本稿は1977年にソ連で主に高級将校向けに作成された書籍『戦車の打撃:大祖国戦争の記録に基づく、方面軍の攻勢作戦における戦車軍』の第4章の抜粋試訳を中心にし、幾つかの補足を入れる。
添付4_戦車軍の戦闘作戦

 本研究記録は、大規模な通常戦とは攻勢側に甚大な被害を伴うということを明示している。この損失量は、大半が1944年以降の作戦においてであり、ソ連が明確に巨大な戦力的優位性をドイツに対して有してからの時期において実施され、そして『成功した攻勢』の中で発生しているのだ。突破口形成済み箇所への投入をされた部隊より更に、突破口形成をする部隊は強固な抵抗にあいながら任務をやり遂げる。そこには膨大な兵士の血と壊れた車両を踏み越える以外の道などなく、それを前提とした上で作戦を立案し、戦争を開始しなければならない。具体的には主に、機甲車両の大量損失が勝敗関係なく発生するため、それを補う計画と体制を整える必要性を実戦例に基づき訴えている。燃料弾薬の第3項、人的損失補充の第4項については別途作成する。
___以下、本文_________________________________________

第4章 序文

 独ソ戦での方面軍が実施した攻勢作戦の中で、戦車軍は方面軍攻勢の作戦的縦深で戦闘作戦を実行した。敵は強力で卓越した技量を有していた。時に戦車軍は他の諸兵科連合軍から離れ独立して戦闘し、そして重い損失に苦しんだ。
 人的損失について、軍レベルで最大10~15%(※これは戦力差が拡大した1944年以降。1943年後半期攻勢は20~30%。第4項に後述)、軍団または旅団では最大40~50%、大隊では70~80%にまで達することがあった。大半の事例で、戦車軍は人的および装備の深刻な不足に苦しみながらも、作戦を継続し敵を打破した。

 攻勢作戦における戦車軍の実戦経験の研究は、この数年間の戦争中にはありとあらゆる措置がとられ、何よりも高い士気を保ち、兵士の戦闘能力を維持しそして回復させたことを明らかにした。

第1項:重い損失を受け限られた戦力となった状況下での戦車軍の方策

 1943後半~1944の攻勢期において、戦車軍は重い損失を出した時でも攻勢を継続する必要性を迫られたことがあった。この中で軍および統制機関は様々な方策を探し求めた。

 一時的に戦闘能力を回復させるための方策の1つとして、ある種の独立した戦術的タスクを実行可能なだけの能力を備えた独立混成部隊(統合分遣隊)を作るというものがあった。
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 【例1
 ベルゴロド=ハリコフ作戦の結果として、敵を追撃しドニエプル川まで到達するに好条件の状況が造られた。1943年8月27日、ステップ方面軍コーネフ司令官は敵をハリコフから南西方向へ押し戻すために第5親衛戦車軍を第5親衛軍と共に配備した。この時までに第5親衛戦車軍の情報に基づくと、彼らは稼働可能の戦車を僅か66輌しか持っていなかった。これは本来持っているべき数の12%である。将校は30~35%を下回っており、通信機器の損失は甚大で75%だった。中隊と大隊の指揮官の85%は行動不能だった。
 このような状況下で、第5親衛戦車軍ロトミストロフ司令官は決断を下し、残る戦車と人員を各軍団内にある1個旅団に配備し、彼らを砲兵で増強することで軍の独立混成部隊とし、第5機械化軍団司令部のスクヴォルツォフ司令官の指揮下に置いた。この司令部は最も高い比率で人員及び通信機を持っていたからだ。第18戦車軍団の有する3個戦車旅団から、1個の混成旅団が創設され、第181戦車旅団司令部の統制が移換された。この旅団は55%の戦車をまだ持っており、殆ど完璧に旅団司令部の機能を失っていなかったからだ。この種の混成旅団は第29戦車軍団の各部隊からも編成された。残る部隊は集積エリアへ後退して再編を行った。
 結果、これらの措置を施したが故に、第5親衛戦車軍の指揮官は2つのタスク、即ち対面する敵が集結するのを打ち負かすこと、そして自軍の戦闘能力の再編を軍の残る部隊で行うことを成し遂げたのだ。

