ローマ内戦において2人の優れた軍指揮官が衝突しました。1人はガイウス・ユリウス・カエサル、恐らくその名はローマ史のみならず全歴史上最も知られています。もう1人はグナエウス・ポンペイウス。マグヌス(偉大なる)という尊称と共に呼ばれる彼は若くしてローマ史上屈指の軍事功績を挙げ、強力なコネクションを地中海全周域に持つ人物でした。
 一般的には『内乱記』に依拠したカエサルの視点を軸に軍事推移を説明する方が多いですが、本稿は「カエサルの敵」側に比重を置きポンペイウス及び元老院が何を計画し行動に移していったかを記すこととします。そしてポンペイウスの軍事計画を理解することは、カエサルが(時にギャンブルと呼ばれるほどの)リスクを冒した作戦行動をとった理由を説明することに繋がります。2人の計画と行動は合理的で、会戦での戦術のみならず戦略‐作戦の領域で各個たる意味を持っていました。戦略上の位置づけを把握することは、2人のとった幾つかの戦術的行動に関する疑問への回答ともなると思います。

 Sheppard(2006)は 2人の対決を専門に扱った書籍の副題を『巨神たちの激突(Clash of the Titans)』としています。まさしくポンペイウスは絶大な力を持ち、カエサルへ最大の敵として立ちはだかりました。本稿は両者の合理性と作戦失敗へ到ったその背景をポンペイウスを主眼に記していくこととします。
Pompeius Strategy

______以下、本文___________________________________
 ポンペイウスの対カエサル軍事戦略は単一のキャンペーンや会戦だけでなく、地中海周辺全域の活動で捉えて初めてその意味が見えてくる。この戦争は地中海を支配する巨大国家の内戦であり、彼はそれをフルに活用することができる唯一の人物だった。ポンペイウスはそのネットワークを使い直接的/間接的にカエサル軍に攻撃を加え続けた。だが元老院の多くは彼と同じ軍事的視野を持てることはなく、そして広大な領土と市民を戦渦に巻き込むこの方針への良心的及び利権的観点から反発をし続けた。ポンペイウスの戦略は非常に合理的であったが同時に冷徹で、最終的に崩れ落ちた。なぜ彼の戦略は崩壊したのか、本稿は彼の「2つの戦い」からそれを説明するものである。
 まずイタリア戦役、一般的にカエサルが圧勝したとされるキャンペーンについて、その戦略的位置づけから軍事的意義を再考し、続いて次稿ではバルカン戦役を同じく戦略‐作戦の中でどう解釈すべきか記述する。

1. ポンペイウスの地中海基盤

 "Pompeius's whole career shows that he had the finest conception of any leader in antiquity of Mediterranean strategy as a whole."
[Pocock, p.69より抜粋]
___________________________________________

【東西南北への遠征、基盤の設立と地中海による接続】

 ポンペイウスの広大な戦略の基盤には彼の長い戦歴で培った知見とコネクションがある。ポンペイウスの戦闘経験の豊富さはローマ史上でも屈指のものだ。若年期にはスッラの命でシチリア、アフリカと連続で攻撃と航海及びロジスティクスを体験している。重要なのはスペイン(イベリア半島)でのセルトリウス戦争を経験できたことだ。若き司令官だった彼はここで戦術的敗北を幾たびか味わいながら「同じローマ人を相手取った戦争」を学び成長していった。そしてセルトリウスのイベリア逆襲史は海軍力と密接に関わっていた。海上及び沿岸部の脅威の主体は地中海海賊で、彼らはセルトリウスとミトリダテースとの同盟関係によってローマを相手に力を発揮していた。シーパワーは地中海世界を掌握するために必要不可欠の重要事項であり、ポンペイウス以上にそれを理解していた者はローマにいなかった。[Pocock, p.71]
Pompeius_Wars
《 ポンペイウスの前82~前63年の主要戦歴 》

 セルトリウス戦争、地中海海賊掃討戦、ミトリダテス戦争は繋がりがあり、連続した(一連の)諸キャンペーンと解釈される。後者はポンペイウスの基盤を強く東方に刻むことに繋がった。加えてセルトリウス戦争及び内戦直前のヒスパニア総督職獲得で西方にも強力な味方を置くことができ、それらを地中海に跨る海軍力が接続していた。

 前1世紀の史料は殆ど例外なく、前67年ポンペイウスが異例の命令権を得て海賊討伐を行ったことで地中海における海賊問題は一応の決着を見たとしている。[宮嵜, p.110]
 広大な地中海の海賊(特にかつてアントニウスの失敗した東部のキリキア海賊)を討伐することにポンペイウスは成功し、しかもそれが異様に迅速であったためイタリアでの彼への支持は絶大なものとなった。そのおかげで連続して行われたミトリダテス戦争において、彼は好きに戦争を行うことも平和を締結することも、また周辺諸国と同盟締結あるいは敵対決定を行う外交権限すらも与えられた。[アッピアノス, 96節,97節]

 前1世紀前半の海賊問題は、当時ローマ社会に影を落としていた幾つかの出来事と関連して取り上げられる。その出来事とはまず東方でローマ進出を阻害し続けたポントス王ミトリダテス6世との対立であり、次いで属州ヒスパニアのセルトリウスの反抗などの西地中海の様々な不穏であり、彼らが海賊と協力関係があったことを複数の史料が示している。そしてその両方と結び付けられるのがローマ住民を脅かした食料不足の問題である。[宮嵜, p.110、p.112]

【イタリア食糧問題に重大な影響を及ぼしていた地中海情勢】

 食糧問題はポンペイウスと言うより国家としての共通課題であった。まず当時のイタリア社会の経済事情は食料以外も含め輸入に相当依存していた。ローマでの都市発達と人口増加に見合う穀物供給がイタリア本土では不可能になっていたからだ。(ただし前1世紀には人口増加は行き詰まり、海外植民もありイタリア本土は減少すらしていたとするScheidelの2006年の論説などがある。[明石, p.6]穀物輸出地については、かつてはイタリア本土またはシチリアからの現地供給が最も重要であったが、共和制末期には海外属州特に北アフリカエジプト最大の供給地となった。ただしシチリアが完全にその地位を譲るのは帝政期になってからである。[相川, p.3]
 元老院議員などの有力者は土地を買い占めたり不法に入手して大土地経営を有利に行った。そしてオリーブやブドウなどの『商品作物』を生産させていたのである。また、戦争でローマが勝利し続けたことにより属州領土または属国が拡大し、そこから大量の生産品が入ってくるようになった。シチリアからは直接税として多量の小麦がローマに流入し、他の属州からもイタリアより1/2~1/3の安価な穀物が輸入され、中小農民は決定的に圧迫され、今までの小麦栽培からブドウやオリーブまたは牧畜業に代わらざるを得なかった。そうしても尚、先行資本を投入し広大な土地で奴隷も使いできた大土地所有者に対し、中小農民は生産性の点で勝ち目はなかった。とうとう奴隷になる者や農業を捨てる者や土地を売り払う者が続出し無産市民となっていく。こうしてローマの領土拡大につれて必然的に大土地所有領の商品作物が増大し、中小の自営農民層は減少していく。[富貴島, p81~.82]
 主食穀物の生産を手放したローマは地中海ネットワークによる輸入なしには成り立たなくなっていたのである。
 (※この構造的変化はローマの軍制に影響を与えたとされるが、これは広く知られる理論なので割愛する。
 ただし1965年のA.J.Toynbeeに代表されるイタリア衰退モデルは近年批判も出てきている。特に共和政期においてラティフンディウムと奴隷制villaの関係性に修正を加えるべきと提唱した鷲田(2016)の論考では「
『ハンニバルの遺産』で主張されたような前 2 世紀以降のイタリア半島の混乱・ 衰退局面は、その後の考古史料の増加により疑わしいものとなっており、全体的傾向としての奴隷制ウィッラの増加時期は、前 2 世紀ではなく前 1 世紀であるとの評価が近年では一般的になりつつある 。ウィッラ・システムの展開の地域差は極めて大きく 、画一的なラティフンディ ウムの進展などは共和政期には起こっていない」「(前一世紀ウィッラ進展の)その評価もイタリア農業の破綻を示すものとは言い難い」と記されている。(鷲田, pp.173~177)
 グラックスの農地改革の意義と目的は昔から歴史家の間で議論が続いている。近年はティベリウス・グラックスは大土地所有問題を誇張したり、彼の目はローマ中小農民のために向けられていたのではないとする主張がされてきている。徴兵忌避も含め、
徴兵可能数の減少は総人口とは別のものと把握することが理解に役立つだろう。Claiborne(2011)を参照。
 マリウス軍制改革の背景とかつてされていたこのモデルについて英語圏最大手ローマ史サイトの1つImperium Romanumの記事では、近年の研究者達はグラックスが大土地所有問題を誇張したという意見で一致していると書いている。
https://imperiumromanum.pl/en/roman-army/marian-reforms/
 マリウス軍制改革論が私兵化を強調しすぎており、市民兵の側面の再評価・修正については砂田(2018)で触れられている。)


 そのような経済体制であったので、輸送網の安全確保は国家的優先事項となっており、これはポンペイウスの強力な権限の後押しとなった。
 前67年ガビニア法が通りポンペイウスは3年間、地中海上の全域と岸から内陸へ74㎞の範囲の沿岸全域における軍事指揮権を認めるというローマ史上最大規模の非常時大権を得た。これにより地中海の海賊討伐に乗り出したのである。ポンペイウスはわずか3か月で海賊討伐を完了させることになるが、その後も軍を手放さず次の戦役へと移行した。[相川, p.6], [Seager, p.42]

 ポンペイウスはしっかりと準備をしてから行動に移したことが記録されており、名声に加えてその充実した準備が多くの海賊を戦わずに降伏させる原動力となった。例えばキリキア海賊の最大の要塞も戦うことなく獲得している。[アッピアノス, 96節] これらは簡単なことでは決してなかった。海賊はその移動性や隠蔽性、分散性があったためローマは相当長きに渡って苦しみ度々対策に乗り出しそして失敗している。ガビニア法ほどでは無いが前74年に同種の大権を与えられたアントニウス・クレティクスが海賊討伐を試み、そして全くの失敗に終わっている。また彼の父も前102年に恐らく海上と陸上両面での海賊討伐戦を行ったが成果を挙げられなかったとされている。[Seager, p.43] ポンペイウスの直前にルクッルスも長期間の東地中海展開権限を得て海賊を倒している記録があるが、これはどの程度討伐したかが判明していない。 [宮嵜, p.115])
 こうしたポンペイウスの準備の巧みさと偉業はキケロによる賞賛の演説にまとめられている。

「このようにして、あまりに長きにわたりあまりに遠く且つ広大な各所に散らばりあらゆる民と国々が苦しめられていた大戦争は、ポンペイウスが冬の終わりに準備をし、春の始めに実行に移し、そして夏の中頃に完了させたのである。」
[キケロ, De Imperio Cn. Pompei, 35節より抜粋翻訳]

 続く東方遠征(第3次ミトリダテス戦争、シリア、ユダヤ)において、彼は成長し論理的な術策を身に着け圧倒的な結果を出した。ポンペイウスは都市建設を含め、東方領域の巨大な戦略的重要性と自身の特殊な立ち位置を理解していた。[Pocock, pp.70~72]
GDP estimation of Rome_AD14
《後14年のローマ各州のGDP推定 ※東部が圧倒的なシェアを持っている。内戦は半世紀以上前だが資源的価値は当時既に高かった。
https://nephist.wordpress.com/2014/01/27/the-challenges-of-updating-the-contours-of-the-world-economy-1ad-today/
 この東部領域の人的かつ資源的比重の大きさは後の内戦におけるポンペイウスの位置取りを考える上で欠かせない要素となる。
__________________________________________
 海賊がいなくなり東西勢力圏が安定化しても食糧問題は重くローマにおしかかっていた。故に前57年、ポンペイウスは地中海全域における穀物供給に対する命令権を5年間与えられ、食料の供給と輸送への責務を負うことになった。これは一定期間、私的な穀物商人と契約し、穀物供給に関与した商人および船乗り対してローマ市民権を付与すると約束するものであった。ポンペイウスはこれにより陸海運と農業生産の全てを手中に収め、主要地に部下を派遣し自らもサルディニア、シチリア、アフリカなどを巡りイタリアへの穀物供給任務を成功させた。[相川, p.6] かつて穀物を巡りアントニウス・クレティクスや幾名もの議員が非難を浴びた横暴な収奪や腐敗にこの時ポンペイウスが陥らなかったことも特筆に値する。[キケロ, Ver, 3巻90節,91節]
 内戦においてポンペイウスはロジスティクス面で優れた管理者でありリソースを得るコネクションも持っていたが、それはこれらの経歴によって積み上げられた。

