地理が軍事作戦に絶大な影響を与えることは遍く認識されており、特に通行困難地帯をどう評価し部隊配置とどういう位置関係にするかは主要テーマの1つです。
 戦力を集中した片翼包囲の実施を望む場合、検討を要するのが「通行困難地帯側へ向けて進撃する」包囲とするか「通行困難地帯側から進発する」かです。(最も戦例が多く且つ明確性のある水場を今回は念頭におくこととしますが、険しい山岳部、沼地、川や海等々ではどんな差異があるのかも考えてみてください。)この2つについて短いながら説明をした上で、水場側からの翼包囲が実施された戦例を幾つか紹介します。

 本稿は基礎的理論の振り返りではありますが、ある程度戦術/作戦の好まれやすい方策を既に知っている人に向けて書いています。というのも、「内陸側から水場側へ向けて包囲を行う」ことのアドバンテージを理解しているあまり、それが『普遍的正答』だと思ってしまうのを避けるためです。実戦例を探ると別方向へ発起されているケースが多々あり、複合的に敵味方の要素を組み合わせて駆け引きをすると必ずしもそれが最適とはならない場合があります。これも当たり前のことではありますが、意外と頭から抜けて特定戦術/作戦を指向してしまうので自戒の意味も込めて記しました。ですのでややくどい表現となっており、そもそも水場側への包囲というテーマに初めて着目する方にはなぜここまで言っているのかわかりづらいかもしれません。
gif_水場への片翼包囲

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 通行困難地帯そばから突破し翼包囲をするか、開放翼で突破し通行困難地帯へ向かう包囲攻撃をするか、この選択は戦術/作戦を考える上で頻出するテーマだ。通行困難地帯を利用した包囲は、武器や練度または時代によってその度合いは増減しているが、大きな影響力を持つということは時代問わず共通している。ただしどちらを選ぶべきかは単純に言えるものではなく、自身が得意とする方策を持ちながらも、敵情を入念に分析した上で意思決定が為される。
 本稿は戦例が多い水場を念頭におくこととし、各々の戦術のアドバンテージとリスクの一部を記して行く。それを踏まえた上で「通行困難地帯側への片翼包囲」の位置づけを述べるものとする。

スペースの差異

 【攻撃側のスペース】
 攻撃側の視点に於いて、水場側(通行困難地帯そば)からの包囲と水場側への包囲の大きな違いはマニューバを行えるスペースだ。攻撃側でも防御側でも、開放翼の取り扱いというテーマで最も議論されるものでもある。
 敵翼端の外側に移動可能なスペースがあれば、そこを活用し回り込むことで側背面を突きやすい。回り込まなくても敵翼を部分的正面攻撃で突破後、方向転換し翼包囲へ繋げるケースもある。スペースがあると敵が外翼を気にして延翼し過ぎるあまり薄くなっている場合もあり、それならば部分的正面突破がより期待できる。(脅威による陽動)
 一方で水場側からの包囲では、翼を攻める部隊に許された空間が限定的だ。回り込むスペースは殆ど無く、さらに岸辺は通れはするが足場が悪く速度を保つのは難しく使用可能幅の狭さ以外でも隊列が著しく乱れるリスクが散在している。そのため敵(防御側)への攻撃は水場付近では正面攻撃となる公算が高い。
 ただし通行「困難」地帯とは絶対不可能というわけではないため、小部隊かも知れないがそこを通ってくる可能性を防御側指揮官は除外してはならない。水場であれば水陸両用作戦や艦砲射撃、山岳地帯であれば特殊な部隊が通ってくることが考えられ、勿論空挺もあり得る。準備時間が攻勢側にどれだけあるかも重要な判断要素となり、哨戒を怠らず情報を集める必要がある。

② 【防御側のスペース】
 続いて突破成功後に水場側への包囲は、敵退路遮断に繋げやすいという差異がある。防御側視点に於いて、通行困難地帯側へ向けて包囲を受けるか或いは困難地帯そばから突破され翼包囲をされるかでは、対処のために使用できるスペースが大きく変わる。

 翼部隊の攻撃が突破まで到った状況なら、翼部隊及び後続梯隊(or予備)はその突破口から進撃し痛烈な打撃を敵に与えることができる。包囲、挟撃、側面攻撃等の攻撃形態へ繋げられる公算がかなり高く、内幾つかは同時に発生する。片翼包囲は戦力集中性が高い。両翼包囲の場合、2つに分けた上で両共が対面部突破及び主体封鎖または打破条件を満たせる戦力でなければならないだろう。けれども両翼包囲なら一翼部隊が封鎖のために進撃する距離は少なく済む。片翼包囲は一翼からのみで長大な距離を高速で進撃しなければならない。この負荷を軽減するために地理的条件、通行困難地帯が利用される。(これは後方遮断/封鎖の必要進撃距離。翼包囲は封鎖しなくても敵を崩壊させられるケースがあり、その進撃距離は敵兵卒の士気に特に影響される。)

 水場側への包囲は敵の後方までを遮断すれば、ほぼ完全に敵の移動可能域を閉塞することができる。逆側翼を抑える必要がない。片側が元々封鎖されているので、進撃全体距離も短く遮断包囲が可能ということだ。或いは逃げ場を失ってしまうという『脅威』によって、遮断が完成していなくても一部が逃走を始め戦線崩壊も起こり得る。取り残された敵は通行困難地帯と我が方の包囲部隊に囲まれ、身動きできないまま3方向から圧力を受ける。
 一方で水場側からの片翼包囲の場合、開放翼周辺に後退可能スペースが残ることになる。敵はそこを利用し立て直しや増援、或いは撤退を計るだろう。それを防ぐためには、翼包囲部隊が逆側翼まで到達するほどの大規模で方向転換が多い突進を行うか、単純に両翼包囲に変更することが必要となる。いずれにせよそれを欲するなら圧倒的と言える戦力が基本となるだろう。意図的に退路を残し戦闘効率の高い追撃段階に注力するのは有効で、どちらの包囲でも可能ならその準備をするべきだ。
 また、内陸部は岸周辺より高台の地形が多く、中には内陸側翼は高地/森林/山となっており、ここを通って攻撃を仕掛けるのは奇襲性を有する場合がある。奇襲とならなくても内陸側の高地は非常に高い戦術的価値を持ち、文字通り天王山となり易い傾向がある。ただし準備時間が戦場であったなら、内陸側(開放翼)は強化拠点が構築されていることを警戒しなければならない。
水場への片翼包囲_攻勢流れ 水場からの片翼包囲
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 ここで攻撃を仕掛ける側の都合だけでなく、敵側(防御側)視点でも考えた者は①と②が相反する要素であることに気づいただろう。①は開放翼側は敵に回り込まれる危険があり、広い範囲に対応するため苦慮することになると言っている。それならば、通行困難地帯を利用して自軍の翼側面を防護してしまおうと配置計画をするのは理に外れたことでは無い。事実、古代ローマの多数の戦例に代表されるように、水場を片側において包囲対策とするのは古から数多採択されている。けれども、そうすると②の退路が遮断されやすくなる危険が発生する。敵が来れない防護盾として計画された川は、内陸側が突破されると自軍が行けない敵城壁に姿を変えるのだ。それでもリソースを投入する場所を絞ることができるので大きな利点があると言える。

【進撃部隊の大きな負荷】

 片翼包囲はいずれの場合でも苦慮することになる事項がある。それは翼部隊の進撃度合いだ。ここでの進撃には主に2種類あり、敵側面を崩し進撃していくものと、突破後に敵後列部隊を駆逐しに行き後方遮断に回る突進だ。

