ソ連のアフガニスタン紛争は山岳ゲリラ戦に関する多くの教訓を残しました。戦後1991年、フルンゼ軍事アカデミーで数多の戦闘記録を集め分析した書籍が編纂され、それは米軍指揮幕僚大学とも共有されました。その中に山岳ゲリラの掃討を成功するために満たさねばならない3つの基本事項があります。

1偵察 preliminary reconnaissance
 事前に偵察を行いゲリラ部隊のいる場所を明らかにしておかねばならない。その際にはゲリラ戦力の編制と彼らがどう動くかの予想をつけておくこと。

2ブロック limit / constrain / block
 ゲリラの移動を拘束しなければならない。戦術的空挺強襲や急襲部隊などを用いて敵ゲリラの撤退ルートを全て塞ぎ、逃げようとする敵をブロック部隊の打撃に晒せるようにする。

3掃討 sweeping
 敵戦力は我が方の主力掃討部隊によって撃滅されねばならない。あるいは正面攻撃をもって撃滅する。(撃退などではなく、撃滅しなければならない。)

 この内のどれか1つでも満たしていなければ、(相手側にミスが無い限り)ゲリラ掃討任務の成功は難しくなるとされています。敵と密接に接触し情報を入手し、ブロック部隊がマニューバを行い配置につくと同時に戦闘によって敵をくぎ付けに拘束し、そして敵ゲリラ部隊を包囲し撃滅すること。これがソ連軍が1978年から89年までの長きに渡りアフガニスタンで戦争をして数多くの戦例で犠牲を払い確認した山岳戦の基本事項でした。

 前回はこの3つの基本事項を具体的な戦例の中で説明しました。
【アフガンゲリラ山岳戦例集_1980s_掃討作戦】
http://warhistory-quest.blog.jp/20-Jan-24

 この基本を踏まえた上で応用的な戦例を1つ紹介しようと思います。既にソ連側もゲリラ側も疲弊し、しかし戦術的な知見が積み重なり洗練されてきた時期である1984年、ソ連・アフガン政府の連合軍が掃討作戦を実施します。そこでゲリラ側は逃げ続けるのではなくあるタイミングで逆襲を仕掛けました。場所はパンジシール渓谷南西部、指揮官はアフマド・シャー・マスード、この戦争で最も名を馳せた将です。
1982_マスードの対包囲_高地と町の同時攻撃_All

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以下、本文

1984年_山岳戦での包囲防止の伏撃戦術

 アフガニスタン侵攻でのソ連軍全作戦期間を通して、パンジシール渓谷はとある1人の指揮官が率いる武装反体制勢力との間の最も鋭く険しいイデオロギー的そして軍事的闘争の場所であった。指揮官の名はアフマド・シャー・マスードと言った。
 初期においてこの渓谷で実施された各作戦はいずれも非常に重い死傷者を出す結果に終わった。その高い山岳地帯峻厳な気候はと人間の能力を制限したのである。

【渓谷の村々の掃討_序盤のゲリラ後退とソ連軍の地点確保成功】

 S.G.ダビデンコ少佐は当時アフガニスタン民主共和国軍の『コマンドー』旅団に属する大隊のアドバイザーであった。コマンドー旅団は普段はバラク基地(Barak)を守備していた。ダビデンコ少佐たちはパンジシール渓谷にある村々を奪取または作戦地域内のムジャヒディンを撃滅するようにとの命令を受領した。具体的に指定された村はタルカーナ(Tal'khana)、ダシュタック(Dashtak)、トゥルカ(Turkha)、カラタク(Kalatak)、チスラク(Chislak)である。加えてゲリラが各所に予め準備している射撃地点と弾薬/備品/食料の補給用の隠し貯蔵庫を発見し破壊することと指令が為された。

 部隊はその任務を受領したので作戦準備が始められた。けれどもアフガン政府軍の旅団の将校と兵士は大きな不満を抱えておりムジャヒディン側にはしる者がいたため、アフガン政府軍の作戦コンセプトはほとんど即座に敵に知られてしまった。

