1965年、インドとパキスタンは短いながらも激しい戦争を行いました。北部のジャンムー&カシミール地方の領有を巡る対話は頓挫し武力解決を政治指導部は決意します。最初は様子見のような衝突を行い、次第にエスカレートし互いに強力な軍事攻勢を実施しました。

 この戦争は主に4つの段階で分類されます。
第1フェイズ】:1月から起きた南部カッチ湿地帯での衝突、これは準軍事組織が最初に動き軍同士の衝突は小規模で終結。インドは『アブレイズ』作戦による西方動員開始。

第2フェイズ】:パキスタンが『ジブラルタル』作戦を発動しインド実効支配カシミールへ大量のゲリラを浸透させる、それに反応してインドは対ゲリラ作戦として停戦ラインを越えハジピール突出部へ攻撃する。

第3フェイズ】:カシミール西部停戦ラインを越えたインド正規軍に脅威を感じたパキスタン政府はジャンムー近域で正規軍による侵攻作戦『グランドスラム』を実施。インド軍は押し込まれたが逆襲し機甲戦が発生する。
  記事リンク→http://warhistory-quest.blog.jp/19-Nov-15

第4フェイズ】:カシミールではなくその南傍であるラホール地域でのインド軍の攻勢『リドル作戦』が発動。だがパキスタン軍は即座に撃退し第1機甲師団が逆侵攻の突進をしかけた。それにインド第2機甲旅団が反応し「WW2以降で史上最大の戦車戦」とインド軍が謳う戦いが発生。
  記事リンク→http://warhistory-quest.blog.jp/19-Nov-22
pakistan_offensive_1965

 1965年戦争は両国政府が「敵を撃退し勝利した」と宣言しそれに則った報道が為されてきましたが、2000年前後から特に軍人の手によって当時の記録を再分析する試みが進み、2010年代には複数の記事や本が作られました。それらの資料は部分的な勝利での戦術的に優れた行動を行った将兵を称えながらも、伝達ミスや深刻な戦略的失敗が互いにあったことを浮き彫りにしています。

 今回は第1と第2フェイズのゲリラ戦及び対抗作戦について記述し、次回は第3と第4フェイズの機甲戦について書こうと思います。
 引用メモが文中にたくさん残ってますが茶色の文はスルーしてください。資料ごとに差異があるため該当範囲を書いて見直せるようにとの自分用メモです。
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パキスタンの外交情勢

 パキスタン側の内情は大筋として次のような流れであるとされる。
 1948年の国連介入後、ジャンムー&カシミール(J&K地方)の旧藩王領で両派に別れたまま停戦となった。その後インド実効支配とパキスタン実効支配の領域に分割され停戦ラインがひかれることになる。
kashmirindia-pakistan-war

 安全保障理事会の決議によりカシミール住民が自己決定権を行使できるようにするため国民投票が行われることになっていた。しかし1960年代半ばまでカシミール問題は平和的解決に向けて大きな前進をせず交渉は失敗し続けた。インドが更にカシミール支配を強化したことはパキスタンの軍部と政治界に不満をもたらした。[参照3] [Nayar, (2012), pp.15~18]

 1962年中印紛争の結果インド軍は事実上敗北したため、パキスタンはカシミール問題の軍事的解決策に期待感を寄せるようになったとインド陸軍や歴史家たちは分析している。[参照4][Gokhale, (2016), 第1章] [Bammi, (2016),p.123]

 パキスタンは米国から支援を引き出すためSEATO(東南アジア条約機構)やCENTO(中央条約機構)に加盟して強くアピールした。ソ連が中央アジアから南下を目論む場合に重要な位置を占めるこの国は米国にとって欠かせないパートナーに思われた。インドは対共産主義用にパキスタンへ渡された武器が自国に向けられると強く異議を唱えたが、結果的にパキスタンは米国の軍事援助を得ことに成功した。米国は条約に加盟したパキスタンを「穏健ムスリム国家」と評しコントロールできると考えており、ソ連に(強く対立しないまでも)従わないインドと戦争させるつもりは無かったのだが、これは楽観的な見方に過ぎなかった。この10年間の米国の広範な軍事援助の結果として強化された能力を背景とし、軍事的解決への傾倒が強まったのだ。[参照3][参照5][Gokhale, (2016), 第1章][Hai, (2015), p.9] [Nayar, (2012), pp.18~19]

機械化戦力

(略)
※今回は機械化戦力は主力でないため、アサル・ウッターの戦いの記事に載せる。


パキスタンと中国の協調_インド関係緊張の高まり

 ただその後もJ&K問題で対話を進めるよう米英はインドに圧力をかけ、見返りに接近していった。その結果としてパキスタンは米国に不信感を抱き、インドの敵となった中国に接近を進めるようになった。1963年にカシミール地方中国制圧域の妥協条約を締結し1964年には周恩来が訪問、J&K問題に関しパキスタンの主張と同じ内容を宣言するなど明らかに親パキスタンとなり、中国のパキスタン武器支援が始まった。

 一方でインド・パキスタン関係は対立化の一途を辿った。1965年1月11日、パキスタン通信大臣は、「政府がすぐに占領されたカシミールのイスラム教徒を解放するためのあらゆる手段を模索する」と宣言した。緊張に焦るインド軍は1962年以降新兵募集を拡げていたが訓練の年数もまだ短かく、戦闘未経験の者でも昇進させるはめになった。更になんとソ連からの武器支援も結んだ。インドは米ソ冷戦に与さぬ政治外交方針を掲げていたためこのようなことができたのだ。[Gokhale, (2016), 第1章[Nayar, (2012), pp.20~21]
(これは後に東西の異なる系統の武器整備を必要としてしまい多大な問題を引き起こすのだが、65年時点では影響は少ない。)

 インドの軍拡未完成状況、武器充足率、兵員の練度、中国戦の敗北、米英の支援状況、全てがパキスタンの首脳部にとって戦争の後押しとなった。経済的にもこの時期はインドよりパキスタンの方が好調であり(インドは深刻な食糧問題が起きていた)、アユーブ大統領や開戦派のブットー外相はインド大統領シャーストリーに低い評価を下していた。ただアユーブ大統領自身も1958年のクーデターで政権を取った身であり政治基盤は危ういものだった。この国内政治に利用しようという思惑も開戦の理由ではないかとインドでは考えられている。[Gokhale, (2016), 第1章[Nayar, (2012), pp.28~31] [Bammi, (2016),p.123] 

 こうして戦争への道は整備されていった。対話の試みが暗礁に乗り上げたまま両国政治首脳部は選択を迫られ決断を下した。1965年は戦争の年となる。
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フェイズ1_南部での戦闘『砂漠の鷹』作戦

 1965年に起きた最初の武力行使はまだ戦争の行動に含まない場合もある、あるいは大規模衝突へのエスカレートはまだ回避できる余地があったかもしれない。ただ戦後インド側にとってこれは間違いなく戦争に影響を与えた作戦であったと評され、攻勢の第1段階であると言及されることが多い。[参照4][Hai, (2015), p.10]

 1965年初頭、インド側にとって非常に驚いたことに、パキスタンの最初の攻勢はカシミール地方とは真逆の南端カッチ県で実行された。インド軍は全く予想しておらず当初前線は警察隊がいただけだった。というのもカッチ県湿地帯(Rann of Kutch)と呼ばれる道路も充実していない軍事行動には全く不向きの広大な地域であったからだ。おまけに6月~10月の雨季には浸水があちこちで起きる所である。

 歴史的には確かに双方の主張が食い違う場所ではあった。1947~1956年まで国境論争を続けていたが1956年に極小規模な戦闘が起き、以降は実効支配を固めたまま鎮静化していた。[Gokhale, (2016), 第2章]

