冷戦期、西ドイツをワルシャワ条約機構から防衛するためNATO軍が配備されていましたが、その中でもよく議論されたフルダ・ギャップと呼ばれる場所があります。そこはドイツ中央部に位置し、東ドイツの領土が最も突出した箇所に面している所です。北ドイツ平野に比べ中央~南部は山が多く侵攻には手間がかかります。ただここは天然の障害物となれる大きな河川のフルダ川と山系が国境沿いにあるのですが、そこを越えると大きな障害が無く一挙にフランクフルト周辺の広大な平野と人口・産業地帯そして米軍の重要後方拠点まで進出できてしまうため注目されました。
標高_ドイツ中央部東西ドイツ地図_高速道路

 1980年米軍の高級将校たちがある会議にWW2のドイツ国防軍でその名を馳せたヘルマン・バルクとフォン・メレンティン両将軍を招きました。その目的はフルダ周辺に配備されている米陸軍第5軍団の兵棋演習でした。
 米軍側はデピュイ大将、オーティス中将、ゴーマン中将を筆頭に、軍団区域の南を担当する歩兵師団の戦術プランを説明しドイツの両将軍の質疑に答えました。一方でドイツの両将軍はその場で戦場や戦力の説明を受け、それから軍団区域の北の第3機甲師団の戦術プランを彼らが考え話すことになります。この両者のコンセプトや経験は米軍関係者にとって参考になるものでした。
 兵シミュレーションなどを作成しているBDM社の協力の下、彼らは4日間の戦術的な分析議論を行い、後に会議内容をまとめたレポートをデピュイ大将が作成しました。

 William E. Depuy, (1980), "Generals Balck and Von Mellenthin on Tactics: Implications for NATO Military Doctrine"

 今回はこのレポート内容について記そうと思います。一部翻訳している箇所もありますが、基本的にデピュイ大将の書いている文の要点を内容を把握できる程度にメモ書きしたものとなります。
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 先に自分ならどうするか考えてみて頂けると、後々の思索が深まると思います。ですのでまず始めに戦域およびソ連軍の戦力と初期配置のみにした図を貼っておきます。地形は上図を参照ください。AlsfeldからBad Hersfeld中心までは直線距離33.5㎞です。
 米軍は第5軍団所属の第3機甲師団が北に、第8機械化歩兵師団が南に配置されます。戦力詳細は次のようになりますので、よければこれをまずどこに初期配置するか考えてみてください。
第3機甲師団の域内戦力
  機甲=6個大隊
  歩兵=5個大隊(全て機械化)
  砲兵=8個大隊(全て自走砲化)
  騎兵=3個大隊(機甲偵察車両)

第8機械化歩兵師団の域内戦力
 機甲=5個大隊
 歩兵=6個大隊(全て機械化)
 砲兵=9個大隊(全て自走砲化)
 騎兵=2個大隊(機甲偵察車両)

 ※師団サイズは米軍第3機甲師団は約15000人、ソ連の戦車師団は1個あたり12000人前後としてください。
 ※1960年代のIvashutin将軍の文書によるとソ連の作戦は核兵器使用の有無に関わらず実行可能とされた。
NATO演習_00
バルクとメレンティンによる1942年チル川の戦いとAuftragstaktikは別記事参照。
http://warhistory-quest.blog.jp/19-Dec-15

ワルシャワ条約機構の冷戦期の核攻撃とドイツ北端での進撃図、南方面のオーストリア&イタリアとトルコへの侵攻計画図は下記参照
http://warhistory-quest.blog.jp/19-Mar-20
___以下、本文_______________________

図上演習の主要参加者

ヘルマン・バルク
(ドイツ国防軍装甲兵大将、退役、第11装甲師団司令官としてチル川の戦いを指揮、グロスドイッチュラント師団司令官としてジトミールの反撃に参加、第4装甲軍司令官、G軍集団司令官)
1943_Hermann_Balck

フォン・メレンティン
(ドイツ国防軍少将、退役、第9装甲師団司令官、第48装甲軍団参謀長、第5軍参謀長)ロンメル将軍のアフリカ装甲軍の情報参謀でもあった。
Friedrich_von_Mellenthin

ウィリアム・E・デピュイ
(米陸軍大将、退役、FM100-5 Operations主要作成者、第1歩兵師団司令官、米陸軍訓練&ドクトリン司令部司令官、陸軍参謀長補佐)本演習レポートの作成者。AirLand Battle関連でよく言及される人物。
William_E_DuPuy

グレン・K・オーティス
(中将、現役、米陸軍作戦&計画課副参謀長1979~81年、元第1機甲師団司令官、米軍指揮幕僚大学の米陸軍諸兵科連合戦闘開発活動の長官1978~79年)この演習の後にアメリカ欧州陸軍の総司令官1983~88年となる。
Glenn_Otis

ポール・F・ゴーマン
(中将、現役、統合参謀本部のJ5計画&政策、編制課長官、元第8機械化歩兵師団司令官、FM100-5 Operations作成者の1人)この演習の後にアメリカ南方軍の総司令官1983~85年。
GEN_Gorman,_Paul_Francis

ジェームズ・ダニガン(ウォーゲーム製作会社Simulations Publication社長)

ダン・マクドナルド(博士、軍事技術サービスを主とするBDM社創業者、開発主任)

フォン・ウスラーグレイデン(ドイツ陸軍大佐) この会議の補佐
 
その他各員がおり政府及び調査機関から計約30人が参加。

会議進行

 演習会議は1980年5月19日~22日にかけて4日間続けられた。最初の3日間が一連の図上演習の議論を行った。その後半にかつてWW2で名をはせた2名のドイツ国防軍将軍(バルクとメレンティン)に参加してもらい、直接コメントを受け、更に彼らのやり方を聞いた。最後の1日ではこれまでの検討を得た上での各活動の振り返りと総まとめを行った。
 本レポートは地形や兵器の分析では無く、バルクとメレンティンによる現在のNATO防衛戦の問題に関する洞察およびWW2での経験について書かれている。

 鍵となる要素は(この領域での)ソ連軍攻勢およびNATO軍防御戦術の詳細な複雑性を理解すること。
 演習ではBDM社がデザインしたシミュレーション戦況図を使用。
 前提としてNATO側は防衛戦を行うとし、戦術的範囲に演習の所掌は留める。
 戦場はNATO防衛国のAFCENT(連合軍中央欧州)エリアの第5軍団を想定とする。

 会議中にバルクとメレンティンは米軍司令部の役割をどうするかについて尋ねられ、どう第5軍団の各部隊を動かすべきか防衛コンセプトを問われることとなる。この旧ドイツ国防軍の歴戦の将たちのコンセプトは米軍が想定しているコンセプトと比較され、議論が進められる。米軍側はオーティスとゴーマン将軍が主に説明にあたる。これにより各懸念事項の発見と発想の創造を行う。

 会議では多様な話が上がった。結果として議論を写したオリジナル文書は155ページのものが作られた。この会議であった主要テーマと重要なコメントをデピュイ大将が自らまとめて、演習の報告書を製作した。
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 特に興味深かったのが次の事項である。
・バルクとメレンティン両将軍は、演習に臨む上で自身の役割をバルクが司令官メレンティンが参謀長という風に(自然と)割り振っており、バルクは司令官として参謀長を非常に信頼する姿勢を見せたこと
・ロシア軍の特性とスタイル
・ドイツ軍の特性とスタイル。Auftragstaktikのコンセプト含む。
・防衛ドクトリンと戦術(バルク&メレンティン&オーティス、バルク&メレンティン&ゴーマン)
・戦術とテクニック
・戦闘部隊の編制
・バルクとメレンティン両将軍によるその他事項についての鋭いコメント
 -遅滞の際の司令部の位置
 -戦術的空軍のインパクト
 -バルクはWW1の浸透戦術になじみがなかったこと。
 -ソ連のゲリラ作戦によるインパクト
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バルクとメレンティンについて米軍高官が感じた印象

 この二人のドイツ国防軍の将について書かれた本は複数でているが、米軍の関係者たちが実際にこの演習で直接話して感じ取ったことは次のようなものである。
 前線部隊指揮官としての凄まじいまでの戦歴を両人は歩んできた。(経歴は有名なため略す。)
 デピュイ大将はこの両名の戦った記録をよく知っており、現代戦でもその経験と意見は価値のあるものと考えている。加えてこの二人の将校の個性と関係性も着目に値するとしている。

 バルクは口数の少ない男であり、時に不愛想であった。故に無駄口はなく簡潔に話しをし、されど常に思慮深い人物と感じた。彼はかつて戦場で鉄の男であり、そして今なおそうだ。強力なオーラ(雰囲気)を出しており、自己に対する自信に満ちていた。
 バルクはロシア兵よりもドイツ兵が優越しているということについて疑いを持っていなかったが、ロシア軍の後述する個性と戦力をうらやましくも思っていたようだ。

 メレンティンはバルクより外面は社交的な人物だった。しかし彼の経歴とバルクの敬意が語るように彼もまたその芯は鉄の男であった。彼には思慮があり、快活で、はっきりと明瞭に喋った。メレンティンこそがドイツの参謀システムの成果である。彼は徹底的なまでのプロフェッショナルであった。メレンティンは議論の中で忠実で親身のアドバイザーとしての役割を演じたのだ。それはまさにかつてバルク将軍に参謀長として仕えた形と同じであった。彼の見せた活動は司令官と参謀長の関係を表す上で1万語で書き残すに値するほど貴重なものである(とデピュイ大将は非常に注目している)。バルクもまたメレンティンを自身の副司令官として見なし、隷下指揮官に何かあった時のピンチヒッターとしても彼を使っていた。この司令官と参謀長の関係についてメレンティン自身の証言が記録されている。

