包囲に対抗するための方策として鈎型陣形と呼ばれるものがあります。
 陣形とは書いていますが、その意図は敵が多角的攻撃をしてきた際に自軍部隊が『側面を曝したまま攻撃を受けないようにする』戦術コンセプトであり、幾何学性よりもその効果の方に本質的な意味があります。包囲形にされることをある程度想定に入れるという特徴があり、包囲攻撃を受ける際にそのインパクトが緩和されます。その点で対包囲戦術の1つとして、多くの戦で使用されました。ただし鉤型で対抗するということは受動的で複数のリスクもありました。
1642_Battle of Honnecourt_鉤型陣形の敗北

 今回はそれらの包囲をされた際に側面を曝さないようにした戦術的行動を鈎型陣形と呼称し、その基礎概念について記そうと思います。如何にして鈎型陣形をとった軍が勝利したかは、古代ローマ・ガリア戦役の2戦例(ビブラクテ、サビス川の戦い)を取り上げ詳解しようと思います。

 本稿は鈎型陣形が耐久により包囲攻撃に対し勝利した事例に説明の重点が置かれています。けれども鈎型陣形はそれ単体での耐久勝利よりもむしろ他の逆襲戦術と組み合わされることで大きな威力を発揮したものです。それらの戦術を理解するための基礎としても必要であるため、まず単体について記そうと思います。
→別拙稿 鉤型陣形を組み合わせた逆襲 後日作成します。
__以下本文__________________________________ 

鈎型陣形の基本概念

 敵が包囲戦術を仕掛けて来た際の対策として、鈎型陣形はある程度の有効性を持っている。以下に記すような話をしなくとも、感覚的にそれが効力を持つと理解するのは難しくないだろう。
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 包囲戦術という概念は一般的に最も有効な形態とされるが、『なぜ包囲形態になると戦闘効率が上昇するのか』という議論を常に内包している。盲信的に包囲の形を作ることだけを求めるのは、費用対効果を無視した結果になりかねない。
 1864年アトランタの戦いは形だけを見れば包囲しているように思える。しかしどの位置でも南軍は正面攻撃を実施しており、北軍より遥かに多い死傷者を出し失敗した。
鈎型陣形の勝利_アトランタの戦い
< 1864年_米国南北戦争_アトランタの戦い_南軍の翼包囲攻撃失敗 >

 1914年サルカムシュの戦いでオスマン軍は机上では鮮やかな片翼包囲の作戦を立案したが、その結果は凄惨な失敗に終わった。
kusatma
< 1914年_WW1コーカサス戦役_サルカムシュの戦い_オスマン軍の片翼包囲攻撃計画 >

 幾何学性は確かに有意ではあるが、勝利をもたらす本質はそれが生み出す(期待が高い)各影響そのものにある。幾何学性があってもその影響を欠いては包囲攻撃は成功しない。複数のマイナス要素もあるが総合的に見ると包囲は有効な戦術と『なり易い』が故に重要視されるのであり、包囲したからといって勝利すると必ず言えるわけではない。必須要素を除き、個々の要素はそれ単一が欠けていても他が揃っていれば包囲は現出するからだ。
 更に、各影響が発生するかは包囲を実行する側の状況だけでなく、包囲をされる側の状況でも決まってくる。特に被包囲側の陣形は重大であり、その内の1つが鈎型である。

【側面攻撃と包囲攻撃】

 包囲には多くの要素が内包されているものの、巨大な差異をもたらすのが側面攻撃が成功するか否かだ。よく混同されるし、多くの包囲戦術では側面攻撃を成功させているが、包囲にとってそれは必須ではない。これはどちらかと言うと被包囲側がどんな形をとって包囲と戦うかによって変わる。側面を晒していれば、その包囲は側面攻撃を発生させるだろう。しかし何らかの方策で側面に対策を打っていた場合、包囲とはなるが側面攻撃と言えるだけの特質性を生み出せない。(より正確に言うと、名目上は側面方向への攻撃が発生していても効果が大きく無く、正面攻撃との差異が小さい場合がある。)例えば全周対応型の方陣を敷いている敵に攻撃を仕掛けるなら、側面攻撃が起きなくとも包囲は可能だ。側面攻撃無き包囲は、それがある場合との相対的な話だが、著しく戦闘能率が減衰している。
 方陣と包囲戦術の対決は1879年ズールー戦争で多くの戦例がある。イサンドルワナで英軍が包囲され壊滅したことが有名なのだが、この戦争全体を通して殆どのケースで失敗したのは包囲戦術の方だ。ロルクズ・ドリフト、ウルンディ、カンブラいずれの戦例でもズールーの包囲攻撃は英軍の方陣によって大損害を出し撃退されている。(恐らく方陣と言うと全方位に対応する四角形をイメージするだろうが、今回焦点とする鈎型陣形の軍事コンセプトにおいてはその意図している性質が同じであるため方陣と分ける必要がない。)
the-battle-of-ulundi-1_英軍勝利_能動包囲失敗_方陣のによる撃退
< 1879年_ズールー戦争_ウルンディの戦い_ズールーの全周包囲攻撃を撃退する英国軍の方陣 >

 だいたいの教範は包囲の一部として側面攻撃を説明するが、米国海兵隊の作戦教範(MCDP1-0)ではマニューバの節において、包囲(envelopment)とは別に側面攻撃(flanking attack)の項目を同格で置いて強調している。
MCDP1-0_figure9-5_flanking attack
 海兵隊教範中で「その目的は、敵を打破する過程において敵戦闘能力を避けることである。」(MCDP1-0,9-11)とあるように、敵の戦闘能力が最大発揮される位置を避け、より低い戦闘能力しか発揮できない位置を攻撃すること、それが側面攻撃だ。というのも部隊とは基本的に戦闘能力が最大となるある志向方向を有するからだ。攻撃する準備をしている方向とも言い換えられ、それは『正面』と呼称される。そして戦闘能率が相対的に低い方向が側面だ。
 鈎型陣形を敷いても包囲はされる。しかし側面攻撃は防げる可能性がある。

