今回は片翼が一時的に押し込まれ包囲形が見え始めた時、そこから逆襲する戦術の事例としてアヴァライールの戦い(Battle of Avarayr)を紹介したいと思います。この会戦はアルメニア史およびアルメニア正教にとって極めて重大な戦争として位置づけられておりますが、ササン朝側に重点を置きながら紹介したいと思います。
451_battle of Avarayr_9

 歴史背景は長いため、別記事に分けました。創設期からのササン朝・アルメニア関係史は戦略的勝利の解釈のために必要ですが、要点のみ絞って記述することにしました。
→リンク【ササン朝・アルメニア関係史_226~438_アヴァライールの戦いの歴史背景】

以下は直接的な会戦の流れを記述します。

ヤズダギルド2世の中央集権化

 438年、楽し気に生きたバハラーム5世が崩御しササン朝を継いだのは理知的なヤズダギルド2世であった。彼は父を反面教師に狩猟や暴食、宴会を控え職務に没頭したという。ヤズダギルド2世の気質は彼が述べた言葉に端的に表れている。
 「疑い、調べ、理解せよ。そして最良のものを選び得ようじゃないか」

【ゾロアスター教基幹の官僚・中央集権化への邁進】

 彼の評価はキリスト教・アルメニア語側とアラビア・ペルシャ語側で全く違う。アルメニア側は彼を狂信的なゾロアスター教の王であり圧政を敷いたとしているが、これよりも別の見解の方が筋が通る。
YazdegerdII
 むしろ彼が重要視したのは中央集権化とそれによる国内外の問題対応体制の確立であった。そのために宮廷貴族勢力を削ぐあるいは王権に従わせること、地方で権力者の抑制、そして社会問題となっている宗教対立の解決が必要だったのだ。

 宗教的(風俗的)少数派の軋轢は深刻である。ヤズダギルド1世期に寛容にした際に多数派と社会衝突が起きており、バハラーム5世期は弾圧しようとしたがローマに敗れ失敗してしまっている。どちらの道も困難なのだ。王はこれを解決しなけれ国内統制は達成できないことを理解していた。
 ヤズダギルド2世の時期には大宰相ナルセスの先代からの貢献もありゾロアスター教系文官を基幹とする官僚体制が洗練されつつあった。ササン朝の身分制度もかなり固まっていたはずである。ここでゾロアスター教聖職者を排除するのはもはや非現実的であった。王はゾロアスター教を過度の優遇はしなかったが、彼らと良好な関係を築き神威を王権強化・中央集権化に利用しようと狙った。
 ヤズダギルド2世は冷徹にキリスト教の抑圧を決めた。しかし後述するように、彼には狂信的な拘りが無く一般的に迫害は限定制限され時に妥協する方針であった。

ヤズダギルド2世と大宰相ナルセスの国家戦略

【東方戦線の激化、地方安定化、少数派宗教抑圧】

 ヤズダギルド2世は即位後すぐに東ローマとの戦争を再開した。先代とナルセスが敗北したテオドシウス2世を打ち破る。しかし彼は賢く戦争の拡大を避け早期終結させた。メソポタミア国境付近を荒らし優勢に進めていたが深入りせず和睦を受け入れる。440年の条約で「国境地帯に両国とも要塞を増やさない」こととした上で、ササン朝内キリスト教徒へのローマの干渉を無くした。これにより彼は国内キリスト教抑圧、特に追加課税に成功し財源を確保した上で社会対立を強引に抑え込んだ。ユダヤ教や他宗教にも同じ方針だった。

 ただ東ローマとの戦争早期終結はテオドシウス2世が別問題で忙殺されていたのが理由であるのと同じく、ヤズダギルド2世もまた別の問題、即ち国土東方のエフタルに対処する必要があった。隣のキダーラとも戦ったと言われている。(442~448年
 ヤズダギルド2世治世末期にはエフタルは強大化を続けキダーラを圧迫しグプタ朝に侵入するなどバハラーム5世期とは明らかに違った存在になっていた。ヤズダギルド2世は(次代で捕虜になったぺーローズ1世のような)大敗北をすることは無く、幾つかの文献は勝利したとも書いているが東方戦線は決定打を欠いた

 彼はエフタルの東方戦線がこれ以上激化する前に他の地方を鎮撫しておきたかった。見事にローマとの西方戦線を安定化することに成功し国内宗教少数派の統制も達成した。そして次に彼が目を向けたのはアルメニアであった。

