1965年印パ戦争において9月第2週は最大規模の衝突が同時的に複数起きた期間となりました。両国は機甲部隊を投入し積極的な侵入を行い、そして守る側でも機甲部隊に重大な役割を任せることになります。

 その舞台となったシャカルガル突出部北域での戦い(Battle of PhilloraとBattle of Chawinda)そして南の戦い(Battle of Asal Uttar)はインドでは度々「WW2以降で最大の戦車戦」というフレーズを持って紹介されます。実際に最大なのかの戦例比較検証はともかく、確かに彼らがそう言いたくなるほど機甲部隊は激しい戦闘を繰り広げました。戦車に対抗するために戦車をぶつけなければならないというルールは戦争には無く、実際に対戦車砲や航空機が戦果を挙げていますし現代なら対戦車誘導ミサイルなど数多くの効率的手段があるのですが、1965年印パ戦争では両軍総司令部の問題もあり戦車対戦車の局面が大規模に発生し非常に興味深いものになっています。

 今回はその中でも極めて見事な戦術が実行されたアサル・ウッターの戦い(別名ケム・カランの戦い)について記そうと思います。
battle of Asal Uttar_9月10日_午後戦闘ピーク-min

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戦況図作成にあたり略語は基本的にHai准将の書籍を基に以下の形で採用する。

BDE = Brigade = 旅団
REGT = Regement = 連隊
BN = Battalion = 大隊
SQN = Squadron = 中隊または戦隊(インド機甲部隊では中隊規模)
COY = Company = 中隊
Battery = 砲兵中隊
Tr = Troop = 小隊規模
Gren = Grenadier
C = Cavalry = 騎兵  ※部隊名に伝統が残っているだけで実際は機甲部隊
H = Horse = 騎馬  ※同上
L = Lancer =ランサー ※同上
その他部隊名の多くが
地域名から取られている。
___以下本文___________________________

第11軍団の攻勢までの推移と計画

詳細は【グランドスラム作戦とラホールの戦い_1965_別箇所攻勢による間接的な防衛】を参照。

【インド軍の攻勢計画】

 アムリトサル周辺のインド第11軍団はパキスタン第2の都市ラホールへ脅威もたらし、敵予備をひきつけるために限定的な攻勢を開始する。基本目標はイチョギル水路(Ichhogil)までの敵領土を占領し橋を奪取することである。アクノール方面が危機的になったため元々の予定日より早く開始されることになった。
インド第11軍団攻勢計画

第15歩兵師団計画
 第1フェイズとして9月5~6日の夜に各旅団が攻撃開始、04:00に国境を越え第54旅団は1個戦車中隊の支援を受けながらGT街道を前進しDograi町を奪取し水路にある2つの橋を占領する。第54旅団と同時に北で1個大隊規模のタスクフォースがBhaini橋を占領。第2フェイズとして第38旅団が少なくとも6時間経ってからBhasinとDograich町を奪取する。

第7歩兵師団計画
 第1フェイズとして、第48旅団が戦車中隊の支援を受けながらKhalra-Barki軸で進軍し、Barki町を占領後に9月6日日没までに水路の橋を奪取する。それと同時に第17ラージプートと1個戦車小隊が砲兵の支援下でWan-Bedian軸にそって前進しBedianを占拠する。第2フェイズとして第65旅団が掃討作戦を実施し、第7師団担当範囲の全ての橋を破壊する。
 
第4歩兵師団計画
 この師団担当区域では国境からイチョギル水路までわずかしかない。その範囲の敵を駆逐しながら前進し、イチョギル水路にあるケム・カラーンからカスール市に連なる橋を破壊する。領域占領後、敵の反撃に備え防御態勢を確立する。また、軍団予備の独立第2機甲旅団は優先してこの区域を支援すること。[参照14][Nath, (2011), pp.4~5]

 以下は第4歩兵師団の担当区域での戦いを記す。

【パキスタン軍の逆襲計画】

 元々この地域では敵の攻撃があった場合に逆襲する計画が練られていた。それはカシミール地方の根本にあたるアムリトサル周辺平野部を占領しようという野心的なものだった。
 これが成功すればもちろんシャカルガル突出部とラホールの防衛に大きく貢献するのだが、それ以上にカシミールへの連絡線が脅かせるのと同時にインド中央の平野の様々な場所を狙えるようになり、大都市ルディヤーナーやその先デリーも見えてくる。パキスタン総司令部は直前までラホールへ敵が攻勢へ出てくると察知していなかったが、9月4日夜に警戒指令を全部隊に発していた。
J&K地方の道路網 (2)

 具体的な計画内容は、現在のラホール域国境前線に2個歩兵師団を並べ戦線正面の敵攻勢部隊を引きつけ消耗させてから、南翼より第1機甲師団が逆侵攻をかけ国境沿いの敵防衛線を突破。そのまま敵側背へ突進しようというのだ。戦車と装甲車両の総計450輌以上が広がり河を利用し片側面を守りながら進撃し、特に南東のインド中枢部への連絡線たるBeas橋を奪取することとされた。その後は歩兵部隊と連携しアムリトサルの敵第11軍団を片翼包囲で粉砕する。[Hai, (2015), pp.33~34] [Nath, (2011), pp.3~4]
 インド軍はデリー方面へ突撃される可能性に拘束され、包囲された第11軍団へ救援は送れないだろう。[参照14]
パキスタン軍攻勢計画-min

 インドのインテリジェンスは複数の失敗を1965年印パ戦争でしてしまった。その中でも特に危険だったものがパキスタン軍機甲部隊の配置に関するミスである。[Gokhale, (2016), 第7章] 
  報告ではパキスタン第1機甲師団がカスール西40kmのチャンガ・マンガ森におり前線そばには居ないと誤認されてしまっていた。この情報が修正されぬままインド南翼第4歩兵師団は攻撃を開始してしまう。[参照14] [[Hai, (2015), p.13] 

戦力

 ラホール南域への攻勢を担当したのはインド第4山岳歩兵師団である。通常(3個旅団編制)より少ない2個歩兵旅団編制である。南端のカスールへ橋の正面を攻めるのは第62歩兵旅団、その北に第7歩兵旅団が配置された。
 第11軍団が有する機甲旅団は南域戦線傍には居なかったが、必要になった場合は後方より優先的にこの場所に駆け付けることになっていた。[Nath, (2011), p.2] [参照14] 
 これはパキスタン軍の攻勢が将来ある場合は南翼から来るであろうとインド軍司令部が正しく予想していたからだが、パキスタン第1機甲師団の位置誤認ゆえにまだ出てこないと思ったままだった。[Hai, (2015), p.13] [参照14]  [Nath, (2011), p.3]
 ラホール攻勢が始まると北の第15歩兵師団が苦しくなり第11軍団司令部はそちらに注力してしまい、南の第4歩兵師団の支援に回したのは第2機甲旅団のみであった。[Nath, (2011), p.8]

インド軍ラホール南域戦線参加部隊
第4山岳歩兵師団(所属:第7、第62山岳歩兵旅団、他に1個山岳砲兵旅団[参照6]
独立第2機甲旅団(所属:第3騎兵、第8軽騎兵連隊)

 第3騎兵はインド全軍でも4個連隊分しかないセンチュリオン戦車を配備された精鋭部隊の1つである。第8軽騎兵連隊はAMX-13軽戦車を有していた。また、第9デカン騎馬のシャーマン戦車2個中隊規模も第4師団へ派遣されていた。

【インド軍センチュリオンMk.7戦車の性能】[Hai, (2015), p.26] 
・重量:52.0t
・乗員数:4人
・装甲厚:51-152mm
・主砲:20ポンド砲
・作戦可能距離:450km
・速度:40km/h    
1965_Centurion Tank_Indo
< Higgins, (2016)より >
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※機甲部隊の隊名が連隊の場合でも規模は大隊。当時のインドとパキスタン両軍に共通。平常は個数を数える時のみ大隊単位を使い、戦闘推移を書く際は部隊名のみで連隊とも大隊とも書かない。NATO記号を使用する場合は大隊シンボルを適用。つまり第3騎兵機甲連隊は大隊規模であり「第3騎兵」と書く。
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 対するパキスタン軍は南域では数的優位を得ていた。
 前線は第11師団隷下の2個旅団が防御を固めており、カスールの少し後ろに第1機甲師団隷下の第3、第4、第5機甲旅団がいつでも投入できるように待機していた。9月初頭時点では第21歩兵旅団(2個大隊編制)は北域にまだいたため、戦闘開始後第11師団の担当地区へ急行し9月7日02:00に戦線に着くことになる。[Amin, (2012), p.18]  [参照14] 
 第1機甲師団は当時のインド亜大陸の中では最高戦力の機甲部隊の1つであった。 [参照14] 

パキスタン軍ラホール南域戦線参加部隊
・第11歩兵師団(所属:第21、第52、第106歩兵旅団)※一部は北の敵第7歩兵師団とも交戦

・第3機甲旅団(所属:第19ランサー機甲連隊、第7機械化歩兵大隊)
第4機甲旅団(所属:第4騎兵、第5騎馬機甲連隊、第10機械化歩兵大隊)
第5機甲旅団(所属:第24騎兵、第6ランサー機甲連隊、第1機械化歩兵大隊) [Amin, (2012), pp.18~34] [参照14]  [Hai, (2015), pp.12~13] [Gokhale, (2016), 第7章]  [Amin, (2000), p.59]

 パキスタン機甲旅団のほとんどがパットン戦車を主力としていたが、他にチャーフィー戦車なども有している。

【パキスタン軍M48パットン戦車の性能】 [Hai, (2015), p.25] 
・重量:49.6t
・乗員数:4人
・装甲厚:120mm
・主砲:90mm
・作戦可能距離:462km
・速度:48km/h  
1965_M48 Patton Tank_Pakistan
 < Higgins, (2016)より >

9月6日~7日_インド第4歩兵師団の攻勢と防御陣地集結

 9月6日、第11軍団の3個歩兵師団は一斉に進撃を開始し戦いが幕を開けた。北の第15師団は最初巧くいっていたがパキスタン機甲旅団の活躍で打撃を受け逆に崩壊の危機を迎える。司令部は軍団予備や増援を次々送り込み穴をなんとか塞いだまま膠着状態へと移っていった。
 中央の第7師団はもっともうまくいった部隊である。遅れはあったものの街道沿いを進軍しイチョギル水路まで到達することに成功する。けれどもその南の第4師団の戦況は第11軍団中で最も危険な状態へとなっていた。[Gokhale, (2016), 第7章]
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 第4歩兵師団は正面攻撃を開始したのだが戦線の広さのわりに戦力が少なすぎた。[参照14]
 隷下の2個旅団が国境を越え敵陣地に迫るも、準備していたパキスタン防御陣地からすぐさま激しい射撃を受けてしまう。[Hai, (2015), p.31]
battle of Asal Uttar_9月7日_インド軍攻勢失敗-min

 そもそも第4師団はアムリトサル南部の攻撃位置へ着くために他師団より長距離を移動しなければならず、攻撃開始日時が早まった影響を特に受けていた。師団は通常より1個すくない2個歩兵旅団編成であったことも影響し、余裕は全く無かったのである。[参照6]
 更に言うと、第4師団がたとえもし前進に成功したとしてもその占領地を将来守るための追加部隊は割り当てられておらず消耗したこの師団がそのままあたる計画にされてしまっていたのだ。[Nath, (2011), p.2]

【第4師団の攻勢中止及び後退】

 6個大隊分の戦力では前進を続けることはできず9月6日の内に失速、パキスタン第11歩兵師団の反撃が本格化すると後退に追い込まれた。[参照6][参照12]  [Hai, (2015), pp.30~31]

 9月7日午前には第4師団の攻勢が失敗に終わったことがもう明らかになっていた。パキスタン第11歩兵師団が迎撃準備を整えていたことを知らず踏み込んでしまい一気に損害を出してしまった。[Hai, (2015), p.30]
 パキスタン軍は自軍前線陣地を奪わせてインド軍がそこに進んで来た所で、塹壕など新たな防御陣地を構築する前に逆襲をしかけ蹂躙する戦術を取っていた。[Nath, (2011), pp.6~7]
 午後、第4師団は防御陣地も崩され始めた。前線計6個大隊のうち3個大隊が防御ラインを放棄しており、残り全てが敵の圧力を受けている。[Gokhale, (2016), 第7章]

MAJ GEN GURBAKSH SINGH_4th Mountain Div
 この時点で師団長グルバクシュ少将(Gurbaksh)は重大な決断を行う。国境線陣地で防衛する案を放棄し、第4師団司令部は2個旅団ともインド領内に数km後退させたのだ。ケムカラン町で小部隊が時間稼ぎをしている間に、第62旅団を基幹にしアサル・ウッター町周辺へと攻勢のために散らばっていた部隊を集結させ拠点防御陣地を構築し始めた。大急ぎで敵戦車が接近しうる主要路に対戦車地雷を敷きつめ、戦車を配置していく。[Nath, (2011), pp.4~5] [Hai, (2015), p.31]