【武力衝突直前の領土論争】

 前年にもいくつか問題は起きていたのだが、明確と言える兆候は1965年1月からであった。[Nayar, (2012), pp.68~70]
1965_Keeping Vigil_Arid Desert
 インド側が国境(と主張する線)より内側にパキスタンのものと思わしき通行跡を発見、そこへ踏み込むとパキスタン側が領土侵犯をしていると警告してきた。パキスタンの準軍事組織が常駐施設を設営していたことが発覚し緊張が一気に高まった。

 2月15日の両国指揮官会議で対話による解決が失敗に終わると両軍は警察部隊や軍事組織を増強。インド側は2月末に第31旅団に占領地域を進ませ、パキスタン側は第51旅団を展開していく。(カバディ作戦_Operation Kabadi)

 パキスタンはインドが新たに設営した監視ポストから撤退するように外交部を通じて正式に抗議した。[Gokhale, (2016), 第2章[Nayar, (2012), pp.70~72]

【砂漠の鷹作戦】_Operation Desert Hawk / Operation Haider

 インフラが未整備で移動は困難を伴いしかも飲料水の確保が難しい場所で、インドの部隊は苦しんだ。対してパキスタン領土からは湿地帯への視界が良く近くの街への鉄道もあった。パキスタンの軍事作家Farooq Bajwaは1965年にパキスタン側がカッチで地理的優位に立てたことを認めている。
1965_4_Kutch_Desert Hawk
 4月7日、ついにパキスタン側は対話に見切りをつけ彼らにとって侵犯者であるインド第31旅団へ攻勢を開始した。攻撃そのものは7日発起予定だったがやはり移動が厳しく9日まで延期された。最初の前進で戦闘が始まると両者共に相手に多くの死傷者をださせたと主張している。インド軍は21人の捕虜と約200人の死傷者を出した。[Gokhale, (2016), 第2章] [Nayar, (2012), p.76]

 その後の詳細推移でも食い違いはあるが、全体ではパキスタン旅団は前線の2つの監視ポストを突破した。パキスタンは戦車連隊で強化を行う。インドは敵侵入状況をチェックするために旅団を移動し対戦車地雷を設置するなどそれ以上の侵入を阻止した。
 4月19日に偵察を行い激しい砲撃で準備した後の4月23日、パキスタンは2度目の進撃である『Operation Arrow Head』を発動する。再び4つの国境ポストを砲撃と共に前進しVigokotとBiar Betを26日までに占領した。この際にパキスタン軍戦車の「Fire and Move」戦法をインド軍は経験することになった。その後両軍ともあまり大胆な行動はとらず膠着状態に入っていった。[参照4] [Gokhale, (2016), 第2章]

【英国の介入による戦闘停止、水面下での戦争準備進展】

 死傷者を複数出す武力衝突であったものの、まだこの時点ではエスカレートは抑えられていた。例えばパキスタン空軍元帥(Asghar Khan)はインド空軍元帥(Arjan Singh)に電話して係争域上空を戦闘機・爆撃機が飛ぶのを両国共控える提案をし、政治部との相談をした上で合意が為された。湿地帯で航空偵察は極めて重要になっており実際の所その後も両国とも空軍機を飛ばしていたのだが、空軍が痛打を与えるようなことは無かった。全体的にインド軍が守勢を取り続けたのは、陸軍参謀総長チョードリ将軍が攻勢に出るなら部隊展開に適さぬ湿地帯ではなく他にすべきと述べるなど、戦略的判断からであった。[Gokhale, (2016), 第2章]  [参照6]

 カッチ湿地帯での衝突を受けインド世論は燃え上がった。議会も反応し当然J&K方面でも行動が議論されるようになる。インド軍は動員計画『アブレイズ作戦(Ablazeは燃え上がるの意)を実施、大規模な軍事行動を可能とする準備を始め、更に西部へ軍を移動し始めた。特にカシミール地方の根本のパンジャーブ方面へ動員が集中させられた。
[Hai, (2015), p.9] [Gokhale, (2016), 第2章] [参照6]

 米国はいくつか書簡を送ったが、砂漠の鷹作戦でチャーフィー戦車が攻撃に使われていたにも関わらず介入は控えめだった。[Gokhale, (2016), 第2章]
 積極的に動いたのは旧宗主国の英国だった。ウィルソン首相の両国への介入は成果を上げ、米国と共同で圧力をかけると戦闘は沈静化、6月30日に合意に達し翌日にカッチ域での衝突は終了した。死傷者を互いに出したこの争いはどちらの側にも大きな利益は無かったのだった。[参照4][Gokhale, (2016), 第2章]

 パキスタンは一連のインド側の反応をよく観察していた。インドはまだ反応が鈍いが軍拡が完了してしまえば難しくなってしまう。故にこのタイミングで本命ジャンムー&カシミール地方を奪取に動き出すべきと考えた。介入で訪れた平和は次の戦闘のための準備期間でしかなく、極めて短かかった。そしてカシミールでの衝突はより激しいものとなる。 [Gokhale, (2016), 第3章

カシミール浸透作戦_Operation Gibralter

 第1段階は南部が舞台であったがパキスタン軍攻勢の第二段階はインドの実効支配する北西端カシミール地方が目標であった。
 実際の所、カッチ地域の調停中に既にパキスタン軍はカシミール方面作戦へ動いていた。同じくインド軍も動員準備を進めていた。5月17日に陸軍元帥は作戦計画を承認する。[Gokhale, (2016), 第3章] [参照6] [参照7]

 パキスタン軍はカシミール渓谷での計画をジブラルタル作戦と名付けた。作戦目標は短期的には軍事ターゲットの破壊や通信と補給路の妨害を狙い、長期的には地元住民の蜂起と浸透ゲリラ戦強化のための支援、特に武器分配を計画していた。[参照3] [参照7] [Hai, (2015), p.10]
Operation Gibralter_Nusrat_

 ただ、そもそも作戦発動以前から停戦線沿いで衝突は頻発していた。1月~5月だけで522件の報告があり、例えばパキスタン側が自国領土側から地理的な優位性を活かして射撃してくるといったことがあった。ポイント13620と呼ばれた周辺に支配的影響を及ぼす高地に苦しんだインド軍が5月17日に第85軽歩兵連隊に命令を出し奪取した(後に放棄)、といった事例もある。[Gokhale, (2016), 第3章]
ポイント13620への攻撃ルート

【地元民蜂起の算段】

 ジブラルタル作戦は根幹として現地民がどういう態度に出るかが重要だったのだが、パキスタンを利する2つの直近の出来事があった。1つ目は1964年12月にカシミール渓谷で崇められていた地元の聖遺物盗難事件である。一帯のムスリムは怒りを訴え道に溢れた。パキスタン政府はインド国内ムスリムの弾圧だと非難し、渓谷での親パキスタン感情を増やし、ヒンズーやシク系主体インド政府への「ジハード」を煽ったのだった。2つ目はJ&K地方の有力一族でカシミール長官でもあったSeikh Abdullahがインド政府に拘禁されたカシミール陰謀事件(J&K地方分離運動を支持したと疑われ有力者が逮捕された)の進展があったことだ。ネルーと和解し告訴が取り下げられ帰還して多くの歓迎を受けた上に、J&K問題での交渉の一部を任されることになったのだが、彼がパキスタンを訪問し大統領と会っている時期にネルーが死去したため、インド政府内で方針が変わり1965年に再逮捕されてしまった。調停役を期待されていた彼の拘留はパキスタン政府にとって交渉決裂をより強固にし、J&K域内の親Abdullah派を反インド運動に参加させる好機と捉えられた。[Gokhale, (2016), 第3章]

【タスクフォースの侵入】

 カシミール渓谷一帯は極めて険しい山々が聳え立つ。通常の部隊は大幅にその能力を制限される難所である。
Vale-of-Kashmir-Jammu-and-Indiasatellite-3d-map-of-J&K
<参照:拡大可能3D mapサイト http://www.maphill.com/india/jammu-and-kashmir/3d-maps/satellite-map/ >

