山岳ゲリラの掃討作戦を成功するために満たさねばならない3つの基本事項があり、それは『偵察ブロック掃討』であるとソ連軍は述べました。
 この内のどれか1つでも満たしていなければ(相手側にミスが無い限り)ゲリラ掃討任務は成功が難しくなります。山岳ゲリラ掃討作戦では敵と密接に接触しそして情報を入手し、ブロック部隊がマニューバを行い配置につくと同時に敵をくぎ付けに拘束し、そして敵ゲリラ部隊を包囲し撃滅します。
 積み重ねられた全史の戦闘記録はこれが必要であることを示していますが、今回は特に1980年代のアフガニスタン紛争での戦例を複数取り上げ、具体的に上記3つの基本事項がどう影響したかを説明していこうと思います。
アフガン戦例集_掃討

参照元文献_米軍と共有したソ連フルンゼ軍事アカデミー編纂書籍

 アフガニスタン紛争は軍事侵攻をしたソ連と現地協力政府アフガニスタン民主共和国に対し各地方勢力が主にゲリラで戦ったものです。ソ連軍では侵攻初期から様々な課題が浮き彫りとなり、戦争中にそれを改善していこうと尽力し戦争後もその試みは続けられました。1991年にソ連軍はこの戦争の山岳ゲリラ戦例を多数まとめあげその軍事的分析、教訓集を作り上げます。『アフガニスタン共和国でのソ連軍の戦闘活動集』と名付けられた本書はフルンゼ軍事アカデミーとして知られる指揮幕僚の最高学府で編纂され使用されることになります。

 時を同じくして米ソ冷戦が終わり両国は急接近していました。CIAの現場職員が驚くほどに両国はもう敵でなくなるのだとと上層部から通達が入ります。それは軍事面でも同じで、なんとソ連軍はこの極めて貴重な軍事資料を作成後「即座に」米軍と共有しました。フルンゼ軍学校で出版されたのは1991年であり、米軍が正式に受領し翻訳して英語版を製作したのは同じ1991年です。ソ連軍は赤裸々に自分たちのミスが記された、そして膨大な血と金を代償に得た軍事的教訓の実例を米軍に直接明かしました。そこにはアフガン侵攻の基本戦略軍事コンセプト、そして対山岳ゲリラ戦術の説明も載っています。訳者のグラウ中佐を筆頭にソ連軍事研究の大御所グランツ大佐などが関わり、米国指揮幕僚大学外国軍事研究室(FMSO)の責任の下で英語版が発行されることになります。米軍側もこの資料を自軍が将来戦う可能性のあるタイプの戦役であると大切に受け止めました。文章の構成はまず実戦記録が短く記され、次にフルンゼ軍学校の分析、そして米軍の(FMSOがレビューした)英語版編纂者のコメントが追記される形となっています。

 「軍部同士の暫定的な交流プログラムが実施拡大されており、米ソ両軍の巨大な相違を橋渡しする試みが為されその2国の軍は将来、統合作戦と平和維持作戦をする可能性がある。」
L.W.グラウ

 これは英語版の前文(p.XX)に書かれた記述の抜粋です。ソ連はロシア連邦へと変わり、現在2020年時点では両国は友好的とは言えず、本格的な米ロ統合軍事作戦という90年代に抱かれた夢は難しい情勢です。それでも2001年からアフガニスタンで新たな戦争を続ける米軍にとってこの資料は非常に高い価値があり、開戦時の将校の中の何人かあるいはかなりの人数が読んで参考としていたはずです。実際に2000年に発行された米陸軍野戦教範FM3-97.6 Mountain Operationsには多分にこのフルンゼ軍学校の本の内容が反映されており、実戦例と図もそのまま参照しているものがあります。

「これはソ連・アフガン戦争における最初の暴露資料である。そしてこれが最後の資料でないことを祈っている。」
D.M.Glantz Introductionより抜粋

 この書籍の中には膨大な数の戦例が記されていますが、本記事はその中から掃討作戦について記された箇所を参照とし記すことと致します。
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 使用されている主要な兵科記号を先に記載しておく。
歩兵大隊と中隊の兵科記号
Military Map Sybols_Soviet


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以下本文 アフガニスタンの対山岳ゲリラ戦例集

1980年_ブロック無しの強襲/掃討作戦の失敗

 1980年冬季、テルメス(Termez)とカブールを繋ぐ道沿いの状況は悪化しつつあった。特にサラン峠(Salang)の地域でゲリラの活動が激しく、サラン峠のトンネルは非常に重要になっていった。ゲリラ勢力は軍用車両とトラックの車列へと攻撃を仕掛けてきたのだ。ピヴォヴァレンコの自動車化歩兵連隊(増強を受けた3個自動車化歩兵大隊で構成)はこの地区を1980年2月から5月まで確保していた。5月まで道路沿線の地域の状況は更に厳しくなっていった。
 その結果、この連隊所属の1個の大隊急襲分遣隊として編成されることになった。この大隊は1個戦車中隊、1個自走砲中隊(師団砲兵隊から派遣)、連隊付偵察中隊、ZSU-23-4(シルカ自走式高射機関砲)の1個小隊、そして1個工兵分隊の増強を受けた。

