攻城戦における形式の1つ坑道戦について今回は記載しようと思います。ドゥラ・エウロポス遺跡は古代ローマ/ササン朝間の武装や技術の極めて重要な資料であり、そちらの紹介も兼ねています。
 戦闘推移だけ読む方は【3世紀のドゥラ・エウロポス攻城戦_城壁補強】まで飛ばしてください。

DuraEuropos-PalmyraGateDura_mine_gas




Dura Europos 遺跡の発見

 現在のシリア東部ユーフラテス川に隣接する場所にかつてドゥラ・エウロポスという城塞都市があった。この街は古代パルティア/ササン朝とローマ世界との境界部にある重要な都市だった。それ故何度も奪い合いになり、しばらくローマ領であったが最終的に3世紀にササン朝がローマから奪取した後、街は放棄された。その後大半が砂に埋もれてしまったが、逆にそれが遺跡を破壊から守り現代まで保存する結果となった。
Dura Europos_objectsLocation_Dura
位置:Google Map
https://www.google.com/maps/@34.7496364,40.7275686,2563m/data=!3m1!1e3

 史書に街の名前の記録はあるが戦闘そのものについて個別で記された文章は現存しておらず、積極的な研究は為されていなかった。そんな中、20世紀になり半ば偶然であったが街と兵士が再び姿を現すことになった。きっかけはWW1に関連する戦闘だとされる。1920年に英軍がこの場所を横切り遺構だと判断するレポートを送った。街は明らかに古代都市であるとわかるほど状態が良く一気に研究者の注目を浴びた。1920、30年代にdu Mensnil氏などによる調査隊が現地発掘を行い期待以上に次々と発見があった。

 特に驚きであったのが、激しい地下坑道戦が両軍によって為され、その結果としてローマ軍兵士の遺体が装備を全てつけたままトンネル内に複数残っていたことだ。財布の中にコインまで残っているほどであった。埋葬を受けた形跡も無い(坑道戦用)兵士の姿であり、この古代ローマ戦史において極めて素晴らしい発見は研究者たちに歓喜をもたらした。更にササン朝工兵や兵士が使っていたと思われる武具なども街で発見されている。
1633839馬鎧_DuraHelmet_Dura

428957_orig壁画

 他にも重要な発見があった。城壁に沿って大量の土塁増強を行っていたため、教会や家屋の一部が土塁に埋められ地中に保存されることになった。ここには壁画まで残されていたのである。当時の武装を背景にしながら描かれただろう聖書の場面なども残されている。市街中心は放棄後に荒廃してしまったが、引き換えに上から新たな建物を建てたり掘削されることもなく生活文化の記録は残された。ユダヤ教徒とキリスト教徒、ミトラ教など多宗教が共に暮らすコミュニティであったことがわかっている。
Frescos-of-scenes-from-the-Bible聖書_エベン・エゼルの戦いの壁画

 ドゥラ・エウロポス攻城戦について記された古代の文献はかつて存在しなかったが、現在では研究者達の分析により、戦闘がどのように行われたか具体的な推移が提唱されている。3世紀ローマ軍兵士の様相の一部やこの地域の生活文化が発掘によって確証を持って説明できるようになった。

 Yale Universityに初期調査で持って帰った遺物やスケッチ、写真が収められており、一部がHP上で閲覧できる。
http://media.artgallery.yale.edu/duraeuropos/dura.html

地理

 街はわずかに高台になった場所にある。東をユーフラテス川に面し、南北面は川から流れ出た水が作った枯れ谷により崖のようになっていた。西側には砂漠の平野が広がっている。
Dura Europosa_Map
 街が建設されている台地の上層は1m厚の石灰岩を主とする硬質層で覆われ(上には土砂)、硬質層の下には石膏質の比較的柔らかい地層が広がっていた。ドゥラ市民の死者が硬質層の上に墓を建てて葬られたり、あるいは硬質層に穴を1か所あけてその下の軟質層に広い墓室を作り複数人を埋葬されたのはこの地質に適応したためと考えられている。

 この表層1mが硬く、それをくぐりさえすれば下が掘りやすい柔らかい層、という地質条件は後述の坑道戦の要因となった。

軍事植民都市ドゥラ・エウロポスの発展

【ヘレニズム軍事植民とパルティア・ローマ期の軍事都市としての改築】

 遥か古代よりセム系現地人集落にドゥラと呼ばれていたこのユーフラテス川沿いに交易路が交差する要衝があった。ここがヘレニズム期のギリシャ・マケドニア系の軍人植民政策の一環として強化されることになった。典型的なギリシャ式都市計画が為されヒッポモダスの都市計画法と思われる長方形型等間隔の街並みが築かれエウロポスの街と呼ばれた。後にパルティアがこの領域を支配するとドゥラの名に戻る。Syro-Mesopotamian、イラン系、そしてローマ期にはユダヤとキリスト系コミュニティの多民族・宗教文化がこの街には混ざりながら育まれた。

