1965年の印パ戦争はエスカレートを続け、後期は完全な正規軍同士の正面衝突となります。ジャンムー&カシミール地方根本の突出部周りで会戦が複数行われ、短期間ながらも攻守が入れ替わる流動的な戦闘が起きました。

 それらの攻勢が開始された原因は、ある重要地点を救うために別の重要地点に攻撃をかけるという戦略を両国共に取ったからでした。しかしそれは充分な準備なしに攻撃と反撃を実施する事態を引き起こし、戦闘部隊の活躍とミスの両方があったことで決定的な戦果へと到ることは困難でした。
 今回はその一部、Operation Grand SlamとBattle of Lahoreの2つについて記述してみたいと思います。戦術面ではパキスタン機甲旅団による川を背にした狭域での積極的迎撃戦闘に着目しています。

※1965年戦争のフェイズ1とフェイズ2は【ジブラルタル作戦_ハジピール山道の戦い_1965_ゲリラ浸透と対抗作戦】を参照 リンク↓
http://warhistory-quest.blog.jp/19-Nov-08

※長くなるためWW2以降で史上最大の戦車戦とインド軍が謳うアサール・ウッターの戦いとフィロラの戦いは次回以降。
北部_第15師団戦域_9月8日午後
____以下本文____________________

 1965年印パ戦争の後期は大きく分けると次のような戦闘推移であり、第3も第4フェイズも共に主要戦闘が2つの戦域に別れる。シャカルガル突出部の南北が舞台となった。
3rd&4th Phase_Sequence-min

第3フェイズ
 【1】ジャンムー西部(Chamb~Akhnoor)でのパキスタン軍による攻勢(グランドスラム作戦)
 【5】ジャンムー南部(Phillora~Chawinda)でのインド軍による攻勢

第4フェイズ
 【2】ラホール東部でのインド第15、第7歩兵師団の攻勢(リドル作戦)とパキスタン第10歩兵師団の防衛
 【3】ラホール南部でのインド第4歩兵師団の攻勢と失敗
 【4】アムリトサル後方へのパキスタン第1機甲師団の逆侵攻とインド第2機甲旅団の迎撃

※1→2=3→4=5の順番であり、本稿は1~3までを記述する。

正規軍の衝突への道とパキスタン軍強化の背景

詳細は【ジブラルタル作戦_ハジピール山道の戦い_1965_ゲリラ浸透と対抗作戦】を参照 

 8月から開始されたジブラルタル作戦においてパキスタンはゲリラをインド側カシミールに送り込み破壊工作を実施、更に現地住民に金と武器を渡し蜂起を狙った。この作戦は失敗し現地蜂起は起きずしかもインド軍が停戦ラインを越え一部侵攻する事態を招く。
  ムザファラバード(パキスタン領カシミール最前線地)へのインド軍攻勢の脅威すらありえ、パキスタン政府は状況を回復するために別箇所での正規軍による攻勢を選択してしまう。それがグランドスラム作戦であった。[Gokhale, (2016), 第6章[参照9] [参照4]

 一方でインド軍は動員計画『アブレイズ作戦』による西方への部隊移動を続けており、ただ撃退するだけでなく主導権を奪う機会を狙っていたがパキスタン正規軍の戦力は侮り難いものがあり慎重であった。というのも元々国家の総力としてはインド側が上回っていたのだが、ここ10年程の間にパキスタン軍はソ連の南下を警戒する米国からの支援を利用し機械化戦力を急激に増大させていたからだ。

増大する機械化戦力

 1950年代半ばにパキスタン騎兵連隊は米国から戦車を受領し始めた。
 M47パットン戦車を230輌、M48パットン戦車を202輌受領し多数の将校をアメリカに送り戦車用の訓練も受けた。更に約200輌の改造したM4シャーマン戦車(76mm砲)、約150輌のM24チャーフィー軽戦車、少数のM3A3スチュアート軽戦車といった受領もあった。
 1965年時点では15個機甲騎兵連隊(各連隊は3個戦隊で45輌の戦車)を有していた。(あるいは未稼働含む?シャーマン戦車9個連隊分、パットン戦車9個連隊分、チャーフィー戦車3個連隊分とされる。)他にもM-36駆逐戦車などの機甲戦力を有している。軍全体での戦車保有数は765輌だった。戦車数的にはインド軍を優越している。[参照2] [Gokhale, (2016), 第1章 [Higgins, (2016), pp.5~8] [Amin, (2000), pp.54~57]

 戦車に続いて特に影響が大きかったのは空軍である。1956年~64年の期間に推計F-86セイバー戦闘機を100機、F-104スターファイターを1個飛行隊分、B-57爆撃機を30機、C-130輸送機を4機受領したとされる。インド空軍が圧倒的優位だったはずが一気に差が詰まってしまった。砲兵は両国ともに充実はしていないがパキスタン優位であり、155㎜砲と8インチ榴弾砲の重砲連隊を1個有していた。[Gokhale, (2016), 第1章]

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 一方でインドは機甲師団を1個しか有していなかった(第1"黒象"機甲師団:1st "Black Elephant" Armoured Division)。師団内訳は第17Cavalry Poona Horse、第4Hadson's Horse、第16"Black Elephant" Cavalry、第7Light Cavalry、第2Royal Lancers、第18Cavalry、第62Cavalryである。このうち最初の2つの部隊がセンチュリオン戦車を配備されていた。
 また黒象師団とは別に独立第2機甲旅団(3個連隊編制でそのうちの1つ第3騎兵連隊はセンチュリオン戦車を配備)もあった。総計はシャーマン戦車8個連隊分、センチュリオン戦車4個連隊分、AMX-13軽戦車が2個連隊分であったとされ、軍全体で戦車は720輌である。砲兵隊は主に120㎜迫撃砲と7.2インチ砲を使用していた。
 インドは中印紛争の際、米英に爆撃機を送るよう(事実上軍事同盟)要請したのだが、中国との軍事衝突は短期間だっため主に資金提供のみで終わった。インドは1963年から軍拡を推し進めたが1965年時点では到底不完全であった。[参照2][Gokhale, (2016), 第1章[Higgins, (2016), pp.40~42]
 具体的には第1機甲師団、第26歩兵師団、独立第2機甲旅団が完全な編成を終えていただけでしかなかった。[Hai, (2015), p.10]

地理

 パキスタン軍が新たに正規軍で攻勢を狙った場所はJ&K地方の南部ジャンムーの傍であった。この地点を狙う利点はいくつもある。
 インドにとって突出部でありかつ山岳地帯で制限されたJ&K地方は道路網に巨大な脆弱性がある。国境沿いに主要交通機能が集中しており道路本数も多くないためだ。しかも根本にはパキスタン領のシャカルガルが突出している。加えてシャカルガル真後ろにおいてパキスタン側は都市がインドよりは多い。
 一方で南のアムリトサルを含むパンジャーブ地方は平野が広がる。大都市ニューデリーにいる部隊がここに駆け付けるのは比較的時間はかからない。
J&K地方の道路網 (2)
 第3フェイズの争点となるアクノール(Aknoor)は停戦ラインから40㎞インド側に入った地点にあり、ジャンムー市の北西にありチェナーム川で隔てられている。もう一つの争点チャウィンダ(chawinda)は停戦ラインから16㎞パキスタン側へ奥地である。
 第4フェイズはシャカルガル突出部の南の平野ラホール区域で起きることになる。
 
 アクノール方面の国境沿いの町はチャンブといい、 1947年の戦争の頃よりずっと重要地点でありインド側はここに戦車部隊を常駐させていた。[Amin, (2000), p.60]