【側面の防護としての鉤型】

 ここで側面攻撃への対抗策としての鈎型陣形を考えるが、階梯で視点を分けておくと混乱を避けやすい。最も簡易的なイメージをするなら個人レベルで身体を向けている方角を思い浮かべればよい。部隊全体の戦列は南を向いているとしたら東は側面となる。側面攻撃を受けたら左翼端の兵士はその身体の横面を容易に傷つけられることになる。ではそこで左翼端の兵士が身体を東に向けたら、東から来る敵に対し彼は遥かに戦い易くなるだろう。簡単に言ってしまえばこれが鈎型陣形の概念の大元だ。と言っても個人レベルでは影響が小さ過ぎるため、これを部隊規模で適用する。部隊全体の戦闘能率を考えると、単に部隊の端が向きを変えるというのではなく、縦深にフォーメーションが伸びることになるだろう。
 即ち隷下各部隊の幾つかが部隊全体の正面とは別の方角を向いて(或いは向き易いように)戦闘準備をするのだ。例えば師団の正面が南だとして、その師団隷下の各旅団の内で左端にいる旅団だけが正面方向を東にしたとすれば、残りの旅団は南を正面としていながらも、その側面は晒されていない。東から来た敵が旅団規模であった場合、それは左端の我が旅団への『正面攻撃』となる。実際の所これは師団にとっては側面方向への攻撃なので、側面攻撃だと言う者もいるだろう。だが側面が曝け出されているかと言えば全く違う。組織的に側背面へ戦闘準備をしているか、それが包囲攻撃を受けた時に巨大な差異を生む。敵が来る方角が全てわかっているわけではない場合にも有効だ。
中国古代の鈎型陣形
 被包囲時においてこれは大きな違いを作り上げる。攻撃側が多角的な位置取りに成功したとしても、敵も多角的に向いて迎撃態勢を整えていたら、その包囲攻撃の戦闘効率は最高には到れないのだ。そしてそれを被包囲側視点で見た時、『鈎型陣形』と呼んでいるのである。(鉤型陣形という呼び名はそこまでポピュラーでも無く、拘る必要は全く無い。肝心なのはその効果の方である。)
 この場合、側面(及び背面)を晒さない形であることが肝要であり、全周防御の方陣であっても概念的には同じとなる。両翼を鈎型にしてコの字型にしてもよい。折れ曲がる角度は直角でなくともよい。或いは完全に側面方向を向く必要もない。地形や武器と組み合わせながら、その根幹たる「敵が現れた時側面を曝さずしっかりとした戦闘態勢をとれる」ことを成し遂げれば欲する効果を手に入れられるのである。どこの側面を守るかも戦術的広がりを持ち、翼端ではなく敢えて少し内側に入った所に側面方向を向いた部隊を置くこともある。
鈎型陣形_モルヴィッツの戦い
< 1741年_フリードリヒ大王のモルヴィッツの戦い >

 1741年モルヴィッツの戦いで、オーストリア軍左翼騎兵隊は見事なマニューバでプロイセン軍の側面を突きその右翼を大混乱に叩き込んだ。だがそこで拡張が停止した。プロセインの2つの戦列の間をカバーするため側面方向に回頭していた2個大隊が側面攻撃を防ぎ止めたのだ。これは見かけ上、鈎型陣形と呼ぶべきとは思わない。けれどもその性質は同じものが含まれている。

 鉤型陣形は基本的に耐久のための手法である。敵が攻撃し続けてくれるなら耐久して削り続けられるが、防御状態から勝利へ繋げるためには耐久後の反撃が必要になる。鉤型は逆襲打撃部隊との組み合わせに相性が良く、複数の戦闘実例が残されている。鉤型陣形は下記に述べるようにリスクがあるので、それ単体で勝利を得ようとする主戦術というよりも、むしろ他の戦術との組み合わせの方にその真価がある。
→別稿を追記します。

【鈎型陣形のディスアドバンテージ】

 これらは包囲を受けそうになった時取るある意味当たり前の行動であり、鈎型陣形を大仰な戦術だと捉える必要は全くない。しかし当然のことをするのは簡単なことではない。鈎型陣形には複数のディスアドバンテージ、中には明確に弱点と言えるものが内包されている。

 主たるものは主導権の喪失リスクだ。攻撃/防御側が明確に定まっていない戦において、鈎型に戦闘準備をするのは少なくとも部分的に受け身になることを示している。縦深に置かれ、しかも別方向へ主たる戦闘準備をしている部隊は、正面の部隊が戦闘する際に遊兵になりかねない。彼らが迅速に正面の戦闘に参加するのは難しく、無理やり動かすと戦列に乱れが出るだろう。
 また、防御戦闘だと判明していれば良いが、攻防が入り乱れ入れ替わる会戦で鈎型陣形を採用するのは高い練度と素早い判断力が必要となる。最初から鉤型に配置しているか敵が接近する前に気づいたならともかく、戦闘中に移動して鉤型にするのは難しく、そして形になったとしても急造では単純に圧し負ける可能性もある。
 急造でなくとも包囲される鈎型陣形はそのまま押し負けるリスクがある。(ただし負けるにしても相手にも相応の出血を強いれる。)それに鈎型にしたからといって十全ではなく、鈎型の更に奥を回りこまれたり端部を攻撃され翼包囲を成功されることもあり得る。
1642_Battle of Honnecourt_鉤型陣形の敗北1642_Battle of Honnecourt_鉤型陣形の敗北_


< 1642年_ホーンコートの戦い_鉤型陣形の敗北 > 左図despertaferro、右図Pierre PicouetのTerciosより
東ローマのべリサリウスが急場で行った鉤型陣形についてはカリニクムの戦いの記事を参照。
http://warhistory-quest.blog.jp/20-Mar-14

 残る1つは『弱点』と呼ぶべきものであり、幾何学的に不可避の性質である。
 これは別稿で戦例を挙げながらより詳しく取り上げる。
→追記します。

鉤型陣形の成功例

 以下には包囲されかけた際の対抗策として実施された鈎型陣形の古典的な戦例を、古代ローマの戦役から2つ抜粋する。これらは急造で包囲攻撃部隊に対応して結果的に鉤型になったものである。どちらも勝利に終わったが、それが平常と考えるべきではない。
 またこの戦例が示すように、包囲を防ぐために予備や抽出部隊をあてるといういたって普通と言える行動がその核心であり、そこに奇抜性はない。ただし含有されている戦術的な影響は軽視されるべきでなく、特に他の方策との複合において非常に高度な戦術が造成されるため、基本として鉤型の概念を覚えておくことは有用と考える。