【1】
 まず側面を崩していく部隊の場合、多くの抵抗にあうので進行度合いは緩やかになる。崩壊が敵中央または逆側翼まで波及するまで(例え逃走が起きたとしても)相当量の敵を倒す必要がある。従って多量のリソースを継続的に投入しなければならず、そして時間もかかる。
 その間に敵が中央または逆側翼で突破を成功させてくると戦況は混沌化するだろう。例えば我が方の主攻翼が突破成功までは行ったとして、その同時刻に我が方の逆側翼が突破される危機に瀕していたとしたら、総指揮官はどのような判断をとればよいだろうか。最初の計画通り突破口に隣接する敵側面を崩していってもいいが、その場合は我が方の逆側翼も突破され、同じく我が方の側面を攻撃してくる状況になり、中央などの主体部をどっちが早く崩すか、どちらの士気が折れ逃走を始めるかの競争になる。これは自軍に自信があれば十分採用されるが、それとは別の術策もある。
(別稿に戦例を複数上げ記述します。⇒翼突破成功時に自軍逆側翼が危機の場合の戦術)

 つまり片翼包囲を実施する際は特に、攻防が明確に定まらずどちらも攻撃に出る状況というのを考えねばならない。そして自軍主攻の逆側が敵主攻となる時に通行困難地帯は重大な意味を持つだろう。なぜなら別箇所が主攻となっているため逆襲戦力が小規模にならざるを得ないからだ。戦史において、回転扉の様に両軍が進撃し合う戦況が度々みられる。回転していった時通行地困難地帯が背面に来るのは望ましくない。勿論結局敵を早く崩せれば大丈夫ではあるのだが、そのために翼部隊には非常に重い負担をかけることになる。

 また、もし自軍他部隊の危機が起きず片翼包囲側が勝利したとしても、進行に時間がかかっている間に大半の敵が離脱することに成功してしまう可能性がある。その後立て直されてはまた戦闘をしなければならなくなり、リスクを払った会戦の意義が戦役の中で薄まってしまう。追撃すればよいとは言っても、それが行われるのは主攻と同翼であり、その翼は前進と突破だけに留まらず追撃まで担うことになる。
 要するに、水場側からの片翼前進が成功したからといって劇的に優位になれない可能性がある。そして会戦単位で勝利できても戦役又は戦争規模で見ると大きな影響を与えられない場合がある。

【2】
 敵戦力の殲滅を望むのならば後方遮断を成功させることが方策の1つだ。この敵主力位置の後方への突進において、片翼包囲は翼部隊の負担が非常に重い。単純に考えても両翼包囲の時の2倍を進み且つ包囲を維持しなければならない上に、かなりのスピードが求められるからだ。突出度があまりに高く逆襲を受けるリスクがある。水場側への包囲はその負担を軽減するものであり、同時に敵に心的プレシャーをかけることで進展の補助とするものだが、それでも困難な道のりになる。側背攻撃部隊が敵主体を完全に崩壊させるまでに敵の一部は後方に下がり始めるが、後方遮断部隊はそれまでに可能性のある退路に進軍していなければならない。それには敵味方全て含め他のあらゆる部隊より数倍広い範囲を進み且つ持続的にカバーする膨大な負荷がかかる。そのゴールに辿り着くのは果てしない労苦の先となるだろう。通行困難地帯を封鎖に利用しない水場側からの包囲の場合、この退路遮断がさらに難しい
 これは特に戦場の広域化が進展した20世紀以降では特に重要な考慮事項である。翼部隊の突進能力は内燃機関と装甲、火力、航空戦力そして通信の機械的性能増大によって飛躍的に増大した。しかし同時に戦線という言葉が主役となったように戦場は広大化した。20世紀半ば~21世紀は更に流動性とモザイク性がここに加わり、翼部隊突進成功の難しさはロジスティクスの困難性を含め深刻な課題として軍隊を悩ませ続けている。

 (※戦線付近で後方遮断を完全にすることを期待せず、敵主体が崩壊してからの迅速かつ長大な追撃にリソースを割くことで、連続的に打撃を与え敵に立て直す時間を与えないまま撃滅する作戦が20世紀には発展した。これとの組み合わせは別稿にする。
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 以上は主攻前進が成功した場合の話しだが、突破失敗した場合にどのような状況を迎えるかのシナリオも考える。

翼部隊の突破失敗時

 突破失敗を攻撃側指揮官がどのタイミングで受け入れるかでその後の進展は大きく変わる。損耗率と作戦の進展度合いを各段階ごとに見込んでおき、それに照らし合わせるだろう。例えば最終的に10%の損耗を覚悟した作戦であったとして、7%に達したのが初期戦線とほぼ変わらない位置の段階か、それともかなり押し込んだ段階でそこまで達したのかではまるで状況が違う。これらはリスク、特に敵の逆襲を受ける可能性に大きく影響する。

【翼部隊が初期とほぼ変わらない戦線位置】

 突破に失敗した時に翼部隊が初期位置とほぼ変わっていなかった場合、指揮官は損耗率が高くなり過ぎる前に攻撃中止の判断を下していることが多い。すると防御転移は比較的戦力を保持したまま行える。こちらの防御構築時間と敵の攻勢転移準備時間のレースになるが、これは我が方の攻勢実施前に防御準備/陣地構築をどれだけしていたかで大きく変わる。この手間をかけるのは意外と怠ってしまいがちなものだ。労力だけでなく補給物資面で、攻勢中に各進撃段階で敵逆襲を想定した防御陣地を設置するのは言うほど簡単ではない。
 それから敵の逆攻勢が発起されるが、ここで我が方が以前に実施した攻撃が水場側からだったのか水場側へだったのかは重要な判断材料になる。なぜなら我が方の主力位置は露呈しており、損耗率もある程度把握されてしまっているからだ。

 水場側からの包囲の場合、主力が岸周辺に集まっているのがバレている。敵が逆襲をその対極の内陸側翼から発起すれば、そちら側の守備戦力は少ないため突破される公算が高く、突破後は水場側への片翼包囲に繋げられてしまう。防御構築または後退が間に合わなければ我が方の主力は水際に追い詰められ殲滅されるだろう。或いは包囲ではなくそのままより縦深に突き進まれてしまうかもしれない。
 突破失敗時の攻撃側損耗率が高い場合、敵は水場側でも逆攻勢を激しく仕掛けられる。事実上戦線のあらゆる箇所が相対的に脆弱であり、敵が戦力をもし充分もっていてしまったなら我が方は片翼包囲だけでなく両翼包囲または複数個所での同時突破前進を受けかねない。この場合敵にとってリスクは極小化しており、大胆な行動が可能となっている。攻勢失敗時に敵側にも損害を与えておかねば我が方は大き過ぎる危機に直面する。

 水場側への包囲の場合、主力は内陸側にいると判明している。この場合、敵は恐らく慎重に損耗率を計るだろう。なぜなら薄くなっている水場側を突破しようと逆襲戦力を集めた時に我が方の再攻撃があれば、我が方の主力がいる開放翼の突破になり水場側への片翼包囲が成功する形になるからだ。また、敵の逆襲攻撃も防御に跳ね返される可能性は十分あり、その後のリスクも考えなければならない。
 内陸側に逆襲主力を置いて我が方の損耗した主力にぶつけて突破を企図する可能性もあるが、主力同士のぶつかり合いでは相対的戦力差が小さく、期待は他箇所より高くない。ただしもし攻撃側の損耗率が非常に高ければ、そこに逆襲が来るのは不思議ではない。

 戦場で即座かつ正確に敵損耗度合いを把握するのは難しいため、状況の進展を考えると、水場側からの攻撃が失敗した時の方が多くのリスクを抱えることになる。

【翼部隊が押し込んだ形で停止した時】

 翼部隊がある程度押し込めはしたが敵が崩壊する前に停止してしまった場合、実はこの時が逆襲のリスクが最も高い。押し込めたのだから敵戦力はそれだけ損耗している、と捉えるのが普通であるしそれが正しいなら危惧する必要はない。互いに戦力回復を図り、早い方が主導権を握る。問題は敵が戦力を温存して意図的に我が方の攻撃を前進させたケースだ。
 いわゆる誘引/誘致からの逆襲である。包囲の手前で止まった攻撃側の形は極めて望ましくない状況であり、包囲のリスクが噴出している状態にある。まず、恐らく精鋭を揃えたであろう部隊が突出してしまっている。敵にその突出部の側面攻撃または多角的攻撃即ち逆包囲を実施されると、貴重な戦力が酷い戦闘効率で消耗することになる。側面でなくとも、敵の後列戦力が予期せぬ量とタイミングで逆襲を仕掛けたら突出部隊は大損害を受ける。逆包囲をしてくる場合、最初の水場側からと水場側への包囲は、ひっくり返った形で我が方に襲い掛かってくるだろう。つまり水場側への包囲を狙って開放翼側で突進した時に逆襲を受けると、その突出部は内陸側での包囲を受けることになる。水場側から内陸部へ向けた突破/包囲を狙った時、その突出部が受ける逆包囲は水場側へ向かう包囲となる。
水場側での突出に対する逆襲

