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He promised himself battle. He promised himself vicotry. And he promised himself lots and lots of blood.
      ー『 神の剣:ハーリド・イブン・ワリードの生涯と戦役集』第1章より抜粋 ー 
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 本稿はイスラム勃興を支えた不世出の将ハーリド・イブン・アル・ワリードの参加した数多の戦役とその会戦における指揮を追っていくものである。そしてその中で彼がなぜ圧倒的な戦歴にも関わらず不遇の扱いを受けたのか、特にその軍事勢力の特性から紹介したい。

イスラムの勃興
< イスラム勃興期の急激な勢力拡大 >

0-1. ハーリドの歴史上の扱われ方

 ハーリド・イブン・アル・ワリード خالد بن الوليد Khalid ibn al-Walid 

 その将の名はイスラム圏において文字通り伝説となっている。イスラム共同体は預言者ムハンマドと彼に続いた正統カリフによる時代に凄まじい勢力の膨張を成し遂げた。その勃興期において数多くの将、戦士たちが軍事史に名を刻んだが中でもハーリドの軍事業績は突出している。それはムハンマド自身が名付けたと言われる「神の剣」という二つ名に象徴付けられているであろう。
 故に後の時代のイスラム武装勢力が憧れと共に不相応に彼の名を語ることは珍しくない。

 しかしハーリドは時に厳しい批判に晒される人生を歩んでいる。イスラムの書物では敬虔であったと書かれるが、果たして宗教的に感化されてムハンマドの味方についたのは真実かと疑念を抱かせることもある。他ならぬムハンマドが、そして正統カリフがハーリドの行為を非難しているのである。故にイスラム聖職者や民衆そして政治学者からの扱いは極めてデリケートなものがある。
 (彼の宗教思想について本稿で深く考察することはしない。あくまで軍事に絞っていくことを承知されたい。)

 それでも多くの歴史家達は危うい存在であることを認めながらも軍事面には高い評価をしている。なぜなら信徒たちの宗教的情熱に基づく支持ではなく、その残された戦闘記録によって明確に示される論理的な軍事行動こそがハーリドの名を広めているからである。それは英語圏での彼に関する書物が同時代のムスリム武将と比較すればはるかに充実していることからも窺い知れる。

 6~7世紀の戦いであるためその資料は朧げで各史学者独自の解釈が多分に含まれるが、その知名度が幸いし盛んに議論がなされ様々な視点が生まれていることも彼の戦歴を述べる上で重要である。

 (例えば、上記の「神の剣」という言葉をムハンマドが言ったと記述しているのは数世紀後の文献が初出ではないかとの指摘もある。)

0-2. 軍事的特性

 ハーリドの軍生涯を記す上で重要なのが、彼が極めて専門的な職業軍人に近い生活を送っていたということである。封土を与えられそこでの利権を基に政治行政権力を伸ばした他の僚友たちと違い、次々と戦場を渡り歩くことで彼の力は保たれていた。権力を遠征軍内とその暫定統治域で高めたがメッカ中枢での政治権力はその名声の割に低い、あるいは関心が薄いのである。
 戦争は本来何らかの目的のための手段であるが、ハーリドにとっては戦争こそが目的であったのではないかと疑わせるきらいすらある。

 次々と勝利を上げしかも名門軍人であったため兵卒からの人気は高く、ハーリドもまた指揮下の兵卒に対して親身になる傾向が合った。彼の配下の軍勢はその一部が私兵化していたとみなす場合もある。
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 更に騎兵指揮官として彼は特徴づけられる。始まりから晩年までその騎兵操術は彼の戦術、作戦そして戦略の根幹を支える要素として明確に現れる。
 それは運動戦の優れた使い手として注目される点である。

 数々の一騎打ちの逸話が残っており勇敢さと軍事的名誉にはこだわりを伺わせる。ただし時に戦術的に一騎打ちを行っている場合も見られ使い分けていたようである。

 部隊の編成、遠征時の統率、戦役における各作戦の構築、移動の計画、会戦での戦術、そして退却行にいたるまでい具体的に優れた指導の記録が残されている。小部隊~遠征軍全体まであらゆる規模の指揮官を経験しており、挙句に一兵卒として従軍してもいる。

