騎馬戦士よ!ラワ戦法などに首を突っ込まず、
  自らの命を惜しむがいい。

プーシキン詩作『騎馬戦士』(1829年)
(鈴木淳一, "В.В.コージノフ『19世紀ロシア抒情詩論(スタイルとジャンルの発展)』翻訳の試み(3)", p.67より抜粋)
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 ラワという軍事単語は現在はあまり使われません。ただ戦史を調べていく中で特定の人々、例えば旧日本軍の戦術書籍を読む方々はこの言葉に出会い、なぜ固有名詞化されているか気になったかと思います。
lava_various

 本件はよくある話ですが、調べれば調べるほどわからなくなるテーマでした。ラワとは戦術的概念であるという説明の他に、フォーメーション寄りの解釈をしているものが少なからずあったからです。資料元のロシア国内ですらこの解釈に混乱があるという話を見た時、どれか1つの書籍にあるものをそのまま主張するのではなく、複数の資料を列挙して示しておくことにしました。ですのでラワとは何かの普遍的定義を導くのではなく、複数解釈ある背景を説明する方に比重を置きました。
 かなり厄介なテーマでしたがようやく調べが進んだので簡易ながら覚書を残します。同じく興味を持つ人がいつか現れ、調べた時に少しだけ助けになれたら幸いです。
______以下、本文____________________________________

名称

 ラワ戦法を調査する上でまず障害となるのが、このカタカナの元の単語は何かという事だ。日本の書籍でこの単語が登場するのは殆どがロシア軍に関係する文脈だが、ロシア語または英語でスペルが併記されたものは少ない。これを最初に示しておく。

 日本語:ラワ
 ロシア語:лава
 英語:lava

 例えば冒頭に引用している詩の原文は次のようになっている。
  Делибаш! не суйся к лаве 
  Пожалей свое житье;

 日本語訳は「文化と言語:札幌大学外国語学部紀要,第79,27-129 (2013-11)」でロシア文学を専門とする鈴木淳一教授が作成したものだ。その訳注15では次のように書かれている。
 『「ワラ戦法」とは、敵を前後左右から取り囲んで攻めるコサック特有の騎馬戦法のこと。』(鈴木, 2013, p.127) ※ワラは単に誤字で、訳文のp.67ではラワ戦法となっている。

 英語はlawaではなくlavaであり、米国陸軍の騎兵誌『The Cavalry Journal』などで確認できる。
 ただlava/лаваとは通常は「溶岩」を意味する単語であり、一般の辞書をひいても軍事的な語意は滅多に書いてくれていない。溶岩と軍事上のラワは関係が無い。2004年版大ロシア百科事典電子版には短い説明が載っていたが、専門の軍事辞典をひく方が良い。1911~1915年出版の軍事辞典(ロシア語)や1979年版ソ連軍事辞典には幸い記されていたが、残念ながら現在のロシア国防省サイトの軍事辞典には載っていない。
 一応ロシア語wikipediaの該当ページのリンクを載せておく。2020年7月時点では内容は充実しておらず、ラワの問題の理解には有用でない。
リンク→https://ru.wikipedia.org/wiki/Лава_(военное_дело)

 ラワは汎用性を持つ手法なのだが、その言葉が使われるのは殆どがコサックまたはそれに連なる軍隊においてであった。一方で英語圏及び旧日本軍では一部だけが抽出され広がり、コサックと関係ない場面で僅かに使う者がいた。実際の所ロシア/ソ連での意味を調べる際は「コサックのラワ」が最も適していた。旧軍関係書籍内なら「ラワ戦法」が最もよく見た書き方だった。(コサック・ラワ / Казачья лава / Cossack lava)

【語源】

 語源について、タタールの狩猟スタイルであるoblavaを略したのがlava、と書いている英語資料があるがこれは出典元が不明。そこには書かれていないが、ロシア語の該当はОблаваのはずなので確かに狩猟スタイルの意味はある。だがそれがラワへ繋がったかは裏付けがとれなかった。またОблаваはタタール由来語ではないはずなので検証が必要だろう。
 ただしこれが語源または何らかの関係がある、というのは不可思議なものではない。Облаваは所謂追い込み漁式の狩猟スタイルであり、予め伏せておいた囲める箇所に誘導して狩るというものである。例えばアメリカのイロコイ族の狩猟スタイルをロシア語に訳す時にОблаваを使ったりしている。広がる狩、誘導、包囲、三日月形などの要素はどれも含まれている。それは以下に記すラワの各説明から連想されるものだ。

【 ラワを巡る軍事的観点の記述 】

 後述するが、ラワの定義は各文献を比べるとその解釈が一致せず、類似的であれど着目点がずれた書き方をされている。本稿の構成はまず20世紀初頭での軍事的な実践を念頭に置いたラワの解釈の例を記し、後半の各章では17~19世紀の歴史的なラワの用語としての意味を追った。

日本軍内でのラワの捉え方_戦術

 旧軍の書籍では「ラワ戦法」として登場する。これは戦術的行動のニュアンスであり、基本的には中央に誘引しておいて両側面で広くマニューバを行い包囲攻撃に持ち込むという解釈がされている。

【 ソ軍常識_誘致からの包囲 】

 代表的なものとして1939年出版『ソ軍常識』の記述を引用する。
_____以下、抜粋____________________________________
【二十五、騎兵中隊「ラワ」戦法に依り敵を撃滅したる戦例】

《 戦闘経過の概要 》
 一、赤軍騎兵N中隊(TK一小及LTK二小属)は某日昼間0時頃「ハ」高地附近に於て「イ」村方向に対し警戒中 青軍騎兵約一個小隊「ハ」高地に向ひ前進中なるを知る
 二、N中隊長は該的を捕捉撃滅するに決しA小隊を「ロ」附近に進出せしめて敵の誘致に任ぜしめ爾餘(そのほか)の主力を要図の如く「ハ」高地の西斜面に秘匿一せしめ機の熟するを待てり
 三、A小隊は「ロ」附近に於て敵と遭遇し彼我共に徒歩戦を開始せしがA小隊は軽戦の後逐次後退せり
   敵は戦勝せりと誤認し無警戒の儘軽率に追撃し来れるを以てN中隊長は好機に投じ要図の如く攻撃し(K主力は乗馬襲撃)敵を撃滅せり
 ※カタカナは平仮名にし、読みにくい旧字体は直した。
ラワ戦法_ソ軍常識
 < ソ軍常識 第二十五の要図を基にカラーで作成 own work >