(※訳者注:ただし本作戦は予定より進展が遅く、ドイツ軍の抵抗に非常に苦しんだ。
 このコーネフ麾下ステップ方面軍の攻勢は
ポルタヴァ=クレメンチュグ作戦と呼ばれ、他にヴァトゥーティンのヴォロネジ方面軍によるスムイ=プリルキ作戦、ロコソフスキーの中央方面軍によるチェルニヒウ=プリピャチ作戦という計3個方面軍同時作戦をジューコフが統括して行ったチェルニヒウ=ポルタヴァ戦略攻勢の一部である。コーネフとヴァトゥーティンは参謀本部の計画より遅れたが、ロコソフスキーは予定を上回る高速進撃を見せた。)
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 【例2
 ベルゴロド=ハリコフ作戦の直後の拡張期間に置いて第1戦車軍(ヴォロネジ方面軍によるスムイ=プリルキ作戦)はいくらか違う状況だった。第5親衛戦車軍に比べれば高い充足率だったのだ。8月23日時点で、第6戦車軍団、第31戦車軍団、第3機械化軍団は早計141輌の戦車を有していた。従って、単一の独立混成部隊を創設する必要はなかった。ただし軍のいくつかの部隊は低い人的および装備充足率だった。第31戦車軍団所属の第242戦車旅団は有する戦車の80%、人員は65%を失っていた。第6戦車軍団の第6自動車化歩兵旅団において将兵は7~10%程度しか残っておらず、第3機械化軍団は指揮人員の90%を喪失していた。
 更に言うと、第1戦車軍は方面軍司令官によって非常に重大な任務を課されることになっており、攻勢の拡張を第4、第6、第27親衛軍と共に、彼らの前方派遣部隊(※forward detachment、ソ連の縦深作戦コンセプト上重要で特殊な先遣隊)として実行しなければならず、最低でも3個編制を維持することが必要だったからだ。この時点で、第1戦車軍のいくつかの旅団は全く戦車が不足しており、軍司令官カトゥコフは独立混成軍団を作ることを決定した。軍団の組織管理を改善するため、戦闘準備が不可能の部隊を解散し、彼らを費やすことで新部隊を強化した。この独立混成隊は、隷下の部隊数を減らすことと引き換えに高い戦闘能力を回復した編制から構成されており、低い編制への移換もされていた。例えば第3機械化軍団が有していた5個旅団の内、2個(戦車と自動車化歩兵)が維持され、残りは大隊へ移換された。司令部は第1戦車旅団と第3自動車化歩兵旅団のものによって遂行された。他の旅団司令部は混成大隊として各々の戦闘作戦を遂行した。
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 【例3
 コルスン包囲作戦で、第2戦車軍は独立混成隊を創設するために奇妙な状況に直面することになった。1月27日、防御線を突破したソ連兵を阻止しようとして敵は4個戦車師団及び2個歩兵師団で打撃して来た。2月4日、6個戦車師団による戦車の破門槌を敵は構築し、再び逆襲を発起して来た。多くの損失を出しながらも我が方の防御に穴をあけた。この状況は、ソ連側に追加戦力を即時投入する必要性をもたらした。第2戦車軍はその時まだ再補給を完了していなかったが、敵突破箇所へ投入されることになった。160輌少々の稼働戦車を有していたが、各軍団の司令部はまだ40~50%程度の完了率だった。
 戦線の困難な状況は彼らが新たな場所に到着次第戦闘へと部隊を投入することを強いた。軍司令官バグダノフの決断により、大いなる独立性を持ち多段階管理を無くすために、独立混成部隊が編成された。
 (略)

