委任戦術や訓令戦術と訳されることが多いアウフトラークスタクティーク=Auftragstaktik(Führen mit Auftrag)に関し、米陸軍で指揮と統制のスタイル研究のために作成された公開論文の試訳をしてみようと思います。本文書は抽象的概念を論じるものではなく、具体的導入のためにWW2ドイツ軍の戦例を研究しているものです。

 長いので本記事は前半部のAuftragstaktikとは何か、そしてその歴史の概略が書かれた部分について翻訳します。本編ともいえる後半部はヘルマン・バルク将軍率いるドイツ第11装甲師団の1942年チル川の戦いなどの実戦記録となっており、次の記事で載せようと思います。
 また、少々読み難いかもしれませんが本文はそのままAuftragstaktikと記すこととします。原文もそうしており英語のMission-type Tacticsとしていないためです(理由も本文内にあります)。

 本論文の背景には、中・遠距離の核攻撃とワルシャワ条約機構軍の突進によって引き起こされる流動的かつ高速化した現代戦の中で、米軍が欧州に配備されている各部隊を指揮する可能性を考えなければならなかったために研究が必要だったという背景があります。参照されている米陸軍野戦教範は1986年度版であり、AirLand BattleドクトリンとManeuver Warfare理論が密接に関係しています。
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(内容的には完全にバルク将軍が主なのですが表紙はマンシュタイン元帥。確かに元帥も関わっていますが…少しバルク将軍が不憫です。)
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 以下、訳文

Order Out of Chaos

】オーダー・アウト・オブ・カオス:1942年12月7日~19日でのチル川の諸戦における第11装甲師団による委任戦術の適用に関する研究
Order Out of Chaos : A Study of the Application of Auftragstaktik by the 11th Panzer Division During the Chir River Battles 7 - 19 December 1942

著者】Robert G. Walters 米陸軍大尉 (当時)
論文提出年度】1989年3月

要旨

  米陸軍の現在のエアランド・バトル(AirLand Battle)ドクトリンは機略戦に重きを置いている。米軍指揮及び統制フィロソフィーには、ドクトリンのこの改定に連動した大きなアップデートは無かった。WW2ドイツ陸軍もある機略戦的ドクトリンのもとで作戦行動を実施していた。1つの指揮と統制のフィロソフィーであるAuftragstaktikの活用は、歴史的観点から米軍に貴重な教訓を与えてくれる。この研究論文は戦術ではなく指揮と統制の観点からチル川の諸戦の詳細分析を記したものである。ドイツ軍の脆弱な陣地に数的優位のソ連軍は攻撃を仕掛けたが、それに対する見事な防御は興味深いものを示しており、中央欧州でNATO部隊が直面する現状と類似している。Auftragstaktikは基盤として良く貢献するべきものであり、そこから米陸軍はエアランド・バトルのドクトリンを補完する一貫した指揮統制フィロソフィーを発展させられるのだ。

目次

Ⅰ.はじめに
Ⅱ.Auftragstaktik
Ⅲ.チル川の戦い
Ⅳ.タツィンスキー
Ⅴ.結論
Ⅵ.エアランド・バトルへのAuftragstaktikの適用
参考文献
初期配布リスト

図面リスト
図1:1942年12月7日~8日、第79ソフホーズにおける第11装甲師団の逆襲・・・・・・p.17
図2:1942年12月12日、チル川沿いの第11装甲師団の逆襲・・・・・・・・・p.33
図3:1942年12月18日~19日、チル川沿いの第11装甲師団の逆襲・・・・・・・p.41

謝辞

 本論文により私は非常に興味を持っている研究分野を深く掘り下げられた。幸運なことに、楽しくやりがいがあるだけでなく私の専門職に願わくば価値のある研究論文を書くことができた。
 私の努力に必要不可欠だった多くの人々に感謝を表したい。米海兵隊予備役におられるRussel H.S. Stolfi大佐(退役)は私の論文のアドバイザーであり、私が権利として持っていた時間を越えて彼は費やしてくれた。彼の指導は私のまとまっていないアイディアに焦点をもたらしてくれた。著名な戦士であり歴史家である人物のもとで学ぶことは大きな喜びだった。
 Donald Abenheim博士は研究のガイダンスをしてくれると共に私の翻訳をチェックする上で非常に貴重な援助をしてくれた。サンノゼ州立大学のDean Charles Burdick氏は私の研究の基盤となる国立公文書館戦争記録を提供してくれた。彼の私の活動への興味は本当にやる気を出させてくれた。レヴンワース要塞(米軍指揮幕僚大学のこと)ソ連研究室のDavid Glantz大佐は私の論文の基礎となった極めて詳細な地図を提供してくれた。
 その地図は本論文の残りと同様にマッキントッシュ・コンピューターで作成された。Thomas Brown少佐はコンピューター作業で不可欠の手助けをしてくれた。作戦研究部局のBill Thompson氏はその各地図を電子化するために多くの時間を費やしてくれたこともありがたかった。
 最後に、学生が通常調べるトピックの範囲外にある研究テーマを探求できるようにしてくれた私が履修しているカリキュラムに対し御礼を述べたい。

情報源に関する備考

 本論文の多くの情報源は英語では利用可能なものではなかった。ヘルマン・バルク装甲兵大将がその軍人としての経験を記した書籍『Ordnung im Chaos』から私の論文タイトルを取らせていただいた。その自伝は歴史的に興味深い観点から書かれており、実に読みやすくしてくれている機知もある。英語に訳すのはやりがいのあるものだった。ドイツ語を読める人々には強く推奨する本だ。
(※訳注:喜ばしいことにバルク大将の書籍は2017年に英語化され『Order in Chaos: The Memoirs of General of Panzer Troops Hermann Balck』は現在容易に入手できるようになった。)
Order in Chaos

