第2次チェチェン紛争の最初期においてチェチェン武装勢力は幾度かロシア連邦軍の部隊に損害を与えました。
本記事はその内の「776高地の戦い」(別名ウルス・ケルトの戦い)を紹介したいと思います。
それまでゲリラ戦をしていたチェチェン・イスラム過激派が勝負に出て山岳地帯で大規模な攻撃に討って出て発生した戦です。
簡易概説なので読まなくても問題はないです。
長くなるため別途記載 →リンク チェチェン紛争の始まりと地図_武装勢力の通信、交通工作、基本戦法、長所と短所
第2次チェチェン紛争初期においてイスラム過激派の部隊を軍事的に率いていたのはハッターブという男である。
アミール(司令官)・ハッターブは通称だ。彼の出自は不明瞭である。
1969年前後に中東サウジアラビアで生まれた話が有力だがヨルダン王国の軍士官学校に居たとも疑われている。出国後は米国にもいたという。彼はイスラム圏各所を放浪し少しずつ軍歴を積んでいった。
1987年にアフガニスタンへ姿を現す。ハッターブは現地でイスラムの戦士の1人として対ソ連ゲリラ戦に参加した。ソ連アフガニスタン侵攻が終結するとすぐに出国した。その後は中央アジアのタジキスタン内戦に参加しロシア人を襲撃したメンバーとして記録がある。
1995年頃、チェチェン共和国内のセルジェニ=ユルト村に軍事宗教キャンプを設立しここでイスラム戦士を訓練した。彼らと共に第一次チェチェン紛争へ参画していく。
1996年4月16日にシャトイ地域におけるヤルィシャマルディの戦い(Бой у Ярышмарды)でロシア軍第245自動車化歩兵連隊の一部に待ち伏せ攻撃を成功させた。その戦果は彼の優れた軍事手腕を示していた。ロシア軍側は73~95人が戦死し21台の車両を失ったという。
展開された戦術は、アフガニスタンなどで見られていた渓谷の交通路での待ち伏せにおける典型的なものだ。
14時20分、細長く伸び切ったロシア軍の車列先頭の戦車に対し、仕掛けていた高火力爆弾を爆破させ全体の動きを停めさせる。その瞬間に渓谷両側の高台にある岩陰から一斉にゲリラ兵が射撃を開始した。RPGには指揮車両らしき対象を特に狙わせた。
(後尾に当たる箇所にもハッターブは爆弾を複数仕掛けておりロシア軍の位置と時間は彼の読み通りであったが、爆弾は不発で彼の狙いは完璧とはいかなかった。)
ハッターブの狙いは車列の両端であった。ロシア軍の車列の前列部隊には両側から射撃、後列にも同じく両側から射撃し集中砲火を浴びせる。車列全体が機能不全になる中で中央部分にも主に片側から射撃し続け拘束、状況次第では破壊していった。射撃は予め入念に準備された火点から連続的に行われたという。
夕刻に戦闘は収束していった。ハッターブは夕闇に紛れて完全に部隊を撤退させた。
この戦闘は第一次チェチェン紛争の中でゲリラ勢力が成功させた攻撃としてはかなり大きなものであり、ハッターブの権威はチェチェンにいる反ロシア勢力の間で高まっていった。チェチェン内部での宗教対立、利権争いの中でハッターブ率いるイスラム過激派が伸張したのはこういった軍事的貢献の面もあった。彼は世俗派の思惑から離れ、対ロシアの戦闘を遂行しようとしていた。コーカサス全域でイスラム過激派は独自の行動を取り始めていたのである。
1999年8月、ハッターブ達過激派は隣国ダゲスタン共和国(ロシア連邦構成国)へ侵攻した。同時にロシア国内でテロ活動を行うよう呼びかけ複数の事件が起きる。ダゲスタンに軍を送った後ゲリラ根拠地を絶とうとするロシア連邦軍は再度チェチェンへと侵攻した。これでなし崩しに他の独立派も戦闘を避けられなくなった。ただ今度のロシアは変化が起きていた。
ハッターブが動いたのと同じ1999年8月、ウラジーミル・プーチンという男がロシア首相代行となる。エリツィン大統領より彼の方が主導的に国政を動かし始めていた。プーチンのチェチェンに対する態度はかなり強硬なものだった。
まずチェチェン・イケチリア共和国指導者の首は完全にすげ替えることを最初から決めていた。指導者マスハドフ将軍はロシアとはむしろ融和的かつ対話重視の方針を現実的に取ろうとしており過激派を煙たがっていたが、結局コントロールできず責任だけが積もるようになっていた。プーチンはチェチェン統治は別の人物にもはやさせるしかないことを決断していたのだ。マスハドフ政権の首都グロズヌイを制圧することに躊躇いは皆無であった。
軍事面ではチェチェン北域の制圧を最初の作戦目標とした。(図の濃緑)理由はいくつかあるが、特に平野部をまず完全に得ようとする作戦方針が大きかった。チェチェンは南部にいくにつれて山岳地帯が増える。戦線をいきなり山岳地帯奥深くまで細長く広げるとどうなるかロシア軍はわかっていた。首都及び平野外縁部の山岳地帯までが最初の段階だった。
ロシアはスペツナズなど特殊部隊を含む多数の部隊をコーカサスに再度展開する。侵攻は損失を最小限に抑えるため空爆や砲撃が重視され歩兵同士の直接戦闘は可能な限り避けるようになされていた。少しずつであるがロシア連邦軍は再編に成功していたことがわかってきた。ロシア地上軍が複数方向から侵攻し数ヶ月でチェチェン北域を制圧していく。首都グロズヌイは頑強に抵抗しロシア軍の損害を増加させたが耐えきれず2000年2月前半に制圧された。
ロシア軍の進展に対しハッターブは戦力を保てている間に打撃を与えなければならないと確信していく。ただ彼は都市部で死守戦などする気は毛頭なかった。ロシア軍が戦線を広げ己の望む山岳地帯へ入り込むのを待った。しかしロシア軍の山岳域作戦は彼の想定以上のものだった。
ロシア軍は北域平野部及び主要都市に対する作戦と山岳地帯作戦のフェイズを分けていたとされる。次の段階に連続し平野外縁部山岳地帯に「解放」作戦を開始ししたのは12月半ばである。
作戦方針は基本的に空挺またはヘリボーン部隊を投入し周辺に支配的な位置関係を持つ高地を制圧、それから主力軍が山岳展開するといったものだ。
この方針通りグロズヌイ南方のシャロ・アルグン山峡へ空挺部隊(Десантники:デサントニキ)が投入され、そしてアルグン山峡を遮断するよう奥部の交通の要処にヘリボーンが行われた。
それから連邦軍の歩兵が山の麓へ展開していった。敵武装勢力による平野部への侵入・浸透を防ぐため彼らは強化点に陣地構築を逐次行った。(更に前進するための前線基地でもあった)
これにより2000年2月のグロズヌイ南方での山岳地帯武装勢力は一部が分断されてしまった。更に助攻として並行して国境付近の部隊が南方の敵補給路の阻止を目指し動いていた。山岳地帯掃討作戦が近づいていた。
2000年2月10日、連邦軍はイトゥム・カレ町を支配下に置いた。19日までに彼らは土木工事を実施し山岳地帯へ入り進むための道路の建設と補強を完了した。環境は容易なものではなく、標高1500~2500mの山岳を時に地雷原をかき分け押し通していかねばならなかった。少なくとも384個の地雷と236個の爆発物、16の無線操作型指向性地雷が発見された。
