1917年末に開始されたロシア内戦は拡大し、ボリシェヴィキと呼ばれたレーニンらの政府勢力は各地で戦線を開くことになります。諸反対勢力の蜂起だけでなく諸外国の干渉は事態を複雑化しました。
 1918年初頭に労農赤軍の創立が正式に宣言されボリシェヴィキは一部で反撃を開始するも白軍や外国軍によって幾度か危機を迎えます。3月にドイツら中央同盟国軍に大規模な領土割譲を認める代わり戦争を収束させるブレスト=リトフスク条約を締結。ただ諸白軍との戦争は続き、しかも今度はWW1の戦勝国が介入を本格化します。ボリシェヴィキはモスクワを中心としながらペトログラード(後のレニングラード)やスモレンスクを保持する領域で耐えロシア各地で支持者が入り乱れます。

 1919年は特に厳しい時期であり、レーニンは帝国時代の首都だったペトログラードの放棄を悩むほどになります。この時ペトログラードへ迫ったのはそれまであまり日の目を見ていなかったバルト三国周辺、特に陥落していなかったエストニアから進む北西軍でした。率いていたのはWW1オスマンとの戦線で活躍したユデーニチ将軍です。彼は連合軍の支援を受け、関係勢力を驚かせる進撃を見せました。
1919_ユデーニチの攻勢と赤軍の反撃

 以下にはユデーニチ北西軍と対したペトログラード周辺の赤軍及びトロツキーについて中心に、その戦闘の一部を鉄道路線に着目しながら記載します。
別記事→【資料紹介_ロシア内戦_戦況図集】に全体図はあります。

 
0_1919春~秋の全体配置図
簡略的なものだがまずペトログラード関連の戦略的状況を列挙する。

モスクワ周囲広域の戦況

 ユデーニチの北西軍が赤軍を攻撃するに辺り、1918~1919年での特筆すべき勢力として下記4つを挙げる。

デニーキン将軍の南ロシア軍(コーカサス北部から拡大、東ウクライナを奪取)=モスクワ南と南西戦線

コルチャーク率いる臨時全ロシア政府軍(ウラル以東のほとんどを支配し西進中)=モスクワ東部戦線

米英仏の北ロシア介入連合軍(アルハンゲラ戦役とムルマンスク戦役)=モスクワ北部戦線

ユデーニチ率いる北西軍(バルト3国周辺)=モスクワ北西戦線

 ※アルハンゲルスクには小規模な白軍の北ロシア軍もいる。チェコ軍団やオレンブルクやウラル・コサック、日本軍その他略。
1918~19191919~1920

 一目瞭然だがモスクワのボリシェヴィキ政府は囲まれている。加えて1918年末にポーランドが再興し西部も油断できない状況である。ただこれらはかなり広域に散らばり道路網の乏しさもあり、直接的な軍事連携はどうしても希薄化した。白軍の大規模進撃でボリシェヴィキが懸念していたものはおおよそ次のようになる。

.デニーキン軍によるドネツ地方の鉄道線を利用したモスクワへの北進

.デニーキン軍とコルチャーク軍の合流を企図したモスクワ南東サラトフへの挟撃、その後モスクワへの北西進撃

.コルチャーク軍によるヴォルガ川域の制圧後、鉄道に沿ったモスクワへの西進

.コルチャーク軍と北ロシア介入連合軍によるコトラス(Котлас)への挟撃、その後モスクワへ南西進撃

 これらは同時に全てが起こり得るものではないし一部は実際のところ不可能だったが、モスクワへの脅威は多くの可能性を持ちトロツキー達を悩ませていた。
モスクワ進撃想定脅威_1918

【南_デニーキンの進展_概要】

 特にデニーキンの南ロシア軍による拡大は著しく鉄道を抑えて次々と赤軍を後退させていた。南からのモスクワ攻撃は現実味を帯び始めボリシェヴィキ指導部は憂慮している。
デニーキンの拡大_1919 元々1919年の春季攻勢は赤軍側が優越する兵力で北コーカサスへしかけたものだった。しかし騎兵運用で知られるランゲリのカフカス軍が赤軍中央の第10軍などを撃退。赤軍主攻であった右翼の軍もマエフスキー将軍麾下の軍が驚異的な作戦を見せて撃退する。これを受けデニーキンは逆襲の攻勢を開始した。