 上述の諸事例から、アクティブな任務をこなすための独立混成部隊は必須の措置であり、以前の戦闘の損失が故に現有戦力が限られ作戦的状況が困難な時に実施されたことが明らかとなった。そういった独立部隊編成の目的は、編制の有する戦闘能率の回復であり、それは戦術的独立部隊として扱われ、指揮系統上の中間を取り除いて新たな司令形態を作ることによって(または以前の指揮系統を基幹とし)統制を改善し、固有のタスクを果たせる能力を得ることである。

 (略)

 結論として、独立混成(統合分遣)部隊の編成に関する主な指針は以下のようになる。
・幾つかの隷下部隊の各残存を統合し、途絶しない統制下におくことを基調としながら人員及び装備を最も戦闘能力を最大化できるよう単一の混成編制へと移し替えることである。
損失が最も小さかった部隊についてはその組織の全体性を維持すること。必要ならばその独立混成部隊が編成された組織と参謀構成は抜本的に見直しすることもできた。この場合、戦闘作戦を確実にできる部隊の構成を含んでいることが特に重要になった。

 従って各戦車軍の経験に基づき、戦中の独立混成部隊は、戦闘能力を失ったか有していなかったか或いは指揮統制組織が量的及び質的にその時まで足りていなかった隷下各部隊から構築される一時的な編制だった。だが、通常と比べればそれらは限定的な戦闘能力であったにもかかわらず、これらの暫定的編制はある程度の独立したアクティブな諸任務を達成することができた。その任務には攻勢中に追撃または敵予備の逆襲を撃退すること、敵防御縦深での重要目標または進出線を確保すること、その他様々なものが含まれている。ベルゴロ=ハリコフ作戦やコルスン=シェフチェンコ作戦、及びウクライナ左岸の敵を追撃する際に課された各任務を達成した事実によって、独立混成部隊が効果を発揮する可能性があることは証明されている。

 独立混成部隊の編成と活動における指揮の特異性は、基本的にその指揮主体がずっと専任の参謀を有していなかったこと、そして通信機器の不足が深刻だったことにある。例えば1943年8月27日、第5親衛戦車軍の野外管理において、元来有していた数値からすると無線機は23%、移動通信機器は26%しか持っていなかった。指揮官と参謀の活動の難しさは、独立混成部隊の構築と並行して、各戦闘作戦を統制し、そして人員の整理改変のために部隊を集合地点に連れて行かねばならなかったという事実にも表されている。これらをまとめて行うために、通常の状況よりも指揮官と参謀は猛烈に働かねばならず、より広範なイニシアチブの発揮を求められたのである。
 そのような状況で指揮と統制の組織の回復は、多様な手法によって実行された。
 第5親衛戦車軍において独立混成部隊を作った時、第5親衛機械化軍団の司令部が統制に移換されたし、第18及び第29戦車軍団から2個のハイパワー無線局と3個のミディアムパワー無線局が渡された。軍団の作戦および情報科は、軍司令部内の同部局にいた参謀人員によって補強された。

 (略)

 第2戦車軍において、独立混成部隊の指揮と統制を回復させるために取られた措置は、旅団から大隊へとコンバートされた部隊に、軍団が有する戦車旅団の内の1つの司令部をそのまま再配置したことである。それに伴い、自走砲連隊と幾つかのその他部隊は以前は軍の直接的隷下にあったが、第11戦車旅団の司令部の直下へと移換された。このそのまま移管するやり方が独立混成部隊の指揮と統制を構築するために最もシンプルで早いのは明らかであるが、それがいつも認可されたわけではない
 一般的に、戦闘能力及び指揮主体の回復のためにとられた措置は、それを実施するのに許された時間、統制手段、そして司令部の人員配分の程度によって決められた。
 戦闘任務の実施における統制は通常通りのやり方がとられたが、指揮所の組織構成だけはいくつか異なるやり方があった。例えば第5親衛戦車軍は、主指揮所に加えて、各独立混成部隊の動きを統制する1つの運用グループが設置された(※軍の主司令所→軍団 + 軍の主司令所→軍の特別運用指揮所→混成旅団の2統制)。一方で第1戦車軍の場合、単一の指揮所が維持されそこから各軍団の統制をとった(※軍→軍団→旅団の1統制の流れを維持)。さらに第2戦車軍の場合、その指揮所から有する全ての独立混成部隊を直接指揮した(※軍→軍団 + 軍→混成旅団)。1つ目の例では、軍指揮官は1個独立混成部隊をその特務部を通して管理した。2つ目の例では、3個の戦車軍団での統制をとることが、諸兵科連合部隊への迅速で組織化された再配属を可能とした。