2月18日、最初の特殊偵察部隊の梯団(1個偵察歩兵隊、1個迫撃砲小隊、対戦車、火炎放射器、そして工兵隊)がAl’piyskiy山に降下した。
72時間で高地で陣地構築をしていた30人の武装勢力を倒した。それから偵察部隊は砲撃と空爆のための観測や偵察を実行した。グムルタイコルトの尾根では狙撃手が大きな効果を発揮した。
2月22日、ロシア軍にとっての作戦の転換点が訪れた。それはセリメンタウゼン村とマフケティ村を占拠した瞬間であった。これによりシャトイ地域の武装勢力は周辺と分断されることになる位置をロシア軍はとったのだ。特にウルス・マルタン地域、シャトイ地域、ヴェジェノ地域の中にある武装勢力の基地間の移動が阻害された。
2月25日、トロシェフ将軍(4月に北コーカサス軍管区司令官となる)は「シャトイ地域はアルグン山峡で分断された。包囲環は締め付けつつある。次は除去が始められる」と述べた。(この時点で主要都市ウルス・マルタン市とシャリ市も侵攻が進んでいたはずである)
2月27日、ここ数日のロシア軍の進展に伴い、バラバラに分断した各武装勢力を順次粉砕していく企図が報告された。シャトイ町の南東わずか5kmのユケルチ・ケロイ村が空挺部隊により封鎖された。更に包囲環北東部でも部隊が着々と展開しグロズヌイ南域の包囲環はほぼ出来上がっていた。
ロシア軍の行動は理想通りには行ったわけではなく反撃を幾つも受けていたが、ハッターブは明らかに危機的な状況にあった。ロシア軍の活動する中央域に彼の部隊のかなりの数が取り残されており。緊要高地を抑えられた武装勢力の大部隊は脱出できず危険な状態にあった。
故にハッターブは戦力を保持できている内に突破に出たいと考えた。小規模な攻撃即離脱ではない、ロシア軍のある程度の部隊を殲滅し山岳の包囲環に穴を開け脱出することを目標とするものだ。
2月29日うるう日、巨大なリスクを冒し彼は攻撃命令を出した。場所は包囲環北部のウルス・ケルト町であった。そして776高地の戦いが始まる。
ウルス・ケルト町から南東の山に少し入ると急激に険しくなる。山からは2本の川が町に向かって流れ合体して三角地帯を形成する。西のシャロアガン川と東のアバズルゴル川である。(この2本は先のアルグン川の支流)
南方に行くに連れ標高は高くなる。途中でややなだらかになる地点があり、その内の町に近い箇所に705.6高地と776高地があった。これらは尾根にあたる。この高地付近を通るように山には路が整備され登っていく。
最低気温は-5℃前後に到達した。
指揮官:アミール・ハッターブ
作戦目標:包囲環脱出
戦術目標:ロシア軍第104連隊の高台に位置する中隊の撃滅後、東へ突破
※ロシア国内の報道機関は年々この数を増やして報道しているため米軍の記述に基づいた。
ロシア軍:第104親衛落下傘連隊(所属:3個空挺大隊、1個砲兵大隊)
指揮官:メレンチェフ大佐(連隊指揮官)、マルク中佐(第2大隊指揮官)
作戦目標:包囲環北域の突破阻止及び当該域敵撃滅
戦術目標:2月28日付け付与任務=「29日14:00までにウルス・ケルト町の南方4キロ線へ前進」
砲兵隊には2S9ノーナ自走砲が配備されていた。これは空挺部隊用のパラシュート投下可能な高機動車両であり、120mm砲は迫撃も直射も可能な性能を持っていた。
この山岳戦で空挺部隊に貴重な砲兵支援を提供し活躍した。
2月28日にロシア軍の主力である第31空挺旅団がシャトイ町に踏み込んだ。第一次チェチェン紛争の頃にハッターブに反撃を食らった町はあっさりと陥落した。そこにハッターブの主力はいなかったのだ。
ハッターブは1000名を超える兵力を散らばっていた南部山岳各地からウルス・ケルト町近辺へ集結させた。この行軍の規模をロシア軍は把握していなかった。北東には第76親衛空挺師団が展開して山中を行軍していた。
包囲環北東部の遮断を担当していた第76空挺師団の中に第104親衛落下傘連隊があった。連隊は敵がいると見込まれるウルス・ケルト町へじわじわと山中から迫っていた。ただ彼らは山岳で急激な前進を求められたため各中隊が分散していた。
ハッターブはアバズルゴル川沿いに行軍をするのを辞めることを決めたという。つまりこの戦闘は威力偵察であった。
連隊長のメレンチェフは第6中隊指揮官モロドフ隊長へ緊要高地を抑えるよう命令した。ただこのモロドフ中隊長はつい先日この中隊へ配属されたばかりでまだ兵卒を掌握できておらず、この場では第2大隊長のマルク中佐が実質の指揮をとっていた。
ロシア軍は高地で陣地線構築を行い、チェチェン武装勢力が逃げるであろう方向へ備えた。ハッターブは単に山中を逃走するだけではこういったロシア軍の対応の下に撃滅されることを感じており、だからこそ攻撃して中隊を撃滅して突破する必要性がありなおかつ奇襲性もあると判断した。
マルク中佐は第6中隊へ776高地へ着いた後も行軍を続け705.6高地へ下るよう指示をだした。
厳しい寒さの中、ロシア軍空挺部隊は木々繁る山岳地帯で重い装備を背負い陣地構築を行っては進軍し続ける過酷な任務を必死でこなしていた。
ウルス・ケルト町で迎え撃つのでは敵の複数方向から外線的に迫る攻勢を受け、更に町にいるのはバレているため奇襲ができない。ロシア軍がウルス・ケルトとその周辺の緊要地を到達地として進んできているのは判っている。それなら討って出て敵の各中隊が分散している間に戦闘に持ち込むしかないと彼は考えた。
12:30に705.6高地にいる偵察部隊は約20人の敵兵が山の中を動いているのを発見した。偵察部隊は気づかれないように接近することに成功しグレネードで先制攻撃を行った。だがこれで位置がバレてしまった。ハッターブの兵は反撃を行う。偵察の空挺兵たちは中隊主力のいる776高地へ後退を始めた。ハッターブの兵は追撃を開始する。ハッターブの突破作戦の始まりである。
その頃モロドフ中隊長は偵察隊が危機になりつつある連絡を受け、急ぎ救援部隊を組織し自ら率いて776高地を出立した。しかし少数の武装勢力兵士のすぐ後ろには戦闘部隊の後続が控えていた。(米軍のトソーラス中佐曰く「前衛の偵察小部隊とそのすぐ後ろに強力な戦闘部隊を配置させる、どんな邂逅であろうと即時に主導権を取りに来るソ連式偵察ドクトリン」)
ハッターブの兵は急速に増大し、踏み込んできたモロドフ中隊長の部隊を迎撃した。想定外の事態が第6中隊を襲う。ハッターブの部隊は山肌を凄まじい速度で移動し敵側面を攻撃、更に防御の薄い後背へも連続的に回り込み銃撃をした。第6中隊は大損害を出しモロドフ中隊長までもがこの戦闘で戦死する。
ただこれはかつてのハッターブの受動的に待ち伏せる戦闘とは違い、高地の陣地にいるロシア軍を低地から登っていき能動的に包囲攻撃するという形態であった。そのため待ち伏せのような効率的な攻撃成功はできずハッターブ軍にもかなりの損害が出た。
29日の終わりには第6中隊は戦死者のみで部隊の33%に及ぶ甚大な被害をだしている。だがこれは戦闘の1日目が終わったに過ぎなかった。
北にいる第3中隊、南にいる第4中隊、そして東にいる第1中隊に増援に行くようメレンチェフは指令を飛ばした。
