片側に通行困難地帯という地理的条件を有する時、軍の戦術的/作戦的な選択にどのような影響をもたらすかは必須の検討事項です。特に「水場側への」片翼包囲にするか「水場側からの」包囲にするかというテーマで考え別拙稿を作成しようと思います。本稿はその実戦例の1つとして記しました。
 取り上げているのはラスワリーの戦い、18世紀末~19世紀初頭にインドで行われたマラーター戦争における会戦の1つです。英国の名高いウェリントン公ではなく、インドでの戦歴なら彼より長いジェラルド・レイク将軍が指揮を執りました。
ラズワリーの戦い gif

 戦術的/作戦的な要素の考察は別拙稿参照。
⇒リンク 【開放翼から通行困難地帯へ向けた翼包囲の合理性】及び【水場側からの片翼包囲の戦例集】
http://warhistory-quest.blog.jp/20-Oct-26
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 インドの第2次マラーター戦争においてイギリス東インド会社(EIC)軍がマラーター同盟軍に打撃を与えた会戦はやや変形的な水場側からの片翼包囲だ。そのマニューバはえぐりこむように深く回っている。また、途中で敵が迅速に対応して鈎型陣形を展開したため側面攻撃は殆ど発生せず、部分的正面攻撃で崩してから最終段階で包囲攻撃が発生し、全体の片翼包囲へ到った。今回はその戦術的推移を焦点とし記述していくこととする。

第1地点の戦闘_川岸周辺での前進成功

 1803年10月末、長い追跡の後にジェラルド・レイク率いるEIC軍はマラーター軍をようやく捕捉した。途中で地面が雨でぬかるみ遅れた砲を置き去りに先行部隊だけで食らいついて苦労した末だった。当然敵を見つけたのは騎兵隊だ。

 マラーター同盟軍の配置は右翼の外側を川が流れラスワリー村周辺に端があり、左翼の端はMohaulpore村を利用した防御陣地ができていた。この2つの地点の間をマラーター軍の戦列は深い川と鋭角の斜めに広がるように横陣で埋めていた。特に左翼内陸側には多数の砲が並べられ敵を待ち構えていた。(一部の)砲は互いに鎖で繋がれており、これは騎兵突撃に対する簡易障壁となる効果があり、オスマン軍などで昔から使われている手法である。これらの一部は生い茂った草木で隠され、そして折からの折からの風塵が視界を限定していた。そのためレイク将軍はすぐに全容を正確に認識することができなかった。

 レイクは到着後即座に、つまり歩兵隊を待たずに、騎兵隊のみで攻撃に出る決断をした。
Battle_of_Laswari_01 これは追撃戦だと認識していたのかもしれない。だがマラーター軍はその場所に着いてから戦列を展開する時間を持てていた。そのため撤退するのではなく強力な迎撃布陣を隠蔽位置も含め敷けていたのである。

 騎兵を展開するとレイク将軍自身がその先頭に立った。彼の計画は前衛と第1、第2旅団によって敵左翼へ突撃し、第3旅団が敵右翼へ向かうというものだった。左翼で騎兵隊は果敢に敵右翼戦列へ突進し、ラスワリー村前面にいた敵部隊は村の中に後退せざるを得なかった。ここで幾つか砲を奪取する。複数の場所でマラーター軍戦列は突破されていた。この突破口を開けた戦果を歩兵によって拡張し、敵に再編成するいとまを与えたくなかったのだが、流石に歩兵は間に合っておらず進展は難しかった。
 一方で敵右翼へ攻めかけた騎兵隊の突撃は良い結果を得られなかった。騎兵部隊は敵の側面を取るマニューバを試みたが、数十の敵砲が火を噴いた。砲のあった戦列は長い草木で隠蔽されておりEIC軍に衝撃を与える。それでも騎兵隊はまるでパレードの如く整然と行進し隊形を組んでから敵砲兵隊へ突撃した。敵の砲列まで到達し砲兵を駆逐したがそこを越えると歩兵が塹壕を掘って守備陣地を整えていた。陣地からの射撃が襲いかかり、騎兵の進撃を止めた。もはやこの初期攻撃の成功は見込めず損失が拡大するだけだった。そのためレイクは果敢に騎兵隊を指導して再編し後退させ、戦闘は一旦収まった。