 その前の第3次奴隷戦争では、クラッスス麾下の軍が主力を壊滅させたので、残存戦力がガリア方面に逃走するのをポンペイウスは察知して軍を準備し封鎖と追撃を行った。これはよくクラッススの手柄を横取りしたと言われはするものの(実際主功労者として称えられるべきはクラッススなのだが)完全に逃げられてしまっていた敵兵力を別方向から追撃して捕捉した軍事的価値は軽視されるべきでない。またこの残存追撃の価値は内戦におけるカエサルとの対決で重大なテーマの1つとなるため、この時のポンペイウスの行動は記憶に留めておく意味がある。

【凱旋と軍務から離れた時期】

 しかしポンペイウスはそれらの軍事的栄光を引っ提げてイタリアに帰還した後、あまりに肥大化した影響力を脅威と捉えられ元老院から政治的攻撃を受ける。それは後のカエサルと似た立場だった。ポンペイウスにはカエサルほどの政治的したたかさはなく、東方入植問題や農地分配法を巡る対立でやりこめられてしまった。
 彼が最も政治家として意思を通せたのはカエサルの補助を受けた3頭政治期であり、けれども同時にこの時期(から内戦まで)10年以上軍務から離れた期間でもあった。ヒスパニア総督の地位は代理を派遣し彼自身はイタリアで若い妻と暮らしていた。スペインの軍勢は彼の子飼いと言えたが、セルトリウス戦~東方遠征までで鍛え上げた兵士の多くはこの時期に恩賞をもらい土地も得て軍の一線から去った。兵士の練度低下とポンペイウス自身が鈍っていた可能性は充分ある。けれども独裁権力を忌避する共和政ローマでは珍しくも無い軍歴の形であった。そもそも練度の相対性は、敵が能力的ピークに達していたガリア戦争直後のカエサル軍であったことも考慮する必要がある。
 詩人ルカヌスはポンペイウスが「老齢に向かいつつあり衰え、都市での長い生活を経て穏やかになって、今や平穏の中にあって将軍の役割を忘れていった」と描写しているが、彼が肉体や心的鋭敏さを低下させていたという証拠はない。[Sheppard, p.24] 彼は1歩兵の如くフルの装備を身に着け、1騎兵のように武器をふるい巧みに馬を操り若者以上であったとプルタルコスは伝えている。(※ただ内戦直前に病にかかり一度死にかけている。)[プルタルコス, Pompey, 57&64節] 果たして彼が将としての感覚を鈍らせていたかは断言できないが、疑いようなく彼は反カエサル派で最も広範な経験と能力を持つ将軍だった。
(彼が一線を退いてから)ローマはポンペイウスよりも優れた軍事作戦計画やロジスティクスの詳細を組める巧者を生み出せたことは決してなかったし、そして内戦が勃発すると彼がこれらの分野でその鋭敏さを失っていなかったことがすぐに明らかになった。」
 [Sheppard, p.24より抜粋翻訳]

 クラッススがパルティア遠征で死にパワーバランスが崩れると、元老院の反カエサル派は勢いを増した。元々通常の公職の出世コースではなく軍事功績で急出世したポンペイウスは政治的立ち回りをうまくすることができなかった。カエサルの盟友としては裏切る形となり、そして反カエサル派の中では名声こそあったものの元老院の混乱を収束させられず、反カエサル派の中にはポンペイウスにも同じく警戒を向ける者がおり絶対的権力を得ることはできなかった。(後述)
 カエサルはポンペイウスが敵になったのは元老院にそそのかされたためだと考えていた。カエサルは明確に反カエサル派元老院(inimici)とポンペイウスを区別していたと20世紀の研究者は分析した。実際にカエサルは「ポンペイウス自身もカエサルの政敵に煽動されていた。」[カエサル, 内乱記, 1巻4節]「政敵は私の手柄を嫉妬しけなすことによって、ポンペイウスをかどかわし正道からそらしてしまったのだ。」[カエサル, 内乱記, 1巻7節]と、ポンペイウス主導ではなく元老院反カエサル派の主導であったと捉えている。ラビエヌスがカエサルの下を去る時期はinimiciが誘導したせいでポンペイウスらが自分との盟約を破ったという政治的立場をとっており、ラビエヌスとクリエンテス/パトロ―ヌスの関係にあるポンペイウスからの誘いであったとは書いていない。[Tyrrell, 第4章] (※中倉(2008)のガリア戦記新訳p.499注1は誤り)
(※この記述は戦後のカエサルの人気取り政策でポンペイウス親派をなだめるためだった可能性がないわけではない。)

 ただ反カエサル運動の政治的主導が誰であったにせよ、ポンペイウスは最終的に自らの意志で対決を決断している。(Pocockはキケロ、ルカヌス、カエリウス・ルフスの史料を含め分析し、その動機と考えられるものを5つ挙げている。(略)[Pocock, p.76]

2. ポンペイウスの対カエサル軍事戦略

Pompey’s strategy of evacuation and reconquest.

[Tyrrell, 
Biography of Titus Labienus, Caesar’s Lieutenant in Gaul, 第4章より抜粋]
___________________________________________
 前章の背景を踏まえた上でポンペイウスの戦略を説明する。

【計画の基幹】

 最初に結論を述べるとポンペイウスの対カエサル軍事戦略は、彼のシーパワーと沿岸地帯支配域の優越性および食料の輸入に依存するイタリア経済体制を基盤とし、
 ①決定的会戦を回避し戦力損耗を抑えながらカエサル軍を引き込み、
 ②食料等の物資と資金の生産地及び輸送を制限し、
 ③同時に各海外支配域のリソースを用いて数的優位を創り出した上で
 ④地形等の有利な条件を保ち決戦を回避し、持久消耗戦を強制し続け
 ⑤弱体化したカエサル軍主力を圧倒的な数的優位とロジスティクス面の優越を持って海外ですり潰し、
 ⑥最終的に一挙にイタリアを奪還しこれをもって勝利を目指す
というものだった。
Pompeius Strategy

 ローマ中枢たるイタリアを奪取するのは一見圧倒的に優位になるように思えるが、支配するためには支えなければならない。当時のイタリア経済は完全な輸入依存であり、カエサル軍をおびき寄せてから輸送路を妨害すると急激に食料や生活必需品、嗜好品、資金が枯れていく。この広大な補給戦によってカエサルは、そこで市民の支持を失い戦力を弱体化させながら待機するか、或いは後方連絡線の確立なしにポンペイウスの待ち受ける領域に飛び込むか、という選択を強制される。
 ポンペイウス勢力下のギリシャへ踏み込んで来たら同じようにシーパワーにより敵連絡線を断ち、自分は糧秣/兵士/資金を海運すると同時に東方各所からの増援部隊によって挟み撃ちにするか合流する。そうして各地域から戦力を集め数的優位を創り上げた上で、弱体化したカエサル軍に逆襲を行い撃滅し、それからイタリアを奪い返す方針だった。もしカエサルがイタリア戦役後にいきなりバルカン半島へ移って拙攻をしてきたら、敵後方根拠地たるイタリアまたはガリア南部をヒスパニアの軍団が西方から襲う。逆にイベリアへまずカエサルが向かったら時間を獲得し、海上封鎖及び東方各州からの戦力集結をより強く進展させられる。

 即ち広大な規模の誘引を行い、地中海全域での補給の妨害、数的優位の創生、持久消耗戦、これらを積み上げてから最終局面として逆襲を行い敵戦力を撃滅し、そして一時放棄していた領土を一挙に取り戻すのである。この戦略で考慮する領域は異常なほど広大で、時間は長大な未来まで含んでいた。
 加えて可能ならばイタリア内でもある程度の抵抗を実施し、複数拠点で戦闘を行うことにより、時間を稼ぐと同時に少しずつカエサル軍を消耗させる。これらは主力による決定的会戦にはならないよう注意する。もし状況が好都合な方に動いてくれたなら(実際はカエサルはそれを許すほど手ぬるくはなかったが)、イタリア半島内に拠点を残せたまま海外での軍勢構築と補給コントロールを行える。
________________________________________

【計画の基盤】

 この計画はシーパワーに立脚したものであり、鍵は穀物供給をコントロールすることにあった。これは敵対が決定的になる以前から入念に準備されていた。[Pocock, p.77, pp.79~80] カエサルがルビコン川を渡った瞬間ポンペイウスは地中海に広がる募兵、戦時財政、供給、輸送、連絡そして外交の各リソース網を作動させた。このネットワークの中心でポンペイウスは膨大な量の入ってくる/発信する情報を処理監督しており、このシステムを集権的に機能させるよう保っていた。[Sheppard, p.25]
 程度の差はあれどイタリア、スペイン、シチリア、サルディニァ、北アフリカ、東方属州に渡る軍事的統制を持って、そして広大なマンパワーのリソースを持って彼は戦争を開始した。イタリアで想定される最悪の事態がおきようとも、ポンペイウスは敵の穀物補給を遮断するか妨害し、海外で圧倒的な数の軍を編成することができたのである。[Pocock, p.77] 
 特に東方の豊富なリソースがブロックと再征服の基盤とされた。カエサルは海軍だけでなくそれら属州のポンペイウスによるコントロールを崩さない限り、このブロックを破綻させることは不可能だった。[Seager, p.161] 
Roman sea transportation route and naval blockade by Pompeius

 内戦中にポンペイウスは講和交渉の手紙でカエサルに対し「貴方の業績の並外れた素晴らしさを考慮して」と書いている。キケロ達が言うように内戦勃発時点ではカエサルの軍事業績はポンペイウスやスキピオ・アフリカヌスほどのものではないのは事実であり、この手紙をキケロは(自身が政治交渉に必須の世辞を使ったのと同じように)ポンペイウスの方便だと思っていた。[キケロ, Att, 8巻9節]
 けれどもポンペイウスのカエサルへの評価は、最も恐るべき敵として、その手紙に書かれていたことが真実であった。この戦略への自信に満ちていたのはカエサル軍への恐れが無かったというよりも、むしろポンペイウスはカエサル軍を恐れていたからこそ、このローマ放棄および会戦回避戦略を如何なる周囲の批判にも耐え遂行するしかないと確信していたからだ。[Fritz, pp145~146]

 また、元老院側の兵士は練度が高くなかった。より正しい表現をするとカエサル軍が高過ぎた。カエサルの兵士達は長く厳しきガリア戦争で豊富な経験を積み、新兵の訓練と取り込みを含め、当時存在した地中海の如何なる軍勢よりも優越した能力を持っていた。そして休養もとり心身は充実していた。元老院軍は軍務経験あるローマ市民のレギオンと言えるのは2個軍団で、しかも彼らは元はカエサルがガリアのために作った部隊なので信用しきるのは難しかった。そして他は新規募兵や後に加わる不安定な属州兵だ。(ただし内戦中にカエサル軍は兵力を増強しており全てがベテランだったわけではない。例えばイタリア南端の港へ進軍中に、カエサルが手元に持っていた6個軍団の内3個軍団は道中で募兵して訓練を始めた新兵である。)[カエサル, 内乱記, 1巻2、3、25節], [カエサル, ガリア戦記, 8巻54節]
 これは会戦を可能な限り回避しながら敵を消耗させる方針とした背景の1つである。
 ポンペイウスにとってカエサルとの戦争は、戦略的に築き上げた諸要素の論理的帰結として決断されたものだった。 [Pocock, p.79]

3. ポンペイウスの計画確定時期を巡る議論

「場所や家が人間にとっての強さや自由なのではない。
どこに居ようとも、きっとそういった強さや自由のような資質とは己が内にこそあるのだろう。
だから己が身を守ることができれば、ホームもまたいつか取り戻すことができる。」

——撤退及び会戦回避策を皮肉ったファウォニウスに対するポンペイウスの返答——
[アッピアノス, 2巻37節より抜粋翻訳]

________________________________________
 本案は間違いなくポンペイウスが主導しており、そして相当前から準備されていたものだ。
 カエサル自身が著した『内乱記』は素晴らしい記録ではあるが当然ながら彼の政治宣伝を兼ねているため、まるでイタリア侵攻にポンペイウス達が予期しておらず驚き慌てて逃げ出したかのような書き方になっている。[カエサル, 内乱記, 1巻1~27節]
 確かにキケロのように軍略家でない元老院議員たちはカエサル侵攻の知らせに狼狽していた。[キケロ, Att, 7巻10節] しかしポンペイウスは彼らとは軍歴が全く違い、全てを賭けた勝負にいくらかの動揺はあったが、遠謀の計画を抱いていた。キケロが当時やり取りしていた書簡には議論の様相が残っており、その記録は明確に彼らがカエサルとの戦争勃発を予期しており、そしてポンペイウス達が戦争計画を練っていたことを示している。

【撤退案確定時期を巡る論争】

(※本章は書きかけ且つほぼ歴史の話です。軍事面を読む場合次章に飛ばしてください。)

