近世西欧における攻城戦はかつてのローマの如く大規模な土木工事を城攻めの際に行うことが頻繁に見られるようになりました。そして守る側もまた巨大で複雑な要塞群をもって彼らを迎えました。

 今回はその中の1つ、パルマ公が行ったアントワープ包囲戦について記載しようと思います。

 オラニエ公ウィレムを中心とするオランダ独立派が行った80年戦争初期の中でも危機の一つとして数えられる戦いです。近世において名高いパルマ公はこの戦いで欧州戦史にその個性を刻み込みます。
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戦争の背景

 16世紀末において欧州の低地地方(現在のオランダとベルギー)は強大な経済力を持っていた。それ故に領土的支配者たるハプスブルク家はこの地方の統制を高めたいと考えていた。

 当時のハプスブルク家はカール5世の時期に栄華を極め広大な領土と都市利権を持っていた。だが大国化が進行したが故にフランス及びドイツ地方(神聖ローマ帝国圏)で地上の覇権を争い、イングランドと海上覇権を競い、そしてオスマンと東地中海及びバルカン半島の覇権争いを連続して(時に同時に)行わなければならなかった。
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<カール5世期のハプスブルク家領土>

 世界最大規模の領土があろうと流石に苦しくカール5世の末期には経済的に行き詰まり始め、次代のフェリペ2世財政再建に奔走せざるを得なくなる。

 そのため莫大な経済力を持つ低地地方から更に税金をとろうとした。しかしこれはただでさえ宗教紛争等の火種があった状態にとどめを刺し、長年の不満と重なりオラニエ公ウィレムを神輿に担ぎ上げ大規模な反抗が始まってしまう。かといってフェリペはここを諦めてはいずれにせよ詰んでしまうため、なんとしてでも低地地方を制圧しようと強硬政策をとり争いが激化していった。

パルマ公の登場

 オラニエ公ウィレム(マウリッツの父)は低地地方(ネーデルラント)の人々だけでなく欧州各地で人気があったため支援を広く受けていた。加えて経済的つながりから低地地方勢力はハプスブルクの破綻した財政よりも魅力的な部分が一部あったしハプスブルク敵対勢力は積極的に介入した。ウィレムの外交手腕が優れていたこともあるだろう。
 そのため領土や人口では圧倒するもハプスブルク勢力は制圧が中々進められなかった、というか更に経済を悪化させた。

parma_Farnese 低地地方の総督だったアルバ公は会戦においては良将であり戦史においてその名を度々目にするほどの人物である。ただ(血の審判所など)苛烈で容赦ない政策だったためか戦いで勝てても独立派は反乱を続け、戦争を収束させられなかった。
 スペイン宮廷での政治闘争もあり最終的に失脚することとなる。その後レケセンスという人物が総督となり恩赦をだすなど融和へ転じていく。このギャップは効果的で反乱は勢いを失う。だが結局本質的な争いの火種を解決はできず、特に北部を中心としてウィレム達は戦争を継続する。

 続いて対オスマン勝利のレパントの海戦で知られるドンファンが総督に就任し戦争を行ったがじきに病死してしまった。
 その次の総督がパルマ公であった。

 パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ。近世軍事史において非常に大きな貢献をした人物である。

パルマ公の戦略_融和からの分断、そして武力行使

 パルマ公は基本戦略としてレケセンスの方針を受け継いだ。即ち融和戦略であるが、失敗に終わった前任者から改良を行っていた。
 彼は高貴な血筋と魅力的な人格を利用し宮廷でかなりの影響力を持っていた。そのためネーデルラントに限るならば比較的振り回されることなく必要な戦略をリスク覚悟で実行できた。

 最たるものは減税である。これも前任から継続したものであった。戦争を長引かせるよりよいという判断であり、あるいは一時的なもので反乱軍の勢いを無くしてから再度増税という狙いだったかもしれない。前任者達はハプスブルクが破綻して給付金が途絶えるとほとんどの政策が行き詰まった。しかしパルマ公は大有力者で個人的な商人とのつながりなどもあり、融和政策を比較的長く継続できたと言われている。