 この第1位置での戦闘は概括すると、EIC騎兵が速攻をしかけたが敵は既に戦闘準備を整えて隠蔽もしており、騎兵の攻撃は一部しか成功せず、レイクは騎兵部隊を一旦さげて歩兵を待つことにした、という流れである。

第2地点の戦闘_水場側からの側面攻撃と鈎型陣形移行での防御

 11時頃に待ち望んだ歩兵と砲兵が到着すると、将軍はまず食事をとらせ1時間後に戦闘展開させた。この小休止期間にマラーター軍も蹂躙されたラスワリー村を今後も防御することを諦め、右翼を下げて新たな守備配置を展開した。即ち内陸側の防御地点を中心に時計回りに回転するように退いたのである。マラーター軍は主に2個の戦列歩兵を展開しており、1つ目が前面またはMohaulpore村の東部(内陸側)、2つ目が後列または西側(水場側)の配置に着いた。騎兵は右翼(水場側)歩兵の向こうのほぼ川の傍に置かれ端部を担った。この第2位置は川とほぼ垂直となった。

battle of Laswari_02 対するレイク将軍の戦術目標は敵右翼を回り込むことであり、そのために彼は歩兵を川岸ぎりぎりに展開させた。Sir Fortescueの記述に基づくと、水流のすぐ傍を通ることで、恐らくその地盤が水に削られ一段低くなっていることを利用して死角を進んで、敵右翼の側面に横隊を展開しようと企んだようだ。左翼端部隊は2個に分けられ、1個が敵右翼端を回り込む主部隊であり、もう1個が支援を担った。そこはマラーターがさがり展開した第2地点の右翼端にほど近い場所だった。
(つまり、地形的には右翼の外側には平野が広がり移動スペースはあったにも関わらず、レイク将軍は狭い川岸からの片翼包囲を選択した。)

 歩兵の移動は背の高い草木に隠されたおかげで敵にすぐ気づかれることはなかった。さらに有する3個騎兵旅団の内1個を歩兵の支援に付けさせた。別の騎兵旅団は右翼に配置され、敵を監視し何か混乱が起きればその隙を突くように任じられた。3つ目の騎兵旅団は予備として置かれた。砲兵は全て歩兵の攻撃を支援するために投入するよう計画された。

 けれどもマラーター同盟軍は敵将の意図(内陸側ではなく水場側が主攻)に気づくやいなやその(川岸を隠密に進んでいる)敵戦列を発見し、EIC左翼をけん制攻撃した。この移動は激しい砲撃支援で掩護されていた。EIC砲兵隊も砲撃し効果を挙げてはいたが、数ではいかんせん優越されていた。マラーター軍は大急ぎで右翼水場側の兵力を増強する。ここがEIC軍の攻撃目標地点だと判明したからである。マラーター軍の将はここで更に右翼を折り曲げて後退させる決断をした。鈍角の鈎型陣形が形成されこれにより川岸に展開している敵EIC戦列を、側面がとられないように距離を置いて正面側に捉えられるようになった。逆に言うと、EIC軍左翼は側面を取ろうとした結果川に平行に飛び出す形で展開しており、敵右翼が時計回りに下がったことで全く後ろにスペースの無い背水の布陣になった。

第3地点の戦闘_水場側からの片翼包囲

 レイクはここまで状況が進展するともう方針を変えず左翼水場側からいくしかないと覚悟したのだろう。
battle of Laswari_03a EIC軍が新たな位置についた敵右翼に対し攻撃を再開し、砲撃を行い各部隊が配置へ着いて行く。騎兵は左翼端へ移った。だが砲で優越するマラーター側は撃ち合いでも、歩兵への砲撃でも効果をあげ始めた。EICの歩兵隊が集合予定地点に移動して行っている時に、巧みに直射して一部を遅らせもした。EIC軍は今や深刻な状況となっていたのである。レイクはそれを見てもはや完全な集合を待っている時間はないと判断し、第76連隊の歩兵たちに直ちに前進するよう命令を発した。

 その右翼と左翼にマラーター軍の砲兵は火力を集中した。損害が次々と出たが、今や最前線に立つレイクはただひたすらに迅速に前進させようとした。彼は砲を奪取することがこの会戦の鍵だと認識していた。
 EIC軍は己が指揮官と同じく勇敢だったが、マラーターの兵士達もまた「負けず劣らずの勇気を持って立ちはだかった」と英軍のMalleson大佐は記し、Fortescue卿は「(マラーター兵は)凄まじい冷静を持って(待ち続け)、彼ら(EIC歩兵)にキャニスター弾の射程に踏み込ませ、殺戮的な一斉射撃を戦列のあらゆる砲から放った」と述べている。彼らの防御はとても堅固でEIC兵の攻撃は跳ね返され続けた。

