帝政ローマは地中海を中心とする大国として君臨し途轍もない業績を達成しました。

 その広大な版図をもたらした一要素、ローマ軍団の存在は戦史の中に膨大な戦例を遺してくれています。
 今回は彼らが突き進んだ北西の果、ブリタニアの戦役で女王ブーディカ率いる反抗勢力と行われたワトリング街道の戦いに関して記述しようと思います。
Street-6

ローマのグレート・ブリテン島侵攻

 西暦43年、後にイングランドと呼ばれる地に4つの軍団が降り立った。
第2軍団アウグスタ
第9軍団ヒスパナ
第14軍団ゲミナ
第20軍団ウァレリア・ウィクトリクス
British.coinage.Roman.invasion 帝政ローマのブリタニア侵攻である。彼らは財政再建を進めるクラウディウス帝の命でこの島へやってきた。地中海全域を震撼させたレギオンを背景に交渉が行われ次々と現地部族は服属していく。同年の内にメドウェイの戦いカラタクス王率いる現地の大勢力を撃破する。何日にも渡る激戦の末であり各部族は追い散らされた。南部の要衝メドウェイ川をローマ軍は越えた。

 占領地で収奪が行われると同時に様々な整備が為される。各軍団はいくつかに別れ時に合流し進軍し制圧地域を広げていく。内陸部の侵攻と同時に沿岸部を抑え海上路を設置し確固たる基盤を築くともはや止まる気配は全く見えなくなる。いくつかのつまずきは有ったものの43年~60年の内にローマの奔流はブリタニアの南部と中央部ほぼすべてを飲み込んだ。54年にクラウディウス帝が没しネロが皇帝となってもその流れは変わらなかった。

 残る東部・北部・西部端の各現地勢力において、ある者は抵抗しそしてある者は同盟することで領土を安堵させた。ブリテン島北方の大部族の女王カルティマンドゥアは同盟勢力となりローマと相互に協力し合うようになる。一方で西方ケア・カラドックの死闘の果にオストリウス将軍のウェールズ征服は大規模に進展した。
 59年にはスエトニウス将軍がブリタニア長官となり西部(現ウェールズ)の諸部族などを次々と落としていく。

東部の大勢力とローマ軍の掠奪

 そんな中で比較的ローマ軍の侵攻を受けていない地域があった。ブリタニア東部である。この周辺にはイケニ族などの大部族があり、プラスダクスという王が影響力を持っていた。彼はかなりのしたたかさを持ちローマ軍が上陸した43年にすぐに同盟を結び侵攻を未然に防ぐ。
Roman.Britain.campaigns.43.to.60
 またイケニ族及び周辺諸部族の勢力はかなり強大であり同時に誇り高かった。47年にオストリウス将軍が強圧をかけた時も撃退したと伝えられる。各地で進軍するローマ軍は足元にあるイケニ族と大規模な戦火を交えたくないという方針も考えられる。

 プラスダクス王には妻と娘がおり、妻の名はブーディカと言った。寿命を悟ったプラスダクス王は彼女たちをイケニ族支配域の後継者とすることを決め、外交方針として王国の半分をローマ皇帝のものとすることで半独立は少なくとも保てるようにと願った。
 しかしそれは叶わない。最初から彼の死後に併合する方針だったのだろう。ローマはブーディカ達を権力から排除し支配を一挙に強めた。

 王として力をまとめて対抗してくれていた存在を失った東部諸部族は貴族を含め大規模な収奪を受けることとなる。一説には娘達は陵辱を受け、ブーディカは重労働を課されたとされる。ほとんどの資産は奪われた。これらはかなりの短期に行われた。強引なローマの方針は経済的苦境を打開するため行われたものが波及したためと指摘されている。

ブーディカの蜂起_増加と南進

 誇りある強大な部族がこのような目に逢い反抗の声を挙げたのは当然であった。西暦60~61年のことである。
Street 東部の大部族であったイケニ族やトリノヴァンデス族が初期の反抗構成部族であった。ブーディカは反抗の口火を切る儀式をする際に指導者に選出されたとされる。彼らのメッセージは周辺部族にすぐに伝わった。進軍を開始した反抗軍は雪だるま式に膨らんだ。明らかにローマの初期統治は性急かつ苛烈すぎた。諸部族の溜め込んだ怒りは想像を絶する。