 5月20日~21日にかけての夜明け前にその大隊に所属する偵察中隊は最初の急襲をゴーバンド地区(Ghorband)で行うことになる。村に到着したのは夜明けの時間帯であった。この先遣隊は到着後すぐさまゴーバンドへ突入し10人のムジャヒディンを殺害した。この次に彼らはその村を徹底的に捜索し始めた。この探索ではほんの数丁のムジャヒディンの小火器を発見しただけで、ゲリラ勢力の集団は既に秘密裏に北へ撤退していたのである。
1980_ブロック無しに強襲掃討試み逃げられた例_1

 翌日、急襲分遣隊の主力を含む全体がついにバーミアン市街(Bamian ※バーミヤン州都ではない)へと移動し始めた。だが大隊は移動中に路上でムジャヒディンの待伏せ攻撃を受けてしまう。これによりBMP1輌とZSU-23-4を1輌喪失してしまったが、それでも分遣隊は市街を制圧した。ソ連軍の各中隊は市街の各区画を攻撃し探索していった。これらの調査によりムジャヒディンは市街を放棄していたことが明らかになった。
 それから彼らの分遣隊は数日間市内に滞在した。この期間中に近くの村も探索したが、一人もムジャヒディンを発見できなかった。ゲリラ勢力は一時的にこの住居地域を放棄していたのである。ピヴァヴォレンコの偵察中隊はこの街にあるアフガン人エージェント網から情報を得て63個の各種武器を捕獲した。彼の中隊以外の大隊の残りの部隊は古式の武器を2つ発見しただけにすぎなかった。

 この分遣隊はさらなる急襲を離れた箇所にある村々や渓谷にも行った。けれども再びムジャヒディンは撤退を成功させ、ソ連の大隊は空になった区画と地域を掃いただけであった。
1980_ブロック無しに強襲掃討試み逃げられた例_2

【ソ連軍の分析】

 米軍著者は入れ替えているがロシア語原文ではこれが一番最初に載せられている戦例であり、フルンゼ軍学校編纂書籍に記された分析内に山岳ゲリラ掃討戦での3つの基本事項が明記されている。

・「軍事的経験は3つの基本タスクがブロック&掃討の遂行を成功させるのに満たされなければならないことを示している。第1に、事前に準備した偵察によりゲリラ勢力の位置を明らかにし、その編制と取り得る行動想定をできるようにしなければならない。第2に、ゲリラ勢力の移動性を制限しなければならない。戦術的空挺強襲や急襲グループは全ての敵撤退ルートを阻止し、逃げようとする敵にはブロック部隊の打撃を躱せないようにしなければならない。第3に、我が方の主力掃討部隊によってまたは正面攻撃をもって敵戦力は撃滅されねばならない。(アフガン戦争の経験において)これらのうちどれか1つが達成されていない場合、ミッションは失敗に終わったのだ。敵と密接に接触し、ブロック部隊がマニューバを行い配置につくと同時に戦闘によって敵をくぎ付けに拘束し、そして敵ゲリラ部隊を包囲し撃滅するのだ。これまで積み重ねられた戦闘記録はこれが必要であると示している。これを達成するために部隊は索敵支援火力支援グループ、主力(打撃)部隊に分けて運用される。」

【米軍の分析】

 米軍の外国軍事研究室はこの戦例について次の点に着目している。
・「この偵察中隊はムジャヒディンと最初のゴーバンド村で戦ったが、これはゲリラの周辺警戒部隊であり主力ではなく拘束の効果は全く無く、しかもこの急襲はゲリラの退路を断つような積極的に裏をかいたものでもなかった。ソ連軍の指揮官は偵察を適切に使わず、型にはまり切ったやり方で闘い、そして何もミッションを達成できなかった。
 あるエリアの掃討作戦を(敵退路を断つ)ブロック部隊を置かずにするのであれば、たとえベストを尽くしたとしてもただの時間の浪費でありいたずらに出血を増やすだけである。ソ連の指揮官はイニシアチブをほとんど見せず、現場を感じ取るセンスが少なかった。」

・「これは1980年のソ連軍の最重要問題事例であると考える。彼らの陸軍はヨーロッパの戦場のために訓練を受けていたのであり、新たな環境に最初は対処できなかった。戦術レベルの指揮官たちにはイニシアチブが欠けており、これをムジャヒディンは利用したのである。」

・「ソ連の指揮官たちは偵察部隊を戦闘に投入し、偵察任務に偵察部隊を限定するということをしなかった。通常、偵察部隊は一般的な自動車化歩兵部隊よりも高度な訓練を受けており士気が高いのだが、その死傷率は一般部隊よりも遥かに高いものだ。この誤った偵察部隊の運用方法は、(それ以外の部隊には)役目をこなすのに充分な能力のソビエト国内部隊がいなかったため(高い能力を持つ偵察部隊に頼ってしまった)という事象によるものだ。ソ連野戦部隊はしばしば慢性的な戦力不足に陥っていたのである。」

[参照:pp.11~14] 
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【考察】

 以上のように最初の戦例だけあってかなり手厳しく反省すべき点があげられている。
 非対称戦争はその目的と立場にある巨大な差異により、単純な戦果比較を困難なものにした。このバーミアンの戦いを見て、ソ連軍は市街と周辺の村に進軍成功し死傷者数でもゲリラ側の方が多いのだからこれは勝利であると言う者は現代のアメリカやロシア軍には存在しないだろう。