 1984年10月28日朝、ダビデンコ少佐は任務を開始するよう指令を受け取った。大隊の作戦行動コンセプトは次のようなものだ。
・基地を出立し、徒歩で先導し指定された各村の掃討を実施する。
・何らかの敵抵抗があった場合は「コマンドー」旅団に従属している砲兵大隊へ砲撃要請をする。
・アフガン政府軍大隊はルカ基地(Rukha)に駐屯しているソ連軍自動車化歩兵連隊と密接に連携を取りながら計画を進めることとなった。
(※これは現地政府軍部隊に偵察を兼ね先行させソ連軍の主力が後ろに続くというこの戦争で頻繁に見られた形態である。)
 セキュリティ情報の漏洩が作戦準備中に起きたため(これを把握したソ連軍によって)いくつかの戦闘任務は拡大および変更が為された。第2アフガン大隊は基地を出てまず第21ポスト周辺の各高地を占拠するよう新たなコンセプトの指令があった。もし必要なら、タルカーナとダシュタック村を独力で掃討することになっているソ連の自動車化歩兵中隊をここの高地から支援することができるであろう。これに続いてこの2つの部隊は役割を切り替え、アフガン大隊がトゥルカ村を掃討する(その間はソ連の歩兵連隊が支援を行う)。
1982_マスードの対包囲_高地と町の同時攻撃_1

 指定時刻になり、150人のアフガン大隊員が基地から出発した。1時間半後に第21地点に到達する。そして同じく行軍してきていたソ連軍の中隊はタルカーナとダシュタック村の掃討を行った。この2つの村を掃討している最中には1人もムジャヒディンを見つけることができなかったが、1か所ムジャヒディンの休息所と思われる場所を発見し、そこで少量の補給食料と反ソ連のビラが鹵獲された。それから再び進軍を再開した。

 (28日から進撃を続け)10月29日夕刻、トゥルカの村へとアフガン大隊は着いた。そこで彼らは前日に第20ポストにいる観測兵がトゥルカ村から移動しくムジャヒディンを見かけたと伝えらえれた。翌日の10月30日陽が昇ってから、大隊はトゥルカの村中を捜索したがやはり1人もムジャヒディンはいなかった。そこで彼らは一丁のフリントロック式マスケット銃とAK-74アサルトライフルを発見した。この日の戦果はそれだけである。それからこの日の夕刻、アフガン大隊は一度バザラク基地へと戻り休息を取った。

【キシュラク村の戦い_高地と村の同時迎撃】

 10月31日の朝、次の統合作戦計画がアフガン大隊指揮官とソ連自動車化歩兵連隊の間で立案された。彼らの軍勢はサタ(Sata)、カラタク、キシュラク(Kishlak)の村々を探索するために出撃するとなった。計画ではアフガン大隊は渓谷へ入り順次それぞれの村を探索していくこととされた。
 2つの尾根が渓谷を取り囲むようにはしっておりこれにより渓谷はコントロールされることが見て取れた。よってソ連の大隊をそれぞれ尾根に送り込むのは必須である。ソ連の各大隊が尾根の頂点に到達してから、その高地一帯を支配することで(渓谷下で活動する)アフガン大隊を支援することができるようになるのだ。砲兵隊は基地の防護された陣地から支援砲撃を始める準備を整えている。
1982_マスードの対包囲_高地と町の同時攻撃_2

 正午、ソ連の各大隊が尾根へ登り始める。それを確認してからアフガン大隊は渓谷内の掃討作戦を開始した。戦闘工兵が先に掃討部隊の前を進んでいく。アフガン大隊がキシュラク村へ入ろうとしたその瞬間、ムジャヒディンは激しい攻撃を仕掛けてきた。歩兵の小火器と迫撃砲に加えて重機関銃もが猛烈な射撃を行う。
 そしてそれと同時にソ連軍の2つの大隊が両方とも地雷原のトラップにかけられたのである。