 本研究のバックボーンとなった戦争記録は戦争終結の際にドイツより回収されたものだ。それらは米国立公文書館によってフォトフィルム化された。それからオリジナルは連邦共和国(ドイツ)へと返還された。文書の多くはラジオメッセージの記録であり、ラジオオペレーターが呼び出しを受け写し取られている。それらは1942年冬季スターリングラード近郊の野外条件とその瞬間のアドレナリンと組み合わされて、解読を非常に困難にしている古ドイツ語の文でしばしば書かれている。ほとんどの場合これらの記録はまったくの完全であり、それらを使用するための努力を望む人々に広大な情報をもたらす。サンノゼ州立大学は数百巻の記録マイクロフィルムを所蔵しており、本論文で使用されたものも含まれている。もちろん国立公文書館は完全なコレクションを所蔵しているのだが、借り出しが許されておらず施設内で閲覧するか購入するしかない。この戦争文書のコレクションについてのとても詳細な登録簿があり、記録文書の使用を比較的容易にしてくれる。 この登録簿は約90冊のボリュームで構成され『Guide to German Records Microfilmed at Alexandria, VA』というタイトルだ。登録簿のコピーはレヴンワースの指揮幕僚大学と同じくサンノゼ州立大学図書館とスタンフォード大学のフーヴァー戦争・革命・平和研究所にある。

Ⅰ.はじめに

 米陸軍エアランド・バトルのドクトリンは我々がどのように戦うかの基盤となる機略理論を確立するものだ。効果的指揮統制の枠組みの中で、この戦闘スタイルは兵器システムによってもたらされる移動性を活用し、運用には柔軟性が要求される。※1

 第3帝国のドイツ陸軍はこの作法で戦った。ドイツの凄まじい軍事的成果は技術的優越によるものでも兵士や兵器の数的優越によるものでも無い。先の戦争(WW1)の西部戦線での消耗戦の悲惨な結果は、機関銃や有刺鉄線によって妨げられない自動車化機械の導入を通じて戦場にもたらされた新たなる移動性能(装甲を有する機動力)と結合し、ドイツ陸軍を機動性に基づいたあるドクトリンの再採用へと導いた。『電撃戦:Blitzkrieg』というラベルを貼られるこようになったこのドクトリンは現在『Auftragstaktik(委任戦術)』と呼ばれている指揮及び統制のスタイルと密接に関連している。ドイツ型指揮統制スタイルはドイツ参謀組織の能力よりも彼らの優越にとって重要な要素であると考える者達もいる。※2

 現在の米陸軍は「指揮と統制に関する一貫したフィロソフィー」を欠いている。※3
「『Auftragstaktik』はFM100-5で説明されているような機略理論を効果的に実施するための鍵となるように思われる。他の指揮テクニックでは反応の速度と精度が将来の機略戦のテンポに足ることはできないだろう。」※4

 ドイツ陸軍の指揮と統制の実行手法の調査研究をするならば、成功的に機略理論が適用された陸軍によって、どのようにその行動が為されたかの洞察をもたらすべきである。そのような普遍的な提示によって、1942年12月のチル川の諸戦におけるヘルマン・バルク少将指揮下の第11装甲師団というドイツの独立部隊の指令および連絡を深く分析するための舞台が出来上がるのである。これらの文書ではドイツの戦争遂行の熟練者が使用する指揮統制テクニックを垣間見ることができるだろう。ドイツ陸軍のロシアでの経験、特に戦略的主導権を喪失してからは格段に関連性がある、というのも中欧にいるNATO軍が直面している現在の状況のいくつかに極めて近似しているからだ。数的に優越する敵に対してバルク少将の師団は見事な一連の『火消部隊』行動を取り、強大なソ連軍を塞き止めた。チル川の防衛戦は米陸軍将校の間で比較的よく知られており、バルク装甲兵大将の指揮官としての明敏さも同様に認知されている。※5

 本分析は米陸軍にとって「一貫した指揮と統制のフィロソフィー」を発展させるいくつかの洞察を提供するだろう。

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  (※1:1986年度版米陸軍野戦教範FM100-5, p.12)
(※2:例として、Richard E.Simpkin, (1985) "Race to the Swift: Thoughts on Twenty-First Century Warfare", p.29 などがある)
(※3:Charles G. Sutten Jr, "Command and Control at Operational Level", Parameters, vol.XⅥ.No.4 p.20)
(※4:R.E.Simpkin, (1985), "Command from the Bottom" Infantry, vol.75, No.2, March-April, p.34を参照。シンプキンはAuftragstaktikの訳として『directive control』の語を採択している。)
(※5:装甲兵大将はバルク将軍の最終階級であり、これは米陸軍の3つ星階級=中将にあたる。)

Ⅱ.Auftragstaktik

【A:歴史】

 Auftragstaktikという用語は最後の戦争の後になって造り出されたものであるが、そう名付けられるコンセプトそのものはドイツ軍の間では何十年も前から存在していた。※6
 ドイツ語からの翻訳は難しいものだ。最も広く引用される同義語は『任務型命令:mission-type orders』である。部下に広大な自由裁量範囲を与えるこのシステムは、ヘッセン人がアメリカ独立戦争中にジョージ3世の傭兵として戦った際にドイツ人に最初に導入されたようだ。
Johannvon Ewald精鋭のヘッセン猟兵隊指揮官エヴァルド大尉がドイツ帰国後にアメリカでの経験を出版した。彼の説明する所によるとその戦術は「……適切に指導され且つ行動の自由を与えられた場合、兵士たちは個人及び小規模の複数集団として動き、驚くほどにポジティブな結果を一貫して創り出した。」という彼の信念を反映したものだった。※7

 1806年イエナの戦いでのプロイセンの敗北は新たなアプローチの必要性を増大させた。エヴァルドのコンセプトはプロイセン人達によって着目された。シャルンホルストやグナイゼウはこの発想を更に拡大させ続けた。※8
 1860年には「……上位から解き放たれる自由への特殊な欲求そして責任への欲求が、他の軍隊と違い(プロイセン軍では)発達していった。……我々は個々のあらゆる手段の創意工夫を駆使し、手綱をより緩やかに保持し、全ての成功を支援する……。」とプロイセン王子フリードリヒが記している。※9