 だが逆にこれらの在り方こそが深刻な問題となり、彼の危うい立場を示すこととなる。

 以上を各戦役、会戦を追いながら今後詳解していきたい。

0-3. イスラム発生前の時代地域背景

 ハーリドの戦役を記す前に、前提として当時の時代地域背景を概要であるが説明しておく必要がある。

 当時のアラビアは東ローマ(ビザンツ)とササン朝(ペルシャ)という2大国の影響を色濃く受けている。加えてアフリカからの文明の十字路でもあったため黒人奴隷、傭兵の伝搬もあったようである。砂漠の遊牧民はベドウィンと呼ばれ馬とラクダを使いこなし、厳しい環境の中で独特の風土を築き戦士も輩出していた。
 故に優れた軍制や技術に関しては知識が無いと考えるのは誤りである。
 ただしアラビアには集権的な統一国家は当時存在しておらず各部族が割拠している状態だったため、高度で大規模かつ継続的な訓練を受けているような軍隊組織はほぼ存在しなかった。よって先進的な軍隊だったとは贔屓目に考えたとしても言えないだろう。
 また、中東には東ローマとササン朝の覇権争いの下でガッサーン朝などの様々な従属、緩衝勢力が存在しており地方で各々が権勢を奮っていた。
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 西アラビアでは伝統のあるクライシュ族の貴族支配が進んでおり、その中でもムハンマドの属するハーシム家、宗教的中枢のカーバ神殿の管理者であったアブドッダール家、そしてハーリドの生まれたマフズーム家は主要3大一門であった。この門閥が主にイスラム最初期の対立勢力であり、同時にその一部が有力な味方となった。
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 貴族化の影響からかアラビア騎士と時に呼称される軍事貴族は欧州や他の地域と同様に、名誉を重んじ、喩え優れた戦術行動であっても、卑怯な手と彼らが認識する手法であれば行うことを嫌う傾向が見られた。一騎打ちを好んだのはその代表たるものであった。
 それ故に旧アラビア騎士の軍事は「戦術的に稚拙で後進だった」と総括されることがある。ムスリムはムハンマド以前を「無明の時代」と呼んでいる背景も有り、一概にアラビアの軍事知識が劣っていたと支持はできない。ただし今後のムハンマドの戦争に対する意識改革の重要性を把握する上で背景として考慮にいれておく必要があるであろう。旧アラビア騎士の特性は各戦例において一部を紹介したいと思う。
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 各家の興亡こそあれ、クライシュ族の勢力は総合的に見てかなり強大になっていた。
 東ローマとササン朝の度重なる戦争によりシルクロードは一時的に衰退し、商人たちが別のルートを求め南部の海路及び砂漠の通行路を使用したことで、情報や物資の行きかいが増大しアラビアの各勢力を潜在的に強化していたからである。
 よって勿論イスラム勃興期の特質である他勢力の取り込みがなければその完成は訪れなかったではあろうが、アラビア勢力膨張の基盤の一部はできていたとも考えられる。
 また、メッカのクライシュ族は周辺の各信仰勢力へ影響を及ぼし、様々な聖遺物をカーバ神殿へ集積し多神教の聖地と化すことで参拝・観光地としての収入源と権威性の両方を得ようとしていた。
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       <イスラム発生直前のアラビア諸部族>
 補給及び移動路に関して、砂漠化が当時既に進んでおり著しい影響を与えている。内陸部は大河以外では水路が限られ、道路網も東ローマの統治域に比べると恵まれているとは言えなかった。更に温度は高く熱射は万民を襲い、水源の少なさがそれに拍車をかけた。軍隊の移動はすぐに死活を問われてしまう過酷な環境であったと考えなければならない。
 ただしユーフラテス、シリア、エジプトにまたがる肥沃な三角地帯は健在であり灌漑農業施設も崩壊しておらず(かといってかつてほど高度に整備されていたとも言い難いが)食料に関しては穀倉地帯付近ではかなり大規模な兵力を養えることが可能だったようである。
 またユーフラテス流域及びペルシャ湾、紅海、地中海、インド洋に囲まれており外周域の水運は比較的充実していた。
Main Routes


これらを踏まえた上で、次回からハーリドの戦歴を追っていくこととする。

【次回】 
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【参考文献】

Akram, Agha Ibrahim, (2004) 『The Sword of Allah: Khalid bin al-Waleed – His Life and Campaigns』 Oxford University
Powers, David, (2009) 『Muhammad Is Not the Father of Any of Your Men』University of Pennsylvania
Kaegi, Walter Emil, (1995) 『Byzantium and the Early Islamic Conquests』
Cambridge University
       同, (2003)『Heraclius, Emperor of Byzantium』 Cambridge University
Firestone, Rueven, (1999)『Jihad: The Origin of Holy War in Islam』 Oxford University
Nadia Maria El-Cheikh 『Byzantium Viewed by the Arabs』Harvard CMES
David Nicolle, (1994)『Yarmuk 636 A.D.: The Muslim Conquest of Syria』Osprey
小杉泰, (2006)『イスラーム帝国のジハード』講談社
その他各種ネット上のサイト