4中隊 x 7大隊=448人 と推定される )

第1次マンティネイアの戦い [battle of Mantinea]_序盤

【スパルタ側 軍布陣】

 スパルタ側同盟軍は両翼端に騎兵部隊を置き重装歩兵の主力を中央とするファランクス基本隊形を敷いた。
 ファランクスの内訳は次のようである。最左翼に山岳民兵、中央左翼に同盟兵、中央にスパルタ兵大部隊、中央右翼に同盟兵、最右翼にテゲア兵と少数のスパルタ兵といった順で配置された。
 アギス王は隊列の中に入り指揮を取ると同時に自ら戦闘に加わり士気を高めた。
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【アテネ・アルゴス側 軍布陣】

 対するアテネ側も同様に重装歩兵を中心として横に長く均一的な陣形を敷いた。騎兵は左翼端に置かれた。
 歩兵の内訳は次の通りである。最左翼にアテネ軍、中央左翼にデロス同盟兵、中央にアルゴスの一般兵、中央右翼にアルゴスの精兵1000人、その右翼にアルカディア同盟兵、最後に地元のマンティネイア兵が最右翼を占めた。

 両軍ともに正兵を右翼よりに配置しているが、アテネ側のほうがやや均質的であるかもしれない。

【戦闘前の鼓舞】

 互いの指揮官が己の兵たちに訓辞を述べ、戦争の意義を再度伝え士気をできるだけ高める。
 ただ同盟諸国の上官たちが語っている間にスパルタ兵たちは戦闘の歌を合唱した。彼らはわずかの激励の訓辞よりも、長年の実戦の訓練こそ最後の勝利の支えとなることを知っていたからであるとトゥキュディデスは記している。

【ファランクスの前進と右寄りに押し出される性質】

 演説が終わるとついに両軍が前進を始めた。

 アルゴスとアテネ側同盟諸国の軍勢は威勢よく前進した。
 その一方でスパルタ軍は笛吹の調べに合わせて緩慢に進んだ。この音楽は戦意高揚ではなく歩調を合わせて前進し隊列が乱れるのを防ぐことを目的としていた。

 両軍が感覚を狭めつつあるとき、アギスはファランクスの傾向に基づき戦術を改めて考えていた。

 ファランクスは両軍がぶつかり合うと戦列は右翼に向かって押し出されるように進む。そして両側とも味方の右翼でもって対する敵の左翼を包囲しようとするのだ。(トゥキュディデスは例外なくと述べるほどこの傾向は顕著だった。原因として、兵士が槍を持つが故に防御が無い体の右半分を、となりの兵士の盾に隠れることで防御しようとすることを挙げている。最右翼端の兵士は隠すものがないため右に動くことで避けようとし、それに他列も続いて右寄りに前進することとなる)

 マンティネイアの戦いはこの傾向が現れた典型的な戦闘だった。

【互いの右翼を包み込む両軍_延翼の失敗】

 最右翼のスパルタ・テゲア部隊は敵左翼アテネ軍を右から包み込むような形になり押し込んだ。
 逆に最左翼のスパルタ同盟諸国は対峙する敵マンティネイア軍にその側面を包囲されていった。
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 アギスは当然この傾向を知っていた。それに加えて敵右翼マンティネイア部隊の横列がかなり長いことを見てとり、このままではみすみす自軍左翼が包囲攻撃を受けると考えた。
 そこで左翼を延翼することで敵に回り込まれないようにする対策を講じた。左翼端の部隊を更に左に移動させ、左翼端と中央の間に生じる隙間には右翼の補充用2個大隊に埋めるよう命令を発した。

 だがアギス王の命令は右翼の大隊指揮官たちに拒絶されてしまった。おそらくはアギスがあまりにぎりぎりまで敵の布陣を見極めすぎて延翼の判断が遅れ、右翼部隊がもはや敵戦列と激突寸前に成ってから指示がだされたことが原因と思われるが、直前のごたごたでアギスの判断の信頼性が揺らいでいたこともあるかもしれない。
 いずれにせよアギスは延翼を諦め、補充2個大隊にそのままそばの右翼へ合流するよう命令を変更した結果、ほとんど正面からお互い衝突することとなった。

 だがアギスの命令は中途半端に伝わっており、左翼端の部隊は指示通り左に移動して延翼しようとしてしまっていた。中央との間隙を埋める部隊がこなかったことで完全に中央と分離する結果となった。

 スパルタ軍は野戦の初期にかなりごたつき、操兵術において明らかに遅れをとってしまったのである。

崩壊するスパルタ同盟諸国軍左翼

 当然アテネ同盟諸国右翼のマンティネイア及びアルゴスの精兵はこれを見逃さなかった。
 白兵戦に突入するやいなやスパルタ同盟軍左翼を突き崩し押し込んでいった。更に中央との間隙にアルゴスの精兵1000人が突入し、中央スパルタ軍の一部を倒し、敵左翼を包囲して戦列を崩壊させた。
 スパルタ同盟諸国軍左翼はほぼ完全に崩れてしまい、続いて後方の輜重隊にまでアテネ同盟諸国軍右翼の攻撃は到達した。