 作戦レベルのゲリラ戦において、通常戦では大きな作戦的戦果とされるような「ある場所から追い出し」たり「ある程度の損失をもたらして退却させる」戦果は一定の価値はあるものの、決定的な戦果とはなりにくいということがある。ゲリラの有力な武装を持つ兵力を撃滅しなければ、緩やかな出血が断続的に長く果てしなく続いてしまい最終的に戦略目的の達成を失敗させてしまう可能性が出てくる。故に掃討作戦がゲリラ戦では極めて重要になる。

 山岳ゲリラの掃討作戦は本書内の基本原則に合わせるなら『偵察し、ブロックし、掃討する(Reconnaissance, Blocking, and Sweaping)』の標語で表されるだろう。
 本戦例をソ連軍と米軍共に厳しい文言で評しているが、それはこの基本原則が何1つ遵守されていないから当然のことだ。1つでも欠けば成功は困難になるのに、3つとも守られていないければもはや幸運があろうとも任務達成はできない。

 まず偵察が皆無に近い。事前にこのあたりにゲリラが潜んでいる可能性があるという曖昧な情報を得て、急襲部隊を急行させたまでは良いかもしれないが、その後急ぐあまり本来は偵察を任務とするはずの偵察中隊の先遣隊が強襲及び撃滅を任務として運用されてしまっている。彼らを掃討に使うのであれば、事前に別の偵察部隊が時間をかけて市街周辺全域を偵察し内部アフガン人協力者の情報を精査してから急襲部隊を呼ぶような状況が望ましい。しかし実際は敵を早く攻撃しようと焦るあまり急襲部隊は長距離を急行しそのまま撃滅を任務とする戦闘へ移った。速度は重要だが、他にも必要な事項はあるのにただ攻撃速度のみを頼った急襲が失敗に終わったのは必然的であり、この時の指揮官は任務設定を誤ってしまったと言える。
 この偵察の不備は最初から最後まで見て取れる。最初のゴーバンド村をくまなく調べたのは一応はするべきことだ。しかしそのすぐ後に驚くほど単純に本隊がバーミアン市へ突進をしている。市街外縁部の偵察は不十分であり、行軍の際に縦列周囲に配置する偵察警戒部隊も同じく足りておらず、その代償にBMPとシルカを失ってしまっている。(このタイプの偵察ミスは別の戦例も載せる。)そして市を制圧してから周辺の偵察を逐次行っているが、これではやるべきこととまるで真逆だ。多少の犠牲を払おうとも急襲し奪った後で逆襲を警戒し周囲偵察をする…これはもし任務がバーミアン市街の奪取ならば正しい場合もあるだろうが、ゲリラの掃討という目標であるならば全く違う。あまりに不可解過ぎてソ連軍の1つ上の階級が街の奪取を優先とする命令を出していたのではないかと疑いを抱いている。

 次にブロックだがこれも全くできていない、というよりしようとしていない。(優先目標が占拠であったのではないかと疑う理由の1つ)
 ブロックという用語は通常戦なら主に敵の攻撃を阻止する文脈で使われるが、広義の意味は敵の行動を止めることであり、今回は敵の撤退を塞き止めるという意味の方に重点が置かれる言葉である。ゲリラ戦は戦力の保存を重視して行われるため、相手の対峙戦力が優勢である場合ゲリラ部隊は容易に撤退を決断する。山岳ゲリラを相手に追撃戦を行うのはかなりの困難とリスクを伴う。よって掃討を任務としてゲリラ拠点を襲撃するのであれば撤退ルートを遮断することが求められる。できれば掃討主力部隊の攻撃前に気づかれることなくブロック部隊が展開しておくことが望ましく、最低でも主力部隊攻撃と同時にブロックしておかねばならないだろう。
 今回の戦例においてはブロックは全くしておらず、戦闘が起きているがいずれもゲリラ勢力は撤退に完全に成功している。それぞれの区画に進軍するたびに潜伏ゲリラがいないか調査したため毎回足が止まり、ゲリラ側は距離を離し接触を断つ機会を得ていた。急襲だったのは最初の村だけで、もはや奇襲性は消えゲリラ側は撤退を望めばいつでもできる状態になっていたのだ。ただ奪取後に確保のため村を調べるのは多くの場合必要なアクションであり、これをしないのは大きなリスクがある。掃討を望むのであれば、突進では無くブロックをしっかりと構築しておくべきなのだ。そしてブロックの性質として山岳戦では高地の占拠が非常に重要になる。これを別の戦例で詳しく取り上げる。

 そして3つ目の掃討についてであるが、上述のように敵をただその場から押し出せる戦力では無く敵を撃滅するに足る強力な戦力が必要である。更にブロック部隊は多くの撤退ルートをカバーしなければならずその場を離れることが難しいこともあり、ある拠点/エリアの掃討は主力部隊によって行わると言われている。もちろん先の2つの条件(偵察とブロック)は満たしておかねば、今回のように掃討主力部隊は過大な困難に直面し見合わぬ犠牲を出すことになるだろう。奇襲性、急襲は偵察とブロックができていようが可能な限り求められる。ゲリラの動きは極めて流動的になり得るため状況は刻一刻と変わる。敵拠点周辺の住民はほぼ敵対的中立であり、掃討側は住民を攻撃はできないのに偵察の役割をこなしてくる厄介な存在である。掃討を行う3条件を満たせる状態になれば即座に行動を起こすべきだろう。
 