 さらに地雷原に足を止められたソ連歩兵大隊へ(攻撃できる適切な配置で隠れていた)ムジャヒディンの軍勢の待伏せ攻撃が始まった。これによりソ連軍の各歩兵大隊に重い損失をださせたのである。その結果、どのソ連大隊もアフガン政府軍の大隊を支援する位置には辿り着けなかったのだ。
 (周辺高地からの支援を受けることなく村の正面で、恐らく両側の山肌から攻撃を受けながら戦うことになってしまった)アフガン軍大隊もまた多数の死傷者を出した。ソ連・アフガン軍は夜までにバザラク村へと退却せざるを得なかったのである。

 (こうしてソ連軍1個自動車化歩兵連隊及びアフガン軍1個歩兵大隊によるゲリラ掃討作戦は失敗しただけでなく、重い損害を出すことになったのである。)
1982_マスードの対包囲_高地と町の同時攻撃_3

米ソの分析

 この戦闘記録をふり返り、フルンゼ軍学校の記述は次のようになる。
・「この戦闘例が示すのは、優れた計画とは巧みに実施されて始めて優れていたと言うに値する、ということだ。確かにこの作戦は徹底的に計画を組み立てられていた、けれどもその計画はそれ自身が有していた問題を克服することができなかったのである。」

・「始まりはセキュリティ情報の漏洩である。更にソ連のインテリジェンスが思い描いていたムジャヒディンの戦力と彼らの連絡線は不十分な精度であった。ムジャヒディン側はアフガン政府軍とソ連軍のマニューバ計画を事前に熟知しており、そしてムジャヒディン部隊を脅威を受けている区域へ投入したりあるいは逆にソ連の打撃計画を躱すようにマニューバすることによって、状況に適切に対応することができた。」

・「このような広範囲のエリアに渡って掃討作戦を実施する場合、指揮官は一分たりともリラックスしてはならない。ゲリラ勢力はソ連軍の掃討部隊がやってくる前に最初の村から秘密裏に後退することで、(打撃を躱すだけでなく)これによりソ連とアフガン政府軍の警戒を緩め安心させたのである。」

・「ソ連とアフガン政府軍の警戒を緩めてから、ゲリラ勢力は彼ら自身が選んだ時間と場所で戦闘を発起したのだ。」

・「コミュニケーションはこの作戦の全体を通して問題であった。適切な連絡の欠如は隷下部隊の統制の損失及び現在の態勢と置かれている状況の最新情報を取りこぼす事態を引き起こした。(砲兵がソ連軍属であったため)アフガン政府軍の大隊とソ連軍支援砲兵隊との間での調整は充分に組織されていなかった。」

 さらに米軍の分析は次のものが記されている。
・「今回の話の主な教訓は航空戦力または砲兵火力によってカバーできない場所に地上部隊を移動させない、ということだ。山岳地帯の中での無線通信は非常に困難であるが、兵士が生き残るためには途絶無き無線通信によって実施される砲兵または航空支援が必要不可欠なのだ。」

・「今回のケースにおいて、地上部隊は側面、前方、後方に十分適切と言えるだけの警戒をせずに移動していた。その結果としてソ連の大隊は2個とも地雷原にはまり込み、アフガン政府軍の大隊は立ち往生したまま孤立して残されてしまった。」

・「アフガン政府軍大隊は制限された地形に最初の安全確保を(先遣隊で)すること無しに主力部隊を踏み込ませてしまってた。それにソ連軍の各大隊が彼らの側面の安全確保をして山の上から見張ってくれる前に突入してしまった。」

・「空化の監視能力を持つ航空戦力を欠いていたことは彼らの運命を決定づけたのである。」

[参照:pp.27~30]
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考察

パンジシール渓谷南西部-min
https://www.google.com/maps/@35.3155404,69.5100602,4566m/data=!3m1!1e3

 この戦いは山岳ゲリラの戦史上、強く注目するべき非常に素晴らしい戦例だ。

【パンジシール攻勢】

 パンジシール渓谷南西部であることからゲリラ側の指揮はマスード本人が直接執った可能性が高い。あるいは直属の部下だろう。1984年10月後半であれば9月に第8次パンジシール攻勢をソ連軍が行った直後の出来事だ。時折「マスードはソ連のパンジシール攻勢を撃退した」という表現を見かけることがあるものの、これは間違ってはいないのだが誤解を招きかねない。