 ここがまさに瀬戸際だった。レイクは全歩兵部隊の攻撃を急がせるべきだとみなし、英国兵の戦列があらゆる困難に立ち向かいながら動き続ける。マラーター軍の指揮官も勝負の時を理解しており、このタイミングで騎兵隊を投入する。マラーター騎兵が止められた英国歩兵の左側面へ矛先を向け疾駆した。(マラーター軍指揮官はその将としての戦況を見る目は本物であったことを記録に残しておく、とMalleson大佐が書いている。)
 歩兵戦列の左翼で損失を出しながらも踏みとどまっていた第76連隊が、その敵騎兵の危険な突撃を迎え撃った。彼らは動揺せず秩序を保ち続け、そしてついに敵騎兵を撃退した。レイクは戦況を見定め、敵騎兵隊が2度目の突撃をするために集結しようとしている所を再編しきる前に、それを打撃することを決断した。敵騎兵突撃(charge)を撃退したその瞬間、彼は逆襲突撃(counter-charge)を第29竜騎兵隊に命じたのだ。
 第29連隊が突撃のために集結しようと停止した位置は、砲兵の後ろの川の傍の砲兵隊の後ろだった。そのおかげで彼らは部分的に隠蔽されていた。恐らくこれは敵の死角になって気づかれていなかった。それでも敵の砲弾が跳ねてきて指揮をとっていた将校の1人の命を奪った。彼らは窪地から飛び出すとギャロップで走り抜けマラーター騎兵を打撃して、敵を後退させた。
 それから第29竜騎兵は左翼の第76歩兵の支援として、左翼端を形成し攻撃を担った。ここに左翼の砲兵隊、歩兵隊、騎兵隊が共に攻撃を行い、EIC軍主攻は進撃した。
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 レイク将軍はこの戦いで猛烈なる精神力を見せており、砲の咆哮が轟く中で更にそれを強くした。
 兵士たちが隊形を組み上げているその時、監督していた将軍は乗っていた馬が撃たれ崩れ落ちる。すぐにレイク将軍の従軍していた息子が自分の馬を将軍に差しだした。次の瞬間彼の息子が横腹を撃たれ、重傷を負う。それを騎兵たちは目撃していたのだ。その数瞬後、騎兵突撃の合図が響き渡った。この姿勢を見せられた彼らは、誰もが抑えきれぬ気迫(élan)を持って駆け出した。
[ Malleson, (1883), pp.290~292]
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battle of Laswari_03b
 この突撃を止めることは幾多の砲を持ってしても、勇敢なマラーター兵の銃火をもってしても不可能だった。Duffによれば、第29竜騎兵連隊はまず敵(右翼の)歩兵隊の両方の戦列を貫き、それから回頭すると敵騎兵を襲撃したとされる。これによりマラーター右翼騎兵隊はかなりの損害を出し、とうとう戦場から駆逐されてしまった

 更にそこから第29竜騎兵は露出した敵第2戦列部隊の背後を突いた。EIC歩兵隊も更に前進し、騎兵が敵歩兵第1戦列を崩し第2戦列の所まで下がらせた戦果を活用し、敵陣を猛撃する。この歩兵をすぐ近くで率いていたのはレイク将軍である。歩兵隊を集中した左翼が攻撃して(拘束して)いる敵戦列の背後を突いたのが先ほどの第29竜騎兵のマニューバであり、それによりEIC軍は敵翼を完全に粉砕した。騎兵が敵兵を追い散らし、歩兵が砲を奪取確保していく。
 反対側の右翼でもEIC騎兵が攻めかける。今やEIC戦力はその全軍が攻撃に加わっていた。こちら側の圧力はそれほど強くなかったことと、Mohaulpore村陣地があったため右翼突破は難しく損失を出した。故に両翼包囲になることはなく、決定打は左翼(水場側)からの片翼包囲によってもたらされた。