 また、退いてくるときにロヒナラ川を一部溢れさせ師団防御範囲の南~南西を機甲が通行困難にした。(恐らくパキ第52歩兵旅団前面南付近[Nath, (2011), p.5]

 この時点でアサル・ウッターにいる第4歩兵師団の実質的な戦力は3個半大隊分となっていた。[参照4] ※バルトハ等の後方の町に退却した部隊を合わせると残存戦力はもう少し多い。
battle of Asal Uttar_9月8日_0_午前_パキスタン軍侵入開始-min


 拠点のアサル・ウッターには防御陣地ができたが当然周辺の防衛線には大穴が開いてしまっており、急ぎ対処しなければ敵が侵入し周辺の他師団も崩されてしまう、第11軍団全体の危機である。けれども先にアサル・ウッター地域へ現れたのは増援ではなくパキスタン軍であった。それも歩兵師団ではない、第1機甲師団の先鋒であった。第4師団は9月8日朝、防御陣地構築をし始めてから12時間もたたぬ不安定な時に彼らと戦端を開くことになる。[Hai, (2015), p.31]

9月7日~8日_パキスタン第1機甲師団の攻勢開始と第4歩兵師団の拠点防御

 パキスタン軍は第11歩兵師団が最初の防御を担い敵を削った後にすぐさま待機していた機甲師団が突進する作戦であった。渡河し敵陣へ最初に踏み込む先鋒タスクフォースは次の5個大隊の編制である。
・第5機甲旅団(第24騎兵、第6ランサー、第1機械化歩兵大隊)
・第2機械化歩兵大隊(※第52歩兵旅団の所属)
・第5機械化歩兵大隊(※第21歩兵旅団の所属)[Amin, (2012), p.24]

 突入地点のインド領ケム・カラン町からアサル・ウッター町へは一本の道路が真っすぐ走っているがそれ以外に充実した交通網は乏しく、アムリトサル市へ侵攻すればするほど道路は充実していく環境となっていた。

 計画通り第7パンジャーブがインド軍の攻勢を撃退したのを確認すると、第1機甲師団は9月7日夜~8日早朝にかけてカスール方面からイチョギル水路を渡りそのままロヒナラ河川(Rohi Nala)を越え敵領土へ侵入を開始した。先鋒部隊は他の2個機甲旅団が展開突進するための橋頭堡を確保するため占領域を広げていく。
 9月8日の明朝の時点で各部隊が突破している予定だったが、橋と交通計画が不十分で12時間遅れ、昼頃に第5機甲旅団のみがようやくロヒナラを渡河完了しただけだった。後にこの12時間の代償は高くつくことになる。[Hai, (2015), p.34]
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 対するインド軍は迫る敵を感じながら急ピッチで防御陣地を整備し続けていた。07:30に第9デカン騎馬所属の2個中隊はシャーマン戦車を強固な防御陣地に配置した。[Gokhale, (2016), 第7章]

 午前中の内にパキスタン第5機甲旅団の第24騎兵と第6ランサーの先頭がアサール・ウッター防御陣地のインド第4歩兵師団へ接触、交戦が始まっていた。第24騎兵はケム・カラン~アサル・ウッター街道の西へ、第6ランサーは路の東を進撃していく。[Hai, (2015), p.35]

 第24騎兵は2個チャーフィー軽戦車中隊と1個パットン戦車中隊で戦闘集団を編成し、インド第4歩兵師団の北へ大胆に突き進み背面を攻撃しようとしたが、作物の中に隠れていたシャーマン戦車中隊が伏撃し食い止めた。最終的にデカン騎馬隊はシャーマン4輌を失い、パキスタン側は11輌を失ったとされる。[Nath, (2011), pp.5~6][Gokhale, (2016), 第7章]

 パキスタン機甲部隊はただ攻撃するだけでなく機動力を活かしインド第4歩兵師団陣地の側面と後方へも進出を目論んでいたのだ。アサル・ウッター周辺のインド軍陣地はたとえ防御が崩されなくても連絡線を遮断され両翼を包囲される危機に陥る。11:30と12:00に実施されたパキスタン軍による陣地北部にいる1/9ゴルカへの攻撃は一部が成功したが、第4擲弾兵陣地がなんとか包囲寸前で持ちこたえていた。[Gokhale, (2016), 第7章]

 だがこの時アサル・ウッターへ向けて北から急行してくる部隊があった。インド独立第2機甲旅団の精鋭、第3騎兵連隊である。[Hai, (2015), p.24]
battle of Asal Uttar_9月8日_午後1-min

9月8日早朝_第3騎兵連隊の任務と連隊長の決断

 少し日時を遡り独立第2機甲旅団の動きを記述する。
 インド第4歩兵師団が危機に陥いったため軍団司令部は救援を部隊を送らねばならなかった。しかし隣の第7歩兵師団は前進し戦線が広がっており敵反撃を考えると余裕は無かった。故にインド軍で最大の機動力を有する第2機甲旅団(隷下の第3騎兵、第8軽騎兵)のみがこの急場へ駆けつけることになった。

 9月3日明朝、第3騎兵は敵空軍に備えカモフラージュしながらターン・タラン市(Tarn Taran)に集結していた。ここでメンテンナンスを行いきたる作戦へ向け準備を整える。9月5日、第2機甲旅団指揮官Theograj准将が連隊を訪れ第11軍団は翌日からパキスタンへ攻勢をかけること、きたる作戦時にバランスを取る役割を第3騎兵が担うことを告げた。指令によると第3騎兵隷下のA中隊はパティ町(Patti)、B中隊はビィキウィンド(Bhikkiwind)、C中隊と連隊本部はその北のチャバル・カラン(Chabal Kalan)へと移ることになった。同じく第2機甲旅団所属の第8軽騎兵はアタリ(Atari)に配置された。[Hai, (2015), p.30]

 9月7日明朝、上述の移動を実施した。この際にインド空軍は機甲部隊の移動が敵に晒されないように空をカバーし、おかげで第3騎兵の車列が敵に発見されなかったと言われる。この時に南の第4歩兵師団は攻勢に失敗しアサル・ウッターで防御へと移っていた。[Hai, (2015), p.31]
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 翌9月8日早朝に避難してきた市民によって第3騎兵の兵士たちに状況の一部が伝わってきた。敵戦車が南から突進してきている様子を知り救援に行くべきと思われたのだが、第3騎兵の前進展開は旅団長の命令があってのみ許可されるものだった。しかもこの時まずいことに旅団が広がり過ぎて旅団司令部へ無線通信が繋がらなかったのだ。
Lt Col_Salim Caleb
 この事態に直面し、第3騎兵連隊長のサリム中佐(Salim Caleb)は自身の部隊が第11軍団予備として敵への反撃の役割を担うのだと部下たちに明言した。彼は地形を考慮し、敵が侵入地点から北東に進んでしまえばもはや道を阻む障害物に会うことなく突撃がアムリトサル全域へ行われるだろうと瞬時に分析していた。

 侵入地点であるカスール東部~ヴァルトハ町(Valtoha)周辺ではロヒナラ川、ケムカラン川、ニカスナラ川(Nikasu Nala)、サトレジ川といった大小の河川が集結しており行動可能幅は極めて狭まっているが、それも北に行けば川が分散していく上にアムリトサル周辺の充実した道路網が増え機甲部隊は自在に動き回れるようになってしまう。具体的には、敵機甲旅団が現れる可能性のある領域は侵入地点付近では7㎞幅ほどだがその北東のビィキウィンド付近では15㎞、ターン・タランまでくれば45㎞幅へと広がっていく。

 機甲車両において圧倒的な数的優位を持つパキスタン第1機甲師団に広域に出られてしまえば対抗する術はインド第11軍団に存在しない。故に敵侵初期地点の場所、スペースが限定された地域で頭を抑え込むのだ
 従ってヴァルトハ町‐チマ(Chima=アサル・ウッターの真後ろ)‐ラクナ町(Lakhna)の線を決して越えさせてはならない。友軍第4歩兵師団はアサル・ウッター陣地で耐えており敵先鋒は行動を制限されるだろう。
[Hai, (2015), p.32]
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 「長きに渡りインド騎兵が誇りにしてきたのは柔軟性、思考の俊敏性、そして主導的な個性でありだからこそ騎兵が機甲部隊へとなることができたのだ。旅団司令部と無線通信が取れなくても重大ごとではない。」
- クトゥブ・ハイ准将 - [Hai, (2015), p.32]より抜粋
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 戦況の重心の観点からアサル・ウッター域にいる敵と接触しに全速力で進軍し敵の前進を止めるのが第3騎兵連隊のするべき役目である。サリム連隊長は躊躇いなく命令を下した[Hai, (2015), p.32]

9月8日午後_包囲防止

 この時戦況は凄まじい速度で変化していっていた。
 午後になりパキスタン軍は激しい砲兵隊の攻撃後に再度第4歩兵師団陣地を攻略に乗り出す。[Nath, (2011), p.6]
 9月8日14:00、パキスタン第24騎兵と第6ランサーがインド第4歩兵師団のアサル・ウッター陣地の東西両側面へ展開。更に戦車が北東へ疾走し後方の開けたエリアへ出ようと試みている。その反対側ではインド第3騎兵の先頭B中隊が南西へフルスピードで街道を駆け、東のパティからはA中隊が同じく全力でアサル・ウッターへ向かっている。C中隊と連隊本部もB中隊の後ろを追いかける。[Hai, (2015), p.35]
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 その間にもインド第4歩兵師団の戦闘はエスカレートを続けていた。第4擲弾兵は106㎜対戦車無反動砲を駆使していたがパキスタン戦車はいくつかの地点で乗り越えようとして激闘となった。第18ラージプータナも同じく無反動砲を使いパキスタン戦車を2,3輌破壊した。 [Nath, (2011), p.6]
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 14:30、ビィキウィンド町から20㎞以上の距離を、午前中に決断を下してから2時間も立たぬうちに第3騎兵B中隊は走り抜け敵と接触した。同時にC中隊も東よりヴァルトハ町を越えその先で敵を発見する。両中隊は即座に行軍から攻撃用フォーメーションに転換した。サリム連隊長から全戦車車長は敵を厳重に警戒しそして我々の戦車の状況にも気を配ること、と無線が入った。友軍のシャーマン戦車がアサル・ウッター陣地で踏みとどまっていたからだ。サリム連隊長の言葉は適格なものだった、というのもチマ村の北でB中隊が最初に見た戦車はデカン騎馬のシャーマン戦車であったからだ。B中隊指揮官ベルヴァルカル少佐(Belvalkar)はすぐさまデカン騎馬の指揮官から戦術的状況を聞いた。ここでようやく敵第1機甲師団のパットン戦車とチャーフィー軽戦車がアサル・ウッター周辺の防御陣地を破壊しようとしていること、よって第4歩兵師団へのあらゆる支援が必要とされることを第3騎兵は把握したのだ。(旅団司令部との連絡なしで駆け付けたため)
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 14:37、B中隊のワサン戦車長(Wasan)が先頭でチマ村から800ヤードの距離のカーブを通っている所だった。彼のセンチュリオン戦車が衝撃を受け音が響く。ワサン戦車長はすぐさま右後方を確認すると煙をだしている戦車が見えた。即座に敵戦車だと判断し攻撃を砲手に命じる。敵パットン戦車の中央部分に狙いを定め砲撃、命中するとパキスタンの戦車は炎上した。これが第3騎兵のアサル・ウッターの戦いでの最初の戦車同士の戦闘であった。2分後には別戦車が戦闘に入り状況は激化を始めたのだった。
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 その後の30分で更なる戦闘がアサル・ウッター北西で起き第24騎兵はひとまず後方への突進を停止した。既にセンチュリオン戦車は数発被弾していたが死者はまだ出ていなかった。[Hai, (2015), p.36]
battle of Asal Uttar_9月8日_午後2-min

 B中隊はアサル・ウッター北東にも小隊を送り第6ランサーの戦車を数輌撃破する。進撃方向が破壊された車両で塞がれ、道路の両側には友軍の歩兵がいることを確認したサリム連隊長は東にいるA中隊に側面攻撃を命じた。
 A中隊は迅速に側面攻撃を実行しようとしたのだが、この際にアサル・ウッター町の東域は地盤がぬかるんでおり車両が通行するのが困難だということに気づいた。先頭車両が泥にキャタピラが沈んでしまいこの戦いで使えなくなるほどだ。パキスタンにとっても同じで町の東は細い場所しか通れないため大部隊を一挙に展開するのは苦しく戦闘は更に困難だとわかった。

 15:00、サリム連隊長はこの泥濘地帯を把握し敵の攻撃が拡大しないと判断するとA中隊に中央へ戻ってくるように指令を出した。東部は泥を自然の防御として利用し戦力は西部に集中させるのだ。敵が強引に東部の細道を進もうとするなら歩兵と共にB中隊所属の小隊で対処する。[Hai, (2015), pp.38~39]
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 C中隊も戦場へ到着する。(この時点では所属の2個小隊が軍団司令部によって北の橋を守りに行かされてしまっており少ない状態である。後に敵位置の誤情報だったと判明し復帰する。)
 サリム連隊長は西側でも包囲攻撃を考え、B中隊がパキスタン第24騎兵の正面を抑えているのを利用し敵の西側面をC中隊に突くことを命じる。具体的にはC中隊はチッティー・クイン(Chitti Kuin)→ラクナ(Lakhna)→ドーラン(Dholan)→サンカトラ(Sankhatra)→ブラ・カリンプラ(Bhura Karimpur)という道順で回り込むよう指令が出された。[Hai, (2015), p.39]

