マニューバにおいて迂回は年月を経るごとに重要性を増し、あるいは重要視されるようになってきています。

 西欧の近世と呼ばれる時代、野戦築城は既に一般化し強大な効果を会戦にもたらしていました。迂回はそれを攻略するための極めて有効な対策手法として戦史に姿を見せてくれます。本稿はその戦例の1つ、17世紀末に行われたボイン川の戦いについて記述しようと思います。
Battle of the Boyne_迂回と包囲 の戦例

 アイルランド史において最も重要な会戦の1つであり、イギリス政治史で議論が近年進むジャコバイト関連ですが軍事面以外は概略となることご容赦下さい。

戦争の背景_名誉革命

 ボイン川の会戦は清教徒革命に続く名誉革命とそこから発生したウィリアマイト戦争の一部である。
清教徒革命 イングランド政府内でクロムウェル率いるプロテスタント系の派閥が中心となり国王チャールズ1世と対決し議会派、王党派、長老派、その他多数の派閥が入り乱れた内戦が勃発。最終的に国王が処刑され清教徒革命政体が生まれるとアイルランドは試練を迎える。カトリック系であり独立した利権を持ち以前から軋轢を産んでいたアイルランドはクロムウェルの標的となり凄惨な軍事侵攻を受けた。

 厳格なクロムウェル死後に共和制は反動を受け王政が復古する。しかし先王と現王ジェームズ2世が権限を議会へ移行をせず、かといって王権で強引に進められるほど社団との相互体制構築計画も無い不安定な状態で様々な政策を行わなければならなかった。特にイングランドで主流派となったプロテスタント系に対しジェームズ王が支持するカトリック系の保護・融和政策は火種となった。宗派争いに加えて社会経済の変動、地方利権、人間関係、そして何より議会と王権のバランスといった難題は未だ解決を見ておらず復古王政は再び政変を迎えることとなる。名誉革命である。
 同じ王族のメアリー2世はオランダ総督ウィリアム3世と結婚しており、彼女を招致して新王が誕生した。名誉革命はイングランド内においては無血に近いスムーズな交代が行われる。ただここで議会主派閥の誤算が2つ判明した。それはイングランド周辺に血まみれの戦争を生むこととなる。

ウィリアム3世とジェームズ2世の争い

 1つ目の誤算はウィリアム3世の強烈な意志である。
ウィリアム3世 イングランド議会にとって王位継承権を持つメアリーを女王として戴き、彼にはあくまでその夫・王配として座ってもらうつもりだった。しかしウィリアムはオランダにて精力的に活動してきた傑物である。目の前に強大な英国王権があるのに動かないほど薄弱ではなく、その上英国の力がほしい理由があった。巨大な商業利権のために英仏ハプスブルクから狙われるオランダを護るためである。
 彼は故郷オランダに対しかなりの愛郷心、あるいは伝統の一族としての義務感を持っていた。1672年、仏蘭戦争が進展しオランダ制圧危機が現実味を帯びた際に、降伏を促すフランスの将が「貴方はオランダ共和国滅亡の生き証人になるでしょう」と脅迫まがいの言葉を投げるとウィリアムは「1つそれを避ける方法がある。共和国を守るために戦い死ぬ最後のオランダ人になることだ」と返答した逸話が残っている。

 彼は若き日から各地を駆け回り外交を行った。英国との関係を収束させると逆に対仏同盟の構築に動き、並行して頻繁に軍の直接指揮をとる将軍でもあった。そんな人物にとって英国の政変はチャンス以外の何物でもない。彼は「女王の夫」ではなく「英国王」として扱われることを議会へ要望する。イングランド内では議会の力は強く簡単にはいかなかったが、巨大な権力を少しずつ手にした彼は英国構成諸国を掌握して英国王としての地位を事実上確立しようと企図した。アイルランドはそのための重要地だったのだ。彼の支持者はウィリアマイトと呼ばれた。

 2つ目の議会の誤算がジェームズ2世が英国王位を諦めず、その支持者が各地で抵抗したことである。
ジェームズ2世 フランスへ亡命した後にポーランド王になるよう要請されてもそれを拒否し、あくまで英国王としての自分の存在を貫いたのがジェームズ2世である。彼が英国から去ったのは一時的なものであり捲土重来を期して自分の支持者を集めていた。フランスのルイ14世と懇意にしておりその支援も取り付けていた。名誉革命への反対勢力は総じて(ジェームズのラテン語を語源とする)ジャコバイトと呼ばれたが、彼の復帰支持者だけでなく各地方の独立利権や宗派対立から戦争に加わった者が多数いた。

 アイルランドはカトリック系が多勢を占め、イングランドからの独立自治を求める意志が強い地域であったためジェームズ2世の最大拠点となった。
 1689年、ウィリアマイト戦争の始まりである。

ティアコネル伯のアイルランド掌握

 アイルランドにおいて実質の統治者はティアコネル伯という人物である。
ティアコネル伯 彼は清教徒革命の頃から対イングランド戦役(アイルランド同盟戦争・クロムウェルのアイルランド遠征)で戦場に姿を現していた典型的なカトリック系将軍である。16人兄弟の末子であったためか身を立てるために軍人という職業を選んでいた。各革命ではいずれも旧王党派に属し、アイルランド内で権力を伸ばしたりフランスへ亡命し協力者を募るなどしていた。ジェームズ2世が最初に即位した際にはこれまでの働きを認められアイルランド副総督となると、現地系貴族の利権を拡大させるなどアイルランドのために動いていた。