アクノールの意義

 グランドスラム作戦での主攻はアクノール橋の奪取を目標としてチャンブ町の周辺より開始されることになる。当時アクノールを奪われるとカシミール北西部に連なる最大の連絡線が遮断されることを意味し、カシミールの対ゲリラ作戦遂行部隊は著しく活動力が低下する。

 アクノールが取れた場合さらに南わずか30kmにある重要都市ジャンムーが包囲的脅威に晒されることになる。ジャンムーが奪われることはインドにとって致命的な影響をもたらす。J&K地方全体が事実上孤立し、軍の増援は滞り展開すら難しくなり防衛もおぼつかなくなるのだ。
 チェナーム川まで進出するとジャンムーを守る自然障害はタウィ川(Tawi)のみとなるのだが、こういった支流は乾季の時期は歩いて容易に渡れるようになってしまう。

インド側の認識

 J&K地方の両側で展開できる戦力について1949年のカラチ合意による制限ゆえに、合意を破らないようにするとインド軍は薄く広がらざるをえなかったが、逆にパキスタン軍は軍勢を集中できた。[Gokhale, (2016), 第6章
(これは恐らくカラチ合意E項の、軍の部隊は停戦ラインから500ヤード以上の距離を離さねばならない、という条件を指している。くの字形に折れ曲がった境界線の場合、外側の勢力は更に外に広がる形で部隊を置くことになる。)

 インド総司令部は敵がチャンブ周辺で国境線を越えて攻勢に出てくることはないと堅く信じ込んでいた。南カシミールで攻撃してくるのはチャンブより北のジャンガー‐ノワシェラ区域(Jhangar-Nowashera)だろうと予測していたのである。そのため9月1日までこの地域を担っていたのは第191旅団のみであり、ようやく第10師団司令部が割り当てられ9月15日までに第191旅団と第80旅団の指揮を引き継ぐこととなっていた。[参照9]

 インド軍側では31日の第15軍団司令部との会議では次の3つが優先事項として合意された。
(a)J&K地方に浸透してきている敵兵の掃討
(b)ハジピール突出部包囲作戦のウリ‐プーンチ接続を完了させる
(c)パキスタン軍の攻勢に備える

 まだハジピール山道の戦いが続いていたこの時期、警戒心は抱いていたものの誰もチャンブですぐに敵が攻めてくるとは予想していなかった。チャバン国防大臣は日記に「8月31日の会議では、敵はチャンブ地区で攻撃してくるのではなく恐らく今の浸透戦役に集中的にするだろうと査定された。」と記している。
 この認識ミスはジブラルタル作戦初期に続いてここでもインテリジェンス部門が有効に機能しなかったことが大きな原因であった。[Gokhale, (2016), 第6章

パキスタン側の計画

 グランドスラム作戦は主に次の軍事目標を持っていた。

1】ジブラルタル作戦の浸透部隊を救う効果をもたらすこと
2】アクノールまで到達することでジャンムーからアクノール、Naushahra、jhangarへの交通網を遮断すること
3】作戦が首尾良く侵攻していれば、続いてジャンムーを確保し、ジャンムーとSrinagar及びLehの連絡線を遮断すること
4】J&K地方で展開する全てのインド軍を孤立させ締め上げること
5】J&K地方の行政機関を占領し州全体に放送すること(ジブラルタル作戦での目標に再挑戦する)
[Hari, (1967), p.132]
Battle-of-Chamb<左図 グランドスラム作戦の基本計画 参照12 より >

 パキスタン軍は攻勢初日の内にタウィ川を渡りパランワラ(Pallanwalla)村を確保することでインド軍防衛陣地のバランスを崩壊させ、アクノールへ突進する手筈であった。[Amin, (2000), p.62]

  パキスタン軍はシアルコート(Sialkot)とカリアン(Kharian)が前線基地であり、そこから侵攻するにあたって乏しい道路網しかインド領内に伸びていないため決して楽な攻勢ではないだろう。
 しかしここが攻撃箇所として素晴らしい選択だったことはインド軍ハーバクシュ西方司令部司令官も認めている。
 曰く「この新たな攻勢のエリア(アクノール)は実に注意深く選ばれていた。パキスタン軍攻勢時にはチェナーム川が効果的な右側面の防御になるし、一方でインド軍にはこの水の障害は恐ろしいことにアクノール橋のみが渡れる場所で、(対岸での)作戦にとって深刻なロジスティクス上の不利をもたらしていた。更に防衛網に接近するにあたり敵機甲部隊は事実上マニューバの自由を得ており、逆にインド軍の戦車は行動が制限されていた。加えて敵軍の基地は近く増援や行政的支援に適しており、一方でインド軍の連絡線は長大で脆弱そして数も乏しかった。」[Gokhale, (2016), 第6章

 この越境攻撃に対しインド政府は停戦交渉するか、あるいは別の軍事行動を起こすかのジレンマに直面することになるだろう。[参照12] 

戦力

 インド情報部が見落とす一方で国連の監視員はチャンブ近辺でパキスタン軍が攻撃準備を進めているのを見て取りインド政府に警鐘を鳴らした。それにも関わらず公式記録によるとこの警告を政府機関は重く受け止めず充分な対策を怠ってしまった。
 チャンブ地区のインドの戦力は3000人のままであり主に軽装甲部隊であった。担当は第191歩兵旅団だ。砲兵は第14野戦連隊がチャンブに、1個砲兵隊がDhakに配置されていた。地形に隠れて対戦車無反動砲の兵士たちも準備している。機甲部隊は第20ランサー所属AMX-13の1個戦車中隊のみが前線にいるだけであった。機甲の数的不利というだけでなく広いエリアを警戒するため初期配置は分散してしまっている。[Gokhale, (2016), 第6章
 後方には第40山岳歩兵旅団、別方向に軍団予備第28歩兵旅団がおりこの2個旅団が増援となる。[参照13] 

 対するパキスタン軍の攻勢部隊は3個歩兵旅団2個機甲連隊(第11騎兵、第13ランサー)が第7師団指揮下に配属されていた。[Gokhale, (2016), 第6章[Amin, (2000), p.60]
 装甲の厚みではパットンに軍配が上がっていたし機甲車両の数なら6対1で有利だったが実はパキスタン機甲軍団にとってこの作戦は初のメジャーな戦車戦闘であった。2つの機甲連隊を2つの旅団に分けて配備させ、機甲を打撃というより網として使ったと分析されている。[Amin, (2000), pp.60~61]
 最前線チャンブ地区での戦力比は次のようになる。
グランドスラム作戦_戦力比

[参照9]
 こうしてパキスタン軍が戦力的に優越し尚且つ情報面でも有利に進めたまま戦闘へと到ることになる。

グランドスラム作戦_Operation Grand Slam

 9月1日03:30、パキスタン砲兵隊が猛砲撃を開始、グランドスラム作戦の始まりを告げた。この地区のインド軍前線監視所の全てが砲弾を受けそのまま06:30まで3時間続いた。[Gokhale, (2016), 第6章]
 05:00、その火力のカバーの下で地上部隊が3軸の進軍を開始する。[参照9] [Gokhale, (2016), 第6章] 
(あるいは04:00砲撃スタートで1時間後の05:00に歩兵が前進開始。[Hari, (1967), p.134]
Operation Grand Slam_by Amin-min
 08:30頃、パキスタン軍は歩兵に支援されたパットン戦車の1個中隊が攻撃を仕掛けた。他にも威力偵察にシャーマン戦車の1個中隊が現れる。この際はインド軍の第20ランサー所属戦車戦隊がすぐさま対応しいくつかの優れた射撃を行い何とかしのいだ。
 だが止まらずパキスタン軍のM48パットン戦車とM-36駆逐戦車の機甲部隊が襲い掛かかる。最初の攻撃を撃退するが、11:00に二度目の攻撃が行われた。インド軍のAMX-13軽戦車は数的に不利であったにも関わらず、その日トータルで13輌の敵戦車を破壊し、第191歩兵旅団が包囲されるのを防いだという。(ハーバクシュ中将の記述でこれはBhaskar Roy少佐の部隊が『tank-to-tank battle』で倒したとしている)