 ローマとパルティアで奪い合いが何度も行われていた。トラヤヌス期116年頃にドゥラの街をローマが奪取するが数年でパルティアに奪い返された。ルキウス・ウェルス期165年前後、ローマ軍の遠征で再奪取する。当初はそこまで強力な統治ではなかったが、3世紀初頭から対パルティア国境防衛の重要性から次第に軍事的に強化されていく。軍団駐屯地となり市内に兵舎などが増築され、このローマ期に市街地や防御施設は大規模な改築が為された。

【ササン朝シャープール1世の最初の攻撃_253年前後】

 パルティアは衰退期に入り攻撃は止んだが、226年にササン朝へと移行すると再びローマとの対決が激化することになりドゥラの街はその最前線となる。この街は恐らく2度シャープール1世によって攻められた。

 最初の侵攻は252~254年頃に行われた。シャープールはアンティオキアへ攻勢を仕掛けている時期であり、この時はローマ側に抵抗する軍勢がおらずほぼ無血開城した可能性が高い。しかしササン朝支配の形跡は乏しく実情がはっきりしていない。

【ローマ帝国ウァレリアヌス帝による復帰_255年】

 ウァレリアヌスは東方を重視し大規模軍事行動が必要であると考えていた。そのためにドゥラが着目された。254年の内にローマはこの街を取り返した。ウァレリアヌスが東方へ大部隊を欧州から送ったのは255年1月頃とされ、ドゥラの守備隊は欧州部隊とシリアなどの部隊の混合であった可能性がある。

3世紀のドゥラ・エウロポス攻城戦_城壁補強

 ササン朝軍がまた来襲することは予期されており、ローマ軍はすぐに防御施設の増改築に動いた。
Dura Europos_Full View
 城壁は一重で、ユーフラテス川まで街をぐるりと囲んでいた。南と北面は川のかれ谷(wadis)のため崖のように斜面がきつく突破するのは難しい箇所である。それでも地形に合わせて壁が巡らされ、突き出た位置には守備塔が置かれ効果的な防御となっている。
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 一方で西側は広大な砂漠の平野に面し、壁は直線に建設され等間隔で守備塔が多数並ぶ。正門(パルミュラ門)と第2門も西面にあった。空堀も崖も無いこの西面が敵主攻に晒されるのは明らかであり、集中的な増築が施された。空堀を作れなかったのは上述の表層に広がる硬質地層のためである。
 事前準備の1つが土盛の新たな建設である。この土盛は城壁を補強する形で施工されたのだった。
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【城壁へ土盛を増設する効果】
・土の範囲が増し地下からトンネルを作って侵入するのをより大変にした。
城壁が攻撃されても崩れにくくした。
・内側から城壁の戦闘箇所へ直接斜面を通って増援に駆け付けられる。
 
 254~255年の内に西側城壁に沿って施工されたこの大規模な補強工事は衝槌、投石機が城壁に大穴をあけることをほとんど不可能にした。この施工順序は次のようなものである。

【城壁補強_第1段階】

[1]  軍用施設・城壁沿いに走る道路と傍の建築物を全て軍が徴発した。これは教会も含む。
[2] 城壁に向かって都市内側から泥レンガを急斜面状に積み上げ建屋の耐力を利用し擁壁にした。建屋壁もまた裏から補強された。泥レンガの高さは建屋の屋根高さに斜面が来るまで積み上げられた。
 ※元から城壁沿いの道は地盤面が数mかさ上げされた施工が為されていた。
[3] 第19塔の後方は建屋が少し離れており建屋壁も薄かったため泥レンガの土塁増築は内側だけでなく両側(守備塔の外面)にも施された。

 第1段階増築により城壁はその厚みを下部では10mも増す土盛りが為された。しかしローマはこれで満足せず更に補強を加えた。
土塁増築による城壁補強

【城壁補強_第2段階】

[4] 擁壁建屋裏側の突き出てしまっている建屋を擁壁部分を除き破壊する。
[5] 追加の埋め立て材を大量投入し巨大でかつより緩い傾斜のスロープを作り上げる。
[6] 上記作業を西城壁沿線のほぼ全建屋に適応し、門を除いて一定の土盛りを途切れずに作った。

 これにより約20mも城壁から伸びたスロープが増築されることになった。

 この埋め立ては建屋の一部、特にデリケートな壁画を保存する効果をもたらし、現代までの1700年を超える時を冬季の豪雨や自然から守り続けた。皮肉にもそれは街が放棄されスロープが戦後に解体工事されなかったためである。