 立案時期について19~20世紀の歴史家は大いに議論をした。それらの資料を読む上で役に立つのが、この持久戦略誘引策(領土放棄策)物資遮断策海外戦力構築策の主要3パーツから構成されていると理解することだ。議論になり易いのは後者2つではなく誘引策がいつから/どこまでかである。そして元老院議員たちが特に反対したのも領土放棄についてだ。(キケロが言うように「海外の蛮族をイタリアに入れる」海外での戦力増強及び逆襲プランもまた反対を受けてはいるが、前者ほど抵抗が強くはない。)
________________________________________
立案者

 まず誘引策の立案者については、例えばキケロ1月19日書簡に「ポンペイウスの計画、つまり市を放棄することについて」と書かれており、その他の書簡でもポンペイウスの案vs反対派という構図なので主導者は明確だ。ただし同時にこの軍事戦略を理解していなかった/反対していた派閥がいることも読み解ける。(※諸作戦の複合を考えていたポンペイウスと違い、元老院の大半は都市放棄という単一のアクションに視野が囚われて議論している。)[キケロ, Att, 7巻11節], [Seager, p.161] 
 立案時期について最も驚くべき記録はキケロが前49年3月18日付けの書簡で、ポンペイウスがこの方策を2年前に考えていた、と述べていることだ。これほど長期間前から彼は対カエサルの軍事戦略を具体的に考えていたのである。[キケロ, Att, 9巻10節]
(※ ただし戦略のどこまでを2年前に固めていたかに議論の余地がある。1つのパーツを2年前にしていたからといって他のパーツがその時点で確定していたわけではなく、カエサルの動きそして元老院と市民の反応を見てそれらは最終決定されたと思われる(後述)。)
________________________________________
開戦を察知していた元老院

 内戦が始まるのを他の元老院議員たちも察知していたことも記録に残っている。カエリウス・ルフスが前50年9月(ルビコン渡河の約4か月前)にキケロへ出した書簡において、一年以内に戦争が始まると予測していることを再告知した上で対応を急かしている。その上で「彼ら(ポンペイウスとカエサル)の軍勢は比較のしようがない。全体として、両者の戦力を計り、どちら側につくかを選ぶには充分な時間がある。」と述べている。[キケロ, Fam, 8巻14節] これと10月1日のキケロの書簡で「ポンペイウスは市を離れようと考えている」と述べられていることを踏まえ[キケロ, Att, 6巻8節]、12月初頭までにキケロは、戦い(会戦)になればカエサルがおそらく勝利するだろうこと、そして闘うよりも彼の要求に譲歩する方が都合がまだよい、という結論に達した。[キケロ, Att, 7巻3、5、6、7節] これらからはポンペイウスは内戦勃発前にイタリアへの引き込みと決戦回避/持久戦略を立案し既に周りに働きかけていたこと、そして元老院内部には譲歩(降服)派もいたことが伺える。 [Seager, pp.152~153], [Pocock, p.77]
 カエサルがルビコン川を渡る(前49年1月10日ごろ)1か月前の前50年12月10日、キケロはポンペイウスと会ったが既に彼は平和をこれ以上維持できないという考えに到っていた。12月25日にも議論を続け、翌26日に彼がもはや平和を望むのを辞めており「彼は自身と国家のリソースに自信を持っていた」、「けれども彼はその都市を放棄するという彼自身のアイディアには幾分動揺するところもあるようだった」と記録に残している。[キケロ, Att, 7巻4、8節] 以上の行動のように、ポンペイウスは己の戦略を議論し他の元老院の反応を見ていた。海外戦力導入策もこの時話題に出ている。 [Pocock, p.78]
 ポンペイウスは他の元老院議員の誰よりも平和に絶望的であり、それゆえに誰よりも高い精度でカエサルが法を破るのを予測していた。
________________________________________
どこまで放棄かをいつ決めたか

 そしてキケロは翌日に再び、戦争がひとたび始まれば「我々は都市を防衛するか、或いは都市を放棄して補給物資及びその他リソースを遮断するよう試みねばならない」と記し、明確に領土放棄策と物資遮断策が議題になっている。ただしまだそれを元老院が受け入れていないこともわかる。[キケロ, Att, 7巻9節], [Pocock, p.78]
 キケロたち元老院議員はポンペイウスの諸作戦の一連の連動した意義を理解しきっていなかったか、或いは思想的に承諾していなかった。それは1月17日までにローマ離脱の決定について「非常識な決断」と述べていること、「我らがグナエウスがどんな計画を用いているのかわからない」「もし彼がイタリアで抵抗すれば我々は皆団結するだろう。もし彼がイタリアを放棄すれば私はまた問題ごとを考えなければならないだろう。」と記していることからも伺うことができる。19日、22日、23日の書簡でも同様にキケロはイタリア放棄案への反対を語っている。この箇所は同時にポンペイウスが内心はどうあれ、どこまで撤退(ローマ北部まで/ローマ放棄/イタリア全域放棄)かを確定させられていなかった可能性が考えられる。[キケロ, Att, 7巻10、11、12、13、13a節], [Pocock, p.78]

 元老院には従軍歴は有ってもポンペイウスの様な大局を見て計画を組み上げる司令官になれる人物はいなかったし、それどころか軍団指揮官としても適切な人物が不足していた。そしてなによりカエサル軍の情報を知らな過ぎた。これはラビエヌスが即重宝された理由の1つであろう。

 だがキケロの書簡は明瞭と言えるほどには整合性がとれておらず、それ故に歴史家たちに多くの解釈の差異を生み、キケロの記録のみからではポンペイウスの計画がいつ話されたかがわからなくなっている。これは彼に軍事的知見がなかったからかもしれないが、ポンペイウスの計画が実はそこまで固められていなかったのではないかという意見にもある程度説得力を持たせている。[Fritz, p.148], [キケロ, Att, 9巻2a、6、10、11、12、13、13a節], 及び上述の7巻の箇所等

 モムゼン(Mommsen)やアドコック(F.E. Adcock)といった古典の歴史学者たちはキケロの2次的主張を基本的には否定する立場を取った。イタリア半島での戦闘がある程度試みられたことから、ポンペイウスは最初はローマを一応守ろうとしたと解釈している。ポンペイウスがイタリア全域の完全放棄を決断したのは中部のピケヌム(Picenum)が奪取されてからだとアドコックは分析した。モムゼン達への反対意見は幾つかある。マイヤー(E.Meyer, 1922)の主張は書簡8巻11節や9巻10節で述べられるキケロの意見は完全に状況を誤解しており、ポンペイウスはあくまで戦争勃発後にこの戦略を組み上げたとする解釈だ。同時にポンペイウスが戦争勃発初期に慌てふためいていたキケロの感想も誤認だとしている。ポンペイウスは事前に組み立てはしていなかったが、代わりに勃発後は唯一人カエサル侵攻の状況を明瞭に見つめ理解していた、故に半島を放棄しようと迅速に必要な行動を執ったとマイヤーは主張する。この説にホームズ(T.R. Holmes)は同意し、より詳しく説明をしている。彼らはポンペイウスの最初のミスは準備が十分でなかったことだとし、ただしそれを戦争初期の適切な各行動で全て解決して戦略を機能させる状況に持っていったと考えた。彼らが合致し主張しているのは、ポンペイウスの戦略を初期段階で妨害し台無しにしかけていたのは彼の仲間である元老院の愚かさである、ということだ。モムゼン達もホームズ達にも共通するのは、キケロの認識を否定し、カエサルの内乱記の解釈を採用しているということだ。彼らの学説を踏襲せず元老院側の事情をより掘り下げたのがセイム(Ronald Syme)である。後に古代ローマ史研究において20世紀で非常に高い評価を受けるセイム教授であるが、彼の分析した元老院側の失敗とは、異なる複数の集団とその個々の支援者達がまとまりなく離れしばしば利権を争い、長大なビジョンを欠いていたことだと説いた。彼らは無知ではなくポンペイウスの言葉のパーツを理解はしていたが、その個々の利権への強固な熱意に基づいて行動をとっていたというのだ。[Fritz, pp.146~148], [Syme, pp.34~46]
 ※長すぎるので頓挫。この議論については1980年以降の解釈などを追記します。

 本稿で引用しているようにカエサル視点に囚われず分析する20世紀後半~現代の研究者はモムゼンほどキケロ史料を否定していない。近年はポンペイウスが内戦前からその戦略を組み立てていた説を支持しながらも部分的な修正が戦争開始後に行われたと解釈する傾向が強く本稿もそれを踏襲した。だが上述のどれにせよこの計画を実行に移す上で欠かすことはならない重要な基盤は、内戦前後のポンペイウスの政治的な闘争である。

【ポンペイウスの政治的闘争の重要性】

 古代ローマの歴史家たちの記述、アッピアノスとディオ及びプルタルコスを参照してもいつ立案が固まったかの議論への明確な答えは書かれていない。明らかになるのは、ポンペイウスはイタリアが軍事力でうまく防衛されるかもしれないという希望を仲間に残したこと、イタリアを放棄して東方から逆襲するという計画が「どんな状況でも行われるべきであるとは最初に明言はしなかった」ことだ。[Fritz, p.150]
 そもそもイタリア放棄と属州募兵及び補給統制は、元老院の面々にとって個別に是非を議論する事項だった。それらを組み合わせ1つの長大な戦略としていたポンペイウスのビジョンを共有できてはいなかったし、理解していたとしても個々の利権は全面的賛同を阻んでいた。これをねじ伏せるほどの政治的権力の獲得にポンペイウスは失敗しており、むしろ警戒感を各派閥に抱かせてしまっており、下手に個々の利権を無視すると彼らの離反を招く恐れがあった。
 元老院のかなりの数が動揺し離反あるいは降伏(それ同然の講和案)を考えていたことは、カエサルが言っているだけでなく元老院側も認めている事実だ。戦争勃発前後にカエサルは幾たびか使者と手紙を送り両者妥協する講和の考えを伝えており、これはポンペイウスにとっては見え透いた罠と政治的アリバイ作りに過ぎなかったが、ある程度の心的効果を元老院には与えることに成功していた。キケロも「馬鹿げたメッセージ」だと受け止めていたが元老院の動揺を記している。ポンペイウスの様な立場ではない議員は身の安全は勝利ではなく平和さえあれば得られると思っていた。[カエサル, 内乱記, 1巻9~10、24、29、32節], [キケロ, Att, 7巻5、6、8、12、13a、14、15節]
 従って彼はそういった派閥に対しても離反しないような態度をとらねばならず、その最適解が「イタリア放棄は案として提示するがそれしか選択肢が無いとは思っていても言わない」ことだった。つまり彼の政治的力では、たとえ数年前からこの戦略を考えていようがいまいが、イタリア放棄しかないという現実を元老院が認めることができるまでは、さもイタリア維持のためにできるだけのことはやるという態度をとる必要があった
 また上記のカエサルの懐柔・離反策に対しては、ポンペイウスは断固として裏切りは許さないという方針を明言し対抗した。[カエサル, 内乱記, 1巻33節] イタリア放棄を行った後を考えると、中立とは事実上カエサル派となることが目に見えていた。

 ポンペイウスはカエサルに戦力と行動に移るための準備があることに気づいていたし、初期段階では敵側に戦術的アドバンテージがあることも過小評価していなかった。そして最初にイタリアが戦場になるのは明らかであり、そしてここでは空間を敵に譲らざるを得ないとわかっていた。この空間とはイタリア北部だけでなくローマの保有するイタリアの全都市に到る可能性があった。それは避けたいと望むものであったが、恐らく避けられないであろうことであった。ただこれはポンペイウス個人の案であり他の者達は政治的立ち位置が彼とは違い、そして彼のような戦略的先見性あるいは軍事的冷静さを持って考えることは難しかった。[Pocock, p.77]
__________________________________________
 有名な「我が足がイタリアの地を少しでも踏めば、軍勢で満ちるだろう」という会話は、ポンペイウスの楽観主義の現れだと解釈されることが多く、或いは士気を上げるための強気の発言であったとされる。[Pocock, p.77], [プルタルコス, Pompey, 57節], [アッピアノス, 2巻37節] だが彼の戦略から戦術に到る実際のあらゆる行動はカエサル軍への強い警戒に満ちている。そして最初期から一貫する彼の方針を踏まえると、この発言はいたって論理的だ。彼がイタリア再上陸するのはその戦略上すでにカエサル軍が補給不足で衰弱しきったか、海外でカエサルを撃破した段階だからである。
 つまりもしキケロの書簡9巻10節があっているなら、カエサルがルビコン渡河をして元老院側が慌てふためているのを尻目に主導権を握ったのではなく、元老院側は4か月或いはそれ以上前から戦争が始まることを察知しており、更にポンペイウスはルビコン渡河2週間前にはもうじき戦争が始まることを確信していたということになる。また、ポンペイウスは2年以上というかなり以前から戦争が始まった場合の戦略計画を練り、その方針で行けるようにカエサル派に漏れぬよう一部に働きかけていた。
 だがそれは同時に、ポンペイウスの戦略計画とは純粋に軍事的合理性の事柄だということではなく、予め準備された広大な政治的考慮事項の結果に為されることとなる。その計画の性質上、全ては秘密裏におかれていなければならなかった。[Fritz, p.148]

