※ 本記事はアンカラの戦いの会戦戦術そのものについては記述せず、その場所に到るまでにティムールが行った戦略と諸作戦、特にその行軍について記します。

 中央アジアで覇を唱えた大アミル・ティムールが小アジア及びバルカン半島で拡大を続けるオスマン朝のバヤジット1世と対決したアンカラの戦いは広く知られています。
 両国共に隆盛期であり数多の戦歴を重ねそして勝ち続け巨大な勢力となっていました。2大国の衝突は大会戦へと到り戦争そのものに決定的な勝敗を生み出します。ここで展開された作戦について記述してみたいと思います。
Timur_Campagin at Asia Minor

膨張するティムールの勢力

 新興の大アミル・ティムールは14世紀末の中央アジア・イラン圏で勢力を広げた。
 くすぶった若年期を過ぎ年配になってからの彼の軍事的勢いはとどまる所を知らなくなる。時に裏切られながらも全方位の敵を次々と打ち破り拡大していく。マーワラーアンナフルから始まり、中央アジア全域、南ロシア、イラン、ジョージア、インド・アフガニスタン、シリア、そして小アジア(アナトリア)へと彼の征服は続いていった。

 これらの結果として彼は文字通り歴戦の軍隊を有するに到っていた。軍の疲弊や国力の消耗、そして情勢を見極めて練られた各遠征(Campaign)計画は深慮の為されたものであった。
(←別途記載 И.М. Миргалеев博士の分析紹介)

ティムールの軍隊_概略

 ティムール軍の構成については別途記載するが、今回特筆すべきことは彼の軍は遊牧民の騎兵に依存した軍ではなく多数の歩兵を有し、一部は充実した装備と訓練を施されていたということだ。
Army
 常備軍化した中核部隊を保有し、各地からの参集部隊は部族長の封建的な集まりでなくティムールの息がかかった指揮官に一部がすげ替えられた組織構造を成していた。
 彼の兵士達は戦功によって評価を得たのであり、人種・出身・宗教のみで決められることはなかった。モンゴル人がイラン人と、かつての都市定住民が遊牧民と、ムスリムが異教徒と、キリスト教徒が仏教徒と共にその厳しい遠征を成し遂げたのだ。一部勢力に依存しない軍構成はその数を膨大なものとすることを可能とし、十進法に基づく部隊管理が為されていた。イスラム国家でありながら軍人には一般人とは別の法適用を行わせた。

 野戦築城は各戦役でほぼ必ず行われるほど常識化し歩兵・工兵は熟練となり、時に騎兵や象すら建設に利用する思想をティムールは示した。東西の知識人が参画し巨大な攻城兵器を組み立て、手投弾や銃の類型と思わしき火器が使用もされた。
 膨大な遠征経験はあらゆる困難地帯での兵站に関する知見を獲得させていた。

(←別途記載 ティムールの軍隊)

1380年代末から続いたバヤジット1世の急激な征服

 ティムールと対決するオスマン朝もまた近年急拡大しつつある勢力であった。

 小アジアに流れ着いた遊牧氏族から興ったオスマン朝は今や東ローマを滅亡の際まで追いこむようになった。14世紀末、バヤジット1世の父ムラト1世は巧みな外交と軍事行動を行い、コンスタンティノープルこそ落としていないもののアジアから海峡を越えバルカン半島で進出拡大し東欧諸国にとって最大の脅威となった。一方小アジアでも勢力を広げ他の君候国(ベイリク)は取り込まれるか親オスマンとなって従うようになっていく。ムラトは征服地で異教徒を徴集し改宗、言語など各種教育と軍事訓練を施した部隊を公式に編成した。彼らはイェニチェリと呼ばれた。
Beyazid expand
 セルビアの征服を最後に戦地で死去した父に代わりバヤジット1389年よりその征服事業を開始する。ムラト死去後、小アジアのベイリク候国は若き新君主相手に反オスマンを表明したが逆にバヤジットはそれを名分に次々と制圧して支配を強化拡大した。(屈服させたセルビアや東ローマも従軍させている。)2年ほどで大半を成し遂げる驚異の速度であったがそれに満足せず、並行して反抗を開始したコンスタンティノープルへの攻撃とバルカン半島拡大まで着手、1394年ブルガリア全土を併合した。
 1396年、東欧諸国はこの脅威に対抗するため十字軍を結成するがバヤジットはニコポリスの戦い野戦築城及び偽装退却の戦術を使用し粉砕した。これらの軍事手腕は強引すぎるきらいはあるものの高い評価を得ている。その逸話からか英語圏では雷の如き速さの皇帝(ライトニング)の異名でも知られている。
 残るベイリク候国は侵攻されると各地へ亡命していった。ついに小アジアのほとんどをオスマン朝は支配するまでとなったのである。即位後わずか十数年でバヤジットは広大なる征服事業を成した。しかしそれ故に、現地を知りコネクションもあるベイリク諸候亡命者を従えてティムールが来襲することとなるのだった。

