ナポレオンの最後の戦い、ワーテルローの戦いで彼を破った勝者として抜群の手腕を認められている人物
初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー

 ワーテルロー以前にインドで快進撃を続けたことで英国内で彼の名声は確立していました。そして続いて対ナポレオン戦争へ挑みスペインでスルト、ジュノー、マッセナ達ナポレオン配下の優れた将軍を相手に優勢に進め欧州中にその名を知らしめます。
 彼は戦略的には攻勢でありながら、会戦では優位な地形を占め態勢を整え相手を待ち受ける守戦を得意とし慎重なその采配は高い評価を得ています。
 
 ただ勿論ウェリントン公は常に優位な地形で防戦という状態を迎えられたわけではありません。時に自分から突撃が必要な際には激烈な攻勢に出ました。
 今回はウェリントン公の指揮官として初期の、そして彼にとって最も血塗れた損失をだした戦いの1つだと言われるアッサイェの戦いについて記載しようと思います。

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※彼がウェリントン公爵位を得るのはまだ先のことでありインド期では本来アーサーと呼ぶべきですが、わかりやすいようにウェリントン公で統一します。

【戦争の背景】イギリス東インド会社の拡大_インド諸藩王国との対立の激化

 イギリス東インド会社(以下:EIC)はインドにおいてオランダやフランスより当初は後発であった。だが英仏の戦争の一貫として海外商業域や植民地域での争いが行われるにつれ勢力を拡大させていく。
 18世紀半ば、ロバート・クライヴという駐在会社員(彼は軍学校教育を受けていない素人であったが各功績で正式な英軍将校となる)を中心にプラッシーの戦いなど軍事的な成功が広がっていき財政難と国内の政変で足踏みしたフランスは逆転されてしまう。
map_of_british_battles_in_india_to_1805
 元々インドは諸藩王国が林立し、ムガル帝国皇帝の緩やかな権威はあったものの各自がほとんど独立して活動していた。そのため諸藩王国同士の争いにフランスとイギリスはつけ込む形で勢力を拡大し、互いに相対する勢力を支援して相手を妨害しようとし続けた。
 しかし18世紀末になるといよいよEICの勢力は諸藩王国を凌ぐようになり、もはや会社という認識では無くイギリス系軍事組織の領土が拡大していることをインド人たちは気づかざるを得なくなっていく。
 かつてはイギリスに協力してその勢力拡大に貢献していた強大なインド南域マイソール王国もその危機を認識し方針を転換した。しかし第4次マイソール戦争の結果EICに屈服し、EICの制圧領土はインド亜大陸東沿岸全域と南端の広大な範囲に及んだ。

 海への出口の過半をEICに抑えられたインド諸藩王国は次々と従属していく。
 最後の対抗勢力は亜大陸内陸部及び北部の藩王国、マラーター同盟であった。

第2次マラーター戦争開始_3大家の連合結成

 マラーター同盟の起りは18世紀初頭、ムガル帝国内乱のおりに広大な覇権地域を中北部に築いたマラーター王国を中心とする各勢力の緩やかなまとまりである。

 当然マラーター同盟を構成する各勢力同士の争いもあり一枚岩ではなかった。特に1761年、北のアフガニスタン勢力との第3次パーニーパットの戦いでの大敗で有力者が多数戦死したことで統率を著しく欠いてしまった。
EIC-area
 シンディア家ボーンスレー家ホールカル家という大家が主にあったが互いに利権争いを繰り広げてしまって同盟の行動はまとまりがなかった。(各家内の争いもその混乱に拍車をかけた)

 マラーター同盟とイギリスとの最初の対決(第1次マラーター戦争)は1775年~1782年まで行われた。
 やはりマラーター同盟内の内紛につけこむかたちでEICが参画したものであった。この戦いでイギリス側は優勢のまま戦争を終える。ただしこれはマラーター同盟との全面対決というわけではなくあくまで海岸部への圧力を排除する意味合いが強かった。
(マイソール戦争に集中するため)

 しかしそれから20年、マイソール王国が敗北しイギリスの勢力がついに内陸部へも具体的な圧力を強め始めたことで状況は変わる。

 マラーター同盟諸藩王国はもはや内紛をしている場合ではないことを覚悟し、ついにシンディア家、ホールカル家、ボーンスレー家の3大家が争いを止め同盟を結びイギリス勢力との対決のため立ち上がった。
<左図緑がマラーター同盟支配域、赤がイギリス系>