 陣形が崩壊しもはや抗う術を全て失っても、それでもまだ一部のマラーター軍の兵士達は心折れることなかった。マラーター兵はあちこちで戦い続け、全ての陣地と砲が失われるまでEIC軍に立ち向かったという。Malleson大佐の書籍はマラーターの将兵の勇敢さに驚きと敬意を持って書かかれており、Duffが著した書籍でも手ごわい兵士だったと語られている。戦闘が終わった時、数千のマラーター兵の死傷者が横たわっていた。

考察

 ラスワリーの戦いに関して書かれた諸本に共通しているのは、①英国系騎兵隊と歩兵隊の果敢な突撃と小さくない代償、②マラーター軍が低練度でなかったこと、③レイク将軍の危険な最前線を駆け回る指揮スタイルである。これを踏まえた上でジェラルド・レイクの戦術を検討する。

【1】全体損耗率の内訳の重要性

 インドでの戦いはEIC軍が圧勝したかのような印象を全体として受けるが、決して簡単なものではなかった。ラスワリーの戦いではEICは全体で、死亡が将校13名及び兵士159名、負傷が将校29名及び兵士623名だった。その内英国人が占めたのは死亡82名、負傷248名である。特に第76連隊がその半数以上を占め、死者の内43名、負傷の内149名という状態だった。これは補充が難しい英国系将兵という観点で見ると、かなり苦しい消耗だった。
 今回の様に、会戦での全体死傷者比率で圧倒しているように見えても人員リソースという点で英国は苦しみ続けた。数的不利の戦闘で決定的打撃を与えるために精鋭部隊を積極投入しなければならず、必然的に損失の大半が彼らから出る形になる。例えば、損耗率が全体で見て10%程に抑えていても、その10%の兵士は英国軍が派遣した数少ない部隊か訓練を積んだセポイで大半が占められていた。マラーター戦争ではアッサイェやラスワリー、デリーの戦いで英国系部隊は不利な形態で(彼らの表現では「勇敢な」)突撃を実施して困難を乗り越え勝利し、そして精鋭を失っていった。シク戦争でも同様にチリアンワラ(battle of Chillianwala)などで勝利と引き換えに英国系兵士が多数死傷している。ウェリントン公も会戦で華々しい勝利を連続してあげていたが、その損耗の出し方とインドの数と広さによって、戦争そのものには非常に苦しんだ。それがマラーター戦争のように第2次、第3次と中々戦争終結させられなかった英国の背景である。損耗率が全体で見て何%かというのは重要だが、同様にその内実がどの部隊で占められているかも可能なら見るべきだろう。

【2】マラーター軍の練度

 マラーター側将兵の練度と戦術的判断能力が低くなかったことが各書籍で示唆されている。指揮官はAmbajiだと思うが、実際に鈎型陣形及び右翼端の騎兵投入を指示したのが誰か判明していないためここでは触れない。
 インドでの各戦争において英国側はあまりインド現地兵を評価しないことが多いのだが、ラスワリーの戦いでは異色なほど手放しで賞賛を送っている。これには幾つか明確な理由があった。まずマラーター兵の数が絞られていたことだ。マラーター勢力はなまじ影響力が広いために、膨れ上がることが多かったが近代的装備も訓練も受けていない寄せ集めになりがちだった。より正確に言うと、フランスによって鍛えられた兵が含まれていても、そうでない兵が大半を占めていた。一方でラスワリーでは歩兵9000、騎兵5000と各々一万を越えず、大家の子飼いの兵士がかなりの割合を占めた。それが容易ならざると英国兵が感じやすかった要因だ。

 もう1つの理由が、訓練を積んだ兵士の中に更にBoigneとかつて共に歩んだ古参兵が居たことだ。Benoît de Boigneといえば低い身分の家に生まれながら、野心を抱き軍に入り華やかな欧州を離れ、遥か遠方のインドの厳しい環境下で成り上がり諸作戦を成功させ、現地藩王国で高い地位を授けられ、最後は欧州に帰還し大金持ちとなっていた、そんな異国の地での挑戦者として知られる。彼が行った練兵はマラーターにとって大きな財産となった。そんな彼が去ってから、少しずつBoigneの兵士達は減っていった。Duff p.258によると、ラスワリーの戦いはその古参兵の最後の舞台だった。De Boigneにかつて鍛え上げられたベテラン兵は、右翼が崩壊し片翼包囲が進展しもはや結果が変わらなくなっても頑固に、勇敢に戦い、この地を死に場所に決めていたと記されている。