 だが反抗が初期に拡大したのはローマ軍がブリタニア各所を次々と制圧していたために戦力が分散していたことが理由の1つでもある。第2軍団は島の南東に配属され、第20軍団はウェールズ西端の島を攻略中、第14軍団は北西部境界に向かっており、唯一第9軍団のみが中央北部に駐屯していた。
 この主要軍団の分散と薄い守備隊地帯はブーディカら反抗軍に勢いをつけさせる余地を生んだ。あるいはブーディカ達はそれをある程度知っていたからこそ進軍をしたのかもしれない。

第9軍団の壊滅_ブーディカの待ち伏せ

 南進した反抗軍はトリノヴァンデス族のかつての街カムロドゥヌムを攻めた。守備隊は少なく増援も僅かな予備役の招集のみであったためブーディカは猛攻をしかけ陥落させた

 この大事件を知ったスエトニウスは本格的にブーディカ討伐作戦を動き出させる。それはブリタニア全土に散らばる各軍団を集めようとするものだった。
 反抗軍鎮圧のために第2軍団アウグスタ(ブリタニア南西駐在)を東進させるように使いを出した。そしてスエトニウスは最も東部に近かった第9軍団をロングソープ(ブリタニア東部の都市)へ動かした。第9軍団にそのままカムロドゥヌム街を奪還させる予定であったろう。
Camulodunum
 対するブーディカ達は整備された街道の通るルートを予測できた。現地情報網もある程度持っていただろう。ブーディカは移動中だった反抗軍をローマの目標地点であるカムロドゥヌム街ではなく、別方向へ差し向けた。その地点はカムロドゥヌム街へ続く街道の途上であった。

 ローマ第9軍団ヒスパナは南東へ向かう進軍路の途中で待ち伏せを受けた。反抗軍は殺到し第9軍団に大打撃を与えることに成功した。ローマ第9軍団指揮官は騎兵と共に逃げ延びるのがやっとだったという。
 これはブリタニア長官のスエトニウスにとって痛恨の敗戦だった。
ブーディカたち反抗軍はかつて奪われた誇りと独立を取り戻しつつあった。

移動し続けるブーディカの反抗軍

 それからもブーディカたち反抗軍はロンディニウムを破壊し更に周辺都市も襲撃し続けた。その際の略奪と殺戮は凄惨なものであったとされる。ローマ側の記録であるが、こういったことが起こるのはブリタニア諸部族の当時の状況を鑑みれば驚くようなことではないかもしれない。
plunder-city
 ところでローマが反抗軍の数が膨大だと感じていた理由の一つとして、反抗軍は戦士だけでなくその家族や部族の者たちが行軍に加わっていたということがある。彼らは徒歩や馬車でついてきており、こういった形態は部族社会の行軍(及び生活様式)としてはそこまで珍しくなく、広く世界史に類似のものが見られる。
 この従軍者たちは戦闘員ではなく補助的な役割を果たすこともできたろうが何よりも戦士たちにとって「家族を遠くに残してくる」という憂いを取り除く効果があった。戦場ではすぐ後ろに家族がいるため彼らは士気が高かったと言われている。

 また軍事的に重要なのは彼らがほとんど動き続けていたことである。家族随伴のためその数は膨大に登った。少なくとも数万に及んだため1箇所の街やその周辺のみで補給を維持するなど当時のブリタニア社会にはまず不可能だった。補給システムが高度に発達していたローマですら決して簡単なことではなかった。それ故に彼らは食料を求めて動き続けたと推測する者もいる。その場合は略奪は欲望というより軍を保つための避け難い事象となる。そうでなくても勢いがあるうちに各都市を落としたいという思いがあったろう。ブーディカが連続して行軍したことは妥当なことだった。

 そしてブーディカは北西へ退却をしつつあったローマ軍を追いかけ始めた。

スエトニウスの後退と軍団の合流

 ローマ軍団の動きを少しさかのぼって記述する。

 スエトニウスの直轄する第14軍団ゲミアはウェールズ北部をもともと攻めていた。そこから南東部の要衝ロンディニウム(現:ロンドン)へ早足で向かっていたがどうしてもすぐにはつけなかった。ただこれはある意味彼らには良い方向に働いたと言えるかもしれない。彼は第9軍団が壊滅する知らせを南東部に向かっている間に聞いた。