 ソ連軍は一時停戦を挟み断続的にパンジシール渓谷で戦争の全期間を通して戦闘し、「パンジシール攻勢」と呼ばれる作戦が9回(または10回)行われ特に1982年以降はアフガンに展開する部隊の大部分を投入した最大焦点のものとなっていった。この各攻勢作戦の内の幾つかのケースではマスードのパンジシール渓谷ゲリラはソ連軍の進撃を止められはしなかった。あるいは攻勢が大規模なものだと判明すると戦力保持を最優先し撤退/潜伏してソ連軍に渓谷内に進ませた。ソ連側は作戦計画で予定していた前進・占領をほぼ全て時間通りにやり遂げ「進撃成功」しているのだ。攻勢作戦が、その作戦単一の視点では、成功裏に完了したという解釈はソ連側の文書には散見される。ニコラエヴィッチは2001年に出版した書籍内で1982年5月の第5次パンジシール攻勢について詳しく書いているが、そこでも「14日間のパンジシール作戦は正常に完了した」と述べられているし、バレンティン・ルノフ教授(大佐)の軍事専門書「アフガン戦争 全戦闘記録」でも同じ書き方がされ、ムジャヒディンの指揮系統図など様々な戦果があったことも判明している。進撃完了という表現は正しいし、抵抗にあい犠牲を出しながらもかなりのゲリラ戦力を撃滅していたことも事実である。けれども作戦からしばらく時間がたって発覚したことだが、その損失量はマスードの指揮する部隊においては脅威を喪失するほどでは無かったのだ。

 それは1984年パンジシール攻勢も同じであった。1982年の大攻勢と同じ基本コンセプトでソ連は大軍を集中投入した。マスードは進軍に抵抗をしなかったわけではなく、例えば「第682自動車化歩兵連隊第1大隊の死」としてソ連では知られる伏撃戦闘では、ソ連軍に戦死者87人(または58人)、負傷者105人をださせている(この際のマスード側の戦死者は25人である)し他にも複数の迎撃をしている。それでもソ連側の進撃は達成され、第2落下傘大隊を筆頭とする空挺部隊によるブロックも効果を上げパンジシール渓谷内で多数の戦果を得ている。
 だがソ連側の主張通り削られた戦力であったにも関わらずソ連側の予想と裏腹にマスードは活動をすぐ再開し脅威をもたらした。第8次攻勢の僅か1か月後のキシュラクの戦いはその証左の1つだ。
 結論として、ソ連の作戦はそれのみの視点だと成功に近かったが戦略目標の達成には繋がらなかったのである。

【キシュラクの戦い_作戦的偽装退却】

 キシュラクの戦いはこの村に入る前からゲリラ側の作戦が始まっている。ソ連軍の襲撃計画が漏洩したおかげで攻撃があることは解っていた。しかしソ連側は迂闊にそのまま動いたわけではなく、漏洩に気づくと計画を修正している。この修正案、特に記録にあるように「10月31日朝に指揮官達で統合作戦計画を話し合い決められた」情報をマスードは入手していないと思われる。万が一情報入手できたとしても、計画詳細が朝に決められ山に登り始めたのはその日の正午で戦闘は昼過ぎであることを鑑みれば、スパイの情報を待っていては間に合わないのだ。
 従って攻撃があるとわかってもその詳細はゲリラ側指揮官自身で予測するしかなかった。敵が3個大隊分+陣地からの砲撃支援もあるかなりの戦力であるため、リスクを恐れるのならもうこの地域で戦わずに撤退するのが普通の策なのだが、彼は積極性を失わず敵の進撃の中でも攻撃を成功させられる機会を見出していた。

 ソ連・アフガン政府軍側が稚拙だったわけではない。キシュラクの戦いでは山岳ゲリラ掃討戦の基本原則である周辺高地確保のために2個大隊も投入している。キシュラク以前(トゥルカ村など)を見れば、周辺高地をブロックする手法を怠らずに実施し、偵察はきっちりと監視ポストからしていたことを忘れてはならない。村掃討主力も1個大隊分と通常なら十分な戦力だ。しかしキシュラクの時には不十分な事前偵察となってしまった。この差異がなぜ生まれたかがこの戦いの重要な鍵となる。