 第3マハーラのC中隊の報告によるとこの日近接航空支援は無かった。インド軍の砲兵隊も手が回らなかった。そのため敵機甲を撃破するのは困難で、攻撃を受けたC中隊は死傷者と捕虜を出してしまう。それでも必死の抵抗を続けその日を耐え抜いたが翌日には後退せざるを得なかった。
 他の部隊は9月1日20:50までに防衛線が限界に到り全面的な退却を始めていた。
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 全体としてパキスタン側が圧倒していたのは確かだった。他の場所でもパキスタン軍は打撃を続けインド軍の脆弱箇所を狙い第191旅団司令部のそばまで迫った。実際の所9月1日18:00までにパキスタン軍はMandialaとチャンブの間を突進することに成功していたのだ。多くのインド軍前線陣地が陥落あるいは包囲されていた。

 これにより第191旅団司令部、第6シク軽歩兵、第15クマウーン、第14野戦連隊の残存はジャウリアン(Jaurian)へ後退する他なかった。ただし第3マハーラや他幾つかの中隊は日中に良い戦果を挙げていたこともありその場で耐えていた。彼らは翌日奮闘してから後退した。[Gokhale, (2016), 第6章] 

 けれども初日時点でパキスタンの攻勢は遅れを見せ始めていた。
 シャウカット・リザ退役中将はパキスタン軍が砲撃を30000ヤードもの歩兵攻撃範囲の支援のために分散させたせために敵に遅滞戦術を許し9月1日に川を渡るのが遅れる原因になったと分析している。タウィ川を渡れなかったことは追撃・戦果拡張が滞ったことを意味し、インド軍に後退と再編の余地を与えてしまった。北に侵攻すればするほど山岳地帯になっていくが故に、できるだけ早く平野部で敵を捕捉して撃滅したかったパキスタン司令部には焦りが生まれ始めた。加えてインドの対戦車無反動砲は初日に最も大きな成果を上げ機甲部隊を苦しめていた。
 更に旅団指揮レベルでも攻撃判断に誤りがあったと指摘されている。例えば師団指揮官マリク少将が迂回を命じたにも関わらず歩兵旅団指揮官がBurjeal村の奪取を主張してしまい時間がよりかかったことなどがある。(Burjealは15:00に奪取したがインド兵は僅か14人が捕虜になっただけだった。)
 第12師団の主力がタウィ川を渡り切れなったという事実を受け止め、優勢であったとしても初期攻撃計画には問題があったのだと後に分析している。[Amin, (2000), p.62]
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【序盤の空戦】

 空戦については戦力差があったにも関わらず序盤はパキスタン側が優勢であった。
 インド国防大臣が会議の末に空軍の使用許可を出したのは16:45(または16:50)である。[Hai, (2015), p.14] [Gokhale, (2016), 第6章
 緊急要請に従いパキスタン軍のF-86 戦闘機と闘い、敵地上部隊を攻撃するためインド空軍の28機が即応し飛び立った。航空隊指揮官W.M.Goodmanは「我が部下たちは敵の戦車と車両を炎上させた」と述べている。インド空軍は2機が撃墜され、2機が損傷し帰還した。[Hari, (1967), p.134]

 インド空軍が戦車を大量に撃破したと報道される場合もあるが、ハーバクシュ中将は異なった報告をしている。空軍が敵にあまり損害を与えられずただ警戒させただけで、あまつさえ友軍を攻撃してしまった、特に弾薬運搬車両が破壊されたのだという。アルジャン空軍元帥もインド空軍パイロットは敵味方の識別が困難であったと述べている。こうした出遅れはあったが総力で優越するインド空軍は徐々にその力を発揮し押していった。 [Gokhale, (2016), 第6章]  
(空軍が13輌の戦車を撃破したと主張する数値が実際は地上部隊の戦果と混同しているとされる)

Combat-Aircraft-Strength-IAAircraft-Losses-during-war

< 印パ両国空軍の1965年時点の戦力と損失 参照15 より >
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【後退するインド軍防衛線】

 第191旅団が崩壊的に後退したため第10歩兵師団の後方にいる部隊の出番がやってきた。既に前線は破られているため第10師団に課せられた当面の任務はその攻勢を食い止めアクノール橋を防衛することだった。命令通り各部隊はジャウリアン及びアクノールで防御態勢を取った。

 9月2日、最前線の後ろでは師団隷下の第41山岳歩兵旅団が急いで陣地を準備していたが時間が足りず敵がくればそう長くは耐えきれないだろうと思われていた。だがこの日パキスタン軍は彼らの所に現れることはなかった。明らかにチャンスであったのに攻撃が無かったのはインド軍にとって不可思議なことであった。実はこの時パキスタン側の指揮官マリク将軍が作戦一日目が終わっただけなのに解任され指揮系統の修正が行われいたのだ。そしてジャウリアンへの突進ではなくとりあえず奪えた地歩をしっかり固めるようこの日の夜通達したのだった。[参照9][参照13] [Gokhale, (2016), 第6章
 11:30に指揮を替わったヤヒヤ将軍は急がず(恐らく状況の再確認をしてから)14:30にタウィ川渡河命令を残りの部隊に出した。このおかげでインド軍は突破されて後ろへ回られることは無く、継続的に防衛線を作ったまま後退することができた。[参照9]
 パキスタン軍は絶好の機会を逃したのだ。また空軍による攻撃がパキスタン軍突進部隊に衝撃を与えた可能性も指摘されている。[Gokhale, (2016), 第6章[参照12] 

 9月3日、時間を得たインド軍第41旅団は大急ぎで陣地を強化していた。19:00になってパキスタン軍はようやく本格的な攻撃をジャウリアンへしかけた。24時間以上の防衛は困難だろうと考えられており再びインド軍は突破される危機に直面した。砲兵部隊も奮闘していたが再度パキスタン軍の猛砲撃を受け大砲を放棄してしまった。これはインド軍司令部にとって衝撃的な出来事だった。もはや猶予は無くここで軍団予備の第28歩兵旅団の投入を決意する。インド軍機甲部隊のAMX-13戦車も陣地を強化していく。
 パキスタン軍にとっても追撃失敗により生まれてしまったこれらの抵抗はさらなる遅れを作戦にもたらした。[Amin, (2000), p.62][Gokhale, (2016), 第6章[参照9] [参照13] 
1965_M47_pakistan_6th Div_Chhamb
< Chamb付近で前進するM47パットン戦車 参照2より >

 パキスタン軍は全体として圧倒してはいたものの損害も無視できないものがあった。特に機甲部隊を打撃部隊というより網のように各旅団に使わせたことは議論を呼び起こした。数的有利によって押し込めるのは当然の帰結だったが、その際に代償として払った装備的・人的資源の損失は大き過ぎるものだった。[Amin, (2000), p.62]

 9月4日~5日の夜にかけてインド第41山岳旅団はジャウリアンを放棄、ついにアクノールまで後退する。パキスタンのムサ将軍は「敵に歯を食い込ませ、より深く噛まなければならない」と追撃を命じる。すぐ後ろからはパキスタン軍が迫って来ていたが、後退途中の地点には第28旅団が陣地構築してくれていた。[Gokhale, (2016), 第6章[参照9]

 ここに到りインド上層部はかねてより計画していた別地区の攻勢を発動することによりアクノール危機に対処しようと考えた。[Hai, (2015), p.14] [Gokhale, (2016), 第6章[参照9]
 それはまるでパキスタン上層部がジブラルタル作戦を決めた時のようであった。
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インド司令部の攻勢計画概要_Battle for Ravi-Sutlej Corridor