 「最初に国家、次に宗教を。我々は我々の国家の利権、宗教やカースト、そして我々の現状を越えて立ち上がらねばならない。あなたがたはイギリスに対し戦わなければならないのだ、私のように」

 ― ホールカル家の名将ヤシュワント・ラーオが各家に向けて書いた手紙 ―

 1803年、第2次マラーター戦争の始まりである。

ウェリントン公の進撃

 後のウェリントン公アーサー・ウェルズリーは1795年にインドに大佐として着任して既にいくつかの戦闘をこなしていた。ただしまだ若く、部下の1人として功績を挙げてはいたが大軍の指揮官として会戦に望んだ経験はほぼ無かった。
wellington1

【ウェリントン公の作戦計画】

 ウェルズリー3兄弟はインドの支配的地位を占めていた。兄はインド総督であり、弟はその秘書、そしてウェリントン公は軍指揮官の上級位である。
 兄の領土拡大戦略に従いウェリントン公は1802年に少将に昇進して軍を率いて出立した。アッサイェの戦いでは若干34歳である。
 彼は拡大戦略を遂行するための戦役計画を兄に提出した。

 作戦展開はモンスーンの雨季に行われるべきとした。理由は主に各河川が拡大し一部が氾濫するといった気象と地形条件を分析したためである。

 これによりマラーターの軽騎兵の高速移動を阻み、マラーターの各大軍の合流が妨害されることを利用し各個撃破を企図していた。
 全体総数で劣るものの各軍の練度は優越していることをイギリス側は確信していた。
 これに基づき1万~2万の直属軍を率いてウェリントン公はインド内陸部へ進撃を開始した。これはマラーター主力軍が動き出す前の先制攻撃となった。

【アフマドナガル城攻略】

 まずシンディア家勢力の居城アフマドナガル城をウェリントン公は狙い北上していった。これはイギリスの同盟国のニザーム藩を援護する意味ももっていた。8月8日に城を包囲し4日間攻撃を加えこれを速やかに陥落させた。
1803_Assaye_campaign.svg アフマドナガル城を制圧し新たな拠点としたことでゴーダ―ヴァリ川以南の地域を確保することに役立った。これにより内陸北部への連絡線と拠点ができたのだ。

 ウェリントン公はかなりの情報システムをインド中央部デカン高原一帯に張り巡らせていたことが現在では判明している。ただしまだこの開戦初期では充分に情報のフィルターができていなかったようだ。

 8月30日、マラーター同盟軍が終結しつつある情報を得たスティーブンソン将軍がアフメドナガル北東のジャルナの地を強襲した。
 シンディア家勢力はここでバラバラに戦い続けることはしなかった。ウェリントン公の狙いに気付き、戦線を下げて追撃から距離を取りジャルナの北方で軍を終結させることにしたのだ。シンディア家とボーンスレー家及び周辺マラーター諸軍が合流することに成功しこれによりマラーター同盟軍は数でかなりの優位にたつことに成功した。

 そん中、わずか10km前後の距離にマラーター軍がいる情報を得たウェリントン公は後退しているマラーター同盟軍へ向かっていき、9月23日、アッサイェ会戦が行われることと成った。

戦力

 イギリス東インド会社軍:野戦軍 約9500人 (うち騎兵1個連隊、大砲17~20門)

             指揮官:アーサー・ウェルズリー少将(後のウェリントン公)

 マラーター同盟軍:野戦軍 約50000
 (うち1万は欧州士官たちに訓練された歩兵、大砲100門前後、非正規軍数万、および数千~数万の騎兵)

          指揮官:マハーダージー・シンディア
              ラグージー・ボーンスレー2世
              アンソニー・ポールマン(元東インド会社軍将校)
74th Campbell's Highlanders
 EIC軍はセポイと呼ばれる現地民を欧州士官が訓練した兵士たちを主力としていたが、そこに英国屈指の精兵として知られる高地連隊なども加わっていた。マスケット銃と銃剣を使いこなし全体としてかなりの戦闘を経験してきている兵士たちである。