ドゥラ・エウロポス攻城戦_主攻地点

 ササン朝軍が現れたのは256年頃であると推定されている。戦闘期間は数週間以上は確実にかかった、というのも大規模な土木工事によって両軍とも激しく戦ったことが確認できるからだ。
 地形的にやはり西側城壁に展開したようで複数攻撃箇所が確認されている。他には東のユーフラテス川にあった門にも攻め寄せたようだが残念ながら門は川の流れによって現在は失われてしまっている。各箇所の正確な攻撃順は断定できないが、防御側を飽和させるために凡そ同時並行で行ったと考えられている。西壁側は平野が広がるため障害が無く、梯子などで壁を越えようと試みられたはずである。
 ササン朝軍は西面の主に3か所に絞って戦力を集中投入し突破を図った。

【ササン朝軍主攻箇所】

[1] 正門(Palmyrene Gate)突破への試み。大軍が押し寄せ門を突き破ろうとした。

[2] 第19塔周辺への攻撃。激しい坑道戦が発生した。(トンネル1)

[3] 南西角の第15塔と第14塔の間から侵入を複合的に試みた。複数のトンネルや壁の切り崩しに加え巨大な傾斜路の建設が為された。(トンネル2、3、4)

 正門は恐らく突破されていないが、詳細不明のため他を記述する。
DURA-EUROPOS_aerial-viewdura-d91-01_Gate

第19塔周辺の攻撃(Attack around Tower 19)

 第19塔周辺の戦いは特に議論がある。それは坑道戦の推移に関するものである。

坑道戦_攻勢側の城壁下到達】

 ササン朝軍が街へ向かってトンネルを掘り進めた狙いは、壁と防御塔を地盤ごと崩すことで巨大な突破口を切り開くことであった。

 充分なサイズの突入路さえあけば兵力で優越するササン朝軍兵士の戦列が押し込み勝負はつくだろう。ササン朝軍は壁を崩すため自陣からトンネル掘削を開始した。
(坑道入口の正確な位置は特定されていないが、壁外の墓所から始めたであると提唱されている。上述のように地盤は表層に極めて硬い石灰岩があったがその下の層は掘り進めるのは難しくなかった。その場合墓所が近かったことが第19塔の狙われた理由となる。いずれにせよ何らかの方法で硬質層を抜け軟質層を横に掘り進み坑道が造られていった。)
 巧みな省力化が為されているが城壁下まで到達したら硬質層を砕き抜く必要があるのは変わりなかった。
Battle around Tower 19
 ローマ軍はすぐに敵の坑道掘削が近づいてきていることに気づいた。地中で聞くと音が通りやすくトンネル工事は察知されることは珍しくなかった。ただそれ以前にこの開けた位置では掘削土の置き場所を長く隠しておくことは不可能で城壁から見えてしまっていたことだろう。

 台地から40mほど離れた場所に3.65m高さで縦横28x16mのエリアに積まれた小山があり、これが排出土置場であったとされる。崩落を狙う箇所に極めて近く、ササン朝軍は最初から隠すことは諦め施工速度にのみ注力していたことを意味する。

 ササン朝軍は順調に掘り進めついに城塞の基礎下まで辿り着いた。そして地下から周辺地盤及び基礎下部を削り始めた。充分に小さく砕かれた壁石がトンネルを通って搬出され続けた。壁に垂直方向に坑道を辿り着かせ真下についてからは平行方向に掘削している。

 坑道の屋根部は材木により支えられている。充分に城壁基礎を削った後にこの支柱材木を燃やすなどして除去すれば支持力を失った地盤が沈下し城壁を崩壊させるという手筈であった。
 具体的にササン朝軍は、第19塔から第20塔間へ続く城壁の半分および第19塔の基礎への工作を行った。この痕跡から塔間の半分という幅が突入口形成および敵防御施設の無力化に充分な量と計算されたことがわかる。

ローマ側の対策_対抗壕

 ローマ軍は敵が坑道崩落を実行する前に対策を開始していた。
 採用された案はスタンダードな対坑道(対抗壕)をぶつける方式である。即ちローマ側からもトンネルを掘り地中で敵坑道へと繋げるのだ。もちろんローマ側は城壁の荷重を受ける位置でトンネルを広げはしない、そんなことをすれば城壁地盤破壊を助けるだけだ。壁と垂直方向に掘り木材の支保工もしっかりと設置し最小の影響でササン側へと接触することを狙う。
 守備兵が坑道に入ってくれば攻城側は対応せざるを得ずとても工事どころではなくなる。しかも上述のように攻撃側の坑道高さは工期短縮のために厳しく制限されていた。この中での戦闘能率は極めて低くなり進捗は停滞する以外にない、そのはずであった。
坑道戦_崩落戦法と対抗壕
 既にある程度進められている箇所にとどめを刺す工事をされない事を最優先とし、第19塔の北側壁下にアクセスする対抗壕を建設していった。掘削は現在K8区画と呼ばれる場所の壁にできるだけ近い位置から始められた。土塁と埋め立てられた建屋床の一部を貫くこの工事は、硬質地盤のわずかに上を走る高さで施工した。この地下坑道の高さはササン側工兵が壁真下の基礎を削っている位置に繋がると知っていた。この結果ローマ側の対抗壕の天井部は、敵坑道に接触する際に城壁構造物の一部に穴をあけることになった。
 城壁へのダメージを抑えるため、そして盛り土が崩れないようにローマ側は入念に支保工を設置して進んでいった。