 何より彼は融和と強硬をバランス良く使いこなした。そして「反乱収束」という戦略目標を最優先として絞り込み全ての方針を組み立てたと言われる。

 次に行ったのは反乱軍の分断戦略である。融和政策をとろうとも積み重なった反乱理由が全て解消されるわけもなく必ず反乱を続ける一派は残る。かといって戦争の大きな理由である経済圧政が無くなったら命をかけて、王家への逆賊の汚名を着てまで戦争を続けようとは思わない一派も確実に生まれる。そこが逆に融和政策から連続して行われたパルマ公の分断の狙い目であった。

Map_Union_of_Arras_and_Utrecht_1579 この分断はほぼ完璧な形で成功する。当初ハプスブルク忠誠派は僅かルクセンブルクの1地方のみという有様だったが融和と強硬を織り交ぜた交渉によりそれを10州にまで拡大させた。

 パルマ公は反逆するほどではないと考える者が多かった南部を中心に譲歩案を提出する代わりに親ハプスブルクとなるアラス同盟を結成させた。それに対抗するためウィレムら残る北部独立派は1579年にユトレヒト同盟を作った。(宗派的差異も影響)

 この同盟は現在のベルギーとオランダの原型となったとされ、パルマ公の分断戦略の成果は今なお見ることができる。

 ウィレムの動きはほぼパルマ公の思い通りだった。これにより北部と南部は完全に別個の勢力に自らなってしまい、揺れ動き扱いが難しかった南部を味方につけたのだ。

 元々反乱は北部が中心であったためまだまだ抵抗力はあったが、ウィレムは勢いを削がれたことは確かだった。そして分断を成功させた後、パルマ公は融和の顔を一転させ残る北部の武力制圧へと乗り出す。ここまでの一連の戦略遂行はパルマ公の総督着任の1578年から僅か1年あまりのことであった。彼1人の功績ではないが恐ろしいほどの手腕と言うしかない。

 ただし戦略が完璧だったわけではない。期待を裏切りアラス同盟は軍をほとんど出してくれなかったし、彼を信用しきることもなかった。根本のハプスブルクの財政破綻からくる戦略的不安要素は総督である彼にどうこうできる問題ではなく、後期になると流石にごまかしていた資金難などのツケで融和政策が頓挫し始めている。

アントワープの独立派

 戦略家としてだけでなく前線指揮官としてのパルマ公の戦いが始まる。元々彼は1577年のジャンブルーの戦いでの戦功などを評価され総督になった者である。当然軍指揮もこなすことができた。

 ユトレヒト同盟の危機は拡大を続けたがそれでもウィレムを中心に結束は堅く守られ粘り続けた。流石にパルマ公も苦闘したようだ。そもそも発端であるハプスブルク財政問題とその軍事への影響は全く解決されていない。

 パルマ公がくる以前に低地地方で反乱が広がった理由でもある。顛末は簡単に述べると次のようなものだ。
①資金がないから増税しようとする。
②すると反乱が起きる。
③抑えようと軍を使うが資金が足りないのだから十分な戦力を揃えられない。
④抑えられたとしてもそれを継続することが難しい。
⑤兵を養うため徴発を行う
⑥市民反感の原因が更に増長
⑦増税しない場合は傭兵への給料未払いが置き、傭兵たちは取り分を得るため略奪を始める。
⑧当然民衆の反発は増大し反乱が広がる。

spanish-musketeers この負のループとも言うべきものにハプスブルク家ははまり込んでいた。当然南部でもこの手の略奪は珍しくなく、パルマ公の上記の南部取り込み戦略が成功したことがどれほどウィレム達を驚かせたか察することができるだろう。

 本稿の主戦場となるアントワープ市(ベルギー:アントウェルペン)はこの典型的な例であった。
 1576年に駐留していたハプスブルクの兵士たちが給与未払いで暴動を起こし略奪を行い町をずたずたにした。「スペインの怒り」と通称されるこの惨劇で数千人の市民を傷つけられ家が壊された。これ以後はアントワープは交通と貿易の要所であったこともあり強硬的な反ハプスブルクの拠点となる。都市の人口は10万前後がいたと言うのだから近世では大規模なものだった。