 名誉革命が起きるとすぐさまジェームズ2世支持を明確にしウィリアム・イングランド議会派に対し従わない意志を明確にした。アイルランドは一枚岩でなくウィリアム派も当然いたため彼らを倒しアイルランド全土を掌握するため動き始める。
 全土で募兵し数を揃えると一挙にアイルランド南部・西部・東部を支配下に置く。イングランドから敵が動いてくる前に現地同士の争いを収束させる作戦であった。加えてジェームズ2世がフランスから数千の兵士を引き連れ到着したことで攻勢が強大化した。それでもウィリアマイト側も必死で抵抗し残る北部の侵攻を遅らせた。北部アルスター州の都市ロンドンデリー包囲戦が長期に及んだ末に失敗するとティアコネル伯の攻勢は減衰する。

ウィリアム3世の上陸と侵攻の始まり

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 アイルランド北部にいたウィリアマイト側の将軍はションバーグ公爵である。彼はドイツ生まれの各国に雇われきた職業軍人であった。30年戦争でかのネルトリンゲンの戦い参加すると続いてフランスの大騒乱フランドの乱鎮圧へ加わりその後もポルトガル王政復古戦争で対スペイン、仏蘭戦争で対オランダと戦歴を積み重ねると名誉革命でウィリアムに従い英国へ上陸し公爵位を得た。

 両者とも老獪な将軍であったため安易な衝突を避けていたが全体としてティアコネル伯が上手だった。攻勢が止められた後もションバーグ公爵はティアコネル伯の散発的な動きに振り回され兵数も補給も足りずアイルランド制圧作戦を進展させることができずにいた。

 それを見たウィリアム3世は自ら軍の直接指揮をとることにした。
 1690年6月14日、ウィリアムは大軍とともに上陸した。追加の軍は1万6000人を越し補給も大規模に艦隊が実行した。オランダとイギリスという2大海軍大国の共同体制は海運においては安定をもたらしていた。
 アルスター州を中心とする北部の足固めをまずウィリアムは行い、それから再度兵士を集結させ南進する作戦方針であった。
 対するティアコネル伯とジェームズ2世もそれを理解しており呼応していた。

ウィリアマイト軍の集結と南進

 2人の王は各々の軍隊を急ぎかき集めていた。アイルランド北西のローブリックランド市で元からいた2万人の各部隊と待ち合わせることにしたウィリアム3世は、軍が充分に集結しきるまで兵士たちを自ら根気よく訓練していった。窃盗は厳罰に処されたという記述に代表されるように当時としてはかなりの規律をもたらしていた。こういったことを無理にすると兵士が不平不満を溜め込み果ては逃亡してしまうこともあるものだがウィリアムは対策を練っていた。彼は膨大な軍資金をイングランドから運び込み気前よく配給をしていたのだ。ただ支払われるだけでなく、遅滞なく払われるということは雇用側と被雇用側に信頼関係をもたらし、兵士たちも規律を守る意義を見出した。この点は明確にジャコバイト側よりも勝っていた。ただしジャコバイト側には宗教的な対立心と郷土を侵略者から守るという意識がありその点ではウィリアマイトには無い性質だった。

 その後ウィリアムの宿営地に続々と人が増え思っていたよりもスムーズに進んでいった。
 この頃にはウィリアム指揮下の兵たちはしっかりとした宿営と訓練、配給により皆が親密になり顔や声を覚えていた。

ウィリアムの南進 6月24日、全軍がローブリックランドを出立し南進した。会戦を挑むに足る軍になったとウィリアムは自信を得たのだ。ションバーグ公爵やその他幕僚達はもう少し遅らせるべきではないかと意見具申したがウィリアムは「脚元で草を伸びさせるためにアイルランドに私は来たのではない」と返した。

 英国民はここまでの戦争の進捗に満足していない。彼は急激かつ広範なる軍事的成功が仲間の熱意を取り戻させ且つ敵の士気を抑えつけることになるだろうと考えていた。それがこの戦役を決定づけ、終局的には王権争いと宗教的対立を内包するジャコバイト、郷土的自立を求めるアイルランド自治派を打倒する戦争の成功へと繋がると期待した。その後は強大な国力を持ってフランスと雌雄を決しにいくことができる。
 また、1年以上に渡り戦闘や行軍に晒されたアイルランドの村落は兵士と盗賊によって深刻な荒廃になりつつあった。

「ごく僅かな野生動物を除いて、誰も食料を道沿いに見つけられることはなかった。食べ物でなく麦の殻だけがあり、ホコリと灰の中でそれを鶏のようにつついて中身を探していた」
Thomas Hanna著 "Battle of the Boyne"より抜粋