 そしてロンディニウムが次の標的であることを知った。ブーディカの勢力地からほどほどの距離にあるため狙われるのは不思議ではなかった。スエトニウスは第9軍団が壊滅したこととブーディカの軍が想像以上の勢いであることからロンディニウム防衛は不可能だと判断した。(少なくとも一部はロンディニウムに到達していたようであるが)
road-to-Watling-Street この交通の拠点を放棄して第14軍団は北西へもう一度引き返し始めた。

 追いかけてくるブーディカの軍に対し遅滞を展開し時間を稼いだ。北西へ戻って進んだ第14軍団ゲミアはブリタニア広域に散らばる他の軍団と合流を企図していた。ウェールズ西端から遅れて東進してきていた第20軍団、ブリタニア南西から来るはずの第2軍団と待ち合わせるつもりだった。スエトニウスはこの会戦で絶対に負けられなかった。

 まず第20軍団ウァレリア・ウィクトリクスの一部が駆けつけてきてスエトニウス直轄の第14軍団と合流した。第2軍団は翌日合流する手はずとなっていた。しかし次の日スエトニウスは兵の代わりに第2軍団の伝令が来られないと報告するのを受け取った。
 緊急事態である。スエトニウスは第2軍団の来ない理由を分析するよりも、とにかく近づきつつあるブーディカ軍と今の手勢で対峙する現実と向き合わなければならなかった。

戦力

 ローマ軍:戦闘員総数 15000人弱
  指揮官:スエトニウス
※重装歩兵、軽装兵、騎兵により構成(歴戦の兵士が大半を占めた)

 ブリタニア東部族反抗軍:戦闘員総数 約40000人~60000人
  指導者:ブーディカ
※各部族混成軍、歩兵、一部の騎兵、戦車を保有
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 小部隊ごとの管理と宿営を徹底していたローマ軍の数値は古代の中ではかなりの正確性を持つ。約1万人で大きなずれはないだろう。厄介なのは反抗軍側の人数である。上記の数値は現代の推定である。大元の文献で歴史家ディオはブーディカ軍を23万人と記している。これは流石に多すぎるかと思える。
 ただいずれにせよローマ軍よりはるかに多い数であった(ローマ軍がそう見積もって戦闘に挑んだ)ことはこれまでの作戦推移と、これからのローマ軍の戦術的判断からほぼ間違いないと見ている。

地形と布陣

 ストニウスはブーディカが迫ってきていることもあり、会戦の場所を探し始めた。現在それがどこであったかは議論があるが、タキトゥスの記録に基づくと以下のような地形であった。

 布陣場所に選んだのは手狭な場所だった。後方には森が広がり、正面に広がる平野を除けば敵兵が確実に攻め寄せられる方向は無い。平野では待ち伏せできる可能性はまず無いと考えられた。
Street-6 そこにローマ軍は密集陣形を展開した。それを軽装歩兵が取り巻き、両翼では騎兵隊が敷かれた。


 一方でブーディカの反抗軍は圧倒的な量の歩兵を保有しており、騎兵もいた。彼らは部族ごとにまとまりを持っていたと考えられているが、全体として横陣を敷き、後方には家族のいる荷馬車を並行して配置した。
 数で圧倒的な優越をしたためローマ軍より陣形の広さと深さは巨大であった。狭隘の地形にいるローマ軍を包み込むように平原に戦士たちが立つ。

 ローマ軍ブリタニア侵攻部隊はここで負ければ全員が死ぬことを理解していた。ブーディカたち反抗軍は勝てなければ独立が失われることを覚悟していた。西暦61年、ワトリング街道の戦いが始まる。

ワトリング街道の戦い_戦闘前の演説

 互いに整列し、闘いを始める準備は揃った。進む前に各々が最後の言葉を仲間たちにかける。こういった激励は一般的なものだった。タキトゥスの記録する内容は互いの軍の特性をこの上なく現している。