 (略)

 戦車軍の戦闘能力を回復させるため、指揮と統制の主体がどのような活動をしたかの分析は、限られた戦力しかない状態で戦闘作戦を遂行する緊急的必要性を求められた状況下で、混成編制を設けることが確かな効果をあげたことを明示している。

第2項:軍装備のリカバリー

 戦車軍の戦闘能力を維持するための措置全体の中で、軍事装備の復旧は最たるものである。部隊への新たな装備による補充は作戦準備期間中および作戦的長期停止中に大部分が為されたという事実によって、(戦闘中に新品の補充は少ないということがわかり、戦闘中は今ある機材の)修理作業が非常に重大だったことが見て取れる。戦闘中、工場からの戦車の到着は極めて稀な事象だった。従って、損傷した機甲車両の復旧こそが戦車損失の補充源として最も重大だった。例えばリヴォフ=サンドミール作戦における第3親衛戦車軍の補修に関して述べると、戦車及び自走砲の修理された数は、作戦開始時にこの戦車軍が有していた使用可能な戦闘車両の数を大きく上回っていた。言い換えると、戦車(又は自走砲)は1つの作戦中に各々が2~3回は活動不能になり、そして同じ数だけその部隊の戦闘編制へと戻って来たのだ。(※表25参照。作戦開始時の車両数を基準とすると、作戦中に修理復旧された車両数は115%~221%に達した。復旧不可能車両を考慮をすること。)
 各戦車軍が行った11の攻勢作戦での戦車損失データ分析(添付4及び5)は、思慮すべき問題に関し多くの重大な点を示してくれている。

《 添付 表4: WW2での諸作戦で各戦車軍が有した戦車及び自走砲車両の総損失率及び平均1日損失率 》
添付4_戦車軍の戦闘作戦


《 添付 表5: WW2での諸作戦で各戦車軍が有した戦車及び自走砲車両の総損失の内訳 》
添付5_戦車軍の戦闘作戦


 第1に、単一の攻勢作戦は平均15~20日間続き、そこで各戦車軍の戦車及び自走砲の初期保有数から算出した復旧不能の損失は約25%に達し、復旧可能分も合わせた全般損失は82%に及ぶ。初期保有車両数から見て、1日当たりの損失数は平均して5%少々の値だ。そのうち重度損傷による補修を要するものは1日平均0.6%、中度および軽度(即興)損傷修理は1日平均約3%発生することがあった。(※修理不可能+重度損傷は2.3%)

 第2に、後送して復旧作業を行われなければならない戦闘車両数は総損失の内70%に達した。修理車両の内約70%が戦闘損傷により落後したものであり、残りの30%は機械的不具合及び立ち往生である。幾つかの作戦において、技術的問題が落後した原因の63.8%に達したものもある。(独ソ戦ではないが満州作戦での第6親衛戦車軍。)

 第3に、戦車及び自走砲の戦闘損失の度合いは、全ての期間を通して一定だったわけではないということだ。損失度合いは多くの要素が関り、主にその軍が実施する行動の性質、作戦の烈度、対戦車兵器及び即応可能戦車乗員を有する敵防御がどれだけ飽和状態にあるかに影響された。
 故に、戦術的防御区域の突破を完成させるために投入された軍では、突破口完成済み状態と呼ばれる場所へと投入された軍と比べると、損失が1日平均0.7~3.8%上回っていた。
・前者の例:ベルゴロド=ハリコフ作戦およびベルリン作戦での第1親衛戦車軍、オリョール作戦及びベルリン作戦での第2親衛戦車軍
・後者の例:ルブリン=ブレスト作戦での第2戦車軍