 この指揮と統制のコンセプトは1866年と1870年の戦争での中心であった。ケーニヒグレーツ戦役でモルトケは兵士おのおのが自身のイニシアチブを発揮することを要求した。もしあるリーダーが戦いに干渉するべきなのか、あるいは彼が最初に受領した今や矛盾しつつある命令に従うべきなのか確信をもてないような場合、モルトケはほとんどの状況で前者を推奨した。なぜなら戦術的勝利の好機とは他の全ての考慮事項をより優先的なものとしたからだ。※10
 1888年の『Exerzierreglement für die Infanterie:歩兵訓練規範』は部下たちに更なるイニシアチブを発揮することを可能とするために、より上位の司令部には必要不可避の時のみ命令を発行させることを要求した。※11
 1914年までにこれらの手法はドイツ陸軍の最下級将兵に到るまで導入された。※12
 西部戦線の陣地戦は個々のイニシアチブを抑制してしまったが、1918年春季攻勢ミヒャエル戦役においてこの指揮方式の適用は実を結ぶことになる。

 WW1での連合国の戦車運用から得られた教訓は1918年の後でドイツで着目された。この兵器は機関銃と鉄条網などにより構築される陣地戦を打開する技術的な鍵を提示した。ハインツ・グデーリアンは近代的ドイツ装甲部隊の創設の旗手となった。彼は戦車によってもたらされる巨大なる機動性を運用することで優越する敵に勝つことができたが、一方でフランスとイギリスはその潜在能力を十分に発揮できなかった。グデーリアン上級大将は回想録で「新たな装甲兵器、1918年の我らの敵の勝利に大きな影響をもたらしたもの、があったにも関わらず(英仏の)心は陣地戦に捉われていた。」と述べている。※13
 注記すべきことは約2200輌の戦闘戦車でドイツ軍がフランスに攻め込んだが、対するフランス領土には4800輌の戦車(その一部はイギリス海外派遣軍のもの)があったことだ。※14
 これら2200の戦闘戦車は機略戦コンセプトのもとで運用され、ドイツ軍が圧倒し勝利することを可能とした。これは我々のエアランド・バトルのドクトリンの目的と一致する。Auftragstaktikとはドイツ連邦軍で認知されたコンセプトである。けれどもその適用の旗手は米陸軍にパスされたのだ。英軍のリチャード・シンプキン准将は次のように述べている。
 「ドイツ国防軍の訓練を受けた最後の将校去ったため、政府によってドイツ連邦軍は陣地防御ドクトリンとなるよう余儀なくされ、プロイセンの創造性の火花を失ったようだ。 米軍は革新を求めなければならず、それは米軍内の「改革主義」運動のもとにあるのだ。 消耗戦理論から機略理論への切り替えを公布する『FM100-5 Operations』は非常に優れた始まりだろう。」※15

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(※6:John T. NelsenⅡ, "Auftragstaktik : A Case for Decentralized Battle.", Parameters, Sep 87, p.21を参照)
(※7:Johm M. Vermillion, (1985), "Tactical Implications of the Adoption of Auftragstaktik for Command and COntrol on the AirLand Battlefield", p.4)
(※8:同上, p.5)
(※9:Dieter Ose, (1982), “Der 'Auftrag' Eine deutsche militärische Tradition.", p.264 )
(※10:Militärgeschichtliches Forschungsamt, (1983), "Deutsche Militärgeschichte in sechs Bänden 1648 - 1939. Band 6", p.384)
(※11:同上, p.428)
(※12:Vermillion, (1985), p.5)
(※13:Heinz Guderian, (1950), "Erinnerungen Eines Soldaten", p.84)
(※14:同上, p.84.   R.H.S.Stolfi, (1970), "Equipment for Victory in FRance", p.10の図表では2574とされており、グデーリアンもこの図表をp.429で使用している。グデーリアンは2574輌のうち135は"Befehlswagen"=通常の戦車とは別にすべき指揮車両と主張する。ただし本論文著者は確かに主砲という点では指揮車両は違うが、この5%を占めた車両は指揮と統制をより効果的にするという点で装甲火力と相互的効力を持っていたと考えている。
(※15:Simpkin, "Race to the Swift", p.18)

【B:コンセプト】

 Auftragstaktikとは「戦争の性質、個性とリーダーシップ、戦術、指揮と統制、将兵の上下関係、訓練と教育に関する理論……のいくつかの見地を捉える……幅広いコンセプトである。これは戦闘への包括的アプローチなのだ。」※16
 Auftragstaktikのよくある翻訳である『Mission-type orders』という用語は適切とは言えない。なぜならこれは作戦命令のパラグラフ2(Mission)に焦点を当てているが、実際にAuftragstaktikが焦点を当てているのはパラグラフ3a(作戦コンセプト)と3b(指示の協調)なのだ。※17
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(※訳者注:これは米軍では基本となっているOperations Order所謂
OPORDの5つのパラグラフのこと。下図表参照。詳細部の書き方は文書によって異なりCoordinating Instructionsは3dとされたりする
5-Paragraph-Operations-Order-OPORD
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 Auftragstaktikが重きを置くのは指揮官の意図である。指揮官の意図は隷下部隊に彼ら自身の意思決定を行うための基盤を与え、それ故に彼らは全体計画を守りながら調和を取るのである。「ドイツ陸軍は指揮官の意図という形でミッション・ステートメントを使用していた。指揮官は己と上官の意図を実行させるためタスク(Aufträge)を隷下部隊に割り当てたのである。 そして隷下部隊の指揮官が自身の解決案(Entschluss)となる特定の行動方針を決定するのだ。」※18

 Auftragstaktikは「諸作戦のための命令を出す上での基本原則を説明する。」※19
 1944年ハンガリーで第6軍を指揮していたバルク装甲兵大将の参謀長だったこともあり、自身も軍団指揮官をドイツ連邦軍で担ったハインリッヒ・ゲートケ中将は次のように述べている。
 「『Auftragstaktik』は命令を与える手法以上のものであり、実際には思考のならわしに似ている。……通常、指揮官は作戦について単一の陳述のみを与える...…詳細を決定する仕事は、監督なしで隷下部隊の指揮官に完全に任された。誰もがミッションを達成するために己のイニシアチブを行使することは当然のことと考えられていたのだ。」※20

 この種の個々人のイニシアチブを促進することは兵士と将校の教育における主要目標であった。
 「将校の教育と訓練の全てを通じて、個々人の意思決定は尊重され、もし間違っていた場合は修正をしたが非難することはなかった。それ以外では堅苦しいイニシアチブとなってしまうであろう。軍学校を修了した将校は、命令と指示においては上位の司令部から詳細な特定事項を受領することは不要であると気づいた。それらの発想は特定のドクトリンや技術に制限されることはなく、むしろ指揮官の意図を達成するための専門的な献身により深く紐づけられていた。」※21

