野戦において溝や穴を地面に掘り戦術に利用する手法を塹壕戦術(Entrenchment Tactics)と言います。野戦のものはその性質や準備時間の違いなどから、要塞の防御用や攻城側が接近するためまたは建設物を崩すための掘削戦法とは別で捉えられます。野戦築城の一種として塹壕は絶大な効果を発揮し、戦史にかなりの影響をもたらしました。

 イタリア~西欧で塹壕を中心とした野戦築城は恐らくイタリア戦争でその効果が完全に広まりましたが、各軍人に共通認識として確立したかはともかく、それより遥か前から塹壕戦術は存在し一部に知られていました。オスマン軍の大規模な野戦築城で東欧諸国は触れてアレンジしていますし、それ以前ならティムールが頻繁に使い、更に昔から各国で使用例はあります。
 ですが要塞用の壕が太古からあるのと比べると野戦では意外と事例が少なく、メインに塹壕を据えたのが「広まった」のはだいぶ後の時代とされています。イスラム世界では預言者ムハンマドが寡兵で敵を撃退するために溝を掘ったことが最初の野戦での使用例と言われることが多いようです。ただこれより昔から使用された戦は存在します。そして興味深いことに、そのうちのいくつかは知見が使った相手に継承され次々と隣国へと広がり渡って行った形跡が見られるのです。
 今回は野戦で大地を掘削し溝を作ることで戦術的に活用した戦例の記録を追い、その軍事的知恵の継承について記述してみたいと思います。
塹壕戦術_2
 一応はべリサリウス率いる東ローマ軍とササン朝との戦争の補足でもあります。
【カリニクムの戦い_531年_片翼包囲_鈎型陣形による対包囲】
http://warhistory-quest.blog.jp/20-Mar-14
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 まずプロコピオスの『戦史』にエフタルの使用例があるためそれを抜粋翻訳する。

野戦での空堀(塹壕)活用の戦例

【484年エフタル‐ササン朝の戦い_プロコピオス『戦史』1巻Ⅳ】

 今エフタルはあらゆる熱意を有し、その侵略者達に会敵しに出陣するべきであると決断した。しかし王(Khushnavaz)は彼らにとにかく一旦待つよう求めた。王はまだ侵略者たちに関する明確な情報を得られていないことを主張した。ペルシャ軍はいまだ国境域にいたのだ。

 彼が居たその場所で保ち、次のように忙しく活動した。ペルシャ軍がエフタルの領土に侵入するで場所であろう平野において、彼は極めて広大な範囲をマークして充分な幅を持つ深い空堀を掘った。ただし中央に彼は10頭分の馬がわたれる1つの道として充分機能するように、地面の僅かな部分をそのまま掘らずに残した。彼は空堀の上に葦を敷いて、葦の上には土を散乱させ、それにより本当の地面を隠したのである。
 それから彼はフン族の部隊に空堀の内側へと後退する時が来たら、彼らは1個の狭い縦隊へとなって、空堀に落ちないように気を付けながらこの場所をむしろややゆっくりと通過するようにと指示を出した。
 そして彼(Khushnavaz)は王旗の頂点から、かつてペローゼス(ササン朝軍の将Perozes)がフン族に対して土地を奪う際に誓ったのに彼が無視した宣誓に塩をかけた。(訳が間違っている可能性有。原文要検証:第9項)

 敵がまだ己の領土内にいる知らせを聞いている間は、彼は休止したままであった。しかし、彼が偵察から敵がペルシャの国境最末端のGorgoの街に到着し、そこから出立して彼(エフタル王)の軍に向かって進んで来ている知らせを受けた。その時に王は空堀の内側に大半の部隊を残し、小規模な分遣隊に指示を与えて送り出した。その指示とはわざと平原で自分たちの姿をある程度離れた距離から敵に見えるようにして、そして一度彼らが敵に発見されたら全速で後方へと逃げ出すように、空堀の近くにやってきたら必ず空堀についての王から受けていた命令を心に留めておくこと、というものであった。
 彼らは指示通りに行い、空堀に接近したら1個の狭い縦隊になり全員が空堀を越え、軍の他部隊に合流した。