 上記の要因により速やかなる戦争終結のための決定的勝利が必要であり、そのためにウィリアムは決戦を行う作戦方針とした。
 この時期の欧州は大規模な会戦による決戦主義とは少し違い、相手の補給を脅かす行軍と兵卒の集結により領域・陣地を間接的に奪い合う形態が戦争の長い期間を占め、行軍戦の終局として会戦となることが多かった。ただ勿論そればかりではない。今回ウィリアムは正面から敵重要拠点または主力軍へ接近し決戦を半ば強制することを望んだのだ。その代償として敵が優位な地形と陣地で待ち構えている地で戦うことを許容した。

ジャコバイト軍の迎撃作戦方針

 ジェームズ2世は元々の作戦方針として東部レンスター州と北部アルスター州の境界に広がる平野部で会戦しようとしていた。しかしこの作戦は結果として放棄されることになる。フランス陸軍大臣ルーヴォワ侯の忠告を受けていたフランス代表者は、焦土作戦などで本隊非接触のまま損耗させることを狙うファビウス作戦を考えていた。ただしそのためにはアイルランドの要衝ダブリン等を戦わずして放棄して大規模な後退をする必要があった。ジェームズ2世は実行するか悩んだ。ティアコネル伯も現在のアイルランドとイングランドの情勢で現実的に可能か見極めるのは難しかった。

 6月22日、とりあえずの行動としてモイリーパス(Moyry Pass)でウィリアマイト軍の先遣隊に対し待ち伏せ攻撃を行い削った後すぐに離脱し会戦には持ち込ませなかった。それからすぐにダンドーク市にウィリアムの近衛が現れたと報告が入った。そのすぐ南の重要拠点アーディー市が狙われているとしか思えなかった。ションバーグ公爵の部隊と一夜の距離でウィリアムは宿営していた。

 そしてウィリアマイト側は前進を続けた。だがジャコバイト側もまた後退し続けた。
 6月30日、月曜の朝。3列縦隊で行軍するウィリアマイト軍はラウス州の南境界へ着く。視界の先にはボイン川が流れていた。ウィリアムは川から8kmの地点で一度状況を確認する。
 そこで彼は望み通りの光景を目にしていた。ボイン川対岸にはジャコバイトの大軍の姿があった。ジェームズ2世はここで会戦を選んだのだ。ただしファビウス作戦を完全に切り上げたわけではなく、この優位な対岸築城陣地ならば会戦を避ける可能性もあった。
 ウィリアムはドウグラス将軍に戦列をまず中央オールドブリッジ付近に揃えるように命じた。15:00には野戦砲が渡河を支援できる位置に並べられていった。

地形と気象、戦力

【地形】

 ボイン川流域のドラハダ街の西域が戦場となった。その手前は小高い大地になっており眼下には豊穣で陽気に包まれた渓流が広がっていた。野は湿り木々が茂り花が覆い、緩やかに傾斜しその先にボイン川がうねっていた。川の各所には橋があり、浅瀬や中洲も点在していたが詳細はウィリアムには渡っていなかった。ただし川が曲がり突出型となる地点(オールドブリッジ村)は浅瀬があり渡れることは明確だった。その東にあるドライブリッジ村の流域は渡河は容易ではないがわずかに可能性がある。
 しかし川を西に行った先はより岩や木々、沼沢があるため戦闘はおろか行軍すら厳しい地点が存在していた。この地点(Lougher River)は両者ともに予定主戦場(オールドブリッジ村)から遠いため偵察が充分にされていなかった。
Boyne map

【気象】

 1690年7月1日の天候は晴れており風も強くはなかった。
 気温も穏やかな初夏であり、最高気温でも20度程度の涼しい環境である。

【ジャコバイト軍戦力】

総数:24000大砲18門)
 総司令官:ジェームズ2世
  北面前線指揮官:ティアコネル伯リチャード・タルボット
  西面前線指揮官:ローザン公爵
   フランス派遣部隊将校:ラウゼン卿
_________
 ジャコバイト軍編成は雑多であった。ジェームズにとって確固たる信頼を置けたのは400名の近衛将兵のみで、他は士気はあっても組織としての機能性は全く保証されていなかった。それでもフランス騎兵とアイルランド歩兵には素晴らしい兵が一部おり、第3部隊としてある程度集中させていた。

 歩兵部隊の編成比は様々であったがおおよそマスケット兵:パイク兵=3:1である。ボイン川の戦いはパイク兵が銃兵を敵騎兵の突撃から護るために大隊に組み込まれ戦列を作る形態のイギリスにおける末期戦であるとされている。各大隊内の最後の中隊にはフリントロック式の銃がマッチロック式の代わりに支給されていたがアイルランド兵はマッチロック式を多数保有していた。
 フランスまたはアイルランド系の兵士は白いバッジを帽子に付けて敵味方の識別に使われた。
 川岸に施した野戦築城とティアコネル将軍の部隊がジェームズの頼みの綱である。

【ウィリアマイト軍戦力】

 総数:36000
  総司令官:ウィリアム3世(左翼及び予備隊指揮官兼務)
   中央部隊指揮官:ションバーグ公爵
   右翼部隊指揮官:メイナード(ションバーグ公爵の息子)
________ 
 ウィリアム側で最も多いのはイングランド系部隊で約半数を占めた。彼に同情的でルイ14世に敵対するカトリック系兵士も含まれていた。
 銃剣は段階的な導入時期であったとされている。ウィリアマイト側は多数の部隊がフリントロック式銃を導入していた。当時のイギリスの兵の場合、マッチロック式は一分間に2発(多くても3発)の射撃速度であった。一方でよく訓練された兵士がフリントロック式を使えば4発(または5発)撃てたと述べられている。
フリントロック式
マッチロック式
   <フリントロック式>      <マッチロック式>
 これがどの程度正しいか断言できないが、ウィリアマイト側が斉射速度で勝っていたとする見方で統一されている。