 1965年4月つまりこの戦争の最初の衝突が南部で起きた時点でインド陸軍は攻勢計画を練り始めていた。シャカルガル突出部の南北で2つの軍団により同時的に攻勢をしかけようというもので、第1軍団はジャンムーの南にあるシアルコート地区を、第11軍団はアムリトサル西にあるラホール地区を目標とした。[Hai, (2015), p.15] [Gokhale, (2016), 第7章
Indian offensive_Operation Riddle -min
 ラホールはパキスタン北東国境沿い30㎞にある国で2番目の規模の重要都市である。南にはカスール町が川沿いにあり防御の要衝となっていた。ただし1965年のインド戦略は守勢的であり、攻勢は限定的なものしか考えられていなかった。

 9月4日、アクノール市が危機に陥ったことでインド上層部はこの攻勢発動を早めようとした。しかしジャンムーの第1軍団はまだ前線集結が完了していなかったためアムリトサルの第11軍団の攻勢だけを先に開始することにした。更に9月5日にパキスタン空軍のF-86戦闘機1機がアムリトサルのインド軍防空陣地を攻撃して被害をださせたのを見て、この方面でもパキスタン軍が攻勢をしかけてくる予兆なのではないかと考え急ぎラホール攻勢を進展させることになった。[Hai, (2015), p.15] [Gokhale, (2016), 第7章[Pradham, (2007), pp.32~34] 

 つまりこの時点で計画は大幅に狂い、しかし個々の攻勢作戦だけは連動性を減少させながらも実施されることになったのである。これはインド軍に厄災をもたらすことになるのだが、アクノールを救うためにインド軍司令部としては選択肢がこの時点ではもう無かったこともあり、適切な判断であるとも言われる。[Hari, (1967), pp.142~143]

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 攻勢のコードネームは『リドル作戦』とされた。ラホール地区での攻勢で問題は2点ある。まずラホールが国家2番目の大都市であり落すのは困難を極める。次にラホール市の東、つまり国境との間には長大なイチョギル水路(Ichhogil)が南北に走っていたことだ。この戦車を阻む障害物を国境の内側に有することは大きな優位点になる。
 よってリドル作戦の主となる狙いは「ラホールへ脅威を与え敵を引き付けること」とされ、そのための作戦目標としてはイチョギル水路までの東岸領域を奪取し対岸に渡れるようにすることとなった。これが達成されれば戦略的にパキスタンはJ&K地方の根本で攻勢に出るのは難しくなるだろう。攻勢は奇襲を持って開始されることとされていた。[Gokhale, (2016), 第7章[Pradham, (2007), pp.32~34] 
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 ラホール地域に対するインド軍の脅威をパキスタン情報部は正確に測れていなかった。充分な予備が配置されておらず、攻撃を受けてから他戦線より部隊を引き抜いて対応するという事態をもたらしてしまうことになる。[参照9]
 パキスタン首脳部はアクヌール占拠に注目しすぎてシャカルガル突出部南ラホール地区を疎かにしており、インド軍の攻撃は確かに奇襲となってしまった。[参照3]

ラホール地区インド軍攻勢計画詳細と地理

【地理】

 上述の通りラホールはパキスタン第2の大都市であるが国境に非常に近い。そのためイチョギル水路が防衛施設として1950年代に建設され、容易には渡れない広さと深さを有する。国境からラホールまでは約26㎞、イチョギル水路までは数百m~13㎞でアムリトサルから国境までは約28㎞である。イチョギル水路までは平野が広がっている。大都市の間だけあって周辺には人口の多い町が点在、道路網も比較的充実しており特にアムリトサルとラホールはGT街道真っすぐに繋がれている。特にWagahとDograiが水路の傍にありかつ大きい町である。
 ラホール地区は北にラービー川、南にサトレジ川(途中からBeas川)という2つの大きな河川で挟まれておりこの範囲がリドル作戦の戦区となった。アムリトサルの南西60㎞にケム・カラン町(Khem Karan)がありこれが端である。よって攻勢幅は少し屈曲しているものの南北に約77㎞である。周辺の街にはアムリトサルから放射状に道路網が伸びている。[Gokhale, (2016), 第7章[Hari, (1967), p.147] [参照14]
 

【戦力】

・前線各区域の担当はから第15歩兵師団、第7歩兵師団、第4山岳歩兵師団の順。
・軍団予備として第96歩兵旅団をアムリトサル周辺Tarn Taranに置き、加えて独立第2機甲旅団(所属:第3騎兵連隊、第8軽騎兵連隊)を控えさせる。
・他に第29、第67歩兵旅団と1個機械化大隊、1個野戦砲兵連隊を有する。

 初期計画においてはこの全部隊が戦闘へまっすぐ投入されるはずだった。[Gokhale, (2016), 第7章] [参照14]

備考
・配属戦車の種類は、第3騎兵連隊=センチュリオン、第8軽騎兵連隊=AMX-13、第15師団所属第14シンデ連隊=76㎜砲シャーマン、同所属第1スキナーズ騎馬連隊=シャーマン、第7師団所属第21中央インド騎馬=75㎜砲シャーマン、第4師団所属第9デカン騎馬=76㎜砲シャーマン
・各師団には砲兵旅団が1個ずつ配属。
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 その他、アムリトサル北方域に第67旅団と戦車中隊(75mm砲シャーマン)が置かれ第11軍団の北面の防御を担った。また、9月6日に第7軽騎兵が第11軍団に配属されたが彼らはソ連製PT-76水陸両用軽戦車を有し、装甲が薄いため特別なタスクにのみ使用されることとされた。[参照14]

インド第11軍団攻勢計画

【第11軍団の計画】

 攻勢を担う第11軍団の司令官ディロン中将(J.S.Dhillon)は8月の時点で3つの主要タスクを設定していた。
a】インド領パンジャーブ及びガンガナガル地区へ侵入し得る敵を撃滅すること。
b】イチョギル水路までを、GT街道の軸、ヴィキウィンド‐カルラ(Bhikhiwind-Khalra)軸、ヴィキウィンド‐ケムカラン軸の軸で前進しパキスタン領土を確保する。可能ならば橋も奪取すること。
c】ラホールへの前進の準備をすること。この完了は2次的タスクである。[Gokhale, (2016), 第7章] 

 実施直前の各師団の攻勢計画は以下のものとなった。
第15師団計画
 第1フェイズとして9月5~6日の夜に各旅団が攻撃開始、04:00に国境を越え第54旅団は1個戦車中隊の支援を受けながらGT街道を前進しDograi町を奪取し水路にある2つの橋を占領する。第54旅団と同時に北で1個大隊規模のタスクフォースがBhaini橋を占領。第2フェイズとして第38旅団が少なくとも6時間経ってからBhasinとDograich町を奪取する。

第7師団計画
 第1フェイズとして、第48旅団が戦車中隊の支援を受けながらKhalra-Barki軸で進軍し、Barki町を占領後に9月6日日没までに水路の橋を奪取する。それと同時に第17ラージプートと1個戦車小隊が砲兵の支援下でWan-Bedian軸にそって前進しBedianを占拠する。第2フェイズとして第65旅団が掃討作戦を実施し、第7師団担当範囲の全ての橋を破壊する。
 
第4師団計画
 この師団担当区域では国境からイチョギル水路までわずかしかない。その範囲の敵を駆逐しながら前進し、イチョギル水路にあるケム・カラーンからカスール市に連なる橋を破壊する。領域占領後、敵の反撃に備え防御態勢を確立する。また、軍団予備の独立第2機甲旅団は優先してこの区域を支援すること。[参照14]
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【直前の推移】