 けれどもペルシャ軍はその策に気づく手段を持たず、全速で平原を駆けて追ってきた。彼らの心には敵に対する激しい怒りに満ちていたので、彼らの全員が、最初の者達だけでなくそれに続いた後ろの者達まで皆が空堀に落ちた。先に述べたように、彼らは巨大なる怒りを抱きながら追撃に入っていたがために、彼らは先導者たちに降りかかった崩壊的惨劇に気づかなかった。彼らの馬と槍が彼ら自身の上に落ちて来て、それ故に当然両方が潰れ、彼ら自身がまさしく破滅に巻き込まれたのだ。その中にはペローゼスとその息子もいた。

(英語版 翻訳 終)
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【484年の戦いの考察】

 プロコピオスは当事者では無く、この記録の詳細が実際に起きたものなのかは一考するべきではある。
 ただこの戦闘方法は典型的な小部隊による偽装退却を行い主力が待ち伏せる所へと誘引する策で、エフタルやフン族が使っても何ら不思議はない。やや特殊なのは野戦でのトレンチ(空堀)運用だ。攻城戦ならササンやローマ、ギリシャが大地を掘削するのは普通だが野戦での活用となると使用例が激減する。手間がかかるため移動があり時間も限られる野戦ではあまり好まれず、遥か後の時代になって塹壕の野戦活用は着目され強い影響を与えるようになる。
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塹壕戦術_1
 484年の戦いでは空堀を回り込まれないようにと工夫している。まずかなり前から侵攻地点を予測し自国領土内に空堀建設を行っている。そこに敵が打破を狙ってくる野戦軍を置き位置を解るようにしておく。これで敵がこの周辺に来るまでは布石ができた。まだ確定はしていないため、敵が周辺国境に来てから誘引を行った。これがどの程度の距離なのかが重要なのだが残念ながら記録からはわからない。わかるのは囮部隊とササン朝部隊の相対距離(視界に入って部隊を認識できる距離)だけだ。大草原の視界範囲はかなりある。
 またササン朝軍が空堀地点に近づいたら主力部隊が目に入るので一旦停止するのではないかと思うのだが、記録上は全く止まっていない。少し丘陵になって斜面反対側に姿を隠せるような所があったのかもしれない。ササン朝軍がどんな編制かは不明だが追いかけることができた先頭部隊は確実に騎兵だけだ。軍が壊滅するような飛び込み方をしているので横にある程度広がっていたはずだ。エフタルの誘引部隊がかなり巧くやったか、あるいは空堀の反対側にエフタル主力の横陣が見えていたからササン朝軍も横陣を広げたとも考えられる。これら全てを組み合わせたのかもしれない。

 騎兵が飛び込んでただ落ちるだけで死んだというより次が折り重なってきて潰されたように書かれている。この手のことは近代の集団事故の事例を参考にしながら密集陣形の危険としてあげられるのを目にすることがある。前列は塹壕があれば止まる者もいるだろうが後ろは同時には止まらず必ず詰まる。追いかけて来た騎兵隊であるのでそこまで密集はしておらず前が停まったからと言ってぶつかって押し出す事象が大規模に起きるとは思えないが、激しい土煙が上がって視界が悪くなっているため後列が突進を続けてしまったのは納得ができる。
 と言っても全兵力が空堀に落ちるのは無茶であるので、そのために空堀の内側に投入できる主力部隊を置いていたのだろう。プロコピオスは描写していないが、彼らがササン朝軍の残存を、恐らく部隊組織が崩壊しパニック状態になっている所を空堀の無い通路と両翼を通って逆襲して撃滅したはずだ。
塹壕戦術_2

 プロコピオスの記録が事実だとすれば、遊牧民系の軍が平原の野戦で空堀を使用し更にそれを草木や土で隠し、偽装退却から罠に落とし込み主力と共に殲滅をした見事な戦術の例と言える。