 ゲリラ側はまず主要な村々から後退してソ連側の打撃を躱し戦力を温存したが、この地域から撤退したのではなく戦闘を特定の場所でするつもりであった。ソ連側はこの狙いに気づかずもう敵が逃げ出したと思い込んでしまったことがフルンゼのコメントでは指摘されている。これは後退日数が3日間に渡る広範の作戦的偽装退却であった。そしてゲリラ側指揮官はソ連軍に油断を生み出しながら自分たちで主導的に戦う場所と時間を決定した。偽装退却に引っかかったりゲリラはもうここでは戦いに来ないと思い込んでしまったことで隙が生まれたのだ。
1984_Battle of Kishlak_1-min

【3か所同時伏撃】

 ここからでもソ連はゲリラの3つの内いずれかの部隊を先に撃破できるチャンスはあった。
 アフガン政府軍は「コマンドー」第212独立強襲旅団所属の大隊、ソ連軍は恐らく第108自動車化歩兵師団所属の第682自動車化歩兵連隊の2個大隊及び支援に砲兵隊という最精鋭とはいかないまでも充実した戦力であったからだ。だがこの戦力が機能しないようにゲリラ側の攻撃は組み立てられていた。

 最も重要なのは時間だ。
 前進位置を見ると、渓谷内中央のコマンドー大隊は両翼の高地を行くソ連軍大隊が少し進んでから自分たちも進み始めているようだ。
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 これは山岳戦基本事項の「周辺高地を確保する」という方針と完全には矛盾するものではない。周辺高地確保の方針はどのタイミングで周辺高地を確保するかという常に悩ましい戦術的命題を内包しているからだ。先に占領しておくのがもちろん良いのだが、高地に行くのが早すぎるとブロック部隊が道を塞ぐ前に渓谷内の敵ゲリラに気づかれ脱出されてしまうし、長時間を高地あるいは本体から離れた場所で耐え続けるのは分遣隊にとって苦しくリスクも大きい。従って掃討主力が来る直前に敵に気づかれずブロックが完了するようなタイミングが理想の1つだ。それに高地に敵の大部隊がいた場合、ブロックを担当するはずの分遣隊が敵主力と正面からやり合うことになり下手をすれば各個撃破になる。もし高地に敵がいた場合を考え主力との連携をとってそちらに打撃を振り向けられるように動くべきだろう。
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 その観点で述べると、進撃のタイミングが僅かに中央掃討主力より早いだけであった今回のソ連軍2個大隊はベストでは無いが一概に否定されるような判断でもない。1984年にはソ連軍は既に山岳戦術を学びなおしており、一部を除き指揮官たちは山岳戦術の基本原則を把握していた。少なくとも周辺高地占拠をしようという意図はあり、自滅と言えるほどの失敗はキシュラクではしていないのである。問題はこの時の敵がその僅かな隙を活かすだけの手腕を持っていたことだ。

 ソ連軍の記録には、中央部隊が伏撃を受けると「同時に」2つの離れた場所で高地を確保しようと行動していた部隊が地雷原の罠に落ちたと記されている。つまり3か所が同時に攻撃を開始されている。

 それまでソ連軍大隊が山肌を進んでいる間、ゲリラ側は姿を全く見せず攻撃ができる位置でも我慢し続けていた。そして中央部隊が進み始めたタイミングで、ソ連軍の両翼はゲリラが伏撃可能な地点に踏み込んだ。前回の記事で1982年シェルハンケル村の伏撃でゲリラ側指揮官が敵を充分に引き付けずに攻撃を始めてしまった例を紹介したが、今回の戦いの指揮官は適切に部下を律している