圧倒するスパルタ軍中央と右翼

 この時点での局面はスパルタ不利であったと思われる。
 しかしファランクスはその正面に対する攻撃に集中してしまいがちなことがあり、確かにアテネ同盟諸国軍右翼は対面の敵を壊乱させたが、それを隣の中央やスパルタ軍右翼まで伝搬させることがすぐにはできなかった。
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 局面に変化をもたらしたのはスパルタ軍の武勇であった。
 アギス王自ら率いる直属の300人の部隊を筆頭に、スパルタ軍中央の部隊は対面の敵中央部隊に接敵すると間もなく圧倒して一気に押し込んだ。アルゴス市民兵などアテネ同盟諸国軍中央部隊がこれに対抗することが全くできなかったというのだから恐るべきものである。
 アテネ同盟諸国軍中央は後退を始めてしまい、ある者は槍に貫かれ殺され、ある者は敵の手を逃れようとするあまり転げてしまい味方の足に蹂躙され死んでいった

 同時刻、スパルタ同盟諸国軍最右翼のテゲア及び一部のスパルタ軍はファランクスの性質通り右斜めに進み敵左翼を包み込み始めた。中央が前進に成功したことで敵左翼は切り離されている。それ故に左翼アテネ軍は分断され両翼包囲を受けるような形となっていった。アテネ左翼端に騎兵部隊を置いていたことでぎりぎり包囲圧力が完成することはなかったが、それでももはや形勢の不利は覆すことはできないのは明確であった。

アテネ軍の全面撤退

 アテネ軍が耐えることは到底不可能だった。彼らは苦闘しながら騎兵の援護とともに後退を開始した。同じく圧倒されていた中央部隊も別離して後退している。唯一アルゴス精兵とマンティネイアの右翼が前進していたが、中央と左翼の被害はあまりに大きく、かつ部隊組織を再編ができないほど崩されていた。

Mantineiy1 ここでスパルタ軍は崩されてしまっている自軍左翼の山岳民部隊を助けに行くこととした。既に目の前の敵中央と左翼は反撃がほぼできないほど圧砕されていると感じ取ったのだろう。
 輜重隊が攻撃されていることも有り、ここは対面の敵を追撃するより残りの戦闘続行可能な敵右翼を倒すことを優先したのである。
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トゥキュディデス曰く、
「スパルタ軍は敵戦列を突き崩すまではいつまでも頑強に踏みとどまって戦い続ける。しかしいったん敵を突き崩すと一応追撃はするが、長追いしない」
 これが事実かは完全には確認されていないが、追撃戦の困難さとその効果の周知という点で特に近代戦史における追撃戦の洗練の意義がより理解いただけることと思われる。

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 この命令で中央及び右翼は全体を左転進させることとなった。これはおそらくかなり手間取ったか、隊列を乱す結果と成ったろう。ただでさえ一度戦闘を行っていたことも有りスムーズにはいかなかったようだ。
 その頃スパルタ同盟諸国左翼を崩していたアルゴス精兵部隊は、その側面からスパルタ軍が迫ってきていることに気づいた。この会戦に敗れたことを彼らは悟った。速やかに部隊を集め退却を開始する見事な手際を見せた。攻撃成功の前進中にすぐに退却するのは意外と困難なものであるのに、ほぼ1人もこの退却で犠牲者を出さなかったと記録されていることはその優れた部隊練度を証明している。

 一方で同じく右翼のマンティネイア部隊は輜重を攻撃していたこともありスパルタ軍が側面からやってきているのに気付くのが一歩遅れてしまった。彼らはスパルタ軍の側面攻撃を受け、その過半に及ぶ大損害をだしてしまった。

 ただし友軍右翼が襲われることで圧力から逃れることができた左翼のアテネ軍と中央の同盟諸国軍はそれ以上損害を拡大すること無くある程度しっかりと撤退に成功していった。

 結果として、第1次マンティネイアの会戦はスパルタの勝利に終わったのである。

戦果

 互いに一万人前後を揃えてぶつかった第1次マンティネイアの戦いはペロポネソス戦争の中でも屈指の大会戦であった。
 この会戦は片翼が崩れたものの中央と右翼が圧倒したスパルタ側の勝利といって間違いないだろう。