 9月3日、西方司令部や第11軍団司令部は会議を行い9月7日が攻撃開始日時とされた。しかし翌9月4日にアクノールが危機的な状況に陥ったため急遽計画を総司令部は変更、24時間以内に攻撃開始と指示が下る。今や開始は9月6日午前4時となったのだ。その時まだ展開していない部隊もあり第11軍団は慌ただしく動き続けた。列車は軍務関係で埋め尽くされ、兵士たちは移動の途中で寝られる時に僅かでも睡眠をとったのだった[Gokhale, (2016), 第7章[Hai, (2015), p.15] [参照14]

パキスタン軍ラホール方面の計画

 ラホール広域におけるパキスタン軍の基本計画は2個歩兵師団正面防御1個機甲師団南翼から突破し敵後方連絡線を遮断するという防御からの攻勢転移を想定していた。北のラービー川から第10師団、第11師団が前線を防御し南端のカスールに第1機甲師団が待ち構える。ただしこの時期にインド軍が攻めてくると総司令部は直前まで考えておらず追加の部隊を送ったりはしていなかった。
 以下の記述ではラホールの戦いで防御を担当した第10師団に焦点を当てる。(他2個師団はアサール・ウッターの戦いの記事で取り上げる)
北部_第15師団戦域_0_

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・第10師団は3個旅団(第114歩兵旅団、第103歩兵旅団、第22機甲旅団)を有する。2個歩兵旅団を前線の防御に充てておいて1個機甲旅団を後方に置き反撃のための師団打撃部隊とした。
 ・第22機甲旅団は第23騎兵連隊(1個中隊がM-47戦車、残り2個中隊がシャーマン)、2個歩兵大隊、1個野戦砲連隊、1個偵察中隊が配属されていた。
 ・第114旅団がラーヴィー川からWagah町のGT街道含む領域を防御担当。1個TDU戦車中隊(Tank Delivery Unit)を有す。
 ・第103旅団はGT街道の南域をBedianまで守備する。1個TDU戦車中隊を有す。[参照14] [Higgins, (2016),第5章]

 9月4日22:30、パキスタン総司令部は国内全軍に「必要な防衛態勢をとること」と指令を出したが、第10師団は警戒を強めた程度でそこまで防御を固めずに過ごしていたのであった。[Hai, (2015), p.15]
 特に第114旅団は不可思議なまでに防御設備に移動していなかった。[参照14]

リドル作戦開始_Operation Riddle

 9月6日04:00、北部担当第15歩兵師団隷下の第54旅団が国境線を越え踏み込んだ。インド軍の攻勢が発起された瞬間である。
北部_第15師団戦域_9月6

 北の第38旅団及び第1JAT集団も並んで進みだす。第54旅団はGT街道沿いの各陣地を軽快に攻撃、06:30までに複数地点を奪取する。07:00に更に1つの村を占拠し2人の将校含む捕虜を得た。これらパキスタン軍前進陣地は軽めの要塞化しかされていなかった。散兵が各所で攻撃をしかけてくるがそれほどインド軍に打撃は与えるものでもない。しかしハイデ大佐ら前線指揮官たちは懸念を抱きつつあった。次第に抵抗は強くなりつつあったのだ。
 第54旅団(の第3JATに)ジープが最前線部隊の下へ到着し弾薬を補給しさらに前進戦闘を行おうとした。しかしその時パキスタンのF-86戦闘機が上空に現れると彼らを攻撃した。最前線で補給を受領する際に車両がカモフラージュされておらず直撃を受けてしまう。無反動砲や迫撃砲が周辺の多くの兵士と共に爆散し、その中には砲兵隊の前進観測将校も含まれていた。大佐はそれでも統制を失わず次の攻撃目標のDograi町へ向かった。[Gokhale, (2016), 第7章] [参照14

 Dograi町は人口が多くトーチカなどもあったがが抵抗は短く11:30頃そこにいた部隊はイチョギル水路を越えて退却した。第3JATは勇敢にもこれに続き一部が西岸へ渡ることに成功したのである。全体としてGT街道沿いの第54旅団の進捗は良好であった。惜しむらくは第3JATの進軍速度は旅団司令部の予想を超えており、大隊の最前線には旅団司令部へ直通する通信設備がなかったため、その戦果を拡張する増援を即座に送り込むのはできなかったことであろう。敵反撃の脅威があったためもう一度東岸へ戻ることになった。[Gokhale, (2016), 第7章]   [Hari, (1967), pp.151~152] 

 けれどもこの後退が示すように、他部隊の進捗は決していいものでは無かった。

 第13パンジャーブは鉄道橋まで550m地点に迫ったがそこで激しい射撃を受けて退かざるを得なかった。また15ドーグラー大隊のように、前進に成功するも将校を失うなど損害を出していたことも無視できない。 [Gokhale, (2016), 第7章]
 だがそれ以上に深刻だったのはその北を進んでいた部隊の進捗である。第1JAT集団は最初はうまく前進し水路に迫ったのだが、そこでパキスタン軍砲兵隊はここに火力を集中し更に空軍も攻撃を仕掛け第1JATを国境まで押し戻すことに成功した。この地点は増援をすぐには送れなかったこともあり再進撃は即日にはできず、その日を追えた。第38旅団も同様に撃退されていた。[参照14[Gokhale, (2016), 第7章]

 9月6日13:00、プラサッド少将は軍団指揮官に対し既に重い損害が出ているため彼の区域の状況は行き詰まりこれ以上進めないと伝えた。ただこれは損失規模を誤認していたのではないかという意見もあり、ハーバクシュ西方司令部司令官はそこまで重くなかったと述べ前線指揮官たちの戦力投入判断に関するミスを示唆している。[参照14[Gokhale, (2016), 第7章]

 15:30、インドの軍団司令部は予備の第96旅団の投入を決め所属する第6クマウーン大隊を北の第1JATの支援に向かわせた。
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 ハーバクシュ中将は師団司令部のプラサッド少将との議論の末再度彼らに前進を命じ、翌9月7日日の出までにイチョギル水路の橋の1つの確保と、第38旅団には東岸の敵を打ち倒しインド陣地を確保しておくよう指示を出した。プラサッド少将は混乱に直面してややパニックになっていたという。
 最前線の部隊との通信リンクが乱れるなどインド軍は情報伝達に問題を抱えていた。そこでプラサッド少将の師団司令部が前線に直接状況を確認しに出ることにしたのだが、これがパキスタン軍に伏撃を受けてしまう。12人と4台の車両が捕獲されてしまい、司令部は何とか脱出したのだがメモ帳やファイルを奪われてしまった。これをパキスタンはプロパガンダに利用されたためプラサッド少将は解任となり、第15師団指揮はモヒンデル少将(Mohinder Singh)が引き継ぐことになる。ハーバクシュ中将はプラサッド少将の手腕をかなり厳しく批判している。[Gokhale, (2016), 第7章[参照14]
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北部_第15師団戦域_9月7日

 9月7日、予備第6クマウーンは到着後にすぐ戦闘を開始し激しい砲火に苦しみながらもなんとか橋の傍まで進撃をしたのだがここでパキスタン軍の機甲部隊が現れた。機甲からの砲撃を受け北端のインド軍は再度後退するしかなかった。[Gokhale, (2016), 第7章]

 それは後にアミン少佐が「最も素晴らしい反撃」と語るパキスタン軍機甲部隊による戦闘の始まりだった。

パキスタン予備第22機甲旅団の反撃

【反撃開始_北端の橋頭堡確保】

 9月7日夜までのインド第15歩兵師団の進展は次のようになっていた。
 第54旅団による南端GT街道進撃は当初悪くはない進展を見せていたのだが、イチョギル水路近傍まで迫ったために激しい防御に直面し橋の奪取には失敗、完全な成功とはいかなかった。その北の第38旅団は前進が初期から頓挫、激しい抵抗によって押し込めずにいた。北端の第1JATは大きく損耗し増援の第96旅団が水路へ到ろうと苦闘していた。[Gokhale, (2016), 第7章
北部_第15師団戦域_9月8日