ビブラクテの戦い_移動

 ガリア諸部族の中でも特に勇猛でゲルマン人と境界を挟んで攻防を繰り広げていたのがヘルウェティイ族である。即ち彼らは戦闘経験が豊富で戦士も多くいた。

【ブルディガラの戦いでのローマへの勝利】

 その戦歴の中には前107年のローマへの勝利も含まれていた。
(略:記事末尾に移す)

【移動】

(略:記事末尾に移す

【接敵】

 ヘルウェティイ族はハエドゥイ族を筆頭に複数のローマ同盟部族の領土を略奪しながら進んでいた。ここにカエサル率いるローマ軍が攻撃を仕掛けて来た。アラル河を渡っている最中であり、全体の3/4が既に渡り終えていたのだが、対岸に残っていた者達に対し夜半過ぎにローマの3個軍団が奇襲を行ってきたのである。対岸にいた1/4の者達は移動中のため荷物が妨げになりまるで戦闘態勢をとることすらできずに殺され、生き延びた者達は森へ逃げ込んで散り散りになった。

 ヘルウェティイ族の残りの者達はローマ軍と衝突はする気はなくあくまで進み続けた。だが彼らが長い時間がかかったアラル渡河をローマ軍は僅か1日で全軍渡河して来たのを見て驚き、戦いを避けるため交渉の使者を送った。これがディウィコに任された。ディウィコはまだ自信を持っており、カエサルの出した条件を飲まず交渉は決裂する。

 ヘルウェティイ族は野営を引き払い再び移動を開始する。ここにカエサルがガリア同盟部族から集めた騎兵隊4千騎(実数はおそらくもっと少ない)を追撃に出してきた。これに対しヘルウェティイ族は騎兵500を送り出し、有利な地形で敵を迎え撃った。追撃に逸るあまり拙攻をしてしまったローマ同盟部族騎兵を彼らは巧く攻撃し若干の死者を出させ撃退した。彼らはこの局地的勝利にさらに自信を深め、それからの日々は時に大胆に歩を停めて挑発した。だがカエサルは衝突を避け距離を空けて追跡を続けるだけだった。

【ローマ軍の補給問題と攻撃失敗】

 ヘルウェティイ族は食料事情ではローマ軍より優位であった。元からこの地方は気温が低く作物がまだ実っておらず秣すら十分に確保できない。ヘルウェティイ族は自分の意志で進路を選べたがローマ軍は彼らを追尾しなければならず、穀物探しに出て見失ったり戦力を散らばらせられなかったのだ。それにヘルウェティイ族が進路変更をしたことでローマ軍のアラル河を船で運んできた穀物も利用できなくなり、更に同盟部族の食料供出の約束が果たされるのが遅れていたのである。そこでカエサルは攻撃を決意した。

 ヘルウェティイ族が敵から8マイル離れた丘のふもとに布陣していた時、ローマ軍の偵察隊にそれを察知されてしまう。カエサルは地形を探った後ラビエヌスと計画を話し、夜の内に彼に2個軍団を率いて丘の上に登っておくよう指示をだすと、自分は残りの部隊を率いて未明にヘルウェティイ族の来た道を辿り接近していった。この時ヘルウェティイ族は敵接近に気づいておらず危険な状態だった。
 カエサルは念入りにスッラやクラッススの下で戦った経歴を持つと言われたコンシディウスという兵士を付けて偵察隊を出す。するとコンシディウスが駆けて戻って来てラビエヌスが向かった丘は敵が掌握していると報告したのである。それゆえカエサルは計画を急遽変更し攻撃を中止すると別の近くの丘へと軍を退いて戦列を敷いた。

 だが実際の所ヘルウェティイ族はラビエヌスの向かった丘になどおらず、ラビエヌスは支障なく計画通り丘を占拠して潜みカエサルの部隊が敵に接近した所に合わせて一斉に多方向から攻撃する準備を整えていたのである。その日遅くになってローマ軍は真相に気づいたが、既にヘルウェティイ族は移動し去った後であり敵奇襲の危機から幸いにも脱することができていたのであった。
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 カエサルはイベリア半島で指揮したことがあったものの、まだガリア初期は大規模な戦いの経験が豊富とは言えず加えて配下の将兵も掌握していなかった。そのため彼は独断をせず周りの軍歴の長い者達に頼っており、これはむしろ慎重で良いことなのだが、時にこういった失敗を味わうことになった。一緒に過ごしていたわけではないコンシディウスの能力をまだ知らず、軍歴が長いと他人から聞いていたので一応話を信用して部隊を移動させたが全くの誤りだった。ラビエヌスとの連絡を付けるべきであったのだが、もしコンシディウスのいう事が本当だった場合非常に危険なので急いで移動する方を優先してしまったのだろう。カエサルは幾つかの失敗をガリア戦争でしている。ただ彼はラビエヌスなどの幾名かの優れた将官にも恵まれていた。

前58年_ビブラクテの戦い_会戦

 ローマ軍はついに補給問題が原因で追跡を諦め、同盟部族(ハエドゥイ族)で最大の町ビブラクテへと進路を変えた。攻守は逆転しヘルウェティイ族が今度は敵後尾へ攻撃を仕掛けるようになった。これまでの小戦闘で勝利し続けており、追いかける立場になった精神的優位が彼らを後押しした。
 
 カエサルはこれを見て応戦しなければならないと判断し全軍団を近くの丘へと移した。ヘルウェティイ族が接近するとローマ騎兵が応戦して時間を稼いできた。その間にローマ歩兵4個軍団が戦列を丘の斜面に形成する。ローマ軍団の戦列は3段で編成される通常のものである。丘の頂上には携行物資を集め、新兵2個軍団とその他援軍で守らせた。総指揮官のカエサルは自身のものを含め全ての馬を戦列から離した場所へ置き、兵士が逃亡しないように態度でもって示した。
 対するヘルウェティイ族は丘の下に到着した部隊から集結し、荷車をまとめると戦闘員が密集隊形を作った。まだ後続は一部到着していなかったが、数的優位であったため戦闘に入る覚悟を彼らはしていた。
 ここに到り両軍は会戦へ入ることを受け入れたのである。