1380年代から継続したティムールの諸戦役

 ティムールは1386年より『3年戦役』で西アジア遠征を行い拡大、一旦切り上げ1389年にトクタミシュに対応して『南ロシア遠征』へと続けた。いよいよマムルーク朝や周辺諸国が警戒を強め同盟を組み始めた。1392年より再度西アジア遠征を行った『5年戦役』でバグダッドを支配下に置くがトクタミシュの再蜂起によりそのまま北へ向かうとバグダッドは奪還されてしまう。1395年に北方遠征でトクタミシュの勢力を完全に崩壊させ、連続してアゼルバイジャンとジョージアへ攻撃してからサマルカンドへ戻っている。次の戦役は1398年より行われた『インド遠征』であり約1年で成功した。一旦サマルカンドに帰還したがすぐ1399年に次の遠征が開始される。これこそが『7年戦役』と呼ばれシリア遠征小アジア遠征を含むマムルーク朝とオスマン朝への大侵攻の始まりであった。
Timur_Expand
 1380年代末からバヤジットはほとんど止まらず戦争をし続け広大な領土を征服した。しかしティムールは彼以上に戦争をし続けていたのだ。

ティムールの7年戦役(シリア遠征・小アジア遠征)

【ティムールの戦略】

 ティムールは親征を開始した時、まずやり残していたアルメニアとジョージアを制圧する。これにより明確にバヤジットとティムールの勢力圏は接するようになった。

 だが問題はそれだけではなくエジプトを拠点に広大な影響力を持つマムルーク朝が南西にいたのである。(マムルーク朝は攻撃を受けたバグダッドのスルタンを匿いティムールの使者を処刑したため1393年に決定的に敵対)このため境界部諸国は3大勢力のどこかにつく状況となった。
 マムルーク朝系勢力は同盟を組み、オスマン朝方面(西)へティムールが行った場合にその側面(南)及び後背の本拠地へと攻勢をしかけるべく待機していたのである。ティムールはこれに気づいていた。

 彼は勢力拡大を望んでいたが2大勢力と同時に本格衝突するような戦略にはせず可能な限り各個に戦争をすることにした。そして彼の戦略の優れている点であるが、各個撃破を現実的に成功させるために敵の滅亡をいきなり狙うことはしなかったのである。片側の大国に侵攻し深入りしている間にもう一方に大攻勢を受けてしまってはならない。
 そのために軍事戦略として敵滅亡ではなく自国領域への脅威を排除することを第1に決めたのである。即ちエジプトまで突進する攻勢ではなく、メソポタミアとシリア域におけるマムルーク朝系勢力の壊滅が遠征の目標となった。これらが達成された後に国際情勢に問題なければエジプトを望む遠征をする可能性が生まれる。
 オスマン朝軍主力は東ローマの首都コンスタンティノープルを陥落させようと熱中していることを確認し、ティムールはついに南進を開始した。

