ソビエト連邦はWW2で人類史最大の戦争に勝利し、その軍事理論は今なお多くの戦史家を惹きつけています。
 WW1の途上で生まれたソ連軍はその直後からWW2までの間に東アジアから中央アジア、そして東欧と北欧に至るほぼ全域で戦争を行っており、大戦間における戦闘経験は世界で最も多い国の1つとなります。これらの中から軍事理論家やWW2で優れた手腕を発揮する将軍たちはその姿を現して来ました。
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 本記事はWW2の作戦指揮官の最高峰と讃えられることもあるロコソフスキー将軍が参加した1929年の中ソ紛争におけるマンジョウリ・ジャライノール攻勢について記述しようと思います。
 騎兵の活躍した戦いであり、同時にソ連が国産設計した戦車の最初期にあたるT-18戦車の実戦としても知られています。
※作戦の記述を見たい方は攻勢の章へ飛ばして問題ありません。

満州の中東鉄道問題と政権変遷

 マンジョウリ・ジャライノール攻勢は1929年に起きた中国・ソビエト紛争を構成した作戦の1つであり最大の衝突である。

 中ソ紛争は中東路事件とも呼ばれる。1929年に大規模な武力衝突を起こすが、そこに到る過程は複雑だ。満州の中東鉄道の利権を巡る中国とソ連の主張が食い違い続け、妥協案も実質を伴わず互いに不満がたまり続けた。

 最初はロシア帝国が清王朝から獲得したこの鉄道利権であるが、この問題が解決どころかエスカレートしたのは国家が互いに崩壊し政変が起き続けたためという面がある。

 ロシア帝国はソ連に、清王朝は中国の各軍閥に変遷していった。
 ソ連ではレーニン死後に知識階級層を出し抜きスターリンが政権を掌握。それに反革命を続けるロシア白軍(白系ロシア)が満州付近で活動を続けていた。
 一方で中国は袁世凱とその後継者の北洋政府が最大の政権であるものの各地に軍閥が割拠した。更に北洋政府内の争い(安直戦争)があり、その後は国民党による中華民国になる。

 ただし中ソ紛争の係争地である満州は張作霖率いる奉天軍閥がほぼ掌握していた。彼は当然ソ連の圧力を最も警戒しており、初期から可能な限り抵抗を続けていた。ソ連の支援もあり国共合作が成功し北伐が始まると、一時的に張作霖は対ソ融和へと動かざるを得なくなる。

張学良の対ソ強硬姿勢_ソ連の攻撃決定

 1928年、張作霖が蒋介石率いる国民党の北伐に敗れ、奉天軍閥が苦境になった直後に彼は爆殺されることとなる。

area-Sino-Soviet conflict 奉天軍閥の後を継いだ息子の張学良は、対ソ連においては父よりも強硬派だった。彼は国民党に帰順すると、対ソに再度目を向ける。(既に国共合作は破綻していた。)

 特に辺境地域における入植活動を活発化させ、国境地帯の軍備も固めていった。
 中東鉄道の経営は腐敗しきっており、中ソの政治的要素のために合理的組織は運営できず赤字となっていた。互いにその責任をなすりつけ非難しあい、自分たちが掌握すれば合理化できると考えていた。

 また、奉天軍閥には未だにロシア白軍の残党が協力しており、ソ連からしても認めることが到底できなかった。悪化し続ける事態に対応し軍備を東アジアに増強していった。ブリュヘル指揮官を司令官とする特別極東軍を設置し参加の兵力を整えていった。
 そして1929年に中東鉄道を実力行使により接収しようとしたことで武力対立は決定化する。ロシア人の逮捕と電話局や駅の占拠などが中華民国の奉天軍閥より行われた。

 これらを受けて正式にソ連中央執行委員会のカリーニンなどは攻撃を決定する。

ロコソフスキーの配属

 この攻勢で重要な役割を果たす『コンスタンチン・コンスタンチノビチ・ロコソフスキー』将軍は1929年当時は第5クバニ騎兵旅団の旅団長であった。

young-Rokossovsky 彼はかなりの速度で出世してきた。WW1をロシア帝国第5竜騎兵連隊下士官として終えると赤軍に入り内戦で活躍し頭角を現した。ただポーランド系出身であるという立場はポーランドと戦争を行うソ連内で居心地を悪くした。