3/1、日も昇らぬ早朝から東より第1中隊が急ぐ。彼らはアバズルゴル川を渡ればすぐ第6中隊のいる高台の下にでられる。
だが渡河しようとした第1中隊は不意に銃撃を受けた。ハッターブは救援ルートを読み進路上の最適となる渡河地点で既に待ち伏せをしていたのだ。伏撃に対して必死で第1中隊は突破を何度も試みたが、地理的にあまりに不利な位置であり彼らは川岸に陣地を築いて撃ち合うしかなくなった。第1中隊の救援は阻止されたのだ。
03:00同じく早朝、南からは第4中隊が向かう。
しかしハッターブはこの第4中隊の動きもほぼ読んで先に動いていた。第4中隊の本体が解囲部隊として突撃を始める前に、第4中隊主力の側方から伏撃をハッターブ軍別働隊が仕掛けたのだ。また第4中隊は787高地を保持する任務も帯びてもいたため放棄はできなかった。第4中隊主力はその位置で拘束されてしまった。その間も常に第6中隊へ波状攻撃は続く。
(※ 第4中隊内の第3小隊は先行して突破に成功し第6中隊のもとに辿り着いたという説と、前日に合流しており逆に脱出したという2つの解釈があるがいずれもどのように突破したかは不明)
北方にいた第3中隊も動いていた。ウルス・ケルト東方の要処を占拠していた彼らは保有する3個小隊のうち2個小隊を救援に向かわせた。だが高地の端に上がりかけた時、やはりここでも待ち伏せ攻撃を受けた。
これらハッターブの戦術的な判断能力は信じがたいほどのものがある。またロシア軍に気づかれずにハッターブの要求を達成した別働隊兵士たちの練度も特筆に値する。2方向から第3中隊を伏撃し完全に足止めした。
以上、連隊長メレンチェフの差し向けた3個中隊の進行ルートは全てが完璧に把握・予測されておりハッターブは最低限の兵力で全ての部隊を拘束した。特に第1中隊を川で待ち伏せし止めたのは60人程度の武装勢力だったとされる。
ところで砲兵支援と航空支援についてだが、これがどうもはっきりしない。一応は連隊付き砲兵隊から支援を受けていたようだがその量は足りていなかった。効果が限定された理由は連日の移動もあっただろうが、何よりも敵位置情報の不足である。尾根の反対側が敵主力であることに加え入り組んだ山中である。そして前線部隊が釘付けにされ索敵が充分にできない状態だった。
一方で航空支援について、戦闘ヘリが配備されたいたのだが彼らは日中しか主な活動ができていなかった。この連隊用で夜間戦闘が可能なヘリが1機しかなかったという報告と合致している。加えて一帯が霧に覆われ山中の敵味方の位置がはっきりしなかったこともヘリの活動を著しく制限した。
こういった活動を阻害する要素をハッターブはほぼ全て考慮に入れていたからこそ大兵力を投入していた。それでも砲兵もヘリ部隊も活動可能な限り第6中隊を支援し膨大な被害をハッターブ軍にださせたという。
ここに至りハッターブの戦術方針は誰の目にも明らかになったのだろう。ウルス・ケルト町にいると考えて外線的に進むロシア軍各中隊が集まりきる前に、一部隊に狙いを定め兵力を集中し撃滅、包囲環に穴を開け突破するのだ。その部隊は高地を先に占拠し上から迎え撃つというロシア軍作戦方針の要となる尾根を抑えて進んでくる第6中隊である。周囲の他中隊は最小限の兵力を予測される救援ルートに配備し伏撃、拘束する。この間に第6中隊を迅速に壊滅させれば脱出作戦は確実なものとなる。
そのためにハッターブは惜しげもなく兵を投入した。普段のゲリラ戦とは違う、膨大な被害を出し続ける突撃であった。そしてついにチェチェン武装勢力の兵士が第6中隊の防御線を一部で突破した。ハッターブはそこから部隊を侵入させロシア軍との肉弾戦に持ち込んだ。
第2大隊長マルク中佐は既に負傷していた。彼は無線を取り連隊本部へ砲兵支援を要請した。砲兵はどこを撃てばよいか彼らの情報を元に決めていた。ハッターブは頻繁に兵士を移動させていた。接近されもはやマルク中佐にも有効な敵位置を把握している余裕などなかった。だがたった1つ確実に敵兵がいると分かる場所があった。マルク中佐の叫ぶような要請が無線から聞こえた。
06:10、マルク中佐からの連絡は完全に途絶した。ロシア軍砲兵隊は(おそらく要請後即時に)砲撃を開始、甚大な損害をハッターブの突撃部隊に与えた。高地の辺りは比較的木々が少なかったというのもある。包囲攻撃が進展したために逆に戦力が集まりすぎ、砲撃目標が明確になったのかもしれない。(後にロシア軍はこの戦いで味方の砲撃による死者が出た可能性を認めている。)
だが第6中隊の残存部隊は壮絶なこの戦闘をまだ終わらせなかった。彼らは防衛線の残る場所に集まり戦いを継続する。この彼らの戦闘継続は作戦的に重要な意味を持っていた。
ハッターブは突破箇所だけでなくあらゆる方向から波状攻撃を仕掛け続けた。既に数百人の死傷者が出ていたはずである。それにも関わらず彼は貴重な戦力をこの突撃に投入させた。ゲリラ戦ならばもっと効率の良いスタイルをしてきた彼がなぜここまで戦力を一瞬で損失させるしかなかったのか。それは彼の作戦的な目標が巨大な渓谷地帯包囲環からの脱出であったからだ。
部隊を最小単位までバラバラにし各自で逃走させた場合、次々と拠点を神出鬼没の空挺に抑えられる時勢で再集合は非常に危険であり、山狩りでどれほど撃滅されるか不明だった。ハッターブにはこの選択肢もあったのだが突破からの脱出の方を選んだのだ。そのための戦術的な目標が第6中隊の殲滅であり、これを達成できなければ逃走ルートを完全に観測され猛烈な砲撃と航空攻撃・追撃を食らう。
かといって第6中隊殲滅に時間をかけすぎると周囲の足止めが突破されこんどは自分たちが戦術的に包囲される。故にハッターブはこれほどの損失を覚悟して波状攻撃を連続させた。戦術的な観点では第6中隊を絶望的戦況に追い込んだ彼の指揮は見事なものだったのかもしれない。だが第6中隊の想定を遥かに超える抵抗は刻一刻と彼から脱出作戦成功の時間を奪っていた。
追い詰められていたのはハッターブの部隊だった。
第6中隊の残存は将校1人と32人の兵士のみである。暫定的に中隊の指揮を引き継いでいたソコロフ大尉は手に怪我を負いながら戦っていたという。彼は生存者に最後の防御組織を編成させると、プロシェフ軍曹以下6人の最も若い兵士たちに脱出を命じた。
そしてハッターブの突撃が再び始まった。ソコロフ大尉もまた砲兵隊に自分の場所を伝え、そこに砲撃をするよう要請した。それしか突撃をやめさせる術はなかった。この日少なくとも中隊の16人が死亡した。
最後まで776高地に残っていたソコロフ大尉たち11人の空挺部隊はそれでも抵抗を続け、全員が戦死した。
第6中隊は4日間もの間、圧倒的な数から包囲攻撃を受けながらも耐え続けたのだ。ハッターブはここに至り作戦の破綻を受け入れざるを得なかった。第6中隊を消滅させたのは彼にとっての最後の抵抗だった。ロシア軍の解囲部隊は今やそこら中に迫ってきている。連日の砲撃を受け続けたことで膨大な死傷者が出てもいた。一部は戦闘を途中で切り上げ脱出していたのかもしれないがかなりの数がロシア軍の広域包囲環の中に取り残されていた。