 要するに将校達はどうやって考えるべきかを教え込まれ、何を考えるべきかは必ずしも必要ではなかったのだ。※22
 バルク将軍とフォン・メレンティンは1980年に米陸軍研究室での高級将校による図上演習に参加した際に彼らは「ドイツ兵士の個性、イニシアチブを取る自由とこれらの方針と属性を生みだしたシステムがドイツ軍の最上パフォーマンスの鍵であると考えた。」と述べた。※23

 彼らはもし部下がイニシアチブを見せたならば、上位の指揮官が部下を非難するのは滅多にないということに同意した。最善の解決策を見つけるために膨大な時間を費やすかあるいは行動を起こさずにもっと正確な情報を待とうというよりマズイことをするよりも、今すぐに良質な決断を下す方が遥かに良いのだ。この姿勢は各階級に広がっていき個々の兵卒にまで到達していた。上位指揮官とのコンタクトが失われた状況において、その部下たちは停止してしまい連絡が回復するまで待つのではなく、彼自身が適切であると考える行動をとることができたのである。この積極的な姿勢により各部隊はローカルな戦果を活用することができたのだ。つまり「上位(の司令部)が前もって定めた事項とは神聖なものではないのだ。隷下部隊指揮官は、自身の行動が上位指揮官の意図をサポートするものである限り、自身に割り当てられたタスクを修正または変更することさえ正当化されるのである。」※24



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  (※16:Nelsen, p.27)
  (※17:Simpkin, p.228)
(※18: Daniel J. Hughes, (1986), "Abuses of German Military History", pp.67~68)
(※19:同上, p.67)
(※20:Battelle ColumbusLaboratories, (1979), "Translation of Taped Conversation with Lieutenant General Heinz Gaedcke, 12 April 1979", p.5)
(※21:Richard F. Timmons, "Lessons from the Past for NATO", Parameters. vol.14. No.3, p.7)

(※22:Hughes, p.10)taught how to think, not neccessarily what to think.

(※23:BDM Corporation, (1980), "Generals Balck and von Mellenthin on Tactics : Implications for NATO Military Doctrine", pp.16~17)
※24:Simpkin, "Command from the Bottom", p.35)

【C:命令】

 師団レベルでの戦闘における各命令は通常は口頭で与えられるもので、電話かあるいは可能なら直接話す。その後にペースが幾分緩やかになってきたらこれらの命令を書き写して部隊日誌用に準備する。バルク装甲兵大将は部隊日誌を完成させるためを除いて、最大かつ最も重要な作戦命令を含む、彼の師団での書面による命令の使用を禁止することさえしたのだという。※25
 平時で使われるような命令を展開するための更に形式ばったプロセスではとてつもなく遅すぎるであろう。※26
 上述した将校の徹底的な教育により、全員が同じ概要ラインに沿って考えられるようになった。 詳細については言及する必要がなかったため、命令の長さは大幅に削減された。 また将校は一緒に働く時間が、特に戦闘において、長ければ長いほど互いをより深く理解し合う傾向がある。フォン・メレンティン少将は「指揮官たちとその部下達は戦争の中で互いを理解し始めた。彼らが互いをより深く理解し合うほど、命令はより短くそして詳細部はより削減されることができるようになっていった。」と述べた。※27
 フォン・メレンティンは、ロシアにおいて通常であれば彼とバルクは次の戦いのため自分たちの師団をどのように展開するか決定するのを約5分でできたたと語った。※28
(※訳者注:原本の文脈は図上演習で、『
状況について説明が為された後で』バルク&フォン・メレンティンが個人的に話し合いをし始めたのだが、その際にアメリカ将校たちにその話し合いが長くはかからないと述べ、そしてロシアでは5分で意思決定と言った。つまり既に各種準備と説明が完了した後で指揮官が考え込んで意思決定をする時間の話である。)

 東部戦線において師団は翌日のための命令をその日の22:00頃に受領することがしばしばあった。深夜までにその命令は分析され、連隊目標へと転移されて急発送される。※29
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(※25:Battelle Columbus Laboratories, (1976), "Translation of Taped Conversation with General Hermann Balck, 13 April 1979", pp.25~26)
(※26:Gaedcke, p.38)
(※27:Balck and von Mellenthin on Tactics, p.22)
(※28:同上, p.25)
(※29:Timmons, p.9)

【D:参謀】

ドイツ軍参謀の略語
< ドイツ軍将校の略語 ※訳者挿入

 師団参謀は今日におけるスタンダードと比べると小規模に収まったものだった。副指揮官や師団参謀部は無い。これら全ての役職は作戦参謀と同様に、通常は参謀の大尉か少佐がなる首席参謀Iaに組み込まれていた。※30,※31
 他にインテリジェンスに責任を持つ参謀将校Icもいる。師団職員は運転手や書類事務員、無線通信オペレーター、その他を含めて約50名である。(活動に必要な要員数が)「少なく済めば少ないほど良い。」※32
 1942年後半に第47装甲軍団を率いたオットー・フォン・クノーベルスドルフ装甲兵大将の参謀は12人の将校で構成されていた。※33
 「ドイツ国防軍はこれを『Auftragstaktik』の適切な活動に必要不可欠だとみなしていた。作戦レベルの司令部は10~12人の将校を有するのみで最小限のサポート人員とするべきとされていた。これは最小限を意味するのであって、米国や英国で見られる編制指揮官たちの後を追ってぞろぞろと歩き回るサーカスの類ではないのだ。」※34