 1921年には第27騎兵連隊の指揮官をしており、白軍の掃討戦だけでなく大部隊の訓練をできるこの役職を本人は楽しんでいたようだ。また1923年に上官の評価レポートで「科学を愛している」と述べられるなど、後の機械化部隊を率いる基盤は見られていた。手腕には非常に高い評価を所属旅団長からされており、更に第5軍司令官は「すぐにでも独立した騎兵旅団の指揮官になれる」と言うほどであったとされる。

 1925年までに騎兵指揮要員完全化課程を終了、ここでクラウゼヴィッツの研究も行ったという記録がある。この同時期にいたバグラミャン(WW2で活躍し戦後に元帥)は彼をこう評している。

「エレガントで実に正しい男、ロコソフスキーは特にグループ内でとても好かれていた。上品な身のこなしでハンサム、寛容で思いやりのある性分、素晴らしい運動好き、それ無しでは騎士が騎士足り得ないであろう全てを学友皆に示していた。我々鍛え抜かれた兵士たちの間において、彼は最たる騎兵経験者で本物の騎馬戦術のエキスパートであると当然のごとく思われていた。」

 他の上司や同僚そして部下にいたるまで多数が彼の性格を好む記述を残している。優れた作戦指揮手腕のみならず、この交友関係の好感がロコソフスキーの特徴でもある。もちろん意見対立は珍しくはなかったが。

 彼がモンゴル外縁トランスバイカル地区に最初に配属されたのは1922年と思われる。1926年に第5クバニ独立騎兵旅団の将校配属となり、直後にモンゴル・ウランバートルへ派遣されモンゴル政府から表彰を受ける精力的活動をする。
 1929年1月にフルンゼ軍学校での上級指揮要員完全化課程を受け2ヶ月で修了させ、4月にはモンゴルへ戻ってきた。そして第5騎兵旅団旅団長として中ソ紛争を迎えることとなる。(当時32歳

前哨戦

 1929年7月前後より小競り合いは満州境界各所で活発化していった。8月には両軍がかなりの動員を始め配置についていく。
 その後の攻勢は小規模であることに加え互いのプロパガンダも有りはっきりしていない。主な衝突は2~4箇所であった。ソ連海軍が奉天軍閥の艦隊などを撃破した水上の戦闘は大きかったが、その他で諦めさせるような大きな会戦にはならなかった。

 だが戦闘は全体としてソ連有利に進んでいた。苦況の張学良は反攻作戦を練っていたようだがまだ発動はできなかった。これらを受け11月に決定的な攻勢にソ連軍はでることとなる。
 場所は満州北部のマンジョウリ(満洲里)とその南東にあるジャライノール(扎賚諾爾)一帯である。

 マンジョウリ方面では秋の雨季後半に近辺のオロチンスカヤなどで戦闘が起きていた。

 オロチンスカヤ駅攻撃を担当した中にロコソフスキー率いる第5騎兵旅団があった。
 この前哨戦の推移は砲兵隊長ケタグロフの記述に基づく。

 主に第5騎兵旅団所属の第73騎兵連隊によって攻撃は遂行された。
厚着 それを支援するケタグロフの砲兵隊はところどころ水が溢れた道を必死で押して行った。駅近郊につくと銃撃を受けた。奉天軍閥軍は4階建ての中庭のある要塞化した建物に兵士を増員していた。そこを砲撃することに狙いを定めた。
 砲兵隊は位置につくため高台に登ろうとしたが疲れ切っていた。ケタグロフが「私は日本の稲のように伸び上がる空想をした」と謎の記述を残すほどである。
 だがその高台が重要地点であることを彼は確信しており、夜の内に砲を丘の斜面にまで動かしていき、加えて一晩中かけて弾薬を運搬した。夜明け前に砲撃準備が整った。