【シリア遠征】

 ティムールはアルメニアを通り小アジア東部友好勢力の大都市シヴァスへ到っていた。ここは小アジア中西部へもシリアへも行ける位置にある戦略的要衝である。シリア遠征を決めるとシヴァスからマラティヤへと進軍した。この際に兵士がインド遠征から間もないため疲れており来春まで延期するべきと各将軍に上奏されるも却下している。情勢的にこのタイミングを逃すわけにはいかなかったためと思われる。
Timur_Syria & Anatolia_campaign
 1400年10月にアンティオキアを経由しシリアへ入りアレッポの街へ向かう。斥候はティムール軍を見て報告した。「これはサタンだ」
 アレッポのスルタンは直ちに軍を集結させ、同盟にはティムールを背後から攻撃し補給を絶つよう要請した。対してティムールはシリアに散らばる城塞群を端から力攻めする気など毛頭なく、温情を示し形式的な服属を求めることで戦わずして進むことを狙った。アザグ、ホムスなどの城が応じて開門した。
 ただアレッポにはシリアとエジプトの軍勢が集まり徹底抗戦を決定していた。ティムールはこれを迅速に押しつぶすとアレッポ市街に対し3日間の略奪を許可した。住民の多くが殺戮と収奪を受け街は壊滅した。この惨禍を聞いた周辺都市ハマとホムスは戦闘前に降伏しており、ティムールはこれらの都市をわずかな貢物で許している。この硬軟を併せて示す作戦はティムールの都市攻略基本方針であった。(後にハマ市が反逆的なことをした際にはためらわず略奪をさせている)

 1400年12月、ダマスクスは降伏しかけていたが増援が来たため戦おうと決めてしまった。ティムールは郊外の丘に陣を敷くと塹壕などを施し攻城戦の準備を始めた。とりあえずアレッポから連れてきていた捕虜が蜂起すると困るので見せしめを兼ねて一部処刑を行う。ダマスクスの使者に対し傲岸不遜な態度で降伏を迫った。拒絶されるとティムールはしばらく様子を見てあっさりと撤退準備を始めた。ダマスクス側は勝利の時が来たと思い追撃に城から討って出た。だがこれは罠でティムールの陣は強固な野戦築城で待ち構えており受け止めてから迅速に反撃、敵野戦軍を壊滅させた。
 それからティムールは悠々と市街の眼前に再度姿を現した。彼は各部隊を(攻城戦用でなく野戦式に)整列させると、市街の眼の前で行進を始めた。鮮やかな各戦闘隊形の最前面には戦象が堂々と並べられた。この示威行為を見た将軍達は夜の内に逃亡し、残された者達は誰もが恐怖にのまれ抵抗力を失くしてしまった。ティムールが城壁を多数の攻城兵器で破壊するとついに降伏したのだった。攻城戦開始からわずか1ヶ月で大都市ダマスクスを陥落させた。1400年1月、彼は迅速にこの街を出立し次なる目標へと向かった。

 続いてティムールはエジプト方面に行くのではなく、東進してメソポタミア域を狙った。諸都市を落とすのに並行しティムールは再度反旗を翻していたバグダッドを苦しみながらも夏に攻略。この都市に対して全く容赦はなく荒廃させた。これによりシリア、メソポタミアに対する制圧戦は一旦の落着へと到った。もはやマムルーク朝勢力がティムールの本領を脅かせる可能性は完全に消滅していた。

 エジプトは目の前であったかもしれない。だが国際情勢はティムールにマムルーク朝滅亡の遠征を許してはくれなかった。ついにオスマン朝のバヤジットとの対決が本格化したのである。

オスマンとの開戦と小アジア遠征の始まり

 ティムールはシリア遠征のためバヤジットの中立を維持するように出来得る限り穏便にことを進めたかった。コンスタンティノープル攻略戦と不穏なバルカン情勢があれば拘束できる可能性もあった。だがバヤジットはこれまでの戦争で見せてきたように、多方面で同時に事を荒立てるのをそれほど恐れない人物であった。
 この戦略は弱体化したベイリク諸侯との戦争を片手間に、主力をバルカン半島またはコンスタンティノープル方面に向けるのであればそこまで問題は発生しなかった。実際に成功し急速な領土拡大の一因となっている。それ故に小アジア東端でも同じ様に振る舞っていた。要衝シヴァスを占拠すると1399年に息子の指揮下に置いたのである。更にティムールの勢力下にある諸国に侵攻を仕掛けた。

 ティムールは怒ったが、当時はシリア遠征を優先としておりあくまで穏便にすまそうと抗議の手紙を送っている。賢明な判断をしなければ戦争で倒すと圧力をかける書面だが、同じイスラム諸国としてバヤジットの功績を認めてもいる内容である。これに対してバヤジットは挑発的返答をした。彼は東ローマを滅ぼそうとしている真っ最中であったにも関わらずである。それでもティムールは我慢しすぐには戦端を開かなかった。