 北東へ進んだヴランゲリ将軍は6月末にツァーリツィン(後のスターリングラード)をついに奪取、サラトフも圧力がかかった。北はヴォロネジ南近辺まで到り、北西はウクライナの要衝ハリコフを制圧して領域が急激に拡大する。デニーキンは具体的にモスクワ進撃を考える段階へ入ったのである。7月に入り北上を目指した攻勢は頓挫し僅かな停滞期間がある。次にデニーキンはヴォロネジ周辺でマーモントフ将軍のコサック軍団を赤軍第8軍と第9軍、第13軍戦線の間隙から滑り込ませ敵後方を荒らし回らせた。
 
 8月に強引に赤軍は攻勢を発動しハリコフ再奪取を狙うが失敗してしまう。そしてデニーキンは兵力を増強し同年後半にモスクワ進撃を狙う本格攻勢を開始する。鉄道と幹線道路沿いに攻勢軸を3つモスクワへ向け両翼にも(実際にできるかは最初から怪しく)助攻として周辺の赤軍を脅かさせた計画である。これによりついにヴォロネジ周辺が奪取されいよいよモスクワが近づいてきた。ハリコフから北上した部隊はモスクワまで360kmのオリョール市まで到達した

デニーキンのモスクワ攻勢計画_1919
Denikin's_Moscow_Offensive

【東_コルチャークの進展_概要】

 1919年前半ではコルチャークの春季攻勢もあった。1918年11月に16万人だったこの戦線の兵力は1919年6月には紙の上であるが45万に増大した。だがこの大軍の多くは装備や軍事サービスを受けられなかった。対する赤軍東部軍集団は36万1千人の戦闘員と支援部隊、そして19万5千人の予備をヴォルガ域に置いていた。(Bullock, 2008, p135)
 赤軍の不意をついて3月4日にコルチャークのシベリア軍、西部軍、南部軍およびコサックが並んで攻撃を開始する。4月末までに数百km前進、しかし攻勢が頓挫していた左翼の南部軍が崩れると、セルゲイ・カーメネフ率いる東部戦線赤軍はそこから一挙に反撃トゥハチェフスキー第5軍やフルンゼ第4軍がコルチャークの中央へ崩れた左翼などから集中的に攻撃し崩壊させる。更に連続して赤軍は攻勢を続け孤立した敵右翼のシベリア軍も後退させた。春季攻勢に失敗したコルチャークの臨時全ロシア政府は以後は守勢に回る。チェリャビンスクや9月頃のトボリスク攻勢では再度反撃をしかけるが最終的に敗北し東へ撤退することになる。しかしこれらの戦闘は赤軍の大部隊を引き付ける役割を果たし他戦線に貢献したのであった。
0_東_コルチャークの攻勢
0_南東_コサックの壊滅
0_東_ウラルへの進撃1919_コルチャークの攻勢と赤軍の反撃成功


【西_ポーランドの参戦】

 1919年前半にはポーランドがソ連との戦争を本格化していた。3月からポーランドの攻勢は拡大しベラルーシへ侵攻し支配域を広げていた。年内いっぱい成功は続きラトビアを流れるダウガヴァ川域に10月に到達している。ただポーランドは旧ロシア帝国版図の復活を望む勢力とは相容れることが無く特に連携が少なかった。


ペトログラード周辺の戦況

 モスクワ加えてもう一つボリシェヴィキにとって最重要な都市が、北部にあり海にも面するペトログラードである。旧帝国首都として各種都市機能を高度に揃え膨大な人口を保有している。更にボリシェヴィキにとって活動発祥の地の1つとして意義深い都市でもあった。ここがユデーニチの戦略目標であった。北西軍は連合国の支援があったがそれでも戦力は少なく、とてもモスクワはまだ考えられなかったためである。