 どちらも受ける側にとっては非常に厄介だが、戦力の集中性では水場側への逆包囲の方が高く、最初に攻勢を水場側で仕掛けた勢力は逆襲を受けた時後方を遮断されやすい。戦力が乏しいのを水場を利用して補うという意味合いを持つ軍もあるだろう。水場側からの包囲を狙って攻勢をかけた相手の突出部に水場側への逆包囲を仕掛ける、これは合理的だが大胆で容易ならざる戦術/作戦だ。突出部先端や肩口の拡大を止めるか、巨大なリスクを受け入れる必要がある。
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 一方で、開放翼側から通行困難地帯側への包囲を狙った突出部に対し、開放翼後部で逆包囲を望むなら更なる工夫と戦力が必要になる。水場がない分、逆包囲時に後方遮断にかかるリソースは大きく多角的かつ高速にする必要がある。最初に攻勢を仕掛ける側が合理的な水場側への包囲をしてくることを背景に持っていることもあり、非常に高度な戦術/作戦だと言える。特に敵の突進開始位置と方向に様々な選択肢があるため予想が難しい。戦力配分タイミング後退距離欺瞞作戦、あらゆる要素を1つの逆襲のために長期間前から準備して積み上げた集大成として現出するのがこの逆包囲だ。開放翼部での逆包囲は逆襲方策の中で最も野心的で困難である。
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 これらの逆包囲には発展性がある。包囲を狙ってきた敵翼突出部を逆包囲して殲滅し、その地点から逆攻勢に移り連続して敵戦線を突破、そしての中央及び後方へ包囲(または突進を仕掛けるという戦術/作戦だ。敵の翼攻撃部隊を逆襲で殲滅するだけで終わることなく、続いて攻勢に移るのがポイントである。ただ理論上は敵攻勢主力を壊滅させたらその発起地点の戦線が薄くなってはいるが、防御から戦術的逆襲、続いて作戦的逆襲あるいは作戦的攻勢へとハイテンポで連続移行するのは即席では殆ど不可能で、指揮官が極めて卓越した予測と準備をしている必要がある。それを成し得た軍は歴史上確かに存在するし、中には寡兵でやってのけた者も極少数いる。だがそのような事例を学べば容易に模倣できるものだと考えるべきではない。それほどの野心的戦果を望むなら、練度のみならず物量及び情報そして技術面で上回っている状態で実施するべきだろう。
(これらが実際に為された戦例を別稿で今後複数紹介していく。
リンク⇒後日作成)


 総じて(逆包囲でなくとも)逆襲は難しい。片方の勢力が攻勢を仕掛けて失敗した時、そのまま一旦膠着する方が多いだろう。上述の逆襲策は対包囲の一部であり、勿論単に守備戦力を増強し食い止めることに徹する案や後退してしまう策もある。ただそれらが成功した場合に最初に攻撃を仕掛けた側が負う損失は大きく、そういった各対策を相手が練っていることを攻勢側は考えておく必要がある。では敵が対策を練っているとすると、特に警戒しているのはどちらかの翼側だろうか。それを予測する上で本稿のテーマである通行困難地帯からの/へ向けた包囲の各利点とリスクが関わってくる。

奇襲性、脅威と強制、意思決定

 こう見ると翼包囲をする場合、水場側への包囲は複数の利点があり、これを選ぶのが自然に見える。事実、近代軍はこれを好んでおりそれは最も定石に近い。例えば旧日本軍で参照されていた『白紙戦術』という問題集を見ると、かなりの割合で水場側へ片翼包囲をすることを推奨している。近代以前で、適切な量の正面拘束と共に水場側への片翼包囲を実施した将を見たならば、それが一定の論理に基づく戦術的判断であったと賞賛されるべきだ。
 ただし、水場側への片翼包囲は実戦における絶対的正答ではない。通行困難地帯側からの翼包囲は、比較するといくらかアドバンテージが少ないが、ある程度の有効性も保持しており、もし奇襲性または対面位置の相対戦力差があるのならば十分採択されるに値する。戦史に残された水場側からの片翼包囲の記録は少なくない。

 積み上げられた合理性は必然的に同一の焦点を敵と味方にもたらす。敵将もまた理知的であるならば、己の置かれた状況を分析し水場側への包囲を企図してくる可能性を察知し、うてる対策を全てこらして迎え撃つ。はっきり言って近代教育を受けた将校には水場側への包囲を仕掛けるのは何の意外性もない。従って(開放翼側のどこでどの方向にという問題はあるが)敵が対策を練っている所に突っ込む形になるので、充分な戦力優越を念入りに確保しておくのが望ましい。或いは会敵後の攻撃実施タイミングを早くするか、回り込む規模を異常なほど大きくする必要がある。
ロシアの山岳戦に於ける片翼包囲_平野部で引き付け山を通り側面攻撃
 そして水場側への包囲の高い合理性が故に、逆に通行困難地帯側からの突破/包囲に奇襲性が生まれる可能性がある。防御戦力が内陸側に偏っていたのなら、水場側で突破を充分狙える。必要なのは敵情報を集めそれに合わせて最適の方針を素早く決断することだ。
 これは水場想定の場合は殆ど部分的正面攻撃を考えることになるが、水陸両用作戦もあり得るし、山岳なら険しく一見そこが主攻ルートになりそうもない所で試みるケースもある。左図は1940年に出されたソ連軍の山岳戦参考書に載せられた片翼包囲の例であるが、緩やかな地帯ではなく敢えて険しい山肌を通ることで奇襲性を確保し、それにより敵側背面をとれると考えている。実際は兵士の疲労やロジスティクス面の可用性から険しいルートが本当に行けるのか現場の最新状況を見ておく必要があるが、こういった選択肢はあり得る。

 また、敵防御側が内陸側の重要拠点へと戦力を配分し(或いは内陸拠点を奪われてしまった場合はそこからの攻撃に備えて戦力を回し)た時、残る中央と水場側は必然的に薄くなり突破できる可能性が上がる。このケースでは、相手は「わかっていても対処せざるを得ない状況」に追い込まれている。水場側への包囲をされてしまう『脅威』が予想で来てしまうが故に、それが強制/陽動の役割を果たし中央突破または水場側突破を可能とする。例えば会戦序盤に内陸側拠点を巡って激しく争い、そこを奪取した側が攻撃を敵主力に仕掛けた時、最終的に水場側が突破箇所となった事例などがそうである。
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 繰り返しになるが肝要なのは、通行困難地帯側への包囲は合理的な場合が多い戦術であること、ただしその論理基盤は事前に断定できるほどの絶対的なアドバンテージではない、ということである。

 開放翼から突破または側背面攻撃を実施し、通行困難地帯へと向かい敵退路遮断の脅威を示しながら片翼包囲を成功させた指揮官は実に合理的で素晴らしい手腕を持っている。その価値を踏まえた上で、開放翼からの翼包囲に対抗する実際に記録された戦術/作戦を今後紹介していく。
 また、本稿末尾には通行困難地帯そば(水場側)からの翼包囲を成功させた実例の簡略的説明を複数載せていくこととする。







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 説明箇所は以上です。ここまで読んで頂きありがとうございました。
 御見識を少しでも教えて頂きたく、話しの叩き台になれたらと本サイトを作っています。考察・別説等をご存知でしたら何卒よろしくお願い致します。