 フォン・メレンティン将軍曰く「戦車軍団や軍、その他部隊の司令官と一緒に居る参謀長のポジションというものは必ず素晴らしき結婚生活(good marriage)でなければなりません。共に生き、共に考えるのです。バルク将軍と私はとても密接な関係でした。彼が前線へ行った時、私は後方に留まり全ての物事をコントロール下におき、彼は戦場の焦点に居ました。あるいは逆に私が2日か3日ごとに前線に行ったその際は、バルク将軍が軍団や軍司令部のデスクに座ってたのです。あなた方が米軍の中で参謀長をドイツ軍と同じような強力なポジションにしているのかはかどうか私は知りません。ですがご存じのように彼がどこかへ行ってしまったときに私は完全に自由な決定をする裁量権を得たものでした。参謀長の立場が強いことは非常に重要なのです。」

 師団、軍団、軍集団のレベルでロシア、イタリアのサレルノ、北アフリカ、ブダペスト、フランスのロレーヌ(ここではパットンを相手にした)を何年にも渡り戦い続けた複合的な経験は真実なる意見をもたらした。さらに彼らは兵数及び武装兵器数で優越するロシア軍と対決した経験を持ち、それは将来米軍将校たちが直面する事態と類似しているものだ。

ソ連軍の特性とスタイル_バルクとメレンティンの感想

 記事の末尾に移す。
 バルクとメレンティン両将軍の実戦経験で感じたソ連軍の特性とスタイルが述べられている。ソ連兵は素晴らしい戦いぶりを見せたと思ったら突如次の日に活発力が無くなっているなど、とにかく一概にいえない多様さがあったことを率直に述べている。計画にない状況に直面するとソ連部隊は反応が鈍く時に停止する場合があったことが書かれている。フォーメーションをかなり幾何学的に保とうとするソ連の傾向の話もある。
pp.11~16

ドイツ軍の特性とスタイル

 略す。
 敵を恐れておらず、柔軟性と個々の判断力、移動性があったことが述べられている。特に強調されているのが隷下部隊指揮官たちがイニシアチブを発揮したことである。いわゆるAuftragstaktikの習慣が重要な要素であったことが強調される。隷下指揮官が上位司令官の作戦コンセプトと何を得たいと思っているかを知ることがそのタイムリーな柔軟性を生む基盤となる。そして隷下指揮官や参謀と司令官は強固な相互信頼関係を持っており、能力を互いに把握し何を任せられるのか理解していることが必要となる。これはデピュイにとってかなり印象に残っているようだ。ただ上からの言うことを聞くだけの兵員ではソ連に対抗するドクトリンには不適格である。

防御ドクトリンと戦術

 1980年までの6、7年にかけてNATO陸軍による西欧防衛の適切な戦術に関する議論が活発化した。
 米陸軍はベトナムでの長い戦争から様式を変更しつつあり、軽装で散発的な敵を相手にするのから重装備で数的優勢を持つワルシャワ条約機構軍を相手にするために『active defense』を提唱している。この防御コンセプトは多様な戦術を内包し、インテリジェンスでの優勢高い移動能力急速な集結、突破攻撃に直面した際の弾性力、そして注意深く実行される逆襲を見込んでいる。

 敵を摩耗させることにあまりに頼り過ぎているような防御コンセプトは、現代軍の機動性をフル活用できず、もしかすると最も重要なことに、ソ連軍のメンタリティとコントロール手順における柔軟性が(西側諸国より)劣っているということに付け込めないだろう、と批評する人々がある程度いる。
 他にも、ドイツ軍がかつてロシアの地で成功裏に使用した戦術をNATOに適用させよとシンプルに推奨する人々もいる。この理由により上述の人々は皆、バルクとメレンティン両将軍と会うことに興味を抱いている。
 
 ただし、1980年のNATOの状況は1942年と1943年にロシアで戦闘をしたドイツ軍の環境とは2つ大きな違いがある。
 まず1つ目はスペースだ。ドイツ陸軍はマニューバを行う空間を持っていた。例えばフォン・マンシュタインが(第3次)ハリコフで見せた作戦的逆襲で使われた距離は、フランクフルトからハノーファーまでに匹敵する。(=約350㎞。攻撃前進距離を換算している?引き込み距離を足すとマンシュタインのカウンターはもっと長大)ソ連軍がスターリングラードの後にその(全戦線からみて)左翼を一掃したが、その距離は現在の東ドイツ国境からオランダ&ベルギーまでの距離よりも長いのである。
 2つ目の大きな違いは防御する軍隊の編制内容である。米軍あるいは(西)ドイツ軍の1個機甲師団は約300輌の主力戦闘戦車を有する。バルク将軍が現役の頃のWW2での第11装甲師団は戦車わずか約25輌(に減衰しながら戦った)だったことすらあったのだ。
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 この背景に対して4つのセッションを通して、特に5月20日火曜日に防御戦術に関する議論が開かれた。その日の朝、米陸軍第3機甲師団の地区に関してバルクとメレンティン両将軍は彼らの防御コンセプトについて視覚的かつ口述的な説明をしてくれた。彼らはその戦闘経験に基づき、状況を判定した。主なオブザーバーとして参加したのは、米陸軍の作戦&計画課副参謀長のグレン・オーティス将軍だった。2年前にオーティス将軍は第7軍団所属第1装甲師団を指揮しており、更にその少し前まで第3装甲師団所属の旅団司令官であった。ドイツの両将軍と彼の相互作用はWW2東部戦線で彼らが開発した戦術とテクニックの今日の中央戦線でNATOが直面している状況への適用性の問題に焦点を合わせた。

演習のプロセス

 米陸軍の1個軍団によって護られるエリアを描いた1:50000の戦況図をBDM社が用意。
 境界や障害物などは地図上に直接マークされている。
 部隊は大隊規模のフォーメーションで、全てのマニューバ及び火力支援部隊が表示されている。
 米軍は第5軍団の戦力が、ソ連軍は第1親衛戦車軍の戦力が配備される。
 部隊のマーカーは1:285の縮尺で機甲(黄色)、機械化歩兵(青色)、自走砲車両(赤色)が置かれる。
 各種兵器システムの能力をすぐに参照できるように射程を表示する扇が用意された。

 各部隊を初期配置にして、どのように行動が進められるのかの議論が開始される。
 戦場は3つのフェイズで調査された。
 第1フェイズ=カバーリングする部隊(の選定と場所)
 第2フェイズ=主戦闘となるエリア(の選定と部隊)
 第3フェイズ=最初の主要な戦術的逆襲(の場所と部隊)
 各段階において、ドクトリンとしての要素、地形、戦力の関係が起こりうる戦闘結果として考察された。コンセプトが説明され、そして期待される戦果が予想され、主要考慮事項が対処された。
 この演習の議論結果内容の書き写しと写真が作成された。

主要条件

 バルクとメレンティンの両将軍は第3機甲師団の編制、その担当区域、その任務について最初に短く説明を受けた。

【戦力】

 まず自軍戦力の説明を受けた際にドイツの両将軍は楽し気に驚いていた。
 米陸軍第5軍団(第3機甲師団、第8機械化歩兵師団)の有する戦力は、11個のマニューバ大隊(6個機甲、5個機械化歩兵 ※歩兵は全て機械化)と1個機甲偵察騎兵大隊、4個の師団砲兵大隊、4個の軍団付砲兵大隊(※砲兵は全てが155㎜かそれ以上で、且つ自走砲化)、加えて攻撃ヘリの2個中隊を有していた。主力戦闘戦車が325輌配備されていると聞いたときに両ドイツ将軍は仰天した。(WW2では装甲師団内に稼働可能戦車をわずか20数輌しかもっていない状態で戦ったことすらある2人からしたら嬉し過ぎただろう)

 ※機甲騎兵はsquardronが大隊規模を意味しNATO兵科記号も大隊シンボルを使う。第3機甲師団には第12騎兵連隊所属の第3スコードロンが配属されていたので1個大隊であっている。
 本文には書かれていないが、第5軍団には第11偵察騎兵連隊が配属されておりこれも投入する。
第5軍団の戦力_1977
< 1977年版の"Relationships Between U.S. and NATO Military Command Structures"の添付資料より  >

 軍団保有戦力を前線に配備したとし、今回の演習図上には以下の戦力で考える。
【第3機甲師団の域内戦力】
  機甲=6個大隊
  歩兵=5個大隊(全て機械化)
  砲兵=8個大隊(全て自走砲化)
  騎兵=3個大隊(機甲偵察車両)

【第8機械化歩兵師団の域内戦力】
  機甲=5個大隊
  歩兵=6個大隊
(全て機械化)
  砲兵=9個大隊
(全て自走砲化)
  騎兵=2個大隊
(機甲偵察車両)

 ソ連側の戦車師団は複数ありそれぞれ異なるが、一般的にこの時期は下記のような編制が多かった。
1970s_ソ連の戦車師団のサイズ
※各数値を足すと8339
< 1991年版 FM100-2-3 The Soviet Army : Troops, Organization, and Equipment より>

【戦区】

 北の第3機甲師団の担当区域はおおよそヒューンヘルト(Hunfeld)~ラウターバッハ(Lauterbach)~バートヘルスフェルト(Bad Hersfeld)である。この区域の左にはカッセル‐フランクフルト高速道路が南西方向に走っている。フルダ(Fulda)は南境界のちょうど外側にある。

【任務】

 師団の任務は前進防御(defend forward)。(※この演習時はライン‐アイセル川防衛線までの遅滞ではない。)
 米国のポリシーは、まず頑強なカバーリング(掩護)部隊で戦いの進展を遅くし且つ敵の主脅威を特定する、それから可能な限り前目で主戦を闘う、従ってソ連軍部隊を西ドイツの政治的および産業的ハートランドへ近づけさせないようにベストを尽くすことである、とバルクとメレンティンに説明がなされた。
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ドイツの両将軍の案_第3機甲師団