 赤軍が考慮にいれたペトログラードへの進撃の可能性は3つである。

.北ロシア介入連合軍と北ロシア軍による北東から来るルート
.フィンランドが大規模侵入を決断し真北から来るルート
.ユデーニチの北西軍が西と南西から来るルート

 実はこれら3つは実現性は1919年初頭ではどれも低いものであった。

 まず英軍には人員不足という大きな問題があった。(Footman, 1961, p168)
0_北_アルハンゲルスク近辺
 北ロシア介入連合軍は1919年初頭時点で既に行き詰まっていた。Battle of Shenkurskなどで損害は赤軍に与えるも負けに等しい状況で、1919年4月に行われたBattle of Bolshie Ozerkiが最後の大規模戦闘であった。ここでも街道を守り赤軍にかなりの損害を与えたが崩壊はさせられず、削られた自軍を鑑みてむしろ戦線は1918年ピーク時より下がっていた。1919年8月29日に北ロシア軍が小規模な攻勢に成功した際、ユデーニチの計画しているペトログラードへの襲撃に協同するためにミラー将軍はヴォログダ市への進撃へ英国に参加するよう最後の嘆願を出した。(Footman, 1961, p202)
 しかしロシアの北端での戦闘での損害と極限とも言える厳しい寒さ、乏しい道路と鉄道は連合軍に撤退の決意を固めさせてしまっていた。

 次にフィンランド、最もペトログラードに近い勢力だが独立直後のフィンランド内戦を終えたばかりであった。確かにフィンランド赤衛軍が負け白衛の政権となったが、カレリア地峡内で動くならともかく、ロシア領内へより踏み込みペトログラードを落とすというのはフィンランドにとって考えにくかった。
 これら以外にも理由はあるが、いずれにしても1919年初頭時点ではペトログラードはまだ当面は奪取されることは無いと思われた。しかし赤軍が多数の戦線を抱えていることに変わりはなく、まだ軍が拡大する前であったため極めて苦しい状態ではあった。

 そして北西軍だが、ユデーニチがエストニアなど北西の反革命軍活動を本格化したのは1919年初頭であり、それまでは赤軍の反撃で危機に瀕していたこともある。ラトビアとリトアニアは一度赤軍にほぼ制圧された。これを見た英国海軍が赤軍艦隊を押しこんでバルト3国沿岸では制海権を得、大規模な支援を行い3国から赤軍を追い出しにでる。エストニアはまだ赤軍の侵入を比較的防ぎ領土を保っており、反攻の初手となった。エストニアとフィンランドが北の海岸沿いで進撃するに合わせてラトビアとリトアニア軍も赤軍を後退させることに成功する。その後ドイツの介入(ドイツのラントヴェーア Baltische Landeswehr、鉄師団)でラトビアを影響下に置こうとしたことでラトビア軍主力が一時的に対赤軍戦線から離れる出来事があった。戦線推移は次のようになる。

【ペトログラード周辺の戦線状況_ユデーニチ指揮以前】


 1918年9月、白軍北部軍団プスコフ(Pskov=ペイプシ湖南端)に設置される。しかし赤軍の第7軍に追いやられ、元いた6000人の兵士(1/4が士官)はこの秋にエストニアへ後退させられていた。この部隊の半分がリーヴェン将軍のロシア-バルチック軍へ移送させられた。その後北部軍団はプスコフ戦線へと戻ることになりロジャンコ将軍が10月から指揮をとった。(Bullock, 2008, p63)

 1919年春、エストニア軍は4万人へと増大ライドネル将軍はボリシェヴィキをラトビア北部から駆逐することに成功した。続く5月に赤軍第7軍への攻勢を発起する。白軍とエストニア軍はグドフ(Gdov=ペイプシ湖北東岸)、ヤムブルグ(現キンギセップ)そしてプスコフを再奪取し敵10個連隊を壊滅させた。ロジャンコ将軍の白軍戦力は25000人まで増大し、3100km2の領土と50万人のロシア人を奪取した。今や北部軍団は拠点を持ち、エストニアから独立した勢力となった。(Bullock, 2008, p64)
1918~1920_エストニア独立戦争