ボイン川の戦い_初期配置

 ジェームズは少し川から南へ離れたドノレの丘に宿営地を置いた。ボイン川正面には柵などの野戦築城をフランス人技師たちが施していた。
 土盛りした堡塁を水際に作りティアコネル伯はそこに陣取って間近から敵を観測した。そしてオールドブリッジ村周辺とドロヘダの橋で防御陣地を施設していった。また陣地の西側のスレインにある橋を破壊し側面攻撃をされないように予防した。
Battle of the Boyne_初期配置概略

 ティアコネル伯は自軍の少なさと高くない練度に基づいて、下手に動かずに敵を待ち受け川岸陣地を堅実に守り、損耗しながら渡河してきた敵を後方部隊の投入で川に突き落とす戦術を選択した。

ボイン川の戦い_右翼迂回

 対するウィリアムは望んだ決戦に持ち込めたので主導的に攻勢に出る決意をしていた。
Crossing Point_Oldbridge & Drybridge_1st phase
 戦闘方針は、まず優越する砲の支援下でオールドブリッジとイエロー島の間から中央部隊が渡河していくというものだった。この渡河のために部隊移動は小渓谷により一部隠されるのも好都合であった。
 ショーンバーグ公爵が中央大部隊を率いる手はずであり、その戦況に合わせてウィリアムの左翼部隊が続く形とされていた。
 渡河は偵察後、計画通りにいけば最も川が浅くなる時間帯の09:00に開始される。

 ただこれだけでは渡河可能地点が限られているせいで一部の逐次投入となってしまうのはわかっていた。ジェームズ2世の狙いもそこだろう。以上を踏まえウィリアムは兵力を有効活用するため、少々危険を冒し大胆に主導権を奪いにいく決断をした。右翼部隊の迂回である。
Battle of the Boyne_迂回企図
 衝突が始まる前に右翼指揮官のメイナード将軍に命じ別働隊を編成すると本隊から分離、敵主力陣地には向かわず南西に突き進ませ、敵のはるか後方の位置で渡河させてしまおうというのだ。この渡河位置には距離があるため独立行動、状況次第では敵大部隊と戦闘できる数が必要であった。

 狙いは別働隊が迂回し敵後方へ回り込むことである。それにより、もしジェームズが気づかなければそのままドノレの丘にあるジェームズ自身の陣地を攻撃でき、続いて川岸の陣地付近で完全な挟撃に移れる。あるいはこの一帯の道路の結節点となっている南方のデュリーク街(Duleek)を襲撃し後方を完全に遮断する。慌てて後退してきた敵を本隊とともにいずれかの地点で挟撃に移れるだろう。
 ただそこまでジャコバイトの偵察が稚拙かつジェームズの反応が遅いというのは楽観的すぎる。別のパターンをウィリアムやメイナード将軍は想定していた。

 実際の推移を追っていく。
 右翼別働隊は対峙していた位置から南西へ進みロスネアリー(Rosnaree)の地点でボイン川を渡河・攻撃を開始した。この位置にはジャコバイトの小部隊が警戒しており、騎兵指揮官はオニール卿と言った。
 「メイナード将軍は擲弾騎兵(Horse Grenadiers)100騎を浅瀬へ敵の射撃をひかせるために行軍させた。近衛ドラグーン連隊と共に彼が前進すると、敵の銃砲が火を吹いた。メイナード将軍は川岸からなんとか渡ろうとする。ジャコバイト騎兵1200騎が接近してきた。しかし将軍は敵火力が攻撃後に減衰しているのに気づき、ドラグーン部隊を呼び浅瀬を奪取するよう厳命した。剣をその手に彼がドラグーンの先頭で川の中へ飛び込んだ。敵へ見事に突撃しその気迫で敵を後退せると約3km追撃した。そこで敵は戦闘隊形を再編した。」

 オニール卿は砲撃を受けて重症を負い倒れてしまう。彼は一週間後に帰らぬ人となる。この出来事はアイルランド兵たちを著しく動揺させた。彼らの忠節は王や指揮官へではなくその部隊長へ示されていた。彼らは隊長が命じるなら戦闘を確かに行うが、それが失われると指揮系統をすぐに再編する組織性をもっていなかった。その瞬間を掴まれて渡河を許してしまったのだ。
 迂回攻撃は成功しつつあった。

連動した正面の攻勢開始

 中央のションバーグ公爵率いる部隊も攻撃を開始していた。彼らは数が減ったが主導権を握り続けるために果敢に前進する。渡河攻撃が始まった。
battle of boyne_中央部隊の攻勢と拘束
 加えて、左翼のウィリアム直下の主部隊も東のドライブリッジ村で前進を始めていた。中央部隊はすでに渡河を始めている。音楽隊ドラムを響かせながら渡ろうとしたが途中で10人が流れに飲まれて音が止んだ。それでも彼らは渡河を再開し中央へ圧力をかけていった。浅瀬を見つけては一つずつ前進していく。