 しかし7日夜~8日明朝、パキスタン軍は師団予備の第22機甲旅団を北端へ投入、ここに反撃が始まった。陣地防御部隊でインド軍の突進をすり減らした後で予備の機甲部隊が反撃、積極的に前に出たことで戦局を好転させる。砲兵隊の集中砲火があったのはこのための準備であったと考えられる。機甲旅団が橋を渡って来たことでインド軍北端部隊は8日正午までにRanian村まで後退していった。パキスタン第22機甲旅団は指揮官のQayyum Sher准将が率いて渡河すると対岸に展開するスペースを確保した。[Amin, (2012), p.8] [参照14]

【南転と敵側面への突進】

 この時パキスタン第22機甲旅団所属の第23騎兵機甲連隊は橋を渡り東岸の狭い陣地、縦深は僅か2㎞程度しかなく後ろを川に制限された場所にいたことになる。彼らはこのまま北端の橋を守り続けるのが最も自身にリスクが無い選択肢だったのだが、すると他の南部陣地への増援が無くなってしまう。奇襲を受けた各陣地は緊急的状況に置かれており機甲部隊のみが有力な予備となっていた。よって彼らをこのまま他箇所、特にGT街道周辺で前進に成功しているインド第54旅団に対してぶつけなければならなかった。
 ただ東岸のパキスタン支配域は全面的に圧力を受け押し潰されつつあり、水路に沿って細長くなってしまっている。橋の数が少ないため東岸で活動すると機甲部隊が動くスペースを失い川に挟まれ壊滅する可能性があった。GT街道への救援に行く最も安全なルートは一度西岸に戻って自陣地後方を南下しGT街道正面付近でまた東岸へ砲撃しにいくことである。

 だがパキスタン軍はそれを選ばなかった。彼らはこのまま東岸で機甲旅団を移動させることを決断する。リスクは大きいがこれが最速かつ最大の影響をもたらせるだろう。
 9月8日午前中の内に第23騎兵機甲連隊は北端で東進し目の前の敵第1JATと第96旅団の1個大隊を跳ね返した後すぐさま南へ転進、今や細く潰されつつある東岸陣地を疾走した。
北部_第15師団戦域_9月8日午後

 第22機甲旅団の縦列は敵の攻撃が左側面に迫るのが肉眼で見れる距離で行軍する。この狭い幅の領域でGT街道までの約11㎞を第22機甲旅団は走り抜けたのである。そして13:30、GT街道正面で水路に到達して周辺を奪おうとしているインド第54旅団の北側面へ突進した。[参照14][Amin, (2012), p.8] 
 突如現れた戦車部隊にインド軍は驚きを隠せなかった。「第23騎兵機甲連隊の槍の穂先はインド第15師団にパニックをもたらした」と述べられている。[Amin, (2012), p.8] 

 インド第54旅団隷下の2つの連隊(第13パンジャーブと第15ドーグラー)は防御を展開していたがこの反撃を抑えきれなかった。パキスタン第22機甲旅団は敵戦線を突き破り更に攻撃をしかける。これによりインド軍攻勢部隊は危機的な状況に陥り水路まで迫っていた陣地を放棄し後退するしかなくなった。[Gokhale, (2016), 第7章[参照14]

 第22機甲旅団は見事な活躍を見せたが、実は戦前の訓練ではこのようなイチョギル東岸での反撃マニューバの演習をしたことはなかったというのだから驚きである。[参照14] 
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 退きながら防御陣地を再構築するにあたってインド軍は見事なリーダーシップを見せたが、ハーバクシュ中将とディロン中将は奮闘していた第54旅団は損耗しきりアムリトサル市への安全保障要求を充たせないと悟っていた。攻め込んだはずの第15師団はもはや守勢すら考慮にいれなければならないほど追い込まれたため、軍団予備の第96旅団を使い切りその後ろHudiaraにもう1つの陣地を展開した。[Gokhale, (2016), 第7章

インド第15師団戦線の立て直し

 西方司令部はラホール方面に送れる部隊を必死で探していた。だがインド第15師団には更に悪い知らせが続く。9月10日北端でRanian村まで退いて立て直そうとしていた第1JATと第6クマウーンの陣地がパキスタン軍の反攻を受け、24時間で陥落したため陣地線に間隙ができてしまったのである。師団左翼が突破されるのを防ぐために手持ちの予備は使い切ったというのに今度は右翼が突破される寸前になったのだ。
 決断を迫られた第11軍団司令部は緊急措置を取る。南翼のHudiaraに展開させた第96旅団を再度移動させて北翼で晒している間隙を埋めに行かせたのである。再編した第54旅団がまた突破された場合GT街道の戦線に大穴が開き師団全体が崩壊するが、彼らが耐え抜くと判断したのだ。

 ただハーバクシュ中将は何のバックアップもない賭けに出たのではなかった。
 この時西方司令部にとって送り込むことが唯一可能だったのが第50落下傘旅団である。彼らをここに投入する算段をつけていたからこそ第96旅団を置換したのだ。第50旅団は考え得る限りの迅速さで南翼の前線に展開、なんと9月10日の内にその一部がHudiaraに到着したのである。南翼が傷ついた第54旅団だけに任されていた時間は24時間も立たずに終わった。[Gokhale, (2016), 第7章]  [参照14] 
 一方でパキスタンの打撃部隊である第22機甲旅団は、東岸の狭い領域に留まることは危険であるしその場で敵増援に耐え続けられるほど大軍ではないため、反撃を完了した後迅速に水路西岸へと戻っていった。[参照14] 
北部_第15師団戦域_9月9日~22日
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 以降第15師団の戦線は膠着状態になっていく。当時はパキスタン軍の攻勢がアムリトサルへ行われる可能性が排除できておらず、インド軍は慎重にならざるを得なかった。[Hari, (1967), p.142]
 実際の所、奇襲的になったこともありパキスタン軍第10師団にアムリトサル突進を狙うほどの戦力的余裕はなかった。(ただし別の箇所にあった。)インド側も他地域が危うかったこともあり中々積極的にはなれず、動いたのは第41旅団が新たな予備として到着後の9月17日であった。

 再度Dograi村を奪いにいくよう命令が下り、9月21日17:00~22日01:30で各部隊はそれぞれ慎重に攻撃する。今度はパキスタン軍がトーチカや塹壕網で激しく抵抗、村の各建屋は土嚢で要塞化されていた。非常に激しい戦闘が展開され、インド軍はゆっくりと支配域を広げていき、多くの死傷者を出しながらもようやく獲得した。
 ただそこまでが限界であり、作戦目標とされていたイチョギル水路までの東岸全域の占領はもはや不可能だった。[Gokhale, (2016), 第7章

リドル作戦によるグランドスラム作戦への影響

 リドル作戦は初期に想定していた目的とは違う目的も持つことになって始まった。即ち国境線をイチョギル線まで進ませ大都市ラホールへ脅威を与えることで敵予備を引き付けるという目的だけでなく、アクノール方面を救うためという目的である。[Gokhale, (2016), 第7章

 前者は国境から押し込んだものの前進は不完全に終わり、更に逆侵攻の危機を迎え予備を吸い取られることになってしまった。他地域で優位を作りだすためパキスタン軍予備の大部分をラホール地域に拘束するという戦略的な狙いは失敗した。[参照14] 
 ただ後者の目的は達成された。ラホール、カスール、シアルコート(別途記載)の3地点で開始されたインド軍の攻勢はパキスタン総司令部に衝撃を与え、パキスタン軍はグランドスラム作戦の第7師団から第11騎兵機甲連隊と第4砲兵旅団司令部それに第39野戦砲連隊が南方のラヴィ‐シェナブ回廊(Ravi-Chenab)にいる第1軍団の管轄へと移されアクノール方面はそれ以上の攻撃能力を喪失した。即ちグランドスラム作戦は終了したのである。[参照9