 以下にはこれら3つの基本事項を踏まえた上で様々な戦例を取り上げていこうと思う。

1982年_シェルハンケル村の戦い_偵察と敵行動想定の重要性

 1982年春、ゲリラ勢力はアフガニスタンのパーワン州で戦闘活動を始めた。ゲリラは車列や監視所、別れて行動していた兵士たちを狙って攻撃し、バグラム航空基地とソ連の空挺連隊のベースキャンプを定期的に爆撃してきた。そんな折、インテリジェンス部門がシェルハンケル村(Sherkhankhel)の周りで活動している約40人の充実した武装のムジャヒディン(イスラム戦士)がいると報告してきた。
 空挺連隊指揮官はこのゲリラ勢力を撃滅するよう命令を受領した。部隊は戦闘準備を急速で完了させた。3日間の戦闘に足る弾薬が全ての空挺兵に配布され、各戦闘車両には2回分の戦闘規定弾薬数が積み込まれた。連隊指揮官は個人的に大隊の即応性を監査していた。

【計画立案と準備、移動、接近】

 第3空挺大隊の指揮官の建てていた計画は次のようなものだ。彼は率いる大隊を秘密裏にシェルハンケル区域へと移動させ、空挺兵の2個中隊を用いて封鎖し、その間に1個中隊(第3中隊)が村の中を索敵する。空挺兵の1個中隊が予備として保持され、1個砲兵大隊と4機のMi-24戦闘ヘリコプター(ハインド)が戦闘の開始と共に支援を行う、という予定だった。

 3月20日夜明け前、第3空挺大隊はバグラム基地を出立しシェルハンケルへ向かった。1個偵察警戒部隊が車列の300m前方で進む。この接近行軍は1本の広く直線的な道の上を移動して行われた。道路の左側に沿って厚く高く長い日干しレンガの壁が伸びており、道路の右側には幅5mで深さ2.5mのコンクリート製の運河がはしっていた。

【ゲリラの伏撃】

 ソ連軍の車列がレンガ壁を横目に見ながら道路を進んでいた時、突如として攻撃を受けた。レンガ壁には銃眼が開けられており、実際の所かなり至近の直射距離からゲリラはソ連軍先頭の偵察警戒部隊に射撃を行ったのだ。先頭部隊の残存生存者は急遽這い進んで右手にある運河に飛び込み、壁からの射撃に対し安全を確保しようとした。
 その時、待ち伏せ地点の150m北にある一軒家から1丁の機関銃が火を噴いた。大隊縦列は停止する。大隊指揮官は砲兵及びヘリコプター支援を要請した。

 ついに大隊は予備中隊を動かし敵を包囲しようと試みた。しかしムジャヒディンが射撃を停止した後になってのみ動くことができた。この予備まで投入した包囲マニューバの試みですらまさに嵐のようなゲリラの射撃によって止められてしまったのだ。
1982_偵察と敵行動想定のミス

【撤退】

 ゲリラ兵たちはカレーズ(karez = 灌漑農業用の集水トンネルを通ってソ連兵との接触を断ち、安全に撤退を成功させて見せた。戦闘が終わった後ソ連側には追撃を実施したり予定していた村への掃討作戦を続けようなどという考えは失せていた。
 第3空挺大隊は8人の戦死者と6人の負傷者を出した。死者の内2人は将校である。
 既に村にいたムジャヒディンは去ってしまったので、大隊は村の調査はもうせずに代わりにベースキャンプへ帰還した。

【分析】

 フルンゼ軍事アカデミーの教本に記された分析点に基づき考察する。

・「ソ連軍の秘密裏に戦闘準備手法にも関わらず、アフガンゲリラ側はソ連軍の戦術的部隊の動きを察知し且つその意図を特定していた。」
 アフガン戦争全体で問題となったものであるが、情報の秘匿は極めて困難だった。アフガニスタン民主共和国軍内や雇用民間人の中に親ゲリラ派の人間が紛れているのは珍しい事ではなかった。民間人のサービス要員を必ずどこかにソ連軍は暮らしていくために必要とし、その中にゲリラ側の情報提供者が紛れ込んでいた。これは監視所周辺だけでなくサービス業次第では基地内にも入る可能性があった。また基地内でどれだけ秘匿しても外に出て移動を始めた瞬間に道沿いから観測されてしまう。道沿いのあらゆる人々を追放するのは不可能であり、ソ連軍はこの問題を最後まで解決できず、そして後の米軍ですら苦慮している。

・「大隊隷下各部隊は掃討戦を遂行するための準備をしていたのであり、目標地点への接近行軍を単一のルートで行っており、各部隊がマニューバを行える範囲が限定されてしまっていた。」
 ソ連側大隊指揮官は掃討戦のみを想定してしまい、道中で準備を整えた敵と会敵交戦するとは考えておらずその準備がされていなかった。道中での襲撃を想定しないのはその行軍のやり方にも現れていた。基地を出て途中までなら1列での行軍はまだわかる話であるが、ゲリラがいるとわかっている村の周辺まで到達したにも関わらず行軍縦列を変更せず1列で進んでしまった点は明らかに失策だ。この指揮官は敵が受け身になってくれるという想定をし、行軍のやり方も戦闘準備も全てが単純で楽な手法を選んでしまった。手間をかける労力を惜しんだ結果8人の部下の命が失われたのである。