 対するマラーター同盟軍は未知数の敵であった。少なくとも約1万の欧州式訓練を施された兵がおり、さらにフランス人やオランダ人の雇われ士官がいたことも指摘されている。ここに数万の現地マラーター各家の支配下の招集兵が加わった。
 当時のフランスの支配者ナポレオンは絶頂期を迎えつつあったが海の向こうのイギリスへの決定打を探し求め、重要な経済拠点のインドを何とか損失させようとマラーター同盟などへの支援を行っていたことも影響している。
 各家の合流軍であるためまとまりは欠き総数ははっきりしないがそれでも各部隊はかなりの戦力であったことは確かである。

 ただしアッサイェ会戦ではボーンスレー家とシンディア家が中心であり、残る大家ホールカル家のヤシュワント・ラーオは合流をまだしていない

地形

【接敵と遮蔽】

 ウェリントン公は軽率ではなく情報を集めようとしていたが、同時にマラーターの大軍の動きを阻害するため素早く進軍することが求められていた。そのためこの時は正確にマラーター同盟軍の位置や数の情報を得ることのないまま接敵してしまうこととなる。
 最大の理由はマラーター同盟軍がその豊富な軽騎兵を使い、ウェリントン公の偵察部隊の活動を妨害し遮蔽していたからである。騎兵の遮蔽は近代戦での非常に大きな役割でありナポレオンも使用して移動を敵から隠している。

【戦場の地形】

 マラーター軍主力はカイトナ川の対岸、北東のジュア川との間に配置されていた。大軍であるためジュア川の北にも別の部隊が陣取っていた。
 ジュア川とカイトナ川は東で合流しており渡河は容易ではなかった。この2つの川の間はアッサイェ町などがあり基本的に平野であるが川の合流する突起部には少し高台もあった。
assaye-battlefield

東の狭隘での渡河

【ウェリントン公自らの偵察】

 23日13:00、接敵したウェリントン公は自ら馬を駆りマラーター軍の偵察を行った。
 そこで敵軍が周辺のほぼ全軍を合流させることに成功し圧倒的な数を揃えている姿を見て驚かざるを得なかった。
Assaye-firstposition
 ウェリントン公は後の対フランス戦争で発揮されるように、地形と軍配置によりもたらされる効果を見抜く能力が優れていた。
 アッサイェ会戦でもカイトナ川の対岸に広く横陣を広げるマラーター軍の守備陣地が頑強であることをすぐさま見抜き、ここに正面から渡河攻撃を企図するのは破滅しか待ち受けないことを悟った。
 
 マラーター軍の指揮官シンディアとボーンスレーもこの陣地の意味をイギリス人がわからないわけがないことを理解していた。彼らはそれ故に攻撃は少なくともこの段階では行われることはないであろうと思っていたようだ。

 しかし彼は大胆にもこの敵軍に攻撃を行うことを決心していた。
 彼ほどの将軍が蛮勇に駆られたとは考えにくい。恐らくマラーター軍の増援が更に到着する可能性、敵地に侵攻している補給の不安定性、追撃形態を取れている現状を鑑みたのだろう。マラーター軍の大半は寄せ集めであると考えておりよく訓練された自軍ならば撃破できると自信を有していたこともある。
 ためらうことなすぐさま行動を開始した。

【側面攻撃の企図】

 敵マラーター軍はカイトナ川の対岸一帯に広く歩兵の横陣を広げているのが見て取れた。
 よって敵戦列端を小迂回することで敵の側面へ回り込み攻撃することを戦術方針とした。これなら敵の大軍がその効果を発揮する前に局所的な数的優位と奇襲性をもって側面から突き崩せるという、古典より保証されてきた戦術である。

 マラーター騎兵のほとんどがその右翼(西側)に配置されていた。この騎兵は散々偵察を妨害し彼を苦しめてきた難敵である。西側の地点で渡河しようとすれば直ぐに駆けつけてくることはわかりきっていた。かといって正面の歩兵陣へ突撃するのはできない。

