拙稿【アヴァライールの戦い_451_逆包囲】の前半章を占める会戦に到るまでの両国関係史についてその概略を記しました。(ヤズダギルド2世の父)バハラーム5世までです。
 歴史に関する記事としては短すぎ、会戦戦史の序文にしては長すぎる文ですが、アヴァライールの戦いの戦略的勝利の解釈をするために必要かと思い残しておきます。

→戦術と軍事戦略についての別記事【アヴァライールの戦い_451_逆包囲】
http://warhistory-quest.blog.jp/19-Jun-26

背景_ササン朝のアルメニア支配

 ローマと鎬を削った大国パルティアから多くを受け継ぐ形で226年ササン朝は成立した。国内貴族の多くはそのまま残っている。しかしパルティア期よりササン朝は中央集権化が特性としてあげられる。それは王朝創始者アルダシールが強力な権力を持っており各地の王を服属させるシャーハーン・シャー(王の中の王)としてだけではなく、直接支配する領域が多くあったことからもその萌芽が見られる。ただし洗練された官僚制中央集権化はいきなり得られたものではない

【シャープール1世期のアルメニア奪取と寛容統治】

Sasanian CavalryMap_of_Ardashir_&_shapur's_campaign

 2代目がかのシャープール1世であり、帝国を拡大しローマを相手に数多くの勝利を挙げた。ローマ皇帝ゴルディアヌス3世はササン朝遠征を行いレサエナの戦いで勝利しさらに深く侵攻するが244年にミシケの戦いで敗北、死亡する。後継のピリップスは無事帰還するために和約を結び、この際にアルメニアへ援助しないことを約束した。
 ローマ派であったアルメニア王ホスロー(アルサケス家)は優れた才覚を持ち10年以上ササン朝支配を跳ねのけたが暗殺されてしまった。シャープールはアルメニアへローマが干渉したとして戦争を再開、253年から侵攻しシリアなどを荒廃させた。迎撃に来た軍人皇帝ヴァレリアヌスを260年エデッサの戦いで捕虜にする大戦果を挙げ覇権を確立する。

 アルメニアは王不在で長官が治めていたが262年にシャープールは息子をササン派のアルメニア王を即位させた。これは完全な統制ではなく領内で強い支配権を有するアルメニア貴族が王を認めたということである。
 ササン朝は極めてゾロアスター教の影響が強い、ただしシャープールは比較的他のマイノリティ宗教に対し寛容で放置に近かった。アルメニアのキリスト教は弾圧を受けていない

【シャープール死後の混迷とゾロアスター教の影響力拡大】

 シャープール1世死後ササン朝はしばらく玉座争いで混迷する。この時期からゾロアスター教聖職者の政治干渉が強くなり後継にバフラーム2世を支持し、宗教に寛容なナルセスを蹴落とした。ナルセスは強大な勢力を持っていたためアルメニア王にすることでなだめている。
 ※ササン朝の社会統制はある程度の身分制度(戦士・祭祀・農民・工人)によりとられることになるが僧侶は強力な地位を得た。順序など細部は複数記録あり。
Religions in Sasanian Empire
 ホラーサーンで反乱が起きる中、283年ローマの逆襲が始まりクテシフォンまで陥落、メソポタミアがローマ属州へと変わりアルメニア支配も弱まった。これにより288年、ローマに亡命していたアルサケス家のティリダテスが再度アルメニア王に返り咲いた。この時支援したローマ皇帝は名高いディオクレティアヌスである。ただしバハラーム2世はホラーサーンの鎮圧には成功している。

【アルメニアの平和とキリスト教国教化】

 2世が崩御しバハラーム3世が即位するが宮廷クーデターが発生しナルセスが即位する。
298~387_Area of Armenia
 ナルセスはアルメニア・メソポタミア奪還戦争を行うが、支援要請を受けたディオクレティアヌスは東の副帝を派遣する。メソポタミアはうまく行くがアルメニア方面でササン朝軍は王族が捕虜になるほどの大敗を喫する。ディオクレティアヌスは手打ちにし条約を結ばせた。これにより領土線を明確に決定、アルメニア宗主権はローマが保持し交易も活発化することで争いの火種を無くした。ローマ・ササン朝の安定はアルメニアに約40年もの平和をもたらすことになる。