 C中隊指揮官ナリンダー少佐(Narinder)は即座に必要な指示を部下に飛ばした。だが北西のマーマッドプラ(Mahmudpura)からラクナまでは多数の灌漑用水路が張り巡らされ、その年は8月まで雨季が続き激しい雨が降っていたため土壌が柔らかであった。先頭の(中隊指揮車両含む)何輌かが泥に足を取られてしまう。そのためC中隊は僅か7輌で側面攻撃を遂行することになるのだった。唯一残った将校であるジョシ少尉(Joshi)はケム・カラン川分流に到達した際に川を見て、すぐに脆い岸で戦車は最初は通れるが数度通過すると崩れ川は溢れ出すと察知したという。
 その時15:30、ジョシ少尉は『super quick』な決断をしなければならなかった。なぜなら18:00の日没までに側面攻撃を実施しなければ効果を発揮できないからだ。彼はケムカラン分流が伸びる南西方向を見て小迂回の最終目的地であるブラ・カリンプラに続いていることに気づいた。アサル・ウッター西部にいる敵のかなり近くを通るという危険はあったが、リスクを取るべき時だ。ジョシ少尉は受領していた指示ルートを取らず代わりに最短ルートで小川に沿って行くことを決心した。
 少尉たち残るC中隊の戦車はブラ・カリンプラへ直行し日没前に到着、それから敵の側面に向けて攻撃態勢で展開した。すぐに日没が訪れたため脅威を示しただけで敵とは交戦しなかった。これもまた柔軟性と若い士官だろうと決断力を有するという実例とされている。[Hai, (2015), p.40]
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 夜闇が訪れ9月8日の第3騎兵の戦闘は収束したが第4歩兵師団はまだ戦い続けていた。
 インド軍の歩兵は敵襲撃パターンに慣れ巧く対応できるようになってきていた。第62歩兵旅団長ガラウト准将(Gahlaut)は各部隊にいくつかの陣地が制圧されても各人は位置を保つよう命じて敵攻撃の波を食い止めたという。第4歩兵師団陣地にパキスタン軍は夜間にも5度攻め寄せたにも関わらず歩兵部隊は耐え抜いた。[Nath, (2011), p.7]
 パキスタン側がこの日のアサル・ウッター奪取に失敗した原因として戦車部隊の進撃に対して歩兵の支援が不足したためというのが、第3騎兵のタイムリーな到着に加えて挙げられている。[参照14]

 夜の内に第3騎兵のA、B中隊は少し下がり燃料と弾薬の補給を受けた。この際にナギンダー大尉(Nagindar)は戦車についた被弾痕跡を兵士たちに見せ、敵の砲弾に対しセンチュリオンの装甲は有効であることを誇示した。これは大いに士気を向上させたという。

 この期間においてパキスタン空軍は活発であり地上部隊の攻撃を支援しに第3騎兵の上空に現れていた。1機のF-86戦闘機を地上からの攻撃で撃墜したとインド軍は述べている。[Hai, (2015), p.41]

9月9日_戦場形成

 9月9日朝、第3騎兵の各戦車は補給と修理を受け次の戦闘への備えを整えた。それと並行してディビプラ(Dibbipura)町に置かれていた指揮所でサリム連隊長は3人の中隊長たちと戦闘計画を詳細に議論した。
 サリム連隊長は敵の動きを何としても知りたかった。哨戒部隊が各地を回っていたが得られる敵情報は限られていたので、無線通信を傍受するため徹底的な努力がなされた。また避難などによる民間人の移動の流れからも情報を吸い上げたが、それでも敵情ははっきりしなかった。
 予想ではパキスタン軍は再度アサル・ウッターを奪いに東西両翼で同時に包囲を狙ってくるだろうとされ、翼の防御をするために各機甲中隊はあたり、出鼻で立ち塞がり敵を広い領域へ進出させないこととされた。
battle of Asal Uttar_9月9日-min

 この頃、独立第2機甲旅団有するもう1つの機甲連隊である第8軽騎兵が北と東から向かって来てくれている。そして第4歩兵師団は肩口たるアサル・ウッターを固守し続けてくれている。その東は大きな川が流れ隙間はB中隊が埋める、であればパキスタン機甲部隊の大軍が進んでくるルートは西に限定される。

 C中隊(2個小隊を欠く)はにあるラクナ及びドーラン町を守りに移動し、前日15:00から移動を始めていたA中隊は中央後ろのディビブラ町に連隊本部と共に配置され、B中隊アサル・ウッターの背後でインド第4歩兵師団の東西両翼後背をカバーするために備えた。C中隊から離れていた1個小隊が戻ってきたのはおそらくこのタイミングであり、中央へ配置された。
 この時サリムは敵機甲をはめる罠を敷いていた。[Hai, (2015), pp.42~43]

【インド第4歩兵師団の防御とパキスタン第4機甲旅団の突進準備】

 対するパキスタン軍は続々と機甲部隊が川を渡り展開してきていた。
 パキスタン砲兵隊と空軍は敵歩兵陣地に強力な爆撃を午前午後両方で実施した。[Nath, (2011), p.9]
 前日まで先頭で闘っていたのは第5機甲旅団であり彼らはそのままアサル・ウッター攻撃を続ける。2個戦車大隊を両翼に回し中央を機械化歩兵大隊が同時に攻撃、これによりインド第4歩兵師団の残存をじりじりと追い詰めていく。それでもインド軍の対戦車砲やシャーマン戦車がパットン戦車を迎え撃ち突破を許さず、側面攻撃にでようとすれば翼後方を守るB中隊のセンチュリオン戦車が砲撃した。[Hai, (2015), p.44]
 インド軍の歩兵部隊は士気を保ち踏みとどまると同時に戦車と砲兵隊が攻撃を行い敵突撃を跳ね返し続ける。パキスタン軍も粘り強く第18ラージプータナ陣地を攻撃夜22:00まで挑戦したがついにその日は諦めて退いたのだった。[Nath, (2011), p.9]

 だが第1機甲師団の大軍は別箇所への進軍をできる態勢になっていた。第5機甲旅団の西に新たに第4機甲旅団が展開していたのである。最前線は第4騎兵と第5騎馬の2個機甲大隊が担った。この日は比較的戦闘は激化せず終わるが、それは翌日の大規模攻撃の準備のためだった。[Hai, (2015), p.44]

9月10日_機甲の包囲伏撃

 9月10日、この日が特別になることをサリム第3騎兵連隊長も第4歩兵師団の指揮官たちも解っていた。今やパキスタン第1機甲師団が持つ3つの機甲旅団は橋を渡りインド領で展開しているのだ。戦車だけで300輌を越すだろう。今日攻撃があればこれまでにない規模となるのは確実だった。[Nath, (2011), p.8] [Hai, (2015), p.46]

【2つの弧月陣形】

 北から到着したインド第8軽騎兵C中隊はそのまま第3騎兵の西側面をカバーし、東よりヴァルトハ町に着いた第8軽騎兵の残りはアサル・ウッターの東側面の防御を担ってくれた。[Nath, (2011), p.2] [Hai, (2015), p.46]
 AMX-13軽戦車を持つ彼らは貴重な支援をもたらし、おかげで第3騎兵B中隊が分散から解放され西へ戦力が集中できたし、C中隊とA中隊も敵第52歩兵旅団の方向を気にせず全力を突撃してくる機甲旅団へ向けられた。
 第4歩兵師団長グルバクシュ少将は敵機甲が陣地を小迂回して側背を包囲攻撃しにくると予測し、第2機甲旅団にそれを防ぐ役割を頼んでいた。[Nath, (2011), p.8]

 もちろんサリム連隊長も敵が背後に進出しようとするだろうと読んでいた。
 9月10日早朝、サリム連隊長は西側に集中した各戦車を望むような陣形に配置できた。第3騎兵はその全戦力をもって敵が来る南西方向に口を開けて2つの馬蹄形(弧月)陣形を展開した。一つ目の弧形はぬかるんだ中央の一部がわざとあけられ、その奥に閉じる形で2つ目の弧形が待ち構える。[Nath, (2011), p.8] [Hai, (2015), p.46]
 詳細はC中隊(1個戦車小隊を欠く)が北西のラクナとドーランにつき、B中隊が南東のチマからディビプラの軸を担い、C中隊所属の1個戦車小隊が東の街道交差地点付近について1つ目の弧を作る。A中隊は北西からマダール村(Madar)、北のアルグン村(Algun)、東のディビプラ町に各戦車小隊を置いて2つ目の弧を形成した。

 サリム連隊長はその個性たる『Cool, Calm and Calculating』を示しながら佳境である戦術指揮を成し遂げた。[Hai, (2015), p.46]
battle of Asal Uttar_9月10日_-min

 第3騎兵は予備も残さず文字通り総力を戦闘の第1線へ投入していた。[参照6]
 連隊本部の要員は負傷した戦車兵の交代になるなど、全員が何らかの役割を担いそれは配達人だろうと含まれていた。連隊付き偵察部隊も投入されラクナの側面をカバーした。連隊本部は少し後ろのロヒナラ橋に置かれ連隊副指揮官が任された。[Hai, (2015), p.46]

 サリム連隊長自身は最前線の状況を確認できる連隊の戦術指揮本部の置かれたディビプラ町に居た。さらに第2機甲旅団長Theograj准将が旅団の戦術指揮本部も同じ場所に置いて自身もそこに参加した。無線が一時期通じなかったので最前線まで直接顔を突き合わせに来てくれたのだ。同じくデカン騎馬や第8軽騎兵の指揮官もディビプラに移動し、今や3人の機甲連隊長と旅団長1人が前線の一か所に集結したのだ。たった一発の砲弾で指揮中枢が完全消滅するリスクを冒していたが、引き換えに応答時間は最短化され各部隊の移動および配置の調整が極めてスムーズに行え、通信障害が起きても問題なくさらに敵に無線傍受される量を減らし情報秘匿ができた。特に砲兵の攻撃地点の指示がタイムリーにできたのは効果を発揮することになる。[Hai, (2015), p.46]

 9月10日朝、再び第4歩兵師団陣地へパキスタン軍の機甲と歩兵の攻撃が始まった。[Nath, (2011), p.9]
 それはインド第3騎兵連隊栄光の日の始まりでもあった。

【中央を守り切るB中隊と第4歩兵師団】

 第3騎兵南翼ではB中隊が見事な活躍を見せた。激突したのはパキスタン第5騎馬連隊である。
 彼らは北東へ進撃し後方のケムカラン‐ビィキウィンド街道へ出てインド第4歩兵師団の後方遮断および第3騎馬の南翼を突破しようと狙っていた。師団隷下の第4擲弾兵陣地が北からの攻撃を受けながらも激しく抵抗し行い食い止めていたのを、パキスタン機甲部隊は更に北背面から包囲攻撃をしようと動いた。だがここに第3騎兵の1個中隊が隠れて待ち構えており、移動中の彼らを攻撃した。隠掩蔽された戦車からの砲撃は完璧な奇襲になったという。1個大隊規模の機甲を1個中隊で食い止めるのは苦しいものだったはずだが地形を巧く利用し友軍と協調することでB中隊は決して突破を許さなかった[Nath, (2011), pp.9~10] [Hai, (2015), p.52]
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切手_Abdul_Hamid_2000 第4歩兵師団陣地も連日激しい戦闘を続けていたが、抵抗意欲衰えることなく陣地を固守していた。第4擲弾兵大隊チマ村付近でも敵機甲部隊を食い止める。
 中でも1962年中印紛争従軍歴があるアブドゥル軍曹(Abdul Hamid)は無反動砲を取り付けたジープで名高い奮戦をした。迫りくる敵戦車隊を確認すると彼はジープで駆け敵側面を取った。先頭車両へ砲弾を直撃させるとすぐに移動し次の戦車に狙いを定めまた砲撃して炎上させる。そこで後列の戦車に彼は見つかってしまい、主砲や機銃の集中砲火が放たれた。それでもアブドゥル軍曹は次の戦車に狙いを定め撃ち当てたという。敵の砲弾が炸裂し身を引き裂き、彼は戦死した。戦後アブドゥル軍曹にはパラムバー(究極の勇気)チャクラ勲章が贈られた。[Cardozo, (2003), p.97][Gokhale, (2016), 第7章]
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 パキスタン軍の激しい陣地攻撃は何度も繰り返された。
 パキスタン師団司令部はこの試みを続けながら、より広大な翼包囲と後方進出を狙い西で進撃を狙っていた。第4騎兵を前進させ更にその後ろに第10機械化歩兵大隊を続かせる。[Nath, (2011), p.10] 
 偵察部隊がパキスタンの戦車隊がブラ・カリンプラ町の北を戦車が進んできているとサリム連隊長の指揮所に報告した。その進む先は第3騎兵の弧月の中心である。[Hai, (2015), p.46]