【ブーディカの演説】

 ブーディカは戦士たちを鼓舞する演説を行い想いを訴えた。その内容は後に語り継がれることとなる。
 「今私は、貴人から貶された一人の女としてでは無く、自由を失い、鞭打たれた私の身体と辱めを受けた娘たちへの復讐を行う人々の内の一人として立つ。我々だけでなく今はまだ汚されていないものまで、ローマの欲望は遥か遠方まで行き着くだろう。しかし天国は正義の報復のため勇敢に闘い死ぬ戦士達のためにある。」

 「もしおまえたちが軍の戦力をしっかりと測るのであれば、この戦いに勝つかさもなくば死ぬかしかないのはわかるだろう。」

【スエトニウスの演説】

 この危険な光景に対してローマ軍の司令官スエトニウスは静かに望んでいた。それから彼もまた己が兵士たちへ語りかけた。

 「あそこのやつらは戦士よりも女どもの方が多く見えるだろう」
 彼は騒がしいこけ脅しを続ける野蛮な敵へ嘲りを込め、同時に歴戦のローマ軍人たちへの信頼に満ちながら述べる。
 「戦いが本当は嫌で、まともな装備も無い。やつらは自身を征服する者達の剣と勇敢さを知り心が折れることになる。どんなに多数の兵があっても、勝敗を本当の意味で決めるのは其の中のわずかなものだ。そして栄光を手に入れる。」
 「戦列を密集させろ、投槍を放て、そして盾と剣に血と破壊を生み出し続けさせろ。略奪は頭から失くせ。勝利を得た時、全てがおまえたちの力の中にある」

 そしてローマ軍団の熟練の兵士たちは圧倒的な数の敵へ立ち向かった。戦争の両者は全く異質の信念を持っていた。片方は自由と正義だと信じる心を胸に、もう片方は軍人としての誇りと報酬を望み、勝利を互いに求めた。

ワトリング街道の戦い

【ブーディカ軍の前進】

  会戦の序盤、ローマ軍は戦いが始まっても冷静にその位置を保っていた。一方でブーディカの軍は激しい咆哮と共に攻撃に討って出た。
watling-forest 前列のおおよそ全てが前進を開始した。諸部族の小集団にわかれていたか、あるいはまとまりはあまりなかったものと思われる。ただ戦士たちの突撃の気迫は凄まじいものだったようだ。

 彼らは広い平野から険しい森で狭められたローマ軍の位置へ殺到していく。対するローマ軍は不気味な静けさで待ち構えた。地形と配置からするとローマ軍は険しい山林に囲まれ、正面の平野を敵大軍に封をされ逃げ場のない死地であるかのように思われた。だがスエトニウス達ローマの将校たちは自ら望んでこの位置に軍を行かせたのだ。そこには彼らの確かな狙いがあった。

【混雑するブーディカ軍両端】

 ブーディカ軍がローマ軍に近づくにつれて兵士たちが進める地形の幅は狭くなっていった。両端の険しい山林はかなりのものだったようだ。ほとんど戦士たちはそこに入ると行き詰まり、平野へ行こうとした。しかし中央は当然ながら他の戦士たちがいた。よって初期位置の広い横陣から進むに連れて両端が押し合いになり止まってしまい中央だけがスムーズに前進した。
 スエトニウスは明らかに意図的だった。側背を要害で囲まれた場所は逃げ場がないが、そのかわりに敵軍に側背を包囲をされる可能性を無くせるのだ。そして其の場合は正面の数と戦闘力がものを言う。正面の敵が進んでくれば細くなる戦場は混雑をもたらす。ただでさえ集まったばかりの部族にはより効果が発揮されると読んでいた。

【レギオンの迎撃】

 ただ両端の森にあたらない場所は前進を続けられた。たとえ狭まるために端が止まっても相対するローマ軍と正面の幅は同じである。進んだ彼らとローマ軍戦列との距離が近づく。その時ローマ軍の将校たちが号令をかけた。一斉にローマ軍の戦列各隊にピルムによる投槍を中心とする投擲攻撃が打ち放たれる。横隊の投射力は最大限に発揮された。
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 ピルムは2本をセットで持たれる事が多い。ブーディカの反抗軍は盾をローマ軍のように整然と隙間なく掲げるなどという技術はなかったようで、この2度の一斉投擲攻撃をもろに受けた。前列は壊滅的な損害を出してしまう。また盾で受けられたとしてもピルムは刺さった後折れ曲がる性質があり、その重みのために部族戦士たちは盾を捨てざるを得なくなったと考えられている。

