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3-1. メッカ・クライシュ族の再侵攻とハーリドの参陣 [the battle of Uhud]

メッカvsメディナ
 西暦624年、ムハンマド率いるメディナ・イスラム勢力はバドルの三叉路の戦いで数倍のメッカ・クライシュ族を撃退し有力者の1人ハカムを戦死させた。この寡兵で得た勝利はイスラムを勢いづかせるには充分であり、メディナの勢力は更に増大を始めた。
 一方で権威を失墜させ有力者を何人も失ったメッカ・クライシュ族は焦っていた。交易と参拝で成り立つメッカで部族と己が神の沽券を失えば取り返しがつかないことに成ってしまう。有力者が戦死したことで事実上の指導者となったスフヤーンは、部族会議を開き復讐を行うことを決定した。
 スフヤーンはバドルと同じ戦い方では勝てないことを悟っていた。彼は時間をかけ充分な準備をしてから出撃することに決めた。バドルの戦いから1年弱たった625年、スフヤーンは装備を整えると復讐戦を開始した。その中には騎兵部隊等の隊長格として参画したハーリドの姿があった。
 家族の中には既にイスラム側に行ってしまった者もいたが、武門の一族マフズーム家の誇りを賭け彼は戦いに赴く。


3-2. スフヤーンの戦争準備

 ハーリドとその戦友イクリマはバドルの戦いの後で捕虜の解放交渉のためにイスラム側へ赴いたと伝えられている。身代金を払い捕虜となっていた兄を解放したが、ハーリドの兄は自由になるとイスラムへ帰依しメッカを離れていった。

 スフヤーンは復讐戦の準備を進めていたがその間にも経済戦争は続いていた。メッカ北部のルートはメディナ・イスラム勢力(以下イスラム側と呼称)圏内を通るため強奪の危機に常に晒され、どう対策しても多額の出費を迫られるのである。
 こうした経済的理由に加えて、部族支配世界では復讐をいつまでもしなければ面子に関わることであったため、次の戦闘を急ぐ必要があった。

 イクリマ達の要請に従いスフヤーンは輸送ラクダ、騎馬そして武具を急ピッチで揃えていった。周辺からもクライシュ族の威光と資金を使い協力を仰ぎ兵士をかき集めた。騎兵はその従卒と共に集団を編成しハーリドとその友イクリマの指揮下に置くこととした。30代前半であったがハーリドは既にメッカ・クライシュ側(以下メッカ側と呼称)の中では抜きん出た騎兵操術を持っていたと思われる。スフヤーンは今の彼にできる最善を尽くしていた。

3-3. メディナ・イスラム側の内部問題

 ところでイスラム側も万事うまく行っているというわけではなかった。勢力の巨大化に伴い派閥争いが起き始めた。初期の実力者イブン・ウバイイは露骨に自分の派閥を形成し主導権を握ろうとしていた。ある小遠征ではウバイイ派とそれ以外で争いが深刻化し分裂しそうになったため、ムハンマドは日中の砂漠行軍を命じ、誰もが疲れ果てて内輪もめなどできる体力をなくしてしまう等といった手法でしのいでいた。

 またこれまで同盟者であった人々も本格的なメッカとの闘争で今後の身の振り方について悩み始めていた。その典型的なものがメディナ及びその周辺のユダヤ系部族であった。スフヤーンはこれらの部族と連絡を取り、メッカ側につくか少なくとも中立と成るよう分離工作を進めた。
 イスラムへ降ることを嫌いメディナの街からメッカに着いた者もいた。アブー・アミルという男がそうであり、彼は自分の部族へ影響力が有りメディナの地理状況をよく知ってもいた。