 ロコソフスキーが彼らの前に現れたのはその時だった。攻撃を始める前であったが、砲の位置の適格性を把握した彼は言った。
「素晴らしい!同志諸君」移動と運搬を必死でした砲兵たちを彼は褒めちぎり「我軍の騎兵隊に敵は気づいて機関銃で攻撃してきていたんですよ」
 おそらくケタグロフはこういった点から部下としてロコソフスキーを慕う記述を残したと思われる。
 「さて同志ケタグロフ」、彼はケタグロフの方を振り返り言った。「貴方達の出番だな」
 ソ連の砲兵隊が火を吹いた。要塞の各階の銃座に向け狙いを定め砲撃する。
 要塞内でパニックが起きたようだ。生き残った中国人たちは飛び出して散り散りに逃げようとした。だがそこには既に第73騎兵連隊の2つの部隊が冷気をつっきり殺到していた。

 要塞は陥落した。77人の遺体が集められ、負傷した捕虜62名、無傷な捕虜は僅か5名だけであったという。

 これはかなりの戦果であった。だがロコソフスキーの第5騎兵旅団はこの後により巨大な攻勢へと参加することになる。それこそが1929年11月17日より実行されたマンジョウリ・ジャライノール攻勢であった。

マンジョウリ・ジャライノール_地形と気象

 。マンジョウリ(満洲里)は満州北西部(内モンゴル東部)に当たる市であり、ソ連領チタ州が北に隣接している境界である。
満州里一帯 当時から現在に到るまで中国の陸運貿易における最重要拠点の一つであり、中東鉄道が走り駅を置いていた。その鉄道の続く南西25kmほどの位置にジャライノール(扎賚諾爾)町がある。

 マンジョウリ北西にはズン・トレイ湖。南にはフルン湖が位置しており、更に付近には池が多数点在する。そのため降水量は通年では少ないが秋の雨季には水が溢れ湿地と化す場所もあるようだ。
 この戦いで重要な要素となるアルグン川が北東に流れ、東から流れてくるハイラル川とフルン湖のすぐ北でL字形で合流している。これらの河川は小さくない。
 ジャライノール町にはこの河川と湖をつなぐ水路がある。この水路は越えることは比較的しやすいと思われる。
 一帯はおおよそ平原と緩やかな丘陵が広がっているが河川両岸には木々も生い茂る。満洲里の北と西には広大な荒野が広がっている。

 満州北部であり当然気温はかなり低い。11月の平均気温は-12℃前後であり、17日頃の最低気温は-20℃に達したと記されている。

戦力

 両軍とも当然のようにこの要衝のために続々と戦力を集めていた。ただ極東の地に大規模部隊を揃えるのは当時のソ連には難しくかなりの努力が為されたが相手を圧倒する兵数は揃えられなかった。

 奉天軍閥は満洲里に増援を送っている最中であり、17日時点でどの程度の人数がいたか正確な所は不明である。
 各部隊の編成はばらばらで、特にこの時のソ連歩兵師団戦闘員数は少なかったようだ。逆に奉天軍閥は2つの旅団司令部しか置いていない地区であったため旅団員は膨れ上がったと推定される。
 総数は奉天軍閥側の方が多かったと思われる。ただし機械装備はソ連側が明らかに上回っていた。
 ケタグロフなどの記述によれば戦闘に使用された両軍編成と装備は下記のようになる。

ソビエト連邦赤軍:特別極東軍(総司令官ヴァシリー・ブリュヘル)

  麾下トランスバイカル集団(司令官S.S.ヴォストリィツォフ)等
[ソ連軍:内部構成]
   3個歩兵師団(第21、第35、第36歩兵師団)
   1個騎兵旅団(第5クバニ独立騎兵旅団:司令官K.K.ロコソフスキー
   1個騎兵大隊(独立ブリヤート・モンゴル騎兵大隊)
   1個航空隊 (チタ航空隊
   その他通信部隊等

[ソ連軍:装備]
 6000以上の銃剣、1600の剣、88の各種野砲、330の重機関銃、166の軽機関銃、9両のT-18戦車、32機の航空機
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中華民国軍:奉天軍閥(総司令官:張学良)

  北東方面軍
[奉天軍:構成]
  第15混成旅団梁忠甲 中将)
  第17混成旅団(韩光(韓光)中将)
  (その他守備隊 ロシア白軍など)