 各種の条件が説明され、バルク装甲兵大将とメレンティン少将はこの第3機甲師団に関する挑戦を受諾してくれた。戦況図の上でプライベートに2人で協議を始めた。
 その際に1点、メレンティン将軍はアメリカの参加者たちに告知したことがある。彼らはその協議に長く時間をかけないだろうということだ。かつてロシアの地で戦っていた時、このような状況説明が為され後に司令官が決断を下すための考慮時間は普通は5分ほどだったと述べたのである。(この決断速度は米軍将校達には非常に衝撃的だった)
 極めて短い時間で、ドイツの将は自軍部隊を並べそれから彼らのコンセプトを説明してくれた。デピュイの心内には、彼らが説明している途中で口を挟みたいというほとんど抗いがたい誘惑があったのだが、実際の所彼らの説明は短く明瞭で、そしてシンプルだった。
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・3個偵察騎兵大隊は国境そばから主戦闘陣地までのカバーリング(掩護)の役目を遂行する。
・師団区域の南3/4の範囲を2個旅団(2個機甲&1個機械化歩兵大隊が中央、1個機甲&2個機械化歩兵で南境界付近)で守る。この2個旅団を砲兵隊、戦術的航空機、攻撃ヘリによって徹底的に支援する。彼らの任務は「hold」である。
・最左翼の区域はあけておく。その狙いは、意図的にソ連軍を誘導してアルスフェルト(Alsfelt)及びギーセン(Giessen)に向けて1個師団に高速道路を進ませるというものだ。

 つまり北の良好な道路があり敵が進みやすい範囲をほぼ完全に空けることで、戦力を徹底的に南3/4に集中し、なおかつ敵の進軍ルートとその進み具合を自分の手で主導的に決めるのである。これは後述の逆襲プランをスムーズにするために大いに役立つ。
 これらの初期防御配置を図1に示す。
NATO演習_01
※南の第8歩兵師団は米軍の将軍の案。
 バルク/メレンティン案の方は、国境沿いには偵察部隊のみで、国境線後方に10㎞~20㎞離して主力部隊を並べている。逆にアメリカ案は主力部隊の一部を国境近くに進ませている(理由は後述)。

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先導のソ連戦車師団は見かけ上は成功するため、ソ連軍に2つ目の師団を同軸で突破の増援のために送り出すという状況を引き出すであろうと彼らは予想した。
・予想されるソ連軍の突進は図2と図3に示される。
NATO演習_02
 バルクとメレンティンの初期案。ソ連軍は中央と南へ1個戦車師団を充て、翼側の道路で2個師団を縦に並べ突き進ませてくると予想。
NATO演習_03
 ソ連軍先導の第6親衛戦車師団はほとんど抵抗にあわないため、恐らく彼らの想定計画よりも圧倒的に速く先頭が進むことになり師団全体が間延びする。また、一瞬ではあるが後続の第7親衛戦車師団との距離もソ連側の想定より開くと思われる。
 バルク&メレンティンは自走砲化した砲兵隊をかなり柔軟に移動させている。これは第8機械化歩兵師団についてのゴーマン中将のコンセプトとの違いの1つ。
 ※2個大隊抽出しAlsfeld近辺のアウトバーン上で立ちはだかる部隊にしている。これは図2の初期案から変更。後述

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・5個大隊(3個機甲、2個機械化歩兵)によって構成される強力な部隊をラウターバッハのすぐ北に配置しておき、アウトバーンを突き進んでくるソ連軍部隊の側面を攻撃しこれを撃滅する逆襲を計画する。

・ソ連軍先頭が後方へ通り過ぎアルスフェルトの後ろまで行ったら、逆襲を発起する。逆襲はソ連軍先導師団の後方であり且つ後続師団の先頭に対して実施される。
 (ソ連軍右翼の最先頭とは戦わず奥地へ引き込み、直接的戦闘という意味では遊兵化させたまま後方を断ち孤立させる。)

・ドイツの両将軍が注意喚起したのは彼らの計画には第5軍団司令官側には極めて強い神経が要求されるということだ。メレンティン将軍はこの種の作戦は師団司令官単独では引き受けきれないという関連点も指摘した。むしろ軍団司令官のコンセプト内で実施しなければならない。
NATO演習_04
(残念ながらソ連後続部隊への阻止砲撃、爆撃の計画詳細は載っていない。)
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 オーティス将軍と他のアメリカ人参加者による最初の一連の質問は、ソ連の先導1個戦車師団を自軍後方地帯へと放ち、縦深にフランクフルト北部の人口密集地域へと行かせるという策の適否についてであった。これに対して両ドイツ将軍は敵がより遠く行くほど撃破するチャンスが大きくなると最初は答えた。
 けれどもさらに議論を続けた後で両将軍は、現実的には何らかの部隊を高速道路上に配備してソ連軍の突進を制限し遅くする必要があると考えるようになった。
 これを達するために、2個大隊(1個機甲、1個機械化歩兵)を中央と右翼(南翼)の拘束旅団から下げ、この2個大隊をアルスフェルト近郊の高速道路にまたがって配置することにした。これは図3に示されている。れは予め抽出して後ろに置いておくという意味か)

 米軍にとってためになったのが、彼らが米軍の後列に置く足止め部隊を、逆襲部隊から抽出して逆襲の打撃力を弱めてしまうようなことはせず、代わりに『戦力の節約エリアにおいて大きなリスクを受け入れたということだ。

 この修正ステップが悔しさと共に行われたことは明らかだった。わざとソ連軍を続進させ、かつてロシアの地で頻繁にそしてかなり巧くやったように対処するやり方を彼らは明らかに好んでいた。だがその好む手法を最後には否定した。このジレンマに直面した彼らの不満は今日のNATO司令官の不満を鏡のように映しているものでもある。しかし後にバルク将軍はこの戦術問題の政治的および人道的側面に関して明確な意見を表明した。「戦争が終わりに向かうほど、我々は機動性の面で大きく阻害されるようになっていきました。なぜならソ連兵をドイツ人定住地域に入れることは許されなかったからです。」
ドイツ軍はWW2末期においてドイツ中央部へ近づくほど道路網の状態が改善されるというポジティブな面もあったが、戦術的機動力を減衰させていった。その理由として政権上層部からの命令と燃料不足がよく挙げられる。それに加えて(自己にとって)政治的及び感情的な要素が機動の戦術的合理性を覆し実行困難にしたという証言が本報告書には残されている。
 本文の書き方は明らかに、デピュイ大将含め米軍高級将校達がバルク&メレンティンの最初やろうとした計画を戦術的には肯定したことを示唆している。その戦術を否定しそれを両将軍に認めさせたのは軍事的合理性ではなく政治的人道的要素であった。つまり米陸軍及びNATO軍上層部は軍にとって最も合理的な戦術を、ドイツ人口地帯を犠牲にして広範囲を戦場化することだと認識していたということになる。だからこそNATO軍司令官の『不満』『ジレンマ』という単語が使われている。)


 オーティス将軍はかつてこの地域に住んでいたことがあったため、別の質問をした。(中央と南の)20㎞の土地を保持し、あるいはカバーする力が弱体化した2個の旅団にあるかということだ。これに対してバルク将軍はこの区域の砲兵隊の活躍に重く依存することになるだろうと述べた。
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 ドイツの両将軍のプランの大胆さは、もし他の関係者によって提案された場合、無責任とみなされるかもしれない。しかし戦を切り開こうとする彼らの意欲は、非常に大きな実績に根差しており無視することはできない。ソ連側では無く彼ら自身の手によって戦場を形成し主導権を保持するという条件下でこそ、巨大なる見返りを得られる可能性があるのだとおそらく両将軍は身をもって学んでいたのだろう。
 更に各議論を通じて、ソ連軍の部隊の効力が最も小さくなるのは、予想外の方向から攻撃された場合だと明らかになった。予想外の方角から攻撃を受けるとソ連軍は適応が遅く、しばしば麻痺した。

 この全てに暗黙的に含まれるのは、純粋に防御的な戦いだけでは壊滅的な敗北につながるという想定である。「ドイツの将の案」は充分な思索を提供してくれたであろう。次に「米国の案」を確認した後で防御の理論と実践に戻る。

米国の案_第8機械化歩兵師団

 ゴーマン中将は地図を広げ、第5軍団担当区域の南部に第8機械化歩兵師団を展開しそれから彼の案をバルクとメレンティン両将軍へ説明し始めた。コンセプトの要旨は次のものになる。

・この軍団地区南部の地形はホーエ・レーン(Hohe Rhön)の森林と山が多くあることが特徴である。この地区の北域にはやや平でただし起伏がある地形がフルダへ続いている。
・区の南域でソ連軍が前進してくる場合、深い渓谷を切り開いてくることになる。しかし北域はマニューバを行う空間がある。
・ゴーマン中将はおそらく彼の区域は完全に無視されソ連の主攻は北の第3機甲師団の区域に集中されるだろうとし、あるいは南部に攻撃してくるのであればそれはフルダ周辺になるだろうとした。
NATO演習_05
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・彼のコンセプトは右翼(南翼)を保持し敵を中央及び左翼にあたるフレダ正面の戦線へ攻撃を誘い込み、そこのポケットに対し逆襲を南から発起して撃滅するというものだ。
カバーリング部隊は遅滞するように戦闘を遂行し、また敵の攻撃をフレダのポケットへと導くこととする。
・1個旅団(3個機械化歩兵大隊)がフレダの東縁で事前に陣地を準備した計画的防御を実施し敵の前進を阻止する。
・ホーエ・レーンの起伏の多い地形の地域にある中央と右翼のそれぞれの旅団(1個機甲、1個機械化歩兵、2個砲兵)は『active defense』を実施する。少量の領土を敵に与えつつも、この『戦力の節約エリアにおいて彼らは敵の重要な前進移動を防ぐことを期待される。
・フレダの南には1個の大規模な旅団(3個機甲、1個機械化歩兵)が『mobile reserve』として配備される。敵のフレダ東縁への突進部隊がフレダ防御部隊によって前進移動が阻止されるたら可能な限り早く、この部隊が敵の南側面へ逆襲を仕掛ける。(図6)
NATO演習_06
 < 左翼は拠点陣地防御で敵を拘束、中央と右翼は最初は前目の位置で下がりながら遅滞と誘引を実施 >
NATO演習_07
 < 敵中央と左翼を誘引することで右翼との間に間隙を作り上げ、中央から逆襲を敵右翼の内側側面へ実施。逆襲部隊の外翼は偵察騎兵が警戒 >