・「大隊指揮官は単純に1個偵察警戒部隊をその車列の前面に置いていたのみであり、側面の警戒についての考えが足りていなかった。」
 偵察/警戒手法も同様だった。村の近くまで来ているのに警戒手法を先頭に偵察小隊を置くやり方から変えず進み続けてしまった。側面を警戒するための何らかの方策、最低でも複数回は別部隊を壁の反対側の調査に行かせるべきだったはずだ。大隊指揮官に擁護的に考えるなら村へ到着するスピードを重視したというのがあるかもしれないが、困難な地形/建築物配置でも無く敵が傍にいると判っている状況であったのでやはり側面の警戒はもっとするべきであっただろう。

・「ソ連の大隊指揮官には慢心があり、ゲリラ側はそれを活用する形で伏撃して攻撃をあてたのだ。」
 ソ連軍編制には対策を取る確固たる戦力があったはずだ。しかし指揮官は自分にとって都合の良い動きを敵がすると考えてしまっていた。敵行動の想定をするのであれば深い検討が無ければならないが、今回の戦例にそれが行われた形跡は無い。
 米軍のコメントを参照とすると、特に今回の焦点である「偵察/警戒は難しいもの」で複雑な調整を状況に合わせてする必要がある。「しかし部隊を保つのに、そして戦いに勝利を得るのに警戒/安全保障作戦は絶対的に必須」なのだ。負担の大きいものではあるが指揮官は偵察警戒を常に厳にしなければ、ゲリラ掃討作戦は成功しない。これが第1の基本事項である。
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 ただし本資料の戦況図が正確であるとするならば、ゲリラ側も戦術的にミスしている。充分に引き付けることなく偵察の先頭を攻撃して後続する本隊が対応する余地を与えてしまったからだ。図からはゲリラ勢力の大半が効果的な射撃をできる位置でなかったことが見て取れる。正面の建屋から撃ってきたマシンガンも縦射となるはずであったのだが距離が離れすぎていて、威嚇の効果はあっただろうが損害をださせたかは怪しい。けれどもゲリラ側からすれば奥まで引き寄せている間に相手に気づかれてしまっては元も子もないので逸る気持ちはあっただろう。どこまで敵を引き付けられるかは現場の指揮官の戦術的判断力にかかっている。
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 米軍の分析は興味深いことに連隊指揮官が出立前に監査したことについて疑いの目を向けてもいる。監査そのものはもちろん良いことだが、これが平時によくされるようになってしまう形ばかりの儀礼的検査であったと考察されているのだ。実際の所装備の検査というのはすぐやれるものでも終わるものでも無く、作戦行動が計画される前にいつも(定期的に)やっておくべきものと述べられている。

[参照:pp.2~4]

1980年_町の掃討の前に周辺高地を確保する重要性

 1980年の冬を通してカブールと包囲された各地域は静かなものでありこの地区では戦闘は無かった。しかし春の訪れと共によく組織されたゲリラ集団が活発な戦役を始めたのだった。

【移動】

 A.L.モカヴィエフは歩兵戦闘車両(BMP)で機械化された第7自動車化歩兵中隊の指揮官であった。7月21日朝に彼は任務を受領し、カブールからチャーリカール(Charikar)へ行軍し、縦深の急襲及び索敵を担っている第3山岳歩兵大隊の増援になることとなった。

 彼の中隊は要塞で戦闘準備を始める。第7中隊の人員、兵器、装備の充足率は100%だ。彼らは3日分の乾燥レーションを運び各車両に燃料を充填した。全て検査した後、モカヴィエフは彼らが所属している大隊指揮官へ戦闘準備が整ったことを報告した。
 それから行軍を開始し、第3山岳歩兵大隊の作戦エリアまでの道のりを完遂した。その夕刻、大隊指揮官のYu.P.レヴィンタス大尉は第3大隊の任務をモカヴィエフに説明し、大隊主力の所に第7自動車化歩兵中隊を移動させる準備をするよう指示した。その際にルートの指定も受け、付近の全ての村落を探索するよう指示をされた。

【村への侵入と調査】

1980_村に周辺高地確認前に探索しに行ってしまった例_1

 7月22日05:00、第7自動車化歩兵中隊によって増強を受けた第3山岳歩兵大隊は移動を開始した。彼らの乗る戦闘車両は優れたもので多くの自然障害を乗り越えることができた。
 ある段階に入った時、モカヴィエフは彼の中隊を降車させた。降車している間に彼は命令を受領した。付近のある村を探索し、探索が終わったらその村を通っている道路をとおって大隊主力に再合流せよとのことだった。

 彼は1個分隊サイズのパトロール部隊を派遣し村(周辺域)への入口となる箇所に防御陣地をまず構築させた。その村の外郭域において機関銃/グレネード小隊用の火点を設置した。それから第7中隊は大隊本隊と共にいた高地(X4)から下り始め、横隊へとフォーメーションを展開する。そして村へ入り徹底的な調査を行い、各家屋と地下室を捜索した。2時間後、彼らは探索を終え中隊は村を出るため道へ集結していた。

【高地からのゲリラの攻撃】

1980_村に周辺高地確認前に探索しに行ってしまった例_2

 その瞬間だった。高地№2からゲリラが突如として激しい射撃を開始してきたのだ。第7中隊は防御へと移り村の南と南西境界にあるレンガ壁の後ろに陣地を展開した。
 モカヴィエフは2個分隊を第1小隊から抽出して高地№2の包囲を試み、敵を正面と側面から攻撃することで撃滅しようと決断した。また、1個警戒分隊を高地№1の丘へと派遣して偵察させることにもした。
1980_村に周辺高地確認前に探索しに行ってしまった例_3