 それこそがポンペイウスの直面したもう1つの戦いだった。これは元老院に利用されそして邪魔された軍人としての悲劇性にのみ着目する主張と意を同じにするものではない。セイム教授やリドリー(Ronald T. Ridley)は前56年~50年のポンペイウス派と他の元老院との工作を分析し、ポンペイウスは無垢の職業軍人などではなく、スッラの派閥に属し蠢動した政治家でもあったことを明示した。彼は3頭政治の一角として権力をふるい、そしてクラッスス亡き後の政治的バランスの崩れたローマで、かつて頓挫した道にもう一度挑んでいた。それは権力への最後の挑戦であり、その政治的闘争は明らかで威嚇的でもあった。彼は戦争になろうがなるまいがカエサルを倒そうとしており、そのために主要貴族たちを使おうとしていた。ポンペイウスは2つの勝負を行っていたのである。そしてカトーを筆頭とする元老院の一部グループはいい様に騙されることなく、むしろポンペイウスの政治的企みの幾つかを拒絶したのである。戦争勃発直前の12月になってもまだ元老院の反カエサル派は団結していなかった。(※加えて目を引くのが前54年のスペイン問題である。これはモムゼンの頃からよく論点の1つにされたものだが、なぜポンペイウスがヒスパニア総督になったにも関わらず、多くの金銭利益と軍事的基盤創設ができる現地活動をせずに代理を送るだけで本人はローマに留まったのか、そこに言及している。プルタルコスはこれを若き妻ユリアへ熱中したためとしているが、現代の研究者の多くは政治的な決断だったとみなしている。彼は己が利益と立場のため、混乱に陥っているローマ中枢を離れるわけにはいかなかった。そして代理として送られた者達はそのまま前55年からカエサルとの対決の前49年までスペインを治め、ポンペイウスの支援を行っている。)[Ridley, pp.144~148][Syme, pp.37~46], [キケロ, Att, 7巻5節]
___________________________________________
 内戦に於いて元老院はポンペイウスを軍事的旗印に担ぎ上げながらその戦略方針に反対した。この戦略を巡る議論は単純な知性あるいは軍事的問題に留まらず、長期に渡る政治的な文脈の中で捉えられるべきなのである。

(※ これらの一連の議論に関し、cuniculicavum様により詳しく調べて書いて頂けました。
   リンク⇒雑感:ポンペイウスの戦略とイタリア戦役
   https://note.com/cuniculicavum00/n/nff9afc941ea0  )

  結論として、いつポンペイウスがこの戦略を確信していたかは歴史的に興味深いテーマだが、軍事及び政治的にはいつ思いついたかに関わらず内戦開始時に取るべき最適の態度は1つであり、ポンペイウスはそれを着実に実行した。イタリア維持の希望を元老院には仄めかしながら、現実的なイタリア放棄案へと段階的に進めていったのである。
 帝政初期の歴史家ウェッレイウスの記した通り「ポンペイウスや執政官そして元老院は最初に都市(ローマ)を、次にイタリアを放棄」した。いきなり全てを放棄することは当時の彼には政治的にできなかったのである。[ウェッレイウス, 2巻, 49節]

4. 元老院の反対

"My friends,
to leave this stream uncrossed will breed manifold distress for me;
to cross it, for all mankind."

——ルビコン渡河におけるカエサルの言葉——
[アッピアノス, 2巻37節より抜粋]
___________________________________________
 前章で述べたように、イタリア放棄及び持久消耗戦略には少なくない議員たちの反対があった。軍事的無知故か或いは理解した上で個の利権を優先したかは定かではないが、ポンペイウスは決戦主義の人々を説得しなければならなかった。ただ上述のキケロ書簡の曖昧性と計画を理解できていなかったことは、ポンペイウスがその戦略の全てを元老院に最初からは明かしていなかった可能性を示している。ポンペイウスはカエサルの手紙や進軍の知らせを聞いてすぐ講和や降伏、寝返りを考えていたキケロを筆頭とする議員たちを信用していなかったし、そもそもこの戦略の理屈がわかるほどの軍事的知識があるとも思っていなかった。
 「(元老院議員たちとは)軍事評議会は無く、ポンペイウスは決して彼らに(軍事的)助言を訪ねることはなく、彼らに己の決定と方針を言うのはいつも彼であり、そして彼の意見に従って行動するよう彼らに強く促していた。」
[Fritz, p.149より抜粋翻訳 ]

 「彼の周りの者達がそれらのことを見失っている時でも、ただポンペイウスのみが、ラビエヌスの支援を受けながら、その方針を保ち続けられたのだった。それこそが彼の戦いだった。もしそれらを保つことさえできればその計画こそが完全で、負けはありえないことを彼は孤独に理解していた。」

[Pocock, p.78より抜粋翻訳]

 注記しておくと、ラビエヌスはポンペイウスに最も軍事的サポートをした将だったが、彼はイタリア中部(Picenum)でカエサル軍と対峙する事を望んでおり、その点では元老院と同じ意見であった。[Tyrrell, 第4章]
 他の元老院議員より遥かに軍事的な知見を有していたラビエヌスですら(軽率な決戦はさけてはいたとはいえ)、カエサルと会戦をすることをポンペイウスほど危険視はしていなかったのである。
 キケロたち元老院は、ローマを一度放棄して外国で非ローマ市民(彼曰く蛮族)兵士を集めて舞い戻るというスッラと同じやり方を「不名誉な」方策と感情的に捉えていた。元老院の大半は、軍事的合理性を追い求める責任者であろうとしたポンペイウスとそもそも違うスタンスであり、まるで思考の基盤が違いそれが意見の統一が中々できなかった原因だった。[キケロ, Att, 9巻10節]

【国家、民衆の被害と自己生存の対立】

 ただし政治的な姿勢として元老院議員たちの反対は一概に批判されるものではないことを注記する必要がある。それは個々の利権だけでなく、政治家として民衆生活をより想った意見ですらあった。なぜならポンペイウスの持久消耗戦略はローマ国土全域に軍民問わず大規模な被害を及ぼすのが不可避だったからだ。都市を脱出するのは決定的会戦を避けるためであり、戦わないということではない。そして戦うことになる各都市と防衛部隊はカエサル軍に勝利することは不可能であり、同時に戦域になる地帯では軍によりどうしても荒らされていく。そこに海上封鎖による生活必需物資の欠乏が全土を覆うことになる。カエサル軍は絶対に損耗するが、共にローマの民と財産も傷つけられる。糧秣を求めカエサル軍は各地を荒らし回るだろう。決戦主義は最短で戦争を終わらせ国家全体の被害を抑えたいという願いそのものだ。
 キケロがポンペイウスの計画が何を引き起こすかを悟り、その無念を手紙に残したのは2月27日、ポンペイウスがイタリアを離れるため港から出立する半月前のことだった。

Cicero 「彼(ポンペイウス)は都市を守り切れないが故にそれを放棄するするのではなく、イタリアから追い出されるが故にそれ(イタリア)を放棄するのでもない。そうではなく、最初から彼のアイディアはあらゆる大地と海を荒れさせることだったのであり、集めうる最大多数の強大な軍勢を創り上げるために、属州に奮起させイタリアへ蛮族を持ち込むことであった。」[キケロ, Att, 8巻11節より抜粋翻訳]

 「航海士の目標が航海の成功であり、医者の目標が身体を健康にすることであり、軍指揮官の目標が勝利であるように、国家指導者の目標は市民の幸福であるのだ。(中略)こういった考えを我らの友グナエウスは決して抱くことなく、特に以前あったこの論争ではそうだった。」[同上]

 キケロ達は彼の軍事方針を覆そうと必死に訴え続けた。広大な地域が荒れ果てること、ローマの市民が犠牲になることを憂いていたキケロの焦点は、軍事論理に徹しようとするポンペイウスと根本的にずれていた。キケロのアッティクスへの書簡9巻10節にその状況が書かれており、「スッラにはできた。なぜ私にできないことがあろうか?」というポンペイウスの言葉は象徴的だった。かつてスッラが属州から軍勢を引き連れローマに舞い戻り支配権を得た歴史を彼は度々口にしたという。(この言葉はポンペイウスが独裁官として強権をふるったスッラの政治的スタイルを踏襲しようとしていたことを意味せず、軍事的なニュアンスでの使用であったことをPocockは誤解されないよう記している。)[キケロ, Att, 9巻10節], [Pocock, p.79]
 
 ポンペイウスはその経歴を通して功名心が強く、「民衆の被害を抑えた」という名声をどうでもよいものと見なしたとは考えにくい。確かに降伏同然の講和を受け入れるのは国家のために有意義で、元老院側はカエサルの脅迫に屈するのも1つの道だった。決戦を挑み勝てればよいしもし敗れたら降伏を受け入れればローマの民と財産の被害は少なくできる。けれどもこれは負けても殺されないと期待できる者の意見だ。立場上ポンペイウスは他の議員と違い、自分かカエサルどちらかしかローマにはいられず、もはやここまで来たら自身の生存のためには戦うしかない、少なくとも彼はそう考えていた。戦争をしなければ自身の破滅、戦争を続ければローマ世界に甚大な惨害をもたらす。この選択においてポンペイウスは後者を選んだ。彼はカエサルと全く同じだった。一度戦争が始まってしまえば元老院やローマ市民に批判されようとも、彼が望んだのはただカエサルに勝つことだけだった。

 重要なのは、当時者達は敵の強大さを正しく評価しなければならなかったことだ。敵はカエサルという稀有な才能を持つ指導者であり、率いられるのはガリア戦争の長い経験を積み元老院側を遥かに上回る練度を有する軍団だった。歴史を後世から振り返るならその強大さを述べるのは簡単だが、内戦勃発時のカエサルの軍歴はポンペイウスには及んでいなかった。これは元老院好戦派の強気の背景でもあっただろう。自身の方が経験では上にも関わらず驕ることなく、決戦を避け痛みをローマにもたらしてでも持久消耗戦をする方針を、ポンペイウスは周囲の反対にあっても主張し続けた。内戦の諸戦役全体を通して、戦術的観点で批判される行為を含めて、彼の実際に取った行動はかつてないほど慎重だった。一方で元老院議員たちは利権、政治的立場、人間関係、その軍事的知性のいずれかの理由にせよ、持久焦土戦略を取らなくてもカエサルに勝てると考えていたからポンペイウスの案に反対した。
 ポンペイウスこそがカエサルを評価し極大に警戒していた。その背景には練度差だけでなく、これがローマ軍同士の内戦という性質を鑑みて、かつてポンペイウスを苦しめたセルトリウスとの戦争経験があっただろう。[Sheppard, p.25]

5. イタリア戦役の始まり

 以下にはポンペイウスの戦略遂行が実際にどのような過程を経たのか、その概要と考察を記すこととする。

【ポンペイウスの指揮権限】

 Pompey, however, had no authority over Ahenobarbus
[Sheppard, p.34より抜粋]

 ポンペイウスは最初から方策を練っており、その計画とは全ローマ世界を戦争に巻き込み、巨大な軍勢を作り上げ、それをもってイタリアを征服しようというものだった。[Fritz, p.146] だがそこで他の指揮官級の者達を指示に従わせられるかという問題が立ちはだかった。一応はキケロの書簡に見られるようにポンペイウスは軍事的事柄を主導できていた。だがポンペイウスはまずそれを皆に遵守させる命令権限を獲得する必要があった。前述のように彼は元老院において絶対権力を得ることには失敗しており、多様な派閥と反対意見があったからである。ローマ脱出前の最後の元老院でカトーによって彼が全軍の最高司令官になるよう提案されはしたが、この時は『imperium maius』は得ることはできなかった。(これは他のインペリウム(命令権)を持つ同格の者達にも上位命令を出せる権限であり、かつて地中海全域海賊討伐戦では付与されたものであった。)彼がこれを受領するのはバルカン半島に渡ってからである。[Fritz, p.149], [プルタルコス, Pompeius, 61節], [プルタルコス, Cato, 52節]
 各指揮官や元老院の決定は軍事関連ですらポンペイウスの意に添わぬことがあり、彼の権限はそれらのクラスの者達に強制的な命令をだせるものではなかった。それは軍議を頻繁に開き事前計画を皆の意見を聞き組み立てながらも、最後は自分の意志を押し通せたカエサルの独裁的立場とは大きく異なるものであった。[アッピアノス, 2巻34、36、37節], [Gilliver, p.146], [Sheppard, p.34]
 ポンペイウスはイタリア南部(カンパニア)沿岸の全てをコントロールする「統領」になること、全ての徴集を監理し、軍事最高司令部であることを欲していた。だがこれがイタリア戦役中に叶うことはなかった。[キケロ, Att, 7巻11節]