《 観察 》
1.「ソ」軍は好んで小部隊の誘致戦法を行ふの傾向あり
2.敵の素質劣等なるか又は兵力寡少なりと判断するときは「ソ」軍は放胆なる包囲攻撃或いは背面攻撃を企図す
3.状況に依り「ソ」軍騎兵部隊は今日尚乗馬襲撃を実施することあり
4.地形の観察及敵情判断を怠り且探索及警戒の処置を講ずることなく漫然敵の行動に追随して軽率に追撃せるは青軍小隊の失策なりと云はざるべからず
5.戦闘の単位たる中隊以下の兵力を以て軽率に行動するは戒むべきなり
______以上、抜粋終了_________________________________
 以上のようにソ連軍は実施してくると1939年の書籍では記されている。典型的な誘引からの包囲戦術をソ連軍は習得しており、また日本軍も相手がそれを使ってくると警戒していたことがわかる。

【 戦術学要綱_遭遇戦 】

 この他にも旧軍の軍人が著した書籍内にラワが登場するものは幾つかあるが、特に興味深いのは1943年出版の国防研究会編(石原莞爾監修)『戦術学要綱』だ。ラワが言及されるのは包囲戦術の節ではなく第6節遭遇戦である。そこでは遭遇戦時の展開を3パターンに分け、内1つの「後退展開」にラワが属するとした。下記はその該当箇所抜粋となる。
_____以下、抜粋____________________________________
 遭遇戦に於ける戦闘経過は迅速であって、特に敵と接触してから展開し、攻撃するまでの時機はきはめて迅速に経過する。のみならずこの初動の態勢の良否が、爾後の戦況に大なる影響を有するが故に、遭遇戦の指導は戦闘の初期に於いて極めて重大である。以下経過を追ってその概要を説明する。

1.戦闘のための前進を開始する
 戦場を予期して敵に向かって前進する行動であって、爾後の戦闘指導の基礎配置はこの時に完成される。即ち地形判断に基づき前進を部署し、先制のため要点の奪取、包囲企図の実行に着手する。

2.戦場を概定し、これに向かって兵力を集結して行く
 即ち本隊は逐次包囲に便利なやうに分進し、縦隊を解いて所望の方向に各部隊を前進せしめ、速やかに展開し得るやうに準備し、主力砲兵は前方に挺進する。

3.展開する
 即ち軍隊を縦横に配置し、第1線、予備隊等戦闘任務を付与する。
 展開には統一展開逐次展開後退展開の三種類がある。戦力発揮には統一展開が最良であり、戦機の捕捉には逐次展開が最良である。そしてこれは最も遭遇戦らしいものである。
 後退展開とは前衛等の一部を以て主力を掩護しつつ逐次後退せしめ、主力をその後方又は側方に展開して攻撃するものであって、国軍では実用しないけれども外国軍ではしばしば戦況によってはこの方法を用ひる。
 ソ連軍や志那軍の称揚する所謂「ラワ」戦法はこの一種に属する。
戦術学要綱_遭遇戦における統一展開と逐次展開
(統一展開)(説明)
 前衛等の掩護の下に主力を展開せしめ、歩兵砲兵の関係を律し、統一して師団長が攻撃前進を命ずるものである。故に師団全力の展開のためには通常数時間を要する。

(逐次展開)(説明)
 主力を統一して展開することなく、戦機に投じ前衛及び縦隊を逐次戦闘に加入せしめてゆく方法である。
戦術学要綱_遭遇戦におけるラワ戦法
(後退展開)(説明)「ラワ」戦法
 前衛又は誘致部隊(逐次後退す)
 主力(両側面に展開待機す)
 後退した誘致部隊(敵が誘致された時四周より包囲攻撃する)

 展開を図示すれば上の如くである。
______以上、抜粋終了_________________________________
 これらの資料を素直に解釈すると、誘引からの包囲攻撃こそがラワ戦法となるだろう。ただ他に幾つか気にとまる描写がある。それは散開性及び独立性だ。

 ロシア帝国末期のラワの軍事的に最も詳細な説明は1912年版騎兵操典に記されている。日本では『千九百十二年露国騎兵操典』として翻訳されており、知る者はある程度いたはずだ。

1912年ロシア帝国軍騎兵操典およびそれを巡る米国騎兵誌の解釈(1944)

 1912年騎兵操典にはより多くの包括的概念および部隊配分などの具体的手法が描かれているが、根底はラワ=戦術的行動概念と捉える見方だ。ラワの解説の最初に記されていたのは「ラワそれ自身が示すのはフォーメーションではなく、明確なフォームや構造を持たないある戦術的騎兵行動である。」(第1項第1段落)という文章であった。
 一見もはやラワとは何か明確であり説明は不要に思える。だがラワを巡る調査の難関はここからだった。なぜ操典にわざわざ最初に「フォーメーションではなく」と強調されているのか、その背景が問題なのだ。本章はロシア帝国の1912年騎兵操典を基盤とする『戦術的行動概念としてのラワ』としての解釈を記し、次章から歴史的背景に移ることとする。
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 末期ロシア帝国軍の解釈は1912年版騎兵操典パート2の付録についている説明を参照とするが、それはもう邦訳があるので、米国での解釈の参考となる1944年出版の騎兵誌に寄稿されたNicholas Corotneffの小論を引用する。この論文は非常によくロシアの騎兵操典を読み込んでいる。図や文の大部分は翻訳抜粋でありながら要約されているおかげでどこを重要視しているのかわかりやすい。更に操典発行の後に起きたロシア内戦及び当時進行中だったWW2での類似事例を挙げ考察を行っている。その意図は騎兵戦術としてのラワの軍事概念が機甲の時代に適用できる可能性を持っている事に警鐘を鳴らすことである。よってこれの該当箇所を抜粋する。
(※ページの一部がかすれて判読不能となっている点はご容赦ください。) 

※『The Cavalry Journal』は現在の米陸軍の機甲部隊専門誌『Armor』の前身の伝統ある書籍。
※ロシア語の騎兵操典は下記のリンクを参照
1912年騎兵操典パート1
https://xn--d1aabrhohbai1e3f.xn--p1ai/wp-content/uploads/2014/08/1912StroevoyCavUstav1.pdf
1912年騎兵操典パート2、3(付録含む)
https://xn--d1aabrhohbai1e3f.xn--p1ai/wp-content/uploads/2014/08/kavustav2-3.pdf

____以下、翻訳_________________________________________

【出典】US Cavalry Association : The Cavalry Journal 1944年1月-2月号 pp.18~21
【著者】Nicholas Corotneff

【 ■■■ and Tactics of Lava 】

 ラワの使用のためのインストラクション■■■(文字判別不能)。ロシア軍騎兵操典1912年版の添付資料がラワの性質と戦術的手法を定義している。ラワはあるフォーメーションを示すのでは無く、むしろ特定のフォームや構造を持たない戦術的騎兵行動を表している。ラワに参加する兵員達はその時に最も成功する見込みがある命令を実施する。その行動の成功は、指揮官及び全階級の兵士の心構えと創意工夫にかかっている。

