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 ウフドの戦いで示した偽装退却、小迂回、背面攻撃、そして片翼包囲への迷いのない連続的戦術はハーリドの後の戦いで振るう戦術の前触れとも言えた。ただウフドは数で圧倒しておりハーリドだけでなく友人のイクリマ、総司令官のスフヤーンの手腕による所もあっただろう。ハーリド個人が抜きん出た才能を示すのはイスラムに加わってからであった。今回記述する627年の塹壕の戦いは彼がイスラムと戦った最後の会戦である。

4-1. ウフドの戦いの後

メッカvsメディナ
 ウフドの戦いはハーリドの活躍も有りメッカ・クライシュ族(以下メッカと呼称)の勝利に終わった。メッカ側の最有力者スフヤーンはメディナ・イスラム勢力(以下イスラムと呼称)がこれで衰退していくであろうと踏んでいた。復讐戦を見事果たしたことで面目は保たれたこともあり、彼はメディナへの突入をすることなくメッカへの帰還の途に着いた。

 しかし彼の予想に反しムハンマドはここから再び立て直していく。彼は敗北したとは言え戦術的には優れた才覚の端緒を見せていた。帰途のメッカ軍を襲撃し自分たちが終わっていないことを内外に示すことにも成功していた。そして2年も絶たぬうちに以前を上回る勢力を獲得するのであった。

 ハーリドはウフドの勝利にも関わらず一族の者が戻っってこないことに関心をいだき始めていた。何より現状のメッカの支配体制に不満があったであろう。

4-2. ムハンマドの立て直し戦略

 ウフドの直後にムハンマドは逆に追撃戦(battle of Hamra al Asad)を行いウフドの敗戦を少しでも払拭しようとした。同時に敗戦を分析し改善するための具体的な思索を施し始めた。
 まずウフドでの崩壊のきっかけとなったのは自分の言いつけを守らなかった人々であることを認識させた。これは持ち場を守らなかった弓兵たちのことだが同時に彼の預言の数々に対する戒めともなりより一体感を強くした。軍事的には指揮系統の改善と言えるだろう。
 追撃戦のときは信頼できるごく少数で行われていたことからも組織性の向上を認識していたことは疑いの余地がない。厳格な軍規を守る軍隊とはそれだけで高練度を意味する。軍事教練こそ難しかったがムハンマドは宗教的、生活共同体としての教義を介して規律を作り組織性を向上していく。飲酒の禁止令が造られたのも627年ごろのことである。

 また、ムハンマドは最初から自身が神の声を預けられた1人の使徒にすぎず特別な聖人扱いしないよう述べていた。ウフドでムハンマドが斬りつけられた瞬間に周りがパニックになったことは彼にとって好ましいことではなかった。自分が死んだら踵を返すのかと問いただしている(コーラン144節)。といっても軍事的に中枢指揮官であり精神的支えである彼を失うことの損失はどうしても致命的であり、軍の組織性のためにもムハンマドは可能な限り剣を交えるようなことをしないようにすることで対策した所が現実的である。

 戦前の内紛も原因の一つだとしっかりと振り返っていた。途中で抜けだしたウバイイ、内通の可能性があったユダヤ周辺部族などに圧力をかけ抑え込んだ。同時にメディナの前に周辺の不穏分子制圧のために小遠征を行うようになっていく。
 カターン域のAsad ibn Khuzaymah族、ネジドやラジ域のLahyan族といったアラビア中央西部に半年もたたぬ内に進み出し、メディナ周辺のユダヤ系ナディル族を攻撃した。これらは1000人に満たぬ少数で素早く行われておりアリーの一騎打ちなどを使用していたようである。ビル・マオナではムスリム70人が殺害されるなどしたがそれでも625年の内に拡大していった。
 続いて行われたDhat al-RiqaやDumat al-Jandal、そしてバドルといった南北の地の制圧をする頃には1000人を超えるようになっていた。これは制圧地の兵を取り込んだことによるだろう。
 バドルに来た報を聞いたメッカ側は急遽ハーリドを含む2000人の軍を編成し出立したが到着する頃にはイスラム軍は去ってしまっていた。ムハンマドはその後もユダヤ系部族と戦いを行って勢力を更に広げた。