 そこでパキスタン軍はタスクフォースを9(+1)個編成し、別々のルートから広範囲にわたって侵入させることにした。各タスクフォースはイスラムで高名な歴史的人物の名を冠するコードネームを与えられた。(Tariq, Qasim, Khalid, Salauddin, Ghaznavi, Babar, Murtaza, Jacob, Nusrat Forceに加えてSikanderフォースと他いくつかの小部隊も居た)

 全体の70%はラザカール、ムスリム募兵で構成されており、パキスタン領カシミール(PoK)で育てられていたとされる。その中隊(計約120人)ではパキスタン軍大尉が長を担い、1~3人のジュニア士官がおり、35人の重要兵員がPoK地方の大隊などから選抜され、3~4人が精鋭たる特殊任務群(SSG)から、そして約70名のラザカールで構成されていた。国境付近の町村の住人も編成に一部組み込まれ現地での隠密行動をやりやすくしようとした。このうちPoK地方大隊からの選抜員は主にコマンド小隊員であり爆破などを担い活動の中核となった。武器は基本的に重装備は無くパキスタン軍のマークをつけず、浸透する前は一般市民の服装でジャングルブーツを履いていた。[Gokhale, (2016), 第4章] [参照7]

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 浸透開始時、彼らは7日分の食料とインド通貨と偽造身分証を持ち出立した。特に中隊指揮官は1万ルピーの金を持ち不測の事態に備えた。これらは現地で物資を購入し長期間にわたって活動するためである。侵入後は騾馬と運送要員によってパキスタン領内からも補給路を作る計画であり、状況によっては空中投下も考えられていた [参照7]

 第1陣1500人は浸透ポイント前面に配置につくため7月24日から部隊が各所に移動し、8月初週から侵入を開始したとされる。各隊は細分化して前進し奥地の所定ポイントで再集結し破壊活動を開始した。警備隊が数人の侵入者を見つけ射殺しその小部隊の残りは退却したが他部隊は侵入を続けた。現地の警察、駐留部隊が治安活動をしていたが、インド軍の本格的対応は捕虜とされる人物へのインタビューがラジオ放送されジブラルタル作戦が進行中であることが広まってから実施されることになる。[Gokhale, (2016), 第4章]

 パキスタン軍の攻撃は幾つかの地点で大きな戦果を挙げた。例えば8月13日にインド第8KUMAON大隊基地が襲撃を受け指揮官が死亡、副指揮官も負傷する。[参照7]
 さらに停戦ライン沿いでは浸透部隊が偵察の役目を果たしパキスタン領内からの砲撃も行われた。[Gokhale, (2016), 第4章]
 タスクフォース第1陣の進展を見てある程度の戦果を収めていることを確認し、第2陣6000人が送りこまれた。[参照7]
Operation Gibraletar_Infiltration
< パキスタンのタスクフォース浸透ルート Gokhale, (2016)より >

インド軍の反撃作戦

 この浸透とゲリラ的破壊工作に対し、初期のインド軍は断片的で曖昧な情報しか得られず苦労した。西方司令部司令官ハーバクシュ・シン中将はインテリジェンス部門には大いに反省点があると述べている。情報の齟齬や乏しさは後の第4フェイズまで含め1965年戦争全体でインド軍の深刻な問題であった。
 また、有益な情報は民間人から直接渡ることが少なくなった。例えばDarra Kassi村で、モハメッド・ディンという少年が牛の世話をしているときに、緑服の2人の男が近づいてきて金を渡しインド軍の展開について話すよう言われた。少年はでっちあげの物語を話してやり過ごした後、すぐに警察署に出来事を報告したおかげで軍のパトロールが直ちに派遣されその後の衝突で7人の潜入者が死亡した。8月8日、Narian町近くで2人のPoK将校が捕まり、警察の尋問によりジブラルタル作戦に関する計画の全貌が明らかになり始めた。[参照7]

 8月第2週目に入ってようやく動き出したのだが、警備部隊を除いてこの地域で反攻に使えるのはたった4個大隊でしかなかった。これでは広く散らばり移動し続ける敵をとうてい捕捉しきれない。これを解決するため8月6日にハーバクシュ中将が命令を出し第4シク軽歩兵連隊を増援として出立させていた。続いて2/9ゴルカ大隊をシュリーナガルの交通路確保に派遣した。[Gokhale, (2016), 第4章]
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 また域内のゲリラ掃討戦とは別に、北部境界のカルギール山岳地帯でインド第17パンジャーブ大隊が夜間に攻勢を開始してポイント13620や周辺を確保した。これに対しパキスタン砲兵隊航空偵察の支援の下で領内から攻撃を開始、インド第191歩兵旅団のB F Masters准将を戦死させ、第14野戦連隊の6つの砲が破壊された。インド軍は占領地点を放棄して退却した。ハーバクシュ軍指揮官は即座に命令を発し第26歩兵師団から1個砲兵隊及び歩兵大隊を移させると、最奪取へ動き出した。[参照7] [Bammi, (2016),124]
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 2/9ゴルカ大隊が到着するとインド第15軍団は地域内に浸透した敵の掃討作戦を進められると考えた。というのも相手は隠密に動き広範の破壊活動に集中するために、大部隊を一か所に揃えた拠点奪取はほぼしていなかったからである。第7シク大隊も展開し、新たに侵入してきた敵タスクフォースに立ちはだかった[Gokhale, (2016), 第4章]


 8月18日、侵入部隊の前進速度は低下したとインド軍は感じとった。この浸透戦役の情勢を正確に読んだのは西方司令部のハーバクシュ中将であった。彼は第15軍団司令部と率直に話し合い、敵侵入部隊が活動する領域の情報をまとめるとハジピール地域でニーラム川(Kishanganga)を越えて反撃にでるべきであると分析していた。22日に陸軍参謀総長や軍司令官達は会議を行い第15軍団に反撃作戦を発起するよう正式に命令を下した。作戦目標は中将の提案通りのハジピール山道(Haji Pir Pass)奪取であった。[参照7][Gokhale, (2016), 第4章]
Lt-Gen-Harbaksh-Singh-1913-1999
<Harbaksh Singh中将 https://www.magzter.com/articles/10433/259737/5a69cd565eb53 より>

【ハーバクシュ中将の対浸透ゲリラ戦役計画】

 陸軍参謀総長を説得することに成功したハーバクシュ中将の作戦案は受け身の現状を打破する積極策であった。要約すると地域内で活動する敵ゲリラ掃討戦、北部停戦境界沿いの山岳地帯で起きている戦闘で圧力をかけ、新たに停戦ラインを越え浸透発起地点と思われる敵実行支配領土へ攻勢へ出る、という3つの作戦を同時に進める案である。他2つは既に進めていたが問題は3つ目の攻勢だった。
Operation Gibraletar_Hajipir
 ハジピール攻撃の背景として、敵は大部隊同士の衝突をする気がなくゲリラ戦をインドが支配するカシミール地方で続けようとしていること、そして停戦ラインから浸透を今も続けていること、ゲリラ部隊のためにロジスティクスルートが複数伸びている(そして柔軟にルートを変えられる)ことなどから、その根元(logistic bottom)を断ち切らなければならないと考えたのだ。

 よって中将は「ゲリラの聖域」への攻撃として、国境沿いの敵支配域の奪取を計画した。戦力が限定されているため絞り込まねばならず、そのために選ばれたのがシュリーナガルの真西に突出しているパキスタン支配域ハジピールと北西端のNeelam渓谷である。いくつかある突出部の中でもハジピール山道が南のPoonch域で盛んに活動するゲリラの連絡線であるためここがターゲットとなった。[参照8] [Gokhale, (2016), 第5章[参照9]

 こうして中将と軍首脳部の合意の元で作戦が進められた。
 以前から攻めていた北部のカルギール山地で8月14日に13620高地などの再奪取命令が出され、15日に3か所で停戦ラインを超え作戦が開始された。非常に厄介な周辺支配的高所への攻撃は大規模な部隊が必要であり、敵小隊の保持する陣地に第1シク中隊が第138山岳砲兵隊と第17野戦砲兵隊の支援の下で夜間奇襲をすることでようやく8月25日に占領する。[参照8] [Gokhale, (2016), 第4章]