【アルメニア支配の強化】

 これまでの長い歴史が示しているようにアルメニアが敵性勢力に変わり得ることをササン朝宮廷は解っており、今のうちに統制を強める政策をするべきと考えた。対ローマ、北部異民族に対する非常に重大な戦略的価値をアルメニアは持っていた。
 アルメニアは地方自治が強いためキリスト教徒への追加課税もササン朝本領とは違いまだでき無かった。彼らは兵を供出し東方戦線でササン朝軍の中で活躍、特にアルメニア騎兵はその名を轟かせていた。

450~451_Area of Armenia ナルセスはアルメニア問題に関して王に提言した。いきなり軍を送り込むのではなく、ゾロアスター教聖職者を多数派遣し更に貴族と領民をゾロアスター教へ改宗させることで王朝全体の統治組織にアルメニアを組み込もうという方針だった。
 ササン朝の長官は表面上は優し気に、しかし裏では統制を強めようと進めた。派遣されてきたササン朝中枢出身者たちの貴族生活は優雅で娯楽に満ちており、キリスト教会が禁じているものも含み、アルメニア貴族を魅了する関係を築いた。一方で人口と土地測量を行い一通りの国勢調査を実施した。集められた情報に基づき課税が行われた。更にアルメニア人有力貴族を軍事と採決を司る地位(Hazarapet)から解任しササン系の役人と入れ替え、ゾロアスター教聖職者にアルメニア最高司祭の地位を授けた。
 成果がすぐには出なかったのでナルセスは勅令をアルメニアに送り、ローマと繋がろうとする道は愚かであると説き賢い選択を取るよう、即ちゾロアスター教に基づく規則を学ぶよう申し付けた。

アルメニア貴族の反抗と蜂起

【ヤズダギルド2世との直接対話】

 448年、アルメニア貴族とキリスト教聖職者は首都アルタシャトで会議を開いた。この会議でキリスト教系アルメニア貴族はこの押し付けに明確に反対することが宣言された。
 ヤズダギルドは彼らを王都に召集し直接話をすることにした。最大有力者マミコニアン家のヴァルダンヴァサークが15人の貴族を率いてクテシフォンを訪れた。ヴァルダンは432年からアルメニア最高軍司令官(Sparapet)の役職に居た人物である。

 ヤズダギルドは厳しい態度でアルメニア貴族との会談に臨んだ。その夜アルメニア貴族たちは一晩中話し合って意見を一致させると翌日に跪いてゾロアスター教へ改宗すると王に告げた。ヤズダギルドは喜び賛辞を述べ贈り物も渡した。その後アルメニア貴族はゾロアスター教聖職者700人を連れて帰還し布教を始めたとされているがヴァルダンはまだクテシフォンに留め置かれている。

【散発的蜂起の発生】

 しかしゾロアスター教の教義はキリスト教的価値観にはいくつも堕落したと映るものがあった。150年以上にわたりキリスト教は大多数のアルメニア民衆に浸透しており、422~432年に聖書のアルメニア語翻訳が為されていたことも影響し反発を生んだ。ゾロアスター教の聖職者は即時の改宗が不可能であることに気づいたという。449年7月にキリスト教聖職者に率いられた群衆がこん棒やスリングで武装し反抗を始めた。ササン朝駐留軍は戦力集中前に大打撃を受けてしまい、次々と町村が奪取された。ゾロアスター教聖職者が殺害された事例もあったとされる。
 貴族たちも誇りと信仰を傷つけられたことに強い不満を抱き、領民も同調しているで声を荒げ始めた。大富豪ヴァサークも同感だったがササン朝の強大な軍事力を知っており、しかも彼は2人の息子を人質にクテシフォンに置いてきてしまっていた。

【軍司令官ヴァルダンの下への集結】

Vardan Mamikonyan 民衆が期待していたのは軍司令官でもあった名門貴族ヴァルダンだった。ササン朝に従軍した経験だけでなくコンスタンティノープルを訪れたことがあり東ローマとコネクションがあった。