 指揮官と重要な職員は1つのチームとして働く。1つの小型の司令部はチーム精神を育む手助けとなる。意思決定者は通常ならば指揮官、首席参謀、情報参謀だ。一般的に根底にある参謀仕事と計画策定は共に有能なものにし且つ詳細にするけれども、意思決定プロセスは迅速にし、過度に詳細にしたり参謀の分析を長くし過ぎないようにする。※35
 参謀将校間での負担軽減システムは使用されなかった。代わりに各参謀将校は限界までその全力を出させられた※36
 これを実践することで参謀人員の規模を抑え継続性を確保する手助けとなった。ゲードケ中将は世界大戦で師団首席参謀として務めた経験を次のように記している。
 「私の師団指揮官と私はハーフトラックで一緒に座って地図を膝の上に置いて(そして)意見を交わす...…それから私たちは指示を走り書きし、隣のドライバーに渡す。そして彼は車両後部にいる数人の無線オペレーターに命令文を伝えるのだった。

 現在(WW2戦後)、我々はある小さな都市で師団司令部を作戦センター、通信センター、その他様々なものと一緒に構築した。今や全てが形式的に文書化されテレタイプによって発送されている。

 10~15人の気象から宗教までにわたる専門家たちと共に日々の指揮ブリーフィングをするが、断じてWW2ではありえなかったものだ。首席参謀(あるいは参謀長)は書類を持って指揮官の所に行った。指揮官はたぶん彼のベッドか朝のコーヒーの時間であろう。口頭のレポートがすぐに届くだろう。巨大な区域が必要とされることはなかったのである。

 (現在の)大所帯の司令部は多くの欠点がある。移動が困難すぎるし、敵の航空機の注意を引き付ける車両が多すぎる。各装置全体が鈍く遅くなるのだ。その全てにおいて、いつの日にか余計なものを徹底的に除去する必要がある。」
※37

 これらのコメントはユーモラスなだけでなく適切なものだ。 ゲードケ将軍はWW2期間中に軍規模まで至る首席参謀や参謀長を務め、後にドイツ連邦軍の軍団司令官を務め上げた。
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(※30:Iaは先任または首席参謀将校のこと(Erster Generalstabsoffizier))
(※31:Gaedcke, p.1)
(※32:Battelle Columbus Laboratories, (1979), "Translation of Taped Conversation with General Hermann Balck, 13 April 1979", p.26)

(※33:(1984), "1984 Art of War Symposium - Fromthe Don to the Dnepr: Soviet Offensive Operations, December 1942 - August 1943", 文書化 p.100)
(※34:Simpkin, "Race to the Swift", p.261)

(※35:Timmons, p.8)
(※36:Simpkin, "Race to the Swift", p.239)
(※37:Gaedcke, pp.37~38)

【E:指揮官】

 指揮官は己の部隊を後方地帯からリードなどできはしない。司令所もそこには含まれる。可能な限り頻繁に指揮官は前進して連隊または大隊ラインにすらいくことになるのだ。ハッソ・エッカート・フォン・マントイフェル装甲兵大将は次の様に述べている。
 「師団指揮官までの全ての装甲部隊指揮官の居場所はバトルフィールド上にある。そしてこの中で戦車部隊の中核と共に彼らは地形と良好な通信連絡のための最適の視界を持つのだ。私は『前線』で何が起きているのか見ることができそして聞こえる場所に常に位置取った。そこは敵の近域、私自身の周辺でもあった、つまり焦点に居たたのである。何であろうと何者であろうと、己で感じとるに勝るものなど存在しない。」※38

Manstein エーリッヒ・フォン・マンシュタイン陸軍元帥はどのように彼と彼の参謀長が指揮を執ったのか、次のように述べている。
 「その仕事や電話連絡に対処しなければならないので参謀長は後ろにある戦闘司令所に残っていなければならなかったが、私は来る日も来る日も、しばしば夜中まで外出して回っていた。私はたいてい状況諸報告を受け所要の命令を発した後、早朝に各師団または前衛の各部隊を訪れた。そして正午頃に一応は戦闘司令所に帰り、少し間を置いた後またあちこちの師団へと出かけた。戦果が上がったり新たな推進力が必要となるのは大方ちょうど夕方頃であった。……もちろん私が柔軟に動き回って指揮することが可能であったのは、常に卓越した通信将校の指揮する無線車1輌が私の車両に同行してきてくれたからである。」※39
(※訳者注:マンシュタインが第56装甲『軍団』司令官の時の話である。どの規模までこの指揮官前線/司令部後方型指揮スタイルが適切かは状況と指揮官の能力によるが、マントイフェルは上述のように一般的には師団規模までと考えた。これ以上の規模で実行し問題が発生した事例を本訳文末のチル川の戦いの備考欄に記す。)

 バルク装甲兵大将の参謀長でもあったメレンティン少将は、バルク装甲兵大将が司令所のデスクに居る間に2日か3日ごとに1回は前線を決まって訪れていた。※40
 このやり方でメレンティン参謀長は前線の状況について最新のものを自ら感じ取れた。彼はしばしば戦術的決定もしていたのでこれは必須のものであった。

 指揮官はしばしば予想される核心的要所(Schwerpunkt)に位置取りすることになるだろう。ここにおいて彼の個人的存在は士気を高めるだけでなく、決定的地点で最も才気と経験を持つ者が適所で最も重大な決定を迅速に行うことを可能とするのだ。※41
 又聞きで得るのではなく己自身で状況を理解できるのである。※42




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(※38:Simpkin, "Race to the Swift", pp.234~235)
(※39:Field-Marshal Erich von Manstein, (1958), "Lost Victories" English Translation 1982, pp.191~192)

(※40:"Balck and von Mellenthin on Tactics", p.22)
(※41:Richard E. Simpkin, (1985), "Command from the Bottom" Infantry, vol.75, No.2, pp.34~37)
(※42:Simpkin, "Race to the Swift", p.226)


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Ⅲ.チル川の戦い_The Chir River Battle


長いため別記事にします。

【試訳_チル川の戦い_1942年_委任戦術と運動戦】 リンク↓
http://warhistory-quest.blog.jp/19-Dec-16
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ここまで拙い訳を読んで頂きありがとうございました。
Auftragstaktikの歴史についての詳細研究ではなく具体的な戦例と導入が主題の論文ですので、そこにはあまり注釈はつけませんでしたが、この前半部だけでも興味深いことが多数書かれていると思います。
ご意見などあればぜひ教えてください。

後半部は
Auftragstaktikが根付いた部隊が見せた戦例となります。



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表紙がマンシュタインなのに記述ほとんどないので、補足の戦例書いておきます。