[奉天軍:装備]
  28450の銃剣と剣、96の機関銃、96の迫撃砲、42の野砲、2両の装甲列車、5機の航空機
奉天軍装備満州装甲列車
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※この場合の銃剣はライフル数とほぼ同義と考えた。

マンジョウリ・ジャライノール攻勢

 どの程度本気かはわからないが、梁将軍は多数のビラを巻き赤軍を撃滅すると豪語していた。実際ソ連はこれ以上の増援をすぐに送ることは難しくもし奉天軍が本気で反撃に出てこられると厄介なことになると思われた。そこで攻勢をブリュヘルは決断する。

【初期:戦闘配置

 11月16日、ソ連の各部隊はマンジョウリ北域の境界線から7kmほどの位置で装備を整え準備を万端にした。
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 奉天軍はこれまでの長い小紛争があったことで、この重要地帯に多数の塹壕や射撃陣地を設置し要塞化を進めていた。北のマンジョウリはほぼ全周を囲う築城線があり梁将軍の第15混成旅団が守っていた南のジャライノールも同じく防御線を作成し韓将軍の第17混成旅団が配備されていた。ただし後方満州本拠地方向の南面は築城と警戒が薄く、東の自軍領域とハイラル川に面した所も他よりは緩かった。

 対してソ連軍はマンジョウリ北方に第21歩兵師団。2つの街の中間地点北部に第36歩兵師団、その隣のアルグン川との間に第35歩兵師団。アルグン川沿岸に第5騎兵旅団を起き、一部後方に騎兵部隊など一部予備を残した。

【攻勢開始:騎兵旅団の夜間側面移動

 11月17日の極寒の、攻勢が始まる。
 先導したのはロコソフスキー率いる第5騎兵旅団である。彼らは東へ進み始めた。続いて第35歩兵師団の一部も東へ進んだ。
soviet-Manzhouli-offensive-1 寒冷でしかも強い風が吹く闇夜をロコソフスキーの旅団は歩む。アルグン川岸に沿うように南東へ行軍は続き、7kmほど進んだ時ロコソフスキーは部隊に小休止を命じた。そして同時に彼らに指令を降した。馬の蹄と砲輪をカバーで覆い、更に弾薬運搬車と荷駄には詰め物をせよという命令である。その理由は氷の張ったアルグン川を静粛に越えるためであった。

 即ちソ連軍の作戦は以下のものであった。

 東側のアルグン川を夜間渡河し、南東へ進みハイラル川も越えて一挙に約30kmを走破しジャライノール第17混成旅団の側背に躍り出るというのだ。

 その役割を歩兵師団と連携を取りながらロコソフスキーは任された。

 川には流れが合ったためか、表面の氷は薄くそこかしこで馬の足や車輪が砕いてしまった。だがロコソフスキーは躊躇わず前進を続け渡河に成功し、敵領域に夜明け前に入り込むとわずかな敵の反撃を即座に撃退。一挙に南東へ動き更に数時間後にはハイラル川も越え、ジャライノール後方の鉄道を遮断した。

 ケタグロフの砲兵隊が到着する頃にはもう騎兵の分隊は電信を断絶させ更に先へ進んでいたようだ。夜明けになり奉天軍の増援を乗せた列車が来たと彼は述べている。まさにその時彼の横にロコソフスキーが馬に乗り現れた。
「ケタグロフ隊長。貴方はあの列車を停めなければならない。ただし乗車されている車両を直接撃ってはならない」
ケタグロフは線路の両脇の盛り土を砲撃しぎりぎり車両を停めた。そこから奉天軍兵士が飛び出してきたが彼らを銃砲が待ち構えており、即座に散り散りにされると、間髪入れず騎兵部隊が突入しほぼ全員を捕虜としいくつかの情報を得たと言う。

 奉天軍は虚を突かれる形となったようだ。2つの川の先にあったため自軍の深い領域は防備が薄く、部隊もまばらであった。そこに快速の騎兵旅団と歩兵師団の一部が連続して侵入したことでまともな反撃組織を編成できなかった。
 だがロコソフスキーにはまだ街の周辺に張り巡らせた築城地帯が待ち構えていた。