 決定的な断絶は1402年に入ってかもしれないが、ティムールは遅くとも1401年の段階で本格的衝突に向け準備を開始している。部下たちにオスマン軍がかつて彼らが破ってきた如何なる敵とも違うことを認知させた。境界部の駐留部隊両軍で緊張は増してく。ティムールの親征部隊は北上を行いまずグルジア南部に入った。境界部のケマハ城の引き渡しと人質を要求する使者をバヤジットへ送った。ただ東ローマからすると何としてもオスマンを倒して欲しいため、使者をティムールに送りバヤジットを倒したら藩属してもよいと伝え、帰還してコンスタンティノープルにティムールの旗を掲げさせた。今やティムールは奇妙な立場に置かれていた。欧州とキリスト教国の救い主だと期待をかけられており、これはムスリムの配下と住民に対し良くない状況だった。その対策として民衆の中に部下を潜り込ませバヤジットのネガティブな噂とティムールが如何に敬虔なムスリムかを宣伝させた。
Timur_Campagin at Asia Minor_1
 ティムールは虚仮威しでは無いと証明するため要求していたケマハを占領しエルズルムの国境都市も攻撃、要衝シヴァスに陣取った。バヤジットの使者に自軍の威容を見せ侵攻準備が整っていると教えた。しかしバヤジットの返答は要求の完全拒否でありしかも文面は相変わらず傲慢であった。想定内であったのだろう、手紙のやり取りの期間を利用して彼は中央アジアから増援を呼び寄せていた。バヤジットとの戦端はもう開かれていたのだった。

行軍の始まり_バヤジットの強行軍

 バヤジットも少し前から準備は始めていたであろうが、直前までコンスタンティノープル包囲にその力を注いでいた。というのもこの歴史的都市は陥落寸前であったからだ。ティムールの領土侵攻を聞きバヤジットは激怒し、惜しみながらもコンスタンティノープル包囲を解き総力を上げて小アジアへ向かう。
 動員はバルカン半島や小アジアの全土で行われムスリムだけでなくキリスト教徒も招集、加えて南ロシアからタタールも呼んだ。エジプトのスルタンも呼応させようとしたが彼は既にシリア遠征で叩きのめされてティムールへ攻撃する心を折られてしまっていた。

【強行軍による東進とアンカラへの先着】

 バルカン半島のエディルネに集めた軍隊は海峡を渡り小アジア西部にあるブルサで全軍と合流し、ティムール軍へ向かって東進を開始した。
 道路状況は違うが大都市アンカラはシヴァス(ティムール陣)とブルサ(バヤジット陣)のちょうど中間に位置していた。

 (現トルコの首都でもあり)小アジアの中心、交通と補給の要衝アンカラの価値にお互い気づいていたのは経験豊富な2人なら当然なのだろう。バヤジットはティムールがここを軍事目標として奪いに来ると予測し、敵が到着する前に付近の高地を占拠し予め準備して市の城塞と共に迎え撃とうと、強行軍でアンカラに向かった。この際に大軍を素早く移動させるため2本の街道で分進させている。コンスタンティノープルを離れてから稲妻の如きという名に違わぬ速度でバヤジットはティムール軍に接近していった。アンカラを敵に先んじられないようとする彼の行動は論理的なものだった。
バヤジットの行軍
 確かにティムールはバヤジットの読み通りアンカラ制圧の軍事的意義を重視していた。
 それにも関わらず大きく動いていなかった
 急行するバヤジットと対象的に、ティムールはシヴァス市を制圧しじっくりと拠点を固めた。敵領域である故に慎重になるのは普通の事であるがそれにしてもほとんど移動しなかった。当然アンカラへの競争に勝つ時間はとうに失っていた。