 パキスタン側は、インド軍がパキスタン領ムザファラバードへ侵攻してくるという可能性もまた消失させることには成功した。
 もっともインド側からすればそんな攻勢など最初から考えておらず(カシミール内インド軍の戦力配分では不可能)、カシミール内のインド軍を孤立させようというパキスタンの野心的試みは失敗したという見解のみを内外に喧伝するだけであった。[参照4] 

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 この戦争を振り返ると、元々計画されていたパキスタン軍の反攻やアクノール攻勢の戦略コンセプトそのものは良かったが、実際の状況での策定と作戦レベルにおいては失敗であった。[参照14] 
 パキスタン首脳部は全面戦争の準備も決意も無くなし崩しに部分的軍事侵攻を行い、そして中止した。インド総司令部は頸動脈たるアクノール地域の警戒を怠り、パニックの中で事前に準備していたリドル作戦を壊れた形で実施させ反撃を受けた。前線指揮官たちのミスは糾弾されたが両国の総司令部は一連の戦争指導について戦争直後は責任を充分に取らず、後に非常に厳しい非難を浴びることになる。

第11軍団の他戦線

 インド第11軍団にはこの北戦線の第15師団の他に中央の第7師団と南の第4師団があった。彼らも同じタイミングで攻勢をしかけていたのだが、進展は異なるものとなっていた。

 中央の第7師団は最終的に進撃に成功するがその道程は簡単なものではなかった。
 9月6日に他師団と同じタイミングで攻勢を開始、先頭の第48歩兵旅団が敵防衛線と接触したのは07:00だった。砲撃と長距離でも放たれてくる自動小銃に苦しみながらも前進していき、Hudiara水路を目指す。10:30までに6/8ゴルカライフル隊が水路までは難しかったがHudiara村に到達、別箇所では第4シクがBarki村にある強固なパキスタン守備陣地へと迫った。

 ここはかなり厄介で4日間も準備をした上で9月10日の夜20:00に攻撃を開始する。泥壁小屋に似せてカモフラージュされた射撃陣地に自動小銃などで武装した兵士が3人1組でおり、更に各地点にトンネルが掘られ砲撃下でも自由に移動できるようにされた守備陣地を相手にインド軍は幾多もの死傷者を出してしまう。両軍が砲兵隊と戦車を投入し歩兵は各家屋1戸ずつ進んでいく。インド側は敵パキスタン砲兵隊が1時間以内に2500発は砲撃してきたと述べている。第4シクはかまわず突進し、中央インド騎馬連隊(CIH)のシャーマン戦車の支援を受けながら深夜までに敵射撃陣地を沈黙させた。歩兵たちはシャーマン戦車に大いに助けられた、というのもこの部隊は暗視装置を持っており暗闇の中砲撃を続けてくれたからだ。また、インド空軍はラホールの戦いで良く貢献してくれたとチャバン国防大臣は述べている。

 耐えきれずパキスタン兵はBarki守備陣地を放棄し後退した。これにより第7師団はイチョギル水路への到達をほぼ達成した。ただその後も戦闘は続き第16パンジャーブが第5野戦連隊の砲撃支援を受けながらイチョギル水路東岸の敵領土占領を目指す。この時にCIH指揮官Joshi中佐が戦死している。

 全体として、北の第15師団は苦しみながらも増援を受け戦線を立て直し、中央の第7師団はうまくイチョギル水路まで進んでいた。けれどもこの時、南の第4山岳師団の担当区域は恐らくラホール戦区で最大と言えるであろう危機に直面していたのである。
 初期攻撃が敵歩兵陣地によって激しい損害を受け撃退されたことで軍団司令部の計画は大いに動揺させられる。しかしそれはあくまで始まりに過ぎなかった。致命的に限りなく近い情報部のミスが第4師団のみならず第11軍団全てを危険に導いていたのだ。それはパキスタン軍の中でも最大戦力の1つ、第1機甲師団の位置を誤認し戦線付近にいる彼らを完全に見落としていたことである。

 パキスタン第1機甲師団の有する膨大な戦車部隊がインド第11軍団の南翼を貫きアムリトサル域を丸ごと包囲するため、その進撃を始めていた。




 



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アサル・ウッターの戦いに続きます。
http://warhistory-quest.blog.jp/19-Nov-22

 ここまで長い文を読んで頂きありがとうございます。
 次回が最大の戦車戦、アサル・ウッターの戦いとなります。会戦概要のわりに長くなってしまいましたが、次は戦車戦を詳しく紹介しようと思っています。
 今回も本当はこの戦いをメインにするつもりだったんですが、あまりにパキスタン第22機甲旅団の活躍が見事だったので記事を分割しました。


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【参考文献】
機甲部隊を指揮した少佐によって1990~99年に作成された事実上の公式戦況図集。多くの戦況図がこれを基にしている。2012年に関係将校の顔写真付きで一般に販売された。解説文はほとんどなく図及び顔写真とそこに書き込まれたメモのような戦況推移のみがある。ページ番号無し
Major Aghaa Humayun Amin, (2012), "Atlas of Battles of Assal Uttar and Lahore-1965"
同上, "Atlas of Battle of Chawinda"

インド第3騎兵機甲連隊の行動を追ったアサルウッターの戦いの詳細記録。連隊の軍人が著者で同僚や当時の兵員など多数の直接インタビューを行っている資料。
Khutub A Hai准将, (2015), "The Patton Wreckers  -  Battle of Asal Uttar"

1965年に両国で使われた戦車の性能比較
David Higgins, (2016), "M48 Patton vs Centurion: Indo-Pakistani War 1965"

1965年戦争の全体をまとめた本で戦闘はほぼ網羅している。カラー戦況図ありだが精緻ではない。kindle版はページ数も章番号もつけられていないため『The Context The Indian Sub-continent in 1965 Gokhale』を第1章とした。
Nitin A Gokhale, (2016), "1965 Turning the Tide"

インド・パキ戦争での戦車戦の通史。概説だが多くの戦いの戦況図や指揮官写真が載っている。
Maj (Retd) Agha Humayun Amin, (2000), "Handling of Armour in Indo-Pak War Pakistan Armoured Corps as a Case Study"

パキスタン軍少将が書いた書籍
Shaukat Riza, (1997), "THE Pakistan Army : War 1965"

非軍人のパキスタン人ジャーナリストが書いた書籍
Shuja Nawaz, (2009), "Crossed Swords: Pakistan, Its Army, and the Wars Within"

ジャーナリストが1965年の戦争で最前線を取材し発刊した
Kuldeep Nayar, (2012), "Beyond the Lines: An Autobiography"

Journal of Defence Studiesに掲載された。この戦争に関するいくつかの書籍を紹介している。
Y.M. Bammi, (2016), "Revisiting the 1965 War"

1月のKutchから扱っている1965年戦史
Farooq Bajwa, (2013), "From Kutch to Tashkent: The Indo-Pakistan War of 1965"

インド国防大臣の日記形式の戦史記録
R. D. Pradham, (2007), "1965 War, the Inside Story: Defence Minister Y.B. Chavan's Diary of India-Pakistan War"

戦争直後に出版された1965年戦争通史。当時の発表がどうだったかよくわかる。
Gupta,ram Hari, (1967), "India Pakistan War 1965 vol1"

第7師団で街道を進んだ第4シクの戦闘詳細
Kanwaljit Singh准将, (2015), "Capture of Barki by 4 Sikh"