 米軍の分析は砲撃と航空支援が無かったことを重視してるが、なぜなかったかに触れていない。この作戦でソ連軍には砲撃支援が事前準備されていたことを思い出さなければならない。支援計画が無かったのではなく破綻させられたのだ。それには2つの原因がある。1つは指揮系統的に問題があり中央アフガン政府軍大隊が基地に居るソ連軍砲兵隊へ支援を直接要請できないことである。もう1つがゲリラ側指揮官の創り出した戦術的な状況即ち左翼、中央、右翼が同時に激しい攻撃に晒されたことだ。3か所が同時に砲撃支援を必要とする状況は想定されていなかった。敵軍の諸兵科と各地点の部隊の連携が極小化するようにゲリラ側指揮官の戦術は練られていた

 ところで偵察がなかったといっても直前までソ連軍は周辺で行動しバザラク周辺の麓は掌握しており、日出の後移動していく場所は目を向けられていたはずだ。この戦場の山肌の見通しは良いため、ゲリラがのこのこと日中に山肌を移動していると発見されかねない。ゲリラは前日までに配置についていた、あるいは大半を終わらせておりこの日の早朝は仕上げ程度だったと思われる。ゲリラ側指揮官が意思決定をしたのは前日かもっと前であろう。その時点でソ連側の動きを読んでいたと思われる。ただもしかしたらアフガンでたまに見られる坑道などがあり、死角で移動できたのかもしれない。
1984_Battle of Kishlak_2-min

【地雷原の配置計算】

 地雷原伏撃部隊配置がこの戦いで最も卓越している点だ。
 中央掃討部隊が渓谷奥の村への進軍を中止しない、進み始める丁度のタイミングで「別々に登っているソ連軍の2つの大隊の前進がほぼ同時に地雷原の位置へと到った」ということが重要な事実だ。ゲリラの中央村潜伏部隊は両翼が地雷原へ到るまで攻撃を待っているが、渓谷内は村までは障害物が少なく前進速度は遅くないので一度決断されれば村にすぐ接近されてしまう。従ってゲリラ中央が待つことでタイミングを合わせたというより地雷原の配置がそのタイミングに合うようになっていたと言う方が正しい。

 果たして計算通りだったのか、偶然が重なったのかはわからない。
 (ソ連軍が恐らく戦闘後しばらくして地雷原の位置を調査しなおしたであろう)図を見ればわかるが、地雷原の範囲は限定的で進行路上にピンポイントで置かれている。例えば地雷原の位置がもっと奥であれば、アフガン政府軍が村へ先に踏み込みそこに砲撃支援が集中されただろうし、村にいたゲリラ戦力単独では1個大隊を防ぎきることは不可能だ。下手すれば両翼高地のソ連部隊からも攻撃が行われてしまう。逆に地雷原の位置がもっと前であれば、ソ連軍大隊が先に戦闘に入り政府軍中央部隊は突進を停止、砲撃支援が山肌に集中され各個撃破を受けかねない。
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 複数個所で「同時」に伏撃が為された戦術と配置調整は完璧に近いものだった。
 キシュラクの戦いは鮮やかな包囲殲滅をしたわけでも中央突破をしたわけでもない。攻勢側の各部隊を撃退しただけの戦いだ。しかしそれはこの戦闘が軍事的に単純であったということを意味しない。ソ連軍は無知でも愚鈍でも無くある程度合理的な、通常なら許容範囲の判断をしたが、それはベストのものでは無かった。一方でゲリラ側は考え得る至高の行動をとった。故にこの戦いに勝利したのだ。
 その状況に導いた戦術と詳細調整は想像を絶するほど高度なものだった。










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ここまで読んで頂きありがとうございました。
マスードは人格面の礼賛に引っ張られ英雄と呼ばれることが多いのですが、政治的行動については議論があります。ただそこは意図的に省きました。本サイトは彼の歴史的評価どうこうを述べられるようなものでは無いので、軍事面の手腕にできるだけ絞ったつもりです。…軍事面でも(パンジシール攻勢撃退の話など)偶像化が進んでいる気が少ししますが、彼が戦術家としても戦略家としても卓越していたことは確かだと思います。