 ( ※訳者補足:ソ連の軍事理論上すでに「戦車軍」は突破口が切り開かれた所にタイムリーに投入すべしとなっていたが、1943年夏秋~1944年冬にかけての期間、実際には第1梯団の諸兵科連合軍が戦力不足だったので戦車軍が戦術的区域突破口の形成に投入されたことがいくつも見られた。突破口を完成させるための戦術的区域内への投入と、突破口完成済み(чистый прорыв)であり投入目的が完全に作戦縦深への突進である場合をソ連軍は区別していた。[参考文献:著A.ラジエスキー,  "突破口への戦車軍の投入", ソ連軍事史ジャーナル, 1976年 第2号 ] )

 損失の性質とは次の事象に大きく影響される。
・その軍によって何の任務を達成するか
・どのような方法か
・どれだけの期間か
・戦力集中原則がどの程度守られたか

 従って、添付4から見て取れるように、戦車及び自走砲の最大絶対損失数が発生したのがベルゴロド=ハリコフ作戦であるのは偶然の一致ではないのだ。そこでは第1戦車軍は敵防御の突破を完成させるために参画しなければならなかったのであり、強化地点を攻略し、敵戦車集団の強烈な逆襲を撃退せねばならなかった。同様にプロスクーロフ=チェルノフツィ作戦(カメネツ=ポドリスキー包囲戦)でも1か月以上に渡り継続した作戦だった。更に言うと、両事例において戦車軍は実質的に同時ではなく、尚且つ複数のパーツでばらばらに戦闘に投入された。結果として、単一の強力なる戦車襲撃ではなく、多くの戦車を有する幾つかの襲撃へとその行動は縮小されたのである。これはまた、最大の平均日当たり損失がオリョール作戦における第2戦車軍で記録されたという事象も説明してくれている。

 データにより証拠が残されているように、膨大な損失があり、軍は作戦第1段階において苦しんだ。例えば第3親衛戦車軍のリヴォフ=サンドミール作戦での戦車及び自走砲の日当たり平均損失は7%なのだが、第1段階(1944年7月15~18日)においては8.6%に達し、第3段階(1944年7月28日~8月29日)では6.3%まで減少した。おおよそ同様の事象がヴィスワ=オーデル攻勢およびその他幾つかの作戦で確認できる。

 最も高い損失は市街戦を実施した際に発生した。例としては、第3戦車軍が1943年1月にハリコフを取りに行った際、379輌の戦車を有していたが、市街戦後の撤退時には98輌だけになっていた。

 戦闘損失の内訳は次の分布となった。(表23参照)
58.8~94.8%=敵砲撃により発生
・0.5~17.7%  =航空からの攻撃
・2~14%        =対戦車地雷の爆発
・最大24%     =パンツァーファウスト

 更にソ連地上軍の各攻勢作戦で、1944年の1年間において敵砲撃によってもたらされた戦車及び自走砲の復旧不可損失数は全損傷車両の内の16%を占め、1944年後半期でみると成形炸薬弾とパンツァーファウストによるものは30~80%に増大した。統計データに基づくと戦車及び自走砲の敵砲撃による損失は、成形炸薬弾が用いられた場合次の分布となった。
復旧不可能な損傷=最大30%
・重度修理必要損傷=最大15%
・中度修理必要損傷=最大25%
・軽度修理可能損傷=最大30%

(※訳注:2008年出版"戦いの中のパンツァーファウスト«Фаустники» в бою"の第5章に同じ文と表が載っているが、著者は補足としてパンツァーファウストは作戦の戦闘が開始された期間において最も戦果を挙げたとし、この兵器の戦果の作戦期間平均と比べると作戦初期は2~3倍の戦果発生率だとしている。)
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 損失した車両の種別はその全数から見ると以下の数値まで達する場合があった。
戦車=最大45%
・自走砲=最大39%