訳者補足:マンシュタインの第38軍団の進撃と指揮

 指揮官が前線にでるやり方について、せっかくなのでマンシュタインの例をかなり簡易ですが補足しておきます。本論文で焦点となっていたのは装甲部隊であり、マンシュタインが率いたのは歩兵軍団ですが、適切な指揮によって装甲部隊に比する進撃速度を見せた戦例です。戦況図はOKHが実際に記録したものを日足で載せておきます。
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 1940年、A軍集団参謀長だったマンシュタインは左遷されフランス戦役初期の『Fall Gelb』(黄の場合と呼ばれる事が多い)による英仏主力軍を大規模包囲する作戦の実行に参加しなかった。5月10日に彼は休暇をとってドライブしている時にラジオで西方攻勢が開始されたことを聞いたという。それから彼の部隊も動員を受け南方攻勢『Fall Rot』(赤の場合)に参加した。
 5月の内は移動をしてソンム川下流で包囲翼の外郭を防御する任務についた。彼は北部ベルギーでの包囲戦が終結しないうちに、そして連合軍がソンム川沿線に新たな防御を固めないうちに、渡河して陣地構築前の敵へ一部打撃を加えるべきと唱えた。しかし主張は受け入れられず、川沿いに縛り付けられ防衛することになる。確かに連合軍の守備陣地構築(実際にドイツ軍に少なくない出血を強いることになる)の前にさらに深く侵入するのは魅力的だが、総司令部にとってはドイツ軍もまた南面戦力に不安があったから準備が整うまで慎重になったのである。

 マンシュタインが率いていた第38軍団は当時は一部自動車化を含んだ歩兵軍団でありクルーゲ上級大将の第4軍に所属していた。隷下部隊は第6、第46、第27歩兵師団である。第38軍団は右に第15装甲軍団、左に第14装甲軍団が隣接していた。
 南方攻勢でのマンシュタインの突進は6月5日払暁に始まった。部隊配置は第27歩兵師団を左翼、第46師団を右翼、第6師団を後列第2梯団である。
Lage  5-June-1940 (3)
< 6月5日_ドイツ国防軍が実際に記録した戦況図_西に第XXXⅧ軍団は配置されている。 >

 マンシュタイン軍団司令官は攻撃の開始時は戦線に比較的近い森林内に設けられていた戦闘司令所で見守っていたという。奇襲的になったおかげで渡河は全正面で成功する。その後河岸斜面や各村々で連合軍は抵抗を行う。渡河成功を確認すると彼はすぐ前方に車を走らせ渡河し最前線の様子を敵砲兵の射程内であったがチェックした。その後もう一度渡河して戻り、軍団左翼の第40歩兵連隊の渡河地点を見に移動し損害を確認している。右翼の第1列にいた第46歩兵師団も渡河に成功し河岸の高地も奪取した。この日の戦果は成功的と言えた。

 彼の軍団の右に隣接する第15装甲軍団から渡河に成功したという通知が届いた。軍団の左に隣接する第14装甲軍団は攻撃前進を行い、地雷原に苦しんだ。攻撃方向はほぼ真南となった。これはマンシュタインの第38軍団と右の第15装甲師団が南南西方向が攻撃軸であったため分離することになる。

 6月5日の攻撃で対岸に広大な領域を奪取したため、マンシュタインは最初の砲兵中隊をすぐ渡河させた。この時点で司令部には明確な敵情勢が入って来ていない。マンシュタインは次のように述べている。
 「敵軍がすでに打撃を受けているのか、あるいはまた彼らの戦場の奥深いところで、引き続き頑強な抵抗を行おうとしているのか疑問であった。このような戦況の常として、この決定的な疑問を氷解し得る情報は無かった。……無分別な猪突猛進は重大な反撃を被る恐れがある。しかし他方、わずかな時間でも無為に過ごすことは敵に新たな防御線を構築する時間の余裕を与え、その後改めて重大な損害を犯してこれを席捲しなければならぬことになるのだ。」
Lage  6-June-1940
< 6月6日_右の第15装甲軍団が突出的に大規模前進成功。第38軍団も大きく前進 >

 6月6日早朝、マンシュタインはソンム川対岸で進撃していた第46歩兵師団の司令所にいた。ここで前線の将兵の状態を確認している。そして第46師団が敵と接触していないのを自ら確認すると、躊躇することなく追撃開始の指示をだした。それから更に前方へ彼は車をとばし、前進命令は無かったが前方に砲声が彼の耳に聞こえていたので、第46師団の第42連隊を配置につけ進出した。

 第42連隊は前進準備はしていてたが、高地や林への砲兵火力の効力射を待とうとしていた。その時点で敵に関する偵察報告はまだ届いていなかった。マンシュタインは「村落ばかりでなく、諸高地も各林縁でまだ敵が占領していないという印象を受けたので、連隊長に対し『前連隊を広大な正面に展開させ、なるべく疎開した隊形で即時、攻撃に前進せよ』と命令した。」
 彼はこの進撃方式なら大きな損害を被る恐れはないと考えていた。これに連隊長は疑念を抱いていたため、マンシュタインが直接前線まで急行し連隊本部を追い越すと最前線に到着した。そして彼自身が直接短時間の偵察を行い、村に入った。まわりの諸高地と林に敵影は見えなかった。追いついて来た連隊に戻って連隊長に「これから捜索は自ら処理せよ」と命じたという。

 「確かに軍団超自信が創作藩の仕事をする必要はない。しかしこのような状況下では、私は各部隊をまだ十分には知っておらず、また部隊に自裁の追撃の前提条件というものは指揮官がイニシアチブをとるということだと納得させるためには、ことさらこうした思い切ったも反が必要だと考えたのである。」

 第2梯団だった第6歩兵師団も前線へ投入され他2部隊を追いこして南南西へ進撃した。
 この日に軍団の司令所も戦線近くまで進出してきたおかげで彼はすぐ戻ることができたという。
 全体として左翼の第27師団は敵抵抗に直面し進みが遅かったが、中央の第46師団はより進み、第6師団はさらにそれより進んでいた。これは丁度右の第15装甲軍団が開けた突破口を拡大するように斜めになる形である。