この戦いは考察がまだ納得いっておらず、3か所同時伏撃を成功させた要因について他の方の意見を聞きたいと思っています。
もし何か思う所あればぜひ教えてください。

2020年1月25日 戦史の探求

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【参考文献】
(1991),"Боевые действия советских войск в Республике Афганистан: тематический сборник тактических примеров", フルンゼ軍事アカデミー出版, Lester W. Grau訳, 英訳版(1991), 米軍指揮幕僚大学 外国軍研究所(FMSO)
 Валентин Александрович Рунов, (2008), "Афганская война. Все боевые операции"
Лобов, Владимир Николаевич, (2001), "Военная хитрость"
Меримский Виктор Аркадьевич, (1993), "В погоне за «Львом Панджшера»"
 (2000), "米陸軍野戦教範FM3-97.6 Mountain Operations"
ロドリク ブレースウェート, "アフガン侵攻1979-89: ソ連の軍事介入と撤退", 河野 純治 訳, (2013)

ロシア語 パンジシール攻勢概要
http://kunduz.ru/pandzhsherskiye-operatsii

その他複数あり、追記。
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【考察途中】

 ここまで地雷原の位置が完璧になったのは3つの理由が考えられる。
① 偶然
② 事前の作戦全体計画段階でソ連・アフガン政府軍が後半のキシュラク村の掃討まで含め極めて細かくルートと時間まで設定し、その情報が漏洩していた。
③ 漏洩した情報は概要程度のものだったが、それを基にゲリラ側指揮官が予測を組み立てた。

 ②の詳細計画漏洩は考えにくい。(通常戦で起きるような連続して突進するような作戦ならともかく)掃討戦において事前のタイミングで作戦後半の戦術詳細部を末端人員に到るまで指示しておくのは、今回の戦場では戦術的にあまり有意義でなく情報漏洩リスクを徒に増やすだけである。概要を決めておき、作戦前半が終わり部隊の態勢と敵の情勢を再度チェックしてからつめるものだ。実際に31日朝に統合作戦計画を再度話し合っており、詳細部がここで確定したとするといたって普通のことだろう。とは言っても詳細を詰めておくのを好む指揮官だった可能性は消えない。だがそうだとしても31日朝に話し合いが行われているという事実がある限り、ゲリラ側指揮官の立場から見れば何らかの詳細変更があったかもしれないため、断定できない事象を決断する必要があった。
 それに情報流出はアフガン政府軍大隊からであり、ソ連軍大隊ではない。

 故に③のゲリラ側指揮官が、恐らくマスードが予測していたと考えるのが一見妥当であるのだが、これにも疑問がある。周辺高地はルートが一本しかないような険しい急斜面ではないのに、ソ連軍の進行ルートとその時間まで完璧に予測できていたことになってしまうからだ。軍事的分析で「マスードが天才だから予測できた」などと崇拝的な思考はすべきではない。
 進行箇所の尾根は事前の概要情報漏洩で把握していたとする。麓からの詳細登山ルートは数本あるが、上に上がれば上がるほど絞られてくる。ソ連軍の大隊が谷の村を攻める政府軍を支援できる位置は尾根と渓谷内側斜面に限られる。ソ連軍登山速度はこれまでの戦闘経験から仮定する。これである程度までは予測の正確性があがる。これらに基づき地雷原の位置を決める。実際に進行して発生する振れ幅は中央ゲリラ部隊が攻撃開始を遅らせられる/早められる可能幅によって吸収する。ここまでしてもまだ3か所同時になるかは確信が持てない。
 偶然の要素も全てではないにしろあったかもしれない。

 最後に実際に起きた事象をもう一度整理しておく。
「政府軍中央部隊が渓谷の村へ向かい谷の奥に踏み込むタイミングで、されど両翼高地部隊が中央を支援できない状態になるタイミングで、別々に高地を登っているソ連軍大隊が2つとも同じ時間に地雷原と伏撃可能地点に陥るようにゲリラ側の配置はなっていた。」
 これはアフガン戦争全史を通して見ても異常である。





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【メモ】

・コマンドー旅団と言われているのは第212独立強襲旅団のこと。

 A good plan is only as good as its skillful implementation.

「熊は山へ行った。そして獅子に出会ったのだ。 」

 正直、先に示した4戦例のみを踏まえただけではこの戦いの事前知識としては不十分です…いつの日かこの戦いをもう一度見直して頂けたら、きっと新たな発見があると思います。