【序盤_ヘルウェティイ族の突進とローマの迎撃】

 ヘルウェティイ軍は密集隊形をとると妨害してきていた敵騎兵部隊を退けた。そして丘の斜面にいるローマの1段目の戦列に対し攻め上がり、敵歩兵のそばまで近づいた。するとその時ローマ軍は高所からヘルウェティイ軍の密集隊形へと激しい投槍を放ってきた。この損害によりヘルウェティイ軍の戦列は乱れてしまう。そこに間髪入れずローマ歩兵が剣を構え接近戦に突入した。
battle of bibracte_0

 これはローマ軍の基本戦法であり、そして戦列の統率が取れている限り極めて効果的であった。更にローマの投槍が盾をいくつも貫き、槍の穂先が折れ曲がり抜きにくくなると左手だけで盾を扱うのが困難になってしまった、ヘルウェティイの戦士たちは抜こうと悪戦苦闘しているうちにローマ歩兵が懐まで入ってきてしまうため、多くの者達は仕方なく盾を捨てて無防備に闘わざるを得なくなった。
 ヘルウェティイ軍の戦列は突進が完全に止まり、突破できぬまま幾名もの死傷者を出して疲労していき、ついに後退を始めた。彼らは崩れてはいたがまだ完全な逃亡ではなく、1マイルほどの近くの丘へと下がった。

【中盤_ローマ軍の前進とヘルウェティイ軍後列部隊の翼攻撃】

 近くの丘へ下がったヘルウェティイ族の部隊に対し、ローマ軍は追走し圧力をかけた。これにより戦列の再編成もできなくされてしまい、ヘルウェティイ族は窮地に陥る。
 しかしローマ軍の戦列が丘に迫った時にヘルウェティイ側に所属していたボイイ族とトゥリンギ族が新たに現れた。彼らは行軍の後尾にいたため戦闘が開始された時にまだおらず、このタイミングで到着したのだ。遅れたおかげで逆に彼らは前進していたローマ軍戦列の側面を突ける形になったのである。そして丘へ退却していたヘルウェティイ族本隊もこの増援到着を見て再び攻撃に討って出てきたためローマ軍を囲む形になった。
battle of bibracte_1

 こうしてカエサルのローマ軍へとヘルウェティイ軍は片翼包囲を形成することに成功したのである。これは恐らく意図したものではないが、結果的に実に見事な流れになった。というのも迎撃態勢を固める相手に仕掛け、後退して釣り出してから別動隊がその側背面を突き、後退していた部隊が反転し再度攻めかけるという偽装退却からの包囲にかなり近似した形態であるからだ。この戦術が形を現すまで成功した場合その多くで勝利へと到っている。この時ヘルウェティイ族はその手前まで来ていたのである。

 だがカエサル率いるローマ軍はこの危機に対し迅速に反応していた。

【終盤_ローマ軍後列による鈎型陣形と耐久後反撃】

battle of bibracte_2

 ローマ軍は3段の戦列の内、前面の第1と第2戦列にはそのまま丘のヘルウェティイ本隊への攻撃を継続させた。これは敵主力を態勢立て直しさせないためには最も適切な判断だ。そして同時に後ろの第3戦列を即座に方向転換させると、右翼側背から迫って来ていたボイイ&トゥリンギ族の部隊へと迎撃するため新たな戦線を形成したのである。
 翼別動隊のボイイ&トゥリンギ族が敵側背面へと突っ込むよりもローマ軍の新戦線形成の方が早かった。ローマ軍第3列によって主力側面方向にカバーする鈎型陣形が構築され、突撃してきた相手を正面から迎え撃つ

 ヘルウェティイ軍はこの最後の勝機を逃すまいと踏ん張り、2方面の戦闘は激烈を極めた。彼らは長時間激戦を続けたがローマ軍の強固な戦列は崩れなかった。ローマ軍が耐えきり反撃を続けるとヘルウェティイ主力軍はついに抗しきれなくなり丘へと後退した。翼方向を攻めていたボイイ&トゥリンギ族部隊も敵第3列部隊を崩せず荷駄を集めてあった場所へと退かざるを得なくなった。戦場から撤退していった戦士たちにはカエサルの放った騎兵隊が現れ追撃を行った。

 この時点でヘルウェティイ軍は立て直す術を失っており敗北は決まったのだろう。更に荷駄集積地点に集まりまだ抵抗を続ける部隊へと完全なトドメをさしにローマ軍は前進をしてくる。それでも諸部族の戦士たちは執念を見せた戦いぶりを見せた。なぜなら財産や家族まですぐ傍の荷車の付近にいたからだ。カエサルはこの戦闘を次のように記している。

 「戦いは正午から夕方まで続いたが、敵は終始激しく応戦し、逃亡する者など1人も見られなかった。荷物があった地点では戦闘は夜更けにまで及んだ。」

 荷駄集積地点にある荷車を連ねて障壁とし、攻め入ろうとするローマ兵に対し隙間から長短の槍を浴びせたのである。ローマ軍はここで多数の兵士が死傷したという。
 しかし長い戦いの末ついに彼らは倒れ、ローマ軍が陣地を奪取した。ローマ軍の勝利の時が訪れたのである。
battle of bibracte_3

 ヘルウェティイ族は多くの死傷者を出しただけでなく荷物の大半を喪失し、更に荷車の所に一緒に連れて来ていた家族の一部が捕虜となった。その中には指導者オルゲトリクスの娘と息子も含まれていた。それでもローマ側へ与えた損害は軽いものではなく、カエサルは負傷者の手当てや戦死者の埋葬のためにそれ以上の追撃を行うことができなかった。

 カエサルは敵が補給に苦しめられることを理解しており、会戦後すぐに周辺諸部族にヘルウェティイ族へ穀物も援助も与えてはならず背いた場合は敵とみなすと圧力をかけておいた。これにより会戦での大敗に加え荷駄を喪失し物資に窮したことが致命的となり、ヘルウェティイ族はついに降伏したのであった。
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【ビブラクテの戦い_ディオ_ローマ史の記述】

 戦闘推移はカエサルの『ガリア戦記』が最も詳しく載っているため大半をそれに依拠したが、ディオの『ローマ史』にも少し違う書き方がされているため参考とした。以下にはビブラクテの戦いの該当箇所英語版の翻訳を行ったものを載せておく。