4-3. メッカとの再対決へ

 各地が急速にメディナの影響下に置かれるのを見たスフヤーンは自身の戦略的誤りを悟った。そして彼は戦略修正を正しく行った。即ちメディナの完全制圧を戦略目標とする軍事行動を起こすことを決めたのである。
 アラビア西部有数の都市であるメディナ攻略のため入念な準備が進められた。
 1000人を超える軍を既に動かしていたことからメディナで戦えば更にその数倍をイスラムは動員できると予測できた。そこからスフヤーンはメッカの持てる最大の戦力をこの戦いに投入する方針をとった。
 周辺部族の協力だけでなく更に遠くから傭兵まで雇い兵と武具をかき集めた。メッカのクライシュ族というよりアラビアの南西部連合といった様相を見せた軍勢は間違いなくメッカ勢力のピークとなった。逆に言えばここで負ければメディナの支配力は中立的である他の西部、南部、中央部にまで及び、メッカを遥かに上回ることとなるのだ。だがこれは引き分けも許されないことを示していた。スフヤーンは勝たなければならない状況にある意味追い込まれたとも言えた。

4-4. 塹壕の戦い_戦力とハーリドの位置づけ

 メッカの全力を尽くした軍の総数は1万人に上ったと言われている。
 クライシュ族のみで4000人、1500頭のラクダ、300の騎馬、そこに周辺部族と傭兵等が加わった。
 だがそれ故その中ではハーリドは一部族の騎兵隊長でしかなく、決定権は小さなものだった。大きすぎる軍隊では指揮権が小さいと自由度がなくなる。これは彼の地位、権力が高くなかったことを表している。小規模な戦いのほうがまだ彼の能力を発揮できたであろう。

 一方でイスラム側の軍勢は3000人であった。これは以前と比べると数倍に増加していることがわかる。この勢いこそがスフヤーンの恐れたものである。
 それ故であろうか、メッカ軍の侵攻した時期は1月頃であったのだ。アラビアといえど冬は寒冷となる。特に夜間の下がり方は著しいものがあった。仕方ないとはいえこの時期は避けるべきであったかもしれない。

4-5. 塹壕の戦い_ムハンマドの作戦方針

 ムハンマドはウフドの戦いの反省点をほぼ全て取り込んでいた。
 周辺部族から情報を集め、メッカの動きを把握していた。一週間以内にメッカ軍が着くと正確に情報を受け、持ちうる限りの軍を集め、なおかつメディナの人々に参陣してもらった。
 戦略・作戦方針も改善されていた。補給で振り回されないように、予めメディナ周辺の農作物を刈り入れておいた。
 戦闘方法について今回も会議で討って出る案、メディナ籠城案の2通りが出た。市街戦になれば勝とうが負けようがメディナが破壊されるのは確実である。かといって討ってでるとウフドの二の舞になる可能性が高い。相手は大軍だからだ。そこでムハンマドはその両方の良い点を採用する案にしたのだ。市街地への籠城はしないが、相手を防御施設を構築した陣地で待ち構えるという作戦を立てたのだ。即ち、野戦築城である。

4-6. 塹壕の戦い_攻めあぐねるメッカ軍

-Battle-of-Khandaq ムハンマドは人々にメディナの北部と西部に深い堀を作らせた。メディナは周囲を山で囲まれておりその間の谷間を通って交易路が走る地形である。メッカ軍が入ってこれなく成るのは確実であった。
 この野戦築城型の塹壕設置はアラビアでは滅多になかったようだ。少なくともイスラムの記録上ではアラビア史上初の野戦塹壕戦としてそのまま「塹壕の戦い」という固有名詞を付けられることとなったほどである。これでアラブが無知であったと単純に言うべきではない。一騎打ちなどを好む正々堂々の価値観風習の前ではこの戦い方ははっきりと忌避されていたからである。剣を持つ手で土を掘れなど論外であった。理屈が良くても現実に落とし込めなければ意味がなさないのが戦争である。その慣習との戦いにまず勝たなければ戦術を発揮することなどできないという絶対条件をこの戦いは戦史に例を提供してくれている。
 実際ムハンマドですらかなり苦労してる。掘削を命じられた時多くの人、特に戦士たちは不満を述べたという。やはり殉教覚悟で討って出て神の下へなどと言い出したりする者たちの前で、ムハンマドは自らの手で土を掘り始めた。それを見た人々は彼に続いて掘り出したという。
 これはハーリドにも実行は恐らく難しい性質のものであったろう。