ハッターブは残存部隊が尾根を越えていくことを諦めウルス・ケルト町方向へ撤退を始めた。迫っていたロシア軍空挺部隊は彼らを追撃する。戦闘ヘリも攻撃を行いチェチェン武装勢力は長距離に渡り被害を拡大させた。更に逃走を図って集まっていた武装勢力を見つけ多くの捕虜を得たという。
3/3中に776高地の戦いは終わった。
第6中隊は6人の脱出者を残し他全員が戦死した。死亡した将校は大隊長と中隊長含む13名である。またこれ以外にも解囲戦や山岳掃討戦でも死傷者を出した。
ハッターブ率いる武装勢力は死者だけで約400人、更に膨大な負傷者をこの戦いの結果だした。
彼は第6中隊の殲滅という戦術的な目標の1つは達成した。だが短時間でするという目標は達成されずそれは作戦目標であるロシア軍の広域包囲環からの主力部隊脱出を失敗させた。そもそもこれほどの死傷者はハッターブの多くはない兵力からすれば痛すぎる損失である。
米軍による表現のまま記すならば、776高地の戦いで「ハッターブはピュロスの勝利を勝ち得た」のである。
当然ロシア軍は山岳包囲環を収縮し残っているチェチェン武装勢力の掃討戦を展開した。これによりグロズヌイ南部の山岳戦は終わる。776高地の戦いを含め、兵力が残っていたことで武装勢力は抵抗を続け山岳戦でのロシア軍の損失率を非常に高めた。
その後ハッターブはこれほど大規模な部隊を運用できることはなかった。彼は確かに山岳戦での優れた戦術家としてロシアのみならず世界中に名を知らしめた。いくつかの戦術的戦闘は勝利したのかもしれない。それでもこの一連のロシア軍山岳作戦は彼の敗北であると言われる。
彼は出直した。極小規模の軽快な部隊運用によりゲリラ戦を展開し再びロシア軍を少しずつだが確実に苦しめた。ロシア国内でのテロ活動を呼びかけ多くの事件に関与したと言われる。
2002年3月、FSB(旧KGB)によって雇われた人物が彼に手紙を渡した。その手紙には猛毒が仕込まれておりハッターブは絶命したという。
ハッターブはアフガン、タジキスタン、チェチェンで共通してロシア人の殺害に重きを置く傾向がありました。それが作戦域に影響を及ぼしたと考えられます。ソ連軍からも讃えられたアフガニスタンの将マスードとの最大の違いはここにあったのでしょう。
紛争の引き金となったハッターブが死んでも第2次チェチェン紛争は続きました。独立運動とイスラム過激派の活動が混在し、中にはロシア国内の政争に利用されたという説を唱える者もいます。776高地の戦いはロシア国内で盛んにプロパガンダが為されました。ロシア政府はこの戦闘の死者を最初過小に発表していましたが途中から転換し、むしろ復讐戦という形に使用し更に兵士には模範とするかのように宣伝しました。それを第6中隊の死を継戦に利用したと批難するか、無駄にしないように活用したと語るかは各人の立場により違うのだと思います。
そういったことは別とし、本稿は米軍のウィルモス軍曹とトソーラス中佐の記述を引用し終えることとします。
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以上、かなり長くなった拙稿を読んでいただき本当にありがとうございます。
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【参考文献】
C.W.Blandy, (2002), "Chechnya: Two Federal Disasters"
Mark Galeotti, (2015) "Spetsnaz: Russia’s Special Forces"
Sergeant. M.D.Wilmoth, Lt.Col. Peter G.Tsouras, (2001), "An Airborne Company’s Last Stand" US Army Reserve, Retired
Ali Askerov, (2015), "Historical Dictionary of the Chechen Conflict"
【サイト】
http://www.rosinform.ru/vdv/359938-shestaya-rota-prikazano-stat-geroyami/
http://www.defensionem.com/height-776-chechnya-6th-company/
https://www.hrw.org/legacy/reports/2001/chechnya/Disapfin-02.htm#P375_76100
http://army.lv/ru/%C2%ABMi-shli-na-pomoshch-shestoy-rote...%C2%BB/79/4585
https://vk.com/page-60767131_49264633
http://mosmonitor.ru/news/army/shestaya-rota
http://sdrvdv.ru/news/podvig-6-j-roty-boj-pod-ulus-kertom/
http://www.straikbol.ru/books/tactic/tactical-symbols-(symbols)
http://gubernia.pskovregion.org/number_478/03.php
【動画】
ロシアのドキュメンタリーニュース:概略だが3D地図あり:1分15~
https://www.youtube.com/watch?v=TSOqK5FwC2o
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【メモ】
ハッターブの行軍手法
「各々30人からなる2つの偵察部隊、その後ろに50名からなる2つの戦闘部隊があり慎重に行軍する」
東部集団司令官:トロシェフ上級大将
作戦集団司令官:ヴィクトール・カザンツェフ(北コーカサス統合軍集団司令官)
※ボロビエフ大佐の報告では第2大隊は2000年1月に戦地に到着しており充分な戦闘経験があったわけではないという。また予算不足で軽量素材の装備を持てなかった。(22~27kg)
6th Company had barely survived three basic errors:
failure to establish an all-around defense;
failure to aggressively conduct reconnaisance of the enemy’s expected approach route, especially given the Chechen reputation for tactical skill, reconnaisance and working around the flanks;
and failure to heed warnings about the Chechen force’s approach.