 ここで前列が壊乱したことから一部は戻ろうとしただろう。ただブーディカ軍は後列にも数多の兵士がおり彼らも(全軍ではないにしろ)前進してきていた。もともと組織性の低かった部隊が崩壊した前列と、殺到しようと進んできた後列が交わり大混乱が起きたのは避けられなかった。

【楔形隊形と突撃】

 この瞬間にローマ軍は驚くべき動きを見せる。
 これまで整然と部隊を動かさず止まっていた彼らは合図とともに一斉に隊形を変更させた。横陣の前列が楔形を形勢する。諸説あるがこれは各部隊が行いV時の先端を敵に向ける状態(ローマでは"豚の頭"と呼ばれた)をとったとされ、おそらくノコギリの刃のようにローマ軍の戦列全体がなったと考えられている。
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 最も恐ろしいのは、それまで投射火力を最大化するため横陣を展開しており、敵が眼の前に迫った状態から相手の一瞬の混乱の間に隊形を変換したことである。個人の練度だけでなく部隊組織として圧倒的に優れていると表現するしか無い。やれるとしても一歩間違えれば皆殺しになるこの地形で実行するスエトニウスの度胸も大変なものがある。(追い詰められていたからこれしか無いとの判断かもしれないが)
ワトリング街道の戦い

 そしてこの楔形は突撃のためであった。一斉にローマ軍全体が前進し壊乱するブーディカ軍へ踏み込んだ。突撃は完全に成功する。ローマ軍は相手を切り裂くように止まること無く圧力をかけ、ローマの盾とグラディウスの剣が近接戦でものをいった。

【両翼騎兵の展開】

 軍全体が勢いを失い混乱した状態でローマ軍の整然とした突撃を受けたブーディカ軍はその圧倒的な数にもかかわらず(あるいはそれ故に統率がとりにくかったためか)押され始めた。後退し広がる平野へ戦場が移り始めた。ブーディカは諦めずに戦車に乗り周りに押し留まるよう声をかけ反撃をしようとしたとされる。
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 しかしローマ軍は連続的に動きブーディカに立て直す隙を与えなかった。楔形隊形の歩兵が前進すると同時に両翼の騎兵が展開した。ローマ騎兵隊は前にいくにつれ広がる地形を利用し、敵の両翼へ移動して攻撃を開始する。
 突撃は翼正面へと思われるが側面攻撃も発生したと考える場合もある。圧倒的な数で狭隘の地形を端から端まで埋めていたブーディカ軍に側面を突くスペースなどなかったはずである。この両翼攻撃が可能となったのは、ブーディカ軍が一度前進しようとして細くなる地形に合わせて部隊が狭まり、それから狭まった部隊全体が後ろへ下がったことで側面にあるはずのない空間が生まれたと推測される。あるいは一挙に平原まで躍り出たかのどちらかであろう。

 いずれにせよ、ローマ軍歩兵は圧倒的な力で正面攻撃を成功させ騎兵による側面攻撃も規模は不明だが発生した。これは両翼包囲に近い形態であり、壊乱するブーディカ軍にトドメをさすには十分だった。

【ブーディカ軍の崩壊と馬車へ到る襲撃】

 ブーディカたち反抗軍全体は完全に崩壊した。大混乱が起きたことは間違いない。おそらく味方に踏み殺されたり圧死した者も少なくなかっただろう。それを見ながらローマ軍は足を止めること無く前進し続けた。そしてブーディカ軍全体は大規模な退却へついに移り始めた。ブリタニア反抗軍の敗北の時であった。

 ここで趨勢は決して居たのかもしれない。ただローマの軍人たちは一切の容赦を持たず戦闘を遂行した。彼らは敵を切り裂きついにその後方に並べられていた馬車へ到達する。そこにはブリタニア戦士たちの家族や非戦闘員、そして家財があった。ローマ軍団はそこで略奪に勤しむのではなく徹底的に戦闘を継続した。ブリタニア戦士たちも入り乱れて馬車付近にいたためそうしなければ危険だったとも思われる。