・もしこの逆襲がかなりの成功を収めたら、あるいは敵がフレダのポケットに部隊を進めてこなかったら、(つまり軍団区域の南で敵の脅威が薄かったら)この逆襲用部隊は北区域の後方にあるアルスフェルト付近へ投入され、第3機甲師団の反撃が失敗していたら彼らを救援する。(図7および図8)
NATO演習_08
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 バルクとメレンティン両将軍はこのゴーマン将軍のプランを褒めた。どうやってソ連軍と戦うかのコンセプトは彼らのものと一致していた。「内実は兄弟だ」とバルクは言った。それからゴーマン将軍の案について議論が始まった。特に下記が注目された。

 バルク「たとえ小規模であろうとも各旅団ごとに撃滅あるいは撃滅準備をするための前進ラインを指示しておく必要があるでしょう。……地雷を施設するべきです。1000個が本物の地雷で、ダミーは5000個くらいになるでしょう。ダミー地雷は本物の地雷とほとんど同じくらい効果をもたらせますし、ときにはさらに効果的ですらあるでしょう。……また、これらの地雷の設置作業には誰でも使用できるという利点があります。女性もできます。」

 ドイツの両将軍はもう1個大隊を予備として保持しておくのを考えてはどうかと提案した。これにより軍団司令官の役割の議論を導いた。

 メレンティン「……軍団司令官は各師団予備を1つの逆襲攻撃に集中投入するべきです。そして1つの敵を(集中して)撃滅し、それから次の1つへと移ります。」

 フレダの前で行われる計画的防御について言及もされた。

 バルク「興味がある質問が1つ。どうやってソ連軍はその突破を妨害する(NATO軍)工兵の各種技巧と障害物に対応するでしょうか?いかがでしょう。私の見解では、おそらく彼らは全ての技術(的な車両や機器)をおいてそのまま歩兵が(機械と共に止まることはせずに)前進してくると思います。」
 ゴーマン「もしソ連軍がそうしてきたら、その日は我らの砲兵隊が大成果をあげる日になるでしょう。」
 デピュイ「戦いがあなた方の提案するやり方で実行されるなら、各翼側面のコンタクトの問題は更に複雑になります。1つの案は古典的なやり方ですが左翼から右翼までコンタクトを維持することです。もう1つの案は、軍団司令官がその任務を騎兵部隊に割り当てて、師団が集中してことにあたれるようにすることです。それについてはどう思われるでしょうか。」
 メレンティン「2つ目の案に賛同しますね。……軍団司令官は状況を把握する責任があります。軍団のリーダーシップの下に状況を置かねばなりませんし、軍団は各偵察(騎兵)部隊を使用可能です。」

デピュイ大将の分析

 ドイツとアメリカの2つのコンセプトの共通点は注目に値する。両ケース共に、区域の大部分を最小限の部隊で保持している。そして大規模な予備を決定的な逆襲のために持っておく。そして敵をこちらが選んだある場所に『招き入れる』のである。
 唯一の大きな違いは、ドイツの将はソ連軍の一部を行かせる、それもより遠いほどより良い、というコンセプトであり、一方でアメリカのゴーマン将軍の案はフルダの前でソ連軍を止めてみせるという点だ。さらなる議論をした後で、ドイツの両将軍は不承不承ではあるが小規模な部隊を敵をブロックするために高速道路に置いたが、これは政治的及び人道的な現実を気がねしたものだ。

 『active defense』を実行するというゴーマン将軍の話に関して質問が投げかけれらた。彼が言うには今回の『active defense』とは、複数の戦術的な策を組み合わせる、即ち右翼の旅団が弾性防御を実施して、左翼の旅団が(陣地を予め準備された)計画的防御を行い、そして最良の戦術的経験に従って(予備として置いておいた)強力な旅団が敵を撃滅するために逆襲を行うものであるとした。彼は『active defence』は工夫した何かを指揮官が行うことは必要ないとした。

  現在の米陸軍ドクトリンの主要な設計者の1人として、ゴーマン将軍の戦術案は教育のためになるものだ。彼は不必要に領土を相手に与えることはしなかったが、その防御の一貫性を維持するために弾性に頼ったのである。主導権を保持しており、その目的は敵攻撃部隊を撃滅することであった。彼は柔軟であり想像力が豊かだった。

 時々『active defence』は単純で連続的な遅滞であると誤解を受ける。ゴーマン将軍の手にあるものの場合、それは明らかに『Fingerspitzengefuehl』を授けられたものであり、戦術的オプションの広大なる多様性を理解するものであり、そして敵と地形の特性をフルに活用するものだ。
(Fingerspitzengefühlはドイツ語の直訳では指先の感覚という意味だが、軍事的な用語で使われる場合は、現実の状況を迅速かつ間違わず必要な細部を含んで認識し、正しい行動を正しい時勢に行える感覚とされる。実戦例では指揮官前線/司令部後方スタイルの際に指揮官が現場を把握して即時決断する感性という文脈で使われることが多いようだが、後方にいても必要な感性である。参照:Military Review,第73 巻,第 7~12 号)

 ドイツの両将軍が好む大胆なアプローチは、断定できない事柄への決断をしなければならない。凡庸な司令官にとってそれはおそらく災難であろう。フォン・メレンティン(参謀長)と共に作業をするバルク将軍にとっては、それは際立った歴史的な先例のある1つの選択肢なのだ。


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以下は図上演習よりもドイツの両将の実戦経験についての話と、それをどう現代米軍に活かすかの解説が多い。

戦術とテクニックの概括

 4日間にわたる会議で、様々な範囲にわたる戦術的質問がいくつも詳細な箇所になされた。バルクは会議の最初期に防御のあるコンセプトを話した。そこにはいくつかの重要な戦術的ポイントがあった。

 バルク「私が師団司令官だった期間において、WW1での固定的戦線に集中して保持しようとする戦術は間違っているのではないかと私は思っていました。そこで私はそれとは異なった防御の手法を首尾よく発展させていきました。
 【a.】旧方策に基づいて1つの前線を構築する。ただしこれは欺瞞のためのみである。装甲歩兵連隊と工兵隊がいくつかの活動をデモンストレーションするために配置された。
 【b.】この戦線から約50㎞後方で、装甲連隊と対戦車部隊および残った機械化歩兵が、前進してくる敵に対して攻撃をしかけ撃滅する。
 【c.】それから最終ライン(おそらくrearward line)へと後退する。通常ならここでは、敵はエネルギッシュに行動するのに十分な力を持っていませんでした。」 

 この論述でも、戦術に対する空間の影響は一目瞭然だろう。ロシアの巨大な無人のステップ地帯では、50㎞という距離は些細なものだった。だがしかし、西ヨーロッパにおいてはわずか2~3回後退しただけで戦争は終わりを告げてしまう

WW2中の経験

 ロシアの地で行われたチル川線の防衛の期間、スターリングラード解囲が失敗した直後の期間において、第48装甲軍団は弱体化した1個の歩兵師団と空軍野戦師団を前線に展開し、バルク将軍の第11装甲師団は予備に置かれ逆襲を行った。何週間にもわたりこの1個の装甲師団は十数回もの重大な戦術的逆襲を遂行した。その毎回、チル川の戦線は回復したのだ。これらの作戦中にソ連第5戦車軍は大打撃を受け、スターリングラード西および南いるドイツ軍の位置は崩壊的敗退から救われたのである。
 この戦役中の詳細部に会議は移った。

 デピュイ「装甲歩兵連隊は何の兵器をソ連の機甲の攻撃を止めるために使用しましたのでしょう?」
 バルク「その連隊に配備されていた対戦車に使える兵器ならなんでも全て投入しました。」
 メレンティン「対戦車兵器はその連隊に配備されていませんでしたから、師団に配備されていたものですね。」

 デピュイ「歩兵が敵の攻撃を止めた特定の状況では、バルク将軍は何の命令を第15装甲連隊の司令官に発したのでしょうか?命令は何だったのでしょう。」
 メレンティン「『前進せよ。』……1つの(ソ連の)縦隊を後ろから攻撃し撃滅したので、それから我々の戦車部隊は向きを変え次なるソ連の縦隊へ攻撃を仕掛けました。敵戦車が(丘へ)登ってきてその腹を見せた瞬間です。……我々の戦車は24輌で1人も失うことなくソ連の戦車72輌を撃滅しました。」
 ダニガン「あなた方の部隊がソ連部隊を攻撃した時、敵はドイツの部隊に面を向けておらず、あなた方が獲得した奇襲に抵抗することができなかったからですか?」
 バルク「もちろん。」
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戦車と歩兵の協働が実施されるレベル

 WW2のドイツ軍は歩兵をより静的なあるいは事前から計画している防御地点で活動する部隊とした。即ちあるラインを保持し、戦場を形づくり(各部隊の一貫性を維持し)、フレームワークをもたらすのである。そのフレームワークの中で、機甲の部隊は一般的には予備として置かれ、最重要箇所への逆襲を実施し敵を撃滅するのである。これは歩兵と戦車の協調が旅団または師団のレベルで行われる状況に繋がっている。
 