 並行して域内の掃討が進められ、停戦ライン沿いに部隊を集めていった。

ハジピール山道の戦い_Battle of Hajipir Pass

 インド軍の立案した攻勢作戦はハジピール突出部を根本から断ち切るように南北から挟撃し、それから切り離された突出部東の山岳地帯を占領するというものだ。部隊は次のように配分された。
Battle of Hajipir Pass_全体
< Soldier 2nd Lifeより https://soldier2ndlife.com/card/hajipir-captured-on-ground,-lost-on-the-table >

【作戦概要と担当部隊】

コードネーム:バクシ作戦_Operation Bakshi】

北部出発部隊:第19歩兵師団指揮下の第68山岳歩兵旅団
 (旅団所属:第1パラ大隊、第4ラージプート、第19パンジャーブ(実際は第161旅団指揮系統?)、J&Kライフル、第4シク軽歩兵、他砲兵隊等)
・任務:北部ウリ方面から南進しハジピール山道を遮断し南部部隊と合流、切り離された突出部山岳地帯の掃討
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【コードネーム:フォーラッド作戦_Operation Faulad】

南部出発部隊:第25歩兵師団隷下の第93歩兵旅団(所属は第2シク大隊(追加)、第3ドーグラー、メグドゥート)
・任務:南部プーンチ方面から北進し北部部隊と合流し突出部を遮断

 対するパキスタン軍の詳細は不明だが、おおよそ1個旅団(PoKの数個大隊含む)が突出部の防御にあたり、いくつも陣地を構築していた。インド軍側はこの陣地の整備状況を高評価している。また砲兵隊との連携もとれていたようだ。

 地形は上述の通り山岳地帯で、故に歩兵部隊が割り振られた。例えば奪取地点のBedori標高3760m、Ledwali Galiは3140m、Sankは2895mである。Bedoriは停戦ラインの4㎞南奥にあり、ハジピール山道(標高3421m)はそこから南西に10kmである。
[参照8] 
[Gokhale, (2016), 第5章[Bammi, (2016),125]

【作戦計画詳細】

 ハジピール山道を取るための南北挟撃と言ってもウリからプーンチに繋がる主要街道を正面から突き進んでいくなどということは損害が大きくなりすぎると予想された。そこで街道の東西横を各部隊が南北方向に進撃して収束していく形を取り、最終的にハジピール地点で東西挟撃へと到ると計画された。
Battle of Hajipir_First Plan

 さらに敵に常にインド軍の意図を絞らせず敵予備を縛り付けるために、以下の詳細計画が立てられた。

拘束部隊
・第161歩兵旅団所属の第7ビハールはTilpatraとZiaratを占領する、予定日は作戦開始日の最初の日の出。そして開始日から1日後の夜にBurjiを奪取。
・第41山岳旅団所属の第6ドーグラーはMehandi GaliとLundaを開始日から1日後の夜に奪取。

 街道の西を進むハジピール奪取の直接的役割を担うであろう部隊は次のように詳細が立案された。

ハジピール奪取部隊】 
 街道の西を進む主攻部隊は第1パラと予備の第4ラージプートと予定。
・第1パラがSankとLediwali Galiを作戦開始日+1日後の05:00時までに占領。
・第4ラージプートが第1パラを通り越してハジピール山道を作戦開始日+1日後の18:00までに奪取。

 街道の東を進む部隊は以下の計画である。
・第19パンジャーブがBedori、Pathra、ポイント12330を攻撃し作戦開始日+1日後の09:00までに奪取。続いてポイント11107に攻撃を拡げ、作戦開始1日後の18:00までに第1パラ連隊とコンタクトする。
※原文はRing Contourも攻撃とあるが図面上は西側なのでどちらかが誤記と判断。

予備
・J&Kライフルと第4シク軽歩兵は予備として置かれる。
[参照8] 

南からの接続部隊
  南からの進撃、フォーラッド作戦も困難なものだった。突出部南にはRajaとChand Tekriと呼ばれる相互連携をとり砲兵支援も受けられ掩蔽、鉄条網、地雷で要塞化された2つの要害陣地が君臨していた。南域への浸透の鍵となるこの基地は奪わねばならない。

 南担当の第25歩兵師団指揮官アムリーク少将(Amreek Singh)は戦力が足りないとハーバクシュ中将に伝え、この要害陣地を小迂回してまず北の第68旅団と接続する許可を第15軍団から得たと伝えた。だがこれは包囲領域にかなりの量の敵が残存することになるため、包囲達成後も突進部隊の東西両側で激しい戦いが展開さことを意味し、最悪ハジピールが挟撃される可能性もあった。

 ハーバクシュ中将はRajaとChand Tekriは取らねばならぬと断言し、追加戦力として第2シク大隊を配属させた。2地点の奪取期限は9月3日なった。この作戦は2段階に分けられた。
 フェイズ1は第3ドーグラーが9月2日21:30にRajaへ攻撃を始め、23:59までに奪取する。予備隊として第2シクが使用される。
 続いてフェイズ2は、第2シクが前進しChand Tekriを9月3日10:00までに奪取する。この際の予備として今度は第3ドーグラーが備え、加えて1個中隊(第3ラージプータナーライフル)が配属される。[Gokhale, (2016), 第5章]
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こうして初期の計画詳細は策定された。だが実際の推移はこれと大きく違うものとなる。

【バクシ旅団長と攻撃指令発令】

 第68旅団が渓谷内では並行してゲリラとの戦闘が続いている中で配置についていった。現在は退役されたシャムシェル(Shamsher Singh)准将は当時中隊指揮官としてここに従軍することになったのだが、バクシ作戦決行の頃には敵浸透部隊が弱っていたと回想している。例えば8月7日にPir Panjalを通って侵入してきた部隊が確認されており、8月15日に第68旅団が渓谷内で掃討作戦を行った際には一週間以上経過し食料が尽き疲労がたまっていたようで、地元の支援もほぼなかったためにその部隊を壊滅できたという。

 シャムシェル中隊長だけでなく皆がより大きな作戦が始まりそうな雰囲気を感じていたが、彼は上官を信頼していたようだ。というのも主攻を担った第68旅団の指揮官バクシ准将(Zorawar Chand 'Zoru' Bakshi)はWW2でビルマ戦役に従軍した経験を持つベテランで、恐らくインド軍で最も勲章を持つ将官だろうと言われるほどの人物だったからだ。
Zoru_Bakshi
 8月21日、バクシ准将は各隊員に攻勢命令があったことを伝え、短く演説を行った。
「紳士諸君、1947年以来我らは政府から攻撃を許されず攻勢に出るなと押し込められてきた。だがこの度、ハジピールを如何なる代償を払おうとも奪取せよと明白な指令が下った。
 如何なる代償を払おうとも(at any cost)と言った場合、一般市民の間ではそれは100%の損失を出してもという意味になるんだが、いち歩兵たる私は『40%の損失を出した時にのみ、私のもとに戻って来なさい。そうなるまでは徹底的にやれ。』と言うんだよ。WW2で私の中隊は40%の損失を出した後はそれ以上続けるのを防止されていたものだ。」

 詳細が伝達され、各部隊は攻勢のために準備を整えた。[Gokhale, (2016), 第5章]

【作戦開始】_Operation Bakshi

 8月25日(24深夜)に予定されていた作戦開始は大雨で24時間延期された。
 バクシ准将は気さくな人物で、シャムシェル中隊長が青色のターバンを巻いて雨の中仕事をしていたら色のついた水が顔に垂れてきてしまったのを見て、「君は顔の迷彩を青色でするのかね?」と冗談めかして声をかけてくれたという。緊張するであろうそのような日に旅団長は部下たちへリラックスした態度を見せていた。そして翌日、ついに作戦が始まる。[Gokhale, (2016), 第5章]