 1919年初頭はフィンランド義勇兵が上陸した貢献もあった。ここからユデーニチが東進を開始する。彼の進撃はロシア内戦全域で見ると小さなものかもしれないが、多くの人々を驚かせる大胆なものであり戦略的要衝ペトログラードを最も脅かした危機としてトロツキー達は多くの記述を残すことになる。

ユデーニチの攻勢_1919年8月まで

 ユデーニチ将軍が6月に到着した。バルト域の白軍総指揮権を与えられており、7月1日に北部軍団は北西軍(NWA)へと再編成された。
 ユデーニチの抱える問題は多岐に渡った。新しい支配域は戦争で荒廃し飢饉が起きており、アメリカの救済機関から援助を確保するよう働きかけた。軍事面では北西軍は衣類、装備、弾薬そして食料が足りておらずこれらについてもユデーニチは連合国、特に英国へ支援要請を出した。

 ユデーニチは自軍によるペトログラードへの秋季攻勢を企図したが、同盟諸勢力に大規模な協働を必要とするものだった。バルト域での他白軍勢力はリーヴェン将軍の3000人、アヴァロフ将軍の西軍15000~20000人である。だがアヴァロフは自軍をドイツのゴルツ将軍(Rüdiger von der Goltz)の麾下に置いてしまった。結局白軍はフィンランド、エストニア、ラトビアの協力が必要となった。
 しかし1カ国も中身ある支援をしてくれるような関係では無かったのである。ラトビアは事実上ドイツの影響下であり、フィンランドとエストニアは白軍からの完全な独立を認証するよう要望し、その後でないと赤軍に対する攻勢への派兵はしてくれそうになかった。ユデーニチは交渉の後で難しいとわかると独立を認めそうな気配があったが、コルチャークの全ロシア政府はあくまでロシア帝国版図の維持に拘ったため拒絶してしまった。
モスクワ進撃想定脅威_1919

 その時に第7軍が新しい攻勢を発起した。7月後半にプスコフが陥落し、続いて8月5日にヤムブルグが陥落した。ここに至りようやくリーヴェン将軍はユデーニチの麾下に加わることを承認した。英国の介入軍トップのマーシュ将軍は大規模軍事支援をユデーニチにする前に、彼に統治政府を造らせることにした。これを受けて8月10日、リアノゾフをトップとする北西政府が発足し、より広く受け入れられるためにリベラルな政策で世論に訴えた。(Bullock, 2008, p64)
 デニーキンによるモスクワへの進撃の絶頂期に合わせて、ユデーニチはペトログラードへの進撃の時期を何とか調整しようとしていた。しかしデニーキン南ロシア軍の状況と位置に関する情報はユデーニチには曖昧なものしか無く、それに彼自身の軍は少なすぎた。更に赤軍と違って白軍は適宜必要に合わせて精鋭部隊をある戦線から別の戦線へと移して投入するということができなかった(Bullock, 2008, p136)

ユデーニチの攻勢_1919年末の躍進

 8月15日、ユデーニチは新たに練った攻勢の準備を通達した。英軍の支援(制服、銃、砲、航空機そして戦車を含む)が8月中に到着した。同時に英国海軍がクロンシュタット(ペトログラードそばの海にある軍港島)への赤軍艦隊へ本格的な攻撃を開始する。(Bullock, 2008, p64)

【北西軍の戦力と配置】

 西側の文献によると北西軍は14400~17000ほどの兵士を1919年9月1日時点で保有していた。ロシア側の文献では北西軍戦力は約20000人(歩兵14098、騎兵345~700、機関銃786、連絡員370、砲兵1345、装甲列車部隊の130、戦車大隊の350、予備兵1750人、6機のRE8航空機からなる航空部隊3個、6両のマークV戦車、1個装甲車両部隊、4つの装甲列車、そして44~53の砲)とされている。

 これらの戦力が5個師団とプスコフの右へ分遣された1個旅団へと編成されていた。エストニア軍第2師団はペイプシ湖南端のユデーニチの攻勢配置の最右翼に位置し、プスコフ区域の赤軍第15軍を釘付けにすることになった。最左翼では英国海軍と合同で1600人のエストニア人イングリア部隊が海岸沿いのクラスナヤ・ゴルカ要塞へ攻撃準備をしていた。今回の攻勢は130~160km長さの戦線に渡り実施される計画となっていた。そこには木々が繁り、湖が点在し、様々なが流れ、そして泥濘地帯が所々にあった。(Bullock, 2008, p65)