 アメリカのコンセプトは1点を除きドイツとおおよそ類似している。(旧ドイツ国防軍と違って、歩兵は全て機械化され砲兵も全て自走砲化され膨大な戦車が配属されている)米国の軍隊では常にその戦車と機械化大隊をクロスするように配属(cross-attaches)しており、即ちほぼ全ての機械化歩兵大隊は少なくとも1個戦車中隊を有し、戦車大隊の方は少なくとも1個の機械化歩兵中隊を有していた。
 この慣習はNATO軍の大隊の正面が広く、しばしば別の地形の区画で戦いを行うと想定されていることに由来する。これは米陸軍では戦車と歩兵の協働が大隊レベルで行われることを意味している。
 ちなみに現在のドイツ連邦陸軍は旅団レベルで歩兵と戦車を協調させることを好む。
 バルク将軍はこういった歩兵と戦車の協調がしばしば師団レベルでも適当となることがあるという。
 (略)

 また、バルクは一つの地形の中に2つの兵科(歩兵と戦車の部隊)を同時に同じ目標に対し攻撃することをしたことはあるが、できたら避けたがっていたと述べている。
 スプレイ「将軍、地形が原因で装甲部隊と装甲擲弾兵部隊を単純に組み合わせて攻撃したことは記憶にあるでしょうか?」
 バルク「いくつかそうする機会がありました。しかし私はそれをできれば避けようとしていました。……なぜならもし2つの異なる兵科の部隊を組み合わせると、結果的にかなり乱雑化してしまい、後に彼らをまた2つに分けようとした時、難しい目に合うでしょうから。」(いざ分けて使う必要が出た時に間に合わない可能性があった。)
 人名不明「貴方の装甲部隊を敵の歩兵から守るために(自軍の)歩兵を必要とする状況に陥ったのではありませんか?」
 バルク「無いです。」 えっ

 バルク将軍の述べたこの全体的なやり取りはいくらか驚きであった。ただし歩兵も装甲化及び自動車化し輸送車両、特に機関砲とATGMを搭載した戦闘可能な車両に乗ると言うのであれば話は別だというメレンティン将軍の意見は普通のことだ。
 ソ連も含めたあらゆる現代軍では、機械化歩兵隊が攻撃や逆襲の際には町や森に先行して行き、自軍の機甲部隊にとってブロックや移動の脅威になりうる敵強化点や降車地点を特定することによって、(機械化歩兵が戦車隊を護るということが一般的に受け入れられている。

 バルク将軍は戦車隊と歩兵隊を彼の指揮レベルより下層では混ぜることを望まなかった。しかし彼の師団は戦車大隊が1個にも充足しない戦力の装甲師団で戦い続けていたことを思い出さねばならないだろう。彼の装甲擲弾兵連隊は単に小さな大隊規模であったのだ。従って、事実上この会話で私たちは非常に見事な司令官が指揮する戦車と歩兵の(大隊レベルに近い)旅団レベルでの戦術的統合を確認したのである。

対戦車兵器の運用

 会議で注目を集めた防衛作戦でのもう1つの観点は、歩兵や戦車に戦術的関係を持つ対戦車兵器に関するものだった。このテーマは対戦車誘導ミサイル(ATGM)の出現によって現在は更に重要となっている。

 デピュイ「砂漠戦において、貴方の軍は88㎜と76㎜の対戦車砲を保有していましたね。対戦車兵器を戦車隊のマニューバと協調して運用する際、どのようなテクニックを使ったのでしょうか?それはATGMで我々が行おうとしているものと類似するものだったのでしょうか。」
 メレンティン「アフリカ戦役では我々は対戦車のアハトアハトを戦線に展開し敵の接近をブロックして、戦車隊を分離して敵の側面及び後背へと攻撃をしかけました。」
 デピュイ「通常貴方の戦車隊は、ドイツ軍の対戦車兵器の攻撃によって英国軍が組織性を失うまで逆襲を待ったのでしょうか?」
 メレンティン「アハトアハトの前線に対し攻撃してくる敵戦車隊を撃破する時間をドイツ軍の部隊には与えました。その後で(ドイツ軍の)戦車隊の奇襲攻撃がやってくるのです。」
 ゴーマン「視界がとれている場合、アハトアハトはどれくらい離れて交戦したのでしょうか?」
 メレンティン「ご存じのように砂漠戦では広大な視界を持てます。ですので成功すれば2000m~3000mの距離で敵戦車を破壊することができたと言えますね。」
 デピュイ「ではソ連のT-34戦車をドイツの4号戦車で破壊することが(カタログスペックではなく実戦の中で戦術的に)できる距離はどれほどなのでしょう?」
 メレンティン「1500m~2000mです。ですが、かなり頻繁に200m~300mの距離でT-34戦車を破壊しましたよ。」
 デピュイ「逆襲時において、敵車両と戦闘する前に戦車を停止させることで正確に砲撃できそしてソ連の戦車を破壊できたのでしょうか?」
 メレンティン「はい。全くその通りです。」

 最後の所は重要だ。多くの将校たちが逆襲攻撃をまるで騎兵突撃のように見てしまっている。けれどもほぼすべての熟練した軍隊では、逆襲部隊は敵の側面に好位置を取り、停車した射撃地点からそこから敵戦車を破壊するのである。敵戦車を全て撃破するか味方からカバーを受けた後でのみ、接近するのだ。幾つかのケースにおいては逆襲攻撃は決して接近戦とはならなかった。(21世紀においては照準性能の向上で移動しながらでも撃つのは忌避されることが少なくなってきている)

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 また、対戦車兵器を集中運用することが望ましいというのがバルク将軍がロシアでした防御作戦の特徴でもある。

 バルク「……軍集団の命令に反して、(第11装甲師団は)対戦車部隊は戦線に散らして配備することはありませんでしたし、それに戦場の焦点となる場所に大規模投入されました。」
 カルバー「どの種の対戦車部隊のことでしょうか?」
 メレンティン「76㎜砲ですね。私たちがロシアでそれらを使いました。素晴らしい兵器でしたよ。戦場の焦点を特定するまで、予備の中に対戦車兵器を持っておくのはよいことです。」
 ダニガン「なぜ軍集団司令官は対戦車戦力を分散配置したがったのですか?」
 バルク「軍集団司令官は対戦車部隊による長大で連続的な配置ラインを欲っしました。しかしこれではやはり敵に突破侵入されてしまいますし、そうすれば我々は敵の大きな脅威に対抗する術を持ちません。」
 メレンティン「彼は素晴らしい軍人でした。ただ我々より歩兵的な心を持っている人でした。」
 (これはチル川で第11装甲師団を保有していた軍集団司令官のことであるため、ほぼ間違いなく『彼』とはマンシュタイン元帥を指しているが、なぜか一切司令官の名を誰も出していない。対戦車部隊運用に関してマンシュタインは歩兵的な考えだと部下が感じたというのは面白い話であるし、こういった戦術的事柄について現場の指揮官が軍集団命令に反したとしても許容しているという点も興味深い。ただマンシュタインは作戦規模では機動性重視だが、WW2を軍団司令官以上で過ごした彼の経歴からすると現場の戦術詳細部についてこういった話があっても別に驚くようなことではないと思う。むしろなぜ軍集団司令官がこのような詳細部に口出ししたのかという状況の方が違和感がある。)

 ここでも再び、敵を撃退しラインを保持することによって自軍領域をしっかりと保持したいという考えと、戦闘を開始し開けたフィールドで敵軍を撃破するという代替の戦術案との間に古典的な対立が見られる。ある程度は、メレンティン将軍が指摘するようにこれは一方が『歩兵志向』の将校と他方が『機甲志向』の将校の違いである。敵の砲や機甲から防護するために、歩兵は野戦築城や地雷原によって事前に計画的に準備された防御をすることが最も効果的であるため、この違いは驚くようなことではない。
 一方で戦車部隊の指揮官であれば、位置を固定的にされるのを快く思わず、移動できる状態であることを望む。これらの補完的な各能力を適切に組み合わせることで、戦場を形成し、一貫性を維持し、敵を撃破できる状況を作りだすのだろう。単独で活動するいずれかの能力では、諸兵科連合時の有効性の半分にも全く満たないのだ。

戦闘部隊の編制

 チル川の戦いでは全く戦闘部隊は本来の定員数に充足していなかったにも関わらずソ連軍戦車を数多く撃破した。それはどういった要因があったのだろうか。

 バルク「WW1で私が中隊指揮官だったとき、集中攻撃では人員数は少なくされど砲兵は数多く配備されました。言い換えるなら、できる限り少数の人員で多数のテクノロジーを有するべきであり、それこそが戦争を行う道なのです。」
 メレンティン「バルク将軍が小規模(編制)部隊について語ったことだけを私は念押ししましょう。大規模(編制)部隊は避けるべきということです。それが中隊か軍団かあるいは師団かなどは問題ではありません。小さな編制を持つ方が扱いやすいのです。」
これは戦力量の少数精鋭化のことを言っているのではなく、部隊編制の運用規模の少数化を言っている。1個師団の編制サイズという意味では一般的にソ連の方がドイツ軍や米軍より小型である。同じく指揮系統内で参謀将校を肥大化させるのではなくスリム化したほうが戦時は迅速に動けることが下記に述べられている)

 デピュイ「バルク将軍がかつて中隊を率いていた時、何名の将校が(あなた以外に)中隊内にいたのでしょうか?」
 バルク「ただ1人のみ。小隊リーダーです。通常なら2人より多くの将校は中隊内には必要ありません。……時々中隊には私以外に誰も他の将校がいないということもありました。一方で、私は多くの特殊部隊、コマンド部隊を率い、テヘランのような強襲作戦を行いましたがそのような例であれば4~6人の将校がいました。……(通常の)中隊の戦力は70~80人にするべきでしょう。……大隊には300人がおり4つの中隊、即ち3個ライフル中隊と1個マシンガン中隊で構成されます。」
 バルク「理想的な機甲師団は3個の装甲擲弾兵連隊(各2個大隊編制)と1個戦車連隊で構成されることになっていました。……もし良好な戦車であれば、1個中隊あたり10輌の戦車を割り当てれば一応充分でした。……3個小隊がそれぞれ3輌ずつ戦車を保有し、1輌は中隊指揮官用です。(中隊内で掌握してコントロールできる量を越えた)過大な数の戦車を配分すると、不必要に多い数の戦車損失を招くでしょう。……1個大隊は3個中隊編制としておきます。」

