WW2北アフリカ戦役での米軍Sustainmentに関して総評を行った論文について、一部を試訳したものです。思いつきでやっただけで特に読み返すなどしておらず不備があるかと思いますのでご指摘いただけると助かります。
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公開日】1991年5月6日 

論題

 北アフリカ戦役:ロジスティクス査定(The North Africa Campaign : A Logistics Assessment)

著者

 マーク・D・キッチン少将(Major Mark D. Kitchen)
遂行組織
 アメリカ陸軍指揮幕僚大学(U.S Army Command and General Staff College)

論文概要

 本研究は北アフリカ戦役におけるロジスティクスの諸作戦について分析する。対象とするのは1942年、北西アフリカへ上陸した連合軍に後続した米国地上部隊支援に関して、ホールセイルとリーテイル *1  領域の準備と実施についてである。本分析は1943年5月のチュニジアでのドイツ軍降伏までを論述する。
 
 この戦役におけるロジスティクス面での試みは現代のエアランドバトル・ドクトリン構想に関して研究される。人材調整、燃料供給、武装化、修理そして輸送の各分野がそれぞれ査定される項目は予測性、統合調整、継続性、反応性即興性といったドクトリン上の必須事項である。

主題用語

トーチ作戦、北アフリカ戦役、北西アフリカ(WW2)、ロジスティクス、維持支援、チュニジア戦役、WW2ロジスティクス

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謝辞

 専門的な指導と尽きることの無い忍耐を頂いたジョージ・J・モルディカ少将、デビッド・T・ウェーバー少将、フロイド・H・ダンカン大佐に謝意を表したい。そして、継続するための励ましと自信をくれた妻と息子にも感謝したい。最後に、私の姉であるケイ・ミラーに心からの御礼を伝えたい。彼女の熱心な助力が無ければこの論作は完成することはなかったであろう。

iv

目次

承認・・・・・・・・ii
概要・・・・・・・・iii
謝意・・・・・・・・iv
図表のリスト・・・・vii
マップのリスト・・・viii

第1章 ― 導入・・・・・・・・・1
 北アフリカにおける英国・・・・・3
 トーチ作戦の発端・・・・・・・・11
 トーチ作戦と北アフリカ戦役・・・17
 用語の定義・・・・・・・・・・・29

第2章 ― 手法及び文献・・・・・・・・33
 範囲・・・・・・・・・・・・・・・・・33
 趣旨・・・・・・・・・・・・・・・・・33
 文献レビュー・・・・・・・・・・・・・34
 研究と手法・・・・・・・・・・・・・・36

第3章 ― 維持支援構造・・・・・・・・・・・・・・・・・38
 1942年における陸軍サービス軍とその補給サービス ・・・・38
 基本各部門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43
 軍団と師団の支援・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・51

第4章 維持支援の活動・・・・・・・56
 人材調整 ― 医療支援・・・・・・56
 人材調整 ― 遺体処置業務・・・・67
 人材調整 ― その他事項・・・68
 武装化・・・・・・・・・・・・・・70
 修理・・・・・・・・・・・・・・・75
 燃料供給・・・・・・・・・・・・・80
 輸送・・・・・・・・・・・・・・・86

第5章 ― 結論・・・・・98
 参考文献・・・・・・・110
 初期配布リスト・・・・113

第1章 導入

(前略)

【用語の定義】

(前略)
  維持支援諸機能(Sustainment Functions)=FM100-5に定義されている通り、それらの機能が内包する意味は人材調整、武装化、燃料供給、修理、そして部隊を移動させることをであり、維持支援システムの保護をすることと同様である。

(後略)

第2章 手法及び文献

(略)

第3章 維持支援の組織構造 

(本文略)

ORGANIZATION OF THE SERVICES OF SUPPLY 20 FEBRUARY 1942
< 補給サービス組織図:1942年2月20日期 >

base section mission area north africa_1942
< 各基地セクションの担当エリア >
※大西洋基地セクター、地中海基地セクター、東部基地セクター

Theater Organization of Supply_1942

< 戦域内の補給組織図 >

第4章 維持支援活動 

 北アフリカ戦役は数々のロジスティクス面での課題を米軍にもたらした。多くの部隊が人手不足であったり戦争の経験を持っていなかった地形と気象は共に過酷で容赦がなく、円滑なロジスティクス遂行を取り計らってくれることなどなかった。戦術的なグループ分けのために広い戦線に小規模のタスクフォースに別れて展開する結果となり、適切な人員配備や備品の援助も受けられず補給担当者がそれぞれ小さな独立した諸部隊として運営する結果になった。
 以下では、ロジスティクスにおける主要5分野の事項(人材調整、武装化、燃料供給、修理、輸送)をまとめる。6番目の維持支援事項である支援資産の保護については分野ごとに含む。
Operation_Torch_map_each_Task_Force_landing
< トーチ作戦における各タスクフォースの上陸地点および北アフリカ重要都市 >
Landing_SafiLanding_CasablancaLanding_Port_Lyautey



< 西部タスクフォース Safi上陸 / Casablanca上陸 / Port Lyautey上陸 ※訳者補足>

Landing_Oran

< 中央タスクフォース Oran上陸 ※訳者補足>
Landing_Algiers

< 東部タスクフォース Algiers上陸 ※訳者補足>

【人材調整 ― 医療支援】

 北アフリカ戦役で医療組織が直面した最大の問題は、初期計画策定に根本原因があるものだったかもしれない。前述の通り、3つの各タスクフォース *3  は自身のロジスティクス計画と支援作戦に対し責任を負っていた。西部タスクフォース用は米国で策定され、残りの2つは英国で計画されていた。この分割があった故に、初期の医療諸作戦では広汎の方針を除いて連合軍司令部の軍医総監はほぼ直接的な影響力を持てなかったのである。
090
 < トーチ作戦各タスクフォースのルート ※訳者補足 ソ連製図 >

 3つのタスクフォースはそれぞれ大きく異なっていた。輸送船には使用可能な排水トン数があったので、西部タスクフォースはその制限の影響を受けていた。作戦初期は最少数の医療従事者・器具のみしか搬入することができなかった。医療分遣隊と「大幅に削減された」医療大隊たちだけが上陸初期段階に参加した。後送病院は1942年12月末まで設置の予定がなかった。
 中央タスクフォースはより充実した支援諸要素を統括できる自由を与えられており、攻撃部隊のために2つの後送病院と1つの軍外科病院を割り当てられていた。固定病院設備が11月20日と12月20日に到着予定とされていた。
 東部タスクフォースは主に英国であり、米国の医療部隊はより簡略化されたものが組み込まれていた。師団用医療大隊の搬送&応急処置する各中隊だけが、補助軍医グループによって増強され米軍の支援にあたった。第3、第4の段階支援が英国によって提供された。

 各タスクフォースの上陸作戦時に戦闘医療サービスを提供するため、自身で作成した計画は詳細に解説が記載されている。だがそれらがほぼ基としたのは、水陸両用作戦の現実に即した知識の無い状態で作成された教範であった。多くの犠牲を払った1942年8月のディエップ襲撃(ジュビリー作戦)に米軍のオブザーバーは参加し、その諸作戦で蓄えられた陸軍の見識を一通り説明していた。ディエップ襲撃は英国とカナダの合同で行われ、フランスへの攻撃で50%以上に及ぶ死傷者を出す結果に終わった。従って比較的軽いフランスの抵抗を考えると、トーチ作戦で想定される死傷者が過剰に見積もられても驚きではない。

 攻撃が開始されるとすぐに各タスクフォースは医療作戦上複数の問題を経験するはめになった。例えばAlgiers西岸へ東部タスクフォースが上陸した際に、搬送中隊員は上陸日の07:30に海岸へ来た。彼らは誤った地点の岸に上陸してしまい、支援を行う大隊救護基地へ到着するため救護タンカに装備を載せて運びながら16kmも行軍せざるを得なくなった。
 中央タスクフォースでは、ある後送病院が作戦開始から3日経過して荷が到着するまで設置できなかった。なぜなら港が閉鎖されていたのに加え病院器具を運ぶ船が遅れたので、その時まで戦闘地帯から後送されるのはほとんど無かったのだ。
 パットンの居た西部タスクフォースでも医療支援は不足していた。Safi(Casablanca南)への上陸から最初の数時間、砂丘だけで覆われた応急医療処置所に死傷者は留め置かれることになった。CasablancaFedalaには大量の即席医療所が作られ医療大隊員が勤めた。現地の業者や医者それに海軍から物資を借りて、学校施設とカジノそれに個人の邸宅が利用された。11月12日夜、これらの医療所の1つにUボートの攻撃で火傷した犠牲者が400人も運ばれ、うち100人は繰り返し輸血する必要がある患者だった。フラッドライトが確保されるまで懐中電灯だけが唯一の照明であった。