ディオ『ローマ史』第38巻第33節
 (略:記事末尾に移す

【別説_左側背への攻撃】

 ビブラクテの戦いは大別すると2つの戦術的推移が提唱されている。全体の流れは同じだがヘルウェティイ族の後続が攻撃して来た方向が右側か左後背かでわかれる。これはローマ軍の前進方向がどちらかわからないために発生している。上述の流れは右側面を狙われたという解釈である。
 もう1つは下図のように、ローマ軍が前進する(初期R-R線→前進時r-r線)に従ってヘルウェティイは左側にある山林へ後退した(初期H-H線→h-h線)と考えるケースである。この場合、ヘルウェティイのキャンプ及び後続の到着はローマ軍の左側背の方角になる。すると、図ほど真後ろ挟撃状態かはともかく、第3列が方向転換し新たに戦闘を開始したのはb-b線のようになる。
bibracte_別説map3

 どちらのケースにせよ、ローマ軍の対応コンセプトは同じである。後列の動かせる部隊を抽出方向転換することで新たな戦線を作成し、敵の包囲攻撃に対し側面や背面を無防備に晒されないようにした。ヘルウェティイ連合軍は側面攻撃部隊も主力対峙部隊もどちらもレギオンへの正面攻撃をすることになった。もしどちらかの部隊がローマ軍部隊を突破または押していくことができれば、ローマ軍全体を殲滅することができた。だが全体で見て包囲形であろうと、結局の所(少なくとも主攻箇所は)目の前の敵を圧倒することが必要になる。
 防御側の視点に於いて鈎型陣形とは、全体で見て包囲されていようと、側面担当といったレベルの戦闘部隊の視点で見ると『敵の正面攻撃』に対処するようにする戦術的概念である。
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 正直な所、再現された図のように整然とした隊列形状となったとは思っていない。事前に準備していたならともかくローマ軍は緊急対応で鈎型陣形を展開しており、戦闘が進むにつれ更に歪になっただろう。軍事概念としての鉤型陣形において、形状は重要ではない。重要なのはその性質が発揮する「敵に我の側背面を晒さない」という効果の方である。

 もう1つカエサル麾下ローマ軍ガリア戦役での戦いを例として短く記す。その戦例は形状としてはかなり乱れており鈎型は薄っすらと見えるだけである。しかし側背面を脅威に晒されたローマ軍の翼部隊がその正面方向を転換し抵抗ができるようになった明確な証言が残されている。

前57年_サビス川の戦い

 ビブラクテの戦いはガリア戦役での最初期の会戦の1つであり、カエサルも兵士達も戦闘経験あれどまだ熟達とは言えなかった。しかし戦い続けるにつれ彼らは次第にその力を向上させていくことになる。前57年のサビス川の戦いはまだ戦役序盤であるが多くの成長が見られた。
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 ローマ軍の行軍列は各軍団間に輜重隊の長い列があり、更に先頭軍団が到着しても残りの軍団はまだまだ後方にある位置関係だとベルガエ人たち(ネルウィイ、ウィロマンドゥイ、アトレバテス族)は内通者から聞いた。そこでローマ軍を逆茂木などで仮補強した陣地でローマ軍先頭を防ぎその間に後方にいる輜重隊を襲おうと計画を立てた。だが実際のローマ軍行軍順序は騎兵部隊が先行しそこに歩兵6個軍団が続き、最後に輜重はまとめて後方に残し新規2個軍団が護衛にあたるという方式だった。なので敵が陣地設営に入った所に襲撃をしかけたベルガエ連合軍はローマの6個軍団との大規模会戦へ没入することになってしまった。

 ローマ騎兵隊がネルウィイ族の先鋒と対決している間にも、周りの多くの場所からネルウィイ族の兵士達が現れる。計画通りとはいかなかったものの急襲にはなったので敵軍はいつものまとまりが無かった。カエサルは忙しく、武器をとるようラッパを吹き鳴らさせ、食料等を調達に散らばった部隊を呼び戻し、警戒して陣地完成まで留まらせておいた各軍団に戦闘隊形を組むよう指示を出した。
 成長したローマ軍は「上からの指示が無くても、各兵士が自分の為すべき事を自分で判断できるようになっていた」し、更に「各指揮官も敵の急接近を確認すると自らの判断で適時に適切な行動をとった」。(カエサル,第2巻20節)故に、柔軟かつ迅速にネルウィイ族の襲撃に対処することができた。
 ネルウィイ族はそれでも優位な始め方をした。敵兵の一部は標章をつける余裕は愚か盾や兜をとる暇も無く所属部隊の軍旗を探すこともできず、最初に見つけた軍旗の所で戦うような混乱ぶりだった。ローマ軍は「正規の編成や用兵をするのではなく、むしろ状況に応じた展開をしていた。それぞれの場所で独自のやり方で応戦していた。」(カエサル,第2巻22節)

【ベルガエ軍中央と右翼の攻撃とラビエヌスの迎撃及び逆襲】

サビス川の戦いmap8
 ローマ軍の各軍団の位置関係は、全体の左翼に第9と第10軍団がおりこれをラビエヌスが率いていた。中央よりに第8と第11軍団がおり既に戦闘に入っている。右翼には第7、第12軍団がいた。各軍団事態もそうだが軍団同士で整然とした戦列配置を構築することなどまるでできずばらけていた。
 一方でベルガエ側は右翼にアトレバテス族部隊、中央にウィロマンドゥイ族、そして左翼に主力のネルウィイ族の大軍が位置していた。

 ベルガエ人達は川を渡り果敢に攻めかけた。だが敵は完全な準備では無かったにも関わらず頑強に抵抗をしてきた。中央ウィロマンドゥイ族は一度丘へ登ったが押し返されていき河までさがることになった。
 右翼のアトレバテス族部隊も同様に前進して敵陣に接近するも、ラビエヌス率いる第10軍団や第9軍団によって撃退されてしまった。この会戦においてラビエヌスは卓越した手腕を見せることになる。
Section_battle of Sabis