 平和のきっかけはローマでキリスト教の弾圧を行ったディオクレティアヌスであったが、この期間にアルメニアでキリスト教は浸透しきる。301年にティリダテス王と臣下が洗礼を受けた時が(現代のアルメニアでは)国教化の年代とされ民衆の大多数はキリスト教となった。ただしまだこの時期の支配層たる貴族に国家意識は薄くゾロアスター教徒も存在したことに注意する必要がある。

【シャープール2世のアルメニア再支配】

 平和が破られたのはシャープール2世期である。彼が幼かった初期はササン朝貴族が権勢を振ったためかそれを出し抜く謀略にたけた王へと成長していた。彼は国内のキリスト教徒などに増税し財源を確保する。ゾロアスター教会組織は彼の統治期に整ったとされる。
 その後アラビア侵攻と並行しアルメニア王を堕落させ政治が疎かになるよう内通者を送った。和約を破り干渉を強めるようになり対立が再燃した。この危機にアルメニアの親ローマ派貴族は王を見限りローマによるより直接的な統治を望んだという。だがローマは丁度コンスタンティヌス大帝が死去したタイミングで初動が遅れた。アルメニア王ホスロー2世も338年に死亡、狙い通りシャープール2世のアルメニア軍事制圧を実行しアルメニア王に朝貢を誓わせた

Map of Roman-Persian border at the death of Constantius II ローマは内紛や辺境部族対応で手が回らず、アルメニアは両国に朝貢して何とかバランスをとるしかなかった。ササン朝が押し気味であったがコンスタンティヌス2世に続いて"背教者"ユリアヌス帝の時代に入ると逆侵攻を受ける。363年、アルメニアも呼応して援軍をだした。ユリアヌスの親征軍は奥地まで進撃を続けクテシフォンまで到達し城前でササン朝軍を打ち破るが攻城戦で行き詰り、退却することになる。この際に軍は崩壊しなかったがユリアヌスが戦死したため後継者のヨウィアヌスは安全に撤退できるよう和約を結ぶこととし大幅に譲歩した。領土の割譲とアルメニアへの不干渉をローマは受けいれた。
 シャープール2世は364年にアルメニアに軍事侵攻を行って脅した上で、優し気に友好条約を謳いアルメニア王アルサケス2世をおびき寄せると捕縛・幽閉してしまった。アルメニアは統制を失い首都を含め大略奪を受ける。王妃などを担ぎ上げ貴族たちは闘うが地力の差は大きくササン朝軍は次々と撃破する。それでも親ローマ派アルメニア貴族は抵抗を続けた。
 シャープール2世は既に老齢で活動はやや収まっていく。ローマのウァレンス帝は圧力をかけ、交渉しようとしたが本人が対ゴート戦争でのハドリアノポリスの戦いで378年に戦死してしまう。
(ハドリアノポリスの戦いは荷馬車を使った防御と騎兵の反撃による逆包囲戦術の戦例として知られている)
 ただササン朝側もシャープール2世が379年に没したことで2大国は共に内部が慌ただしくなりアルメニア問題は優先度が下げられ、おかげで危ういながらも平和が訪れる。

【シャープール3世と均衡による平和】

 この混乱期とつかの間の平和はアルメニア支配に変革をもたらした。大きな権力を持っていたマミコニアン大公家が貴族の中で抜きんでて実質の統治者として権威も持つようになっていったのである。
 一方でササン朝も中央集権化が進んでいたがまだまだ貴族が大きく王権を揺さぶる事があった。最たる例としてシャープール2世没後の後継アルダシール2世が数年で貴族たちに廃されてしまったことなどがある。恐らくそのため次のシャープール3世は貴族たちに穏便な統治を行った。
387~428_Area of Armenia
 アルメニアの戦略的価値はこの時期に変化を迎えた。対ローマだけでなく、北方からの移動が活発化した辺境異民族とくに遊牧民の阻止である。コーカサス山脈そばやカスピ海沿岸を通って南下するルートはアルメニアが門番となる。

 ササン朝は遊牧民に苦しみ続けた歴史を持つ。
 アナトリアやイラクで遊牧民族の流動を防ぐのが難しいのは地理的にも歴史的にも明らかであった。387年にはローマもほぼ同じ考えを持っており、テオドシウス1世の時期には両国共にアルメニア境界を警戒し使者を送って武力行使せずに国境線を最確定している。アルメニアの大部分はこれまで通り形式上はアルサケス王家の統治下であるが、西の領土の一部をローマ側が、残り東の大部分をササン朝が影響下に置くことで表面上の平和は続いた。(アルメニア分割)