 想定外の位置に塹壕が張り巡らされ、メッカの大軍は立ち往生した。とても馬が越えられるような深さではなく、歩兵がなんとか登っていけば対岸で待ち構えるイスラム軍に容易に打ち返された。攻城戦の容易などほとんど持ってきていなかったようだ。
 塹壕のない端の丘などから迂回はしたくでもできなかった。なぜなら今回のイスラム軍は3000人とある程度の規模を揃えていたからである。細い箇所を通らせて眼の前に立ちふさがれたら壊滅してしまう恐れもあった。
 以前より弓隊の使い方のうまかったムハンマドである。塹壕が加われば更に効果的に使用したことであろう。
 加えてムハンマドの主力軍はキャンプを中央の丘に設置した。見晴らしがよくどこにでもすぐ駆けつけられる好位置に恵まれていた。塹壕の前線各所には200名前後の部隊が薄く広がり警戒にあたっており、突破してきたらそこに駆けつけるという予備部隊を使用して投入する迎撃態勢を取った。

 このときハーリドは全く動きを見せていない。少なくとも史書に記されるような行動はしていない。イクリマは比較的動き回って塹壕線の隙を伺っていたようだが結局突破はできなかった。
 一騎当千として知られていたアムル・イブン・アブド・ウッズという戦士が塹壕を超えて僅かな手勢と共に侵入した。そして正々堂々の戦いをするようイスラム勢に叫んだ。するとそこにイスラム側から1人の騎馬が一騎打ちを受けると進み出た。アリーがこの時を待っていたのであった。
 アリーは群衆が見守る中で壮絶な戦いを繰り広げアムルを討ち取った。噂通りの強さを目の当たりにしたメッカ連合側の兵士たちはそれ以後ほとんど塹壕を越えようとしなくなった。夜間などに何度か試みたがそれも失敗した。
 これはムハンマドが予め命令していたと伝えられている。この手の一騎打ち物語は後世の創作が多く入るものである。ただこの戦いだけでなくムハンマドがアリーの強さを戦術の一部として組み込んでいたのは恐らく真実であろう。今回は塹壕と強者という保有要素を効果的に組み合わせたと言える。
Ali 1 on 1
 メッカ軍は明白に手詰まりであった。少なくとも2週間はそのまま攻めあぐねていたようだ。既にこの時点でアラビアでは滅多にない戦闘形態であった。
 ただそれでも挑発してイスラムの戦士たちを塹壕から出てこさせようと常にしていた。スフヤーン自身も塹壕の目の前に姿を表し大声で「このような戦い方はアラブ戦士のものではない!」と叫んだ。これはかなり効果があったようだ。イスラムの戦士たちは以前から我慢し続けていた。ムハンマドらはずいぶんなだめるのに苦労している。

 それにしてもハーリドはこの期間に全く行動を起こしていないのは奇妙である。ウフドの山を駆け上がった彼の移動能力と決断力であれば数百の手勢を率いてメッカに山から侵入するなど難しいことではないように思われる。既に改宗に心が傾いていたとムスリムの歴史家たちが考えるのも無理はない。メッカ連合の中での政治的な駆け引きなどで抑え込まれたか、嫌気が差したことも考えられるだろう。友人のイクリマが駆け回っていることが余計にハーリドのモチベーションの低さを際立たせている。