【機甲による伏撃】

 08:30、敵戦車が迫ってきていると北西のドーラン町にいる第3騎兵C中隊から連隊長へ連絡が入る。パキスタン第4騎兵が進撃してきたのだ。C中隊は敵パットン戦車を1200ヤード(約1.1km)まで引き付けてから砲弾を放ち、命中したパットン戦車は閃きと共に破壊された。これが9月10日最初の戦車戦であった。C中隊指揮官ナリンダー少佐はラクナ町にある家の屋根に昇り戦車の動きを観測し続けていた。彼の情報は連隊の指揮にとって大いに役立つことになる。この時点でC中隊のセンチュリオン戦車は2輌が損傷している。

 幾輌もの戦車がドーラン町とラクナ町の前面で攻撃を受けていたため、パキスタン軍は別機甲部隊を小迂回させ北進しラクナのC中隊を包囲あるいは後方進出しようとした。だがその先にはA中隊が待ち構えていた。マダール村のセンチュリオン戦車小隊が近づいてくるパキスタン機甲部隊を砲撃、戦車や装甲兵員輸送車を撃破した。[Hai, (2015), p.47]
battle of Asal Uttar_9月10日_午後戦闘ピーク-min

 パキスタン第4機甲旅団指揮官に指示され既に第4騎兵は別中隊を東よりに送り出していた。けれど第3騎兵C中隊はケムカラン分流の東側にも1個戦車小隊を展開していた。ジョシ少尉はそこにおり十数輌の敵戦車が2000ヤードほどの距離を北東へ進んでいるのを目視し、自分たちがパキスタン軍に発見されていないのを確信した。
 「確実な殺傷距離に敵が踏み込むまで攻撃は待て。」サリム連隊長の落ち着いた声が無線機から聞こえる。この助言に従いジョシ少尉は小隊の全戦車に自身が撃つまで絶対に砲撃するなと伝えた。彼は見える全車両に1つずつ攻撃担当戦車を割り当て、全てを撃破できる位置まで引き付ける。敵車列が1200ヤードの距離に来た瞬間、少尉は砲撃を命じた。「Sabot 800, on tank, fire.」
 発射の衝撃の数瞬後、砲弾が直撃した閃光があがる。そして一斉に小隊の各戦車が攻撃を開始した。また、第1野戦連隊砲兵隊はこの戦闘中常に砲撃を行い大きな助けになったとジョシ少尉は言及している。約20分後、眼前には9輌のパットン戦車と2門の無反動砲が破壊されていた。全く気付かれず車列側面を伏撃したこの攻撃はほとんど完璧に近く、ジョシ少尉の小隊の損害は0であった。[Hai, (2015), p.48] 
 また、第9デカン騎馬のシャーマン戦車も陣地北端からこれを支援するなど多くの火力が集中されていた。[Nath, (2011), p.10]

【正面を塞ぐA中隊】

 それでもパキスタン第4騎兵の部隊がC中隊を躱し後方へ進撃していった。これもナリンダー少佐は見逃さず即座に伝達する。この時既に後方アルグンに居たA中隊の戦車小隊は位置を前進させるよう指令が下っており、マーマッドプラにいるA中隊の別部隊と合流していた。パキスタン第4騎兵が迫ってきていると情報が伝わりA中隊は待ち構える。狭窄したこの地点での激突では敵味方の戦車判別が困難であった。サリム連隊長はより長くより冷静である方が勝利するとヴァデラ中隊長に告げる。[Hai, (2015), p.50]
 中隊長は慎重に待ち続け、現れた敵戦車に対し部下達と共に冷静に隠掩蔽位置から攻撃、前進してくるパットン戦車を次々破壊した。[Hai, (2015), p.50] [Nath, (2011), p.10]

 もはやパキスタン第4騎兵の大半は進むことも退くこともできず動けなくなっていたのである。[参照14]
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 それは理想的なまでのトラップであった。パキスタン機甲部隊は弧月の開けた口へ向かって突入してしまい、インド軍戦車による3方向砲火および砲兵隊の最大火力集中をもろに受けたのだ。[Nath, (2011), p.10]
 夜の闇が訪れるまで第3騎兵は目に映る敵戦車を片っ端から撃破し続けた。露出し時に側面を晒した敵に対し隠掩蔽されたセンチュリオン戦車による砲撃は猛威を奮い、パキスタン機甲部隊はもはやそれ以上前進することができなかった。[Hai, (2015), p.50]
 パキスタン軍は諦めず16:00と17:30の夕刻にも突破を再度挑戦したが第3騎兵はこれを打ち砕いた。[Gokhale, (2016), 第7章]
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【パキスタン第1機甲師団長の負傷】

 戦況をパキスタン第1機甲師団指揮官ナシール少将(Nasir)はヘリコプターで飛びながら見ていた。彼は部下たちが絶望的な試みに突入し撃破されていくのを目撃すると地上へ降り、偵察部隊と共にどうすればこの事態を打開できるのか議論していた。ナシル少将はまだ諦めておらず前進はできないと言う機甲旅団指揮官に対し強引に前進するよう命令を下している。彼の無線通信をインド軍は傍受しており、重要ターゲットが集まっているのを察知したインド軍砲兵隊が18:00にそこを攻撃した。これによりナシール少将は重傷を負い一緒にいた砲兵旅団指揮官シャンミー准将(A.R.Shammi)は死亡した。翌日インド軍に准将の遺体は回収され軍葬の礼をもって見送られた。[Nath, (2011), p.10] [Hai, (2015), p.52]

 9月10日の戦闘でインド第3騎兵はパキスタン第1機甲師団の前衛を物理的にも精神的にも粉砕したのだ。[Hai, (2015), p.52]

戦闘の終結_Battle of Asal Uttar

 9月10日夜暗闇の中にパキスタン車両が燃え照らされている。その時サリム連隊長は全戦車に主砲および機関銃を放つよう命令を下した。砲兵隊指揮官も全使用可能砲門を開き包囲の中心域に攻撃を降り注がせた。これは敵残存部隊を撃破するというだけでなく他部隊にも精神的な「衝撃と畏れ」を与えることが目的でもあった。実際の所まだ第3騎兵は数的不利であり、敵突撃部隊に再編・再攻撃させないことが必要だったのである。猛砲撃を受けてパキスタン歩兵は修理が可能であろう車両を置いて退がっていった。

 第3騎兵は残弾数が少なくなってきていたがサリム連隊長は今日の位置を保持し後退するなと厳命した。連隊付きになっていた第1ドーグラー所属の1個歩兵中隊が各戦車中隊の護衛に送り込まれ、ジープやトラックが状況に応じて弾薬補給を担ったという。[Hai, (2015), p.52]
battle of Asal Uttar_9月11日-min

【指令文鹵獲と連隊指揮官を捕虜に】

 9月11日、A中隊はほとんど眠っていなかったが敵にとどめを刺しに前進していった。前日夜に各部隊はサリム連隊長の指示に従い後退しなかったので日の出と共にすぐ敵のもとに到達できた。ヴァデラ中隊長は幾輌もの破壊された敵機甲車両を見ながら進み、途中で敵兵を発見し幾名か射殺したが他は逃走された。そこで9輌の完全なコンディションのパットン戦車が鹵獲された。[Hai, (2015), p.59 ]

 また、インド軍は発見した放棄車両を全て持って帰ることができなかったのでケムカラン分流の一部から水を溢れさせ泥濘化することで夜の内にパキスタン兵が戻って来て戦車を回収するのを防止する。[Hai, (2015), p.63 ]
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 更に別のM113装甲兵員輸送車が鹵獲され、そこからパキスタン第4機甲旅団の作戦指令文章が発見された。(上述の第1機甲師団のアムリトサル攻勢計画大綱はこの鹵獲資料に記されていたものである。)[Hai, (2015), p.59 ]

 数時間後、Mehta少尉(通称PJ)がパットン戦車が動いているのを発見したとの連絡が連隊本部に入った。サリム連隊長は歩兵中隊の18人をPJ少尉に与え調査に行かせる。PJ少尉と歩兵隊は注意深く進み戦車を囲むように展開すると逃走ルートをカバーするようにライフルと軽機関銃を向ける。それから彼は大声で降伏を呼び掛けた。数名のパキスタン兵が降りてきて捕虜となったのが、そこで少尉はなんと敵第4騎兵の指揮官がそこにいるのに気づいた。しかも中隊指揮官2名、大尉1名、その他階級の16名も一緒だったのである。[Hai, (2015), p.63 ] [Gokhale, (2016), 第7章]

【パキスタン第1機甲師団の撤退】

  パキスタン第4機甲旅団の第4騎兵は壊滅的損失を出した。また最初に闘い始めた第5機甲旅団も損害は大きく特に第24騎兵と第6ランサーは重い損害に苦しんでいた。まだ第3機甲旅団は無傷だったが、先頭の2つの旅団が行き詰り狭いスペースでは戦力を活かすことは難しく、既にだしていた第1機甲師団の損失量を考えるとアムリトサル後方へ突進して任務を達成するのは絶望的であった。
 加えてインド第1軍団がシアルコート地区で新たな攻勢を進めていたこともあり、9月11日の夜パキスタン司令部は撤退命令を出しここにアサル・ウッターの戦いは終わった[Hai, (2015), p.64 ]

【ケムカラン町奪還と停止】

 9月12日、インド軍は奪われていた領土を取り戻すため反撃を開始した。特にケムカラン町の奪取を担ったのは第4山岳歩兵師団麾下の第7山岳旅団である。9月6日の攻勢で損害を出して後退、それから踏みとどまっていた彼らは気力を振り絞りこの日再襲撃を行った。第9デカン騎馬連隊の1個戦車中隊も参加しシャーマン戦車が進撃した。11日の夜遅くに第3騎兵のセンチュリオン戦車2個小隊もこれを支援するよう指令が下り駆け付け、12日早朝の極めて短いブリーフィングの後に攻撃を実施した。ゆっくりと進みパキスタン軍と遭遇したのはケムカランの町についてからだった。彼らはいくつかの戦闘の後敵を追い出し、橋を渡ってパキスタン領内に戻っていくのを確認した。
 そのままインド軍は進み戦闘を行っていた。パキスタン軍も迎撃してくる。11:10、シャーマン戦車は砲撃を続け厄介な敵中機関銃を黙らせた。11:15からインド空軍と砲兵による支援も受けてイチョギル水路の橋を攻撃する手筈になっていたのだがパキスタン空軍も現れ爆撃を行う。激しい砲撃がインド軍先頭を襲い押し止めた。このインド軍の攻撃は急ぎ過ぎるあまり師団内で調整が良く取られていなかった[Hai, (2015), pp.68~71 ]
 11~12日に行われたパキスタン第11歩兵師団守備陣地へのインド軍の正面攻撃は奇襲性が皆無であり全て撃退された。複数の死傷者を出しインド軍の反撃も収束していった。[参照14 ]

停戦と戦果

 以降の13日~23日はアサル・ウッター方面は静かなものとなる。機甲部隊に自信を深めた第3騎兵は各所の救援に駆け回ることになる。ブラ・カリンプラ付近に敵パットン戦車が現れ友軍の中隊が囲まれたという知らせがあった際は2個戦車小隊が向かうなどしている。[Hai, (2015), p.73 ] 

 アサル・ウッターの戦いと同時期に北のシアルコートではもう1つの大規模戦車戦が行われていた。こちらではインド軍機甲部隊の攻勢に対してパキスタン軍が押し込まれながらも迎撃に出て激しい衝突となった。アサル・ウッター方面からパキスタンは増援を北に回すなどし影響があった。しかし結局両軍とも戦力が足りず行き詰ることになる。
 こうして日が経つにつれ大きな衝突は起きなくなっていき9月23日15:30に彼らは停戦を迎えた。
Graveyard of Tanks in battle of asal uttar
< アサル・ウッター後に撃破・鹵獲された戦車 Jejaktapakより  >

【戦闘結果】

 パキスタン軍第1機甲師団は97輌の戦車を失った。うち72輌は主力戦闘戦車だったパットンである。退却した車両を考えればさらに数多の損傷車両があったであろう。 [Nath, (2011), p.10] [Gokhale, (2016), 第7章]
 インド軍側の戦車喪失数はパキスタンより遥かに少なかった。Hai准将はセンチュリオンだけで12輌失われたと述べているが、Nath少将はデカン騎馬が戦車10輌+第3騎兵が2輌=計12輌と書いた。Gokhaleは計5輌損失と記しておりインド側でも全く一致していない。)

 苦しみながらも決して突破を許さなかった第4山岳歩兵師団は1962年の戦争で失った名誉と自信を取り戻した。[参照12]
 戦後サリム連隊長を筆頭に多くの将兵が勲章を授与された。半世紀が経過した今でも第3騎兵連隊はアサル・ウッターの戦いを誇りとしているという。
 