3-4. 両軍の戦力

 バドルの戦いから1年弱たち、ついにスフヤーン率いるメッカ軍は侵攻を開始する。
 その兵力はバドルより遥かに充実していた。総勢3000人うち騎兵200騎を揃えていた。その内700名が鎖帷子の鎧を装備しラクダも多数を揃えていた。鎖帷子をつけているのが700名というのは大国と比べればみすぼらしく思えるかもしれないが、当時のアラビアで街の男子を急に集めただけではこの戦力は決してできない。スフヤーンの軍備調整は特筆に値するだろう。そして後の大国との戦いが如何に困難だったかも伺わせる。
army of Muhammad
< ムハンマド期のアラビア兵士 >
 ムハンマドも近々の敵侵攻を当然予期しており、周辺部族から情報を集め兵力も増やしていた。
 前回から遥かに多い1000名の戦力(内約100人が鎧を装備)を揃えていた。ただ相変わらず騎兵は僅か2騎でしかなかったし、総勢もメッカ軍のほうが倍以上を揃えていた。

3-5. ウフドへ至る過程_メディナ籠城か討って出るか

 メッカ軍が近づいてきている中、イスラム側ではどのような所で戦うかが議論されていた。騎兵の少なさから移動能力ではハーリド率いる部隊には到底及ばないことは明らかだった。
 老人たちを中心に籠城派がおり、一方で当時のアラビア戦士の気概通り討って出るべきだと訴える派も多く居た。この頃既に殉教思想が信者の中でその端緒を見せている。ムハンマドは慎重にどちらにも意見を聞いていた。ユダヤ等のメッカ内通者達の動きも気になっていたのである。

 しかしその作戦方針を決めたのはイスラム側ではなかったと言える。スフヤーン率いるメッカ軍はメディナ周辺に着くとラクダや馬を放ちメディナの収穫前の畑を荒らし廻った。メディナは農作が一つの支えであったため人々は早く撃退しなければならないと逼迫してしまった。そして出撃派の意見が勝りムハンマドはついにメディナから出陣を決定した。

 当然このメディナ側の内紛とメッカ側が主導権を握ったことは大きな影響をもたらした。まずウバイイ等300人が出陣直後にメディナ軍から離脱してしまった。これで残り700人でメッカ軍3000人と戦わざるを得なくなった。ただ残ったムスリム達は連帯感を強め高い士気を持っていた。

3-6. 布陣_山麓

 それでも将軍としてムハンマドはその戦術的思考に全力を尽くした。彼の選んだ戦場はウフド山の麓だった。
Uhud-current map
<現在のウフド山周辺>

 イスラム軍の右翼は到底戦闘できる岩山ではなく、左翼端は少し山から突き出る形の低めの丘であることに着目しその間に密集陣配置を行った。
 岩肌の険しいウフド山によって背と側面を守り、整然とした槍、剣、そして弓隊の配置で正面から来る敵を待ち構える方針である。それだけではない、50人の弓隊を編成戦列の端にある高台に陣取らせそこから矢を降らせる戦術を採用した。彼は弓隊には「我軍が勝ち戦利品を取り始めるのを見ても持ち場を離れてはならない。もし我軍が負け危機に陥っていても同じく持ち場を離れてはならない」と高台からの射撃に徹することを厳命した。バドルの戦いでもそうだっったが弓隊の活かし方と守り方をムハンマドは戦術上重視していたのである。また、この戦いでも以前同様ムハンマドは一騎打ちを兵卒たちには禁ずる旨を通達していた。

 一方のメッカ軍は会戦に応じてイスラム軍の前に進軍し、戦陣キャンプを設置し来たる戦いに備えた。
 戦いの日が来ると、山のすそから軍を横列で広げ、正面に陣形を展開した。
 メッカ軍左翼の騎兵はハーリドの幼少から友イクリマが率い、スフヤーンは中央の主力軍を指導し、そしてハーリドは右翼の騎兵と従卒歩兵を指揮した。騎兵は純粋に騎兵科のみで独立しているというわけでは無いことが多く、欧州の騎士と同じように歩兵従卒が基本的についていた。ただしやはり戦闘の推移によっては騎兵のみがその移動力で行動する時があったようである。
01
【時間】
625年3月頃 06:00時以降(日中)
【場所】
アラビア半島ウフド山麓 
 赤:メッカ
 青:イスラム