 450年頃ヴァルダンはクテシフォンから帰還した。直後に彼に多数の請願がありササン朝宮廷の思惑通りに改宗させるのは不可能だと悟った。板挟みになった彼は家族と共に東ローマに併合されていた西部アルメニア領へ行ってしまった。そこで静かに暮らそうと望んでいたが、東アルメニアから使節団が訪れ戻って来てくれるよう頼みこんだ。
 ササン朝の強大さをその目で知っていたが、彼は覚悟を決め帰国すると他の貴族・有力者たちへと手紙を送りキリスト教信仰と自治のために立ち上がるよう檄を飛ばした。ヴァサーク達ササン朝を恐れる派閥も彼らの圧力で反抗に加わった。
 ここにバラバラだった反抗はアルメニア貴族筆頭の下へと集結したのだった。

ヴァルダンとヤズダギルド2世の戦略

【南コーカサスの同盟と外部からの分断】

 反抗軍は東ローマに加えて北の勢力(南コーカサスのラジカ、コーカサスイベリア、アルバニア)と同盟しようと考えており、ヴァルダンはすぐに使者を送った。しかし東ローマはアッティラ率いるフン族を警戒せねばならずアルメニア支援はできなかった。また、協力要請の手紙の事をヤズダギルドに報告したという話もあり外交的にササン朝側であった。

 既にヤズダギルドも軍事制圧が不可避な事を悟り、討伐に向けて幾つかの策を展開していた。
Strategy of YazdegerdII
 基本方針は分断戦略である。彼はヴァルダンの狙いを早期に察知しておりアルメニア北部とイベリア・アルバニアの連携を断とうと動いた。そのためにコーカサス南部に配置していた防衛線で軍を展開させたのである。いきなりアルメニア内部に強引に踏み込もうとは考えていなかった。

 対するヴァルダンは北部とは交渉を進め、加えて東部のザラヴァンド(現在のKhoi)が当時アルメニアで最も侵入に脆弱な箇所あったためまずそこに部隊を派遣し封鎖した。
 450年の内に、ヴァルダンの軍は北部クラ川(Kura)でササン朝駐留部隊と戦闘、これを打ち破った。これでコーカサスで散発的に活動していた反ササン朝勢力との接触に成功した。イベリア(ジョージア東部)・アルバニア・アルメニア連合軍は勢いに乗りコーカサス山脈とアルメニアの交通路の要塞を攻略した。
 完全とはいかないまでも敵の北部分断を阻害することに成功したのである。けれどもヤズダギルドの分断策はもう一つ存在した。

【懐柔による内部の分断】

 ヤズダギルドはあっさりとある程度の信仰の自由を認め、加えて反乱者にも今やめれば恩赦を与え罪を問わないと伝えたのである。
 これに何名かのアルメニア貴族が応じた。アルメニア史の変遷に現れているようにササン派であったりゾロアスターに抵抗感の少ない者がいたこともある。その中に最大有力貴族の1人ヴァサークもいたのだった。この知らせは反抗軍に激震を走らせ、ヴァルダンは急ぎ北部から軍を戻した。そのためアルバニア・イベリア連合部隊とは離れざるを得なかった。

 ヤズダギルドの外部からの支援を妨害してから懐柔により内部を分断、圧倒的多勢を送り込み粉砕しようとする戦略にヴァルダンは必死に抵抗した。

戦力と地形

【会戦場所への移動】

 451年4月13日、ヤズダギルドはザラヴァンドから少しだけササン朝軍主力を移動させ大量の築城を行い侵攻拠点を作った。総指揮官はヌサラヴルド(Mushkin Niusalavurd)という人物で、彼はここから略奪部隊を派遣した。ヴァルダンはこれに気づき2000名ほどの少数精鋭を繰り出し偵察させた上で散発的な急襲を行わせた。しかしササン朝軍主力は多く、びくともしなかった。

 ササン朝主力軍は移動しアヴァライール平野のTghmut川近くで野営した。これを聞きヴァルダンは会戦を決意した。アルメニアの地が略奪に晒されるのを防ぐためと言われるが、これ以上敵増援が来る前に打倒しようとしたとも考えられる。
 主力軍の駐屯する大都市アルタシャトからアヴァイール平野までは150km前後であった。彼は全軍を繰り出し5月25日までの約5日間で戦場に到達させている。(到着は騎兵が先行し歩兵は後で着いている)
 会戦場所は川を挟み平野が広がる場所であり、兵が移動しづらい自然の要害が点在していた。

