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2-1. イスラム初の会戦 ー バドルの三叉路の戦い ー

 
メッカvsメディナ
 西暦624年、イスラム勢力にとって史上初の会戦が訪れた。場所はバドルの三叉路と呼ばれる3つの道の交差点だった。この戦いにハーリド・イブン・アル・ワリードは加わってはいない。ただこの戦いは来たるハーリドの才能が初めて歴史に現れるウフドの戦いの直前の戦いであり、ハーリドの敵将としてのムハンマドの軍事手腕を語る上で欠かせないためここに記述することとする。

2-2. 『将軍』としてのムハンマド

 イスラムの指導者ムハンマドは宗教家だが同時に政治家であり行政の改革者であり商人であり、そして将軍であった。日本では意外と知られていないが彼はいくつかの会戦で直接の指揮をとり優れた手腕を見せている。
 その戦闘手法にも彼の個性が現れている所が実に興味深い。鮮やかなマニューバで敵を撃滅するといった類ではなく、むしろ宗教や政治分野と同じく、軍事においても意識改革をアラビアの民に促したのである。
 それは最初の会戦、バドルの戦いから明確に現れている。

2-3. バドルの戦いへ至る過程

 624年、メッカ・クライシュ族の有力者アブー・スフヤーンは大規模な隊商を率いてシリアとの間の貿易を行って帰ってくる途上だった。情報を得たメディナのイスラム勢力はこの隊商を襲撃する計画を立てた。シリアからメッカに戻る路はメディナの西側、紅海を沿ったルートを通る。ラクダ1000頭に及ぶスフヤーンの隊商を襲えば大規模なメッカの報復があることは確実であった。
 メディナを出たイスラム側の軍勢はわずか300人余りで運搬ラクダが70頭、騎馬は何と2騎のみだった。
 行き違いにならないようにムハンマドは南に向かい道の合流点であるバドルで待ち構えることとした。斥候で現地の女性たちから隊商が2日以内に到着するとの情報を得た。
Map+of+Badr+Sea+Route

 対するメッカ隊商のスフヤーンも警戒して注意深い行動をとっていた。襲撃を予想して護衛は強大にしており、斥候も頻繁にだしていた。スフヤーンは自らバドルまで斥候にいき、直前に別の怪しげな男たちが来ていたことを知った。スフヤーンは残されていたラクダの糞を砕き、中にナツメヤシのたねを見つけると「メディナの連中だ」と察知した。そして彼は隊商を休ませずに急いでかわすこととした。
 この逸話から、そしてムハンマドとの熾烈な勢力争いからわかるようにスフヤーンは優秀な人物だったようである。彼は後にウマイヤ朝を開くムアーウィアの父であった。

 一方でメッカにいるハカム達クライシュ勢力は隊商襲撃計画を聞き慌てて迎撃するため軍を招集し出発した。その数は約1000名であったと言う。すれ違ったスフヤーンは隊商は無事切り抜けたので帰投するよう伝令を飛ばしたが、大々的に軍を集め出立したハカム達はもはや戦う決意を固めていた。このことからもメッカの有力者達は一枚岩でなかったことが伺える。派閥合議制が軍にも影響をもたらしていたのである。
 そしてバドルの戦いが火蓋を切られることとなる。

2-4. ムハンマドによる戦闘意識改革

 まずムハンマドは士気を上げることに成功していた。メディナ周囲の人々は皆イスラム信徒というわけではないが、協力繁栄のためアカバの誓いと呼ばれるものでムハンマドを守ることを誓約していた。こういった誓いは商人と武人の行き交う地では信用に関わるため守ることは非常に重要であった。ただしアカバの誓いはメディナの町の中の話であり外のバドルでは本来守る義務はないと言えた。しかしバドルで敗れれば必然的にメッカは脅かされる。メディナの同盟者たちは誓いを超えて戦闘に参加することを決めたのはおかしなことではないのである。
 いかなる理由であれ、誓い以上のことをして命をかけてくれた仲間がいるという事実はイスラムの戦士たちの士気を大いに上げた。元々宗教的連帯感は非常に強く殉教という価値観もあるためメッカの急ごしらえの兵士よりも遥かに士気は勝っていたのである。