戦史の探求
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戦例_水場側からの翼包囲

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【1706年ラミリ―の戦い_陽動攻撃_マールバラ公】

 1706年ラミリ―(ラミイ)の戦い(Battle of Ramillies)は奇襲性を活かし水場側に戦力集中し突破成功した戦例だ。指揮官は高名なマールバラ公である。英&オランダ軍は左手に水場、右手に小川を挟んだ丘陵地の位置でほぼ同数の仏&スペイン軍と相対した。
Ramillies_初期の内陸側攻撃
 丘陵地帯が三日月形になっていたため、布陣の時点で包囲の「形」を成したのは仏側だった。仏軍指揮官ヴィルロワ公はこの丘陵地帯を取った方が翼包囲へと繋げられると捉えた。敵に内陸側小迂回をされないように戦力を投入し丘陵の端まで延翼させる。さらに会戦序盤の英&オランダ軍の右翼(開放翼側)の動きもあり、左翼により戦力を送った。これは合理的と言える指揮であり、そしてそれ故にマールバラ公にとって狙い通りだった。

 マールバラ公の突破企図箇所は開放翼側ではなく、水場側であったのだ。最初の右翼攻撃を陽動とし、ヴィルロワ公の意識を左翼の防御的姿勢に傾けさせる。マールバラ公は右翼部隊の一部を抽出し左翼水場側に戦力集中を行う。この移動は稜線を利用し敵の死角で行われたため、察知を遅らせる形となった。
 仏&スペイン軍は回り込まれないよう延翼し、更に包囲形になっていたことで逆に戦列が薄くなっていた。そうして英&オランダ軍左翼が突撃を仕掛けた。彼らは正面攻撃であったが見事に川岸周辺の平野部を突破、そこから急激に戦果を拡張していった。突破口から右旋回する形で側面攻撃に繋げる。ヴィルロワ公は立て直そうとしたが水場側の片翼包囲は想定外であり、部隊移動が間に合わなかった。ついてに仏&スペイン軍は戦場から撤退し、マールバラ公はまた一つ武名をあげたのだった。
battle of ramillies gif

 ラミリ―の戦いは最小限の概要を書くと上述のようになるが、実際は様々な困難をマールバラ公と将兵たちは乗り越える必要があったことを注記しておく。例えば戦力を左翼水場側に集中させたため、他箇所は少なくなった戦力で敵の攻撃を防ぎきらねばならなかった。その限られた兵力の中での転用も専門書なら詳細に説明しているだろう。仏側が包囲できそうな三日月形初期布陣になっていた中で主導権を奪われずにやり遂げたことも忘れずにいれば、如何にリスクを冒し、正確で素早い指揮を成したかより理解できる。
 陽動や戦力の抽出と集中を含め、ラミリーの戦いは最も洗練された水場側(通行困難地帯そば)からの片翼包囲戦術の戦例である。

【1387年カスタニャーロの戦い_欺瞞作戦_ホークウッド】

 水場側はスペースが限定され、翼包囲に繋げる前にまず正面攻撃による突破段階が必要になることが多い。しかしそれは水場側で進める攻撃側戦力の配置が敵の視界に入っていたらの話だ。つまりそこに戦力が回されないと敵に思い込ませておけば、より奇襲性が高く効果的な片翼包囲が実行できる。1387年battle of Castagnaroはその代表例だ。この戦術を採択したのは傭兵を率いてなり上がった者としても名を馳せるジョン・ホークウッドだ。
battle of castagnaro
 彼は敵に翼突破部隊の位置を誤認させるために幾つか工夫をこらした。まず戦場に展開した時、突破を担う部隊は最後列で敵から見えにくい位置で準備した。次にその部隊を川岸近くにある林の裏に移動し隠蔽をしたのである。これだけではいたはずのホークウッドの部隊が消えたことから敵は探り廻りいずれ発見されていただろう。そこで彼は一計を案じ、自分の旗章を本陣中央に残したままにした。これにより敵(と一部の伝えていない味方)に部隊位置を誤認させ、この欺瞞作戦は完全に成功する。戦闘が始まり中央戦列が戦闘に入るとホークウッドは合図を出した。本陣のホークウッドの紋章が落ちるとそこはもぬけの空だった。敵がそれに驚くと同時にがらあきの川岸側からホークウッドの部隊が駆け出す。敵戦力左翼端は片翼包囲を受け崩壊した。予備も道を妨害されかけつけられず、ホークウッドがついた勢力は大量の捕虜を得て圧勝した。

【1650年ダンバーの戦い_夜襲_クロムウェル】

 マニューバとしての意外性が無い状態で水場側からの片翼包囲をする戦例も存在する。単純だが相手の部隊位置が前日までに見えていれば戦力を集めている側がわかるので相手も対応してくるためだ。また大型街道などのかなりの利点がある地形要素があった際に起きやすい。この場合、水場側に大規模戦力を両軍が集めてぶつかり、突破してから片翼包囲へ持ち込む。ただし主攻地点がバレていても攻撃タイミングで奇襲性は生み出せる時がある。

 第3次英国内戦の初期にして最大規模の戦いとなったダンバーの戦いはその実例だった。指揮官は功罪あるクロムウェルである。彼のスコットランド遠征は苦難の道だった。ニューモデル軍として知られる新式編成の改革成果を背景にし、イングランド側は会戦を望んでいた。長き内戦で人的にも財政的にも楽ではなく、敵主力を粉砕し戦争そのものに決定的影響を与え短期間で終わらせたかったのだ。対するスコットランド軍を率いるレスリー将軍は焦土作戦で応じた。
 会戦を回避し、食料等を回収しておき敵遠征軍を摩耗させていく方針は成功する。イングランド軍の現地調達及び陸路の輸送に限界が来たのだ。もがき苦しみながら海路の補給で助かろうと、ダンバー等の港のある海岸部へ攻め入った。それでも充実した補給状態にはならず、しかも悪天候が追い打ちをかけた。イングランド兵は痩せ、疲労していた所に悪環境が畳みかけ病人や衰弱者が続出する。減少し続ける戦力を見ながら、クロムウェルは必至で会戦に持ち込もうとエディンバラへ接近したが、レスリー将軍は誘いに乗ることはなかった。レスリーはかつてスコットランド内戦でのフィリップホフの戦いの勝利など複数の戦争経験を持つ指揮官だった。しかし政治部権力争いがこの国防の危機の時期でも起き、軍を減らされてしまう。(反クロムウェルでは仲間のはずのスコットランド議会/カヴェナンターとチャールズ2世の諍い)さらに弱体化したイングランド軍を今なら倒せるという圧力をかけて来た。レスリー将軍はそれでも決戦回避し疫病と補給欠乏で敵軍を戦闘せずに退ける方針を固持する。エディンバラ接近から1か月たちついにクロムウェルは撤退を決断した。
dunbar-campaign
 後退する敵軍をスコットランド軍は追いかける。イングランド軍はダンバーまで下がって立て籠った。レスリー将軍は軍をダンバーから南へ続く街道へと進め敵退路及び陸上補給路を完全に遮断した。小川を挟み道沿いの高台に陣取り、ここを突破するのは事実上不可能だとクロムウェルたちにはっきりわかる態勢である。イングランド軍はダンバーの港で海上補給を受けることで何とか崩壊寸前で持ちこたえていたが、今やボロボロに困窮し飢え士気はどん底だった。戦力はスコットランド軍が優位だった。(ただ、かつて主張されていたほど数的差異はなかったと現在は書かれる方が多い。)