【両軍の戦力】

 領土全体に散らばるアルメニア軍の合計は84000人、内訳は騎兵4~5万、歩兵3万4千であったとされる。分布は西部24000人、東部21000人、北部18000人、南部21000人である。しかし戦争が続くにつれ戦力は低下し騎兵は3万ほどになった。これは領土全合計であり集結した野戦軍の数値ではない。
 会戦場所に集まった数は反抗軍6万6千、ササン朝軍18万~30万(うち4万人がササン派アルメニア人)と記されている場合もあるが、これほどの動員と集中はあまりにも難しい。
Armenian Kataphraktosbattle record_後世に記された

 今回はアルメニア軍事史を著したSargis大佐の研究に基づき、ヴァルダンのアルメニア反抗軍戦闘員数4万(騎兵1万2千)人と考える。
 ササン朝軍は戦象15頭をも有し、戦闘員数8万人である。

 また、盛んに諜報活動を行っていたとされ戦闘部隊総数と構成、更に非戦闘員数や旗と指揮官位置(部隊分け)、築城地帯に居るか野営中かなど入念に調べている。

アヴァライールの会戦_部隊展開

 両軍は川を挟んで対峙していた。
 ササン朝軍指揮官ヌサラヴルドは注意深く築城陣地を強化し続けた。特に宿営陣地・糧秣集積場の周りに塔を築き要塞化していった。
 部隊配置する上で右翼にやや多くの兵を送った。右翼は広く展開し外側には自然の要害を位置していた。これで右側面の安全を確保した。左翼の中央後方にはやや距離をとって山脈が広がっており、アルメニア軍が容易に回り込むことはできないようにしていた。戦象は中央の2列目か部隊の間に置かれた一方で騎兵隊がどの程度混成していたかは不明瞭である。最前面は射手・散兵がおりその後ろに分厚い歩兵部隊が存在した。大軍を活かし後列も充実している。宿営地周りにも部隊を置いて固く警戒を解かなかった。
 指揮官ヌサラヴルドはササン派アルメニア人たちに自分たちこそが「王の中の王」の勅命に従う名誉と権威を持つ官軍であると説き離反を防いだ。この中にヴァサークも従軍しかつての仲間と対峙していた。彼は中央に配置された。
451_battle of Avarayr_1
 ヴァルダンのアルメニア反抗軍は指揮系統を明確化して各部隊を組織化していた。主に左翼中央右翼後方予備とわける方式で展開する。アルメニア騎兵・貴族が突撃の主力となるが雇われた兵士たちも貧弱な武装で多数で参加していた。どの程度歩兵との混成隊形だったのか判然としない。
(※ この部隊分けと指揮官位置には2つの説がある。
① ヴァルダンの部隊は中央後列予備に位置→あとで左翼へかけつけ戦況を優勢に変えた
② ヴァルダンは最初から左翼の指揮をしていた。予備は大きな役割をこの会戦で果たさなかった。
Sargis大佐は各研究を検証し最も語られやすい①は英雄化されたものであり②の方が矛盾が無いと考えている。)


 こうしてヴァルダンが到着した翌日の451年5月26日、両軍主力が激突したのだった。戦いの前夜、彼らは多数従軍していた聖職者と共に神に祈りを捧げたという。

両軍の前進と河川上での激突

 日が昇り両者とも布陣が整っていることを確認した。
 まず前面の射手が射程範囲に相手を収め、ついに決戦の口火が切られる。両軍は激しい雄叫びを上げ、膨大な数の兵士たちが身に着けた鎧と刃物が陽の光を反射し大地に幻想的な光景を作り出したと記録されている。あらゆる場所が騒がしく盾や鎧が打ち鳴らされ声を通すのも一苦労であった。その中で射手たちの弓とスリングの音が混じっていた。
451_battle of Avarayr_2
 ラッパが吹き鳴らされ、射手の後ろから近接部隊が前に出る。両軍ともに前進をしかけたたため川は兵士で埋め尽くされた。足場の悪い場所であろうとぶつかり合い兵士たちは密集した。川中での戦いは勇気を振り絞りしっかりと立ち向かわなければならなかった、というのも臆病風に吹かれると圧されて水に足を取られてしまうからである。幾名もの負傷者が離脱していく。

 左翼・中央・右翼の全面で激突していたが果敢に踏み込んだアルメニア反抗軍が先手を取った。騎兵が川を渡り切り対岸での戦闘へと移ったのだ。
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アルメニア軍左翼の前進成功