本記事はその内の「776高地の戦い」(別名ウルス・ケルトの戦い)を紹介したいと思います。
それまでゲリラ戦をしていたチェチェン・イスラム過激派が勝負に出て山岳地帯で大規模な攻撃に討って出て発生した戦です。
チェチェン紛争の始まり
簡易概説なので読まなくても問題はないです。長くなるため別途記載 →リンク チェチェン紛争の始まりと地図_武装勢力の通信、交通工作、基本戦法、長所と短所
山岳戦の将ハッターブ
第2次チェチェン紛争初期においてイスラム過激派の部隊を軍事的に率いていたのはハッターブという男である。アミール(司令官)・ハッターブは通称だ。彼の出自は不明瞭である。
1969年前後に中東サウジアラビアで生まれた話が有力だがヨルダン王国の軍士官学校に居たとも疑われている。出国後は米国にもいたという。彼はイスラム圏各所を放浪し少しずつ軍歴を積んでいった。
1987年にアフガニスタンへ姿を現す。ハッターブは現地でイスラムの戦士の1人として対ソ連ゲリラ戦に参加した。ソ連アフガニスタン侵攻が終結するとすぐに出国した。その後は中央アジアのタジキスタン内戦に参加しロシア人を襲撃したメンバーとして記録がある。
【ヤルィシャマルディの伏撃】
宗教的情熱か、それとも戦争そのものが目的だったかは分からない。いずれにせよハッターブは世界中に出没する外部参画型の過激派だった。そして彼は次の戦場としてチェチェンを選んだ。1995年頃、チェチェン共和国内のセルジェニ=ユルト村に軍事宗教キャンプを設立しここでイスラム戦士を訓練した。彼らと共に第一次チェチェン紛争へ参画していく。
1996年4月16日にシャトイ地域におけるヤルィシャマルディの戦い(Бой у Ярышмарды)でロシア軍第245自動車化歩兵連隊の一部に待ち伏せ攻撃を成功させた。その戦果は彼の優れた軍事手腕を示していた。ロシア軍側は73~95人が戦死し21台の車両を失ったという。
展開された戦術は、アフガニスタンなどで見られていた渓谷の交通路での待ち伏せにおける典型的なものだ。
14時20分、細長く伸び切ったロシア軍の車列先頭の戦車に対し、仕掛けていた高火力爆弾を爆破させ全体の動きを停めさせる。その瞬間に渓谷両側の高台にある岩陰から一斉にゲリラ兵が射撃を開始した。RPGには指揮車両らしき対象を特に狙わせた。
(後尾に当たる箇所にもハッターブは爆弾を複数仕掛けておりロシア軍の位置と時間は彼の読み通りであったが、爆弾は不発で彼の狙いは完璧とはいかなかった。)
ハッターブの狙いは車列の両端であった。ロシア軍の車列の前列部隊には両側から射撃、後列にも同じく両側から射撃し集中砲火を浴びせる。車列全体が機能不全になる中で中央部分にも主に片側から射撃し続け拘束、状況次第では破壊していった。射撃は予め入念に準備された火点から連続的に行われたという。
夕刻に戦闘は収束していった。ハッターブは夕闇に紛れて完全に部隊を撤退させた。
この戦闘は第一次チェチェン紛争の中でゲリラ勢力が成功させた攻撃としてはかなり大きなものであり、ハッターブの権威はチェチェンにいる反ロシア勢力の間で高まっていった。チェチェン内部での宗教対立、利権争いの中でハッターブ率いるイスラム過激派が伸張したのはこういった軍事的貢献の面もあった。彼は世俗派の思惑から離れ、対ロシアの戦闘を遂行しようとしていた。コーカサス全域でイスラム過激派は独自の行動を取り始めていたのである。
第2次チェチェン紛争の始まりと初期段階
1999年8月、ハッターブ達過激派は隣国ダゲスタン共和国(ロシア連邦構成国)へ侵攻した。同時にロシア国内でテロ活動を行うよう呼びかけ複数の事件が起きる。ダゲスタンに軍を送った後ゲリラ根拠地を絶とうとするロシア連邦軍は再度チェチェンへと侵攻した。これでなし崩しに他の独立派も戦闘を避けられなくなった。ただ今度のロシアは変化が起きていた。ハッターブが動いたのと同じ1999年8月、ウラジーミル・プーチンという男がロシア首相代行となる。エリツィン大統領より彼の方が主導的に国政を動かし始めていた。プーチンのチェチェンに対する態度はかなり強硬なものだった。
まずチェチェン・イケチリア共和国指導者の首は完全にすげ替えることを最初から決めていた。指導者マスハドフ将軍はロシアとはむしろ融和的かつ対話重視の方針を現実的に取ろうとしており過激派を煙たがっていたが、結局コントロールできず責任だけが積もるようになっていた。プーチンはチェチェン統治は別の人物にもはやさせるしかないことを決断していたのだ。マスハドフ政権の首都グロズヌイを制圧することに躊躇いは皆無であった。
軍事面ではチェチェン北域の制圧を最初の作戦目標とした。(図の濃緑)理由はいくつかあるが、特に平野部をまず完全に得ようとする作戦方針が大きかった。チェチェンは南部にいくにつれて山岳地帯が増える。戦線をいきなり山岳地帯奥深くまで細長く広げるとどうなるかロシア軍はわかっていた。首都及び平野外縁部の山岳地帯までが最初の段階だった。
ロシアはスペツナズなど特殊部隊を含む多数の部隊をコーカサスに再度展開する。侵攻は損失を最小限に抑えるため空爆や砲撃が重視され歩兵同士の直接戦闘は可能な限り避けるようになされていた。少しずつであるがロシア連邦軍は再編に成功していたことがわかってきた。ロシア地上軍が複数方向から侵攻し数ヶ月でチェチェン北域を制圧していく。首都グロズヌイは頑強に抵抗しロシア軍の損害を増加させたが耐えきれず2000年2月前半に制圧された。
山岳地帯でのロシア軍の作戦方針 [Mountain Operation]
ロシア軍の進展に対しハッターブは戦力を保てている間に打撃を与えなければならないと確信していく。ただ彼は都市部で死守戦などする気は毛頭なかった。ロシア軍が戦線を広げ己の望む山岳地帯へ入り込むのを待った。しかしロシア軍の山岳域作戦は彼の想定以上のものだった。ロシア軍は北域平野部及び主要都市に対する作戦と山岳地帯作戦のフェイズを分けていたとされる。次の段階に連続し平野外縁部山岳地帯に「解放」作戦を開始ししたのは12月半ばである。
作戦方針は基本的に空挺またはヘリボーン部隊を投入し周辺に支配的な位置関係を持つ高地を制圧、それから主力軍が山岳展開するといったものだ。
この方針通りグロズヌイ南方のシャロ・アルグン山峡へ空挺部隊(Десантники:デサントニキ)が投入され、そしてアルグン山峡を遮断するよう奥部の交通の要処にヘリボーンが行われた。
それから連邦軍の歩兵が山の麓へ展開していった。敵武装勢力による平野部への侵入・浸透を防ぐため彼らは強化点に陣地構築を逐次行った。(更に前進するための前線基地でもあった)
「我々は武装勢力を下方からではなく、上から、山から攻撃するよう企図していた」
(C.W.Blandy, "Chechnya: Two Federal Disasters"より抜粋)
これにより2000年2月のグロズヌイ南方での山岳地帯武装勢力は一部が分断されてしまった。更に助攻として並行して国境付近の部隊が南方の敵補給路の阻止を目指し動いていた。山岳地帯掃討作戦が近づいていた。
2000年2月10日、連邦軍はイトゥム・カレ町を支配下に置いた。19日までに彼らは土木工事を実施し山岳地帯へ入り進むための道路の建設と補強を完了した。環境は容易なものではなく、標高1500~2500mの山岳を時に地雷原をかき分け押し通していかねばならなかった。少なくとも384個の地雷と236個の爆発物、16の無線操作型指向性地雷が発見された。
「2ヶ月以上かけて60km以上を達成した。言い換えれば1日1kmだ。」
2月18日、最初の特殊偵察部隊の梯団(1個偵察歩兵隊、1個迫撃砲小隊、対戦車、火炎放射器、そして工兵隊)がAl’piyskiy山に降下した。
72時間で高地で陣地構築をしていた30人の武装勢力を倒した。それから偵察部隊は砲撃と空爆のための観測や偵察を実行した。グムルタイコルトの尾根では狙撃手が大きな効果を発揮した。