 ローマ側は短期間で素早く接敵するために、硬質岩層を抜くのではなくその上層を掘り進める方策であった。石灰岩層を挟んで異なる高さでアプローチする2つの坑道は縦穴で合体することになった。この縦穴は3m前後の高さになった。接触後ササン側が急いで火をつけて柱を燃やそうとした場合に消火する作業が少しやりやすくなった事が狙いだったかもしれない。これらは発掘された兵士が軽装だったことの理由の1つとされる。

坑道内の戦闘

【対坑道のサイズ

坑道_遺骨
 ローマの対抗壕は東西に延びる。西端は城壁真下のササン朝坑道に接続することになる。発掘された対抗壕内の支保工用木材には燃やされた跡があった。
 焼き跡は西端(城壁そば)には無く支保工は完全な形で地中に保存されていた。このおかげで対抗壕の様相は正確に判明した。支柱間は横1.2mで柱高さ2mあるが梁が0.25~0.37m高さのため実質的なヘッドクリアランスは1.65~1.75mである。ヘルメットと靴を付けた兵士が立って問題なく通れるぎりぎりの高さであった。

 支保工が焼かれ炭化した材質が見つかったのはトンネル東部、即ちローマ軍対抗壕の入口から少し入った地点である。埋め立てられた家屋の壁下に位置する範囲で支柱は上部のみが炭化した状態で、しかしきちんと位置を保って見つかった。(左図参照)
 旧道下の位置で天井板が燃えていたにも関わらずトンネルは一部を除いて崩落することなく開いていたという。この位置で着火に使われるソダ束とワラが発見された。それより東側(入口周辺)は完全に崩落していた。建屋壁下から東に2mいった箇所から土塁の1.5m手前で火の中心は終わっていた。崩落しきった入口付近は燃えた跡が無かったのだ。トンネル内には燃焼箇所の端に異常なまでに密集した遺骨が発見された。(この遺構の解釈が別れる)

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 以下の第19塔の戦闘はS.James教授の提唱した推移に従う。

【坑道戦_ササン朝軍の敵対坑道迎撃_化学兵器の投入

 地中で音が通ったためであろう、ササン朝軍はローマ側の対抗壕が迫ってきているのに事前に察知した
坑道戦_対坑道と迎撃
 そして彼らは対抗壕には狭いスペースしかないためトンネル内での戦闘は難しく、もし内部で優勢になっても城内の入口で待ち構えるローマ兵たちを突破するのは至難だと理解していた。
 そこでローマ側が再奪取を狙い坑道戦をまた挑んでこれないようにするために対抗壕を塞ぐことを戦闘目標とした。当初の目標である城壁地盤崩落作戦を変えはしなかったということだ。そのためにはまず敵の対抗壕を逆支配しなければならない。

 地盤条件と音から相手が上にいる高さで掘り進めていることもわかっていた。彼らは狭い坑道内でせめぎ合いなどするつもりはなく、まとめて敵を倒そうと準備を始めた。炭入り火鉢を運び込み縦穴付近に設置し敵を待つ。

 ローマ軍の対抗壕が城壁下のササン軍坑道へと接続し突入してきた。ササン軍は装置を稼働するために少し時間を稼いだかもしれないが、城壁下作業場から後退した。彼らは作業場の後ろにセットしてあった火鉢の位置まで下がると、容器の中にビチューメン硫黄結晶を放り込んだ。
 油性燃料を使った激しい火は濃密な煙を生み致命的な一酸化炭素と二酸化炭素を増大させながら広がっていく。更にこれらの原料は燃焼する際に肺と目および鼻に即効性の刺激を与える有毒ガスを発生させる。ササン朝軍工兵技術者は坑道内に発生する空気の流れを計算に入れて装置の箇所を選んだと思われる。

 これにより坑道内に突入していたローマ兵の多数がまとめて攻撃を受けた。慌てて戻ろうとしたが奥まで入っていた人々は助からなかった。煙が迫り何名かがパニックなってこけて圧死したことも考えられる。ササン朝軍はローマ兵の喧騒が収まり死の静寂が訪れてから煙を止めた。ローマ軍は二の舞になるのを恐れて入口から進めなくなった
 ササン朝軍は換気を待ってからローマの対抗壕へと上がっていき支配権を得た
 これがS.Jamesが古代の化学兵器戦と呼ぶ一連の流れである。ビチューメンや硫黄を燃焼した際に発生する気体は狭く換気の悪くなった坑道内で極めて危険な即効性毒ガス兵器となった。