 そこでかなりの危険は有るが、だからこそ敵が考えにくいであろう東側から渡ることを決断した。

【東側の狭い地形への渡河】

 ウェリントン公は騎兵の一部を動かし西側地点付近で川へ近づけて威嚇することで敵マラーター軍の注意を引きつけたその間に東側で敵防御部隊がおらず渡河できる地点を特定した。
Assaye-river
 23日の15:00、騎兵の残る部隊と歩兵の行軍縦隊をすぐさまそこへ振り向け、ピープルガオン村とウォーロー村の中間から渡河することに成功した。彼は渡るとすぐに敵左側面に向かって相対するように横陣を展開させていった。

アッサイェの戦い [battle of Assaye]_部隊配置

【気づかれた側面攻撃企図】

 しかしこの渡河からの側面攻撃を、対岸にいたマラーター軍は気づいた。彼らは簡単にそのような攻撃を受けてくれるほど練度が低い部隊でも将校でもなく、偵察もしていたのである。渡河中には攻撃できなかったが側面攻撃を受ける前に反応をした。

 ウェリントン公が渡河を続々として展開している間に、マラーター軍の歩兵部隊もまた動き出し敵と正面に対するように新たな前線を展開していった。やや雑多とも言える大軍であるため一部はスムーズに動けていなかったはずである。それでも歩兵の大部隊がカイトナ川とジュナ川の間に川に垂直になるようにほとんど隙間なく展開をしていった。

【窮地の戦闘配置】

 互いに布陣が済んでいきウェリントン公の軍は攻撃準備がほぼ整った。
 右翼よりの後方にマクスウェル将軍の騎兵部隊を並べ、中央右翼には第74高地連隊の精鋭歩兵、中央は第10マドラサ歩兵連隊の横隊が攻撃態勢を、左翼には第78高地連隊などが受け持った。その後列には第4歩兵連隊と第12歩兵連隊が並べられた。南の対岸には残る騎兵部隊が渡河地点を奪われないように守勢をとる。

 ここに至りウェリントン公は尋常ならざる危険な状態となっていることを理解した。
Assaye-battle

 もう一度地形と布陣を振り返る。
 ウェリントン公が渡河した先は2つの川が合流する三角地帯である。川は浅くはなく渡河地点は限られている。三角地帯は当然狭く、マラーター側は後方に行くに連れて平地が広がりやや配置転換で分散してしまったとはいえ移動を続々としてきている。ウェリントン公側の後方は2つの川の合流点に向け狭くなっている上にほとんど全軍が渡河しきって背水の陣を構築した。

 2つの川の間を占めるように垂直にマラーター軍は展開しており、側面をつけるような移動できるスペースは全く存在しない。しかも数少ない高台を彼らは占めており、マラーター軍左翼端はアッサイェ町を起点とした。マラーター軍の反応は速かったため、約100門のの全てではないにしろ移動が完了し多くがきっちりとウェリントン公軍を向けて並べられていた。騎兵も一部が配置についていた。

 更にカイトナ川の南側に残してきたウェリントン公の騎兵の一部が主攻でないことは当然バレており、マラーター軍は抜け目なく豊富な軽騎兵を逆にカイトナ川を南に渡河し圧力をかけた。川の南に残余するウェリントン公の部隊にこれを撃滅する戦力など無い。彼らは遅滞と威嚇をしながらなんとか崩れないようにすることに成功したが危険な状態であることに変わりはなかった。
 即ち後方が事実上絶たれる寸前であるのだ。勿論この地点で野戦築城して防御戦を展開して長期に耐える補給など持って渡河はしていない。

 唯一マラーター軍がその大軍の全てをこの正面に並べたのではなく、後方にいくつかの部隊が残っていることはウェリントン公にとって希望であった。ただしこれは途中で敵が増加する可能性と、もしウェリントン公の軍が敵戦列を突破してもその後ろにまだ敵がいることを意味してもいた。

 ウェリントン公の攻勢の決断はあまりに危機的な戦場へ部隊を導いた。
 だが彼がここで終わる将軍ではないことは歴史が明らかにしている。彼はこれからの戦に勝つのだ。
 1803年9月23日昼から夕方へ移る刻、砲音が響き渡りアッサイェの死闘が幕を開けた。