パルマ公の作戦進展

 パルマ公は当面の作戦の目標地点としてアントワープへまとを絞り込んだとされている。
 (この作戦のみで戦略目標が達成されると考えたわけではない。)
 対するウィレムもその重要性には気づいていた。

 そのために段階的な行動を行うパルマ公が手がけた最初の攻勢はマーストリヒト市の攻略であった。ここは低地地方の交通の要所であり、尚且つ後述する後方連絡線(スペイン道)の通過点である。

 1579年1月に野戦軍29000人を先発させマーストリヒト市へ向かわせた。続いてパルマ公本人は10000人を率いてアントワープへ向かうそぶりを見せた。これは自らを囮にした陽動である。ウィレムがアントワープが作戦目標にされていると気づいていたからこそ、その前の段階的作戦目標の達成のために利用したのだ。
 ウィレムはアントワープを固めるのに注力したためマーストリヒトへは充分な救援を送れなかった。パルマ公は会戦をすることなく行軍のみで見事にウィレムの本隊を拘束した。

 ただマーストリヒト攻略はスムーズにはいかなかった。最初の砲撃後の突撃は失敗し大きな損害をだしてしまった。7月29日に城壁の割れ目を見つけ攻略に成功した。この際にも略奪と殺戮が記録されている。
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<80年戦争初期の変遷_中央2つがパルマ公の時期>

 パルマ公は続いて海岸部の都市ダンケルク、ニューポールトを包囲し占領。海岸港湾の制圧は諸外国からの敵への援助を遮断するという狙いのためであった。しかも逆にスペインとの海上連絡線をある程度保証できるようになった。
 次にイープル、ヘント、ブリュージュ方面へ軍を展開し、次々と陥落させていった。メヘレン、ブリュッセルなどもそれに続いた。
(1584年7月、この危機の最中にユトレヒト同盟の指導者オラニエ公ウィレムは暗殺されてしまう。)

 そして1584年夏にパルマ公はアントワープへ軍を到着させた。

後方連絡線_スペイン道

 ところでアントワープ攻城戦を述べる前にそのための準備としてパルマ公が周辺地域制圧と並行して行った補給改善の試みを紹介したい。

 主な連絡線の1つは海上ルートである。海上輸送ならば場所次第だが低地地方へ向かうなら時に200km/日の航行速度をだせたと言われている。上述のようにパルマ公は南沿岸部を制圧し北部へ向かう際の港湾として利用した。

 ただし厄介なことに、ユトレヒト同盟の海軍(後のオランダ海軍)はかなり精強であった。もちろんレパント海戦でその名を世界に轟かせたスペイン海軍はあったが、広大な領土各所に分散ししかも財政破綻が追い打ちを掛けており、集中運用ができる相手には主導権を奪えずにいた。
(かといって海上が完全封鎖されるということでもない)

 2つ目は河川ルートであるが、これも海上と同じでユトレヒト同盟の影響力は強かった。艦隊が海からある程度さかのぼってこれたためだ。アントワープはまさにこれに該当し、市の連絡線を確保していた。周辺都市を抑え上流からは阻害させる試みをしているが完全ではない。近世の例にもれず水上輸送はパルマ公の軍を養うための非常に重要な要素で有り続けた。

 そして3つ目、低地地方の戦役で特徴的なのが「スペイン道」(Spanish Route/Road)と通称された陸上連絡線である。
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 スペイン道は欧州をイタリアからドイツを通って低地地方まで文字通り縦断する通路であった。これは広大に欧州各所に点在するハプスブルク領土とその友好領邦を連結させることに着目し整備が始まった。
 ミランからフランドルまでの総延長は1000kmに及び1567~1620年のハプスブルクの戦役での補給だけでなく貿易まで含め大きな役割を果たした。

 スペイン道は各所に要塞が置かれ警戒網を敷きハプスブルクの権威と軍事力で比較的略奪や強盗が少なく済んだ。

 構築を始めたのは女性として低地地方総督となった前パルマ公妃(本稿のパルマ公の母)の時期であり、派遣されたアルバ公が運用を始めている。
 これをパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼは整備して活用した。ただしこれほどの距離を軍隊が大規模に通るなどということは多い年でも数回、あるいは数年に1回であったと言われている。軍事では情報面と経済面のほうが機能の主であった。