4-7. ユダヤ系部族との交渉

 その後メッカ側は塹壕の内側にいるメディナ南部のユダヤ系のクライザ(Qurayza)族に目をつけた。ユダヤ系諸部族は当初は中立的でムハンマド側と相互に友好を結ぶ時もあったが次第に勢力を強めたイスラムとは対立が鮮明化していった。クライザ族はこのとき敵対的中立の立場で、条件次第ではメッカ軍に協力するのもやぶさかではない態度をとっていた。スフヤーンは交渉を進めるがムハンマドもこの危機に気付き兵士200名を南部に送り牽制した後で、クライザ族に有利な条件を提示する交渉を行い時間を稼いだ。メッカ側はなんとか締結させようとイクリマを内部に送り込んだようだが、クライザ族が人質を要求するなどしたため難航した。
 そうするうちにメッカ連合の中に紛れ込んでいた親イスラムの有力者が様々な噂を流しメッカ軍の統制を見出した。クライザ族にはもしメッカが勝てば彼らは圧倒的になりユダヤ部族など一掃できる力を持つように成ると説得した。結果的にクライザ族は大規模な行動を起こすこと無く時が過ぎていった。

4-8. 去りゆくハーリド

 この戦いの末期にクライシュ族の極小数の兵士が、イクリマやハーリドの従兄弟が塹壕を越え最後の勝負に出たようである。しかしこれもアリー達に防がれてしまった。ハーリドの従兄弟は塹壕に堕ち石を落とされ戦死したという。
 この直後ようやくハーリドは動いた。彼の直参の部隊を率いて塹壕の前に姿を表した。そこは前日にイクリマが失敗した、従兄弟が死んだ地点であった。これは従兄弟への弔いだろうか、ずいぶんと正直な行動である。当然イスラム側は対岸でそれに気づき、ハーリドに渡らせないように矢を浴びせた。彼もこれには渡れなかった。そして踵を返し引き始めた。
 しかしそれで終わらないのがハーリドと言うべきか、イスラム側がもうハーリドが諦めたと油断した瞬間に彼は突然再び振り向き馬を駆けさせた。数人の部下がハーリドに何も言わずついて飛び出した。そして塹壕を渡ることに成功した。
battle of Trench center
 従兄弟が死んだ場所を越えハーリドは戦った。その先で1人のイスラム兵を殺した。
 だがそこまでだった。そこまでしかするつもりもなかったと思われる。やはり塹壕の先で突破口を広げられないように固めてきたイスラム兵士の壁を前にこれ以上無理はできなかった。

 ハーリドは塹壕を飛び越え去っていった。そしてこれが627年の塹壕の戦いにおける最後の主要な戦闘であった。

4-9. 決する趨勢

 更に数日が経過した。イスラム側も食料は乏しくなってきていた。戦士たちは平常の半分の食事であったとされている。しかしやはり補給がより苦しいのは多勢の攻め手であった。遠距離から食料を輸送するのではとても追いつかなくなっていた。しかも季節は冬である。砂漠の厳しい風が彼らを打ちのめした。離脱する部族集団がいくつも出始めた。最後の4日間は暴風が吹きメッカ軍のテントを弾き飛ばしたと記されている。イスラム側も同じ影響を受けたが苦しみに耐えるという行為はこの手の宗教集団のほうが耐性があったのは不思議ではないであろう。
 塹壕の戦いが始まり約1ヶ月、ついにメッカ連合軍は根負けして撤退を決めたのである。
 即ちこの瞬間こそがスフヤーン率いるメッカが今後も勝ちが無いことをアラビア中に示した時であった。総力を尽くしても勝てぬのならもはや勢いのあるイスラムこそがアラビアで最も影響のある存在に成るとどの部族も考え、次々と協定を結び始めた。メッカ軍のほうがまだ単純な戦力なら強大だったであろう。メッカ軍が崩壊したわけではないことから会戦においてスフヤーンにかなり贔屓目に見れば引き分けと言えなくもない。しかし戦争の趨勢を決める決定的な敗北であった。628年にメッカとメディナは10年の休戦条約を結ぶが勢いを考えればこれはメッカには絶望的な条件であった。
 ムハンマドは戦いの後次のように述べたという伝説が残っている。

"War is Stratagem"

4-10. イスラムへの参加と友イクリマ

"At first he thought mainly of military matters and military objetives" 