【対坑道の破壊

 それからすぐに坑道内で死んだローマ兵約20の遺体を3~4段に積み上げ、即席のブロックとした。これはローマ兵が新たに突入して邪魔してくるのを防ぐだけでなく、投射兵器から身を守る死体による塁壁にもなった。
 ドゥラの坑道の中からは小型のボルトや石弾が発見されており、小型の投射兵器坑道内で使用された可能性が示唆されている。死体を利用することで狭く長いトンネル内に物資を運び込むことなく短時間で塞ぐことができた。狭く見づらい松明の光の中で急いで作らなければならず、彼らに死体から物品を略奪するチャンスはほぼ無かった。そのためローマ兵の財布の中にはコインなどが残されることになる。
坑道戦_地盤沈下戦法の失敗
 この死体の壁はあくまで仮設であり除去されやすい。対抗壕を塞ぐため完全に潰すことをササン朝軍は決めると、迅速に小枝と薪の束を持ち込みローマ兵の使っていた木の盾やマントも重ね、ピッチやビチューメンを入れた瓶および硫黄結晶と共に燃焼させて、対抗壕を支えていた屋根を崩落させた。この際に着火を担当した内の1人の脱出が遅れ、煙や硫黄のガスを吸ってしまい離れた場所で倒れて死亡した。

【坑道破壊城壁崩落の失敗

 燃焼箇所から入口までは流れるように崩れ埋まっていった。こうしてローマの対抗壕の脅威を排除することに成功した。それからササン朝軍は城壁真下の地盤崩落工事を再開する。城壁真下を削って出た石やレンガ、土のためにローマ対抗壕の残存部分を利用して捨て場所にした。

 完全に作業を邪魔するモノは無くなり、彼らは城壁下を再度掘り進めて準備を整えた。支えていた柱を破壊し崩落を開始させる。そばの地盤が沈み込み城壁は歪み始めた。しかしササン朝軍の期待に反し突破口はできなかった。沈下量が充分ではなく、崩れ切らなかったのだ。これは現存する城壁遺跡からはっきりと見て取れる。壁基礎地盤の垂直変位は1mほどに限られたのだ。2.33mある塔の台石が沈んでもまだ一部見えていることからもそれは確認できる。
 恐らく地下坑道および削った壁基礎の高さがそれほど大きくなかったためであろう。下方向に掘れる土が硬質層のために限定されたことも影響した。事前の補強もその一助になったはずだ。ただそれでも城壁は歪み巨大な亀裂が走り壁半分がまるごとずれた。
Dura-tower-19-mine-damage-s
 <  現在の第19塔と城壁を内側から見た写真  >

 ササン朝側の第19塔近辺の坑道戦法は最終的に失敗に終わってしまったのだ。突破口は開けなかった。しかし塔上部の床は崩壊し城壁上の通路もずたずたになったため防衛能力は大幅に低下したのだった。

第14~第15塔間の攻撃

 城壁を突破したのは別の箇所であった。南西角への攻撃が最も有力である。
 南西角は壁を越えるためにササン朝軍司令官が特に重視した箇所であった。まず戦術的に角の箇所は両脇から攻撃を受ける量が少なくなりやすい。そこにササン朝軍は複合的な攻撃を第14塔~第15塔の間に行った。しかし梯子をかけ乗り込もうとしても、出っ張った位置にある塔と城壁上の歩廊から多角的な攻撃を受け容易にはいかなかった。

【傾斜路の建設】

 そこでササン朝軍が行ったのが傾斜路の建設である。壁を越える崩れない広い足場を作って突入してしまおうという大規模な工事である。第15塔の南そばに土を積み上げて行き始めた。ただこれはすぐ完成するものではない。そこで彼らは他にも攻撃を組み合わせようと、作業を並行して坑道も掘り始めた。(トンネル2)

【第14塔への坑道戦法】

 坑道戦法は再び地盤沈下により崩すことを狙った。今度の坑道はそばにある崖から掘り始められたので距離や硬質地盤を貫く手間も少なくすんだ。

 トンネル2は恐らく第19塔への沈下工作が失敗した後および傾斜路建設が決定した後に開始されたとされる。理由はその戦術的意義からも裏付けられる。トンネル2は第14塔のほぼ真下とその北側の壁に数m延びていた。(途中で分岐して崖にもう一つ出口を作っているが、これは短距離で土や石を排出するためと空気確保のためだろう。)
Attach around Tower 14~15
 トンネル2の目的はなにか。第14塔は南西角にある守備塔であり、この範囲を崩したとしても突入口が充分な大きさと高さで開くことは無い。加えて第19塔への坑道戦法が失敗したように、地盤条件と事前補強があるが故に、完全崩落させることは期待薄であるとわかっていたのだ。即ちこのトンネル2は突破口形成を目的としたのではない可能性が高い。