ウェリントン公の攻撃前進

 マラーター軍は歩兵には隊列を整えて敵を待ち構えさせ、並べた砲兵隊で攻撃を始めた。ウェリントン公軍の砲兵も反撃したがやはり数の差から不利であった。

 ウェリントン公の軍は守勢で待ち受けることをしなかった。歩兵も大砲の数もあまりに優越されていることから撃ち合いで練度が多少勝ろうがいずれ押し込まれるし、耐えれたとしても補給が限られていたからであろう。
 ウェリントン公は敵の砲兵へ肉薄し奪取することしか活路は無いと判断した。彼は歩兵部隊に前進命令を通達する。
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【右翼の前進と騎兵の対応】

 中央右翼第74高地連隊は砲撃の標的とされながらも果敢に前進を開始した。高地連隊(ハイランダー)は勇猛果敢で知られていた。第2、第8マドラサ歩兵連隊の散兵による遮蔽の後ろから戦列歩兵が整然とした動き出しを行う。
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 右翼指揮官のウィリアム将軍は第74高地連隊に右よりに進み、彼らを狙う敵砲兵隊を狙うように指示をだした。

 散兵の支援のもとで高地連隊は名に恥じぬ勇敢さでどんどん前進していきマラーター軍左端のアッサイェ町とそのそばの左翼部隊に近づいた。

 ただこの前進があまりに速かったためか、ウェリントン公軍の中央の第10連隊との間にかなり大きな隙間ができてしまった。

 そこにマラーター軍左翼の砲兵と歩兵の一斉射撃が襲い、たまらず部隊の一部は後退するしかなかった。
 ここで更にマラーター軍の軽騎兵が投入され、突出しかけた第74高地連隊に空いた左側面に迫ってきた。
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 連隊の一部が方陣を組んでなんとか耐えていたが、ウェリントン公右翼はかなりの損害を出し壊滅の危機に陥る。マラーター軍は容赦ない攻撃を加え続けた。

ウェリントン公は素早く反応後方に待機させていたマクスウェル将軍に指示を出した。

  第19竜騎兵隊(Light Dragoon)と第4、第5マドラサ騎兵部隊が対応に動いた。彼らは後方から一挙に進み、第74高地連隊の側面を襲っていた敵へ突撃し、マラーター騎兵を撤退させた。ウェリントン公は敵が後退し乱れた隙を逃さず攻撃を継続しマラーター軍の左翼歩兵主力部隊の位置へ突き進ませた。
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 第74高地連隊は既にかなりの死傷者をだして一度退きかけていたが、驚くべきことにここから立て直し、ボロボロになりながらも前進攻撃を再開した。

【左翼と中央の前進】

 その頃、反対側の左翼では第78高地連隊とマドラサ歩兵連隊が前進し続けていた。対するマラーター軍右翼はフランス人士官が率いていたようだ。
Battle_of_Assaye_advance-4 第78連隊は対面のマラーター軍の正面50m弱の距離まで整然と行進し、マスケット銃の一斉射撃を一度行うと続いて銃剣突撃を間髪入れず実行し敵を押し込んだ。

 その第78連隊の右となりでは同じ様にマドラサ歩兵連隊が前進し射撃してから銃剣突撃を行った。
 数多の砲撃を受けているはずの敵軍の驚愕の突撃にマラーター軍砲兵隊は耐えることができず崩された。この銃剣突撃の恐怖に充分な練度でないマラーター軍の右翼の一部が恐れをなし、逃げ出してしまった。ここにきて大軍であるが故に一度崩れだすと統率がほぼ取れなくなる練度の十分でない部隊の欠点が現れたのだ。
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 ウェリントン公軍は敵右翼を追い更に前進する。
 左翼後列の第4、第12歩兵連隊の投入のタイミングははっきりしないが、おそらくこの時点で前進して第78連隊を支援しに行っていたものと思われる。

 すると後方からマラーター騎兵が穴を埋めるため駆けつけてきた。これはかなり厳しい攻撃になりかけ、マドラサ歩兵連隊は危うい所であった。
 第78高地連隊が銃剣突撃後に再度隊列を整えて支援に現れたことで何とか防ぐことができた。
 この連続戦闘を遂行できる部隊は凄まじいものである。一歩隊列を整理するのが遅れれば騎兵に突撃され急激な崩壊をしていたと考えられる。
 ここでの戦闘はわずかの差で決まり、大きな違いをもたらした。

【突破と確保、そして拡張と追撃】

 マラーター軍砲兵の列になだれ込んだウェリントン公軍はその練度をいかんなく発揮する。戦列歩兵の斉射は素早く、銃剣突撃は果敢であった。
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 懐に踏み込まれたマラーター軍砲兵は大部分が逃げ出し、歩兵はかなりの死傷者を生んでいた。