 ラワは分離した戦闘員各々に独立性(自主性)を示すことを求める。(部隊全体に)共通の目標を達成することを追求することによって、そしてリーダーからのシグナルや指示に鋭敏に注意しておくことによって、それらの各行動は統合される。成功的なラワの行動のために、次のことが求められる。
・馬と武装の運用と管理に関する各人の卓越した個別訓練
(自己判断の)創意工夫、責任についてのセンス実行されるマニューバについての鋭い理解、を発達させること
他から独立している各行動を、共通の目的の達成へと向ける各人の能力
 ラワにおいて、フォーメーションは敵行動の形態や達成すべき目標そして地形状況に従って適切なもものを用いることになる。

 ラワは明確に定められた各フォーメーションにも距離や間隔にも縛られない。それを構成する各グループの独立性を殺してしまうことは、ラワの意味そのものを破壊してしまう。ラワにおいては全てが各状況にあわせなければならないのだ。(状況に合わせて柔軟に対応しなければならない。)ラワは敵方が混乱したり予期していない場合においてのみ成功する。

 機甲戦術の本質そのものに、または浸透の戦術(機甲戦闘の発展基盤の基本要素の1つと断定されている)の本質そのものに、もっと汎用的な定義を与えることは難しいだろう。

 それ以外では、攻勢と同様に防御においてラワの戦術的活用を示す一般的な所見ではあるが、この規範(ラワ)は、広大なるキャンバスに戦術的パターンを創り上げる完全なる自由を与えられた指揮官の主導性と創意工夫に委ねられている。実践的に、ラワは前方の戦列と(その後ろに控えた)サポート部隊から成る諸中隊の散開オーダーとなる。それは如何なるフォーメーションからも、横隊あるいは縦隊そして行軍縦隊からも命じられ得る。そしてそれは正面にも側面にも投射され得る。2~3個のシンプルな指令を用いて、そして必要とされる時間の半分でである。例えば、行軍縦隊または密集戦闘隊形を(以前から使われていた規定に記載されている)通常の散開オーダーへと展開させることである。
lava_Chart 1

lava_Chart 2
 チャート1は密集戦闘フォーメーションから展開する第1段階の特定の事例を表示している。通常は4個小隊の内の3個が分岐する各方向へ駆けて前進し、次に各々が2つのセクションへと分かれる。それからチャート2に示されている1つの戦線へと散っていくのである。そのラワの形状は完全に展開しきった時、通常は様々な縦深の1つの三日月型になる、なぜならその究極的目標は攻勢時であろうと防御時であろうと敵の両側面を打撃することだからだ。それの進化の最たるものは心内に単一の目的(ゴール)を持つこと、―両翼包囲のための好打撃位置を築き上げることである。

 サポート部隊の規模と位置も指揮官が選べる。(後方に拘置しておく部隊の位置は定まっておらず、全体陣形はしなければならない定型というものは無い。)4個小隊の内の1個をサポートとして残しておくと言う習慣は、個室する必要はない。指揮官は全4個小隊をラワへ投じ、たった8~10人だけのグループを残しておくこともあるだろう。彼らはそのような状況では予備としてではなくむしろ必要に応じて後方再集結地として活動し得る。従ってコサック部隊の場合、このサポートはその規模に応じて『予備』とも或いは『ビーコン』とも言及されるのである。
(中略 
 ※ラワから下馬戦闘をするケースについて書かれている。ここでコサックの下馬および馬伏せにおって部隊が円陣を組む話が載っている。これは完全に駝城の話である。ラワから駝城へと繋げる場合、各部隊が散らばっているので『抵抗拠点の島』があちこちに造られ、それらが相互に支援し合う火網を形成すると書かれている。また、ラワから駝城へと展開繋げた実例として1864年のトルクメニスタンへのロシア帝国の侵攻の戦いが挙げられている。98名のコサック兵がラワを使っていた時敵の急襲を受け、下馬して幾つかの円陣を組み防戦を行い、将校含む91名が戦死しながらも救援が来るまで3日間耐えきった。
駝城については別拙稿参照→
関連【ジャンディ・カマル(駝城)戦法_草原地帯での野戦築城】

【 中隊によるラワ 】 

 ■■■攻勢的戦闘におけるラワの■■■は徐々なる■■■その両翼の打撃部隊の■■■と共に流動的シフトを■■■。言い換えると、巧みに指導を受けたフットボールチームの選手のような変化に富んだ一連の各行動とそのコンビネーションである。

 最も頻繁に使用される(即ち最も知名度のある)シフトの1つは『翼閉(closing on the wing)』と呼ばれるものである。ラワのためのその指令は次のように記される。
 そのラワの各小隊は、敵を乱すスペースを獲得するために、末広がり(発散方向に後退を開始する。このように離れていきサポート部隊の正面をカバーしていたの外した後、彼らはすぐさまターンして、彼らの移動を捉えようと前進中の敵への攻撃に突進する。(チャート3)
lava_Chart 3

(中略
ロシアの操典にはない、WW2ドイツ軍の使用している誘引戦術についての、やられた側である連合軍視点の記述。これをラワであるとCorotneffは書いている。
 特に
ドイツ戦車の攻撃→攻撃失敗し後退→それを見た連合軍戦車の進撃→アハトアハト中心の対戦車伏撃→ドイツ戦車再進撃による包囲、の一連の流れが洗練されていた。
 よく使われ連合軍にとってかなりの被害をださせていたとされる。具体的事例として1942年6月13日の英戦車230両喪失が挙げられている。これは現在ガザラの戦いの「暗黒の土曜日」と知られる戦闘。Corotneffはロンメル隷下の部隊がアフリカで使ったことに注目し、『ロンメル戦術』と1912年露国騎兵操典のラワは同質の軍事概念だと主張している。)

【 連隊によるラワ 】

 連隊全体によるラワの使用の場合、さらに機甲戦闘との類似性が色濃く見えるようになる。指揮官の裁量において、6個中隊を有する1個連隊がその内5個中隊をラワへと投入するとして、1~2マイルに広がる単一の前進線へと彼らを配置することが可能である。或いは連続的な波型でもよい。予備とする中隊は通常は比較的コンパクトなフォーメーションで置いておかれ、そのラワの戦線の向こうの如何なる地点へもシフトできる強力な打撃部隊として扱われる。ここでも再びロシアの騎兵戦術は大規模戦車編制によって頻繁に運用され るある種の戦術的手法(と酷似するもの)を表していた。