 ただ第19塔周辺の坑道戦法による地盤沈下はある程度の効果をもたらしたことが判明している。それは守備塔のフロアを破壊し、城壁上の歩廊を半壊させたことである。これにより塔と城壁上からの投射攻撃は著しい減衰を余儀なくされた。そしてそれこそが第14塔にもたらしたかった影響である。
half-collapse_Tower 14
  < 半壊した第14塔 >

 ササン朝側の指揮官は南西角城壁突破作戦のために複数の工作を展開したが、バラバラになされたのではなくその影響が組み合わさるように計画されていた。第14塔への攻撃での目標は守備塔とその北(第15塔への方角)に伸びる城壁上の迎撃能力を減衰させることであった。目的はすぐそばで進む傾斜路の支援だ。城壁歩廊を崩す範囲は突入傾斜路まで崩してしまわないように限定された。これが数mしか北にのびていなかった事由である。
 トンネル2の坑道作戦は第14塔を半壊させ、第19塔と同じ成果であるが今度は成功した。

【侵入用巨大坑道】

 組み合わせは第14塔攻撃と傾斜路だけでない。南西角にササン朝側の工兵は徹底的に集中投入され、他にも坑道を掘っていた。トンネル3とトンネル4と呼称し、特徴は次の4つである。

・2本のトンネルが近接して掘られている
傾斜路の真下を通る
幅の広い巨大坑道(トンネル2の2倍以上になる箇所もある)
・壁の下を通り過ぎてそのまま内部へと真っすぐ続く

 硬質地盤の下なら傾斜路の荷重が加えられても崩落が無いと考えて敢えて真下を狙っている。トンネル3と4の狙いは地盤崩落ではない。当たり前だが傾斜路と一緒に崩落してしまうからだ。あるいは傾斜路が城壁の補強になって崩落を防いでしまう。
 何よりもこのトンネルは城壁真下に平行でなく垂直に横切るように掘られている。即ち壁を地下で越えて城内へと侵入するための坑道であるのは間違いなかった。
(傾斜路建設とそばのトンネル2の掘削があるため侵入用坑道掘削が音でばれにくい。また排出土もトンネル2用と混じらせてそばの視にくい崖に捨てられるか傾斜路に使える。)

 ローマ軍防衛部隊はトンネル4には気づくことができた。対坑道を掘ったようで、途中で焼けた箇所があるなど阻止に動いた形跡が見られる。城壁近くには大きめの地下空間が残っており、そこに兵士を待機させられるようにしたと思われる。巨大な地下坑道の中で戦闘が起きるが何とかササン朝軍を地下で押し止めた

 トンネル3と4は同時か僅かにずれる程度の工期で掘られていたようで、ササン朝軍はすぐさまトンネル3に集中して掘り始めた。その幅は3mにも及んだ。激しい坑道内戦闘をし、そのまま城内へ突撃しようというササン朝側の決意がありありと浮き出ている。城壁下を越えても幅を変えず巨大坑道を伸ばし続ける。ローマ側はこれほどの複数攻撃に対処できなかった。トンネル3への対抗壕は見つかっておらず、トンネル4と傾斜路によってカモフラージュされたとも言える。

 途中で2本に分岐し、1本はローマ軍の待機場であろう大空間へと繋がっている。この分岐はササン朝軍がトンネル4と合わせて2方向から地下攻撃するためであるとする説が有力である。ローマ側がトンネル3を阻止するため掘った可能性もあるが、いずれにせよこれは成功しなかったようだ。ササン朝軍大坑道は深く市内へと入っていった。
(トンネル3、4および対坑道の順番は完全には判明していないため上記は現状わかる範囲での推移である。追加調査で判明次第追記修正)

ドゥラの開城と放棄

 戦闘はこれらにより決した。傾斜路かトンネル3かどちらが最終的な決定打かは判明していないが、傾斜路が壁上に届き戦闘が激化したタイミングでトンネル3が開通し、南西角ローマ軍防衛線を破綻させた。

 ササン朝軍が城内に雪崩れ込んだ。市内で長期にわたる戦闘が起きた形跡は無い。城壁を突破された後ローマ守備隊は無為な抵抗をせず降伏した。密集した家屋の隙間を埋め内部防壁にするやり方はあっただろうが、城壁上が傾斜路により取られては他地点も突破されるのが目に見えており、降伏は避けようがなかった。
(現在のところ見つかっていないが、他箇所で突破した可能性も残っている)