 医療の観点から見て、この上陸段階はいくつか重大な事象をもたらしていた。1つ目は、いかなる状況であれ、充分早くあるいは充分な器具を揃えて搬送部隊&応急処置部隊(Collection & Clearing)が海岸に着いたことが無いということだ。追加医療物資は海岸のあらゆる場所に散らばり、既に限界だった状況を複雑にした。2つ目に、医療部隊の状態が実際に直面するであろう状況に対する乏しいインテリジェンスがある。その基になってしまったのは戦闘経験の無さかあるいは第一次世界大戦での静止的な支援の経験である。最後に、攻撃の後で即時に固定型病院を設立するのに失敗していたことである。この攻撃のために、侵攻時の死傷者を処置するためOranCasablancaにいた移動医療部隊の停止が不可避になってしまい、そして第2軍団に随伴し移動するのを妨げてしまった。
WWIIEurope40_19421117~19430214
<左図1942年11月17日~43年1月1日  右図1943年1月1日~2月14日 の戦況部隊配置図>

 1943年1月までに第2軍団司令部はConstantine(アルジェリア北東部)に置かれていた。フレデンドール少将は彼の部隊をTebessa近郊に設営し始めた。2月までに3個師団のほとんどが展開した。それらの師団の中に3個医療大隊が組織化され、2つの後送病院、1つの軍外科病院と追加の1個大隊がTebessa周辺に置かれてもいた。
 雨季の末までドイツ軍が主導権を握っていた時期、南東約129kmのファイド峠通り近くでロンメルは第2軍団を激しく打撃した。米軍インテリジェンスはそのはるか北で攻撃があるだろうと予想してしまっていた。不意をつかれたフレデンダールはカセリーヌ峠(突破された箇所は60km東)で立ち向かう準備をした。敵戦車は通を駆け抜けてきて、配置外の米軍機甲部隊を捕捉した。ドイツ軍は燃料弾薬の不足で引き返したがその時までにTebessaから約32km以内の距離まで進撃していたのであった。
WWIIEurope41_カセリーヌ峠の戦いbattle of Kasserine_ロンメル_ドイツ軍の突破と米軍の阻止
< カセリーヌ峠の戦い戦況図 >

 ファイド峠襲撃による戦闘は搬送&応急処置の諸中隊を、ほぼ街道未整備の国で数百kmに渡って広がらせたのだった。医療部隊の撤退が命じられたのはドイツ軍の前進に対応してだった。撤退の最初の日、第109医療大隊所属の搬送中隊は、第168歩兵連隊の医療部隊(全部で将校10人と隊員100人)のほとんどと一緒に捕らえられてしまった
 ドイツ軍によるカセリーヌ峠の突破作戦までに、Tebessa周辺の医療部隊は退避したのは少なからず英軍の救急車両部隊のおかげだった。悪天候が空路での退避を不可能にした。これらの動きは迅速かつ規律正しく行われた。第48軍外科病院の200台ベッドを備えた場所に指揮官たちは深い印象を受けた。それは患者を後送し、すぐに解体して4.5時間で移動準備を整えることができた。これは750台ベッドを持つ後送病院(組織的な輸送機関を持たず軍団が補助してくれた時のみしか動けなかった)とは際立って対象的であった。応急処置所と病院を160km離し、彼らを前線から遠くに保ったその(移動による)相対的な不動性は一般化されていた。

WW2_North_Africa_Algeria_Hospital
1943_Algeria_Camouflaged Aid Station

<左図 コンスタンティーヌに設営された米軍病院 右図1943年の救急処 ※訳者補足 >

 その後のドイツ軍のチュニジア南部からの撤退に続いて、第2軍団の前線任務は150km北へ移動することになった。これはイギリス第1軍を横切って10万人配置転換させる作業を含んだのだが、敵に発見されず補給や各種業務は妨害されること無く達成された。北部での維持支援活動は南部と比較すればだが随分と楽なものだった。第2軍団は南部にいた時は400ベッドの病院は1つ、750ベッドの部隊2つだったのだが、今や400台ベッドの病院3つ、750ベッドの後送病院2つを持っていた。前方病院は戦闘地点からわずか8km~32kmの距離に置かれている。チュニジア南部に居た時は40km~161kmあったものだった。
 チュニジア北部戦役最初の10日間において、戦闘は再びほとんど道が整備されていない山岳地帯で行われた。後送距離はかなり短くなっていたのだが、その任務は部分的に困難なものとなった。第9師団の担当戦域において、その地形を切り抜けるために騾馬が使われた
 1943年5月、戦役最後の週において連合軍は、アルニム将軍のドイツ軍を封じめるように動き主導権を握る状態が見られた。医療支援は今や野戦教範で示されたドクトリンの輪郭に酷似しつつあった。海岸沿い平野と道路網は支援作戦をずいぶん楽にした。第51医療大隊は捕獲した2つのドイツ軍野戦病院を監督した。全ての入院が必要な捕虜が第9後送病院へ搬送された5月15日まで、彼らは作戦を続けることを許可された。

【医療後送】

 一般的に医療後送の定義は、戦闘区域内の患者を連絡(兵站)区域へ移動させること、連絡区域内での移動、そして作戦地域からの米国内への避難とされる。これは全ての支援レベルが、任意の患者と部隊の支援を提供するために、密接に統合される必要がある。
 後送方針の決定は、兵力に対する固定病院のベッドの比率病気と負傷の比率、そして後送する機関の輸送能力の評価によって為される。米国内では後送方針はかなり堅まっていた。だが北アフリカの戦域においてはより柔軟な方針が採択されていた。戦術的状況、死傷者の発生量、そして移送の必要性はその前線区域で可能なことに限定されていた。従って30日間の方針は前線基地区域で効果を発揮し、90日間のものは地中海と大西洋基地セクションで設定された。
 受け持つ患者を公平配分し、米国へ後送する負傷者を集中させようと努力した。それらは移送することができるであろう病院にとって鍵となった。これにより担当患者数は前線区域において減少し、そしてOranCasablancaまでの部隊移送のための待機時間は最小化された。
JEEP HEADED INLAND OVER STEEL MATTING NEAR LES ANDALOUSES
 戦域内での後送の方法は挑戦的で革新的であった。地上では距離が短かった場合は山野横断可能の救急車両が最初の手段である。しかし地形または気象によっては、1/4トン積ジープ(トラックを短距離移動用に広汎に渡って使用した。救急車両にとって荒すぎたり狭すぎたりする山岳を克服できる1/4トン積ジープは極めて貴重な存在だった。移動が最も穏やかにできる戦域を除いて、もっと大きな車両即ち3/4トン積武器輸送車両と2と1/2トン積トラックは不適格だった。これらの車両は非常に不快適な環境を患者に与えたので、極端な緊急事態を除いてそれらの車両の使用は制限された。
 病院列車は戦域内の広範囲に渡って使用された。それらは米国からの船舶輸送はされなかったが、捕獲されたり即席で列車を医療後送用に改造することで使用されるようになった。チュニジアでの戦役初期段階では病院列車たちは英国の管理下にあった。1943年3月、あるフランスの列車がアメリカ人用に調達された。ほとんどの米国への後送に利用可能な兵員輸送船がCasablancaへ送られてしまっていたので、この病院列車はその場所からOranの間を大々的に使用されることになった。両方の列車は、2等か3等級車両と箱型貨物車両が担架の患者のために繋がれて造られていた。これらの列車に為された大幅な改造は、快適な宿泊設備と安全そして迅速な移送をもたらした。
 線路での後送においてもっとも想像力ある用途が第9師団の担当区域でのものであった。チュニジア戦役でのある箇所で、線路が戦線を縦断していた。2台の1/2トン積トラックが背中合わせに繋がれ、レールに合ったリムを備えつけられた。後方地帯へ行く時に1台のトラックが動力を提供し、帰りはもう一台が動力となるのである。この構成は一度に12の担架を運んだが、遮蔽物のない地点であったので夜にしかできなかった。一時は、荷造りされた騾馬による搬送がチュニジアの孤立した場所で実施された。騾馬はタンデム用の装具を付け、担架をつり帯でサドルに繋いだ轅の間に装着した。その最も大きな利点は死傷者を搬送にかかる人数を減らせることで(手持ちで担架を運ぶに比べたった1/4)敵の攻撃に晒される機会を減らし、そして騾馬の能力は人力の担架運搬班よりずっと長い距離に対応することができた。騾馬使用の欠点は患者の安全性、特に敵の攻撃の最中にその動物を制御すること、そして騾馬がバックした際に患者を担架から落ちないようにする難しさである。患者の不安も重要で、騾馬を恐れてしまうと制御を失ってしまった。医療機関局はこれらの欠点を認識し、その騾馬による活動を標準的な方策にするべきではないと勧告した。
North Africa_Road Map
<北アフリカの連絡線>

 水路を使った後送は非常に限られていた。米国の病院船は利用不可能だった。だが、Algiers/Oranから英本国の航路と、Bone/AlgiersからOranへ行く英国船にいくつかスペースが用意されていた。
 他の手段がない場合、軍隊輸送船が傷病者を米国へ送れる唯一の手段となった。3つの鍵となる要素が軍隊輸送船の後送を制限していた。元々、航海で起きる災害の際に精神的および肉体的に自分の世話を自分ででできる患者のみを戦域方針では許可していた。その方針は1943年2月に全カテゴリーの許可に緩められた。次に、これらの船の医療設備が貧相なものだったというのがある。最後に、陸路が当初は制限されていたことでCasablancaまでの全ての道で死傷者の後送が阻害されてしまっていた。ほとんどの軍隊輸送船はCasablancaを航路にしており、OranAlgiersは対象となっていなかった。