【627年ハンダクの戦い】

イスラム世界では預言者ムハンマドが使ったのが最初であると言われている。アラブの戦士階級はこの手の掘削作業を嫌がっておりムハンマドが率先して掘る姿を見せなければ続かなかったほどだ。だがいざやってみると全くメッカ軍を寄せ付けないほどに効果的に空堀が機能し、僅かな兵が飛び越えてきてもすぐに迎撃部隊が駆け付けることで橋頭保を拡大される前に全て潰すことに成功している。(別記事で詳細部は参照ください。)

【627年塹壕の戦い】
http://warhistory-quest.blog.jp/18-Mar-12

 遊牧民は野戦築城をしないわけではないが、あまり好まなかった。戦術的に大平原では容易く回り込まれてしまう場所が大半だったため、あるいは文化的価値観が原因と考えられる。(ステップでの駝城戦法についてのボブロフの研究を参考に考察した記事を参照。)
【ジャンディ・カマル(駝城)戦法_草原地帯での野戦築城】
http://warhistory-quest.blog.jp/19-Jun-27

【528年タンヌリスの戦い_Battle of Thannuris】

 530年ダラの戦いでべリサリウスは城塞の近くなれど外側に野戦軍を配置し、その手前にトレンチを掘った。そして彼はトレンチへ敵をおびき寄せ、極めて優れた部隊投入のマニューバを組み合わせてササン朝軍の先頭の騎兵部隊に大損害を出させ勝利した。この会戦でべリサリウスは戦術的に非常に高度なことをしているので他にも着目すべき点があるのだが、とりあえずこここでは野戦での空堀活用の戦例として挙げておく。

 今回記述したいのがこの530年の会戦の2年前にダラ近郊で行われたタンヌリスの戦いだ。
 この戦いは攻城戦がメインであり、その攻城部隊を妨害しようと野戦軍が周辺で激突した。皇帝の反応が遅れる中、両軍はかなり大規模な工兵による建設合戦を行った。当時べリサリウスは総司令官では無くどうやら一部隊の指揮官だったようで、外に少なくとも2名以上の司令官が指揮を主導して取っていた。べリサリウスの一部隊は敵工事を妨害しようと野戦をしかけるも決定打とならず撃退された。そして工事がかなり進んだため東ローマ軍の他の将軍たちが勝負に討って出たものの、ササン朝軍に迎撃され壊滅、将軍たちが捕虜または戦死する大敗北を喫してしまう。これらがプロコピオスの『戦史』第1巻Ⅷに記録されている。タンヌリスで複数将軍を失ったことが彼のより上級司令官へ昇り詰めた背景かもしれない。

 プロコピオスの記録にはCutzesら他の将軍がタンヌリスで壊滅した詳細事項が書かれていない。
 しかし幸いなことにHughes(2009)によるとPseudo-ZachariahのⅨ.2に詳細記録があり抜粋されているためこれを翻訳し参照する。(Hughes,第4章)
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 従って、べリサリウス、Cutzes、Buzesの兄弟、Basil、Vincentそしてその他指揮官及びサラセン人の長Atafarたちの指揮の下でペルシャ軍に対してタンヌリスの砂漠へと行軍していく目的でローマ軍は招集された。
 そしてペルシャ軍はそれを聞きつけ、ある策を考案した。彼らのトレンチの間にいくつかの溝を掘り、それからそれらの全周に三角形の杭を用いて(溝を)隠し、幾つかの開口部を残しておいたのである。
 そうしてローマ軍が現れその時彼らは(突撃に)間に合う時間内にはペルシャ軍の欺瞞作戦について気づくことができなかった。将軍たちはペルシャ軍の塹壕陣地に全速力で飛び込んでしまい、溝に落ち、捕虜にされていきCutzesは戦死してしまった。そしてローマ軍の騎乗していた者達は引き返し、べリサリウスと共にダラへと急いで戻って行った。しかし逃げきれなかった歩兵は殺されるか捕虜になった。
 サラセン人の王Atafarは急いで離脱しようとしている時に近距離から打たれ戦死した。彼は好戦的で有能な男であり、ローマの兵器の使用について豊富な経験を持ち、様々な場所で勝利し、戦争では知られた人物であった。