 予想されていた通りではあるが、WW1において騎兵は(そして特に上述の戦術は)かつての戦役で果たしていたような主要な役割を演じることは無くなり、ラワはその致死的な棘を喪失した。もちろんその理由とは、他の兵科と比べると、騎兵が火力の強大さにおいて大きく遅れを取っていたからである。騎兵が持っていた火力は殆ど下馬戦闘でのみ使用された。古の戦術を再び適合するためには、射撃と運動の新たなコンビネーションが必要とされたのだ。そしてそれは1918‐1920期間のロシア内戦まで現出することはなかった。そこではカートの上に載せられそして即応の準備を整えた機関銃
(タチャンカ)が、騎兵隊の中に現れ、そしてラワの復活が始まったのである。騎兵隊の中のこれらのカートは、後の装甲車両の諸々の参入のための道を整えてくれたのであり、従って、現在極めて傑出しているその戦車‐騎兵の戦術の予告的試演に特に貢献してくれたのである。
____以上、翻訳終了__________________________________
 上記の1912年ロシア軍騎兵操典及び米国騎兵誌は当然、具体的な戦闘を想定したかなり実戦用の記述となっており、同時に重要な軍事的要素に焦点が置かれている。それは特に独立性を伴う散開に関する描写に現れている。ここの考察をより深くすることは大いに意義があるのだが、本稿はとりあえず歴史的なラワの意味の解釈に関する調査の話を進めることとする。

【 ラワを巡る歴史的観点の調査 】

 以下に挙げる各論は似たような軍事的事柄の話をしているが、その着目点が少しずつずれるか或いは絞られていて解釈が違っている。上述の資料を比較しても既にその兆候は見られている。1912年操典におけるラワは独立性を基盤にして織り成される多様なフォーメーションとマニューバを包括する概念だが、その内の1つである誘引からの包囲戦術がまるでラワ全体かのように一見思えてしまうのがソ軍常識などの書き方だった。例え内実を理解していたとしても、ページ数の制限やその章が話している焦点などでどのラワの形態を描写するかは変化するが故に、孫引きすると解釈がずれていく。とすると操典のような軍が実際に使っていた説明まで辿りさえすれば、ラワとは何かが理解できるように思える。だが更なる調査で浮かび上がったのは、より根本的な変質理由だった。

解釈における重視箇所の相違

 先にいくつか帝国末期~内戦期について書かれた英語論説を載せておく。これだけで解釈に差異があることは明示できるだろう。

【2011年_L.Kopistoの解釈】

 旧軍はラワを包囲戦術的な観点に比重を置いた解釈をしているが、英語文献でも同様の解釈をされているものはある。新しめの例として、2011年にヘルシンキ大学のLuri Kopistoが著した『The British Intervention in South Russia 1918-1920』のp.92に書かれた文章を抜粋する。
 「彼ら(コサック)は未だに剣と槍を自身の主要武器と見なしており、伝統的なラワの半・包囲的突撃(lava semi-envelopment charge)を会戦において決定的なマニューバであると考えていた。古典的なラワにおいて、そのコサック連隊の2個stnias(中隊)は前方で戦列を散開して進み、3個中隊は密集隊形で後方で備えた。敵から200mほどの距離になったら、その第1列は敵の両側面へ攻撃をするために2つに別れ外側へ跳ね、その間に後方にいた各中隊は敵の正面に出て交戦に移る。」
 これは包囲戦術を主眼とした描写だ。ただし前方部隊が散開的、後方部隊が集結的に動く隊形であるという記述も残っている。また、誘引要素が抜けている。

【1990年_S.Brownの記述】

 一方でフォーメーションに比重を置いた説明をしている英語文献もすぐに見つかった。Stephen Brownが1990年に書いた『The First Cavalry Army in the Russian civil war, 1918-1920』だ。この論文はロシア内戦の騎兵に絞った貴重なものだ。ラワの該当箇所pp.33~34を抜粋する。
 「(ロシア帝国軍の)もう1つの改変はコサックの『ラワ』の適用を帝国騎兵全体に騎乗攻撃を実施するための手法として行うことであった。コサックは19世紀後半にいた戦士の古典的タイプだと広くみなされていた。ただWW1の直前に、非コサック騎兵は『ラワ』フォーメーションでのそのコサック流攻撃手法を教え込まれた。それは敵のバランスを崩すための1種のばらけた隊形での突撃(loose-formation charge)であり、その攻撃者たちは敵隊形のエッジを包みこむことが伴われる。『ラワ』フォーメーションでの攻撃の方が衝撃戦術によって要請される密集隊形突撃よりもまだ犠牲が少ないと、帝国軍の組織はみなしていた。『ラワ』は無秩序的なみかけではあったが、明確な1つの目的を持っていた。その突撃の結果をバルクは次のように記述している。
 『叫び撃ちながら、コサックは分散したフォーメーションで敵の全周を群れて動き回り、敵にも同様に分散を引き起こすことを狙いとし、その結果として接近戦になることも可能とし、彼らの乗馬技術及び武器の取り扱い上の優越性を活かせる状態に持ち込んだ。』」
 以上がS.Brownの説明箇所だが、他に彼の解釈がわかりやすい文もある。p.117で内戦の白軍と赤軍の騎兵の対戦において、「両軍がラワのフォーメーションで突撃を仕掛けた。」と述べられている。S.Brownはフォーメーションを主体とした存在としてラワを捉えている。その特徴としては戦列を横に広く散開させ攻撃前進を行うことだ。その結果として弾性包囲的になり、ハラッシングで削るかあるいは弱点部があれば突撃、敵を誘引することが期待されている。
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 この他ロシア語だが、騎兵プロジェクト『Кавалеристъ』を立ち上げた現代の研究者А.М. Портновは、『20世紀初頭の騎兵戦術の基礎』という講義を作ってくれておりその中でもラワに着目している。そこでも散開的な戦闘用フォーメーションであることが述べらている。包囲戦術であるとは書かれていない。

【2014年_R.D.Williamsの描写】

 別の観点は、ラワはそれを実施する部隊自身が打撃を実施するのではなく、撃破を狙う別の攻撃のために準備的に為される散開的攻撃戦術だという見方だ。
 例えば、ウォーゲームや戦史を扱っているアヴァランチ・プレス社にRobert D. Williamsが2014年に寄稿した記事『1914年におけるツァーリの陸軍』がある。これの戦術の章の騎兵の項には少々曖昧だが次のように記されている。
 「(WW1ロシア帝国軍)騎兵はラワも運用した、ラワとは以前はコサックによってのみ使われていた攻勢戦術だ(an offensive tactic)。通常これは広く散開した2~3個の小隊によって編成される中隊(スコードロン)個々によって実施され、しばしば1個の三日月隊形をとり、約75~200ヤード後方に予備中隊を置き、そして攻撃に先立って敵を乱すためのハラッシング戦術や或いは何らかのマニューバを遮蔽するため、または敵前進を遅滞することを意図とされる。ラワの一部は下馬し射撃を実施することもあり得る。」
 R.D.Williamsは散開と三日月隊形には言及しているが、包囲についてはほぼ触れていない。「ハラッシングやその他のマニューバ」と言っているようにラワには定型のマニューバは無く、散開的攻撃から柔軟に繋げていく。この場合は包囲攻撃そのものは別部隊又は別フェイズの扱いである。そして重要なのは、攻撃時の編制に言及していることだ。この内容は1912年操典にかなり近い。
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 下記に追記するものを含め多くの文献で書かれていたのはラワとは騎兵が(特にコサックが)使っていた手法であること、そして19世紀末~20世紀初頭にロシア帝国軍の非コサックの騎兵隊でも使うようになったという所だ。実はこれらはラワが広まっていく上で何らかの変化を伴った可能性を示唆していた。
 よって、ロシア帝国軍にとって元となったラワとはなんだったのか、そしてそれがどう取り込まれていったのかを追う形で記すこととする。