【左翼の前進とササン朝の反撃】

 少なくとも反抗軍左翼は完全に押し渡っていた。中央も歩兵が押し込んでおり同じタイミングかわずかに遅れて川を渡った。
 ササン朝軍は厚い陣を敷いており、川は渡られたがその先で反抗軍の勢いをくい止めた。惜しまず後列を投入し流れを取り戻すと左翼と右翼の両方で反撃に出る。この時点でササン朝左翼がどこまで進展したか(川を渡ったか)はわからないがアルメニア反抗軍右翼は打撃を受け後退した。
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 反対側のササン朝右翼でも後列投入は成功した。反抗軍左翼部隊は渡河後に足が止まり混乱状態になった。極めて危険な状態だ。ヴァルダンは戦況を仰ぎ見た。下がる選択は兵力が少なく厚みの無い反抗軍には無く、彼はここで目の前の敵を打ち破る意外に無いとわかっていたのだろう。部隊をなんとか再編しササン朝軍右翼へまた突撃をする。ここで後方の予備部隊を彼が率いて反抗軍左翼へ投入したという説もあるが、いずれの場合でもヴァルダンはこの時点で左翼に位置し最前線でその勇敢さを示し兵を奮い立たせている。

【左翼の突破と片翼包囲】

 アニメニア反抗軍左翼が死に物狂いで闘い再び押し始めた。ヌサラヴルドは驚いたであろう。一度敵を渡河させてから後列を使い反撃し川に押し返しそのまま潰してしまおうという形が見えていたというのに、反抗軍は猛烈な士気で跳ね返してきたのだから。ササン朝軍右翼はヴァルダン達の突撃に耐えられず、ついにその場所から追いやられてしまった。
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 同時に反抗軍中央部隊が呼応し激しく攻撃した。彼らは左翼部隊と連動して圧力をかける形を取った。ササン朝軍中央は押されて逃亡者が出るなどじりじりと下がり始めた。
 ヌサラヴルドは右翼の後列部隊をほぼ使い切っていたようだ。右翼が駆逐されたことは中央部隊の右側面が晒されていることを意味する。戦場全体はアルメニア反抗軍による左翼の片翼包囲の形態を見せていた。中央はまだ耐えられるが圧されつつあり完全に余力を失った。既に翼側から戦闘は波及してきている。ヌサラヴルドは中央部隊後列も使い勢いに乗る反抗軍右翼へ対応した。中央前列の戦闘は激しさを増した。戦闘経験の無い民兵には逃げる者もいる中でアルメニア貴族はその気概を示し、この攻勢と引き換えに何人も戦死していった。
 この時ササン朝軍左翼でも両軍が猛烈な攻撃を繰り出しているがこちらは均衡が大きく崩れてはまだいない。
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 ヌサラヴルドは半数しかいない敵に片翼包囲され危機に叩き込まれたのだ。だが彼は決して敗北したなどと考えてはいなかった。

ササン朝最終予備の投入と逆包囲

【部隊の再編】

 戦況をヌサラヴルドは注意深く観察した。中央部隊にはヴァサーク達アルメニア兵がいる。彼らが逃走しだしたら戦列は崩壊するだろう。今敵の攻勢は中央前列を押し除けつつあり戦象の箇所に近づいている。
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 ヌサラヴルドはこの初期想定と大きくずれでいたであろう状況でも冷静であった。素早く指示を飛ばし後退する各部隊を再編し並べなおした。彼は両翼に注意を払いながら翼部隊をそのまま下がった位置で再度展開準備させ、同じく中央で下がっていた兵をまとめ歩兵戦列を整え直した。この時彼はただ立て直しただけでなくヴァルダンを罠にかける戦術を展開していた。

【逆包囲】

 ヌサラヴルドはササン朝軍戦列これ以上後退させることをさせなかった。待ち構えていた戦象が活躍しアルメニア反抗軍の攻勢を押し止めた。アルメニア人の槍兵は敵に多くの損失を出させていたものの、押し込んでいたヴァルダンの左翼はここに来て再度前進が止まり、引き付けられたまま戦闘を続けることになってしまった。この停止はヌサラヴルドが部隊を適切に方向転換させ側面への攻撃へ対処したということを示している。
 そしてこの瞬間主導権が移り、ヌサラヴルドの逆包囲戦術がヴァルダンに襲い掛かった。
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 最高のタイミングで戦闘から一度離れていたササン朝右翼部隊が戦列を整え舞い戻る。これは予備部隊をかき集めた最後の一手であった。後方宿営地の防衛隊までも投入したとする文献もある。この部隊はヴァルダンの左翼の側面へと差し向けられた。アルメニア人達が反応する前に距離を潰しその側背へと殺到する。反抗軍の左翼は集中的な攻撃を受けることとなったのだ。
 ヴァルダンはその主攻の翼部隊で対面の翼部隊を前線から弾き出した後で残る中央へ圧力をかけていた。けれども翼包囲戦術のために左翼部隊は突出する形となった。そこをヌサラヴルドは局所的に包囲したのだ。