 ムハンマドは戦闘の価値観にも変化をもたらした。名誉を重んじるあまり一騎打ちにこだわりすぎる、一兵卒まで一騎打ちばかりすることすらあった当時のアラブ歩兵たちに対してムハンマドは将軍以外の一騎打ちを禁じ、更に隊列を組んで戦うように厳命した。
 これは言うは易く行うは難いことだった。すぐさまそれを実現できたのはムハンマドのカリスマ、あるいは宗教的権威を利用したためと推測できる。こういった合理的な利用をするのがムハンマドという将軍であった。

2-5. 水源をとった地形選択

 そして何より地形選択を適切にムハンマドは行った。泉を抑えたのである。バドルの戦域では丘と泉の2箇所の要所があった。先に到着したとはいえ両方を抑える戦力はなかった。そこで水源の確保を優先する配置としたのだ。
 これが優れた判断だった。砂漠の行軍は大半が夜行となる。灼熱の日中はテントで体力の消耗を防ぎ日が暮れてから前進するのが通例であった。メッカ軍が到着した時は夜明け、敵前で1000名分もの水飲み場を確保するのは困難でありすぐにでも戦闘に移りたいとハカム達メッカ軍は考えざるを得なかったのである。

2-6. バドルの戦い

 即ち主導権をムハンマドは得ていたのである。にも関わらずメッカの兵卒達は数が数倍あることに気づき緩んでしまったのである。
バドルの戦い
  <中世に描かれたバドルの戦闘の様相。天使が描かれ、この戦いが神性に大きな影響をもたらしたことが伺える>

 日が昇ってからまずアラブの慣習通りの少数の代表がでてそれぞれ一騎打ちを繰り広げた。
この一騎打ちでイスラム側は全員が勝利した。特にムハンマドの甥アリーはワリード・イブン・ウトゥバとの戦いに勝ち大いに士気を上げた。更にハカム(シャイバ)はこの一騎打ちで討ち取られてしまったのである。
無題
 その後で兵卒達が攻撃を始めた。
 この時ムハンマドは隊列を槍、弓、剣兵の諸兵科ごとに組んでいた。このやり方は当時のアラブでは珍しかったようである。初めてのことだと述べる歴史家もいるほどである。
 待ち構えて隊列を組み相互に援護しながら攻撃を繰り出したイスラム側の前に、緩んだ上に士気が堕ちていたメッカ軍は跳ね返された。
 特にムハンマドは弓隊の使い方がうまかった。水源を抑え敵を弓の待ち構えている所に釣り出し、尚且つ槍兵と剣兵でしっかりと崩れないようにカバーした。団結力が活きたのである。
 両軍が必死で戦ったが、指導者達が一騎打ちで破れた上に多くの死傷者をだしたことでメッカ軍が先に崩れ、ついに敗走してしまった。
 戦術的には、優位な地形配置を取り準備を入念に整えた状態で待ち構え、敵の攻撃を耐久後反撃にでて勝利を収めたと分析できる。

2-7. 戦果

 メッカ・クライシュ族軍は約1000名のうち70名が戦死、70名が捕虜となり多くが負傷した。更に指揮官クラスの大半が戦死した。そして捕虜の解放には身代金を払うこととなったのである。
 メディナ・イスラム軍は313名のうち14名が戦死した。ムハンマドは寡兵にも関わらず得た勝利によって神性に説得力を持たすことに成功した。更に軍人たちの間ではその手腕が認められた。
 後に最後の正統カリフとなるアリーはこの戦いで凄まじい剣術の技量を見せた。ムハンマドはアリーの強さは一騎打ちを重視する、重視せざるを得ないこの名誉をかける宗教戦争で大いなる役割を果たせることを確信した。

2-8. ハーリドの出陣

 バドルの戦いはメッカの多神教、クライシュ部族支配の威信を大いに揺るがした。更に主要三部族の男たちが何人も戦死したためパワーバランスが完全に崩れてしまった。隊商を率いていて戻ったアブー・スフヤーンが事実上の指導者となりその後の対イスラム戦争を主導していくこととなる。
 ただでさえ家長が直前に死去していたハーリドにとっては快くない状態であったことは確かであろう。この時期に兄弟を含む一族の者がイスラムへと改宗し、難しい立場となっていく。以前から合った部族権力闘争の中に酷い状態で入り込んだ彼はそこから抜け出す道を求めつつあった。

 そしてハーリドは武門の一族の威信を背負いイスラムへの反撃の会戦へ赴くこととなる。
 625年、ウフドの戦い。後に神の剣と呼ばれる武将がイスラムへその矛先を向け、その圧倒的な才能を証明する。
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【次回 ウフドの戦い ハーリドvsムハンマド】 
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