 カルバー「小規模編制に関して議論したいことが1つあります。(小規模編制の部隊が)1度戦闘をしたら、そこで損失を出すためもはやその部隊は戦闘を実行可能な部隊というには弱体化しすぎてしまうのではないでしょうか。」小規模編制は動かしやすいが余力がないのでは?
 バルク「それについて返答は、より小規模(編制)の部隊のほうがより損失(比率)が少なくなるということをあげます。兵員たちがより結束する傾向があるのです。もし貴方が1輌を持っていて周囲に他の車両がいるとして、例えば12輌の戦車を1か所に集めて有しているなら、砲撃が当たってしまえばそのうちの半分がやられてしまうでしょう。……小さな編制の部隊のほうが扱いやすく、そして柔軟に動けるのです。」
 ダニガン「貴方がドイツ軍内で小規模(編制)化を推し進めようとした際にどういった抵抗にあったのでしょう?」
 バルク「みんなが可能な限り多めにしようと望んでいたことが抵抗でしたよ。彼らはより多く持てばより多くのことができるのだと信じていたのですから。」
 デピュイ「第11装甲師団が最も印象深い成果を達成した時は戦力が定員に充ちていませんでした。よって、実際の所起きていたのはおそらくドイツ軍では最高峰の師団司令官が旅団規模を指揮していたという状態であり、連隊指揮官は大隊規模を指揮しており、大隊指揮官は中隊を、中隊指揮官は2輌~3輌程度の戦車を指揮していました。では、この戦果はリーダーシップの質と部隊編制のサイズに依存するという更なる証拠なのでしょうか?この提議であっていますか?」
 メレンティン「正解です!」
 バルク「ええ、完全に!」
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 部隊編制のサイズに密接に関連するのがその構成の問題である。大隊が基本戦闘方法(単位)であるので、始めから大隊は(戦車と歩兵の)混成であるべきだという考えを支持するものが何人もいる。その他の者たちは訓練、メンテナンス、リーダーシップを促進しシンプルにする『純粋』な中隊と大隊編制を好む。

 ダニガン「将軍、1940年に貴方は戦車、歩兵、戦闘工兵を有する(混成の)部隊、カンプグルッペを発展させましたね。今でもそうするべき方策だと感じますか?」
 メレンティン「いくつかの場合はイエス、いくつかはノーです。環境に依ります。」
 ダニガン「紙面上の師団編制組織が、歩兵と戦車の大隊を分けて戦闘を行う場合があるということでしょうか?」
 バルク「編制組織そのものは保持しなければなりません。なぜならそれが訓練と補給、そして指揮と統制の基本となる単位だからです。」
 ダニガン「1945年にドイツ軍は最終再編成をして戦車や装甲兵員輸送車そして対戦車部隊すら組み込んだ複合大隊を志向しました。これは1つの答えだったのでしょうか、あるいは大隊レベルにおいて部隊は『純粋』であるべきと考えますか?」
 バルク「私は後者をすべきだと思います。貴方は1つ心にとめておかねばなりません。現代兵器システムの修理とメンテナンスを、そしてそれは『純粋』な部隊の中でのみ為され得るということを。機材のメンテナンスは最優先すべき重大次項ですし、異なる種類の部材を寄せ集めて持っている1つの部隊では、機材を維持することはできません。リーダーシップの術は多様な部隊のコントロールを可能とするものですが、それでも部隊の純粋性は維持するのです。」
 ダニガン「WW2でドイツ陸軍は機甲偵察大隊を有していました。それは混成部隊でした。この部隊は混成であったが故に多くのメンテナンス上の問題を引き起こしたのでしょうか?」
 バルク「再補給の問題をですね。」

 この問題は多くの人々の中で未だ解決していないままである。クロスした配属で編成するのが我々の闘いの道であると信じる人もいる。事実として存在するのは、世界の全ての主要な軍隊が「純粋」な戦車および歩兵の大隊を維持し続け、戦術的な訓練と戦闘での必要性に応じてクロスした配属をしているのである。

その他重要事項

【後退移動時の司令所の位置】

 バルク「……撤退をしている時、多くの指揮官がその参謀を後方へ移すのを躊躇い、そして……酷い目にあいました。私の司令部のシステムでは、参謀は静かに後方で作業し、指揮官が戦場の焦点にいてその能力を発揮したものです。」
 バルク将軍はさらに、後方の司令所は攻撃してきているソ連軍の明らかな前進軸線に沿った節点、例えば主要道路沿いの町に配置するべきではなく、むしろ側方の目立たない場所置くべきだと説明した。そうすればもしソ連軍の攻撃がそばを通っても、指揮と統制は失われない。

【戦術的空軍のインパクト】

 サミュエル大佐「高度に移動性がある作戦において、空軍の役割をどう見ますか?」
 メレンティン「私の考えではそれこそが決定的な質問です。空軍は我々(陸軍)が敵を撃滅するのをアシストしなければなりません。例えばこの演習上で火曜日に我々が逆襲を実施するとしても、空軍からのアシストが無ければその逆襲は実行不可能です。空軍と師団または旅団(そして大隊その他)は必ず極めて密接な連絡を取らなければなりません。」
 サミュエル「今日の環境下では、空軍にとって近接航空支援(CAS)は更に価値を持つようになっているでしょうか?または後方地帯での敵予備と支援部隊への阻止爆撃によるサポートがより価値をもつのでしょうか?」

 サミュエル大佐は現在の(米軍内で議論となっている)関心事項についてドイツの将軍の見解を知りたがっていた。今日の空軍は戦場航空阻止(BAI)の役割が最も効果的、最も損耗率が低く最大戦果をあげられると感じる人々がいる。

 メレンティン「現在、幸いなことに我々はあなた方と連合を組めている。そしてあなた方は極めて巨大な空軍を保有しており、この空軍が航空阻止などその他の任務に加えて、我々の戦術的攻撃の補助にまわす戦力を持っていると我々は願っている。」
 メレンティン「東部戦線では我々は本当に危険なソ連空軍の攻撃に晒されたことは無い。だがノルマンディー戦役では(海岸から離れたロレーヌにいる)G軍集団ですら完全に(日中の)移動を止められてしまった。なぜならあなた方の空軍がいたからだ。移動は無く、不可能だった。」
(結局のところ両方やるのがベストであり、世界で唯一米軍のみができると考えている)

 サミュエル「ソ連空軍によるドイツ軍の補給部隊への攻撃はどれほど効果があったでしょうか?」
 メレンティン「激しくはありませんでした。使うのを禁止されている道路を使ってしまったとき、時折ドイツ軍は重い損失を出しました。ソ連空軍はその部隊を攻撃し破壊しましたがそれは我々の部隊のミスです。」

【ソ連のゲリラ作戦】

 バルク将軍はソ連のゲリラの戦争への貢献度を高く評価している。彼はセキュリティ用の各連隊にまわす量を減らせるような場所に司令部とサービス部隊を置くことを好んだ。それは小さな村落や木々の中であり時には開けた場所でさえあった。大きな町や市街あるいは巨大な森の中やそばに配置すると(ゲリラからの攻撃に)特に脆弱だった。

 略す。
 バルクは常にそういった位置をとることを禁止した。ゲリラによって移動の自由が阻害されたこと、ある例では市街の中に集結していた軍団が720輌ものトラックを失ったことを話している。他にも50人のゲリラ兵が非戦闘用のサービス部隊員400人を殺害した事例があげられている。

【フォン・ユティエの問題】

 もしかしたら軍事史家だけが興味を持つことなのかもしれないが、この会議はドイツ戦術の革新の性質に関するいくらか驚く認識変化を与えてくれた。英米の歴史家は突撃歩兵assault troop(Stosstruppen)を運用したフォン・ユティエ将軍の浸透戦術がWW1のリガでロシア軍に対して最初に大きな成功を収め、WW2の電撃戦術の直系の先祖だという理論を長い間発表してきた。しかしバルク将軍はこの繋がりについて知らないと公言した。

 ダニガン「WW1の末期、ドイツ軍は浸透戦術、突撃歩兵と我々が呼ぶものを発展させ、多くのエネルギッシュな将校達がこの種のサービスに惹きつけられました。将校や兵員たちの間でそのメンタリティの中に何かこれをWW2での貴方の戦術に対して引き継いだものが見受けられたでしょうか?」
 スプレイ「米国内では、WW1の浸透テクニックについて盛んに話されています。彼らの話している意味は、敵陣を切り開くために衝撃部隊で破って、それから他の部隊が後続するということです。 問題は、衝撃部隊のリーダーのメンタリティが戦車部隊(のリーダー)に影響を与えているのか、それともそうでないのかということです。」
 バルク「WW1の最終期において私は攻撃部隊(stosstruppen)にいました。」
 スプレイ「いわゆるAlpen Corpsは主に攻撃指向ではなかったのですか?」」
 バルク「それは最高の攻撃部隊の1つでした、ただ私はこの浸透の手法の何かに気づいたことは決してありません。私たちはそれを使っていませんでした。私たちは敵火力を強力な砲撃によって制圧しそれから展開しました。」
 スプレイ「ここアメリカで『フォン・ユティエの戦術』と呼ばれているものはドイツでは知られていない?」
 バルク「私は事実上すべてを経験したとしか言えませんが、それは私が経験しなかったものです。」

 後に別の会議でワシントンのドイツ陸軍属の大使館員フォン・ウスラー=グライデン大佐はこのレポーターに対し『フォン・ユティエ』理論は英米圏内に限定されているようだと語った。 彼はドイツ軍の教義や出版物にそのような考えはないことを知っていた。ドイツ国外の理論を広く遵守していることを考えると、これはさらなる研究の肥沃なる分野かもしれない。