 ローマの軍人たちはその高い技量の全てを発揮し、この平原に凄まじい殺戮をもたらした。
 ブーディカ軍を構成していた諸部族はその家族を含め死傷・捕虜となり、反抗軍は完璧に破滅した。

戦果

 イケニ族を中心とするブリタニア東部反抗軍は殲滅された。スエトニウス率いるローマ第14軍団ゲミア及び第20軍団ウァレリア・ウィクトリクスは完全な形で勝利を手にしたのだ。

 ローマ軍:(総数15000人)
  死者・負傷者:約400

 ブリタニア東部族反抗軍:(総勢約40000人強)
  死者・負傷者・捕虜:随伴員含む軍壊滅規模 (指導者ブーディカ含む)

 歴史家タキトゥスによると反抗軍の死者は8万人に登ったとされる。勝者のローマ軍の被害はおそらく過小報告であり反抗軍は誇張されていると思われる。ただ戦士と其の家族に膨大な死傷者が出たのは確かであった。ブーディカはこの戦闘では戦死しなかったが敗北を悟り毒で自殺したとも、病死したとも言われる。ローマ軍は彼女を丁重に埋葬したと伝えられている。それが史実かは不明であるが、少なくともローマ軍はこの戦士に敬意を持っていたようだ。

 この会戦後は掃討戦となる。ただローマ中枢では根本的なこの大反抗の原因が強圧的すぎる支配であったと考える者もおり穏健派も台頭した。どうやら皇帝ネロも強圧だけではまた騒乱が起きると感じていたようだ。
 その後ローマ軍のブリタニア侵攻は更に遠方へと広がっていく。ブリタニア諸部族はローマの文化制度との融合と反抗を繰り返しながら歴史を歩んでいくこととなる。
 大勝利を得たスエトニウスの軍事的な名声は極まったが、強硬な統治を続けたためネロにより失脚させられる。彼はその後ローマの内乱で再び戦場に現れることとなる。
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ここまで読んでいただきありがとうございました。

戦役の小考

【練度】

ワトリング街道の戦いはローマ軍の圧倒的練度の高さが勝利をもたらした要因の1つであることは間違いありません。
「ローマ軍は高い練度と組織性を持ちまるで機械のようだった」
歴史家ガイ・デ・ラ・ベドワール

 ただその自信が第9軍団の壊滅をもたらしたという側面があります。ブリアニア侵攻戦略で与えられた兵数は多くなかったにもかかわらず軍団のあまりの強さに戦線が急激に拡大しました。そのため分散が起きてしまっています。ワトリング街道会戦での軍団数はスエトニウスにとって望ましくない作戦失敗に近い状態でした。(ブーディカを偽装退却で引き寄せたかについては議論が有る)
 ただ彼はぎりぎりの所で常に冷静であり、そして揺るがぬローマ軍団への信頼を持っていました。

 ローマ軍団の練度をどのように運用するかという点が最後の差を生み出しました。この会戦でのローマ軍団の最も驚異的な動きはやはり一斉投擲攻撃から一瞬で楔形隊形へ変わった際のものでしょう。実行したスエトニウスの大胆さとローマ軍人への信頼が練度を活かしたと言えます。隊形を柔軟に動かすのはローマ・レギオンでは基本的な事項ですが、ここまでのものを示されると改めて帝政初期ローマ軍とはどんなものだったかを思い知らされます。

【戦術】

 正面攻撃及び突破が戦闘の主要素であったのは確かです。ただ数倍の敵に正面から練度「だけ」で勝ったと言われるとすんなり納得するわけにもいきません。ブーディカ軍を烏合の弱兵だと貶め結論を出すのは(正しいのかもしれませんが)可能な限り避けたいと思います。彼らもまた戦士たちの集まりであり非常に高い士気があったことがそれに拍車をかけます。もちろん集団パニックなどの要素を考慮にいれると急激な崩壊も不思議なわけではありませんが。

 追加要素として騎兵に依る両翼包囲が発生したことに注目することもできます。壊乱が収まれば再度数の優位を活かされる。そこで連続的に敵の組織性を破綻させ続けることが必要で、突進と両翼包囲による圧力がそれを助長したと言うものです。ですがタキトゥスらの描写からは断言はできません。