 一方でパキスタン側も逆侵攻は失敗したもののインドのラホール域攻勢を防ぐことには成功した。国境沿いで跳ね返した9月6日は『Defense Day』記念日とされている。

 両軍共に多くの死傷者を出したこれらの攻勢はどちらも防御側の成功で終わった。双方が多くの失敗をしたかもしれないが、力を尽くした将兵たちの記録は失われることなく受け継がれている。










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戦闘推移概要は以上になります。
ここまで読んで頂きありがとうございました。
何かこの戦いに思うところあればぜひ教えてください。
戦況図は自分で作成したので部隊配置等で修正点あればデータ編集可能です。

詳細事項

 上述の戦闘推移概要では細かく長くなりすぎるため、別途とした詳細部を以下に記す。

【インド戦車兵の戦闘技法『Three-round Technique』】

 多くのパットン戦車はインドのセンチュリオン戦車によって垂直に2~3発の20ポンド砲の直撃を受けていた。砲撃距離は1200ヤード~600ヤードである。この間合いなら高速徹甲弾は距離を測定して修正する必要なくただ照準の中央に合わせて砲撃すればよく、3ラウンドテクニックを実施した場合攻撃が1発でも当たる確率は90%に達するとインド軍は試算している。この敵捕捉・照準・射撃の1セット3回を第3騎兵の精鋭達は12~15秒で実施できた。この反応速度がセンチュリオン戦車によるパットン戦車との戦闘で鍵となった。パキスタン戦車兵は不慣れなcoincidence type stereoscopic range finderを照準に使用しておりセンチュリオンより遥かに時間がかかるとインド軍は捕獲した戦車の調査で結論付けた。[戦闘に参加したDileep Gole少尉(≠連隊副官ディリープ Kundu)の回想][Hai, (2015), p.54]
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【各国の観戦武官の反応】

 各先進国の観戦武官たちは戦場を訪れ分析していた。特にアメリカ合衆国の武官はこの結果に深いショックを受けていたと言われる。[Hai, (2015), p.95]
 約100輌のパキスタン戦車がビィキウィンド近辺に集められこの場所は『パットンの墓場』と呼ばれるようになる。ドイツの観戦武官はパキスタンの計画を大胆なものだと評し、だがあるいは唯一ドイツ陸軍のみがそれを実行できるかもな、と言ったのであった!(!マークが書かれているあたり恐らくジョーク)[Nath, (2011), p.12]
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【センチュリオン戦車の快適性と戦闘性】

 Dileep Gole少尉の回想で次のように述べられている。
「戦闘中の敵砲弾からの生存性とは別の話ですが、センチュリオン戦車は射撃プラットフォームとして実に安定しており、内部空間は乗員が快適にすごせる機能が備わっていました。発砲後に排出された砲弾薬莢をトラップするように設計された『バスケット・トレイ』は、エンジンデッキと同様に短い仮眠に理想的なベッドとなるんです。
 それと不幸なる他戦車の乗員たちから嫉妬されたのは、操縦席の後ろに付いている沸騰容器でしたよ。長い夜行マニューバの際、戦車の活動中に乗員が湯気たつお茶のマグカップで一服するのは普通でした。後に私が戦闘車両技術学科を修了した際には、センチュリオンで感じた親和性、自信、快適さを表す名前が与えられました。それは『Fightability』と呼ばれるものでした。」[Hai, (2015), p.58]
 ややジョーク交じりだが重要なことが書かれている。快適性や睡眠は戦闘パフォーマンスに極めて大きな影響を及ぼし、特に連続的な作戦行動の場合それは加速度的に増大する。米軍でも大きな問題として兵士の能力低下は取り上げられており、例えば72時間以上の無睡眠勤務は原則回避とされているし短い睡眠をとったとしても著しいパフォーマンス低下は避けられないと調査結果が出ている。アサル・ウッターの戦いでは警戒・移動などで長時間睡眠は難しく、かつ9月8日早朝~9月11日までの4日間連続で活動を行っている。特に9月8日と9月10日はほとんど休む間もなかった。野外でティーブレイクしていては即応性に問題が出るため、この時にセンチュリオン車内の快適性は無視できない貢献をし、故にお茶や睡眠の回想が書籍内で何度も登場するのだろう。
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【戦車による陣地攻撃戦法_パキスタン軍の運用】

 第4歩兵師団防御陣地に対する攻撃においてパキスタンの機甲運用手法は大胆で、インド軍にとって戦前の訓練で決してしたことがなく驚かされたという。典型タイプが2つ記録されている。
タイプ1
 まず軽戦車がパットンまたはシャーマン戦車の後援を受けながら接近して攻撃してくる。彼らはインド軍守備陣地のギャップを探り、側面を調査して陣地の範囲を特定する。この間パキ砲兵隊は敵守備陣地と予想される場所を攻撃し続けることで、インド側の対戦車砲は(偵察の軽戦車集団に対して)大きな効果をあげられなかった。この偵察の後、パキ戦車の何輌かが1つの側面へ移動するがこれはインド戦車を部分的に誘導するためであり、またインド砲兵隊の攻撃を逸らすためでもある。それからパキ機甲部隊はインド軍陣地に攻撃し、装甲兵員輸送車に乗る歩兵が続く。戦車たちは6~8並んで主砲および副武装で発砲し、続いて装甲兵員輸送車から降車した歩兵がインド防御陣地に攻撃をかける。この間常にパキ砲兵隊はインド軍陣地を無力化させる攻撃を続ける。

タイプ2
 戦車は基本的に6~8並んでよく広がり、発砲しながらインド陣地へ突撃をしかける。だが陣地につく前にインド軍の対戦車砲の僅かに射程外の位置で距離をおいてその突撃は停止する。その間に他の後続の戦車がやってきて防御陣地を包囲、左右両側面から制圧するのだ。彼らの狙いは基本的にインド軍歩兵に恐怖を与えてその陣地を蹂躙することだ。
 上記2タイプのコンビネーションでパキスタン軍は攻め立てた。例えば9月6日に第4歩兵師団が攻勢に出た初期にパキスタン前進陣地を奪ったのだが、その地点への(インド軍が塹壕を掘る前を狙った)逆襲として上記2つの戦法が使われた。ただしインド軍歩兵がしっかり陣地に踏みとどまり対戦車砲を使い砲兵隊が支援をしてくれればパキ機甲の襲撃は弱まり頓挫した。[Nath, (2011), pp.6~7]

【砲兵の活躍】

 パキスタン第1機甲師団長に砲撃を当てただけでなく、インド第1野戦連隊の砲兵隊は継続的に各戦闘地点に砲撃支援をもたらしてくれた。多くのチャーフィーやパットン戦車が砲兵の攻撃を受けていた。ディビプラに指揮官が集まり砲撃指示を最速でだしていただけでなく、最前線の砲撃観測も活躍している。
 例えばDharamvir砲兵中尉はジープに乗ってA戦車中隊に随伴していたら無線が通じなくなったので、センチュリオン戦車の上によじ登り、とてつもなく危険であったが高所から的確に砲撃箇所を指定していった。(彼はその後一度戻って歩兵のトラックと共に再度最前線へ向かうが攻撃を受け負傷した。)[Hai, (2015), p.76]

【位置が露見しやすかった無反動砲】

 インド軍が使っていた対戦車用無反動砲は効果があったのだが、一方で「黒い爆風」が上がるため陣地が露見しやすくもあった。背の高い作物などの中にこれらを非常にうまくかくすことでやり繰りしていた。[Gokhale, (2016), 第7章]

【合言葉での失敗】

 インド軍内では合言葉の取り決めで少し混乱があったようだ。9月6日に第3騎兵司令部の連隊長サリムやパサニア少尉は各師団司令部を訪れて攻勢計画と状況を聞いて回っていたのだが、第4師団司令部を訪れた際には少尉たちの連隊が有する合言葉が師団のものと違って味方に撃たれかけてしまったと回想している。 [Hai, (2015), p.30]
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【第3騎兵の戦果詳細】

 第3騎兵のこの22日間の戦闘での最終結果は次のように抽出される。この結果を受けセンチュリオン戦車の「生存性」は高く評価された。[Hai, (2015), p.78 ]

【戦死】JCO1名、OR4名、非戦闘要員1名
【負傷】将校2名、JCO1名、その他階級17名
【行方不明】その他階級1名
【捕虜】その他階級1名(1966年復員)
【戦車損害】12輌。うち4輌はケムカラン町へ急かされて突入した際のもの。損傷の大半はAnti-tank gunfireによる。ただし泥濘で機能不全となった複数輌を除く。
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 挙げた戦果は次のようになる。[Hai, (2015), p.78 ]
【敵機甲の破壊または鹵獲】
・パットン戦車=58輌
・チャーフィー戦車=6輌
・シャーマン戦車=4輌
・M113装甲兵員輸送車=2輌
・無反動砲=8門
・F86航空機=1機

【捕獲】
・パキスタン第4機甲旅団指令文章No.G-3548
・第4騎兵指揮官Mohammed Nazir中佐
・Mohammed AyubKhan少佐
・Mohammed Anwar少佐
・Abdul Aziz大尉
・その他階級17名 
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【戦車の技術面】

 この戦いは戦車開発技術者たちに様々なデータをもたらした。例えば、この時のパットン戦車はガソリンエンジンであり非常に炎上しやすくそれが多くのパキスタン兵の死因となったため、後のアメリカのディーゼルエンジン戦車開発の背景の1つとなった、という話などがある。[参照12]
 1965年に実戦投入されたセンチュリオン戦車とパットン戦車の詳細性能検証はDavid Higgins, (2016), "M48 Patton vs Centurion: Indo-Pakistani War 1965"が重点的に書いてくれているため参照のほど。
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【空軍の存在感】

 アサル・ウッターの攻勢時にパキスタン陸軍は充分な航空支援を受けていなかった。もし近接航空支援の戦力をもっと保有していれば違った結果となり得たとNath少将は考えている。一方でインド空軍はというと、限定的な航空支援が第4歩兵師団に与えられただけであった。つまり印パ両空軍が適切な支援をもたらすことに失敗したのである。地上部隊に航空戦力が極めて大きな支援をもたらしたWW2から何も学んでいない、とまでNath少将は酷評し地上戦は陸軍と空軍の統合的な事象であり、インド空軍はそれを理解しなければならないとまとめている。[Nath, (2011), p.12]

 戦争全体で見た時IAFのパフォーマンスは様々だった。IAFの3巻の公式史の著者であるプシュピンダル・シン(Pushpindar Singh)は「亜大陸での最初の空戦はせいぜい引き分けだ。寡兵のパキスタン空軍は開幕戦で確かに良かったが、最終的にはインド空軍は徐々に活動を取り戻し停戦時にはより優勢になっていた。」と総括した。[参照1]
 空軍についてはおおよそどの書籍も似たような書き方をしている。

【パキスタン軍の大隊・旅団・師団レベルでの指揮イニシアチブの欠如】

 ラホールの戦いで第22機甲旅団指揮官のQayyum Sher准将は自ら先頭部隊を率いて渡河し、見事な活躍を見せた。彼のようなケースを除いてパキスタン軍は大隊・旅団・師団レベルで著しいイニシアチブの欠如が散見された。ケムカラン作戦に第15SPのCOとして参加したIhsan中佐(後に少将)が述べてくれる所によると、先任将校たちはひときわ最前線に居なかった。後方地帯にその指揮所のうちの1つが置かれているのも彼は目撃しており、そのバンカーは大変な仕事量で作り上げられたものだった。
 第1機甲師団司令部や第5機甲旅団指揮官は戦線から何マイルも後方に離れていた。戦死した砲兵指揮官シャンミー准将の場合は逆に戦いの混乱の中で自軍確保領域の想定に基づいて前に出すぎた位置についてしまった。決定的な分岐点の9月8日においては、Sahibzad Gulを除いて、大佐レベルの将官は戦線の1000ヤード以内に誰もいなかったのだ。当時の第5機甲旅団のGSO-3だったAsmat Beg Humayun大尉(後に准将)はBashir旅団長が実際に先頭が起きている所から何マイルも離れたレストハウスに彼の指揮所を置いたことを証言している。[参照14]

【パキスタン軍上層部の砲兵軽視】

 ラホールとカスールでの防衛時にパキスタン砲兵隊は決定的な役割を果たしてくれた。しかしパキスタン機甲部隊の攻勢時、9月8日の戦域ではあまりにも広がり過ぎて効果的な支援をもたらせなかった。第1機甲師団の事前行動は過度に秘匿され、友軍砲兵隊の役目を妨害してしまった。当時砲兵隊COだったEhsan述べる所によると「平時に我々はこの攻勢をすることになる場所の地図を見たこともなかった。誰もこのエリアに攻勢をかけるなど想像だにしなかった。」とされる。(砲兵部隊に事前攻勢計画を練らすことをさせておらず、情報秘匿のあまり必要な砲兵隊に伝えることをしていなかった。)
 Ehsanは彼の編制のある砲兵隊は鉄道で移動中に混乱があったことも記している。当然その部隊は時間通りに指定場所に着けなかった。戦後砲兵隊には何の武勇勲章も与えるられることがなくその貢献は軽視された。[参照14]