 (※ポンペイウスの前67年権限については議論がある。後のアウグストゥスと同一のimperium maiusではない、と解釈すべきだとする説はメテッルスとピソへ強権をふるえなかったことなどから昔から強く主張されている。S.Jameson(1970)やC.Koehn (2010)を参照)

【カエサルの急速進撃と迂回作戦】

 ポンペイウスは事前に計画していた通り、イタリアでの時間稼ぎと海外での兵力構築を進めようとしていた。問題はどの程度イタリア内の各都市そしてローマで抵抗を行うかだった。これはカエサルの侵攻軍の実態を見て決める必要があり、内戦開始時はポンペイウスも決めかねていたはずだ。また、各拠点である程度の抵抗をすることで連続した多数の戦闘をカエサル軍に強いて消耗させ、時間を得るのは持久戦において可能ならばであるが望ましかった。もしかするとイタリア半島内に大きな拠点を残した状態で、属州で軍勢構築をできるという理想のパターンもあるかもしれず(ポンペイウスにとっては非現実的ではあったが)、それは元老院の少なくない議員たちが望んでいたことだった。従ってこの状況下では2つの案を持っておくことが自然で懸命だった。1つはイタリア防衛で、もう1つはイタリア放棄である。[Fritz, pp.150~151], [Seager, pp.152~153]

 当面の備えとしてポンペイウスは北~中部での各防御拠点を怠らず戦闘準備させる。特にルケリア(Luceria)には軍団を置いて彼自身も一度派遣された。[オロシウス, 6巻15節] 個の利権と立場から放棄案に未だ賛同しない議員たちもいたので、政治的にもイタリア放棄をしないよう最低限の努力をするとアピールするしかなかった時期である。ルビコン渡河の数日前の元老院議決ではポンペイウスに国庫の自由な使用を認めることが話された一方で、「全イタリアでの」新兵募集を行っている。[カエサル, 内乱記, 1巻6&9節]
 1月12日、各地方に複数の指揮官を配属しイタリアでの拠点防衛を再整備した。[Seager, p.153]
 ただし彼は決定的会戦の回避だけは譲るつもりはなく、ラビエヌスを含み北部で会戦をするよう求める元老院の意見を拒絶している。[Tyrrell, 第4章]

 けれどもやはりポンペイウスにとって楽な方になってくれることはなかった。こうなった要因は2つ、カエサル侵攻の知らせを聞いた際に起きたローマでのパニックと、そして何よりもカエサルの急速な進軍であった。[Fritz, p.146], [カエサル, 内乱記, 1巻14節], [Seager, p.153]
 カエサルの進軍速度は元老院側の予想より遥かに速く、恐らくポンペイウスの想定すら上回っていた。イタリアを高速で突き進めたのには次のような理由があった。

・北部における元老院軍の防衛戦力の少なさ及び内戦ゆえの親カエサル派の多さ
・カエサルが全軍を待つのではなく少数精鋭を率いて突進を行ったこと
使者を先に送り、実際の軍を投入する前に恐怖を蔓延させ麻痺させたこと
・カエサル軍が3個以上に分けて進んだこと(突進主軸は1つ)
・複数都市を迂回し不必要な戦闘を避けたこと
・ローマをパニックにし首脳部を機能不全に陥らせ効果的な対処を取らせなかったこと
寛容策を取り寝返らせることをまず狙ったことで戦闘が最小限に抑えられたこと

 カエサルはイタリア北東都市ラヴェンナで最後通牒と言えるやり取りをし、それから軍随伴可能境界線(ルビコン川)で1個軍団を前に演説をして自分と共に政敵と戦ってくれることを確認すると1月10日頃、ついに侵攻を開始した。最初のターゲットはイタリア北東にある都市アリミヌム(Ariminum)である。重要なのはこの際に彼が率いたのはその手持ち1個軍団のみ(最も忠実な第13軍団)であり、残りの軍勢はまだ冬季陣営におり、後を追うように命令を発していたことである。カエサルの先頭集団はたった5000人と僅かな騎兵であった。内戦直前に対パルティア戦争を名目に元老院側は、カエサルが実質的に保有していた2個軍団を引き抜くことに成功しており、各都市の守備隊に加え少なくともこの1万前後の軍を手元に持っていた。カエサルはアルプスの先に数万の軍勢を保有していたがそれを頼りに遅くなるよりも、主導的に状況を動かすためにリスクを冒し最速の侵攻を選択したのである。[Westall, p.15],[カエサル, 内乱記, 1巻8&9節], [アッピアノス, 2巻34節], [オロシウス, 6巻15節]

italian campaign_caesar rapid advance 更にカエサルは少数でいつまでも行くつもりではなく、進軍と同時に現地で自分側に加わるよう訴え新兵募集を行った。周辺3都市へ1個大隊ずつ送り防衛線を敷くと、彼自身はアリミヌムで僅か2個大隊と共に駐屯し募兵を行う。並行して5個大隊をM.アントニウスに付け南西の都市アッレティウム(Arretium)へ分遣し南北へ走る街道をブロックさせた。対する元老院側は法務官テルムスに5個大隊を与えアリミヌム南方の都市イグウィウム(Iguvium)を占拠させた。このイグウィウムの住民はかなりのカエサル支持であった。その情報を得たカエサルは大胆にも3個大隊のみをクリオに与え奪取に派遣した。住民の裏切りを恐れたテルムスが撤退すると兵士達も逃走し、イグウィウムは好意的にカエサル軍を迎え入れた。[Westall, pp.15~16],[カエサル, 内乱記, 1巻11~12節]
 地方の者達は正確な情報を持つことができず混乱の中で、カエサルが大軍で進撃しているのだと誤認して逃走を始めた。またこのパニックで元老院も含め一部の人々はカエサルの要求を飲むか寝返るかを考えるようになった。 [アッピアノス, 2巻35~36節]

 カエサルはこの出来事により各都市の親カエサル派を信頼することにし、監視の意味もあった兵士たちを都市から離し先へ進むことにした。攻勢方向は南東、つまり海岸沿いである。事前に分遣し占拠した都市には作戦的意味がある。この東海岸沿いを行く際の後方及び側面の護りになるからだ。それ故に彼は大胆に突進することができた。次なる狙いはアウクシムム(Auximum)である。 [Sheppard, p.33], [カエサル, 内乱記, 1巻12~13節]
 更にアッレティウムとイグウィウム奪取は側面を護衛するだけでなく別の重要な意味があった。それらはアリミヌムとローマの中間にあり、ローマへ直結しているカッシア街道フラミニア街道を手中に収める地点であったのだ。これによりローマへの突進及び3方からの包囲的攻勢の脅威を元老院側に与えることができた。そしてローマがパニックとなっているのを尻目に、カエサルの主攻は大都市ローマへの進撃はせず迂回してイタリア中央部そして南部への最速の突進を選んだのである。[Westall, pp.16~17],[Sheppard, p.33]
 彼の目標は地点ではなく敵戦力に向けられていた。[ディオ, 41巻10節]

 アウクシムムでの住人の反応は、これが内戦であり人々が一体どちらに付けば良いか状況を判断するだけの情報をまだ得ていなかったことをよく示している。都市の長老会議は「我々には状況を判断する力はない」といい、防衛を担っていた元老院軍のアッティウスは撤退するもカエサル軍の追撃を受け捕虜となった。カエサルは高速の進撃に加え、各都市で自分を支援してくれた人々に惜しげなく感謝を述べ、報いることを語り次々と味方あるいは中立化させていった。今やイタリア北中部はカエサルの支配下となりつつあったのだ。[カエサル, 内乱記, 1巻13&15節]
 だがカエサルがプロパガンダで言うような彼が熱烈な歓迎を受けていたから各都市は寝返ったかというと、必ずしもそうではない。アッピアノスは的確にその軍事的性質を指摘している。実際の兵力以外のカエサルのもう1つの武器は情報だった。進撃速度が急激で相手が情報を精査できず誤情報を信じ込むというのもそうだが、加えて重要なのはカエサルが侵攻前に各都市に使者を送っていることだ。一見わざわざ攻撃があることを敵に教えるのは防御準備をされるだけに見えるが、この内戦の場合各住民は大局的または国家の合法性を判断する力はなく、彼らにとって重要なのは目の前の戦果に巻き込まれたくないという恐怖であり、また各都市守備隊はそれ単独では守り切る力などなかった。その実際の状況に合わせると、カエサルの快進撃・占領拡大を伝える「メッセンジャー」は都市を最速かつ最小限の労力で奪取するための大きな武器だった。

「カエサルは己の軍勢を連れてくることを伝える使者を送り出したのだが、それは彼がその準備(を実際にした手持ちの軍勢)の巨大さよりも、むしろその移動の俊敏性と大胆さによって引き起こされる恐怖を信じて用いることを慣れ知っていたからだ。この大戦争において彼は5000人の兵士と共に積極的攻撃を行うことを決断し、そしてイタリア内の有利な各地点を奪取することによって機先を制することにしたのだ。」
[アッピアノス, 2巻34節より抜粋翻訳]

 カエサルはやみくもなギャンブルで少数突進したのではなく、こういった様々な工夫をこらし最大限の戦果を挙げながら急速に支配域を広げていった。この進撃はまだ継続する。彼はアウクシムムを発ちピケヌム地方全土を「突っ走しる」。ここで第12軍団が追い付いてくれてようやく2個軍団を彼は直接率いれるようになった。次の目標は敵10個大隊が駐屯していると判明している南東のアスクルムであった。この奔流止まることはなく、アスクルム住民も同様に元老院側から離反し容易に奪取された。[カエサル, 内乱記, 1巻15節]
______________________________________________
 イタリアで見せた高速の進軍、分遣と拘束、迂回、心的効果の活用によるこの一連の侵攻を『カエサルの電撃的進撃』と複数の現代の研究者が呼んでいる。[Sheppard, p.33], [Seager, p.153], [Goldsworthy, p.380] その単語にはWW2研究をしているとやや抵抗感を覚えるが、ディオが史書に残した言葉は特に近代軍事研究者にとって興味深いフレーズとなった。

「カエサルはローマへ急ぎはしなかった。首都は勝者の前に褒賞として置かれることになるとカエサルは知っており、だから彼は敵対的な場所に向かうのではなく、むしろ防衛にあたっている政治的敵対勢力へ向けて行軍するよう断言したのである。」
 [ディオ, 41巻10節より抜粋翻訳]
 
 敵戦力を志向するか場所を志向するか、そして具体的にどのような効果を狙うのか、このテーマは戦史において根幹的軍事方針の1つとして各状況に合わせ議論され続けている。今回の事例においてこの選択は間違いなく正しかった。ポンペイウスはイタリアという空間を譲り渡し、代わりに戦力を温存及び増強してから逆襲しようとしていたからだ。それに対しカエサルは都市にはとらわれずより縦深の目標へ、敵戦力集結前の撃滅を作戦上の目的とし進撃した。カエサルとポンペイウスは共に首都ローマに拘らず、単発的な戦術的アドバンテージに釣られ軍事戦略と合致しない所での会戦に陥ることも無く、同じ次元領域で互いの方針を衝突させている。これは相手の戦略の掌の上で闘うのではなく、自己の戦略を相手に強制しようとする戦いだった。

6. 撤退を望むポンペイウスと命令権の不足_ローマとコルフィニウム

"For a man of your foresight ought not to reckon how many cohorts Caesar has at this moment against you,
but what amounts of infantry and cavalry he is likely to collect before long."