 パルマ公が各都市で兵糧攻めを複数行い成功させた背景にはこのスペイン道による兵站改良があった。23km/日の荷駄の速度がスペイン道が機能した際はだせたと述べるものもいる。
 アントワープ攻城戦もまた色濃くその効果がでたとされている。

アントワープの状況

 アントワープは大都市でありかつ陸上と水上の交通が非常に充実した場所である。8~15万人の市民を抱えている。ユトレヒト側の総督としてフィリップス・マルニクスが着任していた。彼はこの戦いの実質的指揮官である。
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 防備は頑丈な城壁と堀、稜堡式城郭が組み合わさり、しかもスヘルデ川が通っていた。この川は上流で様々な河川や運河と合流しており、下流では北海に通じていた。船により川の水運と海からの海運が両方望める好立地である。オランダは軍船が精強であるためより効果的であった。

 加えて言えば最終手段として知られる運河の決壊からの水攻め策を行える条件が揃っていた。ただウィレムはかつてやろうとしたが住民の反対でできなかったとされる。

 攻城戦では兵士の数は攻め手のほうが多い場合がほとんどであるため、補給戦では守り手のほうが有利なことがある。当時の陸上輸送の効率性では数万の軍を一箇所に長期に留めるのは非常に困難だった。ただし市街全域を囲む城郭タイプであると非戦闘員の市民が多数含まれることになり、全体総数では攻め手よりも多いことも珍しくはない。アントワープはこれに該当した。

アントワープ攻略戦開始_周辺制圧と築城 [Battle of Antwerp]

 アントワープ攻略戦が始まった。パルマ公はまず12000人の部隊でアントワープの敵軍を拘束し、他の部隊で同時並行でアントワープ近郊の拠点(橋や港、町々)を制圧していった。これまでの作戦方針をより狭い領域でも一貫したと言える。
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 ウィレム存命の頃から入念に準備されていたアントワープ防衛は下手に城門を破ろうと兵士を近づければ大損害を受け失敗するとパルマ公はこれまでの経験からわかりきっていた。

 アントワープ市街への直接的攻撃手法は既にスタンダード化していた築城方式である。兵士で包囲するだけでなく、攻め手のパルマ公は大量の土木工事を行い、小規模の要塞や塹壕、土盛りを城の周りに建設し封鎖線を明確に構築した。

 主に敵連絡線を完全遮断すること、兵士で広域に包囲しては薄くなりすぎるので築城で補う目的、そして城壁への砲撃用にジリジリと前進する拠点を造るためであった。(砲撃が届く箇所まで塹壕を掘って攻撃を受けないように進んでから、そこに砲撃陣地を構築する。)

 これにより各都市を陥落させてきたのだが、アントワープにおいてはこの周辺築城と砲撃の開始は攻城戦の第1段階であった。

スヘルデ川連絡線遮断の土木工事

 アントワープ最大の補給路はスヘルデ川であった。これを遮断することはこれまでより難しかった。
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 川の上流沿岸を制圧し要塞を築き砲台を置くまでは同じである。ただ下流の海に繋がる方面が厄介であった。

【難所スヘルデ川】

 まずスヘルデ川はかなり大きな河川であり、両岸の砲台は距離が空きすぎた。これでは川を封鎖するには心もとなかった。更に厄介なユトレヒト同盟の海軍が河口から入ってきて攻撃を行ってきたのだ。砲門を多数揃えた艦隊がすばやく移動して、固定された陸上砲台をなぎ倒した。そして悠々とアントワープへと補給を続けたのだ。

 いくら河川上流からの補給を手に入れ、スペイン道で陸路補給を補強していたとはいえ、パルマ公はこの下流路を遮断しなければ補給戦で勝ち目はなかった。加えて兵士の増援もここから効率的に行われてしまい兵士の削りあいでも危機的になることは明らかだった。

【要塞橋の建設】

 そこでパルマ公は大胆な、そして一貫した決断を行う。
 河川の船舶交通を遮断する築城をすることにしたのだ。ただし従来の川岸に沿って行うだけではない、川を横断する築城であった。