 この北側に残って攻撃するウィリアマイト中央・左翼部隊には実は各個撃破の危険があった。迂回部隊は独立して戦闘できるだけの戦力が必要であったため多くの兵力抽出を為されていたのだ。よって逆にジャコバイト騎兵のように敵の優越する部隊が主導的に渡河し、続いてジェームズ2世の主力まで全力で集中攻撃してくれば退却を余儀なくされるかもしれない。
(ウィリアムは時間が無かったことと攻勢に出るため野戦築城は充分でなかった)
 だからこそ自分たちが主導権を握り続け相手を拘束するために積極的な攻勢に討って出ていたのだ。それに全体の兵数は充分に優勢であり分離しても一瞬で各個撃破されるほど少なくはなかったというのもある。

ジェームズ2世の反応_部隊抽出

 ジャコバイト偵察が敵迂回部隊の動きを急ぎ伝える。ジェームズはこのウィリアムの迂回攻勢に対して備えていなかった。彼は報告を聞いた時、この迂回が何をもたらすかを想像して狼狽した。挟撃を受けるか、後方を絶たれるか、あるいはその両方か容易に思い浮かべることができたのだ。

 ジェームズはこの危機に対処するため大きく自軍位置を変えさせた。即ち大部隊を抽出して後方を防衛するために向かわせることにしたのだ。
Battle of the Boyne_迂回と抽出 ティアコネル伯へこの自軍左後方への脅威に対応するとの連絡が下った。ローザン公爵の部隊が西方部隊になり移動していく。これは彼をひどく困らせることとなる。なぜなら自軍右翼部隊の更に右側へ向かって敵が進んでいるのが既に見えていたからだ。それでもジェームズの決心は変わらず、結局は宿営地のドノレの丘から2方向へ伝令を送り戦う状況になってしまった。
 ただの2箇所での戦闘ではなく、用意していた陣地から大部隊が引き剥がされて急遽想定外の場所で戦うことになってしまったのだ。これこそがウィリアムが考えていた迂回の効果であった。

 この時ジェームズは西後方の敵部隊が主力なのか、それとも北面の渡河部隊が主力なのかその脅威を適切に判断しなければならなかった。結論として彼は西後方の部隊により大規模な戦力を送ることとした。
 これはウィリアムにとって好影響をもたらした。当時の大砲を運搬し高速の移動というのは難しく、北側にウィリアマイト軍の砲兵の大半が配備されているのだ。実際に既にオールドブリッジ村へウィリアマイト軍が多くの砲火を解き放っていた。ジャコバイト軍は18門の砲が有ったがそのうち2/3はこの迂回対策で戦線正面から抽出されてしまい川岸には6門しか残されないこととなった。このためウィリアマイト軍砲兵隊は脅威から解き放たれ自由に目の前の敵歩兵連隊へ砲撃をできるようになってしまった。

 と言ってもこの地点のジャコバイト兵たちは決して沈黙させられることなく、川岸の土手に身を隠しながら川を渡ってくる敵兵へ射撃した。射撃に晒されてしまったオランダ人部隊には幸いなことに、敵マスケット銃の射程外であったためほとんどあたることはなく、逆に装填のすきをつき銃剣突撃を敢行した。この際に銃剣がパイクやマスケット兵のどちらの兵科の性質も示せるということを実感したと言われている。

両者の誤算_沼沢地での戦闘困難

 ウィリアム麾下の部隊がグローブ島から渡河した。それを見たジャコバイト軍前面部隊は迎撃を即座に発起する。しかし少しせき止められていた水が解き放たれ、渡河している彼らに激突し、ジャコバイト軍の反撃を挫けさせた。ジャコバイト軍川岸部隊の後退が始まった。彼らは武器を投げ捨て逃げ出すなどはしなかったが隊列は完全に乱れきってしまう。何名かの歴史家が述べるように、彼らは勇敢だったが経験が足りていなかったのだ。

 11:30時点で右翼に居たティアコネルは中央軍が川岸から徐々に押し込まれているとわかった。
 ティアコネルは己の部隊を投入した。彼自身の騎兵連隊とジェームズ王の近衛隊である。騎兵たちが丘を駆け下りていき緩やかに加速しながらウィリアマイト軍へ近づく。戦場に広がる煙を突き抜けジャコバイト兵たちが距離を詰めた時ウィリアムの近衛部隊の銃列が火を吹いた。この突撃は失敗に終わる。ジャコバイトの騎兵達はたまらず後退し再集結した。それを見てウィリアムの軍は川を越え押し続ける。

 この時点までに状況は混迷を極めつつあった。
 ジェームズはティアコネル伯から北面崩壊危機の報告を受けていた。ジェームズは必死に己の考えと実際に起きていることをすり合わせていた。敵の優勢な兵数はどちらも主攻になりうる。彼が有力と思っていたのは真北で川を渡ってきているウィリアマイト軍は陽動で、主攻はジェームズの南西後方から来るという攻勢だった。