【ペトログラード攻勢の始まり】

 南東のシベリア方面で(押されて苦境にたっていた)コルチャークが「トボリスク攻勢」を発起したこと、そして南のデニーキン軍がモスクワへ向かい進撃を続けついに9月20日にクルスクへ到達したことをユデーニチは理解していた。速さこそが北西軍を、革命のゆりかご即ちペトログラードの地へと届かせうるものかもしれない。(Bullock, 2008, p65)
 1919年9月28日にユデーニチ軍はエストニアの境界を越えボリシェヴィキに対する攻勢を開始した。9月28日最初に動いたのはユデーニチの白軍右翼であり、10月5日までにルーガ市を奪取しペトログラードプスコフへ繋がる鉄道を遮断した。(Kelsey, 2011, p67)
 左翼はナルヴァから押し込みヤムブルグを10月12日に占拠した。赤軍第7軍は秩序を失いながら退却することになった。2日後に北西軍はガッチナ市まで到達、ペトログラードの南48kmの位置だった。(Bullock, 2008, p65)
0_北西_ペトログラードへの進撃

 10月にトロツキーが列車でペトログラードに駆け込んだのは10月16日であり、ユデーニチの軍がガッチナを占拠したまさにその時だった。(Kelsey, 2011, p67)
 最右翼では15日にプスコフが再びエストニア軍の手に落ちた。北西軍の左翼先頭は10月20日までにプルコヴォの高地まで進み、ペトログラードの市街を見下ろせるようになった。(Bullock, 2008, p65)

赤軍の反応とトロツキーの活動

 この時期既に東のコルチャークは戦況が不利になっているが、それでもまだ赤軍を充分に引き付ける脅威ではあった。そしてデニーキンの南ロシア軍の躍進は非常に目覚ましいものであった。
 北部の英軍(アルハンゲルスク域)の撤退の知らせの少し後であったが、デニーキンとユデーニチの進軍のニュースは彼らが勝利するかに見えた(Footman, 1961, p202)

 ボリシェヴィキの政治家たちが最も苦しい心境だった時は10月15日に訪れた。モスクワの運命を左右するオリョールでの戦況は揺れ動いていた。ペトログラードを守りきれる希望はほとんど無いかのように思われた。この極めて悲観的な状況により、レーニンペトログラードの放棄とモスクワ周辺へ戦力をかき集めることを提案した。彼はモスクワ陥落とボリシェヴィキ政府のウラルへの撤退まで考慮に入れていた。
 その提案に対してトロツキーは猛烈に反対した。ペトログラード、革命のゆりかごとなった地は白軍の手に渡しては絶対にならない。その都市の降伏は他の地域へ崩壊的な影響をもたらしてしまうかもしれなかったのだ。ペトログラードへ行き防衛の責任を負うことを自ら提案した。(Deutscher, 1954, p442)
彼は政治局に総動員を求める一連の緊急令を提出した。今や役に立たなくなったモスクワの複数の政府部門や機関を解散させ全員を軍に招集しようというのだ。彼は行き詰まった戦線や白海沿岸、ポーランド方面から抽出してペトログラードへの増援を急がせた。
 この時、不倶戴天の対立者である人物がトロツキーを支持したスターリン、彼もまた両都市を防衛するべきだと具申したのだ。彼らの姿勢には呉越同舟とも言える意見の一致があった。トロツキーがペトログラードへ行く志願をした時、スターリンは南部戦線から彼を配置転換させた。政治局はトロツキーが提出した布告令を認可した。そして影響力をもたらせる4人の委員(レーニン、トロツキー、カメネフ、クレスチンスキー)を選出し、トロツキーをペトログラードのために行かせることを承認した。しかしペトログラードを防衛するための彼の計画についての判断は未だに保留とされてしまった。