 戦い続けた事だけでなく、マラーター軍が戦況に合わせ3度陣地を下げながら崩壊しなかったことは注目に値する。練度や士気の低い軍がこの手の戦術的後退をすると、逃走者や持ち場の放棄など命令無視が乱発し自壊していく。或いは酷く遅い動きになる。ラスワリーのマラーター軍は敵の動きを察知すると迅速に側面を曝さないように鈎型に転換し、しかもEIC軍の前進が始まる前に先手を打って砲撃をしかけた。EIC軍が前進する頃にはしっかりとした新位置での迎撃態勢を歩兵騎兵共に整えていた。英国の軍事史家たちが悉く賛辞を彼らに送っているのは至極妥当だ。他の幾つかの会戦で見られた練度の低く鈍重なマラーター軍だったなら、こんな後退をすれば酷く乱れてしまい、まずEIC軍が先手を取ってそこに突っ込むことができただろう。
 兵士がコンパクトだったことで、統率は比較的取りやすかった。それに加えて複数の要因が重なり、ラスワリーでのマラーター軍は数的差異がほぼ無くとも、「衝突した箇所個々では」EIC軍に非常に手強いと感じさせたのである。だがそのような所感があったとしても、全体結果はEIC軍の大勝で終わった。

【3】指揮官が危険地帯で指揮を執り兵を率いるスタイル

 上述の戦闘描写に幾つか情感的記述が入っている。これは多くがMalleson大佐の記述を参照とした。凡その流れは他書籍と同じなので戦闘推移として酷い誤りはないと思うが、この手の描写について誇張はあるかもしれないとは思っている。今回は19世紀の軍人であるMalleson大佐が感情移入をしている所に逆に注目したいと思い、意図的に省かなかった。(より戦闘推移を純粋に記述しているのは1921年のFortescue卿の本だ。将兵の勇敢な行動を記録していても、入れ込んだ表現にはしておらずさっぱりと戦闘推移を進めている。Fortescue卿は古典ではあるが、英国軍事史に高い貢献をした優れた戦史学者として知られ、今回参照した中で最も理路整然としていた。)

 勇気ある個は軍のどこかに存在するが、勇敢なる集団が自然発生することはない。組織的な取り組みによってそれは創り上げられる。組織の長として、将が部下の目にどう映るかが、どう思われるかは極めて重要だ。優越する火力の敵防御戦列へ向かい幾たびの前進/突撃をするには、命令に「従ってもらう」必要がありそのために指揮官は様々な方策を準備する。その1つが指揮官自身が先頭に立ち、文字通り率いるやり方だ。レイク将軍は典型的な「己が姿勢で部下をついてこさせる」タイプの指揮官であり、その気質は突撃を恐れない攻撃的なものだ。第1地点での騎兵突撃では戦闘展開するためにレイクが最先頭に立ち、そして思わぬマラーター軍遮蔽位置の反撃を受けた時、彼は銃弾が飛び交う中で乱れた部隊を再編し後退させた。極めつけは第3地点での左翼突撃の際に息子が目の前で倒れながらも先頭で兵を率いて前進していった所だ。

 この方策は議論を呼んできた。効能はあるがリスクがあまりに巨大であるからだ。状況次第ではそれはギャンブルとも言われた。兵器の致死的性能の増大、指揮系統の組織的洗練、情報伝達機能の発達、そして社会階級及び価値観の変質は、全体として指揮官は後方にいるべきという流れを強化して来た。ただ古代~19世紀では、一概に述べることは不可能だった。またこれは総指揮官だけでなく、各部隊の長それぞれにも該当する場面がある。求めるのは兵士が命令に従ってくれるかだけであり、練度と軍の社会的性質によって率いる方策が変わるのは必然的だった。
 本稿の短い記述では何が正しいといった主張はしない。留意したいのは、レイク将軍は突撃の直前に馬を撃たれ、更にすぐ傍で息子が重傷を負い、ほんの少しずれていればEIC軍の指揮官が必要な時に失われていた可能性が充分あったということだ。これを踏まえた上で「勇敢な」兵士達の突撃がある。それをどう捉えるかはきっと様々な意見があるだろう。