Lage  7-June-1940
< 6月7日_右の第15装甲軍団が突破および大規模な後方突進に成功。第38軍団も右翼の敵間隙を利用しながら大きく前進 >

 6月7日、マンシュタインは軍団司令部に入って来た情報を精査した。軍団の各師団は激しい抵抗を受けることなく次々と前進に成功していた。これには右に隣接する第15装甲軍団の突進成功が大きく寄与している。敵配置をドイツ軍は正確には把握しておらず、第38軍団は手探りで状況を探っている。
 実際の所、フランス軍の西部域の戦線は大穴が開いていた。ドイツ第15装甲軍団は突破口を開き既に数十kmも突進している。第27師団と止めていた部隊も両側で敵に進出されてしまい、この日についに大きく後退した。即ち第38軍団の右翼には巨大なスペースが開いていたのである。この時点では戦線全体でフランス軍が明確に穴をあけてしまったのはこの箇所のみである。

Lage  8-June-1940
< 6月8日_敵間隙を確認した第38軍団の大規模な突進 >

 6月8日午前の情報も合わせて、敵軍がもはや運動戦では局所的な抵抗を行い得るだけだと彼は判断した。夕刻に70㎞離れたセーヌ川までの突進を隷下部隊に命じる。

 マンシュタインはこの時点で軍団の担当範囲を超えたより広大な思索をしており、パリ周辺についても考えていた。もし敵の強大な戦力がパリ周辺の充実した道路を利用して、その巨大な都市地域に陣地を築いていたらその制圧は大規模な損害をだすことになるだろう。総司令部がどんな計画で陥落させようとしているのかマンシュタインには預かり知らぬ所であったが、彼は自己判断でパリに作戦的効果をもたらす行動をとった。それはパリの西部でセーヌ川を彼の軍団が渡河するまで突進することでドイツ軍全体の右翼からパリ後方を視野に捉え、連合軍に後方遮断・包囲の脅威を示し大都市内で戦闘を行わずにパリから退却させてしまおうというものだった。
 そのために第38軍団隷下部隊にかなり大変な要求を課したのである。マンシュタインは第6師団を前線右翼、第46師団を左翼とし第27師団を後列に配置させ、その東部で抵抗を続ける敵の側面を攻撃するのではなく、南南西への縦深的突進を推し進めた。

Lage  9-June-1940
< 6月9日_パリ西部でセーヌ川を渡り後方へ脅威を与える第38軍団 >

 6月9日、第46師団が若干の問題に面していたが、全体として軍団は快調に進撃を続けていた。第6師団の先遣隊はこの時点でセーヌ川へ到達した。マンシュタインの歩兵軍団の速度は装甲部隊を含むドイツ軍全体の中でも特に異常だった。右で突進していた第15装甲軍団がルーアン~ポーズの北域で足止めを食らっていたため、事実上全ドイツ軍の中で最も進撃していたのはマンシュタインの第38歩兵軍団なのだ。彼はそれを「セーヌ南岸上に確固たる地歩を占めた最初の部隊になった」と表現している。

 進撃路の橋が爆破されてしまっていたことがあったのだが、マンシュタインはこれを急降下爆撃が「我々の到来の予告となって」しまっていたためと述べている。彼はもはや急降下爆撃の支援すらいらない戦況へと到ったと考えたのかもしれない。
 後に判明することだが実際の所、フランス軍の予備は悉くパリ方面へ拘束されてしまっており、南南西方向への後方突進を阻める予備は存在しなかった。またフランス軍司令部は後方へ突進したドイツ軍の情報を把握しきれていおらず、混乱に拍車ががかり反撃の決断ができなくなっており、マンシュタインが遥か後方へ置き去りにした東の部隊は有効な脅威を与えられなかった。ドイツ第4軍は突出した第15装甲軍団と第38軍団の根本・側背を守ろうと後ろの部隊を動かしていた。第1騎兵師団はマンシュタインの作戦地域にいたので彼は己のやり方で使いたかったのだが、第4軍司令部はそれを許さず、第1騎兵師団に左側背面の掩護を任務とさせていた。

 この日もマンシュタインは頻繁に各師団を回って連絡途絶した先遣隊があるなど苦労しながら直接情報を集めている。この事態に対し彼は師団指揮官に多くを任している。しかし正しい敵情報が詳細に入ってきているかというとそうではなく、あくまでこの突進はマンシュタインの状況判断によるものだった。結果的に彼の判断は正しかったのだが、この時点においては状況はまだドイツ軍総司令部にとって確定的ではなかった。
Lage  10-June-1940
< 6月10日_フランス軍パリ北部域からの大規模後退と第38軍団のセーヌ川橋頭堡確保 >

 6月10日、第38軍団は渡河を次々と続けていた。
 マンシュタインはこの時点で「左翼にはまだ大きな疑問符のパリが存在しているが、そこに詰め込まれている敵兵力については何もわからなかった。」と述べている。陸軍総司令部はセーヌ河南方に「数個の橋頭堡を獲得」すべき旨を強調していたが、これは彼にはとても良い考えには思えなかった。彼はその先の突進によりパリを西方から迂回してしまうほうが良いと考えていたのだ。橋頭堡確保だけでは連続的進展が停まってしまう。敵に「兵力を開進する時間の余裕を与えぬこと」をマンシュタインは重視しており、橋頭堡で待っているのはあらゆる意味で非合理的に思えた。
Lage  11-June-1940
< 6月11日_第38軍団の全師団セーヌ川渡河、南岸橋頭堡拡大 >

 そこで6月11日、彼は第4軍に対し、陸軍総司令部が言っていた橋頭堡保持任務ではなく、南方へ向け攻撃前進するよう意見を申し立てた。前述の騎兵師団のセーヌ河招致も要請し、これ更なる急速突進の先鋒にしたがった。しかしマンシュタインの意見は却下された。軍司令部は今後の進撃に関する訓令を待たねばならぬと彼に伝えたのである。繰り返しになるが、正確な敵状況は誰も知らなかったためである。
 南岸には隷下の3個師団が渡り切り充分な幅の橋頭堡ができており、対する連合軍はまだ防御を固められていなかったのだが、マンシュタインには悔しい日となってしまった。