——ドミティウスへのポンペイウスの手紙——
[キケロ, Att, 8巻12c節より抜粋]

____________________________________________
 カエサルの圧倒的な速度(と圧力をかける分遣隊進軍箇所)はローマをパニックに陥れた。ポンペイウスはこれを見て、まず第1に必要な信頼のおけるカエサル軍の動きに関する情報を得ることが殆ど不可能であると理解した。[Seager, p.153]
 元老院議員たちにとっては開戦こそ予期していたもののカエサル軍の速度は全くの想定外だった。元老院はイタリア全土で13万の新兵及び退役兵の募集するようポンペイウスに命じていたが[アッピアノス, 2巻34節]、彼にとってこの非現実的な作業はただの政治的ポーズでしかなく、そのような数が集まる前に移動を始めている。

 カトーの協力にも関わらず元老院はこの期に及んでポンペイウスに軍最高権限を与えることを認めなかったし、執政官たちはポンペイウスの軍事経験に基づく判断通りに行動をすることを許可しなかった。ローマ市民も同様に混乱しこれをマリウスとスラの争いの如くカエサルとポンペイウスの戦争だと思い神に祈りを捧げる有様だった。また、手持ちの2個軍団はカエサルから受領した兵士達でありポンペイウスは完全な信頼はまだおけていなかった。[Seager, p.153][アッピアノス, 2巻36節]
 これらの状況は、ポンペイウスが一度はローマを防衛する代案を考えていたことがあったとしてももはや放棄するしかないことを明確に示していた。[Seager, p.153] 
 そして元老院の反対派に対しても現実を明瞭に突き付けていた。よって、この時点でポンペイウスの腹案たるイタリア放棄、補給統制、海外での戦力増強からの逆襲という計画が本格的に作動し始めたと言える。だがポンペイウスの想定以上に元老院の対応は鈍く、そしてカエサルの作戦行動は驚異的だった。
_____________________________________________
 1月17日、執政官がポンペイウスにイタリアを縦走し軍勢を招集するよう指示し、彼はそれに従いローマを離れた。この時ローマはもはや奪取される寸前であるような雰囲気あったが、まだ陥落していないし元老院の大脱出も始まっていなかった。影響を与えたのはポンペイウスが執政官指令を受け先にいなくなったことだった。[Westall, p.16],[アッピアノス, 2巻36節]
 ポンペイウスは何とか元老院決議でローマの国庫を使用できる権限を獲得していた。なので執政官がその金を持ってくる手はずになっていたのだが、ポンペイウスがローマを発った翌日、執政官レントゥルスは資金を回収している途中(予備金庫を開けた段階)でカエサル軍が近づいている或いは騎兵隊がもう到着したという知らせを受けてなんと逃走してしまった。勿論カエサルの作戦上ローマに突進などこの時しておらず(しても即時陥落など不可能なので)これは全くの誤報であった。こうしてカエサルの手に本来ポンペイウスがコントロールするはずだった膨大なローマの国庫の資金が渡ったのである。[カエサル, 内乱記, 1巻14節]
 元老院と市民の混乱をよそにポンペイウスは撤退中に迅速に計画を回し始めている。この時期に全ての属州/属国の統治者たちに手紙を出して支援を要請して海外戦力構築策を開始し、更にこの時点で彼はイタリア中の船をかき集めるよう指示を各所に飛ばして後に必要になる海軍力を展開していった。[Goldsworthy, p.391][アッピアノス, 2巻38節]

 1月22日、キケロが恐怖と混乱に陥っていたのが書簡からはっきりと見て取れる。彼はポンペイウスが何も考えていないと批判しているが、中立よりでしかも軍事的なプロフェッショナルでない者と戦略をシェアしている暇などもうなかっただけである。この時点では既にローマ放棄を確定、イタリア南部に残存兵力を集結させようとしていた。ここからイタリアそのものの放棄を決定(元老院に認めさせる)場合は港から出ることになる。ただしポンペイウスはこの時点では、イタリア中部まで進んだカエサル軍の北部へと伸びる補給・連絡線を遮断することができる希望は無いか伺っていた。また、ラビエヌスがカエサルの下を去り22日にカプア北部(Teanum Sidicinum:現ナポリ近郊)で合流した。これは元老院側に大きな士気の向上をもたらした。[Seager, p.154], [Westall, p.16]

 1月25日、カトーを含む元老院議員のかなりの数が恐慌状態にあり、カエサルの出してきた講和条件を飲み戦争より奴隷(降伏)がよいという意見に傾いていたとキケロは述べている。狼狽する議員たちを尻目にポンペイウスはラビエヌスと共にカプアから北東へ(Larinum)出立し、素早く西海岸側から東海岸側へ移動する。[キケロ, Att, 7巻15節]
italian campaign
※ローマから出た後、西北西にまず向かいコルフィルム周辺まで行ってからカプアへ向かったとするロシア語資料有。キケロ書簡で該当箇所を発見次第図は修正する。

【進む戦力集結及び脱出計画とコルフィニウム戦に関する指揮系統の脆弱性】

 元老院側への指揮統制権限の脆弱さそして信頼のおけない兵士の練度と忠誠は、カエサル軍とは直接的対峙をしないというポンペイウスの理性的判断を導出した。[Sheppard, p.34]
 彼は自信の戦略のために的確に指示を出し行動に移していた。だがローマ市民の印象とは裏腹に、ポンペイウスは軍事的にも政治的にも独裁的な権限を有しておらず、情報が錯綜する中で指揮系統の脆弱性は事態を悪化させていた。それをコルフィニウムを巡る一連のやり取りが明示している。

 2月2日、キケロはドミティウスが僅か3000人の兵士と共にピケヌム(イタリア中央東域)から後退しているという話を受けて、ポンペイウスが完全なる撤退をしようとしていると確信し、絶望感をあらわにしている。[キケロ, Att, 7巻24節]
 アスクルム市の守備を担っていたスピンテルやカメリヌム市から来たヒッルスの戦力は撤退の際に多数の逃亡者を出しながら合流し、新規募兵と合わせなんとか13個大隊を再編していた。この兵力は都市コルフィニウムを守備するドミティウス・アエノバルブスとの合流に成功する。[カエサル, 内乱記, 1巻15節]
 2月9日、ドミティウスが合流成功し戦力を構築しカエサル軍の進撃を止めている、と報告が元老院に入った。このおかげで議員たちはイタリアでの抵抗に希望を抱くことができ、キケロはこの知らせをポンペイウスが受けて(イタリア防衛のために)どう反応するかを期待しながら待った。だがこれに対するポンペイウスの答えはキケロの期待に沿うものではなかった。[キケロ, Att, 7巻23節], [Seager, p.154] 
 2月10日、ポンペイウスはキケロに対し、自分が受け取ったドミティウスの報告は、2月9日時点で彼がコルフィニウムから26個大隊の兵士と共に撤退しポンペイウスのいるルケリア(Luceria/Lucera)へ合流しに向かうことを計画している、という話だと伝えた。そしてキケロ達にもルケリアへ合流するべきだと促している。未だにキケロは会戦をするべきと発想していた。これについて2人の手紙のやり取りでキケロが丁寧に長々と書いているのに比べ、ポンペイウスの返答は簡潔かつ冷淡ですらある。[キケロ, Att, 8巻11a,b,c,d節]
 このように明確にポンペイウスはドミティウスの保有するイタリア中南部の防衛戦力を後退させ、戦力を南部に集結させる方針を既に進め、ドミティウスとその方針を伝えていた。だがここで元老院軍の内実を表す事態が起きた。 [ディオ, 41巻11節]

 2月11日~2月15日においてドミティウスからの連絡は途絶し、更に驚くことにこの期間中に別の者(Vibullius)からドミティウスが戦力を後退させずコルフィニウムを保持しようとしていることが伝えられたのである。Vibulliusが説明したその方針変更理由は、カエサル軍がアスクルム市(Asculum)のそば(Castrum Truentinum)まで到達したからというものだったが、これは全く非論理的であった。退路を遮断されたわけでもなく、そこからコルフィニウムまではまだ距離があり充分離脱できる。ポンペイウスは「戦力を分散させていては敵軍に抗し得ない」と述べ、間に合わなくなる前に撤退するよう再度要請している。[キケロ, Att, 8巻12b節], [Seager, p.157] 

 2月16日、ようやくドミティウスから報告が届き彼の考えが判明した。
 ①もしカエサルが(コルフィニウムを迂回しようと)海岸沿いを進撃した場合、彼はすぐにポンペイウスのいる南部へ脱出する。
 ②もしカエサルがコルフィニウムへ直接接近してきたら、抵抗を実施したい。
 このようなメッセージを受け取ったのだが、当然この希望は受け入れられないものだった。そもそも①も②も今動けるのに動かずカエサルが先に進むまで待つという案であり、そして①はカエサル軍の速度を、②はカエサル軍の戦闘能力を過小評価している。当然ポンペイウスの返答はその判断は間違っているから早く撤退して来いという内容だが、ドミティウスのプライドを刺激しないようかなり丁寧な書き方になっている。
 「貴方の案は勇敢なものだと思います。けれども分断された場合は不利になることについて私は心配せざるを得ません。貴方のような先見の明ある人なら、カエサルが貴方と対峙するために今持っている兵数ではなく、近い将来彼が集結させるであろう歩兵と騎兵の数を推計するべきです。このこと(カエサル軍の集結)はブッセニウスからの報告及びその他の報告書で証明されており、クリオがウンブリアとエトルリアを守っていた兵士を集めカエサルと合流するために行軍中であるとのことです。そうしてもしこれら全ての軍勢が集結してしまうと、アルバ市に分遣隊を送った上で別部隊で貴方を脅かした場合を考えたとしても、(貴方の軍へ平攻めするのは危険だから)カエサルは戦闘をするのではなく己が強化陣地地点の位置を保とうとするべき状態になるでしょうが、貴方は行き詰まり1個軍と共に孤立し、貴方の(地域の)穀物を収奪することすら可能なそのような膨大な敵数には抵抗不可能となるでしょう。ですので私としては、貴方がその全戦力を率いて可能な限り早くここに来るよう強く勧めます。執政官もそうするよう決定しました。私は(以前)貴方の所にツスキリウス(M.Tuscilius)を送って、その2個軍団はピケヌムからの諸大隊無しではカエサルに近づいてくのは許されないと伝えました。」
 この後の文はポンペイウスの手元にはまだ十分な戦力が無く現在各拠点から集結させていること、そして各戦力は彼の下に集めるかシチリアへ撤退させるのが執政官の方針だとし、共同作戦をとるよう再度促している。[キケロ, Att, 8巻12c節]
 (※ピケヌム地方アスクルムの諸大隊は既に大部分の兵士が逃亡して消えていた。[カエサル, 内乱記, 1巻15節]

 合理的に導かれる唯一可能な結論はイタリアからの脱出であった。けれどもこの手紙を送る前にドミティウスから追加のメッセージが届き、ポンペイウスの方が彼の下に増援に来るよう要請してきた。ドミティウスは将来的に発生する状況を予測で来ておらず、また彼だけでなく元老院にはカエサルを食い止める戦闘をドミティウスにさせるべきだと考えている者達がいたのである。元老院は相当数が「戦力を集結させる」というメッセージの意味を、ポンペイウスがその全軍でブルンディシウムへ行こうとしているのだと誤って解釈してすらいた。ポンペイウスは現状の自身の戦力(14個大隊)では不可能と追加で説明をしてあげているが、本来このようなことは言うまでも無く撤退しかないとわからねばならなかった。[Seager, p.157], [キケロ, Att, 8巻3、11d、12c節] [Fritz, p.159]
 (※もしかすると「勇敢な」というフレーズには皮肉が込められているかもしれない。抗戦を望むキケロに対する返答でも「貴方の勇敢さに感銘を受けた」と言った後、合流するべきでありブルンディシウムに来るようにだけ短く書いている。[キケロ, Att, 8巻11c節]

 2月17日、カエサル軍がコルフィニウム近郊に陣営を設置したとドミティウスから報告が届く。[キケロ, Att, 8巻12d節]
 カエサルはフィルルム市を奪取した後敵逃亡兵を集め自軍の新兵を募集するように命じると同時に僅か1日でそこを発ちコルフィニウムへ急進していたのである。そしてコルフィニウムへ着き前衛が戦闘をしてドミティウスを市に追い込むと、周辺の町を寝返らせながら、主部隊は戦闘をせず自陣守備をまず堅め後続戦力が集結するのを待ち、付近一帯で糧秣を収集しつつ市を包囲した。これはカエサルの書いた内乱記で自分がそうしたと述べている各行動である。[カエサル, 内乱記, 1巻16~18節]
 これを見るとポンペイウスの予測は驚異的精度で、カエサルの行動およびドミティウスの方針が将来どのような戦況へ到るかをほぼ完璧にあてていた。

 2月17日のカエサル到着段階では(後続が来ていないので)まだカエサル軍は決定的戦闘へ移行してはこないと推察し、すぐに脱出するべきとドミティウスに再度伝えている。[キケロ, Att, 8巻12d節]
 これらの手紙のやり取りはポンペイウスの立場がにじみ出る内容になっている。撤退について、彼の意志として伝える文ではラテン語のhortorを使いあくまで「勧める」という形で抑えられており、加えて「執政官が」同意している事項という言葉で説得力を補強しようとしている。彼がどれだけ正しく状況を分析しようとも有する権力では「協力を頼む」ことしかできなかった[Seager, p.158] ※キケロに対しても合流を「頼む」書き方にしている。[キケロ, Att, 8巻11c節]