 本サイトでは既にいくつか指揮官が前線を駆け回り、成功したケースと戦死してしまった事例を紹介してきました。今後も指揮官の位置というテーマの参考となる戦例になる場合、そこを少し強調して記していこうと思います。

【4】ジェラルド・レイクの戦術志向性

 Dictionary of Irish Biographyの後半に「He had little regard for complex tactical manoeuvring, and usually relied on aggressive frontal assaults.」という文がある。これは正しい記述でもあり、同時に誤解を生みかねないので注意する必要がある。
 例えばレイクの戦歴の中なら、1803年第1次デリーの戦いは正面攻撃だが、細かい偽装退却を組み合わせ奇襲性を確保した上で実施され勝利を達成している。今回のラスワリーの戦いでも、マラーター側が鉤型陣形を展開したため左翼端で見れば部分的正面攻撃を実施して決定的突破を達しているが、全体の戦術は水場側からの片翼包囲だ。また最初は側面攻撃を川岸死角を利用した奇襲でやろうとしていた。レイクは単調な戦術的発想しか持っていなかった将軍などでは決してない。
Gerard-Lake
 レイクが正面攻撃を忌避していなかったのは確かであり、包囲攻撃の可能性もあった状況でもそれを選ぶ傾向があったのは正しいかもしれない。(所感を述べるなら正面攻撃志向はあっていると思うのだが、彼の戦歴を追ったところ正直断言できるほどの明確で多くの記録はなかった。せいぜい傾向が見られるといった言い回しとなるだろう。)

 そもそも複雑なマニューバでないということを、程度が低いと解釈するのはやるべきではない。マニューバの本義は有意な機会を生み出し勝利へ繋げることであり、それが達せられるなら何でもよい。普遍的優越性が特定のマニューバにあると信仰し使用するのではなく、目の前の状況に合わせ適切なものを選ぶだけだ。それが適切なら複雑な動きを、それどころか激しい移動をする必要すらない。シンプル性の利益を重視する軍もある。

 また、レイクがアグレッシブに攻撃するタイプだったというのは大いに賛同できる。ラスワリーの第1地点は偵察不十分なままで騎兵突撃を実施しており、速度の方を彼は優先していた。側面攻撃がバレた後に、一度退いて立て直すということをせず、そのまま背水で部分的正面攻撃を発起したのも同様に彼の攻撃性に立脚している。デリーなどの他会戦を含め、とにかくレイクは思い切りが良かった。攻撃ならば、ぐずぐずと悩むことをせずに多少望ましからぬ状態であろうと攻撃準備を始めた。寡兵であったことはむしろ彼の積極性を補強していた。
 加えてレイクは会戦のみならずより広範の追撃戦でも同様のアグレッシブ性を示した。例えば1804年第2次デリーの戦い(デリー包囲戦)でかの高名なヤシュワント・ラーオを退却させた後、極めて激しい追撃を行った。一部の部隊は24時間で97㎞を追撃し、これはファッルハーバードの戦いとして知られる。今回のラスワリーに至る過程でも強行軍で敵に食らいつき逃がさなかった。

【水場側からの片翼包囲】

 どちらかの側面に通行困難地帯がある時、翼包囲は非対称の性質を持つ。通れない地理要素として戦史では特に水場がよくみうけられる。テーマとして簡略化した表現をすると、水場側からの包囲と、水場側への包囲にわけられる。ラスワリーの会戦で使用された戦術は前者だ。この時どのような状況が発生していたかを見ることは大いに意味がある。