 だがウェリントン公軍も右翼で敵の拘束を続ける第74連隊などが大きな損害を受けており状況は予断を許されない。マラーター軍は大軍であり、建て直され反撃を受ければ逆転される可能性は十分あった。
 そのような事態にならないようウェリントン公は攻撃を間髪入れず続行し拡大させる。

 アッサイェ周辺のマラーター軍左翼は激戦を続けている。
 ウェリントン公は後退した敵右翼から全体を続けざまに崩壊させることを狙った。即ち左翼正面突破からの片翼包囲である。

 自軍左翼と中央に後列予備歩兵を投入し確実に敵に砲を奪い返されないようにする。同時に残していた予備の第7マドラサ騎兵隊を後退する敵に突撃させ戦列を再編させないようにし、崩壊を拡大させた。
 ウェリントン公は猛烈な前進と突破、確保、拡張、そして追撃を見事な連携で連続させマラーターの大軍に戦闘組織を再編させないように崩していったのだ。
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 マラーター軍の一部も必死に抵抗を続けていたが乱れ続ける各戦列を立て直すことは難しく、ついに敗北を認め全面的にジュナ川の北に撤退を始めた。

 ウェリントン公はこれを見逃さず騎兵隊を中心に退く敵に追撃を続行、かなりの戦果拡張を行ったことでマラーター軍はジュナ川北で態勢を再編し反撃することもできなくなった。輸送用荷駄にも攻撃が到達したようだ。

 これによりマラーター軍右翼と中央はジュナ川北へ駆逐され、残る左翼はウェリントン公軍の片翼包囲を受けジュナ川へ追い詰められた

 激戦を続けウェリントン公軍右翼に大きな損害を与えていたマラーター軍左翼もついに崩壊、多くの戦死者を出しながらジュナ川を渡り北へ撤退していった。

 残されていたマラーターの右翼騎兵隊も後方が遮断されることを恐れ同じくジュナ川北方へ続いていった。

 窮地から始まった攻撃は成功しウェリントン公軍の勝利に終わったのである。

戦果

イギリス東インド会社軍:(総勢約9500人) 
             死者:418人(うち将校22人)
             負傷者:1583人(うち将校57人)

(※別説:死者428、負傷者1156、行方不明18)

マラーター同盟軍:(総勢約50000人)
         死者、負傷者、捕虜 合計:約5000~6000人 (大砲98門喪失


 壮絶なウェリントン公軍の攻撃は敗者にも勝者にも甚大な被害をもたらした。

 マラーター同盟軍では5000人以上が1つの会戦で失われ、大家が結束してもやはりイギリスに勝てないという恐怖が広がってしまった。フランスなどの支援があり火力で圧倒していたにも関わらず突撃を受け止めることができず大金を払って揃えた虎の子の大砲ほぼすべてを奪われたことは、シンディア家とボーンスレー家にとっては痛すぎる損失だった。
2-12th_Madras_Native_Infantry_at_the_Battle_of_Assaye,_1803
 この会戦は間違いなくウェリントン公軍の勝利と言える。
 しかし16%~21%に及ぶ死傷者最初の野戦会戦で出したことは、数で圧倒する敵への攻勢であるため覚悟しなければならないとはいえ大きかったことは確かである。

 勇烈という噂に違わぬ戦いぶりを見せた第74高地連隊はこの会戦に参加した500名の戦力から約400名もの死傷者を出しながら突撃を達成した。参戦した連隊員の80%以上に昇る損耗率であり、連隊将校だけでも17名が死傷していた。これは連隊長のウィリアム以外のほぼ全ての将校が死傷したことを意味している。
 また騎兵隊の指揮官であるマクスウェル将軍も突撃に参加し戦死した。

 アッサイェの戦いはウェリントン公にとって指揮官として挑んだ最初の大会戦であり、彼にとっても最も血塗れた戦いの内の1つとなった。周りは圧倒的大軍に寡兵で勝利した彼を讃えたが本人はこのような被害を二度とだしてはならないと教訓を己に刻み込んでいた。