 けれども彼の与えたタスクを実行しようと小隊が動きだしたまさにその時、ムジャヒディンは高地№1、2、3の全てから射撃を始めたのである。第7中隊の各部隊は移動を中止し現在位置を保持して射撃戦闘へと戻った。30分後、モカヴィエフは後退命令を受領し最初始めた高地№4へさがるよう伝えられた。その後退を遂行する間、第7中隊は高地№3からの射撃で抑えつけられてしまった。そこに攻撃ヘリが駆け付け小火器の射撃と共に高地№2と№3の敵を撃破した後、彼は中隊を指定されたエリアへと移動させたのであった。
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※機関銃/グレネード発射小隊は自動車化歩兵中隊の第4小隊であり、PKSまたUtesマシンガンとAGS-17自動擲弾ランチャーで装備している。

【分析】

 フルンゼ軍事アカデミーの分析に基づいて考察する。
・「まずポジティブな面が見られた。第7中隊は高い士気を示し、これが初めての攻撃であっても全ての命令に迅速に対応したのである。更に攻撃ヘリは見事な技巧を発揮し敵ゲリラに射撃をくらわせた。」
 合流時の移動を完璧にこなしたのはもちろん不測の事態に崩れることなく次々と第7中隊は確固たる行動を取ったことは、この戦いが敗北的であったとしても軽んじられてはならない功績だ。また、要請後30分以内に現れたヘリ部隊も確実に戦果を挙げた。それは第7中隊がヘリが来てから初めて後退できたことからも証明されているであろう。

・「しかし、この射撃戦闘では中隊は山岳地帯での戦闘を遂行するに充分な経験が無かったことを示してしまった。将校も軍曹も兵卒も敵の戦術を理解していなかったのである。もし第7中隊が道路に集まって高地№1と№2の間(左右両側に湿地がある以外に何も無い開けた場所)を移動し始めるまで敵ゲリラが射撃開始をせず待つことができていたら、第7中隊は非常に深刻な死傷者をだしていたことだろう。実際はその代わりに、敵は中隊が村の南外縁に着いたらすぐに射撃を開始した。」
 ゲリラ側にも戦術ミスがありおかげで損害は少なかったが、相手が洗練された指揮官であればさらに被害が出たであろう戦術的ミスがソ連側にあったことが示唆されている。ゲリラ側は最大のチャンスまで我慢することができず撃ち始めてしまった。もしかしたらゲリラ部隊指揮官は第7中隊が来た道を戻ると思い今射撃するべきと判断したのかもしれないが、村の南外縁に集まったのであれば道路を使おうとしていると予想することは不可能ではなかっただろう。
1980_村に周辺高地確認前に探索しに行ってしまった例_All

・「(この戦いで)ソ連軍は偵察に関し不十分な仕事しかしなかった。ドミナント(周辺支配的)地形を確保することをしなかったが故に、敵ゲリラはその射撃により実質的に第7中隊のエリア全てを抑え込んでいた。」
 再び充分な偵察が必須であったことが述べられているが、今度の焦点はドミナント高地である。その場所をとれば周辺への攻撃または観測に非常に優位となるような地形を確保することが山岳戦の最重要事項の1つである。これは第2基本事項のブロックとも密接に関係している。(瞰制高地)
 実際のところ作戦規模のエリアにある全ての高地を確保すること、確保し続けることは物量的に不可能である。しかしそれはゲリラにとっても同じである。確かに彼らは現地に根を張って潜伏先を多く保有しているがその潜伏先に同時にいることはできないしずっと高地に潜むことは体力的に難しく、できたとしても数量は多くならず必ずどこかの町村におりて滞在することになる。故に戦術レベルにおいて重要な地形をゲリラより先に確保することは、特に空挺または高度に機械化した急襲部隊を用いれば可能である。もしドミナント高地を獲れれば高確率で尾根または谷にある道路に対し優位な陣地を創れる。
 それにゲリラはこの戦例でも示されているように、ドミナント高地に敵がいる可能性は他より高く、奪われないように戦闘に出てくることも考えられる。ゲリラ掃討作戦の目的を考えれば町村の索敵と同じくその周辺の高地は充分すぎるほど価値がある場所なのである。もし周辺高地を探索して敵がいなければそのまま高地を支配して周辺(道や町)へ支配的影響を与え、町村内に突入して調査/掃討戦を行う部隊へ極めて有益な支援を与えることができる。
 従って結論として、如何なる場合であれ特定の重要地点(町や街道、橋といった地点)への探索または掃討を行う場合は、その周辺の各高地(最低でもドミナント高地)を先に制圧してから行うべきである。これは戦術~作戦レベルまで共通する。米軍も同じ考え方をしているため該当文章を抜粋する。
「he must control dominant terrain and position over-watch forces before beginning the sweap.」
 米軍はshouldではなくmustを使っている。
 また周辺高地制圧のために航空戦力は大いに力を発揮する。遮蔽物が多いという難点はあるが、民間人がいる可能性がある町の中よりも山肌のほうが遥かに攻撃が大胆にできるためだ。そして山岳地帯の移動困難性は空中機動の相対的能力を増大させる。