 右翼アトレバテス族の戦士たちは急襲のために川を渡り丘を登ったが、代償として走り疲れ息が切れていた。そこを第9、第10軍団は待ち構え投槍を浴びせかけた。ラビエヌスは迎撃し敵の勢いを止めると逆襲に転じ、一気にアトレバテス族を川へ追い落とした。アトレバテス族は損害を出しながらも一旦退いて立て直そうとしていた。その渡河中を第9、第10軍団は狙い追い討ちをかけ、戦果を大きく拡張した。
 ベルガエ軍右翼は大きく下がることになったが、それでもアトレバテスの戦士たちはまだ抵抗を続けた。今度はローマ兵が川を渡って丘を登ることになる番だ。だがラビエヌスはためらうことなく軍団を前進継続させた。この追撃のテンポはアトレバテス族軍に立ち直る隙を与えなかった。ついにアトレバテス族は完全な敗走に移り、ベルガエ軍右翼は崩壊した。
Battle of Sabis_ラビエヌスの迎撃成功サビス川の戦いmap9

【ネルウィイ族の左翼の包囲攻撃を巡る攻防】

 右翼の窮状とは裏腹に、ベルガエ軍左翼のネルウィイ族は圧倒的なまでの優勢で進んでいた。対峙したローマ軍右翼は第7、第12軍団が担っていたが、大きなスペースができておりほとんど無防備に陣地を晒す箇所すらあった。ここに主力であるネルウィイの大軍が殺到した。
 ネルウィイ族の戦士たちは途中でローマ軍の騎兵隊に出会ったが、騎兵隊は別の方向へ退却していった。そうして一部の兵が丘の頂上にあるローマ軍陣地まで到達したのである。ローマ軍の軍夫や輜重と共にやって来た者達は逃げ出し混乱がローマ陣地に訪れた。

 ネルウィイ族の各兵士は丘を登り敵第7、第12軍団に激しい攻撃を行った。ローマ軍右翼の各部隊は周りに隙ができている状態で押されていき、おそらく恐怖もあり、あまりに密集し過ぎてしまった。ネルウィイ軍は次々とローマの百人隊長を討ち取り、旗手を殺し、第4大隊ではレギオンの誇りたる軍旗すら喪失させた。後列の一部のローマ兵は逃亡の気配すら見せていた。
 ネルウィイの戦士たちは次々と丘を駆け上がり、対面する敵の正面と翼から迫った。敵に支援部隊が駆け付けてくる気配は見えなかった。彼らはローマ軍右翼の軍団を危機的状況まで追い込んだのである。

 そんな時だった。ローマ軍総司令官が第12軍団の所に現れる。カエサルはこの危機の真っただ中に入り込み、最前線で兵士を激励し、一人一人の百人隊長の名を呼び指示を出した。密集しすぎて戦い辛い状況を見極めると、前進することでスペースを作るように命令する。これらによって第12軍団は崩壊寸前で耐え続けた。
 続いて総司令官は同じく右翼の第7軍団に指示を出しに向かう。第7軍団は第12軍団の近くにいたがやはりここでもネルウィイ族側が押していた。側背をとれる状況になっておりもう少しで包囲が形になっていただろう。だがそれよりローマ軍総司令官の大隊長たちへの命令の方が早かった。その命令とは、右翼端の第7軍団が少しずつ兵を集結させて、そして『方向を転換し』敵に相対するように、というものだった。この命令を実行したローマ軍右翼は『相互に支援し合う形』になり、背後を敵に囲まれる恐れが無くなった。これにより各兵士は果敢に応戦し始めた。ネルウィイ族軍はあと一歩を崩せない。更に輜重を護衛していた2個軍団も報告を受けて急いで迫ってきており、心的プレッシャーがかかっていた。彼らは急ぎ崩そうと必死に闘う。だがその時、ネルウィイ族部隊の後背にローマの軍団が現れたのである。

【敵後方横断からの反対側翼への挟撃】

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 ベルガエ軍左翼の背後をとったのはローマ第10軍団であった。対極にあたるローマ軍左翼にいた第10軍団の出現はネルウィイ族にとって驚き以外の何物でもなかっただろう。
 この少し前に、左翼の第10軍団はベルガエ軍右翼を連続的に攻撃して完全に機能喪失させ、敵陣の丘を奪取していた。この高所からラビエヌスは右翼の友軍が危機に陥っているのを観測した。そして独断で直ちに第10軍団を救援に差し向けたのだ。このマニューバは大胆にも、一番遠い自軍左翼から敵陣中央を横断し対極の右翼へ向かうことで、敵左翼の背後を突くというものだ。第10軍団の兵士達は逃亡者すら出てる味方の窮地を察知し急速で駆ける。そして敵左翼の後背を奇襲したのである。
 この瞬間、戦況はあらゆる意味で一変した。包囲しかけていたベルガエ軍左翼ネルウィイ族は逆包囲され、完全に挟撃を受けていた。それを見たローマ右翼の士気は急激に回復する。負傷者は立ち上がり、逃走者たちは戻ってきて汚名をはらそうと奮戦する。

 既に勝敗は決まっていた。それでも、絶望的状況の中であっても、ネルウィイ族の戦士たちは闘うことをやめなかった。前の者が倒れるとその屍の上に次の列の戦史が乗り上がり戦い、これも倒れていき死体の山ができると、その山の上から飛び道具を放ち、槍を投げた。カエサルすらこれに驚嘆した。
 「彼らが大きな川を渡り、高い土手を越え、不利な位置であろうと進撃して来たのは、こうした勇敢さ故に他ならない。その大いなる胆力をもって、彼らはこれまで数々の困難を克服してきたのである。」(カエサル,第2巻27節)

 ネルウィイ族の戦士たちは闘い抜き、そして死んでいった。これほどの個人的武勇を有する戦士たちでも、この戦術的戦況を覆すことはできなかった。サビス川の戦いは終わり、ベルガエ人連合は崩壊した。膨大な死傷者を出し、残ったネルウィイの人々は降伏した。ローマ軍総司令官はこれを受け入れ、彼らの身を保護しただけでなく、領土や町を従来通り使うことを認め、更に近隣諸部族にはネルウィイ族に対して危害を加えることを禁じたのであった。

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以上で鉤型陣形の性質を紹介するための2会戦の推移記述を終える。