 航空後送は快適性、安全性そして速度があり最も望ましい方策であった。戦役最初の3ヶ月では航空後送は組織化されていなかった。軍医と航空軍団将校が主導できた場合はローカルに実施できた。実際の所、ほとんどがC-47航空機を使用している航空軍人員たち自身のために航空支援は提供された。
 1943年1月、戦域担当軍医は第51軍隊輸送航空団と会合し航空後送計画の大枠を設定した。一般的に地上軍は医療施設を飛行場の近くに設置することに責任を持ち、受付とトリアージ(救急性の識別)を行う。航空軍は地上の医療施設間の連絡調整と医療器具の交換及び途上での看護を提供する。柔軟性と急速な発展を阻害してしまう恐れがあるため、一般ガイドラインだけが発行され、詳細は意図的に省かれた。ある時はこれで充分だったが、交通量が増えた時は地中海司令部による中央統制が設けられた。

【人材調整 ― 遺体処置(死者登録)業務】

 最初の正規遺体処置(死者登録中隊はトーチ作戦のわずか2年前に認可された。理論上では、この部隊の5人の将校と125人の隊員がいれば1個軍団(3個師団編成)を支援可能とされた。機能的には遺体処置業務は将校が責任をおい、平常ではG-1(Personnel) かG-4(Logistics)*4 の麾下であった。
 西部タスクフォースに船舶輸送制限が課されたことで、これらの中隊のうち2つが米国内に留まらせられてしまった。当初は戦闘部隊は部隊の死者を自分たちで集め、特定し、埋葬するはずだった。ほとんどの場合これらの部隊に情報はほぼ与えられず経験も少なかった。
 隊内の死者の身体を修復し埋葬するために戦闘要員を使うことを部隊指揮官は反対した。下士官とその補助を受けながら従軍牧師がその役目を行うのだと一般的には想定されていた。
 もともと西部タスクフォースに最終的に配備されることになっていた第46遺体処置業務中隊がついに3月2日Constantineに到着した。4月に設立された戦域死者登録処理業務に統合され、この部隊は最終的にいくつかの救済をもたらした。当時もう規範化された死体安置所と埋葬場所の確保のための遂行手順があった。
 第46中隊の到着後でさえ、未だに重大任務を負う戦闘要員を遺体処置業務役務から解放にするには不十分だった。遺体処置業務員は前方収集地点を設営できたが、それは死者の遺体を処理するという地上軍の士気を低下させてしまう経験の埋め合わせにはならなかった。

【人材調整 ― その他事項】

 この戦役を通して充分な数の交代要員が戦域に供給された。けれども2つの重大な懸念事項があった。
 1つ目の問題は北アフリカ内での兵士の訓練水準だ。多くの事例があるが、主要な例は1943年2月起きたものだ。まだ充分な量の基礎訓練を受けていない第1歩兵師団が1500人の交代を不安げに待つことになってしまったのだ。結局は実際に戦闘に参加した部隊から指導員を連れてきて、後方に訓練センターをその師団は設営しなければならなかった。
 2つ目の問題は歩兵が消耗するゆえの交換品の不足である。この不足を補うため、技量あるメンテナンス担当が武器科部隊から連れてこられたり、交換品備蓄から歩兵隊の所へ取ってこられることになった。これは既に過度に負担がかけられていたその地域の支援部隊の状態を悪化させただけだった。
 別のエリアでは、洗濯とその他サービス業務がこの戦役を通して困難なものになっていた。軍需品科部隊はこの目的のために配備されてはいなかった。しかし加えて、石鹸は不足しており現地で入手できなかった。市内では洗濯サービスが市民を雇って行えたが、野外では洗濯が兵士たちに為されることは無かった。温水機器は充分あったがそれを動かす燃料が少なかった。寒い天気の中で、室内ですら冷水で入浴させられたので非常に不評だった。寄生虫感染の可能性があるため河川での即席入浴は推奨されない
Meal, Combat Individual
 米軍の兵士たちが使えたレーションの量はこの戦役で決して問題とならなかった。だが、質の面ではまた別の話である。アメリカ式「C」レーションは優れた栄養素をもたらしたが、数週間または数カ月に渡って変わらない食事というのは望ましくないということが証明された。冷蔵または冷凍保管できる船が不足していたので新鮮な食事はわずかしか供給されなかった。果物と野菜の現地調達はニューヨークからの船舶輸送を最小化するのに役立った。野菜1700トン以上、グレープフルーツ70万個、オレンジ500万個が1943年2月~6月間に消費された。野外製パン所は利用できたけれども、頻繁に機械トラブルに悩まされた。無鉛燃料の不足によって火力が足りずオーブンは空いていた。

【武装化】

 トーチ作戦とそれに続く戦役計画において、弾薬は最も不足していた物品だったかもしれない。1940年時点では、フランクフォード兵器廠とピカティニー兵器廠が新たな砲弾の製造能力を持っていた。わずか2~3箇所の工廠だけが旧型弾薬を新しくする機能を持っており、民営弾薬工場では存在しなかった。スティムソン陸軍長官は(1940年の)弾薬備蓄の乏しい状況に着目し次のように言及している。「我々が今(1943年)保持している海外諸地域にいる者たちが一日の戦闘を続けられるような、充分な火薬を米国全体でも持っていなかった。」
 その状況を解決するため大胆な手段が取られた。1940年6月~12月期に60箇所のGOCO(政府所有・民間運営方式)の弾薬工場によるネットワークが構築されたのである。

 北アフリカ侵攻のための弾薬需要は各タスクフォースの参謀将校によって決められ、船舶輸送は米英両国から為された。これらの需要は戦域の指揮官が決定した「発砲単位」  *8  に基づいて計上されていた。 1つの発砲単位とは、その指揮下における各兵器(1ラウンドでの)平均弾薬消費量についての尺度の戦術的単位である、と定義される。
 北アフリカ戦役での計画では、上陸作戦初日用は3発砲単位であると設定され、続く7日間では1と1/2発砲単位が1日あたりに必要とされた。その後、1日あたり3/4発砲単位で30日間続けられるために、「30日間分補給量」1セットが築かれた。それ以降は1943年1月までに、1日あたり1/2発砲単位とした60日間1セット分の備蓄が築かれた。船舶出荷は陸軍省により機械的に実行され、当初は現場の実際に即した要請を反映していなかった
 すぐに60日間目標量を上回る弾薬備蓄がCasablancaOran及びAlgiersの海岸に築かれた。これは主に上陸期間においてフランス(ヴィシー政府)軍の抵抗が軽微だった結果である。配送を遅らせるような事は無かった、というのも将来チュニジアでそしてやがてはシチリア島で必要になるはずだったからである。
AMMUNITION STORED UNDER TREES NEAR SBEÏTLA

<スベイトラ近郊の野外に隠して蓄積されている弾薬 ※訳者補足>

 軍団レベルでの武器科(Ordnance)部隊は戦域内で主に弾薬の補給と配布の責任をおっていた。フレデンドール将軍の承認によって臨時武器弾薬集団(POG)が結成され、2個大隊(やがて5個になる)を指揮することとなった。メンテナンス諸中隊により構成される第1大隊は、OranとArzewで陸軍各部隊へ武器弾薬サービスを(弾薬は少数)提供した。メンテンナンス部隊と弾薬部隊で構成される第2大隊は、各都市の外に配置されている陸軍全組織に対する支援を行った。
 初期の弾薬供給の諸作戦は弾薬庫の設営を中心としていた。アラビア現地人労働者が広く使用され、そしてそれは問題なしとは行かなった。労働者の多くが若年あるいは虚弱で重労働を担えなかった。雨季には悪天候に悩まされスケジュールの遵守はほぼ不可能だった。彼らは時折、武器弾薬を個人用に盗んでしまう可能性もあった。
 11月後半に第62弾薬大隊が到着し、直ちに第3POG大隊となるよう再構成された。彼らは3つの弾薬庫の運営を引き継いだ。
 第2軍団が1月にチュニジア南部へ移動した際、POGは大規模な再編成を経た。その新しい設定によって、メンテナンス部隊と弾薬部隊の支援パッケージをバランス良く広大な戦線に供給できるようになった。主要な弾薬備蓄庫はTebessaの北西に設営された。弾薬補給地点は96km~129km東へ行ってFeriana(カセリーヌ南)とSbeitlaそしてMaktarで実行された。ここで彼らはアンダーソン将軍の英第1軍に随伴しながら、第2軍団を支援した。続く2,3週間で連合軍は、ドイツ軍の散発的な戦線への攻撃を防ぐために保持している街道に沿って多くの作戦を遂行した。
WWIIEurope40_19421117~19430214
<左図1942年11月17日~43年1月1日  右図1943年1月1日~2月14日 の戦況部隊配置図>