アッサイェの後

 巨大な損失を出したとはいえウェリントン公は勝利した。
 彼はその犠牲を無駄にしないためにも作戦を成功させようと更に進撃し、2ヶ月後にもアルガーオンの戦いで再びボーンスレー家とシンディア家の大軍を破った。この連勝で彼は英本国でも有名になっていった。
 第2次マラーター戦争が始まったばかりにも関わらず2大家は連続して敗北し拠点をいくつも失い北へ北へ追い散らされた。ウェリントン公の進撃は凄まじくマラーター同盟は崩壊と敗北をいきなり感じさせられインド人は自信を喪失しつつあった。

 だがインドの抵抗は終わることはなかった。ウェリントン公に相対する部隊以外にもマラーター戦争は続く。彼らもまた多くの死傷者をだしながら諦めない。
 そんな中、ボーンスレー家、シンディア家の敗北を冷徹に見届けながらイギリスの作戦、戦術そして兵の練度と損失を見極めている男が居た。

 残る最後の大家ホールカル家の将軍ヤシュワント・ラーオ。狂気を孕んだ性格と確かな軍事能力から後に「インドのナポレオン」と呼ばれるインド陸軍史屈指の将が動き出す。

 そしてイギリスへの反撃が始まった。

戦術に関する小考

 アッサイェの戦いは後のウェリントン公の数々の慎重で洗練されたイベリア半島などの対ナポレオン戦争での会戦と比べると、かなりのリスクを冒して積極的攻勢に出ておりやや異彩を放ちます。

 まず地理と配置を振り返ってみましょう。
 マラーター軍は対岸に大軍を横陣に敷き広く展開しました。ここに正面から渡河攻撃をするのが自殺行為であることは明らかであり、偵察後すぐにそれに気づいたウェリントン公の判断力と速度は的確でした。問題はその次の行動です。

【危険地帯への渡河】

 彼は渡河中に攻撃される可能性をなんとしても防がないとならないことからかなり大胆な意外性を必要とされました。渡河は西側に小迂回するパターンと東側からいく2つの選択肢がありました。

 西側のマラーター騎兵は良い練度を持っていたと考えます。そうすると西側から多少の迂回をしようともマラーター騎兵に気づかれて素早く移動され渡河中に攻撃を受ける可能性はかなり高かったでしょう。よって東側がウェリントン公に残された選択肢だと考えるのはそこまで不思議ではありません。

 ただし東側はあまりにも危険な場所でした。2つの川が合流した先は大きいため渡河がほぼできないので、その手前のカイトナ川東部で渡ることにしました。すると渡河した先は必然的に2つの川の間で合流地点のすぐ隣の三角地帯になります。川に移動と後続の補給は阻害されることから後退する場合は崩壊的な損失を覚悟しなければならない、背後だけでなく両側も含めた3方向が川に囲まれている背水の陣の極地とも言える場所です。
 三角地帯は狭く回り込むようなマニューバを展開するスペースなど全くありません。しかもマラーター軍のほうが高台を占めています。

 死地に等しい場所に寡兵で展開する可能性を低く見ていたマラーター軍は当然のことと思います。だからこそそれをウェリントン公は利用しほぼ全軍を渡河させ展開するまで攻撃を受けずにすみました。
 しかしマラーター軍に途中で気づかれてしまい側面攻撃は開始できませんでした。
ウェリントンの大胆な背水_側面攻撃_Assaye

 それに渡河後にマラーター騎兵が逆渡河してきて後方を脅かされたにも関わらず、狼狽えること無くウェリントン公はむしろ逆に目の前の敵を撃破するしか道がないことをより確信しました。
 凡庸な軍ならこの時点で浮足立ち崩壊してもおかしくありません。この割り切りと諦めない粘り強さがウェリントン公の性質です。

【能動包囲】

 この危険地帯展開で(後に得意とする)守備固めをして待ち受けるやり方をしなかったのは正しい判断でしょう。砲門の圧倒的劣勢と高台を占められたこと、歩兵の波状攻撃を受け止められる野戦築城の時間がないためです。