17~19世紀におけるコサックのラワとその変化

 本章では「17世紀~19世紀の」ラワとは何かを記したものに絞って記述する。

【G.Gushの説明_フォーメーション】

 ルネッサンス期の戦史本で知られるGeorge Gushが1970年代にAirfix Magazineに掲載した記事の第22&23講はモスクワ(ロシア・ツァーリ国)の軍に関するものだった。その「コサック」の項の後半に次の説明が載っている。
「彼ら(コサック)はシンプルな十進数の組織を百人や千人の中で運用したようで、そして会戦においては『ラワ』の3つの三日月の戦列を形成し、敵側面を脅かした、さらにタタールやその同類の敵に対しては防御のために荷車の車列を巧みに活用した。砲と荷車は2つの並行する縦列で進軍し、そして(自分たちが)攻撃を受けた際は車を動かして1個のトライアングル型の荷車を鎖で連結した車陣または『ターボル』を形成したか、或いはひっくり返して土を積み上げることさえした。」
 Gushの文では「ラワの」という語が「三日月の戦列」という所にかかっているようなので隊形に思える。同時に戦闘編制が十進数で細かく分かれて構築されていたことが書かれている。ラワにおいて、隊形と編制は絶対的な定型ではないが、密接に相関しているものである。

【ラジン少将の説明_フォーメーション】

 ソ連で同じように短いラワの説明を昔にした研究者がいる。エフゲニー・アンドレーヴィチ・ラジン教授(少将)だ。ラージン少将が1955年から出版した3巻に渡る『兵術史』は中世~近世戦史概説を非常に精密な絵図と共に記したもので、ソ連/ロシア国内の戦史解釈にはかなりの影響をもたらした。多くの戦史イラストの元を辿るとこの本に辿り着くだろう。本稿のタタール/コサック・ラワも同じだった。
 lava_Razin
 ラジン少将の『兵術史』第3巻第5章はウクライナの1648年~1654年解放戦争と題され、日本ではフメリニツキーの乱として知られる戦争でのコサックの軍事行動と戦術を解説している。その第2項に「ラワ」についての短い解説が載っている。
 それによればコサック騎兵は攻撃の際通常「ラワ」を展開した、ラワとは1つの戦列であり婉曲した各翼を持ち、敵部隊の翼を覆ってしまうためのものであったという。これ以外にその書籍内に解説は無く詳細には踏み込んでいない。
 2004年発行のスラブ百科事典17世紀範囲(Славянская энциклопедия: XVII век в 2-х томах. A-M. Том 1)のp.641ではラワについて短い説明ががあるが、これはラジン少将の『兵術史:第3巻』のイラストがそのまま使われている。

 Gushとラージン少将の解釈は、包囲攻撃になりやすい性質をもった両翼が前に出た形の隊形で騎兵が攻撃しに前進することを17世紀のラワだと捉えている。ただこれらの記述はあまりに簡素化されており、より詳細な説明を求める必要がある。

【ドン・コサックの『変革』の論文】

 18世紀以前のコサックの戦闘を詳しく調べた資料として、1995年出版の『ドン・コサック 小論集 part1』がある。この論集が歴史的な変遷を含む調査の最も素晴らしいものだった。第4章(著:А. В. Захарьевич, Р. Г. Тикиджьян, А. П. Скорик, А. Г. Лепиловがドン・コサックの戦争について書かれておりそこにラワが載っている。

 17世紀のコサックの戦闘方式において、彼らの主たる戦闘フォームがラワと呼ばれる戦術的フォーメーションであったとまず述べられている。そしてラワは1列のシステムであり、それを運用することによって、コサックたちは敵を捕捉し全周から攻撃を確実にしようとしたという。最初の攻撃に続く戦闘は基本的に個々の兵士又は(小規模)グループでの戦闘オーダーで実施された。彼らは各々が個別の戦闘部隊として独立的な行動を取ることができ、責任を負っていた。脆弱点として、この分散性はインパクト力そのものは減少させるし、もし後退に彼らが移らねばならなくなったら深刻な問題となったと指摘されている。
 つまりここでのラワとは、散開的かつ半独立的行動を実施するように部隊を編成し広がって戦闘配置につくことを指す。
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< 図12:コサックの軍事技法_17世紀前半のラワ >

 更に興味深い話がその次の段落にあった。その脆弱点を部分的に補うために、コサックは別の伝統的なやり方を実施することがあったというのだ。それは古き遊牧民(書籍内ではモンゴル・タタールと書かれている)までさかのぼることができる兵術であった。それこそが(偽装退却からの別動隊による)伏撃である。この戦術的技法とは、逃げるコサックの部隊が敵を別のコサック部隊が伏せられている場所まで誘引していき、突如として敵の側面や背面までも含んだ打撃を行うというものだ。このマニューバを実施するためにコサックは時にその戦闘域を1~1.5㎞まで広げた。敵はコサック主力による奇襲的打撃を行える極めて有利な場所へと釣りだされたのである。(図13)
 以上がコサックがラワの欠点を補うために実施した「別手法」の話として書かれている。つまり本論文が述べる所において、17世紀のラワとは偽装退却からの包囲戦術を指すものではなかったなのだ。最初の接触時において、ラワに編成された部隊は基本的に薄い横隊形を攻撃時に取り、そしてそれが有する性質としてハラッシングや(能動)包囲攻撃への連続性があった。また、ラワ編制には後退時に立て直すのが難しいなどの脆弱点があり、それを補うため(むしろ逆手にとって)「別の手法である後方伏兵地点での(受動)包囲戦術」の成功につなげるための誘引にラワの部隊はなった。即ちそれらは別個の要素であり、会戦内で組み合わせられて1つの戦術を完成させたのである。
 包囲戦術は17世紀のラワから最も繋げやすい又は効果が大きいものであり、20世紀に包囲までがラワに内包されるようになったのは恐らくそれが原因だった。
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< 図13:コサックの軍事技法_Вентерь=網の奥におびき寄せる釣り具と書かれている。 >