 ただ軍事参考例として、狭隘地点での戦闘は非常に重要です。狭い場所に軍を展開し包囲攻撃を防ぐというのはローマ軍の回答の1つでした。この会戦はそれだけでなく、奥に行くにつれ狭まる地形を利用し敵軍をおびき寄せて両翼に混乱を生み出し、その後に逆襲して押し込むことで両翼に一挙に優位性をもたらしました。それにより数で劣るにも関わらず両翼包囲を可能としたと解釈できるかもしれません。

【後方の家族】

 後列の馬車付近にいる戦士の家族というものに注目もしたいと思います。既に文中で書いたように、家族を行軍に連れることで遠方に置いてくる不安を取り除くことは作戦としても社会形態としてもそこまで珍しくはありません。戦場で士気をあげる効果というのも理解できます。ただ敗北した場合はやはりこのような惨劇の可能性が高くなります。
 この家族連れの効果を作為的にした帝国が歴史には見られますので別の機会に紹介したいと思います。

【歴史上の扱い】

 ブーディカの戦いは英国で非常に有名であり数々の書籍や曲が作られています。その多くがその悲劇性と現地民の自由と独立という観点が(少なくとも現代では)正義と感じられるため、彼女の歩みを見つめます。これには異論はありません。ただこの記事では軍事に着目するためローマ軍の活動に焦点をあてました。
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以上、長くなりましたが拙稿を読んでいただきありがとうございました。
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【参考文献】
タキトゥス, "年代記" 英訳版
カッシウス・ディオ, "ローマ史" 英訳版
Jonathan P. Roth, (1999),"The Logistics of the Roman Army at War (264 B.C. - A.D .235)"
Ross Cowan, (2007), "Roman Battle Tactics 109BC-AD313"

【サイト】
https://web.archive.org/web/20070927002643/http://www.ospreypublishing.com/content2.php/cid%3D206
https://sfw.so/1149052541-vosstanie-boudikki.html
https://aquelion.deviantart.com/art/Legio-II-Augusta-vexillum-690382228
http://www.learning-history.com/ancient-roman-wars-battle-watling-street/
https://www.tracksthroughtime.co.uk/single-post/2016/03/28/Roman-Usks-Legio-XX-Valeria-Victrix-the-1st-century-AD-Silurian-campaigns-Part-2?fb_comment_id=944330005604395_944525952251467

【動画】
戦女王ブーディカ
https://www.youtube.com/watch?v=araooKV_2DM
ローマのブリタニア侵攻
https://www.youtube.com/watch?v=Yv9FCzH5BTo

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【余談】
 敢えて「後方の家族」という要素が逆に弱点になったという推論をしてみたいと思います。
 端的に表すと、後方の家族へローマ軍の突破が到達してしまうと戦士たちが思ってしまい、家族を守ろうと後方へ駆けつけにいったために全体が崩壊した、という考えです。

 まず始まりはなぜ大規模な後退をブーディカ軍がしてしまったのかという所です。上述の戦術的要素でも十分かもしれませんが、それ以外にないかと思索した結果です。
 本来なら後方に家族がいるのだからそこに行かせないように踏みとどまる効果をもたらすはずです。ただあまりにローマ軍が想像以上であり、どこかが突破されてしまうと戦士たちが考えるのではないかと捉えました。(事実突破されます)
 軍事的には己の持ち場を守ることこそ軍全体で防ぐことに繋がるのですが、個人の感覚では愛する家族に危険が迫れば傍に行って守ってあげたいと情に流れる場合もあるのではないでしょうか。

 この意見への反論はいくつも思いつきます。例えばブーディカ軍の厚みはそのようなものが簡単に発生するほど薄くはない。よって突破を後列までされると心配するころにはとうに戦局は決まっているはずだというものです。また大混乱の戦士たちが後列が危ないと思うほど状況を把握できるか、というものもあります。所詮は断片的な要素からなぜ圧倒的多勢が崩壊したかと自分を納得させるための推測に過ぎません。正直この戦いは残された記述だけでなぜ勝てたかわからない…信じられないほどのローマ軍の強大さです。

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 メモ:
・戦象をブリタニアに運び込んだ記録あり
・英国の番組でタイマツの火の光を手旗信号のように使いブーディカの動きを偵察が伝達している描写が有るが史実か未確認