2月22日、ロシア軍にとっての作戦の転換点が訪れた。それはセリメンタウゼン村とマフケティ村を占拠した瞬間であった。これによりシャトイ地域の武装勢力は周辺と分断されることになる位置をロシア軍はとったのだ。特にウルス・マルタン地域、シャトイ地域、ヴェジェノ地域の中にある武装勢力の基地間の移動が阻害された。
2月25日、トロシェフ将軍(4月に北コーカサス軍管区司令官となる)は「シャトイ地域はアルグン山峡で分断された。包囲環は締め付けつつある。次は除去が始められる」と述べた。(この時点で主要都市ウルス・マルタン市とシャリ市も侵攻が進んでいたはずである)
2月27日、ここ数日のロシア軍の進展に伴い、バラバラに分断した各武装勢力を順次粉砕していく企図が報告された。シャトイ町の南東わずか5kmのユケルチ・ケロイ村が空挺部隊により封鎖された。更に包囲環北東部でも部隊が着々と展開しグロズヌイ南域の包囲環はほぼ出来上がっていた。
ロシア軍の行動は理想通りには行ったわけではなく反撃を幾つも受けていたが、ハッターブは明らかに危機的な状況にあった。ロシア軍の活動する中央域に彼の部隊のかなりの数が取り残されており。緊要高地を抑えられた武装勢力の大部隊は脱出できず危険な状態にあった。
故にハッターブは戦力を保持できている内に突破に出たいと考えた。小規模な攻撃即離脱ではない、ロシア軍のある程度の部隊を殲滅し山岳の包囲環に穴を開け脱出することを目標とするものだ。
2月29日うるう日、巨大なリスクを冒し彼は攻撃命令を出した。場所は包囲環北部のウルス・ケルト町であった。そして776高地の戦いが始まる。
776高地の戦い_条件
【地形】
ウルス・ケルト。そこは首都グロズヌイの南36kmの位置にある小さな町である。すぐ南には広大な山岳地帯が広がり平野の玄関口から山に少し入った位置にあたる。ウルス・ケルト町から南東の山に少し入ると急激に険しくなる。山からは2本の川が町に向かって流れ合体して三角地帯を形成する。西のシャロアガン川と東のアバズルゴル川である。(この2本は先のアルグン川の支流)
南方に行くに連れ標高は高くなる。途中でややなだらかになる地点があり、その内の町に近い箇所に705.6高地と776高地があった。これらは尾根にあたる。この高地付近を通るように山には路が整備され登っていく。
【気象】
季節はまだ冬であり、コーカサス山岳地帯の厳しい気候の中での活動となる。最低気温は-5℃前後に到達した。
【戦力】
チェチェン武装勢力:約1600 (最大2500)指揮官:アミール・ハッターブ
作戦目標:包囲環脱出
戦術目標:ロシア軍第104連隊の高台に位置する中隊の撃滅後、東へ突破
※ロシア国内の報道機関は年々この数を増やして報道しているため米軍の記述に基づいた。
ロシア軍:第104親衛落下傘連隊(所属:3個空挺大隊、1個砲兵大隊)
指揮官:メレンチェフ大佐(連隊指揮官)、マルク中佐(第2大隊指揮官)
作戦目標:包囲環北域の突破阻止及び当該域敵撃滅
戦術目標:2月28日付け付与任務=「29日14:00までにウルス・ケルト町の南方4キロ線へ前進」
砲兵隊には2S9ノーナ自走砲が配備されていた。これは空挺部隊用のパラシュート投下可能な高機動車両であり、120mm砲は迫撃も直射も可能な性能を持っていた。
この山岳戦で空挺部隊に貴重な砲兵支援を提供し活躍した。
776高地の戦い_接敵
2月28日にロシア軍の主力である第31空挺旅団がシャトイ町に踏み込んだ。第一次チェチェン紛争の頃にハッターブに反撃を食らった町はあっさりと陥落した。そこにハッターブの主力はいなかったのだ。ハッターブは1000名を超える兵力を散らばっていた南部山岳各地からウルス・ケルト町近辺へ集結させた。この行軍の規模をロシア軍は把握していなかった。北東には第76親衛空挺師団が展開して山中を行軍していた。
包囲環北東部の遮断を担当していた第76空挺師団の中に第104親衛落下傘連隊があった。連隊は敵がいると見込まれるウルス・ケルト町へじわじわと山中から迫っていた。ただ彼らは山岳で急激な前進を求められたため各中隊が分散していた。
【第3中隊の東部からの接近と停止】
第3中隊がウルス・ケルト東アバズルゴル川沿いにある高台へ進軍した。ここで最初にロシア軍と武装勢力で戦闘が発生する。だがハッターブの武装勢力は火力支援を受けるロシア軍第3中隊によって跳ね返され高台は占拠された。ハッターブの兵は姿を消した。ただ武装勢力はかなり用意周到に縦深に塹壕を張り巡らしており、全方位への攻撃、偵察を可能としていた。ハッターブはアバズルゴル川沿いに行軍をするのを辞めることを決めたという。つまりこの戦闘は威力偵察であった。
【第6中隊の南部への展開】
第104連隊所属の第2空挺大隊はウルス・ケルト南部山峡の高地・尾根付近に展開していっていた。彼らの任務の1つとして山中に武装勢力が浸透することを防ぐというものがあった。連隊長のメレンチェフは第6中隊指揮官モロドフ隊長へ緊要高地を抑えるよう命令した。ただこのモロドフ中隊長はつい先日この中隊へ配属されたばかりでまだ兵卒を掌握できておらず、この場では第2大隊長のマルク中佐が実質の指揮をとっていた。
ロシア軍は高地で陣地線構築を行い、チェチェン武装勢力が逃げるであろう方向へ備えた。ハッターブは単に山中を逃走するだけではこういったロシア軍の対応の下に撃滅されることを感じており、だからこそ攻撃して中隊を撃滅して突破する必要性がありなおかつ奇襲性もあると判断した。
マルク中佐は第6中隊へ776高地へ着いた後も行軍を続け705.6高地へ下るよう指示をだした。
厳しい寒さの中、ロシア軍空挺部隊は木々繁る山岳地帯で重い装備を背負い陣地構築を行っては進軍し続ける過酷な任務を必死でこなしていた。
【ハッターブ軍の展開】
ハッターブは第104連隊の通信を傍受することに成功し、更に偵察を徹底的に行いロシア軍の情報をかなりの精度で得ていたと言われている。彼は尾根付近で連続した行軍を続ける中隊に狙いを定めた。他の部隊との距離と地形障害を正確に測定し戦術を組み立てる。ウルス・ケルト町で迎え撃つのでは敵の複数方向から外線的に迫る攻勢を受け、更に町にいるのはバレているため奇襲ができない。ロシア軍がウルス・ケルトとその周辺の緊要地を到達地として進んできているのは判っている。それなら討って出て敵の各中隊が分散している間に戦闘に持ち込むしかないと彼は考えた。
776高地の戦い_Battle of Height 776
【2/29_会敵】
2月29日正午前、第6中隊に所属する2つの小隊は776高地についていたが3つめの小隊は遅れていた。マルク中佐は偵察分隊を先行させておいたので進軍先の705.6高地に5名が既に着いていた。それに続くように中隊の部隊をマルク中佐は動かした。12:30に705.6高地にいる偵察部隊は約20人の敵兵が山の中を動いているのを発見した。偵察部隊は気づかれないように接近することに成功しグレネードで先制攻撃を行った。だがこれで位置がバレてしまった。ハッターブの兵は反撃を行う。偵察の空挺兵たちは中隊主力のいる776高地へ後退を始めた。ハッターブの兵は追撃を開始する。ハッターブの突破作戦の始まりである。
その頃モロドフ中隊長は偵察隊が危機になりつつある連絡を受け、急ぎ救援部隊を組織し自ら率いて776高地を出立した。しかし少数の武装勢力兵士のすぐ後ろには戦闘部隊の後続が控えていた。(米軍のトソーラス中佐曰く「前衛の偵察小部隊とそのすぐ後ろに強力な戦闘部隊を配置させる、どんな邂逅であろうと即時に主導権を取りに来るソ連式偵察ドクトリン」)
ハッターブの兵は急速に増大し、踏み込んできたモロドフ中隊長の部隊を迎撃した。想定外の事態が第6中隊を襲う。ハッターブの部隊は山肌を凄まじい速度で移動し敵側面を攻撃、更に防御の薄い後背へも連続的に回り込み銃撃をした。第6中隊は大損害を出しモロドフ中隊長までもがこの戦闘で戦死する。
【2/29_776高地への撤退】