まとめ

 特別なゲストとの4日間にわたる広範な議論で話されたあらゆる詳細から大きな価値が得られた上に、加えて非常に重要な追加の範囲があった。
 もし大規模部隊が組織性を失っておりそして小規模部隊が協調が取れているならば、小規模の部隊でも大規模部隊に対して卓越した戦いを実行することができるということを、我々は最も鮮明なそして説得力のある方法で思い出させられた。バルクとメレンティン両将軍はこれこそが作戦成功のエッセンスであると明らかにしてくれた。ソ連兵は予期せぬ新たな状況に直面したとき特に混乱の影響を受けやすかったし、そういった機会を我々が創り出すことは難しいことではないということを彼らの経験は物語っていた。
 逆に『西』の兵士は速攻状況で本質的に優れており、個のイニシアチブをとる傾向があり即ち機会に素早く適応し奇襲的状況により対処できるという自信を彼らは示した。ドイツ式『システム』の目的は、リーダー、そしてあらゆる階級の兵士ですらもこれらの資質を育むことにあったと、彼らは何度も色んな表現で述べた。彼らはドイツ市民の基本的な性質とドイツ軍の伝統がこの試みを強く支えたと信じていた。

 最終日により多くの参加者が深く感銘を受けたのは驚くことではないだろう。対ロシア戦で成功するためのバルクとメレンティンの処方において示唆された水準の能力まで、アメリカの将軍と兵士が達しているどうか必然的に疑問が生じた。NATO中央軍集団アメリカ欧州軍の元総司令官であるBlanchard将軍はこのスコアについてはポジティブな意見を示した。彼はAuftragstaktikコンセプトは米軍の訓練において重点を置くに値すると考えた。彼は柔軟性とイニシアチブを将校と下士官に帰するものとした。

 バルクやメレンティンのような優れた将を大量生産する鍵を発見した軍隊など存在しない。この種の才能は発見されたものであり作られたものではない。だがもちろんドクトリンと訓練を通じて研ぎ澄まされ目指されるのものなのだ。この点においてドイツのシステムに高い評価を与えなければならない。そして同じ点で、ドイツの将軍たちによってもたらされたシステムとフィロソフィーに対する洞察は、最も深い考察と注目をする価値があるのだ。















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 以上です。ここまで長い文を読んで頂きありがとうございました。
 他の人の見識を少しでも聞きたく、話しのきっかけになれたらと本サイトを作っています。考察・別説等をご存知でしたらどうか教えてください。


 2019年12月23日 戦史の探求
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メモ
p.40 メレンティンの話を一部訳
「私たちは小規模な部隊を前線に沿って配置し、戦車部隊を遥か後ろに集中し逆襲を敵の側面や後背におこなうことを好んだ。今日ですら私は思う、固定的な防御は危険であると。Mobile defenseは継続的に敵に新たな状況を突き付け、敵を混乱させ、敵のコンセプトを阻害するのだ。」


・編制が小型の方がバルクにとっては指揮しやすいのであれば、ソ連の編制タイプの方が指揮しやすいということになる?→デピュイ大将が序盤のバルク将軍への所感で「ロシア軍をうらやましくも思うか部分があった」というニュアンスのことを書いているのは、この編制のスリムさのことと思われる。
 西欧では昔から伝わることわざがある。
『As a rule, God is on the side of the big squadrons against the small ones.』というものだ。古くはRoger de Rabutinの書いたものがあり、ヴォルテールやフリードリヒ大王あるいはナポレオンが類似の言い回しをしたと書かれることが多く、大隊battalionsや中隊と訳されることもある。これは戦では原則的に戦力が大きい方が有利だ、という原理を優美な言い回しでしたものだ。訳す際にこれを「部隊数の多い方に神はいる」とする場合もある。これは1つの疑問を生み出した。有利なのは『大きい』方だろうか、それとも『多い』方だろうか?というものだ。編制がある程度スリムな方がより各部隊の能力が発揮できると考えるバルク将軍の見解はその1つの返答となった。もし兵力が同じであると仮定した場合、編制が小型の方が中隊の数は多い。もちろん下限はあるし、編制の大小と混成は議論の余地が多いテーマである。それでも、そのスリム化が効率性を有する範囲であれば、たとえ敵と兵数が互角だとしても『神は中隊の数の多い方にいる』のだろう。
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・第6戦車師団の後部と第7戦車師団の先頭を側面から攻撃して撃滅したとして、残りはどう倒す?特に第7師団の後列部隊とは奇襲なしで正面から戦うことになる。→第6師団の前衛が戻ってこないようにAlsfeldの先まで進ませてから逆襲しているため、前衛が戻って来て挟撃されるというのはすぐには起きないし第7師団の後部が戦闘に参加するのももう少し時間がある。何日間で第6師団後部を撃滅するかがこの疑問の鍵となるはず。本文に日数と時間の言及はないため不明だが実際の会議では確実にあっただろう。日ごとの自軍損耗率も不明。
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break-in  突入  =敵防衛(第1)線への突入
breakthrough 突破  =敵防衛線陣地の破壊
break-out  突進 = 敵防衛線突破地点を塞がれないように奥への突進、拡大
この3フェイズが敵戦線陣地を越えるには必ず発生する。
敵味方の火力支援の関係などから困難性は 突入<<突破<突進 となる。さらにWW1ではそれぞれにサブフェイズとして敵強化点と機関銃座を破壊する第1サブフェイズ、敵砲をsuppressionする第2サブフェイズ、そして敵地点を確保する第3サブフェイズである。最初2つのサブフェイズは特に火力が、3つ目のサブフェイズはshock powerがいる。つまり火力とshock powerの2つは絶対に共に必要となる。どちらかだけでは足りない。
Samuels   p.86, 87

火力=Firepower=Feuerkraft
衝力=shock power ≒ Stosskraft (= assault power)
近代以前では、砲兵は火力を持ち、騎兵が衝力を持ち、そして歩兵はその両方を有する唯一の兵科とされた。
p.62

・judgement call = 決め手の無い事柄に対して主観的に決断を下すこと。
・pioneer =特定任務を有した戦闘工兵のことを言うことが多い

・NATOドクトリンは軍事的合理性よりも政治的要件が上位に来て構築されている可能性があることを忘れてはならない。

・stosstruppenはある兵装と訓練が施されたエリートで作られる部隊であり、別に末期に編成されたわけでも1つの戦術に限定されて運用されたわけでもない。Ian Drury, (1995),"German Stormtrooper 1914–18"などを参照。Alpenkorpsとstosstruppenは別物だが似た戦い方をしたことがあるのも述べられている。ドイツのstosstrupptaktikの発展史についてはMartin Samuels, (1995), "Command Or Control?: Command, Training and Tactics in the British and German Armies, 1888-1918"の第3章に紹介されている。現在の米軍野戦教範に載る基礎マニューバの1つの浸透は、ほぼ固有名詞化しているWW1の『浸透戦術』とイコールの関係ではない。『WW1の浸透戦術』は浸透を狙いとしたものというより、砲兵や小隊運用の発展の結果が結集して現れた前進能力と呼ぶほうがまだ適切と思われる。

ドイツでのNATOとワルシャワ条約機構の配置 Strategic Geography: NATO, the Warsaw Pact, and the Superpowers; by Hugh Faringdon; 1989が原典
NATOの西ドイツの分担区域

ドイツの両軍の部隊配置_cold war


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pp.11~16の部分を末尾に移す↓

ソ連軍の特性とスタイル_バルクとメレンティンの感想

 バルク将軍曰く「多くの外国軍の将軍たちがモスクワを取ろうと目指し、そして何びとも無傷で帰還することはかなわなかった。」
 メレンティン将軍曰く「ロシア兵は気まぐれだ。今日、遠大な縦深での攻撃をした英雄であったかと思えば、明日には完全に何かやる気をなくしていたりする。」(連続作戦の疲労?)
 
 バルク将軍が強く印象に残っていたのが、ロシアでの軍事作戦中に広大なる距離(の作戦)に会うはめになり、インパクトを与えてきたことだ。要するに、ロシアとはエンドレスなのである。ロシアは軍隊を吸い込むのだ。さらにWW2ではドイツに倍する人口を有しており、それらは勝利の要素となった。

 WW1でのロシア軍の敗北は、ダーダネルス海峡の閉鎖とそれに続く戦争物資の窮乏に起因するというのがバルク将軍の意見だった。これにより、訓練不足のロシア兵が武装も足りずに戦場に送られ、前の波で死んだり負傷した仲間のライフルを追って拾うのが期待される羽目になった。 この血に飢えた戦争の方法は、革命の始まりを速めたと彼は考えた:「それはロシア人にすら厳しすぎた。」

 天候や戦術的状況が酷い様相だった場合、ロシア人には「原始的な存在に戻る能力」があるとバルク将軍は考えた。また、彼はソ連軍が継続的に戦争というものを学び続けたとし、しかしロシアの能力向上に対する彼の信仰は明らかに限定的だった。

 ダニガン「貴方はロシア側には、上層部から過剰な量の指揮があったのか、それとも彼ら(前線部隊)がイニシアチブを持っていなかっただけなのか、どちらだと感じますか?」
 バルク「両方の組み合わせでしょう。」
 ダニガン「今日でもそれは影響を及ぼしているままだと考えますか?」
 バルク「変わることはないでしょう。」
 ダニガン「なぜそう思うのでしょう?」
 バルク「なぜなら軍隊とはその原初から行動してきた原則からは離れられないからです。」
 メレンティン「我々を信じてもらいたい。彼らは群体であり我々は個々なのです。それこそがロシアの兵士とヨーロッパの兵士の違いです。」
 ダニガン「ロシア兵たちが更に教育を受け洗練され西欧式アイディアに触れたなら、それは何かに変わるでしょうか?」
 バルク「そうは信じないですね。」
 