 スパルタ側諸国:(総勢9000) 
         死傷者:スパルタ人300人以上、その他同盟諸国兵複数

 アテネ側諸国:(総勢8000)
         死者:約1100

 アテネ軍・同盟諸国軍は全面退却をせざるを得ず、マンティネイアの地から撤退していく。
 スパルタ軍は輜重隊の損失や埋葬などもあり大規模な追撃はせず、戦果の拡張はこれ以上なされなかった。

 アルゴスはこれによりアテネとの同盟から離脱する条件で和議を結び、アテネには更に苦境となっていく。

戦後

 マンティネイアの勝利はスパルタ軍の精強さを再度ギリシャ全土に知らしめた。スファクテリアで揺らいだ武勇を取り戻したのである。

 この会戦を筆頭にニキアスの和約は瓦解していき、ジリ貧となることを危惧したアテネの扇動者アルキビアデスがシケリア遠征を始めたことで戦争が完全に再開されることとなる。
 (アテネの土壌崩壊や経済停滞について様々な研究が有る)
 アテネは驚異的な粘りを見せるが大国アケメネス朝ペルシャ(ハカーマニシュ)の支援もあり最終的にスパルタ率いるペロポネソス同盟はこの戦争に勝利する。降伏し影響力を縮小させてしまったアテネは覇権を握った敵対勢力を相手に同盟者を探しながらやりくりしていく。

 そしてスパルタの覇権が謳われる中、アテネは1つの都市国家と同盟を結ぶ。都市国家テーベである。そこではスパルタの隷属から脱しようとするクーデターがおきていた。その軍事指導者に1人の哲学を愛する男が抜擢される。
 名はエパメイノンダス。ギリシャの戦争の新時代を拓いたと言われる偉大なる将軍である。

操兵術の小考

 ある意味これはスパルタの逆転勝利と言えます。序盤の手間取りを挽回する中央と右翼の圧倒的な攻撃はアテネ側を完璧に上回りました。
 局面としてはお互いの右翼が主に前進に成功するという典型的なファランクス戦です。だからこそその速度と、シンプルな正面衝突での強度が勝敗を分けたと考えます。
 また、単純な個人の速度ではなくスパルタの最初の緩慢な、されど部隊全体の隊列を崩さぬ前進が最終の速度としては速いことも見て取れます。

 包囲戦及び側面攻撃が部分的に発生するが、これは会戦の戦局を変えたというより、正面攻撃での圧倒の結果として発生しており、敵を崩すためのマニューバとはまた別のものとして捉えるほうが戦争術の観点では適切とみなすべきかもしれません。

 ただしこの会戦は隊形戦闘の基本を示してくれており、今後の戦争術発展史を見ていく上で理解を深めるための必要不可欠な戦いだとみなしています。

 それと全体の戦術や作戦のみで勝利するのではなく、兵卒・小部隊単位での高い練度が戦争の結果に大きく影響を与えるという当たり前の、されど実現が難しいことを再度我々に示してくれていると感じます。

 追撃戦をするか、友軍を援護にいくか(どの程度の部隊でいくか)という点の振り返りは難しいものが有ります。アギス王は会戦に勝ち、最後には戦争に勝っていますので結果は大きな影響をもたらさなかったかもしれません。しかしこと戦史においてはここを考察する価値は充分あると思います。

 また、延翼による包囲対策という戦術面での試みがこの戦いで見られましたが失敗しています。延翼は包囲にたいするシンプルかつ有効な対戦術ですが、大きなリスクを生み出してしまうことがこの戦いでも実は現れています。その点については別途戦例で詳解したいと思います。
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 ここまでシンプルな会戦に関する長い拙稿を読んで頂き、誠に感謝します。
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参考文献
トゥキュディデス, "戦史 (中)" 久保政晃訳
プルタルコス,  "On Sparta" 
Richard J. A. Talbert訳
A.Andrewes, (1957), "The Greek Tyrants" Harper & Row
F.E.Adcock, "ギリシア人とマケドニア人の戦争術" 
山田昌弘訳

サイト
http://strategwar.ru/great-fights-of-history/velikie-bitvy-istoriibitva-pri-mantinee-418-g-do-n-e
http://www.mystic-chel.ru/gallery/antiquity/greekWarriors/
http://crazyhis.web.fc2.com/ahomo/ahomogr2.htm#3

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 【余談】
 ファランクスの右斜めに動く性質に関しては有名ですが、マンティネイアの戦いに関するトゥキュディデスの記述がその基となっています。

 また、ファランクスがその名をはせたギリシャは山岳が多い地帯であったというのは興味深い事象です。密集方陣は山岳で戦闘するには不向きであり、少ない平野部に互いの勢力が顔をあわせて会戦をすることがファランクス発展には不可欠でした。これには農業生産や社会制度、更に戦闘の価値観などから研究者の方々が論考をしてくれています。各説底なしに思えたため今回は敢えて簡易概説に収めましたが、良い資料があれば何卒ご教示ください。

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