 だがスコットランド軍も持久戦で限界が近づいていた。元から満足な食料/金銭事情でなかった上に、攻勢段階に入り前進したことで悪天候でぬかるんだ道での輸送問題が重くのしかかった。スコットランド側は議員や聖職者を含んで会議が行われた。方針は2つ。このまま有利な地形で待ち、補給と疫病の崩壊がどちら側に早く訪れるかの我慢レースをするか、もう1つは高台を降り攻めかけて弱ったイングランド軍を打ち倒すかである。焦土作戦を固守するべきと考えるレスリー将軍をカヴェナンターの議員たちが否定したという話もあるが、この会議で誰がどのような主張をしたかは複数の異なる説があり、はっきりしていない。いずれにせよ最終的に進撃し会戦を行うことで決まった。
 (レスリー将軍支持者の主張は次のようなものだ。そもそも会戦をするならイングランド軍がダンバーへ後退した直後でまだ防御陣地構築が未完成だった9月1日(日曜)が適当だった。そしてレスリー将軍は適切に情勢を見て攻撃許可を議会に求めた。にもかかわらずこの日が安息日であったため宗教的に血を流すことを忌避したいという理由で議会に却下された。日曜午前中にイングランド軍の防衛設備が施設されるのを見てレスリー将軍は攻撃は時勢を逸し、持久策が適当となったと考えた。それを議会は理解せず攻撃を決定した。)
dunbar-battle
 如何なる経過にせよスコットランド軍が攻撃しに難攻の高台陣地を離れ始めたのは、クロムウェルにとって極めて喜ばしい事だった。9月2日の午後遅くまでかけて敵の現状配置を調べた。竜騎兵がかけまわり探って来た情報は大いに役に立った。クロムウェルは守戦をする気などさらさらなかった。するのは1つ、攻撃のための前進である。その結果突破して街道から脱出できるか、果たして敵軍を壊滅させられるかはわからないが、主導的に仕掛けることだけは定まっていた。
 街道が海岸沿いに走るため、水場側にスコットランド軍もイングランド軍もかなりの戦力を送っていた。よって街道附近(水場側)を主攻とするのは奇襲性はなかった。それにスコットランド軍右翼はそう簡単に回り込めないような配置につこうと前進してきた。けれどもスコットランド側は相手が受け身になっていると思っている。クロムウェルは攻撃に討って出ることで、敵の想定外のタイミングと縦方向の位置で戦闘をするという意味での奇襲性を得ようとしていた。そのために何と築城陣地を放棄し小川を渡河してまで突撃しようと彼は決断した。飢え、疲弊し、数的不利で、敵が攻撃に出て来たのであれば、渡河して歩みが鈍り乱れた敵を堅めた防御陣地で叩く戦術の方が平常だ。この凶暴性はレスリー将軍の理性では察することができなかった。彼は水場側に戦力をより多くしながら、左翼内陸側の翼端にも騎兵を集める中央歩兵、両翼騎兵の一般的な布陣で自分たちが攻めるつもりだった。(一方でクロムウェルは殆どの騎兵隊を海岸側に集中していた。ただしOkeyの竜騎兵隊の位置が右翼でいつどのような過程を経て移動したかは断定できる史料が無く戦況図によって解釈が違う。ケンブリッジ大学で2009年にC. H. Firthが製作した論文"The Battle of Dunbar"のp.43,note3では右翼にOvertonと共に『おそらく(possibly)』Okey's dragoonsが置かれていたと書かれている。)
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 クロムウェルは攻撃を成功させるために更に奇襲性を求め、夜襲を決断をした。攻撃開始箇所は当然左翼、開始時刻は日の出の1時間半前の04:00である。小川を越え静粛にイングランド軍は移動を始めた。哨戒を予定通り排除し、スコットランド軍右翼の主位置に接近する。スコットランド軍は暗闇の中で迎撃したが一部しか活動しておらず、敵情も把握していないため統率は乱れていた。05:30頃、日が昇る。イングランド軍左翼騎兵隊が進撃し敵陣へ踏み込んだ。その隣の中央より左翼歩兵隊も同時に前進を仕掛けた。スコットランド軍右翼は奇襲から立ち直れず押し込まれていった。イングランド騎兵隊は更に進むことに成功し、水場側の戦場は少しずつ東南東へ移動していった。騎兵隊の進撃は敵キャンプまで到達した所で隊列が乱れきったので、再編成のため停止しなければならなくなった。そこにスコットランド右翼後列騎兵隊が反撃に討って出て来た。これにより少し押し戻す。今や水場側は押し込んだ位置で両軍の騎兵隊が入り乱れ膠着しつつあった。

unnamed1650_ダンバーの戦い_水場側からの片翼包囲
 イングランド軍中央より左翼の歩兵隊は渡河して前進したが突破はまだできていなかった。内陸側(中央と右翼)は殆ど戦闘を劇化させておらず、両軍は目の前の敵ににらみを利かせながら主攻の水場側戦況を伺っていた。

 左翼の第一陣は混戦で前進停止していた。けれども重要なことは、かなり敵翼を押し込んだ位置まで行けていたことだ。そしてスコットランド軍右翼は後列も投入し手持ちの予備を使い切っていた。ここでクロムウェルは後列部隊を投入する。騎兵隊が疾走し、押し込んだことで新たに生まれた外翼のスペースすなわち海岸すれすれをすり抜ける。これにより乱戦状態の敵翼端の側面位置まで進出し、そこで方向転換した。そして側面攻撃へと移行したのである。
 ここに至りスコットランド軍の水場側翼部隊は敗走した。右翼を立て直せなかったことでレスリーの敗北は確定した。イングランド騎兵隊と歩兵隊が敵翼を完全に粉砕し片翼包囲を開始したのだ。スコットランド軍の抵抗はこの時点で崩壊し、大半が投降していった。

 イングランド軍のこの戦役は敗北の瀬戸際まで追い詰められてから逆転する結末となった。スコットランドの人々は多数がエディンバラから逃亡する。クロムウェルはこの会戦の決定的影響を活用しこの戦争を一挙に優位に進められるようになったのである。だがレスリー将軍は残存兵力をかき集め何度も防衛線を再編し、突き崩されながらもその後も抗戦を続けた。ディヴィッド・レスリーはこの一年後のウスターの戦いで捕虜となるまで指揮を執り続けた。王政復古した後年彼は功績を認められニューアーク卿を授与された。

【前207年メタウルスの戦い】

Bitwa_nad_Metaurusem-przebieg ディオのローマ史ⅩⅥ巻によれば、前207年にハシュドゥルバルがローマ軍と交戦し敗北したメタウルスの戦いでは、片翼での陽動を欺瞞作戦をもってし、夜の闇に紛れて移動し、次の日の早朝に逆側翼に戦力を集中し突破、その後片翼包囲した流れが確認できる。戦術的状況は上記の多くと共通している。
 ただこの会戦は地理的位置関係がはっきりしておらず、水場側からかそれとも内陸側か戦況図が複数存在する。アッピアノスのローマ史Ⅶ巻52節は殆どマニューバについて書いていないが、川沿いで追撃したという表現を使っていることから、これを参照とするなら水場側からとなる。この戦闘は幾つかに広く分散して行われた可能性がある。うまく奇襲できるなら、水場側からでも内陸側からでも片翼包囲はどちらでも区別しなくても勝利できることもある。と言っても敵戦力をしっかりと追撃する事、特に指揮官を逃さないようにするために、水場側からの片翼包囲は更なる工夫をこらす必要がある。
 他にも戦例はあり、これらの要素と判断は特異なものではない。
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 やや珍しい或いはリスクがあったものだが、水場側からの片翼包囲が発生する状況の他の戦例も紹介する。

【1803年ラスワリーの戦い_途中で気づかれ側面攻撃発生せず】

 東インド会社軍は長い戦争経験を持っている。その中でもジェラルド・レイクが率いた時期は様々な参考になる戦例が残っている。ラスワリーの戦いはやや特殊な事例だ。水場側からの片翼包囲戦術が全体では為されてはいるが、その過程として、まず川岸にある水流で削られた地盤の死角を通り側面攻撃を奇襲でやろうとした。これが途中でバレてしまい、敵マラーター軍は迅速に鈎型陣形に展開しけん制砲撃を仕掛けた。それでもレイク将軍は攻撃を続けることを決定した。その結果、主攻は非常に狭い背水のスペースに横陣を展開し、敵鈎型陣形の側面担当部隊へ正面攻撃を実施することとなった。砲が劣勢だったこととマラーター歩兵戦列が整然としていたため、EIC軍はかなり苦しむが、最終的にレイクが率いる左翼の突撃が成功し、片翼包囲で勝利した。敵軍の一部は残って死ぬまで戦ったものの、相当数は逃亡している。