 彼は橋を新たにかけることにしたのだ。そして橋自体を要塞化し自軍艦隊と連携しユトレヒト同盟艦隊を撃退しようという考えであった。
 これは常軌を逸した方策である。なぜならアントワープからの攻撃を受けずに橋を構築できる位置のスヘルデ下流は川幅300~500m以上の広さ、水深30m以上の深さで、何よりも建設中にユトレヒト同盟艦隊の襲撃が予想された。恐らく幕僚達は反対しただろう。だがパルマ公はこの封鎖線築城を断固として行うと決心していた。

 戦史に残る築城が始まった。まずパルマ公は両岸に星型要塞を構築した。それぞれサン・フェリペ要塞、サンタ・マリア要塞と名付けられた。この要塞は更に増強され砲門を揃えていったがそれと並行して彼は橋の建設に着手した。短工期が文字通り生命線であった。

 川の中央付近は流速が早く水深が深いため杭を打ちこめない。そこでパルマ公は舟を大量に調達し、ある程度両岸から橋桁を建設してから一挙に船を完全にくっつける形で並べ、浮き橋を建設した。
 更にそれを木材で次々と補強・固着していった。この大量の木材は周辺の降伏した都市から調達していた。段階的に周辺制圧をしっかりとしていたことが活きたのである。
 技術力のある大工は足りないためイタリアや北欧などからも招かれたと言われている。スペイン道はここでも使われたかもしれない。
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 この橋は妨害を乗り越え凄まじい工期で完成し砲を備え要塞化されていった。戦史においてパルマ公の名を冠し「ファルネーゼ橋」と呼ばれる。
 軍事で浮き橋は珍しくは無かったがここまでの規模と速度、そしてこれから行われる海軍艦隊との戦いは戦史でも稀なものであった。

ファルネーゼ橋攻防戦

 ファルネーゼ橋が建設されていくのを黙って見ているほどユトレヒト同盟軍はぬるくはなかった。彼らはどんな危険を冒してでも橋を壊さなければならないとわかっていた。

【堤防決壊】

 ユトレヒト同盟は奥の手の堤防決壊作戦をついに実行した。スヘルデ河口周辺に繋がる低地地区の堤防を破壊し水を溢れさせ、これにより効果的にほとんどの河口周辺道路が浸水した。パルマ公の要塞群は沼地の中に点在し孤立するような様相となってしまった。そして用意していた櫂と小型砲を取り付けた小型帆船を使い攻撃を行う。この作戦で度々オランダ独立派はハプスブルク勢を撃退している。 
 だがパルマ公は違った。

 平地浸水作戦での目的はスヘルデ川の占領権を奪い返すことしかない。これを予測していたパルマ公は要塞群を沿岸だけでなく広くそして堅く建設していた。そこにはいくつも練度の高い兵士を配置して孤立と泥沼化した各拠点での戦闘を継続できるように準備していたのだ。封鎖線は壊れなかった。
(以前から住民の反対がありユトレヒト同盟は実際は浸水作戦を大規模に実行できなかったという説もある)

【爆破船と艦隊の投入】

 次に行われたファルネーゼ橋攻撃は爆破船による体当たり攻撃であった。
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 ユトレヒト同盟は惜しげもなく船を消費する覚悟をしており、船に大量の爆薬を積み込み橋に流してぶつけた。この爆発によりファルネーゼ橋は損傷しスペイン兵士が約800人死傷したと言われている。パルマ公は用意していた工事人夫を投入し橋と築城地帯の修理を急いだ。
(この後で堤防決壊をし付近一帯を船が動けるほど水没させたが、別の堤防が海へ船が出るのを防いでいた)
 そして温存していた艦隊をついに投入した。この中にはユトレヒト同盟の「Finis Bellis (End of Warの意味)」と名付けられた巨大な船が含まれていた。これは外洋戦艦というより大量のマスケット銃と砲門を備えた浮かぶ戦闘用プラットフォームのようなものだったと記されている。外洋からもアントワープからも船が出撃してきたため橋付近の築城地帯を挟撃するのような形になったと思われる。
 一連の攻撃は最後の力を振り絞ったものでありしっかりと練られたユトレヒト同盟の優れた戦術であったと言えるだろう。