バハラーム5世と大宰相ナルセスの戦争再開

 シャープール3世治世末期~バハラーム4世期において、ローマは影響下のアルメニア領を直轄領化しようとした。長官をローマから派遣しアルメニア貴族がサトラップとして分割統治する領土を監督する形態であったがササン朝を刺激することになった。サトラップを得られなかったアルメニア貴族たちも不満が溜まった。ササン朝側の東アルメニアでアルサケス家のホスローを王として擁立しササンの影響が再度固められた。

【ヤズダギルド1世による融和と少数派宗教の衝突】

 次代のヤズダギルド1世期に緊張が高まり戦争開始寸前までいったが、使節交流がうまく行き平和は保たれた上、一部のキリスト教徒の待遇が改善された。ササン朝内にもキリスト教徒は少なくなく、教義を明確にし組織化するため410年セレウキア公会議が王の監督下で行われた。ヤズダギルド1世は逆にゾロアスター教聖職者、この国の文官に強く影響した層から評判が悪い。
 多数派ゾロアスター教による社会制度が整いつつある中で、少数派に寛容な政策が取られたことは逆に争いを生んだ。末期はキリスト教徒がゾロアスター教の寺社を攻撃する事件があるほどになっていたという。少数派なれど強固な信仰心を持ち続けた人々は、抑えつけが減るとゾロアスター教支配社会へ抵抗し始めた。
Map of Sasanian Empire
 アルメニアには幸いなことにローマとササン朝の融和は平和の維持に役立った。

【バハラーム5世と大宰相ナルセスによる官僚体制】

 420年バハラーム5世が即位する。彼はペルシャ文学「七王妃物語」のモデルであり、名君とは言えないが狩猟熱中の逸話など奔放な所もあり今もイランで愛されている。
 そんなバハラーム5世を支えたのはゾロアスター教系の文官ミフル・ナルセスである。ナルセスは実に3代にわたって仕え、非常に長く権力を保持した。彼はヴズルク・フラマンタール(大・宰相)の地位についた。大宰相役職の下に宗教・軍事・政治の3省が置かれ官僚体制が洗練されていった。

 バハラーム5世は先代と打って変わって(あるいはナルセスに従ったためか)ゾロアスター教の保守派であり、キリスト教徒臣民の中に東ローマへ逃げる者が現れた。彼は引き渡しを要請するも東ローマ皇帝テオドシウス2世は拒否した。皇帝の姉プルケリアが強い影響を持ちしかも熱心なキリスト教徒だったためと言われる。加えてローマの金堀技術者をササン朝は雇用後に帰国を許さなかったこともあり急激に摩擦が高まった。
 421年についに平和が破れ東ローマとの戦争が開始される。ササン朝軍は侵攻するも連敗、逆侵攻を受ける。ナルセスが率いた軍も破れ大都市ニシビスへ籠るも逆転の目は無く講和へと到った。条約ではササン朝内キリスト教徒の礼拝の自由を認め、コーカサスの辺境部族防衛にササン朝が資金提供することも盛り込まれた。久しぶりの完敗であった、ただこの大幅譲歩はササン朝が2正面で戦線が激化してしまったことも背景にある。

 5世紀初頭東方でエフタルという遊牧民国家が隆盛しつつあった。東ローマ方面を諦め注力したササン朝軍は重要交易都市マルフの争奪戦になり最後は勝利する。ただエフタルはすぐに回復し後にササン朝にとって巨大な厄災となる。

【アルメニア貴族の支配とアルサケス朝アルメニア王国の消滅】

 アルメニアの大部分を影響下においていたもののササン朝の統制は緩く、アルメニア貴族の意向が重要な要素であった。バハラーム5世は不満をそらすのを兼ねてササン派アルメニア王につける人物はアルサケス家のアルタシェス4世にした。彼の父ヴラムシャプーは外交で東ローマとササン朝の仲介をしたり、内政ではアルメニア文字成立に貢献するなどした人物であった。
 しかしアルタシェス4世はまるで支配者として不向きだったようで、アルメニア貴族達が彼の廃位をササン朝に頼むほどだった。428年、平和裏にアルメニア王は廃されここにアルサケス朝アルメニア王国は滅んだ。領土分割されたまま統治はササン朝から送られてきた長官が行うこととなった。
 ササン朝の圧力をたびたび受け不満はあったが、それでもまだ現地貴族の影響力は続きササン朝は彼らに実質的に自治権を委ねていた。