 10月16日、トロツキーを乗せた列車がペトログラードへの途上にある時、彼は戦況に関する自身の考えを示した。最近チャーチルが行った14カ国(nations)による対ソ連遠征軍の宣言をトロツキーは嘲笑したのだ。これらはただの「14の地理上の概念(notions)」にすぎず、コルチャークとデニーキンにとっては14個のアングロ・フレンチ師団による救援の方がありがたかったことだろうと記述している。ソヴィエト崩壊に対する西方のブルジョワ達の声高な歓声は時期尚早であった。たとえもし赤軍がペトログラード外縁にいるユデーニチへの攻撃に成功しなかったとしても、ユデーニチを街の壁の中で粉砕することになったであろう。彼はペトログラード市内での戦闘に関する計画を草稿していたのだ。それは不思議な事にWW2でのスターリングラードの戦いでの戦術に類似していた。

 「この巨大な都市を破壊することにより、全ての家々が状況を不明にし脅威あるいは死に至る危険をもたらし、白軍は石の迷路の中で失われたであろう。彼らは一体どこから攻撃が来るのか予測できるであろうか?どの窓から?どのロフトから?どの穴蔵から?どの曲がり角から?ありとあらゆる場所からだ!…我々はいくつかの道を鉄条網で囲み、残りの通りを罠に変えることができる。絶対に必要なことは2,3千人の民衆が降伏しないと断固たる決意をすることだ…(Deutscher, 1954, p443)
市街戦が2,3日続けば、侵略者達は怯える臆病者の群れに変わり降伏していくだろう…しかし市内の通りでの戦闘は不慮の死傷者を引き起こし文化的資産の破壊をもたらすだろう。これは敵がペトログラード市街に近づかせないように野戦指揮官があらゆる方策をとらねばならない理由の一つだ。」

 ペトログラードでは悪い知らせが彼を待ち受けていた。ユデーニチはクラスノエ・セロを奪取しペトログラード市街へ近づいていた。防衛部隊は南の戦線へ部隊をまわしたことで兵力が枯渇し、高官たちの反逆により混乱していた。ジノヴィエフ(北部コミューンの長)は倒れ伏したい気分だった。彼の決断力不足は部下たちにまで感染していた。しかしモスクワからレーニンの通知が到着し、政治局がトロツキーの計画を許可し彼に戦いを遂行させる権限を与え、必要とあらば市内でも戦闘の継続をしてよいとされた。レーニンは依然として念の為に退却と公的書類の避難及び発電所の爆破、バルチック艦隊の遺棄の準備をするべきだと主張した。トロツキーはそれに対し自信に満ちた報告を返送した。まるでその自信を独特の挑発的なひねった表現で示すかのように、ユデーニチの出発点であるエストニアまで追撃することは許可されるかと尋ねたのだ。

 彼は1905年と1917年にかつて率いたペトログラードのソヴィエトに再び取り組むことになった。彼は率直に脅威を説明しあらん限りの努力を求め、都市についての個人的な感傷を語った。

 「これらの暗く寒く飢えて不安な酷い秋の日々の中で、ペトログラードは自信と熱意そして英雄的行為を結集する壮大な光景を再び我々に見せてくれる。あまりにも苦しみあまりにも激しい災禍に焼かれあまりにも多くの危機に立ち向かってきた都市、決して自らを甘やかすこと無く自らに惨害を課した都市、この美しき赤きペトログラードは、革命の灯火で在り続けている…。」
(Deutscher, 1954, p444)

 トロツキーの介入による影響については多くの目撃談がある。次の事例はラシェヴィチ、よく知られているようにこの時期トロツキーに友好的であり彼自身もまたこれらの出来事の中で重要な役割を果たした人物、の証言によるものだ。