 だが現実は真逆だった。それは実際の所ウィリアムにとっても誤算となる事象から決定していた。

 メイナードの右翼別働隊はLougher River周辺のラフグレンジ(Roughgrange)の地に到着していた。ただその名の通り土地は荒れて、沼地の沢が広がり軍が通行するにはあまりにも困難な場所だった。この付近でジャコバイト側は迎撃をしようと展開していたが、両者ともに戦闘に移れない。メイナードはそれに気づくと南側から回り込める道がないか急いで探し始めた。想定外に時間がかかってしまった。
 結果的に見ると、この地点での防衛・遅滞ならばジェームズはもっと少ない兵数で充分こと足りたはずだったのだ。そして大砲等の主力はあくまで北面に差し向けるべきだった。少なくともウィリアムはあくまで北面の自分の部隊が渡河することが決定打になると最初から最後まで考えていた。

ティアコネル伯の北面での反撃

 ジェームズは北にいる彼の軍が南西後方から来る敵に対処する必要が出たらすぐできるように意識を向け続けてしまった。ティアコネル伯は彼の受け持つ北面右翼に対して広がりつつ有る本格的な敵攻勢へ、寡兵が更に悪化した状態で対応せざるを得ない。それでも彼は諦めていなかった。
 ティアコネル伯の激烈な反攻が始まる。
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 前回の不完全に終わった突撃の後、近衛隊とティアコネル伯の連隊は素早く再集結し更に別の騎兵連隊を加え、今度こそ全力の突撃を敢行した。斜面を駆け下りボイン川南岸へ今や大規模な渡河へ移りつつ有るウィリアマイト軍へ突進した。
 敵は野戦築城陣地を押しのけながら渡河して損耗している。そこに後方予備含む移動力を保持する部隊を的確に集中し投入、川を利用し移動展開にとまどる敵を局所的な優位性で撃滅を狙う。これしか可能な最善策はないと決断していた。

 対岸へ渡ったウィリアマイト軍、反撃に出るジャコバイト軍、互いに必死だった。一部は乱戦へとなった。だが後がないティアコネル伯の攻撃は凄まじくションバーグ公爵側が押され始めた。ショーンバーグ公爵は反撃が始められた時まだ北岸にいたがなんとこのタイミングで渡河したという。彼は最初崩壊しつつ有る部下達を見ていた。それから分厚い鎧も無しで渓流の中に騎乗しながら踏み込むと、逃げ散っていた部隊を直接再編していった。見事なまでの勇敢さをこの老将は部下たちに示した。

 だが代償を払わなければならなかった。ティアコネル伯が投入した精鋭フランス騎兵が彼の前に現れる。この適切な敵の攻撃を見てションバーグ公爵は己の長い戦歴の終わりを悟ったという、彼の最後の言葉が記録されている。
敵カトリック部隊を指さしながら彼は叫んだ。
「来い、紳士諸君。そなたらの迫害者がいるのだぞ」
 Thomas Hanna著 "Battle of the Boyne" p32より抜粋

 ジャコバイト騎兵の突撃を受けションバーグ公爵とその側近は討ち取られた

 残りのなんとか耐えているウィリアマイト渡河部隊を尻目に、ジャコバイト騎兵が再度集結し隊列を整え攻撃を行う。ウィリアマイト中央部隊は危機的な状況だった。指揮官が不在で再編に手間取ったが、なんとか渡河した地点を保ち続けた。そこに後続の部隊が川を渡って合流したため戦闘を継続できた。
 だがティアコネル伯の反攻はそれで終わるわけにはいかない。彼は保有していた歩兵隊と残る騎兵予備をほぼ全て投入した。対岸に渡っていた歩兵は斉射して耐え続ける。だが中央の騎兵隊は川を戻り後退してしまった。まだ崩壊ではないため死傷者は少ないが、一度崩れれば急激に増えるのが歩兵戦列である。中央部隊は文字通り瀬戸際だった。

ウィリアムの左翼部隊による片翼包囲

 しかし最後の決定的な1手は兵数に勝るウィリアマイトのものだった。ウィリアム自ら率いる左翼部隊が川を渡り突進を開始したのだ。
Battle of Boyne_中央拘束と片翼包囲
 少し前に、ウィリアム自身も中央が渡河して攻勢を続けるのを確認した後で左翼へ移っていた。目の前の川は激しく流れどれほど渡るのが困難かは明らかだった。何人かが泳いで行こうとしたが悲惨な結果に終わるだけだった。当然である。ここが難所であるからこそ敵ジャコバイト側が部隊をほとんど配置していないのだ。だがそれ故にウィリアムはここを渡河することで生まれる価値を求めた。彼は馬を降り渡河を指揮し、兵士たちは必死で少しずつ浅瀬を見つけていった。そしてついに渡れる道を見つけた。ウィリアムはその際に喘息を発症してしまいあわや溺死となりかけるほど苦しんだという。部下がなんとか彼を岸へ連れて行った。兵士たちは対岸へたどり着き続々と展開する。