【終結】

 この逆包囲戦術は完全に成功した。左翼部隊は包囲された中で対応するスペースを失い打ち倒されていく。ヴァルダンたちアルメニア貴族は最期まで勇敢な姿勢を見せ、逃げることなく踏みとどまって闘った。だがその見事な戦いぶりがあったとしても包囲は破れず、左翼部隊はとうとう壊滅した。ヴァルダンを含め数多のアルメニア有力貴族が戦死した。
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 それでもアルメニア反抗軍の中央と右翼はまだ崩壊しておらず戦いを継続できた。これは左翼の一部が逃走せず限界まで踏みとどまったためであろう。彼らは形勢不利になりながらも日没まで戦った。夜になると同士討ちが起きそうな混戦となりかけたためお互い戦闘を切り上げた
 数多の死者を残しアルメニア反抗軍は夜の内に撤退していった。ササン朝軍は各地に散らばった反抗軍残存の追撃と掃討戦に移り、ここにアヴァライールの戦いは幕を閉じた。

戦果

 アヴァライールの戦いは目まぐるしく前線が動いた上に日没まで続いた激戦であった。アルメニア側の記録では反抗軍は死者1026名、ササン朝軍は3544名であるが、現代の研究ではこれより多かったであろうとされている。この戦いでアルメニア有力貴族の多くが戦死した。ササン朝軍はアルタシャトへ侵攻し扇動した司教たちを捕らえた。

 ただこの戦いの結果の解釈は一筋縄でいかないものがある。

アルメニアキリスト教徒の勝利

 アルメニアの貴族とキリスト教徒たちは大規模な反乱を起こす力を失ったが、税金や宗教的圧力に不満を抱き続け反抗の芽は完全には摘み取られることはなかった。ササン朝側も人的損失は大きく加えて莫大な費用を使わされたことは、性急な強権支配の方針を転換させた要因の1つとなった可能性がある。少なくとも反乱が起きたが故に懐柔策として宗教の自由を認めている。
 結局ゾロアスター教の布教は成功を収めなかった。更に外部でも大きな出来事があり、東ローマで同451年カルケドン公会議が行われ単性説派は異端と決定された。この会議にアルメニア教会は戦争で参加できていない。これ以後アルメニアおよび東方の教会はローマやコンスタンティノープルの教会と袂を分かち独自路線を歩むこととなる。(506年にアルメニア聖職者たちはカルケドンの条項を採択しないことを議決し完全に分離した)

 これらの要素が合わさり、アルメニアでは強固なアイデンティティが育まれ始める。5世紀にアルメニア人達がいくつもの歴史書を記し始めたのはその一例である。その中でアヴァライールの戦いは彼らにとっての抑圧に抵抗する象徴となり戦死者たちは殉教者として英雄化されていった。これは後年のナショナリズムで更に強化される。ヴァルダンはキリスト教信仰を守ろうとするアルメニア人たちの心の支えとなった。
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 ヤズダギルド2世の子のペーローズ1世治世期481年、北のコーカサスイベリアの反乱に呼応しバハーン・マミコニヤンが再度反乱を起こす。エフタルとの戦争で王自身が捕虜になるほどササン朝軍は壊乱しており、バハーンがササン朝軍の一部を打ち破ったのは驚くことではなかった。ペーローズは後継者争いでエフタルの介入を招いてしまいアルメニアに戦力を送れなくなった。更に484年、エフタルとのヘラートの戦いで偽装退却からの後方遮断にかかり殺されてしまう。この際にササン朝主力軍は王と共に壊滅してしまった。