【正面攻撃と片翼包囲

 ロコソフスキーたち側背攻撃部隊が本格的な戦闘を始めたころ、正面でもほぼ同時に攻撃が始まった。
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 突如として砲兵隊の火力がジャライノールの第17混成旅団を襲う。加えて歩兵師団が北から防衛線へ圧力をかけた。

 また6時40分には飛行場をチタ航空隊が爆撃し、奉天軍航空機4機を破壊した。この戦いは航空優勢は圧倒的にソ連にあった。続いて街の要塞に爆弾を落としたと記されている。弾着観測など偵察も頻繁に行い彼らは活躍した。

 歩兵師団の一部は既にジャライノール北の塹壕へ侵入を始めていたようだ。

 ここまでが17日夜から18日朝にかけての戦闘推移である。

 ソ連軍の狙った戦術は簡明だ。正面の砲兵部隊が火力で圧倒し、歩兵師団を前進させ拘束と圧力をかけ、別働隊の騎兵旅団が歩兵の支援を受けながら敵の側背へ移動する。シンプルで明瞭かつ効果的な片翼包囲である。

【南東ジャライノールからの反撃

 ソ連の初動はほぼ成功したと言えるが、まだまだ奉天軍の兵士は残っており塹壕や要塞も健在であった。
soviet-Manzhouli-offensive-3 日が昇り奉天軍も状況を把握し、反撃が始まった。

 ここでやや驚くべきことに彼らは塹壕から飛び出し正面の歩兵師団へ突撃を開始したようだ。

 歩兵師団付近の砲兵隊を狙って行われたと思われる。恐らくはソ連砲兵隊の砲撃が激烈であり、拘束されながら削られ続け側背へ敵が回り込むのを見ていては敗北すると察知したからであろう。逆に言えば砲撃にたまらず出るしかなかったとも考えられる。

 奉天軍第17旅団の歩兵がジャライノールから飛び出し北進した。
 ソ連軍第35、第36歩兵師団は待っていたとばかりに迎え撃った。激戦であったようだが砲兵の支援を受け、航空偵察をきっちり行うソ連軍が次第に圧倒しだした。この時第36歩兵師団に与えられていたT-18戦車が攻撃前進を行っている。

 奉天軍第17旅団の反撃は大きな被害を出し撃退された。
 ソ連軍の勝利は色濃く見え始めていた。

【北部マンジョウリからの反撃

 その頃、北のマンジョウリでも戦闘が行われていた。ここの第21歩兵師団は一部が戦闘に参加していなかった可能性が有る。ただ18日朝は前進こそあまりしなかったもののきっちりとマンジョウリの第15混成旅団に圧力をかけ拘束し続けている。
 不確かだが、梁将軍はここで敵の攻勢が強まる前に自分から攻めて敵第21歩兵師団を倒してしまうことでソ連の作戦を破綻させようとした様子である。
 北方に向け複数箇所で歩兵部隊を前進させた。ただやはりソ連軍は待ち構えており、落ち着いて彼らを阻止した。
 この当たりで梁将軍が退却せずに行った前進は結果論だが間違っていた。この時彼はそれに気づいていなかった。だがそれを知るのはわずか1日後のことである。

【南東ジャライノールの包囲と陥落

 ロコソフスキーの第5騎兵旅団進軍を続け、鉄道を遮断した後でジャライノールの南方から敵第17混成旅団の背後へ攻撃をしかけた。
 この地点は塹壕などの要塞化が北面より薄く騎兵部隊は第35歩兵師団の一部と連携しながら攻撃を成功させていった。だがそれを黙って見ているわけもなく第17混成旅団の一部が防衛線から抽出され迎撃してきた。

 ロコソフスキーの騎兵旅団へ向け砲撃が起きた。第5騎兵旅団所属の第73騎兵連隊は敵歩兵部隊の後方陣地を駆逐しつつあったが、そこに奉天軍の騎兵部隊が駆けつけてきた。奉天軍騎兵部隊はかなりの勇敢な攻撃をしかけた。第73騎兵連隊は危うい状態となりかけた。