 8月26日(25日深夜)、第68旅団の2つの縦隊が停戦ラインを越え踏み込んだ。[参照8] 
 だが前日の大雨でぬかるみ山中進軍は困難を極めた。第1パラは夜間の内にSankの敵陣地前面に到達できなかった。インド軍では「山岳地帯での攻撃発起は日中にしてはならない」という教訓が強く残っていたようで、現場の判断に基づき攻撃延期となった。バクシ旅団長はこの攻撃部隊に同行していたので、すぐに変更命令を出せたおかげもあるだろう。

 26日朝、旅団長は小哨にいて座りながら次の行動を考えていた。すると通信があり東側の第19パンジャーブが既にBedoriをとらえたと伝えられた。バクシ旅団長は「ありえない!」と驚いた。だが通信を変わった第161旅団の指揮官も「私はBedoriをとらえた」と告げたので、バクシ旅団長は自分がいる最前線の環境を鑑みてまだ納得していなかったが、第4ラージプート(第1パラを後ろから追い越してハジピールへの進撃を予定していた部隊)に命令変更をした。第4ラージプートを東側の第19パンジャーブを支援して作戦の最高目標たるハジピール奪取へ向けて東部隊を迅速に動かすことになった。

 26日午後になった。シャムシェル退役准将は今でもこの日のことを鮮明に覚えているという。
 第4ラージプートは命令変更に従い26日夜~27日にかけてBedoriへ前進していった。すると彼らは突如攻撃を受けた、驚いたことにまだパキスタン兵はまだそこに陣取っていたのである。ありえないと述べたバクシ旅団長は正しかったのだ。(なぜ誤情報が伝わったのか原因不明)この後第4ラージプートは砲兵支援を要請したが、バクシ旅団長は既にBedoriは取ったと報告を受けていたのでそこに砲兵を向けるのは許可できなかった。このため第4ラージプートは負傷者を出してBedori進軍に一度失敗してしまうのだった。

 これに気づいたバクシ旅団長が上官の第19師団司令部S.S.Kalaan少将に地上の状況を報告した所、少将は激情し、バクシ旅団長へ如何なる代償を払っても絶対に第4ラージプートを前進させBedori奪取するよう言いつけた。(後に分かったことだが、その時ラジオ放送でインド国民にBedori山頂はとったと大々的に宣言してしまっていた。)
 だがバクシ旅団長はこれを拒否した。
「閣下、今第4ラージプートにBedoriを獲れなどと言ったら彼らは逆らうでしょう。ほんの少し前に我々は彼らにそこが既にコントロール下だと言ったのに、次の命令でそこに行って獲れ!と言うのですよ。これは認められない。」[Gokhale, (2016), 第5章]
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 ただその頃、バクシ旅団長のいる第1パラは今度は前進に成功していた。少し時間を戻って推移を記述する。

 26日午後の内に、第1パラは西側で渡りSankへの攻撃準備を再度整えた。この時点で21:30である。Sankはうまく防御陣地が準備され、鉄条網地雷で恐るべき姿へと変貌していた。激しい雨の中で困難な登山を続ける。襲撃は静かなものだったが、パキスタン軍は塹壕陣地から出てきて機関銃や小銃で撃ってきて、それをインド軍の2個中隊が応戦して塹壕へ追い返した。部隊は翌27日朝04:15に頂上についた。敵兵は重火器を置いて逃走したが、大隊は再編の隙を与えないように連続して前進、戦果拡張を行った。
 またSank南そばのLedi Wali Galiにも26日22:30に連続で攻撃を開始し、翌朝04:30にB中隊が敵陣450m前で展開して突撃した。苦しみながらではあったが27日18:00までに奪取に成功したのだった。
 ただこれでも周辺を確保したと言えなかった。そばのSar付近から銃撃があり部隊は拘束されていたためだが、Sankを落とした部隊が敵の退却先でもあったSarを即急襲し、周辺を完全に制圧したのは28日の09:30だった。
 [参照8] [Gokhale, (2016), 第5章]
Operation Bakshi

【連続前進の決断】

 この停戦ライン付近の攻撃中にシャムシェル退役准将がこの戦いの歴史的、決定的瞬間だと振り返る決断があった。それは8月27日午前中のことだったという。
 その時バクシ旅団長は最新の状況を改めて分析していた。西の第1パラはLed Wali Galiに到達済み、東ではBedoriへの攻撃が予定と違うにせよ進んでいる。ここまで明らかになればもう既に敵パキスタン軍がこの作戦全体の狙い、即ちハジピール奪取に気づいたはずだと彼は考えた。すぐに増援がハジピールへ直接送り込まれ強化されるだろう。(パキスタン軍第18パンジャーブが27日~28日夜に急ぎ向かってきていた。)戦力策定には急襲であるという前提があったし、ゆっくり攻めていけば甚大な被害がでるか、最悪失敗してしまう。よってすぐさまこのまま前進を続けハジピールへ向かうべきである。だが指揮司令部からはBedoriをまず必ず取れと言われている。つまり突進に元々予定していた予備第4ラージプートは突進に使えない。

 バクシ旅団長は第1パラ指揮官のプラブジンダー中佐(prabhjinder)に、第1パラをこのまま連続的に前進戦闘させることはできるかと尋ねた。これは時間がかかる上層司令部へ意見を仰ぐことをせず進めるバクシ旅団長の独断だった。
 ここで志願したのがダヤル少佐の中隊である。ダヤル少佐(Ranjit Singh Dayal)は砲兵将校を伴う彼の中隊によるハジピール山道への突進の許可を求めた。バクシ旅団長はまだ周囲では制圧戦闘中であったが出発を承認して、彼にヒンズー語で声をかけた。「ハジピールを取れれば君は英雄だ。君ができなければ私は独断の責を問われ逮捕だな。」[Gokhale, (2016), 第5章]

【ダヤル少佐中隊の連続行軍と到達】

 8月27日14:00にダヤル少佐の中隊は行動を開始した。[参照8] 
 15:30頃にLed Wali Gali周辺を離れる。[Gokhale, (2016), 第5章]
 谷へ降りると路の西側から攻撃を受けた。少数の散兵がSankからの撤退をしながらそこにいたのだ。
Major Dayal
 17:30豪雨がまた降ってきた。夕方にかけて霧雨が始まり濃い霧が山を包んでしまった。兵士たちは既にほぼ2日間連続行動状態にありかなり疲労していた上に、この過酷な気象と地形により活動と方角維持が難しくなった。19:00までに完全に陽が沈んだ。それでもダヤル少佐は部下達と共に山の中を進み続けた。途中で準軍事組織の人間が廃屋におり制圧した。

 少佐は道のふもとに到達すると、小道を離れてまっすぐ山を登って奇襲することを決めた。夜間に雨の中を重い荷物を背負いながら山の斜面を登り、しばしば深い水の泥濘を乗り越えていく。8月28日04:30、ウリ‐プーンチ道に突き当たり、それからしばし休息を取った。

 07:00に前進を再開しでついにハジピール山道700mのふもとに到達した。[Gokhale, (2016), 第5章]
※Sarkar大佐は06:00までに到達と述べているがこれは休息時間と合致しないためGokhale説を採用。

 そこでパキスタン守備隊が射撃してきた。ダヤル少佐は敵の位置をまず確認してから戦術を素早く考える。先頭の小隊と砲兵将校にその交戦を任せると、少佐は中隊の残りを連れて右へ移動。銃撃はせずに静かに山道西の山の肩を登り、そこから敵守備主力の側面へ駆け下りた。パキスタン軍の守備隊にとってこれは完全な奇襲となった。ここで残り部隊もより激しく攻撃し片翼包囲を行う。この2方向攻撃にパキスタン兵はもはや耐えられなかった。彼らは逃げるために武器を捨て斜面を駆け下りていったという。通信機器なども残されていた。ダヤル少佐はハジピール山道を10:00にはほぼコントロール下においていた。
 この凄まじい行軍と戦闘の結果、8月28日10:30、第1パラは作戦目標のハジピール山道を完全に制圧した。
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 8月29日、やはりこの損失は痛かったようでパキスタン軍は奪い返そうと反撃を実施した。第1パラはこれを撃退し、続く2日間の間にさらに数個の要衝を占拠した。そして陣地をしっかりと固め、そのまま停戦まで保持し続けたのだった。
 この活躍でダヤル少佐は英雄と呼ばれマハ・ヴィル・チャクラ勲章を授与された。[参照8] [Gokhale, (2016), 第5章]