 「まるで新鋭の増援が到着したかのように…トロツキーの存在感は現場ですぐ顕現した。適切な規律が回復し、軍と管理機関はその仕事ぶりを向上させた。役職に相応しくない者は誰であろうと降格させた。司令部の上級や中級の人員はすげ替えられた。明確かつ正確なトロツキーの指令は、何者であろうと出し惜しみはせず、全員に対して最大限の努力と戦闘命令を精密かつ迅速に遂行することを要請したので、すぐに確固たる指揮手腕があることを証明した…。内在するものの結集が始まったのだ。局員は作業命令に取り掛かった。これまで欠陥があった各部門の連絡は充分なものに変わった。補給部門はもたつくこと無く機能し始めた。戦線からの脱走者は目に見えて減った。全部隊において即席裁判が開かれたのだ…。誰もが残された道は1つしか無いのだと理解していた、前進するのみだ。全ての退路は断たれた。トロツキーはあらゆる細部にまで参加し、その役務の全てにその猛烈なエネルギーと驚くべき忍耐力を注ぎ込んだ。」

 数日間はユデーニチの進軍が続いた。英国の戦車が都市のはずれに姿を現しパニックが引き起こされた。騎乗したトロツキーは恐慌状態になって逃げ出した男たちをかき集め戦線へ復帰させた。ユデーニチの砲兵部隊の射程内であったにも関わらず稼働していた即席工場がスパートする中、戦車のような車両を追い払い始めようやくパニックは収まった。ユデーニチが記しているように「英雄的な狂気」を持って正規部隊、急遽編成された赤軍の防衛部隊、女性部隊すら反撃に討って出た。トロツキーの到着から一週間が経ち、防衛部隊は攻勢へ移ったのだ。
(Deutscher, 1954, p445)

白軍の攻勢の終わりと崩壊

【ユデーニチの後退】

 ユデーニチの劇的なまでの進撃にもかかわらず、いくつかの悪い出来事がその策略を機能不全にしてしまった。フィンランドに北から攻撃するようユデーニチは土壇場最後の要請をした。しかしマンネルヘイム将軍は個人的には賛成だったが、7月から権力の座を追われてしまっておりフィンランドは国としてはペトログラードまで侵攻するつもりは無いままだった。アヴァロフ将軍は北西軍のための支援など全くせず、ドイツと共にラトビアのリガ市へと彼の西方軍を差し向けてしまった。エストニア軍と英国海軍は南の危機に対処するために戦力を一部転用しなければならなかった。更に悪いことに、ヴェムレンコ将軍の白軍第3師団は、トスノ(Tosno)からモスクワへ通ずるペトログラード維持に不可欠な鉄道の遮断に失敗してしまった。(Bullock, 2008, p65)
 これにより赤軍は自由にペトログラードへと増援を送ることができ続けてしまった。(Bullock, 2008, p66)
 トロツキーの演説が効果的だったとするなら、鉄道によりモスクワからペトログラードに送られ市街に溢れた膨大な援軍の流入もまた効果的であったのだ。鉄道によるボリシェヴィキの首都とのリンクをユデーニチが断ち切るのに失敗したことは致命的な失敗だった。(Kelsey, 2011, p68)
1919_ユデーニチの攻勢と赤軍の反撃

 戦線の左翼ではクラスナヤ・ゴルカ要塞は攻めるエストニア軍に対しまだ抵抗を続けていた。
 この様な戦況の中、赤軍の反撃が10月21日に始まった。第15軍(左翼)がプスコフからルーガにかけて打撃を与え、白軍の右翼後背と中央を脅かした第7軍は今や再編されペトログラード市内から徴兵された数千人の増援を受け、西方へ向け進撃し白軍の左翼と中央を押し返していった。それら各赤軍部隊の合計戦力は少なくとも73000人(白軍の3倍以上)に及び、西方軍は後退せざるを得ず11月3日にはガッチナまで下がった。後退は続き7日にはグドフまで戻り、14日にはナルヴァ、つまり最初の攻勢開始地点に退くことになってしまった。(Bullock, 2008, p66~67)
 北西軍は優れた秩序を維持しており、今の位置では攻撃を受ければ防御しきれないと分かっていた。晩秋の寒さがチフスのと合わさって数千人の命を奪った。エストニアの人々は赤軍の報復を恐れ、西方軍を武装解除し拘禁した。バルト3国域は共産主義ロシアとドイツの領土の間に挟まれた形で領域を固め、1920年2月2日にエストニアはボリシェヴィキと条約を締結した。(Bullock, 2008, p68)