 1月25日までにアイゼンハワー将軍は物資や機材を運ぶ輸送設備に関する緊急要請を表明した。幹線道路での移動のために在庫車両が極めて重要であった、というのもこの地域は鉄道路線がまばらであったからだ。ドイツアフリカ軍団がカセリーヌ峠で第2軍団の戦線を突破した2月中旬まで、弾薬の移送は少なかった。備蓄庫には充分な量の弾薬があったが、輸送能力が不十分であり弾薬供給に支障をもたらしてしまったのだ。大量のクラスⅤ(弾薬)が爆破解体準備をし導火線まで敷かれたが、ドイツ軍がカセリーヌ峠通りを通って撤退していったので破壊する必要は解消された。
1943_Tunisia
<1943年初頭のチュニジアでの戦況変遷図 ※訳者補足>

 最後の進撃をビゼルト街にするため3月にチュニジア北部へ移動した後、弾薬の支援はより平易なものになっていくはずであった。弾薬補給の蓄積は驚異的な速度で為され、Boneに9000トンの弾薬を迅速に集めた。そこから、弾薬は上陸用舟艇と漁船に積み込まれ、夜の帳に隠されながらTabarkaの浅めの港へ運ばれていった。その地点からは前線まで短い距離をトラックで牽引するだけだった。
 最終進撃の間、弾薬補給の諸中隊は軍団の両翼に配置された。POGの指揮官であるジョン・メダリス大佐 *9  は今日における支援ドクトリンの鍵となる指針を用いた。武器弾薬サービスは「兵士がそれを探す必要が無いだけでなく、単に『彼らが手を挙げるだけで』充分な量の戦争の各道具を入手できうるほどに、常に前方にいる」べきであると彼は強く信じていた。 *10 
Final offensive_Tunisia_mapFinal offensive_Tunisia
second corps-001
second corps-2-001
<1943年4月の米第2軍団チュニジア最終攻勢:翼側に攻勢重点が形成されている ※訳者補足>

 北アフリカでの弾薬支援に関していくつかの重要な教訓が刻まれた。1つ目は、戦域に出荷された弾薬の内いくつかの種類はほとんど必要がなかったと判明したことだ。これらの陸軍省の積算に基づいて機械的に出荷されていた弾薬はやがて停止され、在庫は他の場所で消費されるか輸送されていった。
 2つ目の教訓は、軍団へのクラスⅤ(弾薬)補給は経験不足によって阻害されたことだ。陸軍省によって予測された弾薬消費推定量は極めて不正確であった。これは第2軍団による「戦闘経験の日」の尺度の開発に繋がった。この結果新たに開始された報告と連携し、毎日の弾薬支出発行とより少ない在庫変動をもたらした。
 3つ目の教訓は、石油消費と同様に弾薬消費量は地形によって大きく変わったということである。チュニジアでの最後の戦闘において、砲兵隊と歩兵隊は敵の支配下にある岩場の丘や谷で広範囲に使用された。戦車はその険しい領域では脆弱であったので、小さな役割を果たしただけだった。

 総括すると、北アフリカ戦役における弾薬不足は重大な問題とならなかった備蓄の非効率性と輸送即応性の欠如が第2軍団の直面した最大の課題だったのである。

【修理】

 北アフリカ戦のために結集した米軍の高度に機械化された性質は、多くの課題をもたらした。広く伸びた連絡線荒れた地形、そしてチュニジアへ向かう第2軍団の驚くべき速度は、メンテナンス任務にとって最大の要素であった。
 1942年に武器科の計画者によって設定されたメンテナンス・ドクトリンは、5つの梯団(段階)システムを規定していた。第1と第2梯団のメンテナンスは、その備品を使っている組織により行われる比較的シンプルな任務のことである。第3梯団メンテナンスあるいは中間メンテンナンスは、支援される戦闘部隊に近接した移動式修理工場で実施された。これはエンジン・変速機・反動機構その他の交換をする今日における直接支援(DS)メンテンナンスと同様のものであり、続く梯団へとパーツの補給も行う。第4梯団あるいは重メンテナンスは、部品の大規模修理の様なより複雑な任務を含み、固定の工場施設の中で実施された。それはおおよそ今日の全般サポート(GS)メンテナンスに等しい。最後に、第5梯団メンテナンスは兵器庫で実施され、最終品目に至るまでの総点検分解修理を含んでいる。今日の該当するものは工廠メンテナンスである。

 北アフリカの戦域での配備において、第1と第2梯団メンテナンスは部隊指揮内の役割であると考えられていた。施行(enforcement)と調整(corrective)活動と指揮系統内で呼ばれた。より上位の梯団は主にの技術サービス部隊の責務であり、諸問題事項は技術的系統を通して取扱われた。故にそれに関して、第3、第4、第5梯団メンテナンスの責務は基地セクションに由来した。
 北アフリカでのメンテナンス組織はPOGの下に置かれていた。これは上記の弾薬補給部隊の指揮統制をする司令部と同じである。その集団は、OranArzewで第3及び第4梯団支援を行う1つの大隊を原則的に提供した。別の大隊は第3梯団支援を街の外の領域で遂行した。
 メンテナンス集団の緊急かつ最重要任務は、軍隊を移動させるために極めて必要とされたトラックを供給することである。船に載せるスペースを節約するために、全車両の40%が部分的にだけ組み立てられ木箱に梱包された状態で出荷された。組立て工場がドック近くに設置され運用が始まった。木箱に添えられた部品パッケージは、たまに不完全であったり電解液やブレーキ液が抜けていた。作業場で使われるフランス人とアラビア人労働者は車両修理に予期せぬ問題を引き起こした。ある事例では、ドック内で彼らが自動車バッテリーを樽ワインで満タンにしたことがあった。
 12月10日までTunisへの競争が行われた。75台以上の軽・中戦車が米軍B戦闘団で失われ、泥にはまって放棄された。ドイツ軍とのわずかな遭遇戦の後ではそれが厳しく批判された損失であった。
 第30武器科重メンテンナス中隊がOranにB戦闘団が後退した際のために残されていた。戦車が極めて必要だったことが、この戦争で最初に判明した深刻な不足事項であった。第2軍団は戦車運搬車両の必要性を予測しておらず、戦域内にわずか10両しか持っていなかった。第30武器科中隊はそのうち4両を保有しており、それ故4台ずつ戦車を前線へ運んでいた。彼らは使用可能な全スペアパーツも扱い、B戦闘団を復帰させるために猛烈に働いた。

 メンテンナスとスペアパーツの支援が広大な戦線に渡って分散した各部隊へ与えられた。連絡線は曲がりくねり、毎日「段階的に」行われる船舶補給はどんどん非効率的になっていった。Constantineに前方での全般補給処を設営する計画が立てられた。これでメンテンナンス機能をより前線へ近づけられるはずであった。けれどもそれが達成される前に、「スファックス計画(Sfax Project)」が活気づき始めた。
Sfax Project_SATIN Operation
 「スファックス計画」あるいはSATIN作戦と呼ばれるものはアイゼンハワーの立案した計画であり、第2軍団を東進させ、ドイツ軍が(北上して)チュニスで合流するのを分断阻止しようと言うものであった。ロンメルはリビアから接近してきており、フォン・アルニム将軍の部隊を援護するため急行していた。この計画は、3個の同規模な多国籍師団を含めるために第2軍団の大規模な再編成を引き起こした。
 ロジスティクス担当者達はこの計画の実現性に対し抗議し、その貧弱な連絡線では機甲師団を上回る規模あるいは追加させることになるであろう連隊を支援できないと述べた。その補給線は長大で脆弱だった。最も近い主要港はOranにあり716kmも離れていた。CasablancaはOranから更に西に708km行った場所である。港ではロジスティクスを機能させる基地セクションはいまだにうまく確立していなかった。

 1月後半にアイゼンハワーはSATIN作戦を中止し、代わりに第2軍団をTebessa域での移動予備(mobile reserve)として保持しておくことを決めた。そこで彼らは限定的な諸作戦を実行し、モンゴメリー将軍の英第8軍がロンメルをチュニジア南部国境付近で捕捉した時に合わせる攻撃に備え戦力を蓄えた。

 第2軍団のチュニジア南部への移動は、許容可能量を越えて米軍の道路輸送能力を拡大した。自動車のスペアパーツ不足は深刻となった。POG指揮官アーバン・ニブロ大佐は連合軍司令部に対し警告し、前線へ物資を運ぶ6000台のトラックのための部品を即時入手する抜本的な措置が無い限り、戦術的状況に影響を与えかねないと伝えた。Tebessaにある全トラックの内95%が何らかの修理を必要としていた。24000km以上の合計走行距離をほとんどメンテナンス無しでやってきた多数の車両が徹底的な整備を必要としていたのだ。
 陸軍省の機械的な補給システムの下では、付随するスペアパーツは何組ものパッケージで送られて来た。理論的には各組はそれぞれ100台の車両一年分を補助する事になっていた。実際はこれらの各組はアンバランスで、いくつかのパーツが多すぎて別のいくつかは少なすぎた。エンジンの交換用補給部品は絶望的なまでに不足していた。
 即興性とはメンテナンス中隊の仕事の代名詞だった。壊れた車両のパーツを使うのが広く行われ、パーツの共食い現象は一般的なことだった。ある事例では、墜落したドイツ軍航空機の着陸装置が、車両の機関銃架台の製造に使われた。別の事例では、破損したドイツ軍のP-39航空機から間に合わせの37mm砲のトレーラー用車軸を造り、使用不能となったトラックからは車輪を使った。
 第2軍団が北進している間に、東部基地セクションではTebessaに復旧作業場を設営した。第188武器科大隊の補助を受けながら、彼らは弾薬・車両・衣類・スクラップの各分野をさばいた。その膨大な努力は、緊要の修理部品を2117トンもたらし、20万ドル分以上のパーツが故障品から回収された。