 つまりポンペイウスには各指揮官級や元老院議員への絶対的な指揮権が公式にも非公式にも備わっておらず、元老院に担ぎ上げられた上で強権を制限された中途半端な状態で、なのに彼以外に軍事指導者として引っ張れる者はいなかった。元老院側の指揮系統は脆弱で方針の不一致、決定プロセスの致命的遅さ、命令の不徹底が発生してしまっていた。
_____________________________________________
 同2月17日ポンペイウスは執政官に向けても手紙を書いた。元老院の各軍はカプアからシチリアへと、イタリア南部のブルンディシウム港からバルカン半島のデュッラキウムへと行くべきと考えを述べ、後者については既に周りにいる議員たちの賛同を得た上で自分で決断を下しもう移動準備を始めるという。[キケロ, Att, 8巻12a節]
 そして2月19日(又は18日)ルケリアからブルンディシウムへ向け出発した。21日にはカヌシウム(Canusium)を通過している。21日にキケロが感じていた様に、ポンペイウスはドミティウス軍を恐らくこの時点で諦めていた。彼らが知ったのは後のことだが、2月21日(ドミティウス捕虜は22日?)にコルフィニウムは奪取されていた。ポンペイウスのいる司令部はカプアを発ってからイタリア南東部までの撤退を一切の遅れなく迅速にやり切り、カエサル軍に食らいつかれることはなくむしろ引き離した。 [Westall, pp.16~17], [Seager, p.160], [カエサル, 内乱記, 1巻 訳注40], [キケロ, Att, 9巻1節],

 カエサルの視点で書かれた『内乱記』にはこれらコルフィニウムを巡る話の前半部分の説明が抜けており、最初にでてくるのがドミティウスがポンペイウスに救援を送ってくれなければ包囲されると言う箇所からである。(恐らくドミティウスが自己弁護のためにカエサルにそう説明したのだろうし、カエサルにはあずかり知らぬ話であった。)
 もはやコルフィニウム市にいるドミティウス軍の結末は誰の目にも明らかだった。動かぬまま時間を浪費し、包囲封鎖されたドミティウスは救援が来ないことを知ると、兵士を見捨てて自分と仲間内だけで脱出しようとしたが、情報は漏れており兵士たちは彼を拘束し他の元老院階級の者と共に降伏を申し出た。コルフィニウムに居た元老院軍は逃走して四散するか、カエサル軍へ吸収された。カエサルはドミティウスを軽蔑しながらも寛大な処置を取り、資産を返した上で解放した。[カエサル, 内乱記, 1巻17~23節]
 (※ドミティウスは安全に脱出できるようある程度準備を進めたが部下がイタリアを去る方針を嫌がり脱走・カエサル軍と合流したとディオは書いているが、これは軍ではなく包囲された後のドミティウス個人の脱出計画と捉えるとカエサルの説明と合致する。 [ディオ, 41巻11節]

7. ブルンディシウム港からのイタリア撤退

 2月25日(遅くとも27日)にはポンペイウスはブルンディシウム港へと到着していた。[Sheppard, p.34], [キケロ, Att, 8巻9、11d節]
 このイタリア南部の都市はアドリア海を渡りバルカン半島へ行くのに適した港だったが、その全軍を一気に運ぶだけの船は港内に無かった。ポンペイウスは順次兵士たちを運んでいくと同時に、まず執政官ら指導層を先に脱出させたが、自分は港の防衛と出航を監督するためギリギリまで残ることにした。3月初頭(9日?)、この時点で既に相当数の兵士を移送完了しており、都市に残っていたのは20個大隊とポンペイウスである。だがそこへ6個軍団(うち3個は新規募兵)を率いたカエサルがブルンディシウムの前に現れた[カエサル, 内乱記, 1巻25節], [Sheppard, p.34], [Westall, p.17]

 ある程度の兵力がまだ居たので、カエサルはもしかすると敵がこの港湾都市をイタリア再上陸用拠点として保持し続けようとしているのではないかと懸念したが、これは杞憂でありポンペイウスはただ船を待っていただけである。[Seager, p.160] 
 ポンペイウスの引き際は見事だった。門を封鎖するだけでなくカエサル側の攻城工事に同様に様々な建設で対抗し、更に街の中や道路のあちこちに堀や杭を打ち込み、柵などの障害物を大量に作った。それらが完了するとポンペイウスは兵士に静粛に乗船させ始め、同時に信頼のおける古参兵を軽装で弓や投石兵と共に城壁に配置し最後の守りを任せた。そして3月17日(?)、他の全ての兵士が乗船しきると予め定めておいた合図で彼らを呼び、見知った道を素早く通り近くとめておいた快速の船に乗せ脱出させたのである。親カエサル派の内部住人がそれを伝えカエサル軍は急ぎ攻め込んだが結局彼らを捕捉できなかった。こうして元老院勢力はイタリアを脱出しきった。一連の街からの脱出と司令部のギリシャへの撤退は明確に予定に組み込まれており、そして極めて巧みに成功した。カエサルは追撃したかったがポンペイウスが各港から船を根こそぎ徴発していたため、充分な数の船は残されていなかった[Pocock, p.80], [カエサル, 内乱記, 1巻25~29節], [Seager, p.161][Sheppard, p.34]
 キケロの記録ではこの時の元老院軍は総勢30000人、執政官1人、護民官2人、元老院議員複数及びその家族が脱出したとしている。彼はこの時中立派としてポンペイウスに合流しなかったので、元老院軍と公的情報のやり取りはしておらずあくまで未確定の伝聞である。風が良かったので3月4日に全軍を連れて去ったというのはカエサルが実際に見た光景と一致しない。主力脱出の開始を全軍完了と誤認したものと思われる。アッピアノスの記録では5個軍団となっている。[キケロ, Att, 9巻6節], [アッピアノス, 2巻49節]

 カエサル自身もイタリア占領に浮かれることなく「ポンペイウスはカエサル側の(攻城)工事に不安を抱いたためか、それとも初めからイタリアを撤退することに決めていたのか、はっきりと確かめることはできなかった」と、敵側が撤退を計画通りに行っている可能性を警戒した。そしてすぐさま次の行動へと移っている。カエサルはどれだけ良く捉えたとしてもこれがピュロスの勝利であることに気づいていたのである。[カエサル, 内乱記, 1巻25節], [Westall, p.17]

 シチリアに行った戦力は小カトーが率いて防衛を任された。ポンペイウスが行ったバルカン半島は勿論、北アフリカやサルディニア島、スキピオの居るアジア方面の各属州、エジプト等の属国は元老院側であったし、ポンペイウスの総督任地であったヒスパニアには彼の子飼いの軍団が居た。イタリア制圧戦はたった2か月で終わったが、カエサルの前にはまだ膨大な戦場が広がっていた。

8. イタリア戦役の戦略的位置づけの再考

 Despite the loss of Italy, he still held the moral advantage.
 [Seager, p.163より抜粋]

イタリアの喪失は、後のシチリアとスペインですら、その戦略上許容範囲内であり
計画は今なお有効に機能していたのだ。
[Pocock, p.80より抜粋翻訳]
_____________________________________________
 カエサルは僅か2か月でローマ中枢たるイタリアを侵略しきった。これは見事な成果であり、その高速の進撃と情報を使いこなした手腕は疑いようなく卓越していた。だがこの戦役の戦争全体の中での位置づけを考えた上では、カエサルが「勝利した」とは見なされない。それらはカエサル側の視点においてもポンペイウス側においても同じである。

【戦略-作戦上の1目標を達成したポンペイウス】

 まずイタリア戦役は決して「戦争」の勝利ではなかった。ポンペイウスら元老院の反カエサル派の大半は無事で、相当数の戦力を持ったまま海外へ移動し再編し次の戦いのための準備を始めた。この戦役の終局状態でカエサルが直面したのは巨大な領域で3方を敵に囲まれ、近い将来物資供給の大元を断たれ、遥かに優越する数の敵を各地で破らねばならないという非常に不利な戦略的状況だった。特にイタリア全域での補給物資の窮乏がいずれ訪れるのは、金と物資をばらまいて人気を得てその勢いこそが支持される大きな理由であった彼にとって、イタリア制圧はイタリアを支えなければならないということを意味し、巨大な負担に入れ替わった。カエサルは(後に実際に成し遂げたように)これらの背景を持ちながら各地の敵を倒し続けなければ戦争の勝利まで到達できなかった。即ちイタリア戦役の終局状態は殆どポンペイウスの計画通りであり、国庫資金の奪取やピケヌム戦力との合流失敗こそあれど、彼の戦略の許容範囲内に収まっていた。
 ポンペイウスがいつ全体の骨組みを立案したかは未確定だが、戦争序盤において彼は権限が足りず幾つかの作戦で後手に回らざるを得なかったし、カエサルの急速進撃が引き起こした元老院の混乱を収拾することもできなかった。けれども事実上ポンペイウスはカエサルを誘き寄せ、包囲し、補給を遮断し、数的優位を持って逆襲を行う一連の流れを成功させつつあった。それは物理的にも概念的にも想像を絶する巨大な領域で行われていた。
________________________________________
 カエサルは攻勢初期においてポンペイウスの予想を凌駕し彼に少なくない動揺を与えた。イタリア北中部の防衛の準備が不十分で早期突破を許してしまったことはポンペイウスの失敗だったと思われる。とは言ったものの代案は難しい。まず手持ちの2個軍団を北部に張り付かせるのはそれこそカエサルの思うつぼだ。典型的な奇襲攻勢による無力化を受けてしまうので、戦線の大きく後方に拘置する方がまだ無駄にならずにすむ。ならば追加動員をもうしてしまっておくべきだった、というのが回答になるだろう。ポンペイウスは12月時点で開戦を覚悟しているので、もし本当にカエサルの行動を読み切っていたならここで動員しておくべきだった。ただこれも後付けの空論と反論を受けるだろう。なぜなら政治的に不可能と思われる要因が多過ぎるからだ。前49年早期に開戦不可避と確信していたのは元老院で多数派ではないし、むしろ戦争回避のために自分達が先に刺激するなどもってのほかだと糾弾される。ここで押し切るほどの政治権力がポンペイウスになかったことは繰り返し述べた通りだ。開戦前大動員には市民を納得させる大義名分が無く、パルティア遠征を口実にするとイタリア内では限られてしまうし、もしカエサルが動かなければ予算が湯水のように使われるだけになるため政治的な批判は避けられない。事前に大動員して北中部防衛線の構築をして且つ後方にも野戦戦力を置いておきたい、という軍事的要請は政治的実情の前に却下されるだろう。これを踏まえてやはり内戦前の政治的闘争にこそ、この戦略方針を巡る根本的な影響要因があると考える。
________________________________________
 イタリア戦域が一方的な戦いであったにも関わらず戦略が崩れなかった理由は、カエサル軍が多くの敵兵と指導者層を逃し戦いを継続する力を元老院側に残してしまったことにある。そしてそれこそがカエサルとポンペイウスがこの戦役において常に焦点としていたことだった。
 
 ポンペイウスはその戦略のためにイタリア戦役で必要なのは、今カエサル軍に決戦を挑むことでは無く、将来の海外展開に必要な機能を残すことだと早期に確信していた。その戦略下でカエサルが如何に戦術的に卓越した用兵をしようがどの街を奪取しようが、逆にもし元老院側が戦術的勝利をどこかで得ようが、何ら彼の戦略基幹は変わらなかった。勿論イタリア内に橋頭保を保持し続けられれば幸いであったが、それがあろうがなかろうが決定的行動は海外で起こされる補給遮断と増援戦力の構築だ。
 ポンペイウスはひたすらに戦力を保存しようと注力していた。その極致は暴走したドミティウスの戦力を見限ったことに示されている。会戦を挑みたければ駆け付けられたし多数の元老院議員がそれを望んでいた。だがそれは状況との適合性は無く効率的な一貫性も無く、そもそも戦略-作戦的視点が欠けていた。だから彼は両軍の戦力がはっきりする前から撤退を推奨しており、ポンペイウスにとっての焦点と元老院の決戦主義者達の論点はズレていた。決戦を求める人々は早く恐怖から逃れたいあまり狭窄的な思考に陥っていたか或いはカエサル軍を過小評価していた。長く戦い続ける道こそが唯一勝利へとたどり着けると考えたポンペイウスこそが誰よりもカエサルを評価し、現実から目を背けていなかった。特に政治的有力者たちは軍事指導で足かせとなり、彼は孤独ですらあった。皮肉なことにポンペイウスと同じくこの戦争を終わらせるためにどんな軍事行動をとるべきか理解していたのは敵であるカエサルだった。