 ケタグロフはこの傍にいた。連隊長のマカロフが彼に向け「俺たちを助けにこいケタグロフ!」と怒鳴りつけた。第5騎兵旅団所属砲兵隊は敵騎兵へ砲撃を行った。奉天軍騎兵は突撃をまだ行おうとしたが1ダースの砲撃を受けついに部隊が混乱した。そのチャンスを第73騎兵連隊はためらわず活用し展開した。最後は彼らの突撃で終わった。敵はその局所の戦闘だけで200名以上が死傷し、降伏した敵騎兵の生き残りは39人だけだったとされる。

 この戦闘は激しかったが第5騎兵旅団の別部隊、第75騎兵連隊はさらなる死闘を繰り広げていた。相手はロシア白軍の騎兵であった。ケタグロフはあれほど凄惨な騎兵戦をこの目では見たことが無かったと述べているほどだ。彼の記述ではどうやら騎兵同士の斬撃戦が起きていたかのように取れる部分があるが詳細は不明である。
 だがいずれにせよ白系ロシア人の騎兵部隊は激しく戦い、そして死んでいった。第75騎兵連隊はなんとか敵騎兵隊を壊滅させた。

 第5騎兵旅団はジャライノール南域の戦いを完全に制した。隣の第35歩兵師団も側面攻撃を成功させ、正面の歩兵師団主力と合わせてジャライノールの包囲圧力を一気に強めた。事態は急速に変化していき、奉天軍はなおも必死で抵抗を続けたが次々と塹壕を破られていく。
 ついに正面と側面、そして後方から迫りくるソ連軍の猛攻を受けジャライノールに位置する第17混成旅団は殲滅された。この2日で旅団のほとんどの将兵が死傷し残りは捕虜となる。旅団長の韓光将軍も戦死したほどの凄まじいソ連軍の攻撃であった。

【北部マンジョウリへの挟撃

 1929年11月17日夜に始まったジャライノールへの攻撃はわずか2日ほどで達成され、奉天軍第17混成旅団は指揮官含む殲滅を受けた。18日の攻勢が成功を見せ始めた時には北方のマンジョウリへも攻撃前進が始まっていたようだ。
soviet-Manzhouli-offensive-4 元いた位置、マンジョウリ北部の第21歩兵師団と東部の第36師団は敵第15混成旅団へ向け攻勢を強めた。梁将軍はまだこの時点では戦うつもりがあった。だが梁将軍が行った反攻は阻止され、陣地に戻る彼らを追うかのように攻撃が迫ってきた。
 マンジョウリの奉天軍は形勢不利である。梁将軍が態勢を整え直そうとした時、不利どころではない、部隊の破滅を告げる攻撃が開始された。

 南東のジャライノール方面からの側面及び後背への攻撃である。
 当然この攻撃部隊を構成したのはジャライノールを瞬時に陥落させた第35、36歩兵師団、そしてロコソフスキーの第5騎兵旅団である。
 彼らはマンジョウリの後背にあたるジャライノールへ深く進撃し後方路の援軍を遮断、撃滅した後、ほとんど止まること無くそのまま次の攻撃へ全軍が移った。北西へ3つの部隊が転進し攻め上がる。

 つまり梁将軍のマンジョウリの部隊はほぼ前後に当たる挟撃を受けているのだ。彼はわずか2日でここまで危機が進展したことに驚いたであろうが、なんとか部隊を撤退させようと後方へ行こうとした。しかしそこに数十kmを疾駆し騎兵隊が現れた。ロコソフスキーの部隊であった。

 第5騎兵旅団はジャライノールの側背の鉄道を遮断後に後背から街の防衛線を突破し、その後は北西へ連続して、この攻勢の最も外縁部の長距離を行軍しマンジョウリの南西へ到達した。この凄まじい前進は歩兵師団などに要処で援護されており、このマンジョウリ後方を遮断しに南東から到達した際も、第21歩兵師団の第63連隊が北部から接続しに前進してきて連携をとっている。第21歩兵師団、第5騎兵旅団、第36歩兵師団により後背から全周包囲は完成した。