 オスマン軍本隊はとうとうアンカラへ到着した。やはりティムールより先に、それどころか彼らの影形すら見えない内に辿り着いたのだ。訝しむべき状況である。ティムールの戦歴を鑑みれば彼が戦場での時間の重要性を理解していないわけがない。豊富な騎馬隊など先遣隊を向かわすこともしていなかった。
Timur_Campagin at Asia Minor_2
 考えられる理由候補は例えばティムールは国境近く地歩を固めて迎え撃ちたいと思って移動しなかったというケースである。ゆっくり万遍なく国境から制圧していけば、後ろに敵勢力拠点の憂いを残すこと無く侵攻していける。ただしこの場合オスマンの残る各拠点は防備を固めるに充分な時間を得て、バヤジットの本隊と連携し小アジア全土で最大限の防衛力を発揮可能である。巨大な補給能力を持つティムールでも遠征軍は消耗し突破制圧しきるのは困難を極める。バヤジットからすれば悪くない選択だ。逆にもしティムールが高速の行軍で防備が整う前に攻撃してきて、果ては交通の要衝である中心地アンカラが奪われては小アジアの防衛戦略は破綻に近い縮小を迫られることになっていただろう。だからこそ強行軍でバヤジットは急いだのだ。

【アンカラからの東進とティムール軍への接近】

 ティムールの位置を再確認する必要がある。バヤジットはアンカラに着いてから情報をもう一度集めた。彼はバルカン半島で戦っていた頃から密偵を多用しており、小アジア全土にも密偵網を張り巡らせていた。ティムール軍に潜り込ませた密偵からの情報を得た彼は、ティムールが未だにシヴァス近辺におり、シヴァス市の近郊北西77kmに位置するトカトへと部隊を差し向けたと知った。
 バヤジットはこの情報を得た後アンカラで迎撃する計画を変更した。待ち構えていても来ないのだから仕方がなく、アンカラに守備隊だけ残し主力は再び東進を開始した。ただし真東ではなくわずかに北へその軸はふられていた。ヨズガト街を経由し更に東進する。

 バヤジットの目指した目的地はトカトとシヴァスの中間地点西よりにある山地である。この箇所はシヴァス~トカト間の街道を管理下に置くことが可能で、しかも森と狭い道がありティムールの騎馬隊を撃退するのに理想的であった。この中間地点に軍を置き北からシヴァスへと接近していく。劇的なバヤジットの進軍をよそにトカト近辺のティムール軍の動きは遅い。ついに山中で両軍の哨戒部隊が出会い散兵の遭遇戦が発生した。バヤジットは本格的会戦が近いかもしれないため慎重に本隊を集める。ティムール軍はトカト近辺から既に退き始めているようでありシヴァス方面の南東へ移動していた。オスマン側が優勢かつ主導権を握ったかに思えた。
 けれどもこの時既にティムールの勝利へ向けた作戦行動が機能していた。

ティムールの迂回

【南西へ、オスマン軍後方へ】

 ティムール軍本隊は正面衝突に備えるのではなくバヤジットのいる方面とは逆の南へ移動し始めた。トカト方面から急転しシヴァスへ下がった後も止まらなかった。急激に移動が大胆になる。これまでシヴァス周辺でのろのろとまごついていた部隊とはまるで別ものである。トカト方面で接触したのは遅滞行動を行う別働隊であったと思われる。トカト南西部にいるバヤジット軍に正確な位置を特定される前にティムール本隊は振り切り距離をあけた。
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 南へ、更に南西へ、ティムール本隊の行軍は続く。焦ることはなく敵領内であるため時にゆっくりとティムールは軍を進めた。そしてシヴァスから南西185kmの地点カイセリ街へと到達した。ティムールはここで少し休止して糧秣を補給した。
 それからティムール軍は進行方向を再度変え北西へと動き始めた。厄介な森林地帯での戦闘をすることなくキルシェヒルの街を望む位置に彼はいた。その先にあるのはアンカラである。

 もはやティムールの作戦が大規模な迂回であることは明白であろう。最初の段階で何も考えず敵地アンカラに急行した場合は待ち構えるオスマン軍本隊及び城塞と戦うことになる。そうではなく、敢えて東部シヴァスで待ちバヤジットを引きつけ、一部隊で小競り合いをさせておいて本隊と接触する前に南から迂回し一挙に敵後方へ出るのだ。オスマンの野戦軍を撃破するため小アジア全域を計算に入れた巨大な作戦行動をティムールは視ていた。