 塹壕の戦いの後メッカに戻ったハーリドを既にイスラムに帰依していた兄は熱心に誘ったと記されている。ただ彼はメッカの神々に対する薄い信仰心からも、そしてイスラムの戦争への向き合い方からもいずれイスラム側に来るのは確実と思われていたようだ。
 彼の記録をまとめた歴史家のAkramは、ハーリドが何より優先して考えることは戦争の事柄であり軍事的目標である、と述べている。ムハンマドの見せた既存のアラブの枠組みに囚われない志向は彼にとって好ましいものであったのは明らかである。更にこの先信じられないような部族や地を目指して遠征していく戦争の夢がイスラムからは感じられた。
 ハーリドがメディナに行くことを決めたのは629年の初頭と考えられている。その際のやり取りが残っているのでその信憑性はともかく最後に抜粋してみることとする。

 まずそれを話したのは戦友イクリマにであった。イクリマは衝撃を受けると共に反対した。「我らの神を捨てるのか」イクリマは信じられないかのように尋ねた。
「私は本当の神を信じるようになったよ」ハーリドは答えた。
「全クライシュ族の中でこともあろうに君がそんなことをいうのはおかしいぞ」
「なぜだ?」
「ムスリムこそが君の大切な者たちをたくさん戦いの中で殺したからだ。私はその者のためにムハンマドを決して受け入れられないし、そのふざけた考えを捨てない限り私は二度と君と喋らない。君はムハンマドの血をクライシュの人々が求めてるのを見ていないとでも?」
「それは無知の為せることさ」とハーリドは答えた。
アブー・スフヤーンがハーリドの心変わりをイクリマから聞いた時、彼はこの2人の強者を呼び出して「私が聞いたことは本当なのか?」とハーリドに問うた。
「それで何を聞いたんだ?」ハーリドは逆に尋ねた。
「おまえがムハンマド側に加わることを望んでいることだ」
「ああ。で、なぜダメなんだ?結局の所ムハンマドは我々の一員じゃないか。彼も血族さ」
スフヤーンは激怒し、悲惨な結末を迎えたいようだな、とハーリドを恫喝した。
しかし彼をイクリマが抑えた。「落ち着いてくれ、おぉアブー・スフヤーン!」イクリマは言った。「貴方の怒りが私もムハンマドに加わらせることになるとわかるだろう。ハーリドがどんな神を選ぼうと彼の自由だ。」
イクリマはハーリドの無二の親友だった。彼はハーリドとたとえ信じる神は違っても友のために立ちはだかったのだ。
 その夜ハーリドは鎧と武器、そして馬を持ってムハンマドのもとへ向かった。
 彼がメディナに着いたのは629年5月31日のことであった。

 そして後に彼はその力をイスラムのもとで完全に発揮し、神の剣と呼ばれるようになる。
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→【次回 ムタの戦い_対東ローマ退却戦】 逐次更新予定
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【余談】
 『 神の剣:ハーリド・イブン・ワリードの生涯と戦役集』の塹壕の戦いの章はハーリドの登場が少ないですが、最後に著者のAkramは、彼がその能力を発揮できる戦争を求めてイスラムへ行ったような記述をしています。確かにこの先の戦争で彼のしていくことを踏まえるとそれ以外に無いように感じます。ムハンマドの軍事的才覚がハーリドにとって魅力的であったからこそイスラムは彼を惹きつけたという考え方をAkramはしています。よって本サイトでもムハンマドの戦いをいくつか紹介する必要がありました。
 ただ結局これは後の歴史家達の想像であり、熱心なムスリムであれば彼がイスラムの教えに感化されたと言うでしょう。また、去る際のハーリドのやり取り等はあまり史実性があるとは思いません。どうであれ彼の行動は変わらなかったというのが正直な所です。
 この章がやや特殊なのはハーリドが戦闘中に少しだけ人間味のある動きをしたことです。後の戦争能率の化身の如き彼からは時に本当に人間性を消失し「剣」になっているかのような印象を与えてきます。もちろん戦場の外では違うのですがあまり軍事を重要視していく本サイトではその当たりを記述はしないのでご容赦ください。