【梁将軍の降伏

 梁将軍は状況が絶望的であることを悟った。散発的に撤退を試みたが全て阻止された。ここでソ連軍はそのまま街の中心に突撃するのではなく包囲環を整えることにその日の残りを費やしている。流石にここまで連続戦闘をしてきた部隊は疲労や損害、移動距離により組織調整をしなければならなかったこともあるだろう。
 夜から翌日に渡り奉天軍は僅かな希望をかけて突破を何度か図ったが、ソ連の各部隊は慌てること無くその希望を打ち砕いた。

 その日気温は最低-22℃にもなる厳しい環境となった。ブリヤート・モンゴル騎兵大隊の受け持つ位置へ奉天軍が包囲突破を狙った際にケタグロフは支援に向かわされた。砲撃で奉天軍の部隊が散らされると、騎兵大隊長ブーシギンは部下たちに厚手の羊の皮のコートを脱ぐように指示をだした。そして身軽になると掃討へ突撃させた。
 観測所に来たロコソフスキーは「何をしてる!?部下を凍らせるつもりですか!」と心配したが、ブシーギンは「旅団長、厚着でどうやって接近戦をするおつもりですか。我らは今敵をその剣で地に討ち倒しているのですよ」と応えて騎兵突撃を継続した。この攻撃は成功し終わった。

 その後の数日で街の各所が制圧され包囲環は縮まっていった。梁将軍はこの会戦での敗戦は決まったが、外部の友軍のため最後の抵抗をした。
 それは攻撃ではなく時間稼ぎだった。ソ連側の使者に対し即時降伏は拒否し、理由として部隊は散り散りになったから降伏するために彼らを集めなければならずそれには時間がかかると返答してきた。
 だがヴォストリィツォフは奉天軍の使者に2時間以内に砲撃を開始すると断固として述べた。奉天軍兵士は次々と投降しており、梁将軍も観念し将校たちと共に降伏した。

戦果

 この作戦の直後にも攻勢は継続して行われた。移動する残党を騎兵や航空部隊が追撃した。
 トランスバイカル集団は部隊を主に2つにわけ大規模に深く前進を行った。装甲列車も奪取しこの満州北部防衛線において主力軍が殲滅された奉天軍は、押し止める大部隊を集める前に次々と侵攻され為す術がなかった。
 27日にはハイラルをほぼ無抵抗で占領し趨勢は完全に決した。12月はほぼソ連に抵抗する力は無くなっていたという。この北部以外でもソ連軍は攻撃に成功しており、これら一連の作戦群は張学良に勝利の見込みが無いことを悟らせた。

 マンジョウリ・ジャライノール攻勢のみの死傷者は不明であり、この紛争全体での死傷者は以下のように成る。ただ多くがこの攻勢で起きたものだとされている。

ソビエト連邦赤軍:死傷者

 戦場死:199名、致命傷者27名、傷病死:22名、行方不明22名、負傷者729名

(※ソ連本営発表であり、かなりの過小数値となっていると考えられている)

中華民国奉天軍閥:死傷者

 戦死・行方不明約2000名、負傷者約1000名、捕虜8500名以上、7隻艦船喪失

 互いにプロパガンダを多数飛ばしあったため詳細は事実とずれている所がいくつかあると考えられる。しかし結果はソ連の圧倒的な勝利であることに疑いはない。
 1929年12月22日、ハバロフスク議定書が結ばれ中ソ紛争は終結した。ソ連側の主張がほぼ認められる内容であった。

ロコソフスキーのその後

 この戦いで活躍したK.K.ロコソフスキー指揮官は当然出世し、1930年に第7騎兵師団の指揮官に勤めることとなる。(その師団の傘下にジューコフの旅団も有った)その師団でも訓練にせいをだし、上官から高評価を受けた。後に彼は軍団長となるとソ連赤軍の発展に参画していくこととなる。彼は騎兵の前進能力を活かしただけでなく、他兵科との連携や機械化への理解も深く示し、作戦・編成立案でずば抜けたものを見せる。彼の才能は輝かしい未来を保証しているかに思えた。