 北アフリカでのメンテナンス支援の試みから多くの教訓が得られた。1つ目は、有能な技術力を持つメンテナンス要員の可用性に関していくつか問題があった事だ。歩兵の高い損耗率に直面したため技術サービス要員も戦闘部隊へ移されてしまったことがある。一部のメンテナンス部隊の士気と効率が影響を受け工場成果品の低質化へ繋がってしまった。
 2つ目の重要な教訓は、5梯団メンテナンスシステムは効率的に採用された時に機能したということだ。しかし後送を最小限に抑え、可能な限り前方でメンテナンス作業を完結することが極めて重要だった。
 3つ目は、民間人の自由な活用が必要不可欠であったということだ。これにより軍人はより緊急の要件に対応できるようになった。
 最後に元のスペアパーツ供給計画は全体的に不満足なものだったということだ。組み合わせを設定し機械的に船舶出荷をしたことは非効率的であり、実際の戦場の需要を支援する事にはなら無かった。実際の使用に基づいた請求システムは準備をするには非常に有益であった。

 全体として、スペアパーツの可用性は、アイゼンハワーの要望した軍事行動の自由性をほとんど損ねなかった。新聞社特派員のアーニー・パイルが次のように記している。「これは弾薬、戦車、砲そしてトラックだけの戦争では無い。主要機材の戦争であるのと同じくらいに、彼らを戦闘可能状態に保つ為に、スペアパーツを補充する戦争であったのだ。」

【燃料供給】

 連合軍の高度な運動戦を指揮するのに重大な意味を持っていたのは信頼のおける燃料供給である。その重大性は北アフリカの砂漠における英軍とドイツアフリカ軍団流動的な戦闘の中で既に証明されていた。リビア及びエジプトで一進一退の戦いを見せた両軍だが、彼らによって活用された主導権はガソリン補給の可用性と直接的に繋げられる
 補給の管理、調達そして供給は一般的に需品科(Quartermaster)部隊の管轄だったけれども、石油製品に関する役割は少し違っていた。大量の石油需要が戦争中には軍と民事の双方にあったので、そのロジスティクスの統制は米国と連合国のいくつかの上級機関によって実行された。米陸軍需品科は陸軍の需要に関し責任を持った。
 戦域内では、タスクフォースがまず彼ら自身のクラスⅢ(POL=Petroleum・Oil・Lubricants) *5  計画策定と実行に責務をおった。それ故に、短期間はその労苦が二重にかぶってしまったのは明らかだ。また石油施設の効率最大化のための中央統制の必要性も明白だった。
growth of quartermaster corps_chartgrowth of quartermaster corps_table_actual strentgh
< 米陸軍需品科の人員数推移 ※訳者補足 >

 1943年1月、連合軍司令部石油部門が軍需を取扱うために設立された。英軍と民間計画者と密接に動き、石油部門は軍需と必須民需の需要見積を照合した。中東の供給源が使用可能になるまで全石油製品が米国から船舶輸送された。これが一般的な備蓄態勢になったので、連合軍であるならそのトラック、航空機、船舶は北アフリカのいかなる備蓄施設でも燃料補給できることになった。
Oran harrbor_POL
<オラン港のPOL備蓄施設 ※訳者補足>

 作戦計画段階で、POLは一人あたり一日どれだけ必要かという計算で与えられた。だが全ての計算に入れるべき要素を予測しきることは不可能だった。英軍の経験はおおまかな指針にしかならなかった。米国の策定者は見積りの基となる知見データ表を持ってすらいなかった。侵攻作戦のために採択された任意数値は、装輪車両1台あたり1日5ガロン、装軌車両1台あたり1日50ガロンである。
 攻撃参加する車両は満タン状態で海岸に行った。5ガロン缶に入った追加燃料は各車両(1/4トン型は2缶、3/4トン型は5缶、3/4トン以上の型は10缶)が運んだ。もう7日間の補給は缶に入れ護送集団に積まれて運ばれた戦いでだった。第2軍団と一緒のあるガソリン供給中隊作戦決行日Oranへと上陸し、翌日までに航空軍と地上軍のために燃料集積場を設営した。作戦3日までに、Oranにあるガソリン精製所は連合軍が使用する準備ができており、既に1隻のタンカーが荷降ろししていた。作戦7日までに様々な燃料集積場が設営された。初期における組織性と備蓄に関するプレッシャーが緩まったので、燃料コンテナの集積と分類、最充填に注意点が移った。
WWIIEurope39
<1942年11月におけるアルジェリア~チュニジアの幹線道路、鉄道、航空路、及び主要港>

 Tebessa周辺チュニジア南部での諸作戦で主導権を握ったことで、以降に燃料配布に関する課題が発生した。地中海司令部の部門により運営されている物資集積基地はTebessa西方201kmに位置していた。PhilippevilleBoneの港から供給を受けていた。主要部隊はTebessaに置かれ、鉄道とトラックの路線がSbeitlaFeriana(テレプトの南傍)そしてGafsaに向け伸びていた。そのような伸びた連絡線では、7日間の供給目標が設定された。
 大容量輸送施設がTebessaには不足していたので、全燃料は55ガロンドラム缶に詰められ船舶輸送された。Philippevilleより繋がれたパイプラインで供給されているOuled Rahmounにある貯蔵タンクから、次々とドラム缶は充填された。
 55ガロンドラム缶は軍団用の燃料集積場を越えた先の場所で使用するには実用的でなかった。機甲師団ですらと持ち運び分配するための専門器具を使うことはできなかった。POLは規格の750ガロンタンクローリーか5ガロン缶に入れ替えられた。
 貨物トラックは経済的な運用をするには小さく、5ガロン缶で作業すると遅くて負担が大きかった。このジレンマの解決策の1つは55ガロンドラム缶を18個、2と1/2トン型トラックに積み、大容量ディスペンサー施設の所まで移動し、そこでトラックの上のドラム缶に注入することだ。そこから燃料はポンプで直接車両や航空機あるいは5ガロン缶に注入し、トラックは再度戻って燃料を取ってくる。この革新的でシンプルな解決案のメリットは数多かった。輸送と労働者の必要量に関し大幅な削減が生まれた。それは不必要なドラム缶作業を省力化し、2と1/2トン型トラックを使って、標準のタンクローリーの容量を上回る950ガロンタンクローリーを創り出したのだ。
 5ガロン缶が部隊レベルで使われる際、2種類の容器が使用された。英国式は非回収型だ。薄い金属製で、貧弱な構造でありラフな取扱いや腐食、あまつさえ普通の積み重ねにすら耐えられなかった。その脆弱さによる石油の喪失は40~60%に及んだと推定されている。
 1940年に英軍が捕獲したドイツ式を米軍は採用することができた。いわゆる「ジェリカン」は頑丈で簡単に積み上げられて、しかもノズルを取り付けることで簡単に注ぐことができた。燃料ダンプにジェリカンを戻して再充填する必要があった。戦役中には必然的に缶が不足し、「缶無くば、ガスもなし」というポリシーが定期的に課されることになった。

 ドイツ軍が東Dorsal(アトラス山脈東部)に沿って攻撃開始をした1943年2月、第2軍団の諸部隊は撤退を強いられた。MaktarSbeitla街に置かれていた燃料ダンプはTebessaまで下がった。Feriana街にあった5万ガロンのガソリンは即時避難させることはできず、それ故グレネードとブローニングM2機関銃で燃え上がらせられたTebessaにあった備蓄地点では50万ガロンに集積量が膨れ上がった。それが敵に奪われるのを恐れて更に西方48kmに後送された
 独アフリカ軍団が反撃を受けカセリーヌ峠を通って退いていった後、作戦群は北部沿岸の平野へと移った。第2軍団のダンプはBeja近郊Sidi Mhimechの小麦畑に置かれていた。前線区域Djbel Abiodに設営された。両地点共に戦術的な箇所であり鉄道とトラックの先頭へアクセスできる場所として選定されている。
 基地セクションから使用する部隊までの補給ラインは201kmの長さであったにも関わらず、補給状況はより良いものだった。道も鉄道網も未だに限られたものだったが、戦線は縮小され各部隊は集結されていた。Bizerteに置かれた目標へ向かって軍団が前進するに伴って、東部基地セクションはDjebal Abiodにある施設を手に入れられると推定した。5月8日のBizerteでの降伏の時まで、東部基地セクションはMichaud(軍団目標地点からわずか26km)でガソリンダンプを奪取した。
  特筆すべきことに、北アフリカ戦役全体期間において備蓄レベルが計上された需要を上回ったことは決して無く車両が燃料を待つために待機していたことが無いということだ。いくつかの重要な反省点が得られたがそれは戦争の残りの期間を通して適用されていった。