 ここにバルト三国の攻勢は終わった。ユデーニチは逮捕されていたが連合国の圧力で解放され亡命しその後フランスで死去した。

【デニーキンの頓挫】

 デニーキンたちの攻勢も頓挫、赤軍の反撃によりモスクワから遠く押しのけられていく。赤軍の増援が投入されオリョールを奪還、反撃が始まった。デニーキンの軍はほぼ全戦線で押されていき、ブジュンヌイの赤軍第1騎兵軍団が楔を打ち込み白軍戦線は崩壊する。デニーキンら南ロシア軍は完全に退却、クリミアやコーカサスへと追いやられていった。ヴランゲリ将軍がクリミアを拠点にポーランドに合わせて再度北上を目指すがこれもポーランド・ソ連の戦争が収束したことで希望は完全に消滅する。

【ポーランドとの講和】

 ポーランドとソ連の戦線は押し退きを繰り返す激しいものとなる。各白軍勢力が活動的なうちにポーランドの戦線は大きく東進するが、白軍が壊滅すると赤軍の増強がありまず南で次に北でトゥハチェフスキー達の大規模反撃へと移る。逆に領土侵攻を受けたポーランドは首都陥落目前と成るが大きなリスクを冒した赤軍左の間隙から反撃に成功、大打撃を与えまた押し返した。最後は両国とも戦争継続をできなくなりレーニン達の希望も合って講和へ向かった。

【コルチャークの敗退と処刑】

 コルチャークの臨時全ロシア政府はオムスクを1919年11月に放棄した後立て直すことはできず東へ東へ後退し続ける。彼は1920年1月に捕らえられ翌月に処刑された。

 各所で白軍の残部が抵抗を続けたがもはや赤軍を脅かせる勢力は存在せず、巨大なるソ連が確立した。この内戦で活躍した軍人たちの多くがソ連軍の改革に関わり、そして台頭した若き世代はWW2で高級指揮官として枢軸軍に立ちはだかる事となる。
_____________________________
【参考文献】
David Bullock, (2008), "The Russian Civil War 1918–22"
David Footman, (1961), "CIVIL WAR IN RUSSIA"
John M. Kelsey, (2011), "Lev Trotsky and the Red Army in the Russian Civil War, 1917-1921"
Isaac Deutscher, (1954), "The Prophet Armed : Trotsky, 1879-1921"
И. А Зубова, (2007), "За Россию и свободу: Подвиг Белого дела 1917-1923 гг." 

【サイト】
多数有、追記
エストニアNATO公式Twitter
https://www.e-reading.club/chapter.php/1033684/13/Kakurin_-_Grazhdanskaya_voyna._1918_1921.html
https://bigenc.ru/military_science/text/2233837
https://fakel-history.ru/severo-zapadnyj-isxod/
http://www.rkb.vrn.ru/Gaseta/Stati/Mamontow.htm
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とある日本の研究者の方がユデーニチのペトログラード攻勢について論文を近く発表されるそうなので非常に楽しみです。それを聞いてとりあえず自分にとってのおさらいを兼ねて簡単な紹介程度しておこうかと手元にある英文献のみ漁ってみました。私生活が少々立て込んでおり、途中から完全に抜粋翻訳ばかりで何の推敲もしておりませんが許して下さい…。
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メモ

 トロツキーら赤軍上層部は反撃を第15軍に先にさせています。
これは白軍左側面が水場であるため、片翼包囲攻勢だが完全な包囲をもたらしうる可能性を示す典型的な形態です。大都市(ペトログラード)に対し突進を望み意識と戦力が集中した敵軍へ、その右翼後背を脅かすように攻撃を発起。正面の大都市そばまたは内部に敵軍を飲み込むように拘束し、別の翼から突破して全域をあわよくば包囲するよう狙う。あるいは包囲の脅威を示すことで敵戦力を間接的に大都市から引き剥がさせる。剥がされた敵正面軍に対し間髪入れず大規模な反撃を行い後退を連続でさせて戦果を拡張します。
 よって例え敵を撃滅しなくとも「片側移動困難地帯での片翼包囲」の戦例として扱います。軍事戦略目標も達成