 僅かに配置されていたジャコバイト部隊や騎兵の残りが必死で渡河を阻止しようと最後の抵抗を試みたが数にあまりに差があった。ウィリアマイト左翼部隊はついに川を渡りきった。そこから敵右翼側背への攻撃が始まるのは明らかだった。ティアコネル伯はもはや対処することができなかった。中央の激闘で押し負けないため予備を使い切るしかなくもはや手持ちの部隊は存在しなかった。無理やり抽出したら今度は中央が突破されるだろう。川の突出部で丸ごと片翼から包囲されるかどちらかである。
 
 残りのウィリアムの左翼部隊主力が次々と渡河していくのをティアコネル伯は見ていた。彼は的確に状況を判断し、ジェームズへ報告した。
「敵軍は川を押し進みきりました。我が軍の右翼は敗れたのです。」

追撃戦_撤退と遅滞

 川岸での戦闘を収め撤退する時が訪れたのだ。
 ティアコネル伯が優れていると言えるのはこの見極めだったのかもしれない。
battle of boyne_Plan_Single enveloopment
 右翼の更に向こう側で敵が展開した時点で全軍を引かせることを命令した。ウィリアム軍左翼の騎兵部隊はティアコネル伯の側背へ回り込み包囲する狙いであり、その時は目前に迫っていた。だが充分に進展仕切る前にジャコバイトの川岸部隊は後退していったため実際の包囲は発生しなかった。あくまで包囲の可能性の段階で敗北を受け入れたのだ。ジェームズも認めるしか無かった。

 ティアコネル伯は撤退戦を始める。南にある主要防御陣地の1つに壁で囲まれた墓地があった。そこでジャコバイト軍の多くが激しい抵抗を示し、肉弾戦に一部がなるほどだった。混乱が両軍に訪れ同士討ちも発生した。ウィリアム自身が見方の部隊から撃たれそうになったという。
Battle of the Boyne_迂回と包囲
 しかしジャコバイト軍の後退は止まること無く続かざるを得ない。兵士は焦燥し、隊列は崩れ、荷物を捨てて少しでも速く逃げようとした。組織性をより失っており、この際に装備の大半を喪失してしまったことは軍事的に長期に渡り壊滅的な影響をもたらしたとされる。

 彼らは退却を続け、南方のデュリークにある橋へ殺到した。この一帯のボトルネックとなる場所である。しかも大きな橋ではなく6人が横に並べばもう詰まってしまうものだった。
 ジャコバイト軍の部隊長達はいくつかの部隊に見方が橋を渡るまで追撃を足止めするよう司令をだした。これもある程度の成功を収めウィリアムの戦果拡張を押し止めた。しかしそれからも彼らは長い長い退却を続けることとなる。

戦果

ジャコバイト軍
 総数:24000のうち死傷者1500
  (オニール卿とその他将校含む)
    多数の武器弾薬装備を捕獲される
  
ウィリアマイト軍
 総数:36000のうち死傷者750
  (中央部隊指揮官ションバーグ公爵とその側近含む)
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 ボイン川の戦いにおける死傷者数は多くは無いと言える。両軍指揮官とも拙攻や無理な行動はせず早めに見極めていたこと、歩兵戦列が崩壊する寸前で耐えていたこと、騎兵は柔軟に進退を繰り返していたこと、別働隊がほとんど戦闘を行えなかったことなどが要因である。
 この会戦の死傷者の多くの部分が勝敗が決まった後の追撃戦で発生したと記述されている。ティアコネル伯の遅滞はいくつかの拠点で成功したが、それでも熟練度の低い兵士たちの逃走行軍は混乱に満ちウィリイアムの騎兵に捕捉された。

 ただアイルランド人達にとって別の深刻な結果があった。ジェームズ2世がこの直後に船でフランスへ撤退してしまったのだ。おそらくこの行為は取り返しのつかない根本的な民衆支持の喪失をアイルランド・カトリック系にもたらした。確かにフランスへ追加支援を頼みに行くのは必要不可欠であるのだが、あまりにやり方が宣伝・外聞を欠いたと言われる。ウィリアムは戦争の勝利を確信しイングランドへ凱旋していった。ティアコネル伯はアイルランドへ戻るもボイン川の会戦の僅か1年後、失意の内に死去する。
 しかし、先細る一方であったがジャコバイト・アイルランド人たちは抵抗を続けていく。この先実に一年以上に渡り彼らは戦い続けることとなる。アイルランド人の心を折るにはまだ決定的な戦果には足りなかったのだ。その長期化はイングランドにもう一度決戦の必要性を提示する。オーグリムの戦いと呼ばれる次の会戦は凄まじい流血となり、決定的な影響を戦争にもたらすこととなる。

 ウィリアム3世が妻メアリー2世と共にイングランド、スコットランド、ウェールズ、そしてアイルランドの統治者となるのはまだ先のことである。だがイギリス内での憂いが取り除かれつつあることは、英国王ウィリアム3世とフランス王ルイ14世との大陸での衝突が目前に迫ることを意味していた。

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ここまで長い長い拙稿を読んで頂きありがとうございました。次はもっと短く要約できるよう善処します…。
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戦術の小考