 更に調査は歴史的推移に続いた。1802年までドン・コサックの各兵力は各アタマンは有力者ごとにそのオーダーが決められていた。服も伝統的なものを各々が着ていた。その近代化改革に帝国が着手し始め、1801年から統一制服をコサックに導入させ始めた。ドンコサック軍制改革(Положение о военной службе донских казаков)が1802年2月25日に発行され変わっていった。将校の数なども連隊ごとに定められる中、戦術や部隊構成が形作られていったが、コサックのそれは通常の帝国軍騎兵部隊とは同一のものではなかった。ドネツク連隊の戦術は多様な人々の戦闘技法の奇妙な混成であった。そこにはコサックもその歴史を通して加えられていた。コサック連隊そのものにはまだはっきりとした統一的オーダーが欠けており、訓練も当時の西欧の騎兵隊とは異なるものだった。例えばそれはコサックの戦術的手法、『ラワ』に僅かな変化があったことにも現れていた。
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< 図16:コサックの軍事技法_18世紀末~19世紀初頭のラワ_第1衝突フェイズ>
図16-а:行軍から戦闘用フォーメーションへのコサック部隊の展開
図16-б:敵の攻撃を受けた際のコサック部隊の反応


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< 図16:コサックの軍事技法_18世紀末~19世紀初頭のラワ_第2衝突フェイズ>
図16-в:再グループ化と再攻撃での包囲

 論文の後半ではコサック部隊の編制とその改革、訓練を記した上でロシア軍が苦しんだことが書かれている。主にコサックの自主性文盲率の高さなどが影響し、彼らの中に統一性を作ることも戦闘統制を執ることもとてもつもない困難だった。例えば戦闘に勝った時コサック部隊は勝手に追撃にでて3日後に帰ってくるなどといった話が書かれている。更にコサックの多くの村は徴兵問題、年齢問題も取り上げられている。それでも19世紀には数多くの戦争をロシア帝国はしており、かなりの数の若者がコサックの生活を長期間離れて「帝国の軍事方式」の訓練を受けることになった。本論文はそれらを分析した上で、ある結論を書いている。
「明らかに、ロシア帝国軍の軍務クラスとしてのコサックの編制は、その規格化統一化の過程の中で、最も重要なオリジナルに樹立していた軍事的伝統の喪失へと導いた。」

 ポジティブな面とネガティブな面をコサックの戦士にもたらしながら近代的兵士への変化はゆっくりと漸進していった。
 ドン・コサックにとって1820~30年代の訓練と生活の改革は非常に重大だった。これを受けた後、コサックの若者たちはもはや『лава(ラワ)』とは何か、『батование(駝城)』とは何か、『вентерь(誘引からの伏撃包囲)』とは何かの知識を喪失していた。アトマンの1人デニソフ(А. К. Денисов)は19世紀初頭のコサックの軍務と生活に関するトランスフォーメーションのために教範や訓練のアイディアを出した重要人物であった。彼はこれらの近代化改革と同時に『地下でおし進める』軍制改革を考えていた。彼は近代化と規格化されていくドンの兵士たちに、新たな状況に合わせ更に彼らの伝統的軍事手法を取り込ませて、戦闘手法に関する祖先の最高の知恵を『再生』させ若い世代に保存しようとしたのである。彼らはドン軍規則の草案作成に(それを盛り込んで)着手した。
 1835年に『ドン軍の管理規則』(Положение об управлении Донского Войска)が適用されると、軍の1組織としてのコサック連隊の戦闘能率は著しく上昇した。だがそれと同時にコサックの生涯は完全に変質した。連隊数は80から54へと削減された。1838年に『コサック連隊の構成と組織に関する規則』(Правила для состава и построения казачьих полков)が導入されたことが決定的な契機であった。今や全てのドン・コサックはシステマチックに訓練をドン訓練連隊の中で受けるようになっていったのである。その後1874~75年のドンコサック兵役関連規則の発行へと繋がっていく。これらの改革はコサックの人々にすんなりと受け入れられたわけではなく、大きな苦難を帝国政府にもコサックにももたらした。これは単純な軍事改革ではなくコサックの生活様式、文明そのものの変革であった。その中で乗馬の伝統は減っていった。

 ドン・コサックの軍制改革第3フェイズはクリミア戦争後の1860年頃に始まり、WW1まで続き終結した。1883年に士官候補生学校がノヴォチェルカッスクに造られると、ドンの富裕層は子供たちを送り込み教育させた。階級が整備されロシア帝国内の西欧からの影響と共に、コサックは服も生活も武器も戦闘方式も変わっていったのである。

 以上がドン・コサック小論集に書かれていた要旨となる。本論集はラワを巡る混乱をこの上なくクリアにしてくれた。重要なのは変化、それもコサックの生活/文化/知識を含む変質が帝国に取り込まれていく中で起きていたことである。それは喪失であり復活であり適合であった。
 その成果が20世紀初頭に記された操典のラワの軍事概念なのである。伝統を残し、しかし同一ではなくより軍事的概念として包括的で洗練されたラワは、機甲の時代ですらその有効性を認めることができるものに「成った」のだ。

再考:ロシアの辞典における20世紀のラワの書き方

 上述のロシア語資料、特に1912年操典とドン・コサック小論集を踏まえた上で、ロシア/ソ連の辞典の記述を見てみる。

【 フォーメーションであり且つ戦術的行動 】

 1911~1915年出版の軍事辞典(ロシア語)や1979年版ソ連軍事辞典、2004年ロシア大百科を読み比べた。内容は20世紀に絞られており、前世紀の変遷は記されていない。長さに差異はあれどどれも似通った記述となっていた。
 これらの解釈はどれもラワとは、前方に散開的に部隊が配置され、後方には(より密集した)支援部隊がいるフォーメーションで攻撃することであった。また20世紀のラワにおいては前方に広がって展開する複数の部隊の後ろにはサポート部隊が編成された。サポート部隊の規模は状況に依ってはかなり少なくなったようだ。これらによって包囲や追撃あるいは敵後方の襲撃など戦術的行動が執られた。
 例えば中隊がラワを編成する場合、それは前方部隊と支援部隊に別れ、前方部隊には1~4個小隊が割り当てられたことはどれにも書かれている。基本的に後方部隊には1個小隊は配分されたようだが、それ以下になる場合もあった。前方部隊は分隊規模の幾つもの部隊で作戦行動を執った。1979年辞典と1915年辞典ではその各分隊が中隊からの指揮によって同時に(或いは順次に)散開したと記されている。また他の規模、例えば連隊でもラワは実施された。
 これらの記述は明らかに1912年操典またはそれを参照とした資料を基に書かれている。部隊数と呼び方がそのままなのもそうだが、文中に明確に1912年という年度言及があり、ほぼ確定だろう。最も長く充実していた1915年軍事辞典には末尾に1912年操典の名が明記されていた。