【兵力】
メッカ軍:歩兵2800
      騎兵200

イスラム軍:歩兵700 (弓兵50以上)
       騎兵2
【司令部】
メッカ軍:中央及び総司令官:スフヤーン
     右翼:ハーリド・イブン・アル・ワリード
     左翼:イクリマ

イスラム軍:総司令官:ムハンマド
<  ウフドの戦い 初期配置 以下戦況図 編纂者作成 >

こうしてウフドの山の麓で戦いが始まったのである。

3-7. 序盤:前哨戦~一騎打ち

02 日が昇ると両軍が布陣し準備を整え戦闘が開始される。
 この戦いの最初の攻撃はメッカ軍側のアブー・アミル(メディナから離脱しメッカに加わっていた)の手勢などの前衛がまず行った。
 アブー・アミルは容易にイスラム軍の戦列を突破できると踏んでいたようで、不用意に突撃した。
 戦列に近づくとイスラム軍は投石などの投擲攻撃を一斉に行った。
 アミルの攻勢はあまりに工夫がなかった。イスラム側が瓦解寸前だと思いこんでいたフシすらありキャンプまで行って略奪品を得ようという魂胆が明らかだった。といっても略奪品を得るのは勝者の権利として当時のアラビア部族間抗争では常識であった。

 とにかくイスラム軍の攻撃をもろに受けてしまったアミルの部隊はほとんど接近戦を行えぬまま退却せざるを得なかった。
 そしてアミル自身が戦死したため士気は落ちきり、そのまま後方のキャンプに戻っていってしまった。



03 イスラム軍が依然として団結力を強くもっていることにスフヤーンは苦悩した。
 ここでメッカ軍の何人かの武将が風習通りの名誉をかけた一騎打ちを申し出た。これはムハンマドの狙い通りであった。ムハンマドは一般の兵卒には一騎打ちを厳禁していたが、将であるアリーには申し出を受けるように言いつけておいた。
 アリーは20代中盤であり若く力強さと剣技術を兼ね揃えていた。最初の一騎打ちは一瞬で終わりアリーが相手を斬り倒した。
 続いてメッカ軍の何人かの有力者達が面子をかけて一騎打ちに名乗り出たが、次々とアリーに打倒されるだけであった。

 ハーリドは一騎打ちには自信があったが、アリーからは遠く離れた右翼だったことと、アリーの強さは彼ですらリスクが高いという認識、そして戦術上の理由があったであろう。ここで名乗りでることはしなかった。
 
 アリーの連勝でイスラム軍の士気は非常に高くなった。後方では女性たちが声を張り上げ鼓舞している。
 スフヤーンはある程度一騎打ちが落ち着くと、アリーを倒すことは現実的でないことを悟り、軍勢によって勝負を決することを命じた。

3-8. 中盤前半:メッカ軍の正面攻撃

 08 スフヤーンは正面攻撃をメッカ軍に命じた。総攻撃ではないと思われるがそれでもかなりの数の部隊がイスラム戦列に押し寄せた。

 ハーリドの右翼はまず歩兵を動かしたようである。

 ここでムハンマドの戦術的配置が活きた。
 イスラム軍は待ち構えていることもあり、戦闘で接触の最初は優位に立てた。メッカ軍は数は多いが利益目当てで集められた兵士が多分に含まれていたと考えられている。彼らは決死の突撃などほとんどしたがることはなかったであろう。殉教の精神すらもつ宗教型軍隊の踏みとどまる力の前に突破を阻まれてしまった。

 更にイスラム軍左翼端に配置された弓兵が高台から剥き出しのメッカ軍歩兵に矢を浴びせた。斜め側面からの攻撃のような形になり、縦射に近いため矢の命中率は更に上がった。高台であるためそう簡単に近寄らせなかった。
第一波は完全に失敗し、それから何度か試みたが結局部隊は退いてしまった。