ビブラクテとサビス川の所感

 ラビエヌスが独断で行ったマニューバは極めて優れたものであった。全く敵に立ち直る隙を与えない連続的な攻撃で対面を崩壊させると、そこで目の前の敵に近視眼的になるのでなく一度戦況全体を観察した。そして全体にとって最も必要な位置への攻撃、即ち左翼や中央への攻撃ではなく最も遠い反対側の右翼への増援に、それも最も効果的で危険な敵陣横断によって敵左翼後背を突くように動いた。当然だがこれは自軍側を通る駆け付け方よりリスクも難易度も高く、そして効果も高い。この翼を崩した部隊が中央ではなく反対側の翼へと後ろから駆け付けるマニューバは、戦史上同じものがいくつかあるが多いとは言えない戦術である。これは別稿で複数戦例を挙げ、説明することとする。

 率直に言って、ガリア戦役序盤における勝利はラビエヌスの手腕にかなり依拠していた。総司令官としてのカエサルも兵卒たちもまだ経験が足りておらず、そして急激な成長の途上であった。カエサルはいきなり神がかった指揮をした戦術家などではなかったし、そしてそれを自覚し信頼のおける部下を見出し頼っていた。戦術的判断力とは別の才覚の価値を彼は示してくれている。この2会戦では接敵段階も含め、カエサルは圧倒的な能力と言えるほどの指揮は見せていない。ガリア戦記には代わりにカエサル個人の勇敢さと激励がどれほど効果をもたらしたか書かれているが、カエサルの政治的宣伝の面があるためその箇所は詳しく記さなかった。
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 包囲の効果の一部がカエサルの証言に残されている。例えばその1つが包囲(またはその脅威)圧力によって被包囲下の兵士が過度に密集し、戦闘効率を低下させるというものがある。これは上述のサビス川の戦いで言及されている。包囲が進展し圧されれば集心的に密度が、戦闘組織上望まないほどに上昇し、しかも動くスペースが無い。それを解消するためには離心的に前進する必要がある。効率的に複数方向へ進むためにも鉤型は有効となる。カエサルの著作には明確に翼部隊の一部を方向転換させることと、それによって敵を正面に捉えて相対することで、包囲の危険に応急対処できたことが記録されている。
 
 ビブラクテでもサビス川でもローマ軍団はある側面を敵に取られ多角的な攻撃に晒されている。それにも関わらずローマ軍は耐え続け、包囲を仕掛けた方が消耗しきりついには逆襲を受け壊滅した。ローマ軍はカエサル麾下だけでなく、他の時代指揮官でもこの種の耐久戦闘を得意とした。マニプルスやコホルスのシステムを基盤にしていたためだ。結局の所、鈎型陣形と今回呼称した戦闘方式は、相手の動きに合わせて部隊をぶつけて耐久するという一般的行動の一形態だ。しっかりと耐え相手の疲労と損耗を待ち機を伺う戦術スタイルは、派手さはなくあまり礼賛を受けないかもしれない。しかしそれは堅実で素晴らしい戦闘方針であり、他の様々なマニューバと同等の価値を持っているのである。












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 以上です。ここまで長い文を読んで頂きありがとうございました。
今回は個々の戦史紹介でなく、鈎型陣形の軍事コンセプトの概略でした。もう少し深く各戦例を書きたくもありますが、長くなりすぎるため一旦ここで終わりとします。考察・別説等をご存知でしたら何卒よろしくお願い致します。

2020年9月6日 戦史の探求
https://twitter.com/noitarepootra


以下、上記の戦闘推移の際に省略した補足。

捕捉

【ブルディガラの戦いでのローマへの勝利】

 その戦歴の中には前107年のローマへの勝利も含まれていた。
 執政官ロンギヌス率いるローマ軍に対し、ヘルウェティイ含む諸部族は最初の会敵では打ち負かされてしまったが、ローマ軍はその際に彼らの置き去りにした荷車などの戦利品を漁るのに欲が出て追撃が遅れた。ヘルウェティイの支族を率いていた若きディウィコはこの間にブルディガラ町を要塞化した。敵ローマ軍が迂闊に行軍してきた所を伏撃、指揮官ロンギヌスを含み敵の大半を戦死させた。残存ローマ兵も撤退中に捕捉して追い詰めついに降伏させたのであった。この際に降伏を示すようにと槍を組んで作った門をローマ兵はくぐらされ屈辱を味わった。
 これから約50年後にもう一度ヘルウェティイ族はローマ軍と命運を賭けた戦いを行うことになる。前58年ビブラクテの戦いである。ディウィコは驚くほど長生きししかも元気があったようでこの戦いにも指導者の1人として交渉など精力的に活動している。彼は使節としてローマ陣営を訪れるとかつての勝利の思い出を語りながら自信に満ちた回答をした。けれども彼が知る由も無い事であったが、今度のローマ軍を率いていた者は過去の指揮官と一線を画していた。ガリア戦争においてヘルウェティイ族はユリウス・カエサルに最初期に立ちはだかった部族となったのである。

【移動】

 ヘルウェティイ族の住処はガリア南東部であったが、当時の指導者たちは西へと部族ごと移動してガリア全域への支配権を得ようと目論んでいたとローマ側は主張している。ヘルウェティイ族がともかく移動を開始したのは事実であり、その移動路の先にローマ属州端が含まれていたためカエサルが反応した。当然ではあるがヘルウェティイ族は移動した各地で略奪をしローマ属州だけでなく同盟部族も被害に遭うのでローマ軍が反応するのはわかりきっていたのだが、彼らはローマ軍をあまり恐れていなかったようだ。というのもガリア駐屯のローマ軍は僅か1個軍団であったからだ。

 だがカエサルはローマを即座に出立するとゲナウァ近郊へと強行軍で到着し、募兵をすると同時に橋を破壊して時間を稼ぐように矢継ぎ早に指示をだした。ヘルウェティイ族はカエサルに使者を送りローマ属州を害を及ぼすことなく通り過ぎることを誓い、通行許可を求めた。しかしカエサルはブルディガラの記録を知っており、彼らがローマに対し敵愾心を抱いておりしかも見下しているであろうと考え、その彼らがローマの支配地と民に危害を及ぼすことなく通るなど全く信用しなかった。ただカエサルは結論をだしても短慮にその意志を伝えはせず、使節団に対して検討の時間が必要であるので4月13日に再訪してくれと先延ばしの返答をした。これは兵の集結のためと防備増築のための時間稼ぎであった。
 ヘルウェティイ族はそれに気づかず待ってしまった。再訪問するとカエサルの拒絶を受けた。彼らは川を渡ろうとしたがローマ軍の防備の前に撃退されてしまった。仕方なく彼らは進路を変え、別部族と交渉しその領土を通過していった。ヘルウェティイ族はこれでローマとの戦いを避けたと思ったであろう。彼らの目指す先はサントニ族のいるガリア西南部であった。