 議論は核心ともいえるソ連軍の手法についての質問へと移った。なぜならソ連軍は攻撃におけるセットフォーメーションの使用に非常に重点を置いているため(精度がほぼ幾何学的)、そのため彼らが地形をカバーと隠蔽に使用する能力を失うかどうかに関する疑問が常に生じる。この点で、山岳の民vs草原の民の相対的な軍事的メリットに関する興味深い議論にバルク将軍は引き込まれた。

 デピュイ「WW2でのソ連軍がある特定の攻撃フォーメーションを取るとき、遮蔽と地形による隠蔽を使っていましたか?」
 バルク「もちろん地形の使用は理解されていました。地形の活用が速度によって置き換わることがあります。」
 デピュイ「それはソ連軍によってですよね?」
 バルク「はい。とても優れたものでした。」
 カルバー「ある1個戦車中隊が攻撃した場合、その戦車群は幾何学的フォーメーション、硬直的なフォーメーションで戦列を整えたのか、それとも1つの地形から次の地形へと互いを火力でカバーしながら攻撃してきたのでしょうか?」(幾何学的フォーメーションを保ったままだったのか、それとも地形に合わせて形を崩して進みもばらばらにしたのか)
 バルク「両方が為されていて時には正しく、時には間違ったものでした。」
 デピュイ「イスラエル軍が言うにはシリア軍は地形を活用しなかったとのことです。シリア軍はソ連スタイルのフォーメーションを保っていました。彼らはそのラインや縦隊を保持し、カバーされたルートや隠蔽の活用をしなかったと。貴方も同じようなものをロシアで見たことがあるでしょうか。」
 バルク「見たことはあります。普通の欧州やアメリカの国々は人員を我々がするのと同じように教育します。(しかしソ連圏には)異なったクラスの、ハンガリーやその他アジアの人々のような草原の民がいます。彼らは平原や開かれた地形に使用され、この種の攻撃、前に批判なされたフォーメーションを使用します。(複雑な地形にあわせることをせず平野でできるような幾何学的フォーメーションで攻撃してしまう。)次に3番目のカテゴリーがあります。山の民です。彼らは地形の特徴により適応し、現代の戦争により適応しやすい。大草原の人々を現代の戦争で使用されるべきではありません、そうしたら彼らに悲惨な災害を招いてしまうでしょう。」
 カルバー「将軍はソ連軍が草原の民的であると考えていますか?」
 バルク「部分的にはそうでしょうね。」
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 防御を突破するのに3つの古典的手法がある。
 1つ目は奇襲あるいはステルス。守備側が予想していない時に仕掛ける。夜であったり悪天候のような視界の悪い時に、しばしば他のエリアにフェイントを仕掛けてから行う。この手法にはバリエーションがあり、浸透もその1つだ。攻撃に先立って防御に浸透を仕掛けておく。ロシア人は浸透に非常に秀でている。=Surprise
 2つ目はカバーと隠掩蔽を使いながら位置移動を次々と繰り返し前進していく、いわゆる射撃と運動というものだ。ロシア人がどの程度これらの戦術を使用しているか判断することはさらに困難だ。それらは西側諸国の軍隊によって使用される戦術的手法の中心である。ソ連軍の出版物にはロシア人がこの手法を志向している可能性があるといういくつか最近の証拠がある。彼らは連続した監視陣地からの直接制圧射撃を重視しているだろう。=Fire & Movement
 3つ目の手法は、大規模な部隊の集中を狭い区域に特殊なフォーメーションで行い、複数梯団を後続位置につかせ、先導の攻撃部隊の波が勢いを失ったらその後続が追い越すか回り込んで突き進むことを計画するというものである。この戦術は大量であることと速度、そして防御側を飽和させることによって実行される。それは古典的な突破戦術でありこれまでソ連軍ドクトリンに好まれているものでもある。= Mass & Speed
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 バルクとメレンティンが強く印象に残っているソ連軍の戦術は特にMass&Speedだが、他の2つもまた運用されていたという。

 メレンティン「ソ連軍は常に数的な優勢をもって攻撃する。一般的にある確固たるパターンに従ってそうしてくる。しばしばソ連軍は極めて優れた地形の活用を行った。ソ連軍は森林、村落、夜間戦闘での浸透のマスターであった。……彼らは作戦というものを戦争中に学習し、リーダーシップを訓練し教育した。そこには戦闘中に(自軍兵士の)生命を尊重するというものは何も無かった。……ソ連兵たちが恐怖する我が軍の展開に直面した時の反応は本当に予測不可能だ。勇敢に立ち向かうことからパニックに陥るまで様々なことがあり得る。……(計画に無い)会敵交戦はソ連兵に混乱を引き起こし、彼らのコンセプトを阻害する。そして彼らは上から新たな命令が来るのを待つだろう。時に単純に停止し、増援が到着するまでかあるいは新たな命令が来るまで待機する。ソ連兵は強い、しかし移動性が無い。彼らは固定的である複数のパターンに従う、そしてそれ故に我々(ドイツ軍)より脆弱だった。特に下級の指揮レベルにおいて、我々は優越する個を有していた。」(ソ連軍はWW2後半期において大胆な移動的攻勢をしているという記録に反するし上述の戦術でも移動性、速度が必要なため矛盾する。この移動性が無いと言っているのは比較的規模の小さい部隊レベル、本議論のテーマとなった師団以下で行われる細かく且つタイムリーな個々の移動であると考える。)

 他にもバルクがソ連軍について深く印象に残っているものがある。それはソ連軍の様相への信頼性の無さだ。ある戦闘でソ連の大軍がいると査定されていた所に、事前にある男女のカップルがドイツ側に寝返って情報をもらしてきて、その後攻撃をしかけたらそのエリアにはほんの僅かな敵しかおらず、要塞なども含め全ての情報が誇張されたプロパガンダであった。更にカップルは姿を消していた。全くロシア人を信用することができないと述べている。(これはソ連関連でよく言及される欺瞞作戦のことと思われる。)
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米軍工兵車両の能力の欠如

別論文ですが、興味深い米軍の工兵の抱える深刻な問題が書かれているものがあります。
1991年製作 Heavy Division Engineer Regiment - A Key to Tactical Freedom of Action 
https://apps.dtic.mil/dtic/tr/fulltext/u2/a258396.pdf

これによると
・戦場はドイツ戦域(中~西欧)、つまりソ連の西欧迎撃想定の場合。
・米軍の攻撃中の旅団は24時間に3回地雷原を越えることになると予想される(p.7)
・地形調査の結果、平均して20㎞移動するごとに師団は20m幅以上のギャップ5つを越える必要が判明。(p.28)
・当時の架橋車両のスペックは18.3m幅が架橋限界長さ、許容重量はMilitary Load Class 60。 (p.28)
・戦車の重量はClass 60かそれを超える。(p.28) ※これはエイブラムスの導入拡大のこと。時期的にM1A1HA
・進撃時に障害物を越えるための工兵車両は主に5種=APC、戦闘工兵車両、架橋車両、ブルドーザー、地雷除去車両 (pp.26~29)
・障害物除去は戦闘前衛部隊に随伴しなければならないのに、冷戦末期の上記5種車両の現行モデルは高速の進撃または後退速度に随伴することがほぼ不可能、または装甲が足りない。(pp.26~29)

 よってドイツが戦域となった場合、米軍の工兵部隊には激しい戦線移動で満足な成果を提供できる能力がなかった。エイブラムスを主力戦闘戦車にした20世紀末において、米陸軍は固定的な局地戦闘か河川の少ない乾燥地帯国家での戦闘しか事実上できない状態になっていた。
 特に架橋戦車の問題は深刻で、エイブラムスがどんどん重量を増加させていく時勢に全くついていけていなかった。川の幅に満たず許容重量も満たしていないことは、師団または旅団が広域での高速戦闘能力のための重要なピースを欠いていたことを示している。米軍は橋が壊されないというあまりにも楽観的な予測か、限定的な戦域または非常にゆっくりとした進撃/後退で「機略的運動戦」をしなければならなかったのである。

 この事態に対処するためというのが、M104ウルヴァリン架橋戦車の開発導入の背景の1つだ。新型架橋戦車計画は1980年代から進められていることから、エイブラムス導入で工兵との能力ギャップが発生したことを米軍の一部は理解していたようだ。
 だがウルヴァリンの実戦用導入時期は2003年である。米軍は少なくとも90年代から10年以上にわたり(下手をすれば80年代から)ドイツ戦域での広域運動戦能力を著しく低い状態のままにしていた。
 しかもウルヴァリンの導入は現在ですら不完全だ。ウルヴァリンはコストが高く予算問題から配備数が予定より削られてしまった。ウルヴァリンが抱えていた問題を解決し最新の事情を盛り込んだのはM1074架橋戦車なのだろう。2016年頃にM1074新型架橋戦車を生産し始め、2019年から本格配備が進んでいる。この架橋戦車の配備が完了してようやく、米軍は彼らが理論上謳っていた激しく流動的な戦争を実行できる能力を河川の多い戦域でも手にいれる。

 ウルヴァリンや工兵車両について詳しい方ご意見頂けないでしょうか。

渡河作戦の教範については下記を参照。図多数あり
(1992), "FM90-13 River Crossing Operation"
https://www.bits.de/NRANEU/others/amd-us-archive/FM90-13%2892%29.pdf


(2014), The NATO-Warsaw Pact competition in the 1970s and 1980s: a revolution in military affairs in the making or the end of a strategic age?  
by Diego A. Ruiz Palmer NATO International Staff, Brussels, Belgium
https://www.nato.int/nato_static_fl2014/assets/pdf/pdf_history/20161212_E2-Ruiz-Palmer-2014-NATO-Warsaw-Pact-competition.pdf