パキスタン側の最重要資料。元ISI(軍統合情報局)および元陸軍情報部の長官にして20世紀末パキスタン政府へ強大な影響を持っていた「4人のギャング」の1人、マフムード・アフメッド中将が記した書籍。失脚後に発刊されており、パキスタン政府が勝利したとプロパガンダしてきた1965年戦争に対し、別の視点を軍の保管記録を基に作成した。
 パキスタンでもともとは『勝利の幻想』というタイトルだったが圧力がかかって変更させられた上に、後に政府が回収したという噂がある。実際に出回っている数は極めて少ない。[参照3]
インドでも僅かだが発刊された。
Mahmud Ahmed,(2002) , "Illusion of Victory: A Military History of the Indo-Pak War-1965"
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【参照サイト】

1.
戦争ジャーナリストSushant Singhが寄稿した記事。時系列ごとの主要出来事及び関係者の証言あり。
https://indianexpress.com/article/india/india-others/big-picture-1965-fifty-years-later/

2.
パキスタン軍事共同団体(pakistan military consortium)のM47及びM48パットン戦車に関する記事
https://web.archive.org/web/20120816063055/http://www.pakdef.info/pakmilitary/army/tanks/patton.html

3.
パキスタン新聞社The Nationの記事。2015年
https://nation.com.pk/12-Sep-2015/1965-how-pakistan-won-the-war-of-propaganda

4.
インド陸軍公式サイトの1965年戦争への見解
https://www.indianarmy.nic.in/Site/FormTemplete/frmTempSimple.aspx?MnId=LwYMsoixtnldb1wGxcBoEQ==&ParentID=ZFKQRiA64URXAcah3aIoqw==

5.
インド国防省の公式季刊誌Indian Defence Review (IDR)に2018年に掲載された書籍『Bhaskar Sarkar大佐, (2000), "Outstanding victories of the Indian army, 1947-1971"』の引用文
http://www.indiandefencereview.com/spotlights/battle-of-hajipir-pass-1965/

6.
この戦争に参加したTejinder Singh Shergill中将 (Retd)が寄稿した記事。推移を端的かつ作戦要所を抑えて振り返っている。
http://www.spslandforces.com/story/?id=366&h=An-Overview-of-1965-Indo-Pak-Conflict-Strategic-and-Operational-Insights

7.
PK Chakravorty少将(Retd)およびGurmeet Kanwal准将(Retd)の寄稿した記事。ジブラルタル作戦の根本的欠陥。
http://www.indiastrategic.in/topstories4041_Operation_Gibraltar_was_Fundamentally_Flawed.htm

8.
国防省季刊誌にBhaskar Sarkar大佐が寄稿した記事。ハジピールパスの戦い
http://www.indiandefencereview.com/spotlights/battle-of-hajipir-pass-1965/

9.
パキスタン軍のAgha Humayun Amin少佐の本のジブラルタル作戦およびグランドスラム作戦箇所引用
https://www.brownpundits.com/2018/02/17/operation-grand-slam-1965-war/

10.
パキスタン軍のSSG指揮官の1人(1965年直前に異動)S.G.Mehdi大佐の証言を基にしたジブラルタル作戦の評価
https://web.archive.org/web/20110927035816/http://www.defencejournal.com/july98/1965war.htm

11.
カラチ合意の国連原文。
https://peacemaker.un.org/sites/peacemaker.un.org/files/IN%20PK_490729_%20Karachi%20Agreement.pdf

12.
 Kuldip Singh准将が寄稿した1965年後半の主要軍事行動についての記事
http://www.indiandefencereview.com/spotlights/indo-pak-war-1965-major-actions/

13.
Satish Nambiar中将が寄稿したチャンブおよびシアルコートの作戦についての記事
http://www.indiastrategic.in/topstories4048_Operations_in_the_Chhamb_and_Sialkot_Sectors.htm

14.
インド軍の攻勢とラビ・サトレジ回廊の戦いに関するAmin少佐の論文
http://www.defencejournal.com/2001/dec/ravi.htm

15.
1965年の両国の航空戦力と損害
http://www.indiandefencereview.com/spotlights/iaf-defeated-paf-in-1965-war/

インド陸軍公式サイトの退役軍人写真
https://indianarmy.nic.in/Site/FormTemplete/frmPhotoGalleryWithMenuWithTitle.aspx?MnId=/3SGVJ7Bh60n0pSX+Y5ang==&ParentID=S5qpecqw0UB8QdEP5Okphw==

インド軍及び退役軍人のための非営利団体 Flags of Honor
http://www.flagsofhonour.in/about.html

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【メモ】
・AMX-13の主砲は装甲貫通力という点ではパキスタンのパットン戦車に勝っていたとAmin, (2000), p.62で述べられているが、参照9の論文の方ではパットンの方が上と書かれている。

・9月6日はパキスタンにとってインド軍からの侵攻を受けた日としてDefence Dayとされている

・4Cが突進は確定だが、5Hと10FFのどちらが先頭で攻撃したか資料ごとに違う。

・8月31日ごろの敵攻勢予測で不健全なインテリジェンスに基づいてしまったと国防大臣は述べ、ハーバクシュ中将もパキスタンが攻勢を狙う時期と場所に関して情報部が再び失敗したと述べている。9月1日、国防大臣は朝の定例会議でパキスタン軍がジブラルタル作戦頓挫から回復し再攻撃をするには少なくとも16日かかると報告を受けたのだが、その日のうちにチャンブ地区が激しい攻撃を受けていると連絡があり13:00にオフィスにもどり説明を聞くはめになった。
[Gokhale, (2016), 第6章

・9月2日、パキスタン軍はLallialiへと進撃し第3マハーラA中隊がこれを迎え撃った。彼らは敵歩兵が約230mの距離まで近づいてから一気に機関銃、3インチ迫撃砲、その他小火器を斉射。パキスタン軍を見事に撃退した。だが第3マハーラは幾名も死傷者を出していた。夜20:00、第3マハーラ大隊は旅団との通信が切れてしまっていたが、命令を受領に成功。最大限の遅滞戦闘を行った後でKalidharに後退せよとのことだった。対するパキスタン軍は夜間にまた攻撃を仕掛けた。第3マハーラは既に迫撃砲弾を使い切っておりしかも砲兵支援が無い状態では支えきれず、守備地点から後退した。[Gokhale, (2016), 第6章

・マリク将軍の解任はアユーブ大統領またはブットー外務大臣とコネクションを持つ者(Yahya)による策動であったと推察されている。

・ハイデ大佐は旅団司令部と直接連絡をとれる無線機を持っていなかった。

・Prasad少将は第15歩兵師団司令部

・(軽戦車の機動力について)装甲の防護が不十分であると機甲は脆弱性が著しく増大し、マニューバや騎乗能力さえ大幅に低下する。[Amin, (2000), p.60]

・Shaukat Riza:パキスタン軍の将校でパキスタン軍事史を記した。砲兵であったため1965年の砲撃分散についても述べている。

・第191歩兵旅団(所属:第6シク軽歩兵、第3マハーラ、第15クマウーン)

・パキスタン首脳部がラホールの認識ミスしたいたことについては責任がほとんどとられなかった。せいぜい言及されているのはラジャスタン地域での砂漠部隊の成功であり、そこに戦略的価値はほとんどなかった。[参照3]

・第3JATの渡河成功後の戦果拡張失敗は流動的な戦況に上級指揮官が対応できなかったことが原因の1つであるとも指摘されている。[参照12

・戦後にハーバクシュ中将はこの戦区では師団及びそれ以下の部隊での指揮がより良ければ作戦目標は達成し得たと述べた。けれどもこれには異論を述べる者もいる。[Gokhale, (2016), 第7章