 戦術的パイプラインの可能性ははっきりと理解された。まず1941年ノースカロライナで可動が試験され、北アフリカでの6ヶ月で1191km以上の4インチ・パイプラインが敷かれた。これにより、何百万ガロンもの燃料を道路や鉄道で輸送させなければならないという過度な負担が軽減された。パイプライン敷設は日中・夜間で燃料を比較的安全に輸送することを可能にした。
 非常に必要だった米軍の知見データ表はチュニアジアでの作戦を基にして発展した。ある項目は山野を横断する行軍と戦闘行動に適用され、また別のものは管理活動に適用された。補給ラインが長かった南部において、装輪車両1台が1日あたり5ガロンという割当量は不十分だった。装軌車両では50ガロンという係数が確かめられた。しかし、戦闘が狭い戦線で行われた北部では、指揮官達は機甲部隊をより上手く使い、その数値は逆転した。陸軍省による戦役に関する推定は概して全体では正しかった。けれどもこのデータ表の恩恵は、今や適切な種類の燃料を前方へ輸送でき、より効率的に燃料補給作戦を遂行できるようにしたことだ。

【輸送】

 ジェームズ・ヒューストンは1942年の北アフリカ侵攻作戦をこう評した。「…あまりに多くの将校がいまだ小学校分も修了してない時に受けた、ロジスティクスの大学院だ…」。これを正とするなら、輸送は間違いなく最難関科目だったろう。
 鉄道、幹線道路あるいは空路いずれかによって、平常ならば必要な時に必要な場所に前線の兵士へ補給は行われた。何トンもの軍需品を1931kmに渡り移動させる際に生まれる問題は膨大なものであった。たとえ最高の環境であったとしても、単一の輸送手段で需要を処理できることはありえなかった。各手段が協調して機能した時、ほぼ全ての需要は解決された。

 港周辺での初期作戦は他エリアでの作戦と同じようなものだった。混乱があったにも関わらず進捗していった。トラックとワゴンと一緒に地元民を雇い、海岸に散乱している補給物資を仕分けし運び出す尽力がなされた。支払いはタバコ、衣類あるいは缶詰のレーションだった。トラックに積載され行き先を伝えられた後、多くの運転手が居なくなった。上陸から2日後、何トンもの弾薬とレーションが地元の魚船から発見された。
 上陸から少しして域内鉄道サービスが設置された。米英両軍を支援するため鉄道運営用の2個大隊がOranの東に置かれた。大隊の分遣隊がCasablancaOranに居て鉄道運用を監督した。1943年2月までに運営本部MRS (Military Railway Service) がAlgiersに設置され復旧、技術的改良そして域内鉄道サービスの運営を担当することになった。
North Africa_Road Map

 侵攻して少ししてから鉄道補給は北アフリカ各所へと送り出されるようになった。1月に鉄道車両組立工場がOranに施設された。それから10ヶ月間で1200異常の鉄道車両が造られ、手近の北アフリカ戦役だけでなくシチリア島侵攻においても使われた。
 実際の鉄道システムの運営は主に米兵によって行われた。例外はモロッコでの事例で、そこでは軍の監督の下で現地民が運営した。急斜面とエアブレーキ無しの車両は多くのブレーキ技術者を必要とした。戦役のチュニジアでの段階では、特にConstantineの東において列車はサボタージュや爆撃、低空射撃の対象となった。一部の事例では夜間活動のみが可能であった。
 MRSが直面した最大の問題の1つが空の鉄道車両の置き場所である。効率最大化のために、管理センターがAlgiersに作られた。その機能は港へ運搬する必要のある空車両を割り当てることである。戦役初期に多くの戦車が列車で前線へ送られた際、平台貨物車がその構造的要求を満たすために再製作された。
 輸送中の物資窃盗は一般的な問題であった。軍の護衛はほとんどの列車と全ての大きな操車場に置かれた。泥棒の主なターゲットは食料、タバコ、衣類そして布であった。全てブラックマーケットで高値で売られた。
 予想されたことだが補給活動は幹線道路の大量運用を必要とした。これらを管理するためコンボイ方式が採用された。個々の車両は自由に域内を移動することを許可された。けれども10以上の車両が移動する場合、彼らはコンボイを組織してスケジュールとルートを調整した。コンボイは普通は25台までである。
 英軍の車両が米軍の道路網を使用する際にいくつか厄介な事がコンボイ方式に生じた。最低25台無い限り英軍のコンボイは組織化されなかった。戦役末期までにその数は50台にまで上昇した。10台以上の車両が米軍の道路網へ入ってきた場合、彼らは停止させられてスケジュールを調整されなければならなかった。結果として英軍の活動に遅れが生じ、それから米軍交通網へ「浸透」することになった。彼らはしばし交通網が過負荷状態になってから発見された。
 ドイツアフリカ軍団に対しTunisで沿岸接近手段を遮断するためにアイゼンハワーが「スファックス計画」の遂行を決めた際、輸送任務は大変なものになった。補給はTebessaを出発地点とし前進していくこととなる。補給の構築段階の後、SATINタスクフォース*6がそこを通り再補充してスファックス計画を進展させていく手はずである。これは後ろから支援されるという古典的な補給コンセプトを逆転させたものであった。南を走りTebessaへ入る鉄道路線はわずか1日250トン(第2軍団の要請の1/3)しか補給物資を運ぶ ことができなかった。一本の幹線道路がConstantineTebessaを北で繋げていた。
 切迫した問題はトラックの供給量であった。1月25日のカサブランカ会議後、マーシャル将軍とASF指揮官ブレホン・サマーベル中将にアイゼンハワーは(スファックス計画の)途方もない要求を伝えた。それには5000台の2と1/2トン型トラック、400台の 1と1/2トン型トラック、72台の戦車運搬車両、そして2000両のトレーラーが必要であるとサマーベルはワシントンへ打電した。船舶がかき集められ2月15日に輸送作業を始めると3月初頭に到着した。この対応は凄まじいものであったがそれでもスファックス計画を充分支援するには遅すぎた。モントゴメリーの撤退するドイツ軍へ圧力をかけ続けられなかったことを理由にしてこの作戦は中止された。今や前線に近づいたTebessaでは10日分のクラスⅠ及びクラスⅢ補給物資が集積されていた。

 2月初め、使用不能となるトラックの数が増え続け深刻な問題となった。重要なトラック用パーツの不足はすぐに戦術的な行動へ影響をもたらしうる。3月に物資が来て解消されるまで、徹底したメンテナンスをすることで何とか車両を維持した。
 OranCasablancaへの車両集結は急速なペースで実行された。3月6日~7日で、サマーベルが伝えたトラックが到着し遅れなく前線へ送り出された。3月15日までにトラックやその他機材の不足は補完されきった。
 第2軍団の北部での活動が4月10日に始まった。その行動は特別なものではないと考えられていたが、挑戦的なものであった。補給物資がTebessa周辺に築かれ、5000台の車両が土砂降りの雨の中を第2幹線道路で移動した。主要道路の方は英軍の補給ルートを防がないように予め避けられた。武器弾薬部隊が戦車と重砲を移動させた。英第1軍からの戦車追加輸送によって補強され、第1機甲師団は48時間以内に322km移動した。全部で12000台以上の車両と94000人の兵士が4月23日までに北部へ到着した。
USA-MTO-NWA-20
<第2軍団の北部への配置転換。 英軍の領域をクロスした ※訳者補足>

 Tebessaの貯蔵物資を消費することで、北部での6日間分の補給目標を構築した。いくつかの弾薬とレーションを除いて第2軍団の全補給目標は4月22日までに策定された。軍団諸部隊の補給地点は各師団の真後ろに設置された。改善された後方連絡線のおかげで東部基地セクションはこれまで以上に各種サービスと補給を提供することができるようになった。ガソリンとレーションは鉄道の末端から直接支給され、これによりトラックが師団の要請により柔軟に対応できるようになった。

 ドイツ軍の降伏後、トラック中隊に新しい要請が送られて来た。5月9日、第2軍団は41836人の捕虜を得た。軍降伏前に捕虜になった分は東部基地セクション捕虜収容所へ後送されていたが、トラックの輸送量にほとんど影響を与えなかった。けれども5月11日に26000人の捕虜をMateurの北にあるMichaudへ移送しなければならなくなった。幸運なことに捕虜は「捕虜収容所の場所だけ聞くと、徒歩や自動車、自転車、バイクにのってMichaud方面へ移動して行ってくれて実に協力的だった。」
 戦域を支援するため圧倒的な量の問題に直面しながら、輸送部隊は6ヶ月の戦役で多くのことを達成した。未整備の道路、わずかな鉄道、そして受け入れ難い程の地形と気象その全てが彼らに立ちはだかった。しかし責任ある支援と努力の結集が大きく貢献し、その困難に打ち勝ったのだ。