【カエサルの戦術的勝利、作戦目標の達成失敗】

 カエサルは『この戦役で』戦争そのものに勝利するための作戦行動を執っていた。彼は正確に何がこの内戦を終わらせるのかを把握し、そのために軍事力を振り向けている。目標は敵戦力の捕捉撃滅だ。
 もちろん領土は重要な要素だがイタリア戦役に限るとそれは決定的ではない。鍵となるのはこれが強大な国力と連絡網を持つローマの内戦だということであり、その戦争は首都を獲っても終わらない。大前提として認識しておかなければならないのは、即応兵力の数と質でカエサル軍が上回っており且つ先制攻撃ができたということに惑わされず、総力が優越していたのはローマの合法的政府たる元老院側であったということだ。もしカエサルが敵の属州と海軍力に基づく将来的かつ広域の展開を想定に入れておらずただイタリアを占領すれば勝てると思っていたのであれば、あのようなリスクのある少数での分散および突進などする必要はなく、目の前の戦闘の勝利のために安全策を取っていたはずだ。優越するガリアの軍団を待ってから進み、迂回することなく首都へ向かい凱歌を奏でていればいい。そしてそれがポンペイウスにとって理想の展開だった。カエサルはポンペイウスの戦略を読んでいたか或いは将来的な危険性を候補に入れて、それを壊すために最適行動をとった。それだけがイタリア南部へまっしぐらに主攻を向け危険を冒し突き進んだ理由に足る。

 この戦役のみで戦争を終結させるには敵の指導部の意志を打ち砕くことが必要であり、継戦のために使用できる軍事力を消失させねばならない。ここで述べている軍事力とは、今保有している戦力と将来的に構築できる戦力の2つを意味し、その両方を潰すことが戦略-作戦上の要点だった。
 イタリア戦役の場合、現有戦力を完膚なきまでに消滅させることは将来的戦力構築の可能性を潰すのと直結していた。もしイタリアで全ての戦力を喪失した状態でバルカン半島に逃亡したら、追撃はすぐさま行われ残存を完全消滅させるか、全く立て直しが元老院側はできなくなり、東方領域の各統治者に彼らを見限らせるに充分な情勢だとわからせることができた。事実このイタリア戦役の終局時にカエサルは追撃をしたいとしっかりと考えていた。できなかったのはポンペイウスの手により使える船を奪われており相対的戦力差が埋められなかったからだ。元老院が僅かな供だけで居たら、ほんの数隻分の兵力で彼らを駆逐するに足る。だが現実ではポンペイウスはイタリアで集めた相当数の戦力を保存し、手元に持ってバルカン半島に行った。これをすぐに倒すだけの戦力を運ぶだけの数の船をすぐに用意できなかった。これが船が足りていなかった、という言葉の意味である。ポンペイウスが戦力を保存しようとしたのは、再構築時に可能な限り早く逆襲に十分な兵力に達するためであったが、同時にドミティウスを見捨てることができたのは、海を渡った後の追撃を回避するに充分な兵力に達していたからである。これらは実際にファルサルス後に起きた事象を参照すればわかりやすい。
 (※ 本来は政治的/外交的な交渉を外部領土統治者とすることにより敵の将来的戦力再構築を防止するのが望ましいのだが、この時カエサルは(どれだけ理不尽な仕打ちを受けていたにせよ)非合法の行動を執っており正統的権威としてのローマ政府は元老院側にあったので、軍事手段の直接的行使または示威しか主要手段がなかった。)
________________________________________
 カエサル側にとってイタリア戦役で戦争そのものに決定打を与えるには敵戦力撃滅しかなく、そして実際に遂行された諸作戦はそれを指向していた。カエサルは首都ローマにとらわれることはなく、それどころか首都を利用しそこへ脅威を与えることで戦力拘束と情報混乱を敵にもたらした。ローマを迂回したことに加えて懐柔策を織り交ぜて戦力消耗と時間浪費を抑え、全ての都市で長く留まることなくまっしぐらにイタリア東側を南下し敵へ近づいて行き、最終的に元老院軍の主要脱出口となったブルンディシウムまで異様なまでに真っすぐ向かっている。次章で述べるが、ポンペイウスの戦略上必須地域は東方であり撤退方向は東海岸が最適だった。しかも敵に募兵及び集結の時間を与えないために、加えて混乱で自軍戦力を敵に見誤らせる効果ももたらしながら、少数で複数個所に最速の突進を行った。少数で進むことで敵を会戦に誘い込める効果が期待でき実際に多くの元老院議員とドミティウスはそれにひっかかったものの、ポンペイウスは罠を見抜いたため決戦には持ち込めなかった。最大の賞賛を与えられるべきカエサルの決断は、一番最初の場所で実施された采配が最後の場所までの突進のために最上のものだった点だ。

 決戦及び敵戦力殲滅がカエサルの戦略的方針として唯一この戦争にこの戦役内で勝利できる道筋であり、もしポンペイウスの戦略に付き合い持久消耗戦を彼がし始めたらこの戦争に勝ち目はなかった。カエサルは目の前の戦闘に勝利しようと夢中になっていたのではなく、常に敵の包括的目論みを崩そうと狙っていた。だがそれでも彼はこの戦役では戦争に勝てなかった。なぜなら敵もまた優れた指揮をしていたからだ。元老院側の行動は最適ではなかったが、ポンペイウスの尽力はカエサルに決定的な機会を与えなかった。

【複数の戦役を統合した戦略へ】

 イタリア内の即応戦力は劣っていたが海外まで含めた総力において元老院側は遥かに優越していた。そのアドバンテージを活かすのはポンペイウスの持久戦略であり、決戦はディスアドバンテージをわざわざ前面に出す行為に他ならなかった。だからこそカエサルは敵を会戦に引きずり込みたかった。
 カエサルの指揮は恐るべきものだった。分遣を含む進軍箇所、タイミング、使者と手紙による情報面での仕掛け、少数での高速の突進は敵にまるで募兵・集結の時間を与えずパニックをもたらし、強大な後続戦力を隠して敵に決戦の誘惑を行った。それらの作戦行動は勿論卓越しているが、この戦役における戦略的位置づけとして最も注目すべきなのは、カエサルがイタリア領内で決戦に持ち込もうとしていた方針そのものである。そして全く同等にポンペイウスの軍事方針で(交戦時の戦況予測や移動の的確さを見せたことは見事だが)最も注目すべきなのは彼がイタリア領内では絶対に決戦を回避し長期的に持久消耗で勝利を得ようと考えていたことである。この2人は同じ軍事領域で戦っていた。それは敵の戦略の中で如何に卓越した戦術で状況を覆すかの戦いではなく、己が戦略を敵に強制しようとする戦いだった。

 カエサルだけでなく味方の元老院の多くが決戦を望んだが、ポンペイウスは己が戦略を崩さなかった。イタリア戦役が終わった後、カエサルがこの戦役内では圧倒的に優越した軍事的成果を挙げたにも関わらず全体的な状況が不利になっていたのはそれ故である。言い換えると、カエサルは各戦闘に勝利したがその戦役の目的を達することはできず、戦果として圧倒したにも関わらず作戦は失敗だった。ポンペイウスは悉く各戦闘で敗北したが、その戦略を貫徹しそれに必要な条件を満たし、イタリア戦役における作戦を成功させた。
 ここで焦点とされたのは決戦主義と持久消耗主義の対決そのものだった。どちらの主義が優れているかではなく、どちらの主義に戦争が最終的に落とし込まれるか、である。戦略的次元領域での争いとは、どちらの望む形態で戦争が進むことになるか、その自己意志を敵に強制する試みだ。この戦争の全ての段階でカエサルは決戦に引きずり込むためあらゆる手段を講じ、ポンペイウスは持久消耗を続けるために全ての労力と意志をつぎ込むことになる。そして、だからこそ、ポンペイウスにとって『2つ目の戦い』が決定的差異を生むのである。

 ポンペイウスの戦略範囲内で推移したとはいえ、イタリア戦役ではどちらもまだ戦争の勝利へ到る決定的優位性を得てはいない。カエサルはこれから初期計画を変更し、彼の戦略のために新たな戦役を行う。最終的に戦争に勝利した時、イタリア戦役はそのための第一歩に再配置されるだろう。イタリア奪取に成功したのは確かな成果なのだ。元老院とカエサルが望んでいた展開ではなくポンペイウスの思い通りに、戦争はまだ始まったばかりに『成った』のである。


In little more than two months Caesar had overrun all Italy. 
But the victory was hollow one for his rival had escaped with his army intact.
The first round went to Caesar; there would be a second.
 [Sheppard, pp.34~35より]









______________________________________________
続きます。
⇒地中海戦争
(リンク後日作成)




ここまで長い、長過ぎる拙稿を読んで下さってありがとうございました。
ポンペイウスの戦略を把握した後だと、2人がとった作戦と戦術に関して大きくズレた誤解がなくなるのでとりあえず書き始めましたが…あまりに長くなりました。なのにまだ前半部…ファルサルスの戦術の話に辿り着けるのか。読み切ってくれた人は本当に凄いです。

参考文献

古代ローマ時代に作成された史料
エウトロピウス, “Breviarium historiae Romanae", 英語化by Lamberto Bozzi (2018),” Flavius Eutropius; Summary of Roman History” 

プルタルコス, "Vitae Parallelae", 英語化by AUBREY STEWART & GEORGE LONG,(1892)

ルカヌス, "Pharsalia", 英語化by J. D. Duff, "Pharsalia; Dramatic Episodes of the Civil Wars"

カエサル & ヒルティウス, "Commentarii de Bello Gallico", 日本語化by 中倉玄貴, (2008), "ガリア戦記"

カエサル,"Commentarii de Bello Civili", 日本語化by 國原吉之助, (2007), "内乱記"第12刷

フロンティヌス, "Stratagems", 英語化by Charles E. Bennett, (1925)

キケロ, "Philippicae", 英語化by C. D. Yonge, (1852)
キケロ, "Epistulae ad Familiares"
キケロ, "Epistulae ad Atticum"
キケロ, "In Verrem"
キケロ, "De Imperio Cn. Pompei"

ディオ, "Historia Romana", 英語化by Earnest Cary , (1978版)

アッピアノス, "ミトリダテス戦争" 英語化by Horace White、及び日本語化by 今居清綱
http://history.soregashi.com/appianos/index.html

ウェッレイウス, "Histriarum Libri Duo" 英語化by Frederick W. Shipley

オロシウス, "Historiae Adversus Paganos", 英語化


20世紀以降の研究資料
Simon Sheppard, (2006), "Pharsalus 48 BC Caesar and Pompey - Clash of the Titans"

Tobias Peter Torgeson, (2011), "REFRACTIONS OF ROME: THE DESTRUCTION OF ROME IN LUCAN’S PHARSALIA"

Catherine M. Gilliver, (1973), "The Roman Art of War : Theory and Practice - A Study of the Roman Military Writers"

Robert Greene, (2006), "THE 33 STRATEGIES OF WAR"

Philip Matyszak, (2013) "Sertorius and the Struggle for Spain"

Adam O. Anders, (2011), "Roman Light Infantry and The Art of Combat"

Sara Elise Phang, (2012), "Roman Military Service : Ideologies of Discipline in the Late Republic and Early Principate"

Wm. Blake Tyrrell, (1970), "Biography of Titus Labienus, Caesar’s Lieutenant in Gaul"

L. G. Pocock, (1959), "What made Pompeius fight in 49 B.C.?", Greece & Rome Vol.6, No.1, pp.68~81

宮嵜麻子, (2015), "ローマ共和政における政治問題としての海賊(2)――ミトリダテースと海賊問題――", in 国際経営・文化研究 Vol20 No.1 November 2015 pp.109~126

相川健太, (2013), "藤澤明寛「ローマ帝国下の穀物供給 ――Cura annonaeについて」"

Robin Seager, (2008), "Pompey the Great: A Political Biography"

明石茂生, (2009), "古代帝国における国家と市場の制度的補完性について(1):ローマ帝国"

冨貴島 明, (1998), "消費=浪費に関する理論の歴史(2)――古代ローマのキケロの浪費に関する思想を中心として――" 

Adrian Goldsworthy, (2006), "Caesar: Life of a Colossus"

Kurt von Fritz, (1942), "Pompey's Policy before and after the Outbreak of the Civil War of 49 B.C." in Transactions and Proceedings of the American Philological Association Vol. 73 (1942), pp. 145-180

Ronald T. Ridley, (1983), "POMPEY'S COMMANDS IN THE 50's: HOW CUMULATIVE?"

Ian Longhurst, (2016), "Caesar’s Crossing of the Adriatic Countered by a Winter Blockade During the Roman Civil War"

Richard W. Westall, (2017), "Caesar's Civil War: Historical Reality and Fabrication"

鷲田睦朗, (2016), "「音楽堂のウィッラ」とウィッラ経済の進展ラティフンディウム論再考"

Michael Claiborne, (2011), "The Gracchan Agrarian Reform and the Italians"

砂田 徹, (2018), "共和政ローマの内乱とイタリア統合 退役兵植民への地方都市の対応"

Shelach Jameson, (1970), "Pompey's Imperium in 67: Some Constitutional Fictions"

C. Koehn, (2010), "Pompey, Cassius and Augustus. Comments about the imperium maius"

追記:
(2021/3/24)
雑感:ポンペイウスの戦略とイタリア戦役  @cuniculicavum00
https://note.com/cuniculicavum00/n/nff9afc941ea0
______________________________________________