・「もう1つの不足点は第7中隊が訓練中に敵と接触を断つ方法や撤退についてリハーサルをしていなかったことである。」
 基本的に勝つという方針であり時間的に訓練の量が限定されている時は撤退訓練が省かれるようだ。当たり前であるが損害量の拡大が大きく変わる撤退訓練は重要でありソ連軍は知識を持っていたはずである。それができない部隊が一部いるほどアフガン侵攻は軍にとって急な事態であったと考えられる。

・「この戦闘記録は指揮官の訓練、特に戦術的な訓練にさらに大きな注力が必要があることを示している。これは小隊、中隊、大隊そして野外訓練に分けて行うべきであろう。また、勇敢さは大切な要素だ。卓越した部隊操術を戦闘で行うことこそが必要なのであるが、訓練だけではそれは成し得ないのである。」
 事前準備/訓練の重要性を再確認した上で尚且つ精神的な要素も両方が大切であることが注意喚起されている。
 しかし今回の戦例で戦術的ミスを明確にしたのは中隊長なのか大隊長なのか疑問がある。周辺高地への索敵が充分でなかったのが焦点だとすると、その役割を担うのは果たして第7中隊だったのだろうか。第7中隊は既に村を調査する任務を帯びており、ここに敵がいれば交戦を行い撃滅しなければならないためその戦力はほぼ全て集中させる必要がある。もし3つの周辺高地に索敵に部隊を派遣すると掃討を担う戦力に不安が生まれるだろう。よって今回の周辺高地偵察は第3山岳歩兵大隊の責任下においてもう1個以上の中隊を投入することによって為されるべきであったと考える。これは対山岳ゲリラ戦術の3つ目の基本事項に該当する。
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 米軍のコメントでアフガンでソ連が数多の偵察及び高地制圧失敗があったことが述べられ、その後軍隊の構造改革で山岳ゲリラ対策を試みられていることが紹介されている。特にトルキスタン軍管区での山岳訓練施設であるとされる。

[参照:pp.5~8]

1980年_高地及び周辺道路占領後に掃討

 1980年12月クナル州において、約50人のゲリラ勢力がパキスタン側から国境を素早く越えクナル川を夜間に渡って来た。このゲリラ部隊は渓谷で停止し休息を取った。ソ連軍はその情報を入手し、このムジャヒディンをその渓谷の封じ込められた範囲において撃滅するため作戦行動を起こすことを決定した。場所はチャガサライ(Chaghasarai)の南西に位置する。
1980_周辺高地占拠とブロックを先にしてから掃討_成功例_1

 ソ連軍指揮官は次のように戦闘遂行計画を立てた。
・12月15日04:00までに1個空挺中隊(1個小隊を欠く)をそのエリアに侵入させ、渓谷の南の縁をブロックする。
・同時に1個空挺小隊と連隊付属の1個空挺偵察小隊を渓谷の北と西の出口をブロックするように侵入させる。
・05:00、ブロック部隊以外の大隊の残りの部隊も渓谷への突入を開始し、索敵と撃滅を実施する。敵の休息している場所は渓谷内にある村である。

 この計画に基づいて各部隊は行動を開始した。12月14日22:00ブロック担当部隊がGAZ66トラックに乗って出発する。各トラックはヘッドライトを消して走行した。彼らはハイウェイ沿いに設営されていた大隊のラガー(車両を集めて作った野外仮設陣地)から出て、チャガサライへ向けて北進していった。また、ムジャヒディン側の偵察を欺くために別の数輌のGAZ66トラックに陣地から逆方向の南へ向けて走りださせた。(恐らくこの欺瞞部隊はヘッドライトを点灯させたと思われる。)
 ブロック部隊のトラックは1つ目のグループを渓谷の2㎞南で降車させ、それから車列は北進を続けた。第1グループはそこから徒歩でブロックをする位置へ移動していった。2つ目のブロック部隊が渓谷の北で降ろされ、そこから歩いて配置へついた。12月15日04:00までに渓谷からの出口は塞がれたのである。
1980_周辺高地占拠とブロックを先にしてから掃討_成功例_2

 05:00、ブロック部隊以外の残る大隊が渓谷へ向かい敵ゲリラの掃討を開始した。
 06:00、ムジャヒディンの警戒部隊がソ連主力掃討部隊を発見する。ゲリラの戦術セオリー通りムジャヒディンの一部は掃討部隊主力との戦闘を開め、残りの戦力は撤退を開始した。
 しかしこのゲリラの撤退部隊をブロック部隊は捕捉し待伏せ攻撃を実施したのである。

 最終的にゲリラは24人が死亡し4人が捕虜となる。対するソ連側は負傷者を1人だしただけであった。
1980_周辺高地占拠とブロックを先にしてから掃討_成功例_3

【分析】

 フルンゼ軍学校の分析のみで、米軍はコメントしていない。
・「この戦例では敵を欺くため典型的な手法が使われている。照明に関し完璧に企図通りの規律が保たれ、部隊はトラックで素早く投入され、さらに逆方向に別の複数車両を走り出させ、最後の接敵配置へは徒歩で移動したのだ。時間の制約と援軍の支援部隊の不足があったためこの戦闘エリアで事前偵察を行うことができなかったにも関わらずこの行動は成功したのであった。」
1980_周辺高地占拠とブロックを先にしてから掃討_成功例_All

 パキスタンがゲリラ聖域であったのを最初期からソ連は把握しており国境沿いで特定して撃滅する試みは多々行われた。この戦例はその成功例の1つとされている。ただし率は高いが22人逃しているので完璧な成功ではない。