 第1パラは敵反撃を押し返すと8月30日にはRing Contourを奪取し、その翌日にはポイント8786にも進出した。
Battle of Hajipir Pass_インド軍の反撃_突出部遮断

【苦闘した他部隊】

 優先目標のハジピール奪取は達成したとはいえ、他の戦術目標で様々な不具合があったことも注意深くインド軍は記述している。戦力を増強したにも関わらず結局ハジピールで収束挟撃するはずだった東部の襲撃はなかった。

東部隊

 振り返ると、まず停戦ライン近くのBedoriパキスタン陣地への攻撃は2度失敗していた。25日夜の第19パンジャーブと27日の第4ラージプートの試みだ。
 第19パンジャーブは8月26日夜(25日深夜?)に作戦を進めPathra通過までは成功したのだが、Bedoriで強固な陣地の抵抗にあい失速してしまった。その後、第19パンジャーブは翌日夜に再度攻撃をしかけ28日になって奪取したとされる[参照8] のは恐らくBedoriの一部で、29日03:30に第19パンジャーブは攻撃をBedoriに行い完全に占拠した。
 この時点で第1パラはハジピール占領済だったことを考えると、バクシ旅団長の判断とダヤル少佐の中隊の功績はやはり大きいだろう。

 第19パンジャーブはKunthar di Galiへ進み、9月1日第1パラと接続した。これもまた突出部占領のために重要な成果であり、指揮官のSampuran Singh中佐は勲章を授与された。[Gokhale, (2016), 第5章]
 第4ラージプートが前進していき9月5日にハジピールの東に位置するBisoliを占拠した。しかしパキスタン軍は反攻をBisaliに実施、奪い返したため第4ラージプートはSankへと一時後退した。
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【南部隊_Operation Faulad】

 9月1日、第93旅団指揮官のゾラ准将(Zora Singh)は隷下大隊にRajaとChand Tekriを奪取せよと正式に命令を発した。9月2日及び3日、予定通り2つの部隊は攻撃を始めたのだが相互に支援し合うパキスタン陣地は堅く撃退されてしまった。
 作戦を練り直し以前とは逆に第2シクがRajaを攻め、第3ドーグラーはChand Tekriを担うとし、今度は2地点に同時攻撃することになった。偵察隊は果敢に情報を集めこれが役に立った。
Operation Faulad
 ハーバクシュ中将の記述に基づく戦闘推移は以下のものである。

 9月5日~6日の夜、激しい砲撃と共に攻撃が開始された。その砲撃そのものは巧く構築された敵陣地に直接的な損害は与えられなかったが、その支援の下で歩兵は接近していった。突撃部隊が攻撃を開始しパキスタン軍も応戦してきた。敵陣地射撃地点をあぶりだすと今度は砲兵が効果的に撃ち込んで沈黙させた。各部隊は互いにリカバーし合い、鉄条網と地雷のエリアを越えると接近戦に持ち込む。

 至近距離の戦闘は2時間以上続いてようやく陥落した。パキスタン守備隊は断固たる決意で闘ったのだ。Rajaにおいては、パキスタン兵は最後の1人になるまで戦い続けている。インド軍側の損失は極めて重かった。最たるものは第3ドーグラーのG.C.Verma少佐とG.S.Bawa大尉の戦死である。彼らは突撃部隊を率いてくれた者達だ。
 第2シクでもN.N.Khanna中佐が重傷を負った。中佐は「今日第2シクがRajaを奪取すると私は確信しています」という言葉をその突撃の際に残した。驚くべきことに彼はその時までに既にグレネードで負傷していたにも関わらず最終突撃を指揮し、ブローニング機関銃の銃弾をその身に受けたのだ。中将はこの前線指揮官を称えると同時に、それでもまだ死守し続けていたパキスタン兵がいたことも書き残している。[Gokhale, (2016), 第5章]

ハジピール突出部の制圧

 両軍の兵士たちが死力を尽くした末、ついにRajaとChand Tekriは陥落した。これはジブラルタル作戦浸透部隊のための重要地点が失われたことを意味し、域内の侵入者たちに影響をもたらした。

 この後、包囲下に置いた域内で掃討戦を展開しインド軍はおおよそ問題なくこれを成功させる。
 9月10日、第93歩兵旅団と第68旅団の接続が完了しハジピール突出部全域をインド軍が占領し、ハジピールの攻勢は終結した。[参照8] [Gokhale, (2016), 第5章]
 新たに送られた第6ドーグラー大隊が西側のパキスタンとの境で戦闘を続け、9月22日に事実上この地域は戦闘が集結した。
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Bhaskar Sarkar大佐は2018年の分析でハジピール制圧戦勝利の要因を3つ挙げている。

[1] 奇襲 surprise
 厳しい山岳地形をあまりにも酷い天気の中で連日進んで攻撃してくるのはパキスタン側にとって完全な奇襲となった。(そもそもインド領内のゲリラ侵入に対し、ハーバクシュ中将がパキスタン実効支配領土への攻勢をしてきたこともパキスタン上層部にとっては奇襲となった。)

[2] 戦果拡張 exloit success
 1つの地点を占領した後、連続的に前進を続け敵に効果的な防御と戦力の再展開の時間を与えなかった。(最初に計画で示した第4ラージプート梯団が第1パラを追い越す「狙い」は下がる相手に「再編させない」ように前進をハイテンポで続けることであり、作戦実行中に状況が変化してもその目的を旅団長と第1パラは忘れず計画を適した形で変更した。)

[3] リーダーシップ Leadership
 特にバクシ准将とダヤル少佐は困難な状況の中でも驚異的で優れた個性を示した。彼らの勇気と個人的な模範は、極めて困難な進軍を成し遂げるために彼らの部下の力を活性化させた。[参照8] 

ジブラルタル作戦の破綻

 ハジピール突出部の制圧により境界部で最も侵入に役立っていたと思われるゲリラ聖域の一部が破壊された。インド領カシミール内で活動するゲリラ勢力の後方連絡線に大きな打撃をもたらしたのだ。侵入が滞り破壊活動も減衰したため域内掃討作戦は進展していった。[Gokhale, (2016), 第5章[参照9]
 パキスタンは9月に浸透部隊の第3陣を送り込もうとしていたが、インド軍の反撃作戦が活発化したため中止となった。約1000人のタスクフォース員が死亡し部隊は撤退を始め、10月中旬までインドのカシミール領に残っていたのは500人程度であったとインド軍は推計している。[参照7]
  結局最後までパキスタン政府が期待していた地元民の蜂起は無かった。このことからジブラルタル作戦は失敗に終わったと結論づけられる。

 停戦ライン北域カルギール山岳地帯での前進とハジピール突出部の占領は、中国軍に敗北して3年弱で得た初めての会戦の勝利でありインド軍に自信を回復させた。[Gokhale, (2016), 第5章]
Battle of Hajipir Pass

【作戦失敗の要因】

 ゲリラを多点浸透させインド軍と警察へ破壊活動を行い金と武器をばらまき地元民の蜂起を目指す…このジブラルタル作戦がなぜ失敗したかについては様々な議論があるため、代表的なものを以下に記す。
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 ジブラルタル作戦の最も根本的な欠陥は、インド支配域カシミールの住民が侵入したゲリラを支援し武器などがあれば蜂起するという想定に基づいていたことだ。実際は親パキスタン側の住民ですら大っぴらに彼らを支援しなかった。住民にとって浸透部隊はアウトサイダーであり、ゲリラで必要とされる現地に親しいカリスマのある指揮官を有していなかった
 ハーバクシュ中将は、パキスタンがカシミール住民はインドからの「解放」を待っているというプロパガンダを外部にも国内にも流し続けた結果己自身がそのプロパガンダに踊らされ神話を作ってしまったのではないかと述べている。[Gokhale, (2016), 第5章]