【戻るバヤジットと進むティムール】

 バヤジットはトカト前哨部隊戦闘後に敵本隊が自軍後方地帯へ回りこんだことを知った。彼は急ぎ転進を命令する。
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 ティムール軍は充分な糧秣を携行および徴発しており、オスマン軍に真後ろからルートを追わせ振り回すのが一番望ましい形であった。それなら後方路を遮断された状態で焦って強行軍をしてきた敵部隊を準備万端で迎え撃てるだろう。主導権は完全にティムールが握る。だがバヤジットはそこまで愚かではなく、彼自身がこれまで来た道を西へ引き返すルートを選び、なんとか先回りしてそれ以上後方へ行かれないようにと試みヨズガト街へ戻る。キルシェヒル街へ部隊を投入するべく命令を発する。再び強行軍が始まる。

 ティムールはキルシェヒル近辺にいる時バヤジットが迫って来ていることを知っていた。彼はここで迎え撃つ選択肢もあったが、その場合はアンカラの大都市がオスマン側拠点として傍に存続してしまう。もし会戦で勝てたとしても都市に逃げ込まれ建て直される可能性はかなり高い。
 ティムールはこれらを解決する方策をねっていた。オスマン軍の一部がキルシェヒルまで40kmまで近づいた時、ティムールは隠密行動をとってアンカラまで3日の距離におりそこから兵站部隊特に井戸掘り部隊を先行させ事前準備を行わせていたのだ。
 迂回作戦はまだ終わっていない。キルシェヒルすら囮であった。ティムールはキルシェヒル近辺に到達したオスマン軍が本隊ではないことを確認すると、急速で移動しアンカラへとついに到達、攻城戦を開始する。

アンカラ周辺に到着した両軍

 バヤジットはアンカラ攻撃を知り急行する。バヤジットが強行軍をまだし続けたのは野戦軍本隊とアンカラ城塞の自軍で挟み撃ちにしたいという考えであったからだ。城を包囲する軍は分散せざるを得ない、この策は普通ならば問題なく戦史上見かけることは珍しくはないものである。

 ティムールはできればバヤジットが到着する前にアンカラを陥落させたかったので、直ちに強力な包囲網を築き始めた。数日で工兵部隊が一部の城壁を破壊し精鋭部隊の突入準備が進んだ。
 しかしティムールは突如として包囲を緩め、軍主力を都市の北方へ移動させ付近で唯一の川を占領し川向こうにある数少ない井戸には毒を投げ込んだ。彼は野戦会戦の準備を始める。バヤジットの本隊が到着したのだ。
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 バヤジットの行軍速度は凄まじいものだった。ティムールの作戦はここまで狙い通りに進んできたはずだった。しかし振り回し続けたにも関わらず最後まで高速の行軍は変わらず、アンカラへ戻ってきたオスマン軍本隊の方角と速度はティムールに驚きを与えた。最後の行軍でバヤジットはティムールの予想を超えたのだ。アンカラの守備隊を倒す前にティムールはバヤジット本隊と城の目前で戦わなければならなくなった

 ただバヤジットは即突撃することはせず布陣を充分に済ませることを望んだ。これは正々堂々を望んだからとも言われるが、夏期に1ヶ月を超す強行軍で疲れ果て飲料水も乏しい状態で元いた位置に戻ってくる徒労感が兵士たちから戦闘を行う体力と士気を著しく削いでいたためでもある。また当初の計画のような高台を占めて迎え撃つことはできなくなっていた。

決戦と戦争の終わり

 ティムールは戦役のほとんど全期間で主導権を握り続け作戦的優位は決して変わらなかった

 ティムール軍は歩兵、騎兵、戦象、工兵、各種技術者、鍛造工、井戸掘り工、火器などを従えた大軍でこの作戦行軍をやりきった。信頼のおける指揮官の下で統率のとれた6個軍団を保有し予備部隊としてサマルカンドからの精鋭の増援も間に合わせた。かつて追い出されたベイリク諸侯を連れてきて、オスマン配下の徴集兵を寝返らせる準備もしていた。
  オスマン軍も多数の騎兵やイェニチェリ含む歩兵を有しセルビアなど欧州からの兵も連れてきていたが数的に不利であり疲労も溜まっていた。
Battle of Ankara_2Battle of Ankara_Final
  アンカラの戦い、その会戦は1402年7月20日に行われた。会戦の詳細はここでは記さない。互いの豊富な経験に基づく激しい戦いとなった。バヤジットとオスマン軍は見事な戦いぶりを見せティムールを賞嘆させたほどであった。それでもこれまでの作戦で築き上げられた優位は変えられず、結果はティムール軍の勝利で終わる。オスマン野戦軍は崩壊し皇帝バヤジット1世自身と王子2人が捕虜になり、アンカラ城塞は翌日に降伏する。