 ドゥラの城塞は遅くとも257年までに完全に開城した。兵士は捕虜になり移動させられた。ササン朝はこの街を打ち捨てることを決め、以前から進めていた住民の移住を逐次進めたことでドゥラは放棄された。シャープール1世による西方拡大は成功を収め、その後長きに渡るローマとの戦争に大きな影響を残すことになる。

 この街は部分的にアラブ・イスラム支配期にも使われたが大半が埋もれていき次第に忘れ去られた。それでも砂漠の中でユーフラテス川に寄り添いながら遺跡は残り続け、1700年以上の時を経てドゥラ・エウロポスの攻城戦の様相を我々に伝えてくれている。


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ここまで読んで頂きありがとうございました。

 WW2とその後の資金難、シリア東部までの移動困難性、特に治安によって現地調査は困難を極めています。21世紀にシリア内戦が発生、ISILと呼ばれる過激派の領域にドゥラ・エウロポス遺跡は一時期なりました。米国防省などは遺跡の盗掘・損傷の可能性が高いと警鐘を鳴らしています。2019年時点で政府軍とシリア民主軍はユーフラテス川を挟み睨みあっており、近域にはISILの残党が活動していています。

ローマ兵が味方を生き埋めにしたという解釈

 1930年代のdu Mensnil氏の調査では第19塔周辺の坑道戦において、ローマ軍が奪われた壕の入口を閉じて味方を生き埋めにしたという解釈がなされた。この埋め立てられた入口そばに閉じ込められた約20人のローマ兵とササン朝兵1人の遺体が発掘されている。ササン朝軍が対抗壕を利用して内部に侵入してくるのを恐れたため味方の脱出を待たず入口を閉じたとの説明である。(閉じ込められた兵士たちはササン朝軍によって殺され、1名のササン朝兵遺体は坑道内の戦闘の結果残された)しかし2009年のS.James教授の研究では別のパターンの方がより筋が通るとして発表され反響を生んだ。

 そもそも上記のdu Mensnil氏の生き埋め説はいくつかの疑問点があった。まず、それほど急にローマ側が坑道を埋められたのか、燃え跡が埋まった入口付近にないということは支保工に縄でもつけていて巧く外したのだろうか?それにササン朝側がこの狭い対抗壕から突破してこれるだろうか?幅1.2mで高さは背丈ギリギリの坑道である。ローマ側は入口で撃退できたはずだ。坑道を拡張されてササン朝兵が大きな装備とともに入ってくる可能性を恐れたのならば、それはたとえ入口のほんの数mを埋めても同じである。むしろ坑道の出口が見えなくなりササン朝側は奇襲できるチャンスすら生まれる。
 さらに約20人のローマ兵の遺体は極めて密集して発掘されている。De Mensnil氏は壁際に集まり立ったままか座って兵士は死んだとしたが、S.James教授の再分析は遺体が折り重なるように横たわっていたことを解明したことでde Mensnil氏の解釈は難しくなった。敵に焼き殺されるのをその場で待ったのも変である。パニックになったのかもしれないが、見捨てられたのなら降伏するのが普通であるし、ササン朝側もほとんど作戦的に意味の無いこの20人のためだけの火計などするだろうか。そしてササン朝兵士の遺体が一体のみ回収されず残っているのも妙である。

 S.James氏の遺物写真分析は坑道内での破壊活動が全てササン朝側の主導権の下で行われたという結論を導いた。生き埋め説に代わり提唱されたのが上記の煙・化学兵器使用説である。

S.James教授の発表と現地調査の必要性

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 トンネル内は狭く戦闘にはとてもではないが充分ではない。小型の投射兵器や組手または短剣・短槍による突きのみが有効であったが、格闘術のみで坑道内の戦闘の趨勢が決まったとしたら超人的な者が多数いたことになってしまうとS.Jamesは考えた。(そのようなことが滅多にできないから対抗壕は汎用的な戦法として世界中で使われた)けれども坑道内戦闘はササン側が完全に勝利したことが示されている。この理由を考えなければならない。
 S.Jamesは近域に死体があったことから狭い坑道内でパニックが起き殺到することによる圧死が発生した可能性に言及している。それと同時にKate Gilliverの紹介した手法を有力視した。それはササン朝軍が坑道内に煙発生装置を兵器として投入してまとめて敵を殺したというものである。

 前189年にアンブラキアで同様の戦法がギリシャ人によって使用されたことが記録されている。第19塔周辺の坑道戦ではただ木を燃やしただけでなくより効果的な毒性気体が発生しうる物質が見つかっている。
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 坑道内で煙を使って相手を追い出す手法は古代から各国で行われていた。前4世紀には既にポリュビオスによるアエネイアースの伝承に現れておりこれらについてはMayor, (2003), "Greek Fire, Poison Arrows, and Scorpion Bombs: Biological and Chemical Warfare in the Ancient World"などで研究が為されている。現代ならばこれらの手段は国際化学兵器禁止条約第2条のカテゴリに入れられるだろう。
 ※アエネイアース戦術の伝承ではハチを生物兵器としてトンネル内で使うことも記されている。