 しかしどれも決定的に1912年操典とは概念的解釈が異なっていた。全ての辞典で戦術的な要素の記述は少なく、全体で見ると散開的かつ独立的に行動できる複数部隊のフォーメーションの総称がラワのように辞典は書いているのである。
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 ただし戦術的あるいはマニューバとしてのラワの性質があることも各辞典に残存していた。
 2004年版ロシア大百科事典は最初にラワがフォーメーションであることを書いているが、(友軍)騎兵の集中攻撃の前に敵を乱すためや掩護、追撃のためにラワは戦闘を実施すると記され、ラワ隊形の持つ性質として副次的に言及されている。
 1979年辞典でも具体的な部隊配置などが書かれているが戦術的行動がどうとられるかの記述が少ない。ただし一番最初に「ラワは隊形であり且つ戦闘行動の手法」であると書かれている。
 1915年軍事辞典でも同じだ。ラワは隊形である、という文章の直後に「もちろん、ラワは騎兵のある特定の行動でもあった」と並記されている。1915年辞典は最も長く、敵の側面攻撃、包囲のために動くケースが明記されている。
 ラワにおいてはハラッシングと包囲、追撃が戦術的タスクとして重要であり、特に誘引からの包囲を散開性から密集性へのトランジションを伴い行われる戦術は非常に高度なものとなっている。ロシア軍はラワから導びかれる包囲を重要視しており、それはかつてのコサックと同じだった。
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 また、これらにはラワの使われた戦争についての記述もある。2004年百科事典は1917年~1922年に赤軍と白軍共にラワを広く使ったと記しており、1979年軍事辞典ではWW1においてラワはあまり実戦では使われず、その後の内戦で両軍によって使用されたとされている。その後の自動機械および兵術の発展で「騎兵における」ラワは放棄された。
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 以上のロシアの辞典に載る記載は、最初読んだ時中途半端なものに思えた。だがこれまでの各解釈の差異と変遷を踏まえて読み直すと違った感想を抱いた。1912年操典という「ラワはフォーメーションではなく、戦術的行動概念」と断言している軍の最重要資料を踏まえた上で、辞典は「フォーメーションであり『且つ』戦術的行動ともとられる」ととれる書き方をしている。それは曖昧で軍事的考察をする上で混乱を生むものだが、歴史的背景を踏まえると間違ってはいないのだ。17~19世紀のラワはフォーメーション的ニュアンスであり、しかし戦術的性質も密接に繋がっていた。20世紀のラワは戦術的行動になった。これらをまとめて書くなら、確かに「フォーメーション且つ戦術的行動」だった。

暫定の結論

 ひとまず歴史資料の調査はここまでとする。
 実は日露戦争前後のラワに関する専門研究は下記2書籍が当時編纂されており、最も参考になると予想されるのだが入手できていない。これらを基にして書かれたサイトはあるため記事末尾にリンクを載せる。内容はラワとはフォーメーションであり、包囲やハラッシングの戦術的性質を有していたという解釈である。

 『Караулов Н.А. Казачья лава, и ее современное значение. СПб. 1912. 』
 『Миткович В. Казачья лава. СПб. 1898.』
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 今回調べた所、各国の著者ごとにラワの着眼点は違い、フォーメーションか戦術的行動かすら解釈は別れるという結果になった。だがその背景を推察できるだけの資料は見つかった。

 ロシア帝国軍及び内戦期のラワの源流はコサックにあったが、それらは同一のものではなかった。ラワは時代ごとに変質したのであり、コサック内部ですらその生活文化が帝国の近代化に取り込まれる中で知見喪失に近い事態を経ており、帝国軍の中で『ラワ』と呼ばれる古のものとは違う同じ名前の軍事概念へと到った。少なくとも17世紀のラワは誘引からの包囲戦術とイコールで結べるものではなかったし、ロシア帝国軍においてもより包括的な概念と捉えられている。ラワから導かれるマニューバの多様なバリエーションの中の1つを抽出し、例えば誘引からの包囲戦術をラワと呼ぶのは、完全に間違いというわけではないが、ラワの事象全体を表してはいない。

 つまり最も適切と思われるのは、ラワを時代ごと(恐らくコサックの近代化が進んだ19世紀)で分けた話をすることだ。

 ラワとは17世紀から20世紀の如何なる解釈においても、フォーメーションと戦術的行動の2つの性質が密接にリンクし、しかし確定したフォームではなくバリエーションを有するものであった。ある特定の編成、隊形が戦術的行動とリンクしている(されど絶対でない)というのは他の近世軍事史の事象でも見られる話だ。ただ実戦運用のために注視しなければならない事項にはその時々で偏りがあり、おそらくコサックの17世紀のラワは包括的フォーメーションを主体とした概念だった。兵器技術及び訓練制度が発達していき、20世紀初頭に兵士の散開性は大きく拡張され、ラワはフォーメーションとしての軍事的意義が薄まっていった。そうした中で末期ロシア帝国での導入に於いてラワは戦術的行動へ焦点が移った。

 それがラワそのものとは言わないが、歴史を通して見られるその特徴は、独立的な判断をできる各小規模部隊が、散開的に広く展開し、指揮官の意図(目的)への最終的統合ために各々行動をとることだ。これは1912年ロシア帝国騎兵操典で最重要視されている箇所でもある。ラワはこの性質を基盤として、広く散開した部隊が独立的な判断によって柔軟に戦闘と後退を含む移動を実施し、ハラッシングや誘引そして包囲という様なマニューバへと繋げた。それは遊牧民やロシア帝国そしてソ連の一部の部隊が恐るべき戦果を挙げた背景の1つであったのだろう。










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 ここまででラワの歴史的語意に関する調査の記述を終えます。
 長い記述を読んで頂きありがとうございました。
 本サイトはあまり話題にならない軍事的事柄を調べるきっかけや叩き台になればという思いで作成しています。本拙稿が今後調べられる方々の手助けや省力化に役立ってくれたら幸いです。もし良ければ新たに見つけた資料や意見を教えてください。
 2020年8月8日 戦史の探求







 以下はラワの話はなく、その話の中に出て来た軍事的要素の簡易的な考察です。

独立性ある散開

 ラワの文脈で軍事的に大いに着目すべきなのが、各小規模部隊が散開的に広く展開し、1つの(指揮官の)意図に向けて各々が独立性ある行動をとり最終的に統合的結果を生もうという姿勢である。

 これは1912年騎兵操典で明確に強調されている概念であり、20世紀の各国の挑戦と比較しても興味深い。この姿勢はドイツのAuftragstaktikや現在のミッション・コマンドが重要視する要素の1つだ。ロシア/ソ連の兵士が個の能力や自主的判断力で劣っていたという主張がドイツや米国では少なからずあるが、それは総体的印象論に過ぎず、多様なロシア/ソ連軍の実情を示してはいない。1912年騎兵操典の内容を全ての部隊が実現できたとは言わないが明確に試みられていた証左となっている。これを一部は実践できていたし、それはソ連でも同じだった。
 例えばソ連の渡河作戦参考書でモデルとされることもある第65軍は、WW2の各種の作戦で独立的判断力を発揮し迅速かつ柔軟な行動を実践していた。第65軍司令官バトフはその回想記録で、上級の方面軍司令官だったロコソフスキーによって第65軍は「自主性を尊重され」、それのおかげで「育成された」と感謝を述べている。その集大成であるベラルーシ攻勢(バグラチオン作戦)において、ロコソフスキーの方面軍麾下に第65軍は置かれ、最初の包囲に続く縦深突進で大きな戦果を挙げた。ロコソフスキーは「上級指揮官の意図を達するために、各部隊指揮官は自主的な判断を行う裁量権を与えられるべき」と考える1人であり、自分の部下への指揮の際にそれを意識しており、また自分の上官にもそれを期待していたフシがある。1941年の後退戦の時点で明確にそれに挑戦している。彼のマニューバラブル防御は各部隊が広く展開し柔軟に行動することを試みており、自身の上官からの細かい指示の厳守を嫌がっていた。