09 また、メッカ軍はムハンマドのような精神的な改革を促すようなイデオロギーを持っていなかった。スフヤーンは権力者であったがそれは部族の慣習の基盤の上にあるものであった。
 メッカ軍の兵士は一騎打ちなどの正面から正々堂々という価値観を持ったままであったと推察されている。集団戦法という練度は低いと言わざるを得なかったであろう。

 ここでハーリドは騎兵を動かして見ることにした。退くメッカ軍歩兵隊に気を引きつけられ、隙ができているのではないかと探りを入れたのである。条件がよければ一挙に弓兵の懐に飛び込んで斜面を駆け上がり襲撃するつもりであったのであろう。

 しかしムハンマドの厳命を受けていた弓兵はその場での射撃に集中していた。メッカ軍がまだまだ戦う余裕を持ち崩れていなかったというのも理由にあるだろう。
 ハーリドの騎兵隊は牽制射撃を受け近寄れなかった。あるいは大損害を覚悟で突撃すれば50人の弓兵を駆逐はできたかもしれない。しかしそのようなことが彼と部下たちにとって本当に意義があるとは考えなかったであろう。
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 ハーリドはそれから少なくとも三度は機会を伺ったが弓隊は隙を見せなかったことと、友軍が攻撃を中止して一旦戻っていっている様子を見て騎兵を退かせることにした。

 ハーリドの騎兵隊もほとんど被害はなかった。これだけで彼がただの蛮勇の将ではないことを示していた。


 この時点での両軍の被害はそこまで大きくはなかったが特にイスラム側はほとんど死者をだしていなかった。ただムハンマドのおじのハムザが戦死するなど無傷であったわけではないようである。

3-9. 中盤中期:ハーリドの前線離脱


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 ここで驚くべき行動をハーリドがとった。

 一旦戦闘の初期位置付近に騎兵隊を戻し落ち着かせたハーリドは、突如として騎兵隊のみで後方へ移動し始めた。

 その時に右翼指揮下の歩兵隊に指示をだしていたと推測されるが、その結果が現れるのはもう少ししてからである。

 これは最初から計画されていた行動では決して無かった。スフヤーンには知らされていなかったことから鑑みるにハーリドの瞬間的な閃きである。ただしその思考は最初の布陣からここまでの経過を入念に彼が分析した上での結論であった。

 いずれにせよこれを見たイスラム軍側は大いにその士気を上げた。

3-10. 中盤後半:イスラム軍の前進

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 スフヤーンは右翼の事態に驚いた。勇敢で知られていたハーリドがあまりにあっさりと離れていってしまうことは予測していなかったのも当然である。
 しかもそこまで大きな被害をだしているようには思えなかった。
 ただスフヤーンはここで諦めることはしなかった。この程度で逃げてはそれこそメッカ・クライシュ族の威信は崩壊し完全にイスラムに趨勢を決せられてしまうであろう。


 この当たりの時間の動きははっきりしていない。ただ少なくともスフヤーンは戦いを続行したようだ。
 また、ハーリドの騎兵隊の姿は見えなくなるか、あるいは戦線離脱したとイスラム軍側が考えるような位置にいっていたのは確かである。



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 スフヤーンは諦めず攻撃したが結果は同じであった。
むしろイスラム軍の士気を更に上げるだけの結果に終わってしまった。

 イスラム軍は待ち受けて左翼端からの弓射撃の援護の下で各戦列が集団戦法を取り、効果的にメッカ軍の攻撃を跳ね返した。
 メッカ軍が崩れだしたのはやはりハーリドの騎兵隊が抜け、更に弓兵の射撃を受けていた右翼からであった。

 イスラム軍は左翼から押し始め、次第に前進することに成功した。スフヤーンは指示を飛ばしていたが集団訓練などほとんどしていないであろうメッカ軍では数がまだまだ優位であったとしても、流れを変えることは難しかった。