 そのような惨状のササン朝にもはやアルメニアへの強力な支配は不可能であり、むしろ少しでも紛争地帯を減らしたい一心となった。後を継いだバラーシュ王は宗教に寛容で、484年の内に彼とバハーンにより条約が結ばれ(Nvarsak Treaty)アルメニア人たちはついに宗教の自由を勝ち取ったのだった。
 アルメニア人「キリスト教徒」たちはこれらに基づきアヴァライールの戦いに戦略的価値を見出した。即ちアヴァライールの戦いは戦術的敗北であるが、蜂起し正面から戦い敵に改宗の困難さをわからせ、後世の人々の抵抗の基となる姿勢を見せたことで戦略的勝利を得た…という解釈である。

 上記はキリスト教史観を反映した典型例であるが、後年のナショナリズム思想でこの戦いを解釈するのは注意が必要である。この戦いを「ササン朝vsアルメニア国・人」とするのは多くの矛盾を生む。上述のアルメニア・ササン関係史で示したように、またアヴァライールの戦いでササン朝側に多数のアルメニア人が参加していたことからもこの戦いは自治の獲得を求めた反抗軍との勢力圏での内戦であると捉えるべきと考える。

ヤズダギルド2世にとっての意義

 けれども、ではヤズダギルド2世が敗北したのだと言えるだろうか。彼をゾロアスターの布教者と見なすならそれは正しいはずだ。しかし上述のように彼の政策方針においてゾロアスター教布教はあくまで組織と社会を整備するための道具としての側面が強く、決して最上位の目的ではない

 ヤズダギルド2世は反抗軍が壊滅したことを確認すると再度ゾロアスター教の寺院を建て文官による現地統制を強めることができた。東ローマの干渉とそれによる寝返りは防止できるようになった。アルメニアで長きに渡り実質的な支配をし続けて来た貴族たちはその力を著しく減衰させた。宗教を除き、彼がその治世で常にし続けて来たように中央集権化と支配強化は確実に進んだのだ。彼の統治末期に大きな反乱はもう起きることはなく、アヴァライールの戦いから実に30年後にバハーンが蜂起するまで支配体制を脅かす者は現れなかった。ササン朝は東方に再度主力軍を回せるようになりエフタルの侵入と戦い続け、ホラーサーン地方に宮殿を建てるなど腰を据えて前線に対応できるようにしている。(逆に言うとエフタル対処に追われアルメニアの最後の仕上げができなかった)
 以後のアルメニアは、キリスト教徒たちが自由を勝ち得た後ですら、ササン朝の一部としてあり続けたのだ。

 ヤズダギルド2世はキリスト教徒に憎まれエフタルへの対応と中央集権化に追われながら、457年にその生涯を終えた。後世に彼の名を称える者は少ないが、それでも責務に向き合い続けた王の中の王であった。


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 以上で本拙稿は終わろうと思います。ここまで長い文を読んで頂き本当にありがとうございました。

 アヴァライールの戦いはキリスト教史観の資料を基にしているものが多いですが、Sargis大佐はキリスト教的英雄化ではなく冷静な分析を為されるよう要望しています。アルメニア内でも見直しが進んでいるようです。本稿は両側の史観がわかるように書いたつもりですが恐らく真新しくも無いかと思います。
 逆包囲戦術について、突出している敵包囲翼部隊を後方部隊が逆に複数方向から襲撃する方式です。ポピュラーではありますが踏みとどまる部隊、投入タイミングと量、分散になる危険を冒すといった点などから極めて困難な手法でもあります。アヴァライールの戦いは最初から逆包囲を狙ったわけでなく数的優位で押し返した事例とするべきですが、数的不利でこれをやってのける軍も存在しますのでその戦例をこれからもいくつか紹介しようと思っています。
gif_451_battle of Avarayr
<gif_Battle of Avarayr_全流れ>
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【参考文献】
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Eberhard Sauer, (2017), "Sasanian Persia: Between Rome and the Steppes of Eurasia"
Agop Jack Hacikyan, Gabriel Basmajian, Edward S. Franchuk, Nourhan Ouzounian, (2000), "The Heritage of Armenian Literature: From the oral tradition to the Golden Age"
Tafazzoli, Ahmad, (2000), "Sasanian Society: I. Warriors II. Scribes III. Dehqans"
Vahan M. Kurkjian, (1958), "A History of Armenia"
Razmik Panossian, (1988), "The Armenians From Kings and Priests to Merchants and Commissars"