 まず奇襲性を途中まで得られていた。具体的には、マラーター側は第2地点の水場側から敵が攻めてくると思っていなかった。原因は明確で、翼包囲/側面攻撃を実施するために回り込むスペースが殆どないからだ。通行困難地帯を翼端に位置するように戦列を作るのは、その翼の外側からの攻撃をされないよう防護するという効果を期待して為されることが多い。よって対包囲方策の1つと言えるのだが、逆に水場側からの包囲はそれを利用する。包囲がやりにくい方だからこそ、敵将の予想から外れやすくなる。
 そもそも敵将が翼包囲を警戒しており、それほど数的優位または移動能力の優位性を我が方が造れていない場合、側面攻撃を無防備にさせてくれることなど殆どない。すると翼部隊をぶつけ部分的突破形成または押し込み、そこから内側へ回頭し翼包囲をする。そう考えると、その外側にスペースがあろうが突破箇所は部分的正面攻撃となるため、そこまで差異がない。(勿論外側にも警戒をしなくてはならない等、水場側への包囲のアドバンテージは複数あり、有力なマニューバとして昔から捉えられているだけの理由はある。)要するに、水場を翼端にしたからといって、敵が水場側を主攻にはしてこないと確信できるほどの理論的根拠にはならないのだ。そしてもし敵将が内陸側が決勝点だと思い込んでいれば水場側からの包囲の利点が勝る状況が充分ある。ここの読み合いが指揮官には求められる。
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 ただし、スペースが狭すぎるため移動途中で敵に発見されずにやり遂げるのは難しい。夜襲や視界制限が起きる気象または地形条件が必要だろう。ラスワリーでは川岸が水流で削られ一段低い天然の塹壕連絡路になっていた。レイクはそれを活用し奇襲しようとしたし、そして途中で敵に見つかってしまいもした。思考の裏をついといっても奇襲が難しいのがこのマニューバなのだ。その意味でこの会戦は実によく水場側からの包囲を実施する際の考慮事項の参考になる。

 ラスワリーの特異性として1つ追記しておくことは、全体を通して見ると時計回りに2/3回転するような抉り込む片翼包囲をしたことだ。第1フェイズは敵布陣が川を斜め後ろにしていたこともあり、水場側への攻撃が主攻だった。そこから主攻は水場側、水場側から、と移っていった。最後は翼端の騎兵が敵最奥から回り込む形になっている。もしかすると第1地点での戦闘で水場側へ追い詰めるような圧力がかかったことは、マラーター側指揮官の後退方向に影響を与えたかもしれない。
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 また、水場側から/への包囲を考える上で留意しておくべきなのが、内陸側の翼端に強化陣地が設置されるケースが多いことだ。水場側を片翼端にして包囲から防護した指揮官なら、逆側翼にも警戒をしているのはほぼ確実だ。内陸側に戦力を特に増強していたり、時間があるなら様々な築城を行い翼端を強化していく。もしかすると逆包囲のための配置にしているかもしれない。今回の戦例はその典型だった。Mohaulpore村はかなりの強化陣地が展開されており、会戦第1段階からほとんど微動だにしなかった。
 敵の内陸側翼端がそのような強化陣地の時、翼包囲をまだ諦めない指揮官の選択肢は3つに大別される。1つは強化地点の更に内陸側の奥地を遠く回り込み、包囲を成功させる。これは当然各部隊間距離が非常に遠く離れる瞬間があり、分散リスクが大きい。必死に回り込んできたら気づかれていて敵が下がっていたり鈎型陣形になっていることもありうる。それでも成功すれば強力な打撃を与えられる。2つ目は中央翼側位置(肩部)を部分的中央突破し、そこから少数に分離させられた敵翼部隊を崩壊させるか、あるいは残る本体部に部分的片翼包囲を行うことだ。各個撃破をかなり強引かつ巧みにするやり方で相当難しい。また他の戦術的要素が複雑に絡んでくる。3つ目が水場側からの片翼包囲だ。いうなれば敵の強力な箇所を避けて相対的弱点部を崩そうという発想の類型である。
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 リスクにも触れておく必要がある。一目瞭然だが翼包囲をしかける主攻は背水の狭いスペースに押し込められ、あまつさえ敵の近域で移動する必要があり、非常に危険である。ここで先手を打って激しい打撃を受けたり、逆襲にあうと主攻が逆包囲され殲滅もあり得る。ラスワリーでのマラーター側指揮官は秀でた戦術的判断を各所でしていたが、鈎型陣形に切り替えたことやEIC左翼歩兵が仕掛けてから保持しておいた騎兵を投入したことなど、全体的に受動的で守勢迎撃を好む傾向が見られた。レイクのような激しく主導的に仕掛ける指揮官なら、川岸を細長く移動中のEIC左翼を発見した瞬間、防御の陣形を崩してでも攻撃前進しただろう。
 別のリスクもある。包囲を仕掛けようと水場側に戦力を集めた時、先に敵が内陸側から攻撃を仕掛けてきた時、酷く包囲形が完成させられやすい位置関係になってしまっていることだ。敵が受動的守備に徹してくれるという確証無しなら、迂闊な水場側からの攻撃は墓穴を掘りにいくだけになる。攻撃をしかけるタイミングを情勢に合わせて見極めることがより重要になる。