考察

【機動_9月8日】

 第3騎兵は機甲部隊としてその機動力と装甲そして火力を余すところなく発揮し戦況に絶大な影響を及ぼした。センチュリオンの装甲は将兵に自信をもたらし積極的な攻撃を可能としたし、敵突撃を粉砕するに充分な火力も示されたのだが、これらはサリム中佐達の戦術によって更に増大された。ただ翼包囲及び後方突進を狙う敵の突出部を逆包囲する戦術がその成果を見せた9月10日は既にほとんどの要素が固まっていた。その前段階の過程が重大であり、増援が間に合った9月8日そして逆包囲戦術を形成した9月9日の移動こそが最も決定的な瞬間であるとみなせる。

 より作戦的に重要だったのは恐らく9月8日の方だろう。9月8日はインド軍のHai准将が「The Momentous Decision」と呼ぶ、パキスタン軍のAmin少佐が「Critical time span was over」と書いた日である。[Hai, (2015), p.32, p.64 ]  [参照14]
 そもそも全体としてインド軍は予備が少な過ぎて防衛作戦が破綻しかけていた。実は第4歩兵師団は攻勢失敗後に別師団と交代して防衛を担ってもらうよう軍団司令部と西方司令部に全く妥当な要請をしている。けれども予備が第2機甲旅団しか存在しなかったため第4師団はそのまま耐えること(結果的に見事な奮戦)になってしまった。 [参照14]
 この時点でインド軍防衛作戦でとれる選択肢はごく少数しか存在しない。その中の最上の道をインド軍前線部隊は掴み取った。サリム連隊長が上からの指示なしでアサル・ウッターへ向かうという決断力を見せ、機甲車両はその内燃機関をフル稼働しあらゆる部隊より速く動き、考え得る最速で必要な場所へ駆けつけた。1日あるいはたった半日遅れていれば結果は違っていたことをインド軍Nath准将もAmin少佐も別々の観点から述べている。そして各指揮官たちは危険を冒して最前線に陣取り指揮を最速化した。逆襲の機会を失わなかったのは間違いなくこの決断力と機動力があったからである。
battle of Asal Uttar_9月8日_午後1-min

 逆にパキスタン側にとって9月8日は大きなミスがあり機会を掴み損ねた。これはAmin少佐が言及しているのでそれを参照すればよいだろう。1つは戦術的な観点であり、2つ目は計画策定段階での決断力と機動力の喪失である。機動力は機械装置だけでなく、地形と入念な計画そして決断力によって発生するものでありそれがパキスタン軍司令部には欠けていた。
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先鋒の戦術ミス
 Amin少佐は9月8日最初のアサル・ウッターへの第5機甲旅団の攻撃で戦術ミスがあったと考えている。第24騎兵と第6ランサーが中央と両翼の3方向に別れた点について、ここでは街道軸線箇所に1個中隊を進ませ、2個連隊の他戦力はどちらかに戦力を集中した突進するべきで、そうすれば9月8日中に第4歩兵師団を片翼包囲できただろうと考えている。こうすれば後続の第4機甲旅団が展開にまごつくことなく第5機甲旅団の戦果を拡張できるしBeas橋へは第3機甲旅団が突進できる。9月9日にはインド軍陣地は強化され各パキスタン部隊の翼包囲の試みを防ぎ、致命的なる時間が過ぎ去った。少佐は最後にシラーの言葉を引用している。「what is lost in a moment is lost for eternity.」[参照14]
(両翼包囲ではなく片翼包囲のほうが戦力が限られる先鋒には良いということだが、この場合は背景に地形がそちらの方が適していたというのもあるだろう。)
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計画策定段階での失敗

 最初に渡河が遅れ続けたことが攻撃初期段階へ甚大な影響をもたらした。
 国境沿いロヒナラ川を渡る先頭は第6ランサーであった。9月7日05:00に最初の部隊が渡河する予定だったが実際は渡河橋ができたのは11:30。しかも傾斜が急すぎて問題があり最初の戦車が渡ったのは13:00になってからだった。16:00にある戦車が橋の上で故障して塞いでしまった。

 Amin少佐は第1機甲師団や第5旅団の司令部の指揮失敗が非難される一方で上層部の失敗が当時無視されたことを以下のように厳しく言及している。
 戦争の運命を決める戦略レベルでの攻勢計画策定は決して師団司令部に委託されるようなものではない。
 ケムカラン攻勢計画は開始の何年も前から準備されていたのだ。川のような地理的障害は計画図でも注目されマークされていた。攻勢の失敗原因は機甲師団が劣悪な地形で発起されたからではない、計画策定段階での適切な準備(それこそが摩擦を減少させるもの)が為されていなかったことだ。
 司令部は地形と移動のファクターを充分に考慮に入れておらず、それゆえに地形の摩擦を減少させられず、集中するために必要な時間と空間を減らせなかった。軍事作戦総局(Military Operations Directorate)、第1軍団司令部、第1機甲師団司令部そして旅団司令部に到るまでが、ロヒナラ川とニカスナラ川の狭い隙間から一刻も早く抜け出し機甲部隊が自由を得るための詳細な計画を策定していなかったのである。総司令部は交通渋滞をもたらしうる河川の状況すらしっかりと指示していなかった。だから渡河と展開は大幅に遅れることになったのだ。
 これは指揮と同様に参謀システムの失敗でもある。機甲戦をするには両方の参謀将校達は遅すぎたし離れた場所で仕事をしてしまってもいた。彼らの志向は機動志向というよりも陣地志向であり、彼らの戦場概念は典型的な線形型戦場であった。
 日本軍やドイツ軍が頻繁に後方に現れたビルマや北アフリカの経験は彼ら参謀将校を極めて側面に敏感にした。これらは速度よりもむしろセキュリティの観点を考える者達である。異端のダイナミズムよりも基準服従が志向されてしまった。全ての先任(上級)指揮官が自身よりも1段下級の所掌仕事により興味を抱いてしまうシステムは、大隊と旅団レベルでの突進鋭気とイニシアチブの欠如へと導いた。そのように訓練されてしまっていた。以上がアミン少佐の批判の要旨である。 [参照14]
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 この9月8日最初の遅れが致命的だったのはインド側も同じ認識をしている。Hai准将が述べた要旨はおおよそ次のようなものだ。

 9月8日の明朝の時点で各部隊が突破している予定だったが、橋と交通計画が不十分で12時間遅れ、昼頃に第5機甲旅団のみがようやくロヒナラを渡河完了しただけだった。後にこの12時間の代償は高くつくことになる。
 パキスタン機甲師団が失敗した理由の1つが交通計画の不十分さである。複数の機甲部隊を次々ロヒナラ河川を渡らせ展開していく必要があった。この渡河橋がもっと偵察されて入念に計算されていなければならなかったのだがそれがされず、実戦で渡河の遅延をもたらし、450輌以上の各種機甲車両の出口としては全く不十分だった。[Hai, (2015), p.34]
 24時間の遅れが9月7日夜に発生し影響を及ぼしたことを同じくGokhaleも7章で言及している。
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 Amin少佐はその厳しい批判を第1機甲師団と第5機甲旅団および上層部に向けているが、第4機甲旅団は比較的少ない。
 パキスタン軍で包囲攻撃を受け壊滅したのは第4機甲旅団第4騎兵連隊であるので疑問を呈されることはあるが、これはもはやほとんど戦術的選択肢が消滅した段階で命令に従ったものであり、より決定的だったのはその前の段階であると考えるべきなのであろう。それに第1機甲師団の基本計画はアサルウッターを即突破することが肝であり、その周辺の泥濘地帯でやりくりする時点で既におかしい状況なのだ。

【機動_9月9日】

 また戦車の機動という点では9月9日の罠をしかけるための移動段階も注目に値する。移動し戦闘しまた移動する、この高速の繰り返しによってパキスタン軍は敵陣形を把握しきれなかった。パキスタン第4機甲旅団は包囲の中心に飛び込んだが、その包囲陣形はわずか12時間前(あるいは更に短い)に形成されたものでありそれまで存在しなかった。事前に歩兵と砲兵が準備し築城化がなされている陣地に飛び込んだのではない。戦車がその移動力をいかんなく発揮したからこそこの逆包囲戦術はパキスタン軍将校の予想を超える衝撃を与えたのだ。インド軍の戦力の乏しさについて上層部を批判すべきではあるが、寡兵であることはサリム連隊長の評価を更に押し上げた。友軍第8軽騎兵が来る前から開き直ったかのように戦力を西に集中させ、攻撃のために進んでいた部隊も後ろに戻し大胆な配置転換を行った。9月9日の配置転換こそが翌日の大戦果を生み出した直接的な事象である。

 そしてこの移動は泥濘の地理的要素も考慮にいれなければならない。
 Nath少将は水があふれていたそのエリアをパキスタン軍が知らぬまま踏み込んだと語ったがインド第3騎兵も気づいたのはその僅か1日半前であった。[Nath, (2011), p.10]
 これはサリム連隊長の素晴らしい修正力を証明している。9月8日に地図上は最適の翼包囲を狙ったが地盤がぬかるんでいてうまくいかなかった。彼はこれを即座に戦術上の計算にいれて次の行動に活かしている。9月9日は的確に移動し、9月10日に東を防ぎきれる算段をつけたのと北西のキリングフィールドに選ばれたのはこの泥濘地帯故であった。1日半の情報の早さをサリム連隊長は最大限活かしたのだ。
battle of Asal Uttar_9月9日-min

【肩口を固守した歩兵師団の貢献】

 第3騎兵連隊の活躍が見事なことは自明だが、第4歩兵師団残存が同じくアサル・ウッターの戦いで重大な影響をもたらしたことも忘れられていない。第3騎兵の戦術は第4歩兵師団が戦域のある範囲を固守し決して崩れないという前提を基盤にしている。第4歩兵師団の位置取りと陣地防御はパキスタンの突進範囲を限定し戦線に「肩口」を形成し、一部のパキスタン機甲部隊が突出する状況を作り上げた。第3騎兵と連絡を取る前から全く同じ思想、敵機甲部隊の大軍に広く開けた領域に出られては軍団が危機に陥るという認識を持っており、6個大隊が3.5個に減少するという崩壊的状況でも立て直して拠点陣地防御へ移行させた。

 この手腕は極めて高い評価を得ている。Nath少将やハーバクシュ中将を筆頭に全体概要記述を行ったインド側の人々は第3騎兵よりむしろ第4歩兵師団の踏ん張りの方に比重を置いているし、パキスタン軍機甲部隊のAmin少佐が致命的と述べたのはここを早期突破できなかったことだ。アミン少佐はこの歩兵部隊の早期後退及び固守を「The Most Brilliant Defensive Decision」とまで称えている。[Amin, (2012), p.22]
 歩兵部隊の拠点陣地防御があったが故に機甲部隊が圧倒的寡兵でも有効な戦術を展開しその打撃力を活かせたのである。

【他歩兵部隊の行動に関する疑問】

 この戦いで最も謎なのが歩兵旅団の行動である。素晴らしい手際で9月6日のインド軍攻勢を撃退した後、不思議なほどに戦闘で言及されない。第4歩兵師団が退く際に水を一部溢れさせたのは進軍を困難にしただろうが、そこ以外でも進めたはずだ。恐らく撃退時に無視できない損害を負っていたためだと思うがパキスタン側はあまりこのことに言及していないため断言できない。同様の疑問をインド軍Nath少将は次のように述べている。
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 パキスタンの指揮官は第11歩兵師団の2個旅団を使ってインド第62歩兵旅団が居たセクターに攻撃を仕掛けるべきだった。そうすれば第1機甲師団は翼包囲となるし、駆けつけてきたインド軍の戦車連隊を打ち負かすこともできただろう。インド軍はパットン戦車に対抗し得るのは1個センチュリオン戦車連隊しかなく、もう一つのシャーマン戦車やAMX-13軽戦車では性能面ではパットンを止められないだろう。しかもアサル・ウッターでパキスタン軍が有したパットンとチャーフィー戦車の数量はインド軍戦車数を圧倒的に優越していた。失敗の最大の原因はパキスタン軍に優れた軍指揮が無かったことに他ならない。 [Nath, (2011), p.11]
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 実質的に第3騎兵の西外翼の広大なスペースを警戒していたのは第8軽騎兵C中隊のみという恐ろしい状況であった。しかも追加予備は北の第15歩兵師団に優先して回されている。パキスタン第52旅団がそこへ進んでいればインド軍は更なる困難に直面していたはずだ。例えばインド軍が第1機甲師団の各個撃破を目論んだ場合第52旅団は敵第3騎兵の西翼を突けるし、あるいは北に居たインド第7歩兵師団の南翼をほとんど妨害無く狙えた。これをしなかったのはAmin少佐の記述を考慮に入れると、事前に多様なパターンの予備計画(特に渡河計画)を策定しておらず、指揮官には柔軟に変更する風土が根付いていなかったからではないかと思われる。パキスタン総司令部は歩兵師団に国境沿いで敵を拘束させるという計画だったので、インド第4歩兵師団長グルバクシュ少将が即自国領土の奥へ退くという(激しい批判を浴びる可能性のあった)決断をした時点で状況が狂ったのではないだろうか。