第5章 結論

  北アフリカ戦役は米軍指揮官達へかつて味わったことのない数々の問題を与えた。トーチ作戦とそれに続いた戦役、そして確かに第2次世界大戦の残りの戦いはかつてあったいかなる戦争とも異なっていた。交戦距離の増大と高度に専門化された現代兵器システムの致死性は戦争の様相を永遠に変えてしまった。陸軍は今や自動車化しそして機甲化、機械化、空挺の師団が導入されこれまでを上回る移動性を手にした。戦場は流動化し、急速に進み、そして幅広い部隊の分散はその全てが北アフリカ戦役の特徴的な要素であった。
 そのような厳しい環境ではロジスティクス支援はこれ以上無いほど困難となった。我々の部分が未経験であるというだけでなく、米軍による戦争遂行の各要素を世界的規模で要求されたことにより、維持支援の試みは複雑なモノとなった。第2軍団への支援パッケージは完全に利用できたわけでは決して無い。物理的な制約上それは不可能だった。米軍事史では、他の戦役でもっと大胆なマニューバや英雄的行動の事例が増えているのかもしれない。だがこの戦役は米国機甲部隊が砂漠戦において最初に広範囲で使用された事例だと記録される。教訓の代償は高くついた。2715人の米国人が死亡し約9000人が負傷、そして6500人が行方不明となった。5月中旬までに、米国と連合国は作戦を達成した。その成功譚の半分はロジスティクスだ。
088
<北アフリカ戦役における連合軍の進撃 ※ソ連製図 訳者補足>

 北アフリカ戦役での全体的なロジスティクス支援は条件付きで成功と見なすことができる。(連合軍と協働し)米軍は敵軍を打ち負かしたのか?と聞かれればその答えは明確にイエスである。では米軍各部隊が戦争遂行に必要な物資が不足したことで破れた事があるのだろうか?おそらくその事例は起こり得た。ドイツ軍の75mm砲とB戦闘団がM-3スチュアート軽戦車で闘い序盤に損失をだした時、もしより重いM-4シャーマン中戦車があれば彼らはもっと闘えただろう。この初期の遭遇による損失は、米軍が性能で優る機器を使えなかったからかあるいはドイツ軍の数的優位と経験があったことが要因なのだろうか。
 1943年2月カセリーヌ峠の戦いで米軍兵士達が血みどろの損失に苦しんだ際は、乏しい軍事インテリジェンスと疑問符のつく戦術がおそらくその原因だった。良かった点は米軍砲兵隊の可用性と有効性であり、それは多くのロンメルの戦車を任務遂行不可にした。米軍の直射の正確性と迅速性によりドイツアフリカ軍団は驚かされた。ロンメルは米兵は「実に素晴らしく装備されている」と考え、ドイツ兵は「米軍から組織的に学ぶべきことが多くある」結論づけた。
 米国内の生産ラインは実に良く機能し世界中に物資を供給した。最新機材は北アフリカ戦役で米兵の手元に殺到した。維持支援の尽力は恐らく、手元の機材に(そして機材と共に)与えられるサポートの有効性によって最もよく評価される。

 第一章で確認された複数の研究課題はその特性上複合的に取り組まれなければならない。議題は以下の様になる。

 1. 北アフリカ戦役(1942年11月8日~1943年5月13日)のロジスティクス支援はどれだけ効果的だったか?
 2. 1942年の北アフリカ上陸に続いた砂漠戦でのロジスティクス支援に関し米陸軍は準備が為されていたか?
 3. どうすればロジスティクス面での不具合が防止または緩和、解決できただろうか?
 4. 戦役中に提供された支援は、今日におけるエアランドバトル・ドクトリンの維持支援原則の精査に対しどれだけ耐えうるだろうか?
 5. 激しい砂漠戦闘作戦の支援に関して、何が鍵となる維持支援の教訓だったか?

 平時でも戦時でもこの規模と範囲の作戦が与えられれば、その戦域が成熟していくに伴ってロジスティクス面の各作戦は改善されていくだろう。これは北アフリカの事例であったことだ。
 本論で分析された人材調整面での維持支援機能は2つの大きな欠点があったにも関わらず巧く実施された。1つ目は別々の各侵攻タスクフォースによる統合計画の不足である。初期医療支援の各計画はかなり異なっており、正確な情報が限られた状態に基づくため、極めて非効率的になった。2つ目の大きな問題は、固定病院を初期侵攻部隊に所属させることに失敗したことだ。それらの施設が利用可能になっていれば、更に多くの(比較的小さな)移動医療部隊が戦闘部隊に続いてチュニジアに行けただろう。後送ルートは当時許容可能と想定された距離を越え広がっていった。さらに副次的要素として患者の不必要な病院間移動があった。
 ポジティブなことは、即興性と即応性が第2軍団への医療支援の鍵となったということがある。多くの状況、特に上陸直後に、ドクトリン上ではより小さな能力だった医療活動がより巨大な役割を担い驚くべき結果をもたらした。連絡線が伸び切ったことで、後送手段は凄まじい構想力を発揮することになった。師団の区域からの患者の航空後送はこの戦役まで行われたことがなかった。今日において航空後送は一般的な行為となっている。

 北アフリカ侵攻より以前に遺体処置業務員の必要性は確実に認知されていた。しかし船舶容量制限のせいでその部隊は攻撃部隊に統合されていなかた。戦闘部隊の一部が行う即興での処置支援では不十分で、しかも許容できない負担と考えられた。遺体処置部隊は次の上陸部隊の中に含まれておりシチリアとイタリアに留まっていた。一般的に洗濯と入浴および遺体処置のサービスは戦闘部隊への統合が不十分であった。けれども結果としては戦闘力に深刻な悪影響を及ぼしはせずに済んだ。

 組織的に武器科部隊は急速に巨大化した。1942年夏の間、陸軍の自動車修理と関連スペアパーツの所掌を担うことを武器科の長官は想定していた。これにより事前に需品部門輸送科の統制下に置かれた。上陸のわずか60日前に、戦車・自動車センターがデトロイトに設立された。この新たな任務は、既に急速に拡大していた世界中に配給される弾薬や軍需各品を製造する軍需工場システムの中に加えられた。
 北アフリカ戦役の前に、大隊より巨大な単一の武器弾薬組織は存在しなかった。軍団のメンテンナンスと弾薬補給部隊の指揮統制を行える司令部が必要であった。上陸前に連隊や集団形成の許可が降りなかったため、暫定的な武器弾薬取扱集団(POG)が形成された。
 北アフリカ戦役進行中、弾薬補給は決して不足することは無かったと言える。弾薬は要望された量が要望した時に前線部隊へ供給された。問題はいくつかの補給ラインにおける在庫水準及び備蓄の効率性であった。不要な弾薬の備蓄、特に37mm対空砲用と37mm戦車及び対戦車砲用の弾薬は膨大な回数が移動されることになった。同時に尽きることのない需要が105mm榴弾砲にはこの戦役中あった。やがて第2軍団は懸命に管理し実際の使用状況に基づいて請求することで、その問題を制御できるようになった。米国内からの機械的な出荷は中止され、弾薬の実際の需要に対する満足度を改善していった。

 メンテナンス組織は巧妙に第2軍団のマニューバ計画の中に統合されていた。主な問題として戦域ではスペアパーツの供給が不安定な事があった。米国陸軍省が予定していたスペアパーツ使用法は不十分でしかも効率が悪かった。医療部隊においてもまた即興対応が慣行だった。回収された車両の大規模な使用と修理部品の戦場回収は、輸送不足の問題を緩和することに大きく貢献した。

 特筆すべき事に、軍隊への燃料補給は決して大きく阻害されることが無かった。この戦役は最初の戦術的パイプラインの大規模な活用を見ることになった。パイプライン建設部隊は賢明にも作戦3日後のコンボイに含まれており、1943年5月までに1127kmのパイプを施工した。
 即応性は燃料供給を試みる上で肝心となる要素であったかもしれないが、そのシステムは非効率性によって明らかに飽和されてしまっていた。別々にタスクフォースが計画してしまったことで間違いなく燃料供給維持に対し損失をもたらしてしまったし、戦域レベルでの中央組織は1月まで運用開始されなかった。
 軍団以下のレベルにおける5ガロン缶の単独での使用方法は極めて非効率的でマンパワーを激しく消費させた。師団や旅団レベルにタンカートラックやトレーラーを追加配備すれば、作業負荷が減少し移動性が大幅に改善されるようであった。
 戦域内でのPOLの過剰なまでに用意された備蓄は、この戦役遂行にうまく役立った。ガソリンとディーゼルの必要燃料見積りは陸軍省によって策定されていた。実際の戦役でのガソリン総消費量は見積り量に近いものだった、けれども各種車両ごとの使用率は大きく異なっていた。高い備蓄水準のおかげで、戦役の北域段階での追跡車両の消費率増大に対応できる柔軟性がもたらされた。

 輸送は、さらなる維持支援の成功を制限してしまった1つの中心的な弱点だったかもしれない。広範囲に及んだ道路と鉄道によるネットワークはとても利用できなかった。その問題を悪化させるのはトラックと戦車運搬車が使用不能となった事である。これらの車両の不足は、高使用率となってしまい予防用メンテンナンスの時間をほぼ無くし、そして元の必要以上の修理部品が必要となってしまうスパイラルを長期化した。切迫したその解決は3月に為され、ちょうど第2軍団が北進する時期だった。