 色々と興味深い事項があるため別稿に記します。
リンク⇒【ラスワリーの戦い_1803年_水場側からの片翼包囲】
http://warhistory-quest.blog.jp/20-Oct-15

【1547年ピンキーの戦い_艦隊の支援攻撃】

 水場側という呼称を通行困難地帯の代表的地理要素として使っているが、現実としては一切何の攻撃も受けないと確証できる側面は存在しない。通行「困難」なだけであり不可能だとは限らず、時間があったり別手段を用いてその領域を通って何らかの通常攻撃以外で仕掛けてくる可能性がある。通るのはできなくとも、支援攻撃部隊が展開されることは充分考えられる。

 英国でおきたBattle of Pinkieはその事例だった。これはスコットランドとイングランド(王冠連合)軍の衝突であり、同時に15~18世紀の様々な軍事的事象が確認でき更に中世の残滓がある貴重な戦例だ。
 イングランド軍は大陸の経験豊富な傭兵を含む多種の兵科を揃えており、諸兵科連合の洗練が完全にスコットランドを優越していた。この会戦が初期近世戦の好例として注目されるのは砲兵、騎兵、銃歩兵そして艦隊の連携が巧みに執られていたからであるし、同時にまだ12~15世紀に活躍した兵科が一部残っている過渡期としての姿があるからだ。パイクや長柄矛(bill)を含む英国系歩兵隊11000、ドイツ傭兵の大型アルケブス銃歩兵隊600(arquebus à croc / hagbutters)、スペインのハルケバイザー銃騎兵隊200(mounted-harquebusiers / hackbutters ?)、軽騎兵2000、重騎兵(men-at-arms / bullerners)やデミ・ランサー3000、砲兵隊15、工兵隊1500である。歩兵には銃だけでなくロングボウ弓兵隊が含まれていた。ロングボウはウェールズ/英国が誇った兵科であり、ピンキーの戦いは彼らが活躍した末期の戦例だった。また艦隊はこれまで主だった接近して乗り付けるやり方ではなく、多数の砲を搭載した移動型砲撃プラットフォームとしてのスタイルで運用された。
 一方でスコットランド側は比較的近代化が進んでいなかった。貴族の重装甲騎兵やかき集められた歩兵が装備する槍、パイク、ハルバード、剣、弓、クロスボウ、ブリガンダイン鎧を付け、主力はパイク兵が占めた。銃や砲などの火器はイングランド軍より少なかった。(その点を強調し一部の者達はピンキーの戦いを中世軍と近代軍の衝突と呼ぶが、これは中世がまるで諸兵科連合が無かったかの誤解と兵科面での発展が既に起きていたことの無視に繋がりかねないため、書き方に注意する必要がある。)
 イングランド軍約18000人、スコットランド軍22000~26000人で、数的にはややスコットランド優勢である。

 9月9日に小競り合いが起きたが、これは戦術的に重要な意味合いがあった。海岸のプレストパンズ周辺に進軍してきていたイングランド軍に対し、スコットランド軍の前衛部隊が内陸部のフォーサイドにある古城周辺を占領したのである。内陸部が海岸より少しずつ高台になっているため、この場所は海岸部への包囲攻撃に使える重要地点になる可能性があった。イングランド軍は艦隊の傍を離れたくなかったが、ここは流石に無視できず騎兵隊を派遣してフォーサイドのスコットランド騎兵隊と対決させた。(スコットランドの騎兵1500はそのような戦術的目標確保のために動いたのではなく、敵にも同数の騎兵をださせて騎士的決闘を求めたとも言う説もある。)スコットランド先遣隊は他に歩兵500が伏兵としており、彼らの所におびき寄せてイングランド騎兵を倒すつもりだったようだ。だがデミ・ランサーは彼らの想定より遥かに迅速に動くことができ、スコットランド軍の偽装退却は追いつかれ伏撃は失敗、3マイルの追撃戦を受けた。この結果スコットランド騎兵隊は弱体化し翌日の主戦闘で活躍できなかったとされる。この衝突に勝利し、イングランド軍は内陸部拠点を確保した。
(この最初の衝突においてスコットランド側は明らかに価値観がずれている振る舞いをした。衝突後には伯爵たち貴族が騎兵同士の示し合わせた正面決闘(1対1や代表者20対20)を申し込んだ。イングランド側指揮官サマセット公は当然この申し出を断り、用意した兵士たちによる「戦争」で決着をつけに動き出した。)
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battle of pinkie

 翌9月10日が主戦闘の日となった。スコットランド軍は主力がパイクであり彼らが川岸に歩兵戦列を組めば堅牢な防御をエスク川西岸に展開できる状態だった。だがイングランド軍は大陸での経験から砲と銃を揃え騎兵を適切に使えば彼らを崩せる自信があり、攻撃にでることにした。曲がりくねった川の突出で且つ高台になっているインヴェレスケ教会の好立地を占拠し行き、そこを中心に戦列を展開を考えていた。内陸部拠点からの側面攻撃にさらされる憂いは前日に取り払っていたのでイングランド軍は海岸から離れ動き出した。

 だがなんとそこでスコットランド軍が先手を打って仕掛けた。指揮官アラン伯は敵が移動中である好機を見逃さなかったのである。イングランド軍は内陸まで広がりつつあるとはいえ完全には戦闘展開しておらず、組織が整う前に接近戦に持ち込めば砲も銃歩兵戦列も殆ど機能しないはずだ。スコットランド軍主力がパイク歩兵であったのは突撃にはやや不向きだった。彼らは基本的に戦列を揃え敵の突進を待ち構える方が、集団訓練を長く受けられたわけでもない軍にはやりやすかったからだ。けれどもパイク兵は突撃不可能の兵科ではない。パイク兵の名を知らしめたスイスでの活躍を含め複数のパイク兵の集団突撃は記録されている。同様にアラン伯はパイク兵の3段の巨大な戦列を形成すると、積極的に敵へ向け前進させたのだ。この前進は「歩兵というより騎兵のペースだった」とも伝えられ、相手が川岸で防御戦闘をするつもりだと予想していたイングランド軍には完全に奇襲となった。

 イングランド軍はまだ弓隊も長柄矛隊も秩序ある戦列を形成しておらず、砲兵も位置についていない。このままいけばスコットランド軍の奇襲突撃は成功するはずだった。だがそれを阻止したのはイングランド軍の持つ2つの先進的な部隊、騎兵隊と艦隊であった。

 海岸にいた艦隊は数十の砲門から阻止砲撃を開始した。スコットランド軍左翼はこれにより損害を被り、特に弓兵隊が傷ついた。艦隊の砲撃を避けるため左翼は内陸部へ移動して中央は2部隊が集まりやや混乱し停止した。敵主力が丘に続々と展開しようとしているのが見えたためもあるだろう。それでも立て直し再度前進を開始する。
 スコットランド軍は艦隊から沿岸部の攻撃を受けていたこと、そして内陸部には高台があったことから、フォーサイドを目指しているとサマセット公は判断した。内陸の高台を取られては厳しい戦況になるため、インランド軍主力を先にそこに展開するよう急ぐ。しかしスコットランド軍が既に接近してきており猶予はなかった。サマセット公が今効果的に投入できる戦力は唯一、騎兵隊のみであった。

 イングランド重装騎兵隊はこの日の朝、まだ全く戦闘に参加するつもりはなかった。故に馬鎧などの一部の武装は取り付けられもしていなかった。そもそも騎兵隊が強力だろうとパイク歩兵に単独で突進するのは危険すぎる。けれどもサマセット公は彼らに攻撃を命じた。求めた騎兵タスクは敵歩兵戦列の粉砕ではなく、友軍戦列が展開しきるまで敵前進を妨害する時間稼ぎである。
 両軍前衛の距離が500m以内になった所で海岸近くのキャンプから重騎兵隊は討って出た。スコットランド軍騎兵隊は前日の戦闘で弱体化していたことに加え内陸側の右翼端に配置されていたため、海岸側から来たイングランド騎兵に応対できるのは歩兵のみだ。イングランド騎兵隊が前衛に突進するも、スコットランド歩兵は自分たちの前にある泥濘の箇所を利用し多くの敵騎兵を苦境に陥れた。しかもその前の大地は起伏があり騎兵突撃は乱れてしまっていた。だがそれでもイングランド騎兵隊は敵前衛左翼を駆逐し、その威力を示した。続いて彼らはそのまま進みスコットランドの主戦列へと接近する。