 ここでカエサルはサントニ族のいる位置がローマ属州の穀倉地帯に近いことから、この敵対的部族が将来的に襲撃してくる(あるいは玉突きのように別部族が移動して荒らしに来る)ことを危惧しヘルウェティイ族を打ち倒すことを決意した。


【ビブラクテの戦い_ディオ_ローマ史の記述】

 戦闘推移はカエサルの『ガリア戦記』が最も詳しく載っているため大半をそれに依拠したが、ディオの『ローマ史』にも少し違う書き方がされているため参考とした。以下にはビブラクテの戦いの該当箇所英語版の翻訳を行ったものを載せておく。

ディオ『ローマ史』第38巻第33節
 「カエサル配下の騎兵隊が駆け自軍歩兵の遥か前方へ行き、敵の後衛へ軽い攻撃を仕掛けた。その敵(後衛)は彼らの騎兵を用いて耐えしのぎ、ローマ騎兵を撃退した。その結果(ヘルウェティイ族は)自信を持つようになり、そしてカエサルがこの打ち負かされたのを受け更に補給の欠乏が生まれていたが故にその道の外れにある町へと向かって逃げ出した、と考え過ぎてしまった。彼らはそのまま進むのをやめてカエサルの後を追いかけた。カエサルはこれを把握し、敵大軍による攻撃を受けるのを恐れて麾下の歩兵隊を高台へと急いで移動させ、各部隊が適切な配置へとつくまでの時間を騎兵隊を送り出して敵攻撃先鋒に耐えて時間を稼がせた。ヘルウェティイ族は再び彼らを撃退し散らすと、猛烈な突撃を発起し丘を真っすぐ進んでいった。その時カエサルが戦列を組んだ隷下部隊と共に突如としてその優位な位置から駆け下りた。彼ら(ヘルウェティイ族)は散らばっていたので、そう難しいことなく打ちのめすことができたのである。これら(の最初に丘を駆けあがった部隊)が追し返された後に別の集団が、すなわち大軍であり尚且つ急ぎで動いたが故に全員が同時には(戦場に)到着していなかったのでその(最初の)衝突に加わることができなかった者達が現れ、追撃をしていたローマ兵へとその後背を攻撃をした。彼らはローマ軍をある程度混乱へ陥れたものの、成果を上げることはできなかった。カエサルは(敵の)逃走者たちを騎兵隊に任せ、自身は重装部隊を連れてその敵別集団へと向きを変えた。そして彼らを打ち倒し、それから彼らが荷馬車の所へと一緒に逃げ出したので両方の集団を追いかけた。そこで彼らは強固な守備をこれらの荷馬車から構築したけれども、カエサルは再び彼らを打ち破ったのであった。(この敗戦の後)ヘルウェティイ族は2つの集団に別れた。1つはカエサルと和睦してかつて出立した故郷の地へと戻り、そこにある町を再建して暮らした。もう1方の者達は武装を放棄し降伏することを拒否し、かつてのふるさとへと戻ろうという考えを抱いてライン川に向かったのだが、その数は少なく敗戦の影響に苦しめられていたため、通る土地にいたローマの同盟部族によって容易に滅されたのだった。」
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【ディオ『ローマ史』第38巻第34節】
 「こういった具合がカエサルが闘った最初の戦であり、そして彼はこの始まりの後には黙ってはいなかった。その代わりに彼は己が望むことをし、そして同時に同盟部族の望むことにも便宜を図った。」


ビブラクテの戦いの側面攻撃方向
2008年出版の中倉玄喜(訳)『新訳 ガリア戦記』のp.136では「わが軍の右側を衝き」と書かれているが何を基に原文から変更したのか不明。該当箇所は第1巻第25節後半部分でありラテン語テキストは次のようになる。
Capto monte et succedentibus nostris, Boi et Tulingi, qui hominum milibus circiter XV agmen hostium claudebant et novissimis praesidio erant, ex itinere nostros ab latere aperto adgressi circumvenire, et id conspicati Helvetii, qui in montem sese receperant, rursus instare et proelium redintegrare coeperunt.
このローマ軍主力への側面攻撃については右側なのか左側なのかは研究者たちの間で意見が分かれており、右側面説で描いた図も左側面説で描いた図も存在している。ほとんどの文献がexposed flank(露出した側面)であり右か左かは確定させられていない。



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サビス川とビブラクテの戦いの参考文献
カエサル, ヒルティウス, "ガリア戦記", 英語版W.A. MacDevitt and W.S. Bohn (1869)、
カエサル, ヒルティウス, "ガリア戦記",ラテン語版
カエサル,『新訳 ガリア戦記』,  中倉玄喜(訳)(2008) 
ディオ, "ローマ史", 第38巻

Kate Gilliver, (2014), "Caesar's Gallic Wars 58–50 BC"
Theodore Ayrault Dodge, (1892), "Caesar A History Of The Art Of War Among The Romans Down To The End Vol I"
Ross Cowan, (2007), "Roman Battle Tactics 109BC-AD313"
Catherine M. Gilliver, (1973), "The Roman Art of War : Theory and Practice"
Sara Elise Phang, (2008), "Roman Military Service : Ideologies of Discipline in the Late Republic and Early Principate"
Ilkka Syvanne, (2009), "The Campaign and Battle of Sambre in 57 BC"
J. E. Lendon, (1999), "The Rhetoric of Combat: Greek Military Theory and Roman Culture in Julius Caesar's Battle Descriptions"
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https://www.despertaferro-ediciones.com/2020/la-batalla-de-honnecourt-1642-tercios/

【メモ】
米海兵隊の作戦教範Marine Corps Operations(MCDP1-0)2001年版

ロシア語の右/左 鈎型陣形
уступом вправо (влево)
中国語:钩形阵