第6中隊は後退し776高地の防御陣地へ大急ぎで向かった。ハッターブは継続的に彼らを自動小銃やRPG、迫撃砲で攻撃した。第6中隊はその主力が776高地に着いていたのに数で圧倒的に劣ることがわかってきた。ハッターブは近隣一体の武装勢力の大部分を集中することで優位を生み出していたのだ。追撃と同時に2つの別働隊が山岳部を疾走、高地へ多角的に接近し包囲攻撃を形成した。ただこれはかつてのハッターブの受動的に待ち伏せる戦闘とは違い、高地の陣地にいるロシア軍を低地から登っていき能動的に包囲攻撃するという形態であった。そのため待ち伏せのような効率的な攻撃成功はできずハッターブ軍にもかなりの損害が出た。
29日の終わりには第6中隊は戦死者のみで部隊の33%に及ぶ甚大な被害をだしている。だがこれは戦闘の1日目が終わったに過ぎなかった。
【3/1_救援と阻止】
マルク中佐は敵の連続的な攻撃を見て、ほぼ全周の包囲を受けておりかつ敵は1000人前後いるであろうことを悟った。彼は連隊長のメレンチェフへ支援要請を送っていた。北にいる第3中隊、南にいる第4中隊、そして東にいる第1中隊に増援に行くようメレンチェフは指令を飛ばした。
3/1、日も昇らぬ早朝から東より第1中隊が急ぐ。彼らはアバズルゴル川を渡ればすぐ第6中隊のいる高台の下にでられる。
だが渡河しようとした第1中隊は不意に銃撃を受けた。ハッターブは救援ルートを読み進路上の最適となる渡河地点で既に待ち伏せをしていたのだ。伏撃に対して必死で第1中隊は突破を何度も試みたが、地理的にあまりに不利な位置であり彼らは川岸に陣地を築いて撃ち合うしかなくなった。第1中隊の救援は阻止されたのだ。
03:00同じく早朝、南からは第4中隊が向かう。
しかしハッターブはこの第4中隊の動きもほぼ読んで先に動いていた。第4中隊の本体が解囲部隊として突撃を始める前に、第4中隊主力の側方から伏撃をハッターブ軍別働隊が仕掛けたのだ。また第4中隊は787高地を保持する任務も帯びてもいたため放棄はできなかった。第4中隊主力はその位置で拘束されてしまった。その間も常に第6中隊へ波状攻撃は続く。
(※ 第4中隊内の第3小隊は先行して突破に成功し第6中隊のもとに辿り着いたという説と、前日に合流しており逆に脱出したという2つの解釈があるがいずれもどのように突破したかは不明)
北方にいた第3中隊も動いていた。ウルス・ケルト東方の要処を占拠していた彼らは保有する3個小隊のうち2個小隊を救援に向かわせた。だが高地の端に上がりかけた時、やはりここでも待ち伏せ攻撃を受けた。
これらハッターブの戦術的な判断能力は信じがたいほどのものがある。またロシア軍に気づかれずにハッターブの要求を達成した別働隊兵士たちの練度も特筆に値する。2方向から第3中隊を伏撃し完全に足止めした。
以上、連隊長メレンチェフの差し向けた3個中隊の進行ルートは全てが完璧に把握・予測されておりハッターブは最低限の兵力で全ての部隊を拘束した。特に第1中隊を川で待ち伏せし止めたのは60人程度の武装勢力だったとされる。
ところで砲兵支援と航空支援についてだが、これがどうもはっきりしない。一応は連隊付き砲兵隊から支援を受けていたようだがその量は足りていなかった。効果が限定された理由は連日の移動もあっただろうが、何よりも敵位置情報の不足である。尾根の反対側が敵主力であることに加え入り組んだ山中である。そして前線部隊が釘付けにされ索敵が充分にできない状態だった。
一方で航空支援について、戦闘ヘリが配備されたいたのだが彼らは日中しか主な活動ができていなかった。この連隊用で夜間戦闘が可能なヘリが1機しかなかったという報告と合致している。加えて一帯が霧に覆われ山中の敵味方の位置がはっきりしなかったこともヘリの活動を著しく制限した。
こういった活動を阻害する要素をハッターブはほぼ全て考慮に入れていたからこそ大兵力を投入していた。それでも砲兵もヘリ部隊も活動可能な限り第6中隊を支援し膨大な被害をハッターブ軍にださせたという。
【防衛線の破綻と大隊長の砲撃要請】
四方から武装勢力は自動小銃とグレネードを第6中隊へ浴びせ続ける。将校までも次々と死傷していった。次第に包囲下の兵士たちは自分の行く末をわかっていったという。ここに至りハッターブの戦術方針は誰の目にも明らかになったのだろう。ウルス・ケルト町にいると考えて外線的に進むロシア軍各中隊が集まりきる前に、一部隊に狙いを定め兵力を集中し撃滅、包囲環に穴を開け突破するのだ。その部隊は高地を先に占拠し上から迎え撃つというロシア軍作戦方針の要となる尾根を抑えて進んでくる第6中隊である。周囲の他中隊は最小限の兵力を予測される救援ルートに配備し伏撃、拘束する。この間に第6中隊を迅速に壊滅させれば脱出作戦は確実なものとなる。
そのためにハッターブは惜しげもなく兵を投入した。普段のゲリラ戦とは違う、膨大な被害を出し続ける突撃であった。そしてついにチェチェン武装勢力の兵士が第6中隊の防御線を一部で突破した。ハッターブはそこから部隊を侵入させロシア軍との肉弾戦に持ち込んだ。
第2大隊長マルク中佐は既に負傷していた。彼は無線を取り連隊本部へ砲兵支援を要請した。砲兵はどこを撃てばよいか彼らの情報を元に決めていた。ハッターブは頻繁に兵士を移動させていた。接近されもはやマルク中佐にも有効な敵位置を把握している余裕などなかった。だがたった1つ確実に敵兵がいると分かる場所があった。マルク中佐の叫ぶような要請が無線から聞こえた。
「私自身がいる場所に砲撃を要請する」
06:10、マルク中佐からの連絡は完全に途絶した。ロシア軍砲兵隊は(おそらく要請後即時に)砲撃を開始、甚大な損害をハッターブの突撃部隊に与えた。高地の辺りは比較的木々が少なかったというのもある。包囲攻撃が進展したために逆に戦力が集まりすぎ、砲撃目標が明確になったのかもしれない。(後にロシア軍はこの戦いで味方の砲撃による死者が出た可能性を認めている。)
【追い詰められる部隊】
3/1終了時点での第6中隊は63%が戦死していた。負傷者まで含めた率は80~100%に到達していたと考えられる。だが第6中隊の残存部隊は壮絶なこの戦闘をまだ終わらせなかった。彼らは防衛線の残る場所に集まり戦いを継続する。この彼らの戦闘継続は作戦的に重要な意味を持っていた。
ハッターブは突破箇所だけでなくあらゆる方向から波状攻撃を仕掛け続けた。既に数百人の死傷者が出ていたはずである。それにも関わらず彼は貴重な戦力をこの突撃に投入させた。ゲリラ戦ならばもっと効率の良いスタイルをしてきた彼がなぜここまで戦力を一瞬で損失させるしかなかったのか。それは彼の作戦的な目標が巨大な渓谷地帯包囲環からの脱出であったからだ。
部隊を最小単位までバラバラにし各自で逃走させた場合、次々と拠点を神出鬼没の空挺に抑えられる時勢で再集合は非常に危険であり、山狩りでどれほど撃滅されるか不明だった。ハッターブにはこの選択肢もあったのだが突破からの脱出の方を選んだのだ。そのための戦術的な目標が第6中隊の殲滅であり、これを達成できなければ逃走ルートを完全に観測され猛烈な砲撃と航空攻撃・追撃を食らう。
かといって第6中隊殲滅に時間をかけすぎると周囲の足止めが突破されこんどは自分たちが戦術的に包囲される。故にハッターブはこれほどの損失を覚悟して波状攻撃を連続させた。戦術的な観点では第6中隊を絶望的戦況に追い込んだ彼の指揮は見事なものだったのかもしれない。だが第6中隊の想定を遥かに超える抵抗は刻一刻と彼から脱出作戦成功の時間を奪っていた。
追い詰められていたのはハッターブの部隊だった。
【3/2_崩壊】
3/2になっても波状攻撃は続いた。変わらず第6中隊は抵抗を辞めることはない。朝の終わり頃、第1中隊が東から阻止部隊を突破し疲れ切りながらも包囲攻撃をする武装勢力の場所へ到達した。ただ損耗していたことと相手のあまりの数の多さに解囲成功はできなかった。だがいよいよハッターブにとっての破綻が迫っていたことを示していた。第6中隊の残存は将校1人と32人の兵士のみである。暫定的に中隊の指揮を引き継いでいたソコロフ大尉は手に怪我を負いながら戦っていたという。彼は生存者に最後の防御組織を編成させると、プロシェフ軍曹以下6人の最も若い兵士たちに脱出を命じた。