 バドルの戦いと同じように、待ち構えて各戦列部隊が連携をとって攻撃し相手が気後れした所で一気に押し返す、その戦術は有効であった。されどこの時スフヤーンの粘りのためか、メッカ軍はじりじりと後退するのみで崩壊はしなかった。



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 メッカ軍右翼はもはや完全に後退の様相を見せていた。
 それを見たイスラム軍左翼はこのチャンスを逃す手はないと大きく前進し、中央なども続いたようである。

 スフヤーンの激が飛び戦闘は続いているがメッカ軍右翼はキャンプまで戻っていってしまった。
 イスラム軍左翼は追いかけてついに敵のキャンプまで到着した。

 そこにはメッカの物資山積みにされていたようだ。
 もはやイスラム軍左翼は勝利を確信し歓喜と共に目の前の戦利品を奪い始めた。

 それを見た左翼端で陣取っていた弓兵達も勝利を確信した。そしてこの左翼の勝利は己の弓の力でもたらしたと考えていたであろう。彼らは最初にムハンマドに厳命されていたことを忘れ持ち場を放棄してしまう。
 イスラム軍左翼弓隊50人のうち40人が丘から降りてキャンプの略奪に加わわりに行ってしまった。弓兵達はその権利があると考えていたのだ。

 イスラム軍にとっては不幸なことに、そして軍事的には驚くべきことに、これらの行動は全てハーリドの読み通りであった。離脱したかに見えた彼の部隊はその時、イスラム軍左翼高台の弓兵の真後ろに来ていたのである。

3-11. 終盤:ハーリドの片翼包囲

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 ハーリドの部隊は離脱したのではなかった。そう思わせておき、敵の注意がそれた所で戦場に戻ってきていた。しかもそれは彼らの死角となる丘の逆側であった。
 
 これらを可能にしたのは騎兵の移動力に他ならなかった。そしてそれを活かす術を認知していたハーリドの指揮能力である。

 山の麓から彼の騎兵隊は一部が下馬し最速で斜面を駆け上がっていった。そして彼らがイスラム軍弓隊の背後に到着する頃、メッカ軍のキャンプでイスラム軍左翼は無防備に後方を晒しながら略奪に勤しみ始めたのであった。

 この瞬間にハーリドは高台に残った僅かなイスラム軍弓隊を襲撃し一瞬で駆逐した。被害をほぼ皆無に抑えて高台を奪い取ったのである。

 この高台の動きが合図であったのであろう。示し合わせていたように、そして恐らくまず間違いなくそうであったであろう、メッカ軍の右翼の退いていた部隊が突如反撃に出た。

16  略奪品漁りのために隊列を崩していたイスラム軍左翼はまさかの攻撃を受けてしまった。メッカ軍も態勢は整っていなかったため充分な攻撃ではなかったが立て直すことは少なくとも成功したようである。

 そしてそれはハーリドにとって充分であった。

  高台をとったハーリドの部隊は今やイスラム軍の後方も側面もどこにでも望めたのである。
 ハーリドはまずイスラム軍左翼の後方を襲撃、反撃に出ていたメッカ軍右翼部隊と連携し挟撃の形になった。

 突然の正面の反撃と背後からの攻撃に晒されたイスラム軍左翼はもはやどうしようも無かった。
急激な勢いで崩れだし降伏者が相次いだのは仕方のないことであろう。もはや士気でどうにかなるような戦術的状況では無かった。

 中央のスフヤーンは驚いたであろうが、この機を逃すことはなく呼応して全面攻勢を全軍に命じた。
18 更に左翼のイクリマも攻勢に成功していたようである。イクリマの左翼とハーリドの右翼が合流したという説もある。

 優位であり勝利とすら考え始めていたイスラム軍の状況は急激な速度で悪化した。
 後退させ再び隊列を整えているいとますらなかったようだ。

 側面攻撃と一部後背攻撃を行うハーリドにスフヤーンは連携して戦場は片翼包囲の姿を見せ始めていた。イクリマの位置は不確かだがもしハーリドと合流していれば両翼包囲または少なくとも大規模な背撃が行われていたであろう。イクリマの部隊が最初に右翼よりのムハンマドとアリーへ直接突撃したという話も残っている。