 以上の様に水場側からの包囲は様々な困難性とリスクがある。成功時の戦果期待値を含め、巨大なアドバンテージのある水場側への包囲がより合理的な状況が多い。だがそれは絶対的なものではなく、状況次第では水場側からの包囲は充分あり得、ラズワリーの戦いのように勝利した戦例は複数記録されている。指揮官はある特定のマニューバを信仰するのではなく、労苦を惜しまず毎回必ず状況を見極め、膨大な選択肢から最も適切な戦術を選ぶ必要があるだろう。
 その他にも考慮事項はあるため、それぞれの比較は別稿で行う。今回はあくまで今後長く触れていくことになる通行困難地帯を片側に抱えた状況で採択される翼包囲戦術の考察の一例として、ラスワリーの戦いを紹介した。










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 最後にジェラルド・レイクの晩年を記す。このインド戦史に巨大な影響を与えた猛烈な気性の将軍は、1805年により温和策を求める英国政府の要請を受けたコーンウォリスに代わられ、インドでの戦いを終えた。1807年に子爵に叙され英国に戻ると事実上引退となる。帰国した彼は、当時の多くの退役軍人がそうなったように、ギャンブルにはまり込みインド駐屯を含む過酷な軍歴で貯めた財産を溶かし尽くした。英国に帰ってたった一年後、1808年2月20日ジェラルド・レイクはその63年の人生の幕を下ろした。1758年から半世紀に渡り、その生涯の殆どを軍の中で生き様々な国を駆け回った彼の引退生活はあまりに短くそして報われるものではなかった。











参考文献

James Grant Duff, (1826), "A History of the Mahrattas" 第 3 巻 
Colonel G. B. Malleson, (1883), "The Decisive Battles of India from 1746 to 1849" 第10章
Sir John William Fortescue, (1921版), "A History Of The British Army – Vol. V – (1803-1807)" 第2章

James Grant, (1873), "British Battles on Land and Sea" 第2巻 ※元図p.301
Dictionary of Irish Biography

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【メモ】

第1地点で、つまり最序盤に騎兵が攻撃した際にレイクは部隊の先頭にたったが、これは(英軍の)慣習通りの振る舞いであったとMallesonは記している。

Mallesonは74門と述べ、Duffは75門と書いている。
砲を鎖で繋いでいたと書いているのはDuffのみ。p.254

EIC軍の歩兵は第76連隊とベンガルセポイ6個歩兵大隊、騎兵は3個旅団で午後の攻撃は1個旅団が歩兵の支援役。 Duff p.255

Duff p.255ではEIC歩兵が川岸に展開しているのに気づき第2地点からのマラーター軍右翼が下がる時の描写で「they immediately frustrated by throwing back their left wing, covering the movement with a heavy cannonade」と書いている。

EIC軍が昼食休止を取っている時にマラーター右翼を下げたことが書かれているが、その期間中に敵将とレイクは使者のやりとりをしており、降伏をにおわすメッセージだったが結局ただの時間稼ぎだったのか降伏の動きはなく戦闘が再開された。 Fortescue p.61

第2地点でのEIC軍左翼端の主攻めを担ったのはMajor-general Wareの部隊、もう一個の支援部隊はMajor-general St. Johnの部隊。 Fortescue p.62

第1、第2、第3地点へのマラーター軍の配置転換、右翼の後退についての時間帯はFortescueの書籍が最もわかりやすかった。pp.60~62

Duffは824名が戦死及び負傷と記している。p.257 同じくFortescueも死傷者824がトータルで死傷したと述べている。p.66

Mallesonの記述では、レイクの息子が負傷したのは左翼端の騎兵突撃の直前であるが、Fortescue pp.63~64に基づくと、一度目の突撃で敵騎兵を側面から追い払った時はまだ負傷していない。2度目の敵主力戦列への突撃のために歩兵と騎兵が共に前進している時となっている。Mallesonは1度目の突撃と2度目の突撃を省略して1つの突撃のように書いているのでこのようになったと思われる。

Grant p.304などの記述で、英国兵は特にアイルランド系だったことがわかる。

従軍していたレイクの息子はこの戦いで重傷を負い、レイクは死んだと思ったが何とか生きており回復し軍務に復帰した。彼はレイクが無くなってから半年後、対ナポレオン戦争のロリカの戦いで戦死する。