そしてハッターブの突撃が再び始まった。ソコロフ大尉もまた砲兵隊に自分の場所を伝え、そこに砲撃をするよう要請した。それしか突撃をやめさせる術はなかった。この日少なくとも中隊の16人が死亡した。
【3/3_最後の抵抗】
3月3日、ハッターブ最後の攻撃が行われた。そのころ解囲のために来ていた部隊が脱出してきたプロシェフ軍曹の極小の部隊を発見し保護した。ソコロフ大尉たちが776高地で敵の注意をひいていた隙きをくぐってきたのだ。彼ら脱出部隊の6人は全員が生還し、そして彼らだけが776高地の部隊での生き残りとなった。最後まで776高地に残っていたソコロフ大尉たち11人の空挺部隊はそれでも抵抗を続け、全員が戦死した。
第6中隊は4日間もの間、圧倒的な数から包囲攻撃を受けながらも耐え続けたのだ。ハッターブはここに至り作戦の破綻を受け入れざるを得なかった。第6中隊を消滅させたのは彼にとっての最後の抵抗だった。ロシア軍の解囲部隊は今やそこら中に迫ってきている。連日の砲撃を受け続けたことで膨大な死傷者が出てもいた。一部は戦闘を途中で切り上げ脱出していたのかもしれないがかなりの数がロシア軍の広域包囲環の中に取り残されていた。
ハッターブは残存部隊が尾根を越えていくことを諦めウルス・ケルト町方向へ撤退を始めた。迫っていたロシア軍空挺部隊は彼らを追撃する。戦闘ヘリも攻撃を行いチェチェン武装勢力は長距離に渡り被害を拡大させた。更に逃走を図って集まっていた武装勢力を見つけ多くの捕虜を得たという。
戦果とその後
3/3中に776高地の戦いは終わった。第6中隊は6人の脱出者を残し他全員が戦死した。死亡した将校は大隊長と中隊長含む13名である。またこれ以外にも解囲戦や山岳掃討戦でも死傷者を出した。
ハッターブ率いる武装勢力は死者だけで約400人、更に膨大な負傷者をこの戦いの結果だした。
彼は第6中隊の殲滅という戦術的な目標の1つは達成した。だが短時間でするという目標は達成されずそれは作戦目標であるロシア軍の広域包囲環からの主力部隊脱出を失敗させた。そもそもこれほどの死傷者はハッターブの多くはない兵力からすれば痛すぎる損失である。
米軍による表現のまま記すならば、776高地の戦いで「ハッターブはピュロスの勝利を勝ち得た」のである。
当然ロシア軍は山岳包囲環を収縮し残っているチェチェン武装勢力の掃討戦を展開した。これによりグロズヌイ南部の山岳戦は終わる。776高地の戦いを含め、兵力が残っていたことで武装勢力は抵抗を続け山岳戦でのロシア軍の損失率を非常に高めた。
その後ハッターブはこれほど大規模な部隊を運用できることはなかった。彼は確かに山岳戦での優れた戦術家としてロシアのみならず世界中に名を知らしめた。いくつかの戦術的戦闘は勝利したのかもしれない。それでもこの一連のロシア軍山岳作戦は彼の敗北であると言われる。
彼は出直した。極小規模の軽快な部隊運用によりゲリラ戦を展開し再びロシア軍を少しずつだが確実に苦しめた。ロシア国内でのテロ活動を呼びかけ多くの事件に関与したと言われる。
2002年3月、FSB(旧KGB)によって雇われた人物が彼に手紙を渡した。その手紙には猛毒が仕込まれておりハッターブは絶命したという。
終わりに
ハッターブはアフガン、タジキスタン、チェチェンで共通してロシア人の殺害に重きを置く傾向がありました。それが作戦域に影響を及ぼしたと考えられます。ソ連軍からも讃えられたアフガニスタンの将マスードとの最大の違いはここにあったのでしょう。
紛争の引き金となったハッターブが死んでも第2次チェチェン紛争は続きました。独立運動とイスラム過激派の活動が混在し、中にはロシア国内の政争に利用されたという説を唱える者もいます。776高地の戦いはロシア国内で盛んにプロパガンダが為されました。ロシア政府はこの戦闘の死者を最初過小に発表していましたが途中から転換し、むしろ復讐戦という形に使用し更に兵士には模範とするかのように宣伝しました。それを第6中隊の死を継戦に利用したと批難するか、無駄にしないように活用したと語るかは各人の立場により違うのだと思います。
そういったことは別とし、本稿は米軍のウィルモス軍曹とトソーラス中佐の記述を引用し終えることとします。
" 6th Company accomplished its mission. "
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以上、かなり長くなった拙稿を読んでいただき本当にありがとうございます。
____________________
【参考文献】
C.W.Blandy, (2002), "Chechnya: Two Federal Disasters"
Mark Galeotti, (2015) "Spetsnaz: Russia’s Special Forces"
Sergeant. M.D.Wilmoth, Lt.Col. Peter G.Tsouras, (2001), "An Airborne Company’s Last Stand" US Army Reserve, Retired
Ali Askerov, (2015), "Historical Dictionary of the Chechen Conflict"
【サイト】
http://www.rosinform.ru/vdv/359938-shestaya-rota-prikazano-stat-geroyami/
http://www.defensionem.com/height-776-chechnya-6th-company/
https://www.hrw.org/legacy/reports/2001/chechnya/Disapfin-02.htm#P375_76100
http://army.lv/ru/%C2%ABMi-shli-na-pomoshch-shestoy-rote...%C2%BB/79/4585
https://vk.com/page-60767131_49264633
http://mosmonitor.ru/news/army/shestaya-rota
http://sdrvdv.ru/news/podvig-6-j-roty-boj-pod-ulus-kertom/
http://www.straikbol.ru/books/tactic/tactical-symbols-(symbols)
http://gubernia.pskovregion.org/number_478/03.php
【動画】
ロシアのドキュメンタリーニュース:概略だが3D地図あり:1分15~
https://www.youtube.com/watch?v=TSOqK5FwC2o
____________
【メモ】
ハッターブの行軍手法
「各々30人からなる2つの偵察部隊、その後ろに50名からなる2つの戦闘部隊があり慎重に行軍する」
東部集団司令官:トロシェフ上級大将
作戦集団司令官:ヴィクトール・カザンツェフ(北コーカサス統合軍集団司令官)
※ボロビエフ大佐の報告では第2大隊は2000年1月に戦地に到着しており充分な戦闘経験があったわけではないという。また予算不足で軽量素材の装備を持てなかった。(22~27kg)
6th Company had barely survived three basic errors:
failure to establish an all-around defense;
failure to aggressively conduct reconnaisance of the enemy’s expected approach route, especially given the Chechen reputation for tactical skill, reconnaisance and working around the flanks;
and failure to heed warnings about the Chechen force’s approach.