英語版 翻訳 終
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(野戦)塹壕戦術の継承_Entrenchment Tactics

 プロコピオスとZachariahは違う記録であるのに、塹壕戦術について酷似した描写がされている。484年にササン朝軍がエフタル軍にやられた隠された空堀の罠に落とす策を、今度は528年にササン朝軍が東ローマ軍を相手にやってのけている。両会戦の間には40年以上空いているためエフタルの戦術をササン朝が真似したとは断言できない。ササン朝の誰かが独自に思いついたのかもしれないしエフタル以外の戦例から伝わったことも考え得る。だが知見が共有、継承された可能性は充分あり得るだろう。
 更に興味深いことに、タンヌリスの戦いで隠された空堀の罠を目撃しながら生き延びた将軍の中にべリサリウスがいて、彼は2年後のダラの戦いで明確に空堀を野戦で活用しているのだ。これら4つの戦いにもしかしたら繋がりがあるのかもしれない。

 戦史を通して検証し同じように考えた人物は既にいた。Irfan Shahîd教授だ。彼は1926年生まれでオリエント研究を進めアラビアとイスラム文学の造詣もある学者で、晩年はジョージタウン名誉教授となった。彼の20世紀末~21世紀初頭に出した一連の著作は膨大な分量にも関わらず対象を絞り込んで深く掘り下げている。書籍名は『Byzantium and the Arabs in the Sixth Century』だ。他に4世紀本と5世紀本もあるが特に6世紀が4巻に渡る壮絶な記述量となっている。
 その第1巻pp.78~79にまさにこの考察が載っており、それを引用し本稿を終えることとする。

 「タンヌリスの戦いでのJabalaの死はペルシャの塹壕戦術の結果から生まれたものだ。この手法は白フン(エフタル)のペルシャ王ペーローズに対する中央アジアでの484年の戦いで最初に使用されている。ペルシャ軍は白フンからその戦術を借りてビザンティン軍に対して528年タンヌリスにて使用したのだ。それからべリサリウスがそのペルシャ軍からそれ(塹壕戦術)を借り受け、530年ダラスの戦いで使用したのである。タンヌリスでアラビア人たちはそれの結果としての己の王の死をその目で見た、そして彼らもその教訓を学んだに違いない。ヒジャーズ地方(メッカを含むアラビア半島西岸)のアラビア人にそれをもたらしたのが彼らであったかどうかは不明である。(ダラの戦いから)100年後の627年、ムハンマドはメディナにいる彼を攻撃してきたメッカ軍に対してそれを使用し、それによって戦いの形勢そのものを一変させ、その戦いは『Battle of Ditch』として後に知られるようになったのだ。(ササン朝で使用された)パフラヴィー語のkandakからアラム語を通り、アラビア語『溝(ditch)』を意味するkhandaqという言葉の中に、塹壕戦術のペルシャの由来は保存されているのである。」

 Irfan Shahîd









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以上です。
ここまで読んで頂きありがとうございました。
考察や他の研究など何かご存じであればどうか教えてください。


 これが発祥…というのではなく、もしかしたらこの4つに繋がりがあるのではないか、という点に興味を持って軽くですが調べてみました。やはり断定は出来ない気がしますが中々に広がりがありそうなところだと思います。戦術的にはべリサリウスのダラの戦いがとてつもなく高度なことをしているので詳しく書きだすとそっちに比重が行ってしまって焦点がずれてしまう気がしたので意図的に短くしました。

 どなたか野戦築城史本とか出してくれないでしょうか…面白いと思うのですが。


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参考文献はカリニクムの戦いの記事の末尾をご参照ください。
【カリニクムの戦い_531年_片翼包囲_鈎型陣形による対包囲】
http://warhistory-quest.blog.jp/20-Mar-14

turn the tide 形勢を一変させる。逆転する。