 対するパルマ公は橋の修理を急がせながら敵艦隊を迎撃した。このような猛撃に対してパニックにならなかったことから入念に対応を指示していたものと思われる。ファルネーゼ橋と両岸の要塞群、そして船はユトレヒト同盟艦隊と激しい戦闘を行った。ユトレヒト同盟軍は艦隊攻撃だけでなく、兵士を上陸させ、要塞間近の堤防を壊して水攻めを更に強めようとした。しかしパルマ公の迎撃準備と兵士たちの抵抗は厳しく中々進展させられなかった。そして転機が訪れた。
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 引き潮が始まったのである。ファルネーゼ橋は河口付近であるため潮の満ち引きの影響は大きかった。橋一帯の戦闘で広く展開していたユトレヒト同盟艦のいくつかが潮がひいたことで座礁してしまった。他の船も大幅に移動を制限されてしまい、オランダの誇る操船技術が発揮できなくなった。
 ここでパルマ公側は反撃に出て、ついに敵突破部隊を撃退することに成功した。

アントワープ陥落

 アントワープ側が包囲を武力で解くことがもはやできなくなった。それでもアントワープの独立派は諦めず抵抗を続けた。これは如何にアントワープの独立の意志が強固であったかを如実に現している。

 だがパルマ公は攻撃に出るときは容赦が無かった。以前の温和な懐柔策とは全く別の顔に彼は切り替えることができた。希望を断つ兵糧攻めが確立した後も砲撃を行い続け絶望を広げた。伝説ではパルマ公は堤防の修理に敵兵の死体を積み上げることすらしたという。
 そして拿捕したユトレヒト同盟の船をわざとアントワープへの攻撃に使い独立派の士気をどん底まで落とした。
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 そして1585年8月17日、耐え続けてきたアントワープはついに降伏した。一年以上に渡ったアントワープ攻城戦が終結した。より広域の作戦全体で見れば数年に渡った攻勢の収束地点でもあった。

戦果とその後

 アントワープの死傷者は8000人に登ったと記録されている。これにより大量の兵員と物資、人口、経済と交通連絡の要衝をユトレヒト同盟は喪失し大打撃を受けた。パルマ公は部下たちに二度とアントワープが敵の手に渡ってはならないとその戦略的価値を再度周知した。
 ハプスブルクの皇帝フェリペ2世はアントワープ奪取の知らせを聞いて感極まり娘のもとに駆け込んで喜んだと伝えられている。
 恩賞としてパルマ公は金融の拠点ピアチェンツァなどを与えられた。
 パルマ公はこの戦役で戦史に不朽の名声を残したのだ。

 だが独立派はこれでもまだ諦めるわけにはいかなかった。その決心は揺るがなかった。彼らは追い詰められていたが抵抗を続け、外交に訴え各地からの支援を再度求めた。低地地方をハプスブルクが制圧しきると諸外国はその力が増しすぎることを懸念していた。ただこの状況は逆転が難しく見えたため大規模な援助は減り始めていた。

 だがパルマ公が次の低地地方制圧戦役を始める前に、宮廷からの戦略そのものを大きく変更する命令が届いた。歴史に巨大な影響を与える判断をフェリペ2世はしていたのだ。スペイン宮廷は以前から対立が深まっていたイングランド攻撃を望んだ。

 1588年、アルマダの海戦。スペインの大艦隊はイングランド艦隊と雌雄を決する。
 そしてパルマ公の低地地方攻略戦争は終わりを告げた。
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ここまで長い長い拙稿を読んで頂き大変ありがとうございます。
この戦いはやや伝説に彩られた所がありますので各書籍ごとに楽しむことができます。

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参考文献
前田伸人,(2012) "アレッサンドロ・ファルネーゼ下の低地諸国"
Friedrich Schiller,(1897),"The Revolt Of The United Netherlands: With The Trial Of Counts Egmont And Horn, And The Siege Of Antwerp"
Jenks, Tudor,(1909),"The Book Of Famous Seiges"
Wilson, Peter H. (2009). The Thirty Years War: Europe's Tragedy
フリードリッヒ・シラー著、丸山武夫訳, (1949) "オランダ独立史"

サイト
https://web.archive.org/web/20091026202818/http://www.geocities.com/losterciosespaoles/amberes.htm
http://www.poetsandprinces.com/?cat=206