 先鋒部隊に含まれていた第2FFと第5FFはケムカランの確保を担当したと思われ、最前線にその後姿を現していないので半ば遊兵化していた。せめて1個大隊は抽出すれば第5機甲旅団は楽になったのだが、指揮系統の観点からこれも難しかったのかもしれない。

【予備戦力配分】

 既に言及したがインド第11軍団は適切な量の予備を有していなかった。9月8日に第11軍団は西方司令部ハーバクシュ中将に連絡し、第18ラージプータナ、第7擲弾兵、第9J&K、第13ドーグラーを解くこと、そして別の1個歩兵師団を第4歩兵師団と交代させることを提案している。しかし予備が無かったためハーバクシュ中将には受け入れられなかった。そして第4師団に持ちこたえさせることを命じた。[参照14]
 攻勢を始めた時に第4歩兵師団は通常より1個旅団少ない編制で、西方司令部には予備歩兵師団が無かったというのは明らかに不手際である。たとえ攻勢が成功したとしても必ず問題を引き起こしていただろう。
 根本的な原因は攻勢が全く初期計画と違った形で始められたことがあるだろう。アブレイズ計画での西方動員が充分な速度でなかったとも言えるが、グランドスラム作戦によってインド上層部はかなりせかす形で第11軍団を攻勢発起させてしまった。あくまで敵を引き付けるのが目的の水路までの限定的攻勢であるので大丈夫と思ったのかもしれないが、情報部が敵第1機甲師団を見落とし逆侵攻を受けたことでこの楽観はとてつもない危機を呼び込む結果となった。
 量とは別に、この少ない予備をどこに配置したかでも少し批判をNath少将はしている。元々敵機甲部隊の反撃に備えるならインド第2機甲旅団の初期位置は第4歩兵師団のエリアであるべきだったのだが、軍団司令部は不可解にもラホール正面の第15師団エリアに置いてしまっていた、という点だ。[Nath, (2011), p.2]

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 一方でパキスタン側も予備戦力配分に疑問点がある。別記事で触れたラホール正面の戦いで第22機甲旅団が師団予備として必要な時期に凄まじい活躍をしたおかげで事なきを得たが、国家第2の都市ラホールを守るなら予備の歩兵戦力がもっと即投入できる位置にあってしかるべきだった。
 そして南翼は防御には充分な戦力があったが、逆侵攻をかけるなら予備は少なくともあと1個機甲旅団は欲しかった。というのも第1機甲師団は初期計画で示すように有する3個機甲旅団を横1列に並べ突進する作戦であったので、もし一個でもとん挫すれば一挙に不安定な状況になるからだ。インド側の防御戦力が凄まじく少なかったので結果的に1個機甲師団で圧倒的優位には立てたのだが、にもかかわらず失敗した結果から見てもやはり戦力が少なかった。上述のように砲兵部隊が機甲に充分な支援をもたらせなかったのも同じく物量不足を際立たせている。
 理想を言えば、インドの攻勢が水路までの限定的なものでありラホールは陥落しないと読み切り、この地点で逆侵攻にでるのではなくアクノール方面に徹底的に戦力を集中させることが望ましかった。

【9月9日の戦闘】

 個人的に気になるのはパキスタン軍が9月9日に大人しかったことだ。第4機甲旅団を西で攻め上がらせるための計画変更と準備をしていたのだろうが、インド側も準備を進める時間を与えてしまったのは大きな影響を与えた。
・9月9日の深夜にパキスタン軍は同じ連隊で再度攻撃をしかけたが成功しなかった。もし第1機甲師団の2個旅団が全力投入され、インド軍陣地の1~2個大隊へ適切な偵察と共に攻撃していればこの夜間攻撃はより良い戦果をあげただろうとNath少将は分析している。[Nath, (2011), p.7]
 これは9月8日の決定的時間と繋がったことでもある。初期移動での交通整理計画にやはり致命的な欠陥があったのではないかと思われる。

【インテリジェンス】

 この戦いのみならず1965年印パ戦争全体で両国ともにインテリジェンスは擁護が極めて難しい。Hai准将、ハーバクシュ中将、Nath少将、その他各記事で頻繁に触れられておりその失敗は多岐に渡る。それが致命的破滅を招かなかったのはお互いに失敗をしていたからに他ならない。
 Amin少佐はインテリジェンスについて端的に以下のようにまとめている。
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 両軍が奇襲から攻勢を始めた。インド軍のラホールへの攻撃は奇襲となったしパキスタン軍のケムカラーンへの逆侵攻は奇襲であった。両国のインテリジェンス機関が悲惨な失敗をした。互いに機甲大部隊の位置をぎりぎりまで誤認していたのである。[参照14] 
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【変更に次ぐ命令変更】

 パキスタン総司令部、特に軍事作戦総局は混乱の増大に対する触媒をもたらしてしまった。彼らの矛盾した命令は、第1機甲師団の前進のペースをある程度遅らせただろう。総司令部の2回の命令により、第1機甲師団に大きな疑念と混乱が生じたのである。
 第3機甲旅団の例では、9月6日に翌7日の日出までにザファーケの東に集結するように指示が下った。旅団は9月7日06:00時までに移動を達成したのだが、同日14:00時にラホールに移動するように言われ、同日15:00時にこれらの命令はキャンセルされた。
 第4機甲旅団の例は、9月7日13:00時にDaviからDaskaに移動するように命じられた。旅団は移動の準備をしていたが、同日16:00時間にキャンセルされた。パキスタン軍上層部には指揮に不明瞭な者たちがいたとアミン少佐は苦言を呈している。[参照14] 

【単体コンセプトと破綻した基本計画】

 元々のアムリトサルへの攻勢計画は軍事戦略レベルでは良いものだったとアミン少佐は考える。インド軍のハーバクシュ中将もこの計画をシンプルで明確なものと認め第4師団が食い止めなければ非常にまずいことになっていたと述べている。戦車部隊の歴史家GurcharanもBeas橋を失えばデリーへ脅威をもたらしインド軍はそれに拘束され第11軍団を救い出せなくなるだろうと書いている。[参照14] 
 それにBRBL(イチョギル運河などのラホール周辺に掘られた大型水路)は大いに役立った。インド軍の自由を制限し歩兵の相対的な優位性を無効化した。水路は鉄床(anvil)の役割を果たし砲兵、戦車の砲、歩兵の小火器がハンマー(Hammer)の役割を演じることができ、インド軍の攻撃を粉砕した。大型水路なしにはラホールは奪われていただろうし、第1機甲師団がケムカランから離脱を容易にすることはできなかった。[参照14] 

 別記事で触れたがJ&K地方の大動脈たるアクノール及びジャンムーを狙ったグランドスラム作戦も単一コンセプトそのものは良かったとAmin少佐やハーバクシュ中将も認めている。インド側がこの重要地点を手薄にするという非常にまずいことをしていたにせよ、パキスタンはかなり追い詰めることに成功したと言える。もしジブラルタル作戦とグランドスラム作戦が確固たる連動性を持って同時的に準備、開始されて収束的に作戦行動していれば遥かに良い結果になったはずだ。

 しかし現実はアムリトサル攻勢もグランドスラム作戦も事前の戦略とは異なる条件の不完全な状態で始められてしまい、戦力不足や調整ミスが拡大してしまった。実行段階で前線部隊から総司令部まで著しい失敗があったのだ。根本的な原因はやはりアユーブ大統領とブットー外相がジブラルタル作戦単一でJ&K地方奪取ができると楽観的想定を基に開始してしまったことだ。その時点では正規軍が大規模な攻勢にでるのを彼らは躊躇い、しかし過激な浸透とゲリラ活動はするという中途半端な意志で開戦してしまった。その結果インド軍の反撃を食らい慌ててグランドスラム作戦を強制的に発起させ台無しにし、そしてジブラルタル作戦も散々な結末を迎えたのである。
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 インド総司令部の指導に関して、戦力の西方動員速度について疑問が残るが、それ以上に要衝アクノールを手薄にしたことと全体としてほとんど主導権を奪えなかったことがやり玉にあがる。ラホール方面での限定的攻勢も批判に上がるがこれは本来はラホール都市への攻勢の事前段階なのでもとのままなら問題になるようなものではない。主導権を奪われ仕方なく間接的に敵をひきつけるために急遽発起され、多くの損害と引き換えに一応は目的の1つを果たした。ただやはりこれも元の計画が台無しになったことは否めない。
 それにパキスタン軍第1機甲師団はアサル・ウッターの戦いのあとシアルコート方面へ一部が向かった。この点でもインド第11軍団の「敵を他戦線へ行かせないよう引き付ける」という狙いは失敗している。[参照14]
 インドが究極的戦略目標とするJ&K問題解決には1965年戦争は守勢戦略をとった時点で大きな効果をもたらせないと確定していた。事実上の戦線拡大の引き金となったジブラルタル作戦は失敗に終わったことからインドはJ&K地方インド領の防衛に成功したと言えるのだが、インド側が行った攻勢も失敗に終わり究極的戦略目標に対し前進できなかったため総司令部に不満を持つ人々がいるのも理解はできる。

 結論として1965年印パ戦争はアミン少佐が述べるように、防衛側が各局面で勝利し続けた戦争であった。







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 改めて、ここまで長い記述を読んで頂き本当にありがとうございました。
 この戦いはサイトを始めた時からどうしても紹介したいと思っていたもので、ここまで続けてこれたのは私の拙い稿でも読んでくれる方がいらっしゃったからです。心からお礼を申し上げます。

参考文献

インド第3騎兵機甲連隊の行動を追ったアサルウッターの戦いの詳細記録。連隊の軍人が著者で同僚や当時の兵員など多数の直接インタビューを行っている資料。
Khutub A Hai准将, (2015), "The Patton Wreckers  -  Battle of Asal Uttar"

第11軍団全体の視点からアサル・ウッターを記述したNath少将の論文。特に第4歩兵師団の動きが良く書かれている。
Maj Gen. Rajendra Nath, (2011), "INDIAN XI CORPS AND BATTLE OF ASAL UTTAR (1965)"

機甲部隊を指揮した少佐によって1990~99年に作成された事実上の公式戦況図集。多くの戦況図がこれを基にしている。2012年に関係将校の顔写真付きで一般に販売された。解説文はほとんどなく図及び顔写真とそこに書き込まれたメモのような戦況推移のみがある。ページ番号無し
Major Aghaa Humayun Amin, (2012), "Atlas of Battles of Assal Uttar and Lahore-1965"
同上, "Atlas of Battle of Chawinda"

1965年に両国で使われた戦車の性能比較
David Higgins, (2016), "M48 Patton vs Centurion: Indo-Pakistani War 1965"

1965年戦争の全体をまとめた本で戦闘はほぼ網羅している。カラー戦況図ありだが日足ではない。kindle版はページ数も章番号もつけられていないため『The Context The Indian Sub-continent in 1965 Gokhale』を第1章とした。
Nitin A Gokhale, (2016), "1965 Turning the Tide"

インド・パキ戦争での戦車戦の通史。概説だが多くの戦いの戦況図や指揮官写真が載っている。
Maj (Retd) Agha Humayun Amin, (2000), "Handling of Armour in Indo-Pak War Pakistan Armoured Corps as a Case Study"

パキスタン軍少将が書いた書籍。とがった意見もあり他で言及されることも多い。
Shaukat Riza, (1997), "THE Pakistan Army : War 1965"

非軍人のパキスタン人ジャーナリストが書いた書籍
Shuja Nawaz, (2009), "Crossed Swords: Pakistan, Its Army, and the Wars Within"

ジャーナリストが1965年の戦争で最前線を取材し発刊した
Kuldeep Nayar, (2012), "Beyond the Lines: An Autobiography"

Journal of Defence Studiesに掲載された。この戦争に関するいくつかの書籍を紹介している。
Y.M. Bammi, (2016), "Revisiting the 1965 War"

1月のKutchから扱っている1965年戦史
Farooq Bajwa, (2013), "From Kutch to Tashkent: The Indo-Pakistan War of 1965"

インド国防大臣の日記形式の戦史記録
R. D. Pradham, (2007), "1965 War, the Inside Story: Defence Minister Y.B. Chavan's Diary of India-Pakistan War"

戦争直後に出版された1965年戦争通史。当時の発表がどうだったかよくわかる。
Gupta,ram Hari, (1967), "India Pakistan War 1965 vol1"

勲章受章者のエピソード集
Ian Cardozo少将, (2003), "Param Vir: Our Heroes in Battle"