 3つの基本事項のうち偵察が充分ではなかったが、事前の情報は敵基本位置と状況(休息)そして人数をもたらしておりかなり有益であった。これがフォローの役割を果たしている。
 それ以外では見事なクオリティをソ連軍は示した。トラックのライトを消して移動するだけでなく欺瞞部隊も同時に使い接近行軍が露見する可能性を減らしたのも素晴らしいが、時間も適切だ。移動は夜間、配置に着くのは夜明け直前、主力攻撃開始は夜明けとほぼ同時でありリスクを抑え戦闘能力が最大化するタイミングが選ばれている。厳しい行軍、特に徒歩で高地を隠密に抜けることができる能力は精鋭たる空挺部隊が訓練で重視する事項の1つだ。この戦例で航空機を使った投入手法では無く地上移動であったが何も異常なことではない。
 欺瞞を行いながら隠密に移動し、ブロック部隊がゲリラに気づかれることなく周辺の高地を抑え(これは偵察を兼ねる)続いてゲリラ撤退ルート地点で伏撃をする準備を整え、それから主力が正面から追い立てる様に掃討をし伏撃部隊の罠に嵌め込んだ。この戦例の戦術は山岳ゲリラ掃討作戦における1つのモデルケースとなるに値する優れたものだった。
 戦争初期の1980年時点でソ連軍の一部は適切な能力を持っていた証左ではあるが、それが全体に浸透しているかは別の問題であり前述のものや他にも多数の戦例でミスが散見される。







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 本書には他にも多数の戦例が記されているが、以上の戦例によって山岳ゲリラ掃討作戦での基本3項目の説明が為されたものと考える。

 これらはソ連側が比較的優位に立っておりミスをおかさなければ戦果がついてきたであろうと思われるケースである。だがゲリラ側の能力、特に指揮官が極めて優秀な場合はソ連軍はこの上なき難関に立ち向かわなければならなかった。
 次に記すのはより規模の大きい戦力で、両軍の指揮官が大失態と言えるようなことをしなかったにも関わらず、片側が非常に卓越していたために勝利した高度な戦闘の実例である。ゲリラ側の指揮官の名はアフマド・シャー・マスード、パンジシール渓谷に住まうこの戦争で最も名を馳せた将である。

1984年_山岳戦での包囲防止の伏撃戦術

 長くなるため別記事とします。

続き↓ (明日更新します)
【キシュラクの戦い_1984_山岳ゲリラによる包囲防止の同時伏撃】_マスードの戦術
http://warhistory-quest.blog.jp/20-Jan-25

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【山岳地帯の広域包囲】

 先に記したように山岳地帯に散らばる町村と街道、高地でゲリラと戦うための基本事項があります。この原則は作戦規模でもその価値を失わうことはありませんが、絶対的に順守するものかは状況によって変化します。

 2000年、チェチェンにおいてロシアは山岳ゲリラ掃討戦を実施しましたがその作戦方針は、まず各所の高地へ空挺・ヘリボーン投入をし周辺へ支配的な(ドミナント)関係を持つ高地を占領、それから街道などを主力部隊が進んでくるというものでした。これを巨大な作戦規模でロシア軍は実行し、広域山岳包囲環を作り上げました。この包囲は各高所を占拠した空挺部隊に多くを依存する途切れ途切れに環が構築されたものですが、空挺の機動やドミナント高地からの攻撃でゲリラ側は主導権を喪失したまま大損害を出し続けました。その軍事コンセプトは次の言葉で表されています。

 「我々は武装勢力を下方からではなく上から、山から攻撃するよう企図していた」

※ 2000年のロシア軍によるチェチェンでの広域山岳包囲作戦については下記参照
【776高地の戦い_2000_包囲】
http://warhistory-quest.blog.jp/18-Jun-18







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以上となります。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
本サイトは他の人の考え方を知りたくて作成しています。何か考察などがあればどうか教えてください。

他にも山ほど戦例は載っているので、たまに更新していきたいと思っています。

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【参考文献】

(1991),"Боевые действия советских войск в Республике Афганистан: тематический сборник тактических примеров", フルンゼ軍事アカデミー出版, Lester W. Grau訳, 英訳版(1991), 米軍指揮幕僚大学 外国軍研究所(FMSO)

(2000), "米陸軍野戦教範FM3-97.6 Mountain Operations"


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【メモ】
・Dominant terrainは米軍山岳戦教範ではレベル3カテゴリーであり、一般的に最も険しい地形となる。(米軍野戦教範 p.1-5)

・ドミナント地形の特定と統制は作戦レベルで山岳マニューバの成功の基礎となる。
Identification and control of dominant terrain at each operational terrain level form the basis for successful mountain maneuver.  (米軍野戦教範 p.2-3)

・ドミナント地形にある陣地は適切に遮蔽すること。周辺支配的地形にある陣地は低地よりも有利である。理由は次のものになる。
Commanders must ensure that positions on dominant terrain provide adequate defilade. Positions on commanding terrain are preferable to low ground positions because there is–
• A reduction in the number of missions requiring high-angle fires.
• A reduced amount of dead space in the target area.
• Less exposure to small arms fire from surrounding heights.
• Less chance of being struck by rockslides or avalanches.

・先導登山チームを必要に応じて分遣され、行軍の側面に位置するドミナント地形の特徴を確認して確保しておく。
Lead climbing teams are detached as necessary to reconnoiter and hold dominant terrain features on the flanks of the line of march.

raid detachment