 それ故にウェリントン公は自ら能動的に攻勢にでて敵陣、特に砲兵隊を破壊することを企図します。要処に的確に狙いを定めています。これしか勝ち目は無かったと考えてほぼ間違いないでしょう。
 横幅が狭い戦場を活かして寡兵でもほぼ全面で攻撃前進し、敵を拘束します。
 そして敵の崩れだした箇所を直ぐに見極め、自軍の再編成と後列の見事な連携そして個々の練度で左翼から押し込むと、予備の投入で一気に拡大、完全に突破させました。

 ただ突破しただけで疲れ切り止まってしまっては大軍の敵予備に態勢を整えられ逆襲される可能性があります。そこから間髪入れずに追撃・前進を命令し、時計回りに旋回するように相手を片翼包囲に持ち込んでいき、激戦中だった残る敵左翼を複数方向から圧力をかけ川に追い落としました。
 ここの能動的な片翼包囲を成功させた各連隊の練度と連携、そしてウェリントン公の後列の投入の箇所とタイミングはこれしかないと思える適切さです。

 戦術として、側面をつけるようなスペースがない場合は能動的に動いて敵戦列正面の片翼を突破しそこから旋回するように押し込むことで片翼包囲を形勢した戦例と言えるでしょう。これはオーソドックスですが難しいものです。正面から崩す練度と崩した後の旋回を継続する練度を兼ね揃えなければなりません。

【マラーター側の対応】

 マラーター軍は渡河されましたがその後は気づいて素早く戦列方向を転換し側面攻撃を防ぎました。それどころか砲列をきっちり並べたことからかなり良い対応を一部の部隊はしていたことが伺えます。
 ただはっきりしませんが騎兵と歩兵の右翼の一部がこの転進についていけず遊兵化した可能性は十分あります。前線の崩壊後に立て直せなかったのは練度不足もあるでしょうが後列部隊が正確に動けていなかったとも考えられるからです。

 狭い川の間を埋め尽くすように横陣を展開したことで無防備に側面攻撃を受ける可能性を無くしましたが、この狭さは同時に大軍の彼らもまた寡兵のウェリントン公軍より横に広く展開し側面攻撃へ持ち込むことを不可能にしました。これは狭隘地帯での会戦で非常に重要な要素だと思います。(古戦例では類似の方法で移動力で勝る敵騎兵の包囲を防ぐやり方をローマ軍がしています。)
 
 勝負を分けたのは主導的に前進しなかったことかもしれません。方向を変えたばかりで整然とできなかったのでしょうが、何よりも大砲で圧倒できていたことが彼らに受動的な戦術を選ばせました。
 ただこれでも普通なら勝てる可能性はあったでしょう。今回はあまりにもEIC軍の個々の練度と勇猛さが凄まじく、ウェリントン公の予備投入が見事でした。

 マラーター軍を貶めるのではなく、ウェリントン公とその仲間たちに敬服して今回の話を終えようと思います。
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 ここまで拙稿を読んで頂き本当にありがとうございます。
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【余談】
 ウェリントン公は20代前半の時にキャサリンという女性にプロポーズして、一度地位の低さから相手方の家族に断られた。そして十年以上たち、戦功を挙げ出世した後ふたたび彼女に会いに行った。キャサリンは33歳になっていた。
 ウェリントン公は「彼女、醜く成長してしまったなぁ、ほんと」と感想を兄に言った。
 それからキャサリンにもう一度プロポーズし、結婚した。

 彼は本当に粘り強い男です。

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参考文献 
Cooper, (2003), "The Anglo-Maratha Campaigns and the Contest for India" Cambridge
Millar, (2006), "Assaye 1803: Wellington's First and 'Bloodiest' Victory" Osprey
Gurwood, "The dispatches of Field Marshal the Duke of Wellington, K.G. during his various campaigns in India, Denmark, Portugal, Spain, the Low Countries, and France : From 1799 to 1818" Cambridge
James Grant, (1873), "British Battles on Land and Sea" 第2巻 ※p.306に元図

サイト
http://www.kingscollections.org/exhibitions/archives/wellington/military/indian-campaign
http://www.indianfrontiers.com/battle-assaye-untold-story/
http://www.kiplingsociety.co.uk/rg_assaye1.htm
https://www.britishbattles.com/second-mahratta-war/battle-of-assaye/
http://www.kurubagowdasangam.com/history.htm
http://battlemaps.blogspot.jp/2012/10/battle-of-assaye.html
https://www.lifeofwellington.co.uk/commentary/43/