未入手、情報求めています。ご協力いただけないでしょうか。↓
 パキスタン側の最重要資料。元ISI(軍統合情報局)および元陸軍情報部の長官にして20世紀末パキスタン政府へ強大な影響を持っていた「4人のギャング」の1人、マフムード・アフメッド中将が記した書籍。失脚後に発刊されており、パキスタン政府が勝利したとプロパガンダしてきた1965年戦争に対し、別の視点を軍の保管記録を基に作成した。
 パキスタンでもともとは『勝利の幻想』というタイトルだったが圧力がかかって変更させられた上に、後に政府が回収したという噂がある。実際に出回っている数は極めて少ない。[参照3]
インドでも僅かだが発刊された。
Mahmud Ahmed,(2002) , "Illusion of Victory: A Military History of the Indo-Pak War-1965"
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【参照サイト】

1.
戦争ジャーナリストSushant Singhが寄稿した記事。時系列ごとの主要出来事及び関係者の証言あり。
https://indianexpress.com/article/india/india-others/big-picture-1965-fifty-years-later/

2.
パキスタン軍事共同団体(pakistan military consortium)のM47及びM48パットン戦車に関する記事
https://web.archive.org/web/20120816063055/http://www.pakdef.info/pakmilitary/army/tanks/patton.html

3.
パキスタン新聞社The Nationの記事。2015年
https://nation.com.pk/12-Sep-2015/1965-how-pakistan-won-the-war-of-propaganda

4.
インド陸軍公式サイトの1965年戦争への見解
https://www.indianarmy.nic.in/Site/FormTemplete/frmTempSimple.aspx?MnId=LwYMsoixtnldb1wGxcBoEQ==&ParentID=ZFKQRiA64URXAcah3aIoqw==

5.
インド国防省の公式季刊誌Indian Defence Review (IDR)に2018年に掲載された書籍『Bhaskar Sarkar大佐, (2000), "Outstanding victories of the Indian army, 1947-1971"』の引用文
http://www.indiandefencereview.com/spotlights/battle-of-hajipir-pass-1965/

6.
この戦争に参加したTejinder Singh Shergill中将 (Retd)が寄稿した記事。推移を端的かつ作戦要所を抑えて振り返っている。
http://www.spslandforces.com/story/?id=366&h=An-Overview-of-1965-Indo-Pak-Conflict-Strategic-and-Operational-Insights

7.
PK Chakravorty少将(Retd)およびGurmeet Kanwal准将(Retd)の寄稿した記事。ジブラルタル作戦の根本的欠陥。
http://www.indiastrategic.in/topstories4041_Operation_Gibraltar_was_Fundamentally_Flawed.htm

8.
国防省季刊誌にBhaskar Sarkar大佐が寄稿した記事。ハジピールパスの戦い
http://www.indiandefencereview.com/spotlights/battle-of-hajipir-pass-1965/

9.
パキスタン軍のAgha Humayun Amin少佐の本のジブラルタル作戦およびグランドスラム作戦箇所引用
https://www.brownpundits.com/2018/02/17/operation-grand-slam-1965-war/

10.
パキスタン軍のSSG指揮官の1人(1965年直前に異動)S.G.Mehdi大佐の証言を基にしたジブラルタル作戦の評価
https://web.archive.org/web/20110927035816/http://www.defencejournal.com/july98/1965war.htm

11.
カラチ合意の国連原文。
https://peacemaker.un.org/sites/peacemaker.un.org/files/IN%20PK_490729_%20Karachi%20Agreement.pdf

12.
 Kuldip Singh准将が寄稿した1965年後半の主要軍事行動についての記事
http://www.indiandefencereview.com/spotlights/indo-pak-war-1965-major-actions/

13.
Satish Nambiar中将が寄稿したチャンブおよびシアルコートの作戦についての記事
http://www.indiastrategic.in/topstories4048_Operations_in_the_Chhamb_and_Sialkot_Sectors.htm

14.
インド軍の攻勢とラビ・サトレジ回廊の戦いに関するAmin少佐の論文。パキスタン防衛ジャーナル誌2001年12月号に掲載
http://www.defencejournal.com/2001/dec/ravi.htm

インド陸軍公式サイトの退役軍人写真
https://indianarmy.nic.in/Site/FormTemplete/frmPhotoGalleryWithMenuWithTitle.aspx?MnId=/3SGVJ7Bh60n0pSX+Y5ang==&ParentID=S5qpecqw0UB8QdEP5Okphw==
インド軍の勲章受章者のサイト
https://gallantryawards.gov.in/Awardee/salim-caleb

インド軍及び退役軍人のための非営利団体 Flags of Honor
http://www.flagsofhonour.in/about.html
グルバクシュ将軍の写真など
https://gallantryawards.gov.in/Awardee/gurbaksh-singh

Jejaktapakのアサル・ウッターの戦いの記事
https://www.jejaktapak.com/2018/03/10/battle-of-asal-uttar-saat-india-hancurkan-170-tank-pakistan-dalam-48-jam/

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【メモ】

・9月10日のMahmudpuraの戦闘でサリム連隊長はヴァデラA中隊長(Vadera)に「緊張下でより長くより冷静である者が勝利する。識別し、よく狙いを定めてから撃て。神が汝と共にあらんことを。」と告げた。[Hai, (2015), p.51]

・第3騎兵の各部隊の即応性は見事なものがあったし様々な工夫が為されていた。例えばB中隊第2戦車小隊では車長の指示がなくても砲手が狙いを定め撃てる時は撃ってよいと初期の遭遇戦時はされていた。これは待ち伏せ時はもちろん違う。[Hai, p.26]

・Nath少将は第11軍団司令部の南部軽視を批判的に書いている。第15師団地区は確かに危険だったが実際はパキスタン軍がアムリトサルまで突撃するような戦力は無かった。一方で突撃を測っていたパキ軍主攻第1機甲師団は南部第4歩兵師団地区におり、そちらに振り向けられた増援が第2機甲旅団のみだったのは果たして適切な判断だったのか。耐えきったのは前線の第4師団と砲兵と機甲部隊の奮闘のおかげであり「Luckily」という表現を少将は使って第11軍団と西方司令部に疑問を呈している。[Nath, pp.7~8]

・light regimentが第3騎兵の翼に展開し、弧月の中央へ敵を釣り上げるために囮として使われたとNath少将はp.8で述べている。けれども機甲の動きについて集中して書かれたインド軍Hai准将やパキスタンAmin少佐の本にはそれは書かれていない。light regimentは第8軽騎兵のことだと思われるが彼らは外翼の警戒にあたっており偽装退却はしていないと思われたので本稿では描写しなかった。別部隊か。

・指揮所はディビプラ(Dibbipura)町に置かれていたが、1971年の戦争でも全く同じ場所に指揮所が設置されることになる。ここの住人Sardar Mahal Singhは2か月以上にわたってHai著者を含む軍人たちを歓待し、インド軍から大いに感謝された。[Hai, (2015), p.43]

・インド軍のHai准将もNath少将もハーバクシュ中将も第1機甲師団はBlitzkrieg型の攻勢を試みたと述べている。パキスタン軍のアミン少佐もこれを否定はしていない。9月8日時点で、第1機甲師団は「ほぼ走り抜け」ることでアムリトサル後方と側面へ突進し連絡線を遮断、アムリトサル市だけでなくデリー方面にも脅威を与えるはずだった。[Hai, (2015), p.64][Nath, (2011), p.11]
 興味深いのはAmin少佐が旧英国領インド時代に作られた指揮官の英国式性質をこの攻勢の失敗に挙げていることだ。つまりWW2以前の英国式指揮官の風土を持ってドイツ式のBlitzkriegを実施しようとして失敗したということになる。ただあまりに初期にとん挫したためBlitzkriegとの比較は難しいだろう。


・第3騎兵はもともとインド第1機甲師団に属していたがパンジャーブ方面での敵機甲部隊の攻勢が予測されたため対抗し得るセンチュリオン戦車を有する部隊として独立第2機甲旅団へと移されアムリトサルの第11軍団の予備となった。[Hai, (2015), p.24]

・9月10日第3騎兵連隊本部は少し後ろのロヒナラ橋に置かれた。そこにいる連隊副官のディリープ大尉(Dileep)には敵に通過を許すのは「彼の屍を踏み越える時のみ」と指令が出ていた。

・9月10日のみの戦闘でA中隊とC中隊が撃破した戦車は25輌以上、ほとんどがパットンでチャーフィーは数輌[Hai, (2015), p.52]

・9月11日に鹵獲したパキスタン第4機甲旅団の作戦指令文章原本は現在第3騎兵の将校食堂の額縁に入れられかけられている。[Hai, (2015), p.59]


・インドでは戦車が集められたビィキウィンド町を「パットンの墓場」と呼んだ。[Hai, (2015), p.86]

・PhilloraとChawindaの戦いがWW2後で史上最大の戦車戦 [参照13]

・9月11日、ヴァデラ中隊長は幾輌もの破壊された敵機甲車両を見ながら進んでいたが途中でまだ脅威となるパキスタン戦車が複数いることに気づいた。彼は砲撃すると同時に部隊の一部に包囲マニューバを取らせ敵に撤退を許さなかった。砲撃と包囲へ動くセンチュリオンを見たパキスタン兵が戦車から降りて逃走を図るのが見えた。何名かが射殺されたが多くが姿を消して逃げおおせた。ヴァデラ中隊長は急ぎ偵察部隊を呼び寄せ、2個戦車小隊のカバーを受けながら敵戦車の群れへ近づいて行った。エンジンはかかり無線機のスイッチが入ったままパキスタン車両は放棄されており、そこで9輌の完全なコンディションのパットン戦車が鹵獲された。[Hai, (2015), p.59 ]


・9月12日、第3騎兵のA中隊もケムカラン方面の攻撃に加わろうとしていた所、連隊は突如SOSを旅団司令部から受けた。敵機甲がアタリ(Atari)町に迫っているというのだ。これを迎撃するためA中隊は60㎞以上も急行することになったのだが、着いてみると敵影はなく誤警報だと判明したのだった。[Hai, (2015), p.71 ]

・パキスタン機甲師団の突進を防いだのは、旅団長からの指示を待たずにサリム連隊長が敵を食い止めることを決断したゆえである。これが最も決定的瞬間であった。[Hai, (2015), p.64]

・Nath少将はパキスタン軍の正面誘因後の側面回り込みを基幹とするアムリトサル包囲作戦をWW2のロンメルの包囲運動(恐らく最も有名なガザラの戦い)に似ているとしている。p.4

・第4歩兵師団の司令部はGun Areaに置かれた。 [Nath, p.5]

・インド軍の砲兵隊は少なくとも5個連隊はあった。 [Nath, p.7]

・A中隊は9月8日15:00に移動を開始している。[Hai, (2015), p.38]

・パキスタン軍がアサル・ウッターで使えたのはパットン戦車5個連隊(大隊規模)分、1個チャーフィー連隊(大隊規模)分とNath少将は述べている。[Nath, (2011), p.11]

・パキスタン第1機甲師団指揮官と機甲旅団指揮官の通信は傍受され会話内容が記録されている。旅団指揮官はもはや前進は不可能と述べ、師団指揮官は前進を続けるのが最も重要なのだと述べ強硬させた。[Nath, (2011), p.10]

・アサル・ウッター、ラホール、シアルコートでの脅威に対応するためパキスタン側は内線作戦型連絡路網が大いに役立ったとNath少将は述べている。[Nath, (2011), p.12]

・1/9ゴルカとデカン騎馬は共に2個中隊を欠いている。[参照14]

・第9J&Kは9月6日に撃退され損害を受け後方のヴァルトハまで下がった。[参照14]

・パキスタン第1機甲師団指揮官Nasir少将はNaseerと書かれることもある。ナシール少将は最初手にしていた7:1の機甲部隊の数的優位を成功へと繋げられなかった。Gul Hassan少将(後に中将、パキスタン陸軍最高司令官)は失敗の原因がナシール少将は機甲の専門将官ではなかったことだと述べたが、アミン少佐は賛同していない。戦史において名を挙げた多くの指揮官は元工兵であったり元歩兵だったが別兵科も率いていたからだ。あくまでナシール少将と第5機甲旅団の個人的手腕が原因であると少佐は述べる。インド・パキスタン陸軍の失敗は人材登用にある。[参照14] 


・9月10日にA中隊とC中隊の戦果は戦車のみで25輌(ほとんどがパットンでチャーフィーも数輌)以上、インド軍センチュリオン戦車の損失は5輌(うち1輌は翌日修理して復帰)であった。

・5 FFは最初の突進部隊の一員としていた[Amin, (2012)]。Khem Karanに居てインド第5デカン騎馬の小隊長を捕虜にした。5 FFは第21旅団の一部。
https://threadreaderapp.com/thread/1121284384580079616.html
http://testyoursceeprep.blogspot.com/2016/08/

・Hai准将によるとインド軍の戦車部隊は夜間戦闘可能とするような暗視装置が無かったが、パキスタン軍は持っていた。

・Nath少将は第4歩兵師団長グルバクシュ少将と第62歩兵旅団長ガラウト准将の指揮を称えている。確かに第4歩兵師団の最初の攻勢は失敗したが、そこからの判断は適格だった。[Nath, (2011), p.11]

・9月9日までに戦死したSahibzad Gulを除いてこの日パキスタン軍将官には勇敢(大胆)さが無かったとAmin少佐は言及する。[参照14]