 北アフリカ戦役は3つの全般的なロジスティクス上の不備が挙げられる。これらの問題は一般的に5つの維持支援分野(Mannning/Arming/Fixing/Fueling/Transporting)に共通していた。それらは以下のものである。

  a. OranとCasablancaにおける抵抗の性質を考えると、もっと規模の大きな支援部隊が攻撃部隊に含まれているべきだった。こうすればその作戦と続く戦闘作戦でほとんどまたは全く影響を及ぼさずに達成できたことだったろう。含まれるべきだった部隊とは需品部隊や武器弾薬補給、遺体処置の各中隊であり、固定病院施設も同様である。

  b. 一つの組織が戦域内の維持支援作戦の中心になるべきだった。各タスクフォースが各々の支援計画をしてしまい、各技術サービスは「ストーブの煙突」方式*7で活動してしまった。1943年1月後半になってようやく全ての支援作戦が戦域統制下に置かれた時、中央集中型管理が支援活動と戦術的部隊とを真に統合した。

  c. 地中海沿岸に大半の部隊を上陸させることにより、連絡線は大幅に短くできただろう。地中海内で全攻撃部隊を上陸させる案はABC-1期間(米英カナダ参謀会議1941年初頭)に英国が推薦してきた事であった。Casablancaにある大西洋の港を奪取することで妨害を受けない補給ラインを確保することを米国は選んだ。OranとAlgiersにさらなる上陸をする戦闘部隊は12月にTunisを奪取するための連合軍の能力に好影響を与えられるはずであった。支援は限られていたので、12月に友軍はTunisから26km以内まで攻め寄せたが押し返されてしまった。その結果1943年5月にドイツ軍を一箇所に集めて孤立させるまで、彼らは勝利を待たなければならなかった。
11&12_German Counter around Tunis
German Counter_tunisia-easten-task-force-25-nov-10-dec-1942
<1942年11月~12月の東部タスクフォースのチュニジア進撃とドイツ軍による撃退 ※訳者補足>

 維持支援上の鍵となる多くの北アフリカでの教訓が明確に今日に適用できる。
 
  a. 維持支援活動は完全に戦役計画の中に統合されなければならない。周到な配慮をするのに失敗すると戦闘力に影響を与えてしまう。

  b. 5段階のメンテナンスシステムは指揮責任の対象であり、採用された時のみ機能した。(自然にはならない)

  c. メンテナンス用後送は一般的に貴重な時間を浪費してしまう。機材は可能な限り前方で修理されなければならない。

  d. マンパワーと輸送機材を節約するために、備蓄の効率は非常に重要である。

  e. 維持支援活動用の現地労働者の使役は、最も実用的に利用されるべきである。これは再び兵士たちを自由にし遠く前方で活動させ戦闘する兵士の要望に答えられるようにする。

  f. 地形、関与する移動のタイプ、そして遂行される戦闘の特性燃料消費量の要素は強く依存する。

  g. 米国とその連合国は2つの別の補給ラインを運用するべきであり、混ぜようとするべきではない

 北アフリカは新型機器だけでなく、新たな戦術面およびロジスティクス面の陸軍ドクトリンのための叩き台となった。ドイツに対するこの最初の侵攻では多くのリスクが冒された。12月初め、連合軍のチュニジアでの速やかな勝利という希望は薄くなっていった時、アイゼンハワー将軍はそれらリスクが必要だったとまだ信じていた。(後に)その時までの諸作戦は「あらゆる戦争の原則に反しており、全ての教科書に書かれた作戦面及びロジスティクス面の手法と矛盾しており、今後25年間(米陸軍指揮幕僚大学がある)レヴンワースと戦争大学の全てのクラスで批評される」と彼は言った。

 彼が述べた内その殆どの部分でアイゼンハワーは正しかった。ただ彼は1つ間違っていた。北アフリカ戦役から約50年が過ぎながらも、そのロジスティクスの試みは現代への適用性を研究され続けている。

訳注釈

以下に訳者が参考とした関連資料を記す。これらは全て米軍の公式のものである。

原文 The North Africa Campaign : A Logistics Assessment
http://www.dtic.mil/dtic/tr/fulltext/u2/a257095.pdf

アメリカ第2軍団の行跡について
https://history.army.mil/html/books/100/100-6/CMH_Pub_100-6.pdf

第2軍団の北方移動の当時作成された動画
https://d2v9y0dukr6mq2.cloudfront.net/video/preview/B-wmtY8xinajljp5/videoblocks-1943-the-us-2nd-corps-and-british-8th-army-division-team-up-to-liberate-a-north-african-town-allowing-civilians-to-move-back-in_scg82c41vz__PM.mp4

WW2需品科の役割の具体的解説
The Quartormaster Corps : Organization, supply, and services
https://history.army.mil/html/books/010/10-13/CMH_Pub_10-13-1.pdf

WW2武器科の役割の具体的解説
THE ORDNANCE DEPARTMENT:ON BEACHHEAD AND BATTLEFRONT
https://history.army.mil/books/wwii/Beachhd_Btlefrnt/index.html#contents

組織構成の変遷については下記
The Organization and Role of the Army Service Forces
https://history.army.mil/html/books/003/3-1/CMH_Pub_3-1.pdf

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【訳注】 

*1:wholesale=中継部署への荷渡し、retail=中継部署から使用者に届けること。

*2:Army Service Forces = 陸軍サービス軍(部隊)のこと。Combat Service Support は後方支援と訳されることが多いが、誤解を招く恐れがあるため戦闘サービス支援と本サイトでは直訳。米陸軍は大戦中にサービス軍に加え、陸軍航空軍(Army Air Forces)と陸軍地上軍(Army Ground Froces)の主要3部門を保有した。
陸軍サービス部隊の詳細は「The Organization and Role of The Army Service Forces」を参照。
リンク→ https://history.army.mil/html/books/003/3-1/CMH_Pub_3-1.pdf

*3:3つのタスクフォース=Western Task Force、Center Task Force、Eastern Task Force。

*4:G-1 = Office of the Deputy Chief of Staff for Personnelのこと。G-4 = Office of the Deputy Chief of Staff for logistics

*5:米軍における物資の分類。ClassⅠ=レーション、ClassⅡ=衣類及び日用品、ClassⅢ=POL、ClassⅣ=建築資材、ClassⅤ=弾薬、ClassⅥ=個人用品、ClassⅦ=主要部門機材(戦車やパラシュートなど)、ClassⅧ=医療品、ClassⅨ=修理部品、ClassⅩ=その他非軍事物資

*6:Satin Task Force = 第2軍団指揮下で第1機甲師団に第701戦車駆逐大隊、第443沿岸砲大隊、第2大隊、その他複数の部隊で構成された。詳細はDavid Rolf, (2015), "The Bloody Road to Tunis: Destruction of the Axis Forces in North Africa, November 1942-May 1943" のp81参照
*7:stovepipe manner/system = ストーブ煙突のように各組織が直通のラインを外部に持ち、それぞれは干渉されない/できない方式

*8:Units of Fire = 発砲単位。弾薬供給のための測定単位で武器ごとにある1ラウンド分の発砲量のこと。指揮官がその1ラウンド分の中身については指定できた。(文献Army FM 9-6, "Ammunition Supply", 15 June 1944)

*9:ジョン・ブルース・メダリス John Bruce Medaris:米軍の補給に関する第1人者の一人。カセリーヌ峠など一連の流動的な戦況に支援部隊を即応させた功労者であり、ノルマンディー及びその後の戦線拡大期でも補給が破綻しないように活躍した。戦後は弾道ミサイル分野で重要な役割を果たす。

*10:メダリス大佐はこの最終進撃の支援の際に、第2軍団の両側面に1つずつ支援大隊を置いた。南方において第188大隊はBedja街の近く第1歩兵師団と第1機甲師団の後方に配置された。北方において第42大隊はDjebel Abiod街の近く第9師団の後方に配置された。第34師団が2つの側面の中間に到着した時はこの師団を両大隊は支援した。メダリスは軍需品サービスは「兵士がそれを探す必要が無いだけでなく、単に『彼らが手を挙げるだけで』充分な量の戦争の各道具を充足できうるほどに、常に前方にいる」べきだと強く信じており、彼はメカニック達を前線へ送り、そこで機器を修理したり大隊の作業工場まで回収させ、そしてメダリスは軍団の弾薬備蓄庫を「合理的に安全とされる絶対限界線」へと前進させた。原文ソース:『United States Army in World War 2, The Technical Services, The Ordnance Department, On Beachhead and Battlefront』p146

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【メモ】
・AFHQ = Allied Force Headquarters 連合軍司令部:地中海域を担当した連合軍の上級統括司令部
・AFHQ surgeon general = 連合軍司令部軍医総監
・Evacuation Hospitals = 後送病院または避難病院。戦線から離れた場所にある程度整った病院施設を用意し、各野戦病院(Field Hospital )から死傷者を集めて本格処置した。
・Field Hospital = 野外の病院のことで戦時は前線の傍に設置された施設。あくまで応急処置が主眼で、重傷者は後送病院で本格処置させる。
・Surgical Hospital = 軍外科病院、後に発展し1945年8月からMobile Army Surgical Hospital(MASH)なども設立
・Static support = 静的な支援。動的な支援との違いである静止について強調されている。
・GREGG =Graves Registration Service
・現在の米陸軍のロジスティクス3科=武器科(Ordnance Corps)、需品科(Quartermaster Corps)、輸送科(Transportation)
・Base Section=基地(基盤となる)セクション。作戦エリアにある連絡エリア内の範囲を示し、戦域前方へロジスティクス支援を提供するための基盤となる。

Theater_of_operations
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