 いずれにせよこの時イスラム側に勝ち目は完全に消失していたのは確かである。

 それでもやはりイスラム軍の士気は高く必死で戦いを続けていた。
 だがついにムハンマドに攻撃が届いてしまうほど戦況が悪化した。メッカ軍のある兵士がムハンマドに斬りつけたのだ。


20 ムハンマドは鎧を着ており生きていたが、剣を受けるのを見た周囲の敵味方の一部が、ムハンマドが死んだと叫んだ。

 それからイスラム軍の崩壊は顕実化した。パニックが広がり持ち場を見失う者が続出した。
 ただムハンマドは負傷したもののまだ生を諦めてはいなかった。そして信徒達の一部もそうであったようである。彼らは今や安易な殉教への道を選ばず抵抗を継続する。

 後方地点に旗手が行きそこで再集結を促した。それから山に向かって何とか部隊を退却させ始めたのである。
 そしてここからがアリーがその名をアラビア中に広める戦闘であった。

 アリーは退却部隊の最後尾に立った。
勢いに乗り追撃してくるメッカ軍の前に立ちふさがり、剣先が二股に別れた愛刀を奮った。
 ここで恐らくメッカ軍の兵士たちは古来の習慣である一騎打ちを好む習性からか集団でアリーを押しつぶしたり、投擲武器でなぶり殺しにすることをしようとしなかったようだ。敗戦の殿を務める勇者を相手にそのようなことをしては名誉が傷つくと考えるのは仕方ないかもしれない。現代の戦術的価値観をこの時代に適用し非難することはしてはならないだろう。ムハンマドはアリーを殿にした時点でその可能性を予測していた、または賭けていたと思われる。それ以外にイスラムが存続する道は無かったであろう。

 そしてそれは成功した。多くの死傷者を出しながらもなんとかイスラム軍はウフドの山中に逃れることができたのであった。

3-12. 追撃をしなかったスフヤーン

 会戦には勝利を得たものの、スフヤーンは追撃を徹底しなかった。それ故戦果があまり拡張されることはなくイスラムは再興を図る力を残すことに成功する。これにはアリーの殿の他に理由がいくつかある。

・そもそも追撃をしなければならないという意識が根付いていなかった。中世初期アラビアでは追撃戦の重要性は一部の者は分かっていたようであるがその戦術的マニュアル化、部隊調整をメッカ軍ができていた形跡は無い。
・追撃に至る途上にイスラム軍キャンプがあり、そこでの略奪に兵士が気を逸してしまった。部族抗争では戦利品獲得は兵士の当然の権利であったためこれは従来どおりの行動と言える。
・スフヤーンがこの会戦の勝利で既に充分な効果を上げたと考えた。ムハンマドが敗戦したことでその神性を喪失し、もはや人を引きつける力はなくなりイスラムは衰退していくだろうと考えたことである。

3-13. 戦果

 会戦においては明白なメッカ側の勝利。しかし追撃による戦果の拡張が充分に行われず、戦略的にはイスラム撃滅の最後の機会を逸することとなる。

 会戦の死傷者は以下の通り。
 メッカ軍総勢3000人のうち死者22~37人(約1%) +負傷者不明。
 イスラム軍総勢700人のうち死者70~75人(約10%)+負傷者多数。
battle of uhud-gif
 この戦いはハーリドの名声を大いに高めた。そしてイスラム側は、特にムハンマドは彼の柔軟なマニューバを実行できる能力を認識することとなった。後にハーリドがイスラムに加わった時、比較的高い指揮格を与えられたのはこのためであったと考えられている。