 近代の軍事的発展の1つは、散開性と独立性の飛躍的向上にある。機器技術や訓練手法が発達して身に付けられたこれらの要素によって、戦術的な柔軟性と即応性そして戦闘領域は驚異的な水準に達した。
 近代以前にも同種の試みがなされていた実例がラワであり、もしかするとその発展の礎の1つとなったのかもしれない。

翼閉と散開に関する一考察

 1912年操典で言及される翼閉自体を、誘引からの翼包囲と考えると特段珍しい戦術ではない。ただここで焦点にしなければならないのは、散開→戦力集結の流れが複雑なマニューバの中に組み込まれていることだ。散開状態から戦闘を開始し、発散方向へ移動し、散らばっていた戦力が各地点に集結し、方向を転換し、タイミングを合わせ敵の外翼をとる…この一連の流れを戦闘をしながら実施する必要がある。しかも個人の無線機器など無い状態でだ。敵は移動方向だけでなく行動そのものが多様なパターンを取り得るため、散開状態からの発散方向移動と集結地点は、状況に合わせ臨機応変にしなければならない。
 散開と戦力集結のシフトを如何に適時に適地で行うかは、兵術発展史の大きなテーマである。ラワでの翼閉戦術は単純に固まった部隊の誘引包囲戦術だけでなく、戦闘中の散開と集結が組み合せられていることでとてつもない難易度になっている。散開部隊がただ誘引のタスクだけを担っているなら、格段にシンプルになる。しかしラワの翼閉の場合、散開部隊は誘引をした後に更に集結して打撃主力のタスクを担う。2つの連続したタスクの実行を独立的な判断でタイミングと位置を見極める翼部隊指揮官の手腕、散開状態から適切な移動をして集結し即時反転する各兵士の練度、全体の形と事前に必要な最低限事項を定め且つ自由度を残した命令を発する統括指揮官の広い視野…あらゆることが驚異的な水準でなければこれは成し得ない。中隊までなら所掌範囲が小規模にできるのでやれるかもしれないが、これを連隊あるいはそれ以上の規模で実行するのは、あらゆる戦術の中でも最も難しい類のものだろう。
 誘引からの包囲だけでなく、散開と集結そしてその部隊が打撃するという戦術を実行した事例は少ない。Corotneffはドイツ軍がやっていると述べたが、ガザラの6月13日戦闘は散開部隊が打撃へとシフトしたと言うのは少し違うため、この戦術に該当すると断言できない。散開戦闘訓練と技術的近代化の洗練が進んだWW2は実際やれる部隊はあった。またそれ以前の時代でもごく一部の部隊が実践したふしがある。これを取り上げてみることとする。
(追記します。包囲関連の別記事にする予定です。)
 
 




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【参考文献】

鈴木 淳一, (2013), "В. В. コージノフ『19世紀ロシア抒情詩論(スタイルとジャンルの発展)』翻訳の試み(3)"

帝国在郷軍人会本部 編, (1939), "ソ軍常識"
国防研究会 編, (1943), "戦術学要綱"
(1912),"кавалерийский устав 1912 г., ч. II, прил. I." ※1912年露国騎兵操典附録
Nicholas Corotneff, (1944), "The Cavalry Journal" 1月‐2月号

George Gush, (1970s), "Rennaisance Warfare", Airfix Magazine
http://home.mysoul.com.au/graemecook/Renaissance/22&23_Muscovites.htm

Luri Kopisto, (2011), "The British Intervention in South Russia 1918-1920"
Stephen Brown,  (1990), "The First Cavalry Army in the Russian civil war, 1918-1920"
Robert D. Williams, (2014), "The Tsarist Army of 1914"

エフゲニー・アンドレーヴィチ・ラジン少将, (1955), "兵術史, 第3巻"

Владимир Вольфович Богуславский, (2004), "Славянская энциклопедия: XVII век в 2-х томах. A-M. Том 1"  

А. П. Скорик, (1995), "Казачий Дон. Очерки истории. Часть I", 第4章

(1912~1915), "軍事辞典"
(2004), "ロシア大百科事典"
(1979),"軍事辞典"

・lavaがタタールのoblavaの略語だと主張している文だが出典が不明。
http://www.wilnitsky.com/print/7/4/8/7488_scan16.pdf
ナポレオン関連戦史の大手サイトでも同じ文が使われており、恐らく上記が元。
http://napoleonistyka.atspace.com/cossacks.htm

・帝国末期のラワに関する専門研究は下記2書籍が当時編纂されており、最も参考になると思われるのだが未入手である。
 『Караулов Н.А. Казачья лава, и ее современное значение. СПб. 1912. 』
 『Миткович В. Казачья лава. СПб. 1898.』
 ※これらの書籍を参照して短く書かれたロシア語サイトは次のものになる。ここから内容はラワ=散開的な横隊形/戦闘オーダーとして捉えるのが最も一般的ということが伺われる。そして性質として包囲や掩護、ハラッシングがあった。
・ロシアのサイトやフォーラムの片隅で僅かながらラワの話は上がっている。
http://wap.kazaki62.unoforum.pro/?1-16-30-00000002-000-0-0-1361964164
 コサックの伝統、歴史及び権利を保護すると謳っている政治団体がそのサイトでフォーラムの投稿をコピーして記事にしている。この団体は検索にかかりやすいが、ロシアのナショナリスト系軍事/政治団体でありプロパガンダには注意が必要である。
http://ksovd.org/pages/about.html
 ロシア語のサイトでは下記にいくつかの情報がまとまって書かれていた。
https://kinotyr.ru/kazachi-chasti-v-gody-velikoi-otechestvennoi-voiny/

 ドン・コサック小論集にまつわる話で、これは軍事理論というより歴史家向けだが、ドン・コサックが騎兵を主体としていったのが確認できるのは17世紀のことであり、かつて歩兵主体であったこと、それがいつ騎兵化したかは未だに確たる結論に至っていないという興味深い話が書かれている。(騎兵部隊の記録はある。15世紀に騎兵でなかったと言っているのではなく、ドン・コサック全体の騎兵化は恐らくしていたがその証拠がない)よってコサックの戦闘スタイルの話しは17世紀からのドン・コサックを扱っている。