 ウィリアムは流石に大陸で大コンデやリュクサンブール公爵という名将たちと戦い続けられるだけはあり、ボイン川の戦いは見事な連携性のある動きでした。

① (早朝)右翼のメイナードが迂回部隊を率いて敵の後方を脅かし敵主力軍を強固な川岸陣地から引き抜く
② (09:00)それを確認すると中央主力のショーンバーグ公爵の部隊が果敢な渡河攻撃を行いまた川岸からも射撃し残存敵部隊をその地点に拘束する。
③ (10:00以降)釘付けにされていることを確認すると同時に左翼を広げる形で小迂回したウィリアム直下11000人の部隊が敵の右翼より更に遠い地点で渡河しそれから側背へ攻撃を加える。

 中央波状攻撃からの左翼による側背へのアプローチは「Hammer」という表現が使われており、いわゆる中央拘束および翼移動部隊の側背攻撃を基本とする鉄床戦術の典型です。ただ今回は渡河地点と野戦築城攻略のために右翼別働隊の迂回が重要な鍵になりました。迂回部隊は沼に阻まれ直接的に敵を倒すことは全くできませんでしたが、会戦での役割を充分に果たしました。
 そしてウィリアム自身は8000の左翼最終予備と共にまだ控えて投入のタイミングを図りました。ティアコネル伯は善処しつくしましたが予備の数が決定的に足りていませんでした。

 また、死傷者の多くが戦果拡張時に発生する事象は一般的な形態です。むしろこの程度ですんだ理由を示すのはいくつも残っている撤退戦闘の記録なのでしょう。

 ここまで読んでいただき本当にありがとうございます。軍事面でのご意見をぜひ聞かせていただけたら喜びます。
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【参考文献】
John Childs, (2007), "The Williamite Wars in Ireland"
Thomas Hanna, (1870), "Battle of the Boyne"
友清理士, (2004), "イギリス革命史 〈下〉 大同盟戦争と名誉革命"
友清理士, (2007), "スペイン継承戦争―マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史"
Browne, Nolan, (1908), "The Irish dames of Ypres : being a history of the Royal Irish Abbey of Ypres ... and some account of Irish Jacobitism, with a portrait of James II and Stuart letters hitherto unpublished"

【サイト】
ボイン川の戦い専門サイト
 http://battleoftheboyne.ie/
King Billy at the Boyne River
 http://warfarehistorynetwork.com/daily/military-history/king-billy-at-the-boyne-river/
IRISH BATTLEFIELDS PROJECT
 http://www.rubiconheritage.com/our-projects/conflict-archaeology/irish-battlefields-project/#lightbox/0/
The Battle Behind The March Of The Orangemen
 https://www.forces.net/news/battle-behind-march-orangemen
An Archaeological Survey of the Battle of the Boyne at Oldbridge, Co.Meath
 http://oldsitehc.info/fileadmin/user_upload/Publications/Archaeology/bru_na_boinne/battleoftheboyne.pdf

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【余談】
 ウィリアム3世は側近の将校たちと自ら川へ偵察に行き、わずか60m強の距離まで近づいた。対岸の敵影を見渡しオランダ人将校が「敵軍は小さなものです」と言った。ウィリアムも眺めながら話す。「彼らは見かけよりもおそらく強大だろう。まぁ強かろうが弱かろうが、その全てはすぐに判明する」
 そこにはウィリアムの自信が表れていた。
 それから彼らは少し離れた場所で馬を降り食事を取りながら敵を眺めた。これは迂闊だった。ジャコバイト軍の2つの砲が彼らを狙い攻撃したのだ。1発の砲弾は1人の将校と馬を何頭か殺害し、2発目が地面で跳ねてウィリアム3世をかすったという。慌てて将校たちは王の周りに壁を作り手当をした。軽傷であったためそのまま指揮を続けたが、ほんの少しずれていたらいったいどうなっていたか側近たちは青ざめていた。

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【メモ】

・『ジャコバイト軍戦力詳細』
2個Life Guard 部隊 = 400人
3個歩兵連隊(1個連隊=53人 x 9個部隊 = 477人)= 1500人
5個騎兵連隊(1個連隊=53人 x 6個部隊=318人)=1500人
3個ドラグーン連隊(1個連隊=60人 x 8個部隊=480人)=1500人
※本会戦でのドラグーン部隊は乗馬歩兵という形式と記載がされている。ただし状況次第でティアコネル伯は乗馬状態で突撃を柔軟にしている
6個ドラグーン連隊(1個連隊=60人 x 5個部隊=360人)=2100人
他にも歩兵連隊はいたがそれらは1個大隊か2個大隊しか持っていなかった。
1個大隊?(=13個中隊 x 1個中隊員数100人)においてマスケット兵:パイク兵=3:1

・『ウィリアマイト軍戦力詳細』
オランダ系の3個近衛大隊はかなりの練度だった。他に9個歩兵大隊、9個騎兵連隊、1個近衛ドラグーン連隊がいた。スコットランド近衛連隊がジェームズ・ダグラス将軍に率いられて加わっている。またイギリス系の19個歩兵連隊、8個騎兵連隊、2個ドラグーン連隊そして2個近衛連隊がいた。これらに加えて7000人の傭兵が揃えられた。また、中央渡河に後続で駆けつけたのはデンマーク人部隊だった。

・カイユボットCaillemot将軍は渡河時に深刻な怪我を負ったが再度突撃を続けた。その際の掛け声が記録されている。
「On, on, my lads ; to glory, to glory.」