 戦争そのものを終わらせる決定的勝利をこの作戦と会戦でティムールは得た。オスマンほどの大国との戦争がこれほど短期間で決着を見たのだ。小アジアでオスマンの権威は崩壊し再びベイリク諸侯ら様々な勢力の割拠する時代が訪れる。ティムールは直轄領度にしなかったもののその勢力圏は広大なものとなった。世紀の2大国の対決は終わり、ティムールは西の世界に比類なき将となる。既に老齢であった彼は東へその目を向け最後の遠征を望んだがそれは叶うことはなかった。

 オスマンの長子スレイマンは脱出し海峡を渡った。欧州や東ローマは彼や残存のオスマン兵を殺さず利益を得るために活用し混乱がオスマン朝に訪れる。だがオスマン朝は滅びず、ティムールが去った後に驚くべき復活とバヤジット期を上回る征服を成し遂げることとなる。
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 以上です。ここまで長い文を読んで頂きありがとうございました。
 今回は会戦で展開された戦術ではなく、そこに至るまでの作戦行動を紹介しようと思い記述しました。
 御見識を少しでも教えて頂きたく、話しの叩き台になれたらと本サイトを作っています。考察・別書籍等をご存知でしたら何卒よろしくお願い致します。

戦史の探求
https://twitter.com/noitarepootra

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【参考文献】
加藤九祚, (2008), "アイハヌム2008"
Abdullah Turhal, (2009), "BATTLE OF ANKARA 28 July 1402 : Research on the battle and notes from the field trip performed for the examination of the battlefield today"
John Ranking, (1826),"Historical Researches On the Wars and Sports of the Mongols and Romans"
David Nicolle, (1990), "The Age of Tamerlane"
川口琢司, (2014), "ティムール帝国" ←※軍の記述は少ない。国家社会構成。

【サイト】
https://harptarihi.wordpress.com/2011/10/01/ankara-muharebesi/
https://digitalworks.union.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1091&context=theses
その他多数あり、追記
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【メモ】
・イェニチェリの原型となる計画はアラ・エディン王子の歩兵編成(言うことを聞きにくいテュルク貴族以外の部隊)の試みにおいて、法官カラ・ルスタムがキリスト教徒の少年を肉体的かつ精神的に教育する手法を提案したことによるとされる。ムラト1世はそれを実践公式化した。

・アレッポ攻略の際に敵兵の首で塔を築いた逸話が知られるが、ティムールはあくまで既に死んでいた者の首で築くよう命令したのであり生きている捕虜を殺してまでやろうとした者に対してはむしろ怒りを示している。
・ダマスクスは住民に特赦をだされてはいるが、略奪を受けたともされる。ただしJ. Rankingはあくまでここでの火災は事故でモスクを守ろうとしたとしている。ティムールの軍事方針及びイスラム信仰からすると違和感はない。

・ティムールとバヤジットの中間にいたカラ・ユスフはティムール側であったが彼の支配に不満を抱きバヤジットを唆す策動をしておりこれが戦争の要因ともなった。

・キルシェヒル近郊でティムールが戦わなかった理由として、現れたオスマン軍が一部でありこれは偽装退却からの待ち伏せの可能性があったためであるとTurhalは考察している。

・ティムールの小アジア戦役はロードス騎士団の領土スミルナにも及んだ。バヤジットが何度も攻撃したが10年以上にわたり耐えていた領土である。しかしティムールは湾内の海に板を敷き詰め「陸地に変えて」突破口を開きわずか数日で制圧してしまった。

・会戦日について7月28日とする書籍も多い。
・シヴァス~アンカラ=直線距離373km
・ブルサ~アンカラ=直線距離329km

 ※本稿において戦役と遠征は異義であり1つの戦役内に複数の遠征が含まれるが、これは主にティムールが本拠サマルカンドを軍と共に離れ次に帰還するまでを1つの戦役として呼ばれていることに由来する。軍事的には遠征で区切ることのほうがティムールの作戦を理解しやすい。