 この戦いはササン朝が高度な軍事技術と思考法を有していたことの一例である。S.James含め多くの古代史研究者はササン朝が優れた技術を持っていたことを興味深いとしながらも驚きではないと述べる。アッシリア、アケメネス朝より続くこの地域に君臨した大国は独自技術を持つだけでなく西はギリシャ・ローマ、東は中国まで交流がある知識の街道であった。

  S.James教授の化学兵器使用説は2009年のフィラデルフィアで開催された考古学会議で一挙に有名になった。これは1930年代の生き埋め説の矛盾点の多くを解決する説であった。だが教授にとって不幸なことに、(ギリシャやローマなどでも見られた特殊なものではなかったのに)一部の反イラン主義の人々によってこれはイラン人の生来の残酷さを主張するための材料となってしまった。むしろ教授は高度な技術をササン朝やローマが持っていたことに関し、現代イデオロギーとは距離を置いて古代史の解析に臨んでいる。そして戦闘推移の正確な分析のために更なる現地調査が必要であると望んでいるにも関わらず、化学兵器の使用という文言だけが(決定的な否定または肯定の証拠もなしに)独り歩きしていることに悩まされている。
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 本サイトにおいて採用した戦闘推移の記述は確定しておらず、今後新しい説が有力になるかもしれません。この遺跡にまだまだ新たな発見が眠っていることが確実です。専門家による発掘が一刻も早く進むことを願い、本拙稿を終えることとします。
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【参考文献】

Simon James, (2009), "The Excavations at Dura-Europos conducted by Yale University and the French Academy of Inscriptions and Letters 1928 to 1937. Final Report VII: The Arms and Armour and other Military Equipment"
Simon James, (2019), "The Roman Military Base at Dura-Europos, Syria: An Archaeological Visualization"
Jennifer Baird, (2012), "Dura Deserta: The Death and Afterlife of Dura-Europos"
Jennifer Baird, (2018), "Dura-Europos (Archaeological Histories)"
Mikhail Ivanovich Rostovtzeff, (1934), "The Excavations At Dura Europos"
Harry Sidebottom, (2016), "Ancient Siege Warfare, 700 BC–AD 645"
Chris McNab, (2018), "Famous Battles of the Ancient World"
Duncan B Campbell, (2006), "Besieged: Siege Warfare in the Ancient World"
"Ancient Warfare magazine, Vol. VI : Did the Sassanids use chemical warfare? Death in the da rk at Dura-Europos"

サイト
http://judithweingarten.blogspot.com/2011/05/death-of-dura-europos.html 
http://www.imperium-romana.org/dura-europos-shield.html
https://romanrecruit.weebly.com/shield.html
https://www.academia.edu/1448923/Death_in_the_dark_at_Dura-Europos_Did_the_Sassanids_use_chemical_warfare

ドゥラ・エウロポス研究を特に行っているレスター大学のSimon James教授の研究を第19塔まわりの記述で主な参考とした。

レスター大学の公式サイトでドゥラ・エウロポスについて紹介されている
https://www2.le.ac.uk/departments/archaeology/research/projects/roman-soldiers-in-the-city/military

ジェームズ教授の大学HP
https://www2.le.ac.uk/departments/archaeology/people/academics/james

壁画についてはYale University Art Galleryに保存が為されている。
http://media.artgallery.yale.edu/duraeuropos/dura.html
https://artgallery.yale.edu/overall-search/Dura-Europos


・ ドゥラ・エウロポスはコインによる分析が盛んな場所でもある。Alfred Bellingerはコインから256年が陥落した時期と述べたが、J.A. Bairdは新たなコイン分析で、ササン朝は253年に一度ドゥラに入場し、その後254年4月にローマは再度支配したと提唱している。ササン朝が一度撤退する際に住民の退去があったかもしれないが、陥落後すぐの蜂起ではなく住民の退去準備期間があったことを考慮するべきである。ローマが街を放棄したのは残された遺体や建屋内の状況から研究されている。それによると急速な放棄がされた可能性はかなり高い。ただしアラブの埋葬と呼称される遺構のように9世紀頃やその後にも一部に人が使用した形跡がある。ドゥラの放棄は一瞬で起きたものではなく、ポンペイのような解釈が適用できるわけではない。

・坑道戦用の兵士は鎖帷子とヘルメットをつけてはいるが、野戦用に比べて非常に軽装で長物の武器は持っていない。小型投射兵器は弓ではなく恐らくクロスボウに類似するボルト・石弾を発射する装備である。

・トゥフ、ジプサムは柔らかいと言えるほど脆くはないのだが石灰層に比べると柔らかいということと思われる。