 これを見てスコットランドのパイク兵はシルトロン隊形の円形版を展開した。シルトロンとはスコットランド関連で言及される際に使われる密集隊形のことであり、ピンキーの会戦では各パイク/槍兵隊がそれを展開しハリネズミのようになったと言われる。この各パイク密集隊形円陣への突撃と粉砕をするのは流石に厳しすぎた。イングランド騎兵隊は少なくない死傷者を出しついに突進が停止、残存は何とか後退する。この衝突でのスコットランドのパイク円陣の死傷者は殆どいなかった。重騎兵はこの戦場の全てを支配する兵科ではなかったのだ。だがスコットランド軍はこの騎兵突撃に対処するため、前衛の一部が駆逐され主力は漸進を停止し密集円陣に配置転換しなければならなかった。彼らが騎兵突撃を撃退し陣形を戻すまでにかなりの時間が経過しており、再び前進をしようとしたスコットランド軍の前には、既に戦列を展開しきったイングランドの歩兵隊が高台に整然と並び立っていた。騎兵隊は数多の犠牲を出しながらも戦争に於いて最も重要な要素の1つである『時間』の獲得という役割を果たしたのである。
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 イングランド主戦闘戦列はやはり前衛、主体、後列で構成された。右翼部隊にはアルケブス銃歩兵隊が、左翼部隊にはロングボウ弓兵隊が支援に随伴した。スコットランド軍は敵騎兵を撃退した後この主戦列へと向かって前進を再開継続した。ここで死傷したイングランドの馬と兵士の身体が障害物になりパイク兵の密集前進は乱れだしてしまう。そこへ高台に陣どったイングランド軍戦列の投射兵器の全力が襲い掛かった。歩兵密集隊形に砲弾、銃弾、矢が降り注ぎ平野部と斜面下部が戦場となる。その頃、スコットランド騎兵隊は丘の上にいる敵砲兵隊に攻撃を仕掛けようとしていたが失敗していた。地形とパイク兵戦列がしっかりと守りながら、アルケブス銃歩兵隊はぬかるみの境界部から射撃し、砲は翼と後ろの丘から打ち続ける。野戦投射兵器は弓矢が主体のスコットランド軍より洗練されたパイク&ショットの姿であった。ただロングボウの活躍など、完全な近代化軍隊ではなかったことに留意する必要がある。次々と死傷者を出し始め、恐怖からか或いは戦術的な動きをしようとして組織が乱れ機能不全になったためか、スコットランド軍の進撃は停止した。そしてイングランド軍の逆襲が始まる。

 火力支援の下イングランド全軍が前進準備を整えた。これは主戦列の歩兵隊のみならず、右翼端で再編した騎兵隊もそうだった。全体の位置関係は今、海岸と垂直だった初期配置と変わっていた。内陸側高台が焦点となり指向してスコットランド軍左翼が前進した結果、その海岸側のスペースをどんどん開けることになった。これは艦隊からの砲撃で被害が出て、回避したがったのも理由であった。従ってこの時、元の海岸宿営地付近に戻って再編したイングランド騎兵隊の目の前には、大きなスペースとその先にあるスコットランド軍主戦列側面部が曝け出されていたのである。
 スコットランド軍は激しいイングランド軍火力を受ける中そこから一旦距離を取ろうとした。或いはこの2方向攻撃を受け得る戦術的状況が危険だと気づいて再び正面を転換しようという意図もあったかもしれない。方向が変化した突撃に近い前進を中止し後退しながら再度正面を転換するマニューバはあまりに彼らの練度には難しすぎた。自壊していくスコットランド戦列に対し、イングランド騎兵隊が側面攻撃に進発するとそれはもはや包み込むというより追撃となった。高台側の主戦列も進撃し、スコットランド軍はここに崩壊した。少数のスコットランド部隊は戦列を保持しながら後退しようとしたが、大半は武器も捨て逃走を始めた。4マイルほどイングランド騎兵隊は敵を追撃し多くの戦果を挙げた。
 スコットランド軍は捕虜だけで2千人、死傷者は6000人を超し野戦軍は撃滅された。
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 ピンキーの会戦は近世軍事史として様々な興味深いポイントがある。兵科の発展史という観点で着目しても面白い。J.A.Davisによるとピンキーの会戦ではパイク歩兵隊に対し騎乗射撃をする騎兵隊が射撃を浴びせ大きな効果をあげたという。騎乗銃撃が火力支援を欠く槍/パイク歩兵密集隊形に効果をあげた実例としてドルーの戦いと共にDavisは取り上げている。
 騎兵ならデミ・ランサーが戦術的タスクを果たしたことも意味がある。騎兵の突撃力は敵に防御隊形への移行を「強制」した。適切な防御隊形と地形活用があれば騎兵突撃は止められはするが、逆に言うとそれをしなけばならないのだ。それは全体の戦術の中で負荷をもたらし、今回の様に決定的な影響をもたらし得る。自分だけで粉砕するのは無理でも、各兵科の連携の中で必要な役割を果たすのである。勿論パイク兵の密集隊形が迎撃態勢を敷いたとき、強力な騎兵であろうと跳ね返せるという実例としても価値がある。イングランド側ならそれに加えてアルケブスの銃兵隊が活躍し、パイク&ショットの戦闘形態の片鱗を見せてくれた。また、艦隊砲撃の重視運用も発展史の中で着目すべきだ。中世末期からの連続性ならば、ロングボウ部隊が最後の輝きを放った戦例としても記憶に残るだろう。battle of pinkieは実に多くの事象を見せてくれている。
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 ピンキーの戦いは戦術として完全な片翼包囲が現出したわけではない。それでも重要な要素を確認する参考になる。戦術的焦点になったのが内陸部高台であり、これは多くの状況に適用できるからだ。ここが重要だと両者は考え主力を向かわせた。この競争が本会戦ではメインだったと言える。ただその結果として起きた事象は大いに注意する必要がある。既に説明したように水場側への包囲はかなり効果的で、内陸部拠点、特に高台をとれると大きなアドバンテージになりそれを実行できる可能性が格段に高まる。内陸部ポイントに注目することは正しいが、そこを奪おうと前進したが故に水場側に最初は無かったスペースが開いた。完全に空かなくとも薄手にしてしまえば、そこを突破される危険が急激に創出される。かといって中途半端な戦力では焦点の内陸拠点が奪取確保できない。よってこれは主導的に動くかどうかも含め、厄介な戦術的テーマとなる。

 また、水辺から艦船を用いた投射攻撃が支援として実施されたことも注目に値する。今回はそもそも艦隊が砲撃による遠距離投射を主攻撃手段とする運用としたことが、英国軍事史での新たな試みの1つであり、スコットランドには想定外だった。最初から艦隊がいるとわかっていたのにも関わらず攻撃を食らってしまったのはそのためだ。後の時代で実施されるようになるのだが、この水場からの支援は攻撃または水陸両用作戦が行われる。通行困難地帯だから安全だと思っていては手痛い奇襲を受けることになるだろう。

【陸上進撃と水陸両用作戦の連携】
 水陸両用作戦を用いて岸辺周辺での突破を支援し、水場側からの片翼包囲を成功させたのは、独ソ戦1942年ケルチ半島でのドイツ第11軍の雁狩作戦が有名だろう。これは地理的には両側に水場があったが占領領域が一部突出しており、そこの視点で水場側あるいは内陸側からの包囲という分岐が生まれていた応用タイプである。突出部への内陸側から水場側への包囲をしてくるとソ連側司令部は完全に予想していたため奇襲となった。上陸部隊はあくまで支援であったことに注意する必要がある。
soviet offensive to  finland