 彼の提案の方が正しかったことが判明するのに長くはかからなかった。11日夜に撃墜された飛行機の中から命令書が発見され、フランス軍が大規模退却を発令していることが判明したのだ。相手が下がるなら追撃を続行することが最も効果的なことだった。
Lage  12-June-1940
< 6月12日_第38軍団のセーヌ川南岸橋頭堡拡大 >

 6月12日早朝、第46師団からの報告で連合軍が反撃してきたのを知った。師団はそれを撃退したが再度フランス軍は攻撃準備を整えており、ドイツ軍偵察は敵戦車110輌と誤認するほど脅威を感じていた。マンシュタインは全師団をあげて先手を打って攻勢にでようとしたが、そこに第4軍司令官が現れて、クルーゲは個人的には同意したが、やはり陸軍総司令部からまだ新しい作戦目標の提示がないからもう少し待つようにと言われてしまった。攻撃は限定的なものとなり、前進境界ラインはエヴルー=パシー線までと厳命されてしまった。
 その日の攻撃は第46師団が砲兵展開が間に合っておらず少し遅れたが敵を撃退に成功し、左翼の第27師団は順調に進軍した。
Lage  13-June-1940 (2)
< 6月13日_第38軍団の追撃再開とフランス軍戦線の全面崩壊 >

 6月13日、第38軍団は追撃戦を再開できた。やはり連合軍に押し返す力はもう残っていなかった。既に東から西に到るまであちこちで戦線は突破され、全面的な崩壊の様相を見せていた。パリ防衛も放棄され南方へフランス軍はひたすら退却を始めるしかなかった。

Lage  14-June-1940
< 6月14日_第38軍団さらに前進_連合軍は全戦線で南へ総退却 >

 6月14日、マンシュタインは陸軍総司令部ブラウヒッチュ上級大将の訪問を受けた。ここまでの成果と状況を報告したが、陸軍総司令部は以後の企図について何も言わなかった。
 フランス軍は下がり続けており、この日の戦闘は激しいものにはならなかった。ドイツ軍はパリを通過している。

Lage  15-June-1940
< 6月15日_第38軍団の追撃 >

 6月15日、クルーゲ上級大将が第4軍の目標としてル・マンが与えられたと伝えた。となると隣接部隊を待つことも無く追撃を続行するべきであり、マンシュタインにとって何ら新しい教示ではなかった。
 フランス軍はパリの東で広大な規模の突破をされており、マジノ線は全域包囲の危機に陥っていた。

Lage  16-June-1940 (2)
< 6月16日_第38軍団の追撃_フランス軍最後の抵抗 >

 6月16日、フェルテヴィダーム=セノンシュ=シャトーヌフ線で連合軍の組織的な抵抗に第38軍団はあった。これはダンケルクから脱出して戻って来た第1、第2、第3機械化師団の一部だったという。加えて北アフリカ植民地騎兵の2個旅団とモロッコ1個師団が現れたため戦闘となったが、それも夜には撃破された。この際にもマンシュタインは隷下師団を車で駆け巡っている。
 この日前進方向をアンジェとするという命令を受領した。彼は周辺の軍団と共にロアール下流までいたればもうこの戦役は終わると感じたという。

 6月17日も滞りなく進み、6月18日に相当命令で追撃が要請されたが、何も彼にとって新しい内容ではなかった。18日に強行軍をしたのだが、この際に1つの連隊は1日で78㎞を踏破した。彼の部隊が歩兵軍団だということをもう一度思い出す必要がある。自動車化先遣隊はル・マン西方まで到達したという。
 6月19日にマンシュタインは自動車を50㎞走らせル・マンを越えた先遣隊のもとへ行っている。マイエンヌ川前面でフランス軍の抵抗にあい先遣隊が停まっているのを彼は直接確認した。橋を正面から奪おうとして幾名の兵士が戦死していた。河岸の第1線まで出て直接敵を見て、その防御が橋の周りだけのごく少数でされていると把握すると中隊長を呼び出し、少しくだれば川を泳いで渡れるし、そうすれば橋は奪えるだろうと説得した。「彼が望むなら私もついて行くつもりだった。」と言っているのは水泳好きのマンシュタインのジョークなのか本気なのかわからない。中隊の兵士たちが裸になって何の問題もなく川を渡りそれから橋を奪取した。マンシュタインはそれを確認すると司令部に戻っていった。

 もはやフランス軍の抵抗力は消滅へと到りつつあった。その後も第38軍団はフランスの街並みを見ながら進み続け、ついに23日にフランス政府の休戦条約締結を知り、その進撃が終わった。

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 参考文献: 
フォン・マンシュタイン, (1955), "マンシュタイン回想録「失われた勝利」(上巻)" ,本郷健(訳),(1999)
マンゴウ・メルヴィン, (2010), "ヒトラーの元帥 マンシュタイン(上)", 大木毅(訳),(2016)
Benoit Lemay, (2011), "Erich Von Manstein: Hitler's Master Strategist"
Marcel Stein, (2007), "Field Marshal Von Manstein: The Janushead - A Portrait"
陸軍総司令部公式戦況図

Auftragstaktikの例、1930年代にドイツ将校が米軍学校で説明

 以下はDepuy大将たち米国の上級将官がメレンティン及びバルク両将軍を招き、NATO図上演習を190年に行った際に行われた会話である。

 デピュイ大将「ある1つの例を米陸軍は1930年代に軍学校を訪れたドイツ将校によって教えられました。それは次のようなものです。
 師団司令官が騎兵指揮官に、とある川にかかっているある橋を確保せよと命令した。理由は師団は川を渡河しようと予定しているためだ。騎兵指揮官が橋に着いたとき、そこには敵の戦車連隊がいた。
[質問] 何を騎兵指揮官はするのか? 
[Auftragstaktikでの回答] 無線によって師団指揮官に報告し、他の橋や浅瀬それにボートを探す。言い換えるなら、もし1つ上位の指揮官がそこに居て同じ状況を知ったなら、何を彼はするであろうか(を自分で考えて答えを出すこと)だ。これはAuftragstaktikの良い説明でしょうか?」
 フォン・メレンティン「その通りです。」

参考文献
William Depuy大将, (1981),『Genrals Balckand Von Mellenthin on Tactics : Implications for NATO Military Doctrine』,p.17