 政府の言動について今なお信用に足るものは無いが、外交・軍上層部と実戦部隊との間で認識の隔たりがあったことをパキスタン陸軍の複数人が証言している。
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 パキスタン特殊任務群(SSG)のS.G.Mehdi 大佐はこの計画の説明を司令部から受けた時、率直に言って「幼稚で、まともな軍人だったら受け入れられない」と感じたという。参謀総長や師団指揮官マリク少将にSSG側の意見を伝えたが取り入れられなかった。大佐は直前まで参加することになっていたが異動させられた。ジブラルタル作戦でSSGのMusa指揮官はハジピール攻撃を受けた時にすぐこれが如何に浸透部隊に脅威かを外務大臣ブットーに詰め寄った。
 Mehdi大佐たちSSG将校が抗議した理由は主に下記4点である。

・(民衆蜂起が目標なのに)作戦発起前に渓谷の民衆と協力する下地は何も準備されていなかった

・ゲリラの襲撃は、浸透部隊員が荷物に入れて運ぶか地元で生活するかだけに依存するという完全なるロジスティクス空白状態で開始された。 停戦ラインを越えた隠密の維持支援がなければ、そこでの生活はゲリラ兵達の安全は致命的危機に晒される。 実際その期待(地元民による生活協力、パキスタンからのロジスティクス)はほとんどが裏切られた。

・総司令部は古典的ゲリラ戦とコマンドー式襲撃を混同してしまっていた。

・そもそもゲリラ兵を訓練し後に実戦で率いる特殊任務群隊員たちは、この計画の実現性、実行手段の不明瞭さ、そして作戦終了が不確定だったことに批判的だった。[参照10]
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 インド軍ハーバクシュ中将はあまりに野心的で現場の実情に即さぬジブラルタル作戦を次のように評した。
「構想の中でなら素晴らしい」

 ただしインド軍のK.C. Praval少佐はジブラルタル作戦の部隊は反乱を引き起こすことに失敗したが、その破壊工作や殺害によって大きな混乱を引き起こすことはできていたと注記している。第15軍団司令部に精神的混乱が起きていたことをハーバクシュ中将も確認しているし、ハーバクシュ中将の各主張への反論を後に書いたJoginder Singhですらこの点では一致している。[参照9]
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 ジブラルタル作戦が完全に失敗したことには疑いようがない。インド側カシミール内の反体制派民衆はもはやインド軍・警察の力を心配し行動が一層少なくなってしまった。それどころかムザファラバード(パキスタン領カシミールの最前線地)へインド軍の攻勢の脅威すらある。
 だがそれ故にパキスタン総司令部は戦争をやめるのではなく更にエスカレートさせる方を選択した。ムザファラバードを脅威から救うためと言って次の攻勢作戦を発令したのである。

 それこそが作戦名『グランドスラム』、インド側カシミール領のChamb町を奪取しAkhnur市へ侵攻圧力をかけるという正規軍による本格的な軍事侵攻作戦であった。[参照9] [Gokhale, (2016), 第5章]








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グランドスラム作戦とラホールの戦いに続きます。
http://warhistory-quest.blog.jp/19-Nov-15

次はインド軍がWW2以降で最大の戦車戦だと謳う正規戦です。

ここまで読んで頂きありがとうございました。他の情報を教えてくれたら嬉しいです。

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【参考文献】_アサール・ウッターの戦い用含む

1965年に両国で使われた戦車の性能比較
David Higgins, (2016), "M48 Patton vs Centurion: Indo-Pakistani War 1965"

1965年戦争の全体をまとめた本で戦闘はほぼ網羅している。カラー戦況図ありだが精緻ではない。電子版はページ数も章番号もつけられていないため『The Context The Indian Sub-continent in 1965 Gokhale』を第1章とした。
Nitin A Gokhale, (2016), "1965 Turning the Tide"

インド・パキ戦争での機甲戦の通史。概説だが多くの戦いの戦況図や指揮官写真が載っている。
Maj (Retd) Agha Humayun Amin, (2000), "Handling of Armour in Indo-Pak War Pakistan Armoured Corps as a Case Study"

非軍人のパキスタン人ジャーナリストの書籍
Shuja Nawaz, (2009), "Crossed Swords: Pakistan, Its Army, and the Wars Within"

ジャーナリストが1965年の戦争で最前線を取材し発刊した
Kuldeep Nayar, (2012), "Beyond the Lines: An Autobiography"

Journal of Defence Studiesに掲載された。この戦争に関するいくつかの書籍内容を紹介している。
Y.M. Bammi, (2016), "Revisiting the 1965 War"

1月のKutchから扱っている1965年戦史。英米がどう動いていたかも書かれている。戦況図系ではない
Farooq Bajwa, (2013), "From Kutch to Tashkent: The Indo-Pakistan War of 1965"

インド第3騎兵機甲連隊の行動を追ったアサルウッターの戦いの詳細記録。連隊の軍人が著者で同僚や当時の兵員など多数の直接インタビューを行っている資料。
Khutub A Hai准将, (2015), "The Patton Wreckers  -  Battle of Asal Uttar"
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(未入手)紹介文と図の一部のみ閲覧

 パキスタン側の最重要資料。ISI(軍統合情報局)および陸軍情報部の元長官にして20世紀末パキスタン政府へ強大な影響を持っていた「gang of four」の1人、マフムード・アフメッド中将が記した書籍。パキスタン政府が勝利したとプロパガンダしてきた1965年戦争に対し、別の視点を軍の保管記録を基に作成した。
 パキスタンでもともとは『勝利の幻想』というタイトルだったが圧力がかかって変更させられた上に、後に政府が回収したという噂がある。実際に出回っている数は極めて少ない。[参照3]
インドでも僅かだが発行された。
Mahmud Ahmed,(2002) , "Illusion of Victory: A Military History of the Indo-Pak War-1965"

パキスタン軍少将が書いた通史
Shaukat Riza, (1997), "The Pakistan Army : War 1965"
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【参照】

1.
戦争ジャーナリストSushant Singhが寄稿した記事。時系列ごとの主要出来事及び関係者の証言あり。
https://indianexpress.com/article/india/india-others/big-picture-1965-fifty-years-later/

2.
パキスタン軍事共同団体(pakistan military consortium)のM47及びM48パットン戦車に関する記事
https://web.archive.org/web/20120816063055/http://www.pakdef.info/pakmilitary/army/tanks/patton.html

3.
パキスタン新聞社The Nationの記事。2015年
https://nation.com.pk/12-Sep-2015/1965-how-pakistan-won-the-war-of-propaganda

4.
インド陸軍公式サイトの1965年戦争への見解
https://www.indianarmy.nic.in/Site/FormTemplete/frmTempSimple.aspx?MnId=LwYMsoixtnldb1wGxcBoEQ==&ParentID=ZFKQRiA64URXAcah3aIoqw==

5.
インド国防省の公式季刊誌Indian Defence Review (IDR)に2018年に掲載された書籍『Bhaskar Sarkar大佐, (2000), "Outstanding victories of the Indian army, 1947-1971"』の引用文
http://www.indiandefencereview.com/spotlights/battle-of-hajipir-pass-1965/

6.
この戦争に参加したTejinder Singh Shergill中将 (Retd)が寄稿した記事。推移を端的かつ作戦要所を抑えて振り返っている。
http://www.spslandforces.com/story/?id=366&h=An-Overview-of-1965-Indo-Pak-Conflict-Strategic-and-Operational-Insights

7.
PK Chakravorty少将(Retd)およびGurmeet Kanwal准将(Retd)の寄稿した記事。ジブラルタル作戦の根本的欠陥。
http://www.indiastrategic.in/topstories4041_Operation_Gibraltar_was_Fundamentally_Flawed.htm