 ただWW2での水陸両用作戦を陸上侵攻部隊の主攻への支援として同時使用したのは、ソ連の方がより事例が多く1943年末からは明確に洗練されていた。黒海沿岸の一連の快進撃に於いて水上からの砲撃や上陸作戦はピンポイントで効果を発揮した。また北部では対フィンランド戦役で使われている。これは別稿で専用の説明がいるので、ここでは詳しくは記さないが冷戦期ソ連軍士官用参考書籍で使用されている分析を参照とする。
 勿論この水場からの支援攻撃は、水場側からの包囲攻撃だけでなく、内陸側からの包囲攻撃でも同時運用できる。この場合は支援の大きさ次第では水陸両用作戦が片翼を担う両翼包囲に近い形となる場合もある。特に1944年のPetsamo–Kirkenes Offensiveがその大規模な成功例だ。元々内陸部に突出した戦況になっておりそこから海岸部へ向けた包囲攻撃は有効なのは明らかだった。ソ連はその主攻に加えて海岸部及び島嶼から支援攻撃を行った。それだけでなく難しいフィヨルド地帯で連続した進撃を行っており、これは正面攻撃型の突進であったのだが、その際にも水陸両用作戦で海岸部からもう一つの戦術的攻撃軸を作っている。

【1658年 砂丘の戦い(battle of Dunes)_干潮でスペースが出現_テュレンヌ】
 ピンキーの戦いは水場側からの片翼包囲が決定打を与えた会戦では無く、あくまで関連事象が見られた事例だった。戦術的に洗練された翼包囲への艦隊支援があったのは西仏戦争でのbattle of Dunes(スペイン&フロンドの乱残党&英国王党派vsフランス&英国クロムウェル派)だ。実施したのは戦史では高い知名度を持つフランスのテュレンヌだ。しかも敵側に同時代で名高かった大コンデがいたためこの二人の対決だと言われることもあるのだが、実際のところ大コンデは一翼の部隊指揮官であって、テュレンヌと対になるスペイン側総指揮官はフアン・ホセ・デ・アウストリアだ。

 ダンケルク包囲戦を続けるテュレンヌ軍の背後にスペインの解囲部隊が姿を現わした。けれどもファン・ホセはすぐさま挟撃に突進することなくゆっくり近づいて行った。砲兵部隊がついてこれてなかったのも理由だろう。一方でテュレンヌは積極的に動き主導権を握り続けた。彼は戦力を集中しまず敵解囲部隊を撃退し、それから再度ダンケルクを攻める方針に決めた。テュレンヌはダンケルク包囲には封鎖ぎりぎりの6000人のみ残し、残る戦力を全て差し向けたため両軍共に約15000人で互角だった。そして翌日の戦闘時間を計算にいれて前日から移動を始めた。また包囲を共にしていた艦隊にも手はずをつけておいた。位置はフランス側が西で左手に海、右側に水路があり、間には砂丘が点在する場所だ。水路は通過が不可能ではないがポイントは限られる。
 この時代には既に中央に歩兵戦列で両翼と予備に騎兵という形式が常識的になっており、両者はオーソドックスにこれを採用した。ただしフアン・ホセは良くも悪くも大きな影響力を持つ大コンデを内陸側の翼部隊に配置した。もし大コンデが対面部隊を倒せば片翼包囲へと繋げてくれるだろう。逆に言うと、テュレンヌは大コンデを倒さねば内陸側から水場側への包囲を実現できない。
 ファン・ホセが水場側へ向けた片翼包囲を企図していた一方で、彼には想定外なことにテュレンヌは主攻を水場側に置き、そこから包囲攻撃に繋げようと計画していた。
battle of Dunes_1

 海岸での翼部隊進撃を成功させるためにテュレンヌは2つの工夫を凝らしていた。1つ目が艦隊の支援攻撃だ。英国の艦船をそのために手配していた。2つ目が潮の満ち引きのタイミングを計っていたことだ。これが実に巧みだった。テュレンヌは前日の前進から計算に入れ、クロムウェル派の英軍つまりニューモデル軍を左翼に配置し、翼端の海岸ぎりぎりに騎兵隊を揃えておいた。そして潮が引いていく。干潮になった時、左翼端の前には最初は無かったスペースが開けていた。そこに海岸に近づいておいた艦隊が艦砲射撃を開始する。これによりスペイン軍の右翼は側面へ砲撃を受け戦列が乱れてしまう。
 左翼の海岸傍に事前配置されていた騎兵隊がそのスペースを通り抜け、敵軍右側面をとった。そして艦隊の支援攻撃で乱れていた所へ突入した。スペイン軍右翼前面の砂丘を固めていた部隊がまず襲われ、駆逐されてしまった。次々と部隊が岸を通り抜け展開し、スペイン軍は完全に後手を踏んだ。
battle of Dunes_02

 同じ頃に逆側の内陸側のフランス右翼でもテュレンヌは攻撃を行わせた。フランス側勢力はこちらにも相当数の騎兵を割り振っており、テュレンヌは両翼包囲を期待していただろう。対面の敵騎兵隊の場所に踏み込み攻撃を開始した。だがここにはあの大コンデが居た。スペイン側左翼騎兵隊を率いていた彼は、瞬く間にフランス軍右翼の突進を撃退すると、あまつさえ逆襲に討って出た。大コンデはいつも通り自信に満ち溢れ危険地帯であろうと平気で指揮を執り、そして弾は一発も彼の身体には当たらなかった。この内陸側は大コンデの勇猛さに引っ張られたスペイン側が優勢になり先手を取ったはずのフランス軍を逆に初期位置から押し込んだ。

 両軍互いに左翼が前進成功する形となっており、続いて中央を崩す競争で早い方が勝利する。それはもはや明らかであったので、両軍指揮官は同じように後列(予備)を投入して崩壊を押し止めに向かわせた。スペイン軍後列騎兵隊が右翼へ駆けつけ一時は敵に圧力をかけることに成功した。この指揮をとったのはヨーク卿で彼は自身の騎兵隊がフランス左翼部隊(英国ニューモデル軍)の側面を襲撃している間に別の歩兵部隊にその正面攻撃を仕掛けるよう、つまり敵の翼包囲企図突出部隊に逆包囲を仕掛けようと一連の命令を出した。一方で大コンデの進撃を止めるためフランス軍中央後列も抽出され向かう。フランス軍はしっかりとした厚みでスペイン軍左翼の進展をとどめた。
battle of Dunes_03

 破綻が先に訪れたのはスペイン側だった。やはりフランス側勢力左翼はより深く抉り込んでおり、側面攻撃を発生させ戦列突破していったのだ。ヨーク卿の反撃計画は合理的だったが、この圧される混乱の中で歩兵たちが指示通り巧く動いてくれることはなくむしろ逃げ出した。テュレンヌは事前準備の積み上げが違い主導権を握っていたこともあり後続投入の進展が早かった。中央の歩兵戦列も前進をしていき、特に中央左翼よりでは側面攻撃部隊と連携がうまくいき多角的圧力をかけることができた。崩れ出した歩兵部隊は次々と降伏しフランス軍は大量の捕虜を得たのだった。大コンデの左翼は未だ押し込んでいたが、他の中央と右翼が総崩れで撤退を始めたため、勝敗を悟り戦場を去っていった。伝承では大コンデが最前線にいる時に馬がやられ崩れ落ちたのを見て、心が折れ総崩れになったという。大コンデはそれでも無傷で、別の馬に乗って離脱した。
 こうしてテュレンヌはスペインとの、そしてフロンドの乱残党に対する戦争での重要な成果を得たのだった。



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とりあえず以上です。ここまで長い文を読んでくれた方に心よりお礼を申し上げます。
だいぶ簡略化しているので幾つか書くべきことが抜けている気がしますが…何か思う所等あれば教えてください。
今後、他戦例を追記していくかリンク追加していくつもりです。