【サイト】
http://www.armnet.ru/battle/avarair.htm
https://armenianchurch.us/essential_grid/st-vartan-and-the-battle-of-avarayr/
http://zae06141.client.jp/iranhistory16_2.html
http://armenian-federation.blogspot.com/p/armenia.html#.XRE2uOj7TBU
http://arsaces.web.fc2.com/roma1-8.htm
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http://tert.nla.am/archive/NLA%20TERT/Mirror-Spectator/250212.pdf
http://www..hayq.org/upload/files/հին_հայոց_ռազմական_միտքը_հայկ_նահապետից_մինչև_վարդան_մամիկոնյան_2018-02-08_2018-03-01.pdf


【メモ】
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・会戦日は6月2日としているものもあるがアルメニア正教公式ページに従い5/26とした。
・ナカラル Nakharar=アルメニア貴族の最上位クラスの者たち
・北からのコーカサス山脈そばの南下ルートはダルバンド回廊 Derbend Gatesと呼ばれた
・Zoranakakの資料はアルメニアは86に区分されていたとしている?(アルサケス朝盛期は戦力12万に達したとされる。)
・象1頭あたり3千人の兵士x15頭の象=4万5千
・ササン朝軍は通信に旗を使っていた可能性があるが詳細は不明である。
・ササン朝側に「Immoratals=不死隊」またはゾロアスター系精鋭部隊がいたとされているが、詳細不明。
・ササン朝軍は15㎞に渡り土を掘り柵を作り紐でつないだがこれが野戦軍の前面だったのか、川沿いに渡河地点制限のためだったのか、宿営地防御だったのか判然としない。
・歩騎混成か、別個の部隊か、あるいは最初だけ別個で随伴し足が止まると乱戦か文献からは読み取れない。
・244年ミシケの戦いは行われなかった説もある。ピリップスによる皇帝暗殺のケース。
・ササン朝はほとんど常に遊牧民と闘っていた。初期からクシャーンやトゥーラーンに遊牧民が関わっていた。シャープール2世期にはキオニテ(フンの一派?)が襲来している。シャープール3世期に東方でクシャーンと記される敵と戦っている。中期以降には強大なエフタルと突厥が東部国境を脅かし続け時に貢納をしなければならなかった。
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【敗戦要因考察_Sargis大佐の分析を参考に】

・敗戦の理由は北のイベリアおよびアルバニアの援軍が無かったこと。450年に活躍した山岳の民の弓矢が無かったことは痛手であった。この後方路を分断し脅威見せて拘束した戦略は極めて効果的だった。更に東ローマは支援が遅れたどころか実質的にササン朝を利していた。アルメニア人の中でも分断がありしかもこれは一度団結した後の切り崩しだったことも評価すべきである。
・ヴァルダンは冬季に戦闘をせず山々に部隊を引いて散らしてしまっていた。彼らがアルタシャタに集結したのは4月つまり戦闘のわずか一か月強前で訓練不足だったのである。この期間にササン朝軍は軍を増大させ築城など拠点作りを進め侵攻の準備を整えてしまっていた。彼らの遠征軍は長期間ともに居て訓練できただろう。
・反抗軍は己の領内であったが奥地とは言えない場所での戦闘であり諜報面でも優位は得られなかった。
・ヴァルダンはすぐそばに広がる山林を利用したゲリラ的な戦争を選ばなかった。アヴァイアー平原ではササン朝の騎兵と戦象が動くに適しており隊形を組むにもやりやすい場所であった。
・戦場についてからすぐ翌日に戦闘したため疲労が抜けていなかったことも考えなければならない。
・戦術的には逆包囲を防げなかったことが敗因だが、何が正しい選択だったかは見極めが難しい。まず考えられるのは一度は崩した敵翼部隊を十分に追撃せず再編の余地を与えたことだ。片翼包囲のために側面攻撃は必要不可欠だがそれに移るタイミングの見極めは最も難解な戦術的判断である。
・そもそも倍以上の数と闘ったことが戦術的可能性を制限している。数的優位は後列予備を投入する戦力があるということであり、故に偽装退却からの包囲戦術のように結果的になった。
・アルメニア人またはキリスト教徒の英雄主義的史観はヴァルダンたちが凄まじい決意をもっていたことに目を向け記述するが、5世紀の文献で多数の雇われ兵がおり彼らは十分な武装もなく士気も低く逃亡したことにも着目すべきである。