3-14. その後

 ムハンマドは負傷から回復し、メディナもまたイスラムを見捨てることはしなかった。その後急速にイスラムは勢いを取り戻していく。ウフドの会戦の後で戻っていくメッカ軍に少数の追撃部隊を出して、完敗だと思わせないようにした。このチャンスでメディナまたはイスラムにとどめを刺さなかったスフヤーンの判断は戦略的に大きな間違いであったことが判明するのである。
 ただ彼を擁護的に見るならば、ムハンマドが死んだと思っていたこともあるし、これまでの敵ならばここまでの損害を与えれば衰退していきもはやメッカ・クライシュの敵でなくなっていたため、スフヤーンが愚かであると言うことはできない。
 イスラムの既存のアラビアの概念を改良し時に打ち崩すイデオロギーの特殊性。ムハンマド、そして後のカリフら初期有力者たちの実務能力は歴史上稀有なものである。
 またムハンマドは自身の無事が兵士たちに強い影響を及ぼすことを経験し、安易に身を危険に晒すことは周りのためにもならないことだと再認識した。
 
 ハーリドにとってこの戦いの後の戦友達との出会いがあった。特にシリア戦役で彼に全幅の信頼を置いてくれることになるアブー・ウバイダはイスラム側として、ハーリドに次ぐ名将としてエジプトを制圧するアムル・イブン・アル・アースはメッカ側として参軍していた。

 そしてハーリドはイスラムを打ち破ったにも関わらずこれまでの、そしてその後の出来事を踏まえ次第にメッカに幻滅しイスラム寄りになっていく。
 彼が最後の対イスラム戦闘に関わるのは627年の塹壕の戦いであったと言われている。その時には既にハーリドの態度は大きく変わっていた。
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【次回 塹壕の戦い】 
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【歴史探求者向け余談】

 この戦いは中世初期であるためやはりどうしても資料は乏しく、また敗者のイスラム側が後の支配者となるため正確性には疑問符が付きます。更にマニューバは残された断片的文章からの推察となり議論の余地があります。
 代表的なものがハーリドの騎兵隊が果たして友軍左翼の更に向こうの山から迂回していったのか、といった点です。ハーリドは最初の攻撃が成功しなかった後で部隊を離脱させたのは確かですが、それが右翼の遠方であったという説があります。右翼遠方説が支持される最大の理由は、左翼を廻った場合は時間的に間に合わないのではないか、という所です。画像を見れば分かる通り標高はともかくかなり岩肌の険しい山ですので私も難しいのではないかと思っています。それ故もしハーリドが左翼迂回を成功させたなら、最初の攻勢の後はほとんど迷いなく時間のロスをせずに行軍したことになるでしょう。
 ただし右翼遠方離脱説はイスラム側からするとまず見失うことはないような位置ですので、土煙等を考慮しても弓隊等イスラム左翼部隊があまりに軽率な動きをしたということになります。これも当時の練度からすれば充分有り得ますが。


 そして実はこれに関わる争点として、そもそも戦場の場所が少しずれた位置であったという議論がなされています。山の手前に一部突出した丘があり、それは弓兵の丘と呼ばれています。そこに配置されていたのではないかと言う説です。その場合は右翼遠方及びイクリマ左翼部隊との合流の可能性が出てきます。(左翼部隊と合流できていたなら左翼が早期に突破成功していなければならずやや戦況と矛盾が残りますが)
 『神の剣:ハーリド・イブン・アル・ワリードの生涯とその戦役集』では右翼遠方説の方を採用しています。
 ただこの位置はあまり戦術的に優れておらず、メッカ側が必ずしも正面攻撃をしてくるというほど選択肢を狭められる地理状況でないため、ムハンマドがそのような判断をしたかと言う点で疑問符が付きます。
 
 私は今回は左翼迂回説を採用しています。左翼迂回をした場合はハーリドの部隊はかなり疲弊していたはずで、敵左翼と中央を攻撃した後で、敵を殲滅しなかったことに理屈が通るからです。
 ただ、いずれにせよハーリドの戦術的能力は非常に優れているのは間違いないでしょう。