 しかしソ連史は発展と混乱を繰り返す。それは彼に順風満帆な歩みを許さなかった。
 大粛清の訪れである。

作戦の小考

 中ソ紛争の各衝突は政治宣伝のために未だに不明瞭です。しかしマンジョウリ・ジャライノール攻勢が最大かつ決定的なものであったのは確かなようです。この攻勢作戦を含め、前後合計3つの連続した作戦であったと記述されることが多いです。
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 この地点での攻勢作戦目標は国境の重要地帯で(侵攻の可能性すら見せる)敵大部隊の殲滅であり、それにより抵抗力を消失した敵戦線を建て直される前に深く突破していくという基本的な理論を守っています。
 と言っても規模からしても何とかやりくりしたという面が強く、彼らの理想的な理論実践とは程遠いでしょう。

 限定された会戦であったため、戦術に焦点が当てられることのほうが多いです。

 主に2つの敵拠点を各個に集中的に撃破し連続して残った部隊も殲滅する、というのが基本方針です。片翼包囲で敵の奥地部隊を先に倒したため、次は取り残され全周包囲が見られました。

 正面の火力部隊で削り取り同時に拘束、歩兵も前進し敵主力部隊は釘付けにされます。そこに小迂回をしてきた軽快な移動力を持つ部隊が側背へ連動的な攻撃を行い、敵部隊組織を崩壊させる…。実に基本に忠実な片翼包囲です。

 ただしその実現は夜間の渡河に代表されるように簡単なものでは無く大胆な決断力と実行力によりもたらされたものでしょう。

 兵科の軍事史という観点では実に興味深い攻勢だと思います。

 まずT-18戦車が実戦投入されています。歩兵師団の一部として援護を行ったようです。ソ連・ロシア戦車の最初期の1つであり実験的な意味合いは強く、多くのデータが後に活かされたのではないでしょうか。
 ソ連の代名詞とも言える砲兵はやはりこの戦いでも活躍しています。奉天軍は準備期間が有りかなりの築城をしていたはずですが、砲撃と包囲攻撃、歩兵の突撃に耐えられず極短期間で壊滅しています。

 騎兵についてはロシア内戦での活躍がこの戦いでもやはり継続して見られます。後に騎兵派はソ連軍内の機械化において軋轢を生み、後世で批判されることになりますが、彼らにはこういった成功例があり必ずしも騎兵が役立たずなわけではないと判断した上でのことでした。使い方が変遷したのは確かですが有能な指揮官の下では当時の騎兵はまだまだ現役でした。
 ただ移動力を活かしてから下馬し射撃することだけでなく、ここまで抜剣による戦闘(その描写が史実か疑問もありますが)が多いというのは、モンゴル・満州の騎兵戦闘という伝統とも相まって実に興味深いものと成っています。

 そしてロコソフスキーの戦術判断能力はやはりこの戦いだけでも優れたものだと判ると思います。渡河を含む高速の行軍、小迂回、側背攻撃、連続の前進、後方の遮断と突破阻止、これらの成功を裏付けた判断力と各兵科との連携は上官たちの高評価が間違いでなかったことを証明しました。
 ですが彼のWW2での活躍はこれ以上に凄まじいものとなります。
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ここまで長い拙稿を読んで頂きありがとうございました。
もし他の資料や説を教えていただけたらとても喜びます。
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参考文献
F. Patrikeeff, (2002), " Russian Politics in Exile: The Northeast Asian Balance of Power, 1924-1931"
大野 太, (2010), "張作霖 ・張学良政権 の対ソ観と辺境植民政策"
Boris Sokolov, (2015)"Marshal K. K. Rokossovsky: The Red Army's Gentleman Commander" S.Britton訳
Walker, Michael M, (2017), "The 1929 Sino-Soviet War: The War Nobody Knew"

サイト
https://polikliet.livejournal.com/72727.html
http://www.dvocu.ru/forum/114-548-1
https://www.pynop.com/171111.htm

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メモ
第21歩兵師団(第61、62、63歩兵連隊)
第35歩兵師団(第103、104、第105歩兵連隊)
第36歩兵師団(第106、107、108歩兵連隊)
ティモシェンコ率いる第3騎兵軍団所属第7騎兵師団