8.
国防省季刊誌にBhaskar Sarkar大佐が寄稿した記事。ハジピールパスの戦い
http://www.indiandefencereview.com/spotlights/battle-of-hajipir-pass-1965/

9.
パキスタン軍のAgha Humayun Amin少佐の本のジブラルタル作戦およびグランドスラム作戦箇所引用
http://www.defencejournal.com/2000/sept/grand-slam.htm

10.
パキスタン軍のSSG指揮官の1人(1965年直前に異動)S.G.Mehdi大佐の証言を基にしたジブラルタル作戦の評価
https://web.archive.org/web/20110927035816/http://www.defencejournal.com/july98/1965war.htm


准将らの顔写真はインド陸軍公式サイトの写真集より
https://indianarmy.nic.in/Site/FormTemplete/frmPhotoGalleryWithMenuWithTitle.aspx?MnId=/3SGVJ7Bh60n0pSX+Y5ang==&ParentID=S5qpecqw0UB8QdEP5Okphw==

ハジピール山道の戦いのインド製ドキュメンタリー動画。3分34秒から戦況図の解説あり。兵士の活動シーンは再現。実際の天気と移動時刻はこの動画より遥かに過酷。
https://youtu.be/gga9A_1HX6o?t=223

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【メモ】

・中東条約機構METOはCENTOへ1959年に改名。

・ジブラルタル作戦のラザカールは東パキスタンのラザカールではない。9個のタスクフォースはそれぞれ5個中隊の6個ユニットで構成されていた。(The infiltrators were grouped into ten forces and each force comprised six units of five companies each.)

・JCO = Junior Commissioned Officers =インドやパキスタンで使われているクラスII士官に該当する語

・中将は8月8日にJalandharへ飛び西部軍の指揮を執った。第11軍団の指揮官たちと話している時にデリーから電話がかかってきて中断させられるなど、中央への苛立ちを示唆する文章を残している。

・ハジピール戦でインド軍は21人が負傷し、パキスタン正規軍は10人死亡、40人負傷、捕虜1人であった。[参照8] 
・パキスタン兵がSankから退却した時に16の遺体が残っていた。[Gokhale, (2016), 第5章]

・ダヤル少佐は途中で廃屋を見つけたが、実際はパキスタンの準軍事要員(非正規兵)のシェルターだった。中隊は迅速に行動し10人を捕虜とすると、彼らを荷運びに活用した。[Gokhale, (2016), 第5章]
捕虜をその後どうしたかは不明。非正規兵のため軍の捕虜数に含まれていない場合がある。

・日付が齟齬あり、Gokhale, (2016)は26日(25日夜)にBedoriへの攻撃を開始まではできたが、占領失敗したと記述している。こちらの方が矛盾はない。

・ (第68旅団指揮下:第1パラ大隊、第19パンジャーブ、第4ラージプート、J&Kライフル、第4シク軽歩兵、第164野戦連隊(1個砲兵隊除く)の野戦砲12門、第144山岳砲兵隊の榴弾砲6門、B小隊39ミディアム連隊の中砲3門、第18野戦砲兵隊の野戦砲6門、4.2インチ迫撃砲を1個部隊)

・第2陣6000人が8月第3週に送り込まれたとのことだがそれでは既にインド軍は展開しきっている。3週までにという意味か?第2陣の侵入時期再チェック必要

・第68旅団は軍団予備だったがハジピール攻勢のために第19師団指揮下に置かれた。

・Rajaの相互連携を取る2つの陣地に1個大隊(1個中隊を欠く)が2門の3.7インチ榴弾砲、2門の81mm迫撃砲に支援されて複数の機関銃を備えしっかりと掩蔽、鉄条網、地雷で要塞化されていると推測されていた。

・シャムシェル中隊長のいた第6ドーグラーはGulmargの敵浸透部隊の掃討作戦に従事することになった。(実行段階ではOperation Bakshiで第68旅団に転属あるいは司令部が同所?回想エピソードで旅団長と共にいたような描写を述べている。)
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パキスタンの開戦主導派についての一説

 ゲリラを送り込むという計画は1950年代からパキスタンでは議論が為されていた。Mitha少将が記す所によると、彼が体験しただけでも1958年11月からゲリラ侵入作戦は成功するかと度々問われ、少将は達成不可能と述べそれに(クーデター首魁の1人)アユーブ・ハーン元帥も賛同していた。
 だが大統領が最高司令部に対しインド側カシミール地域でのサボタージュ/ゲリラ作戦を準備するよう命令をだした、と外務局長Aziz AhmadからGul Hassan将軍へと伝えられたという。Gul将軍の述べる所では、パキスタン軍がこの浸透ゲリラへ参加するのが決まったのはカッチ湿地帯での衝突の後だったとされる。当時の情報部長官Altaf Gauhar曰く、中国への恐怖があるためインド軍がパキスタンと全面戦争をしには来ないだろう、それがチャンスなのだと外務局長アジズ・アフマッドは考えていたという。Gauharはさらに、ジブラルタル作戦の計画策定を主導したのはISI(軍統合情報局)と外務省であったと回想している。Ayub元帥は原則的にヒンズー教徒(インド)の士気では2,3回しか打撃には耐えられないだろう、と述べた。その後外務大臣ブットーは高級将校達を言いくるめた。[参照9] 

 ジブラルタル作戦開始に到る原因は、陸軍司令部も参謀も大統領であり元帥アユーブ・ハーンを止められなかったこと、彼に助言を行っていたブットー外務大臣、そして第12師団司令部(マリク少将)のジブラルタル作戦を走らせるサポートであるとMehdi少将は述べる。1990年にK.M.Arif将軍は1965年戦争を分析した結果、軍の実務的要員の意見は弱くバイパスされてしまい、外務省や外務大臣ブットー、外務局長アフマッドが武力行使を主導したとの説を支持している。しかも外務省は戦争がJ&K地域内にとどまるだろう(エスカレートし他地域で軍事侵攻をインドがしてはこないだろう)という誤った認識を抱いていた。この不可解な背景に基づいて軍は実務計画を策定することになった。曖昧な終末によりアユーブ大統領の責任を隠蔽することになった。
[参照10] [Bammi, (2016),123]

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 …というのがパキスタン軍側で散見される意見です。軍人の意見であり、軍に同情的に見ている可能性は大いにあるのであくまで参考の1つとして見ておいてください。

 20世紀末に強力な政府干渉をしたパキスタン軍ですが、1965年時点ではそこまでは肥大化しておらず特に現場を指揮する人間の意見が無視されたことに軍部は激怒しています。ただ個人的には軍部の権勢どうこうよりもむしろ、外務省の権限が極めて強かった時期だとみるべきかと思っています。そのかなりの部分がブットー外務大臣の存在に依ります。彼が対インド強硬派で相当な影響力を持っていたことは当時のほとんどの証言、書籍でインドパキスタン問わず見うけられます。

 ブットーは政治家として実にしたたかでした。パキスタン民衆の指示を得る方針を次々と打ち出します。東南アジア条約機構を脱退し、イスラム諸国との繋がりを重視した外交を行います。1965年戦争ではインド批判を徹底し、停戦は大統領と共に条件に合意、しかし多くの民衆がそれに不満を抱くと大統領を切り捨て反対派にまわり新党パキスタン人民党を結成。アユーブが辞任するとヤヒヤー新大統領の下で最大有力政党へと躍り出ます。東パキスタンの独立(バングラディッシュ)では軍の強硬策を支持して進めさせたとされます。しかしインド軍の東パキスタン侵攻でパキスタン軍が敗北して失墜、大統領も責任をとって辞任し、ついにブットーは暫定的国家首脳となります。

 彼は農地改革など民衆の生活向上を目指しますが経済政策は失敗、不正選挙や他党の弾圧などが騒がれる中、かねてより対立していた軍部がついにクーデターを起こし彼を逮捕・処刑しました。