 回復不可能な損失を最も多く出したものは、各々が以下の数値まで達することがあった。
・中戦車=最大39%
・重戦車=最大31%
・自走砲=最大20%

 幾つかの技術的原因で戦車及び自走砲は故障した。
・自然発生摩耗による=最大67%
・操作の低技能による=最大35%
・工場生産時のミス =最大25%

 上述の統計は我々に、投入された際の条件と機甲部隊の戦闘運用の性質次第で損失の指標の大半が影響されるという警鐘を再びもたらしてくれている。信頼できる制圧射撃、戦車と歩兵の統合された行動工兵部隊、技術的支援を受けるために必要な時間を得ること、整備士の腕前、といった要素が作戦における損失低減に貢献してくれる。

≪ 表23:戦車軍の攻勢作戦における戦車及び自走砲の戦闘損失分布 ≫
表23_戦車軍の戦闘作戦

 WW2での記録が示しているのは、作戦準備期間に戦闘車両の最低でも60%が、そして攻勢中に85~90%が補修のおかげで到着していたということだ。つまり、戦車及び自走砲の修理復元こそが損失補填のための主な源泉だったのだ。こういった状況下において、戦車技術支援要員は2つの主要タスクを課されていた。戦闘車両の修理復元と、予防措置の実施である。主目的は技術的に生存性を増大させることだった。これは、ソビエト兵士と後方部隊の労働者各人の英雄的行動、敵の状態、そこにある特殊状況などに影響されながら、あらゆる指導機関の膨大な組織的作業によって、達成されたのだ。

 基本的には、作戦の技術的支援計画は軍司令官その任務を受領した瞬間から開始され、軍司令部を補佐する技術科へと渡された。彼らの作業は次のものを含んでいた。
・技術支援計画の開発と決定
・修理方法と後送業務の準備
・物資の正しい運用を行うための組織的措置

 テクニカルな範囲に関する司令部補佐の意思決定は次の計算に基づいて行われていた。
・予想される損失数
・資材の面で復旧に必要とされる費用
・使用できる生産能力
・修理のため必要とされている増援数、部隊数、スペアパーツ

 技術支援の組織的業務は殆ど常に継続して実施され、特にその戦車軍が予備配置へ入った初日から広く展開された。この期間において戦車軍内では、全力で修理及び復旧人員と機材を尽くし、そして戦車乗員は今ある資材から最速で使っていくよう指示された。整備士には特別講習が開かれ、特殊な状況下で機械稼働の知識をより増やしていった。故障を特定し低減するために、スケジュール化された予防検査の中で、全ての戦車及び自走砲が対象となるように調整された。同時に次の事項も組織された。
・技術支援の知見に関する共有
・車両作業を行う乗員の訓練
・その作戦域の特性と与えられた時間を考慮に入れた上で、技術の質的向上
・補修の再補給と部隊の後送
・機器の修理
・その他

 各措置の効果は実例により証明されている。例えば第4親衛戦車軍では工兵大佐V.M.チャピシェフの指揮下で200輌以上の戦闘車両がベルリン作戦の前日までに復旧された。第1戦車軍ではベルゴロド=ハリコフ作戦の前日までに1215輌が修理された。

 各パーツ物資が準備できた場合、整備士は高い技能と工夫を示してくれた。故にWW2最後の作戦の準備において、第1親衛戦車軍の修理及び復旧大隊(工兵中佐A.A.シャボーヒン指揮)の兵士と将校は機知に富み工夫を凝らし、例えばトラック・ピンを直接作ってくれた。彼らは適切なサイズと品質の金属を見つけ出し、手作業で変形させたのだった。全部で3万本のピンが作成され、その結果作戦開始時に、全ての戦車でその箇所の交換ができた。加えて20ピースのスペアも備えれた。ヴィスワ=オーデル作戦での第2親衛戦車軍の事例でも見事な工夫が見られた。霜の兆候があったので、戦車乗員は課題に取り組むことになった。如何にして戦闘即応戦を冬季環境下で維持するのか、温めるために燃料を使い続けるのをせずに如何にエンジンをすぐに稼働できるようにしておくのか、である。第12親衛戦車軍団ではこれらの問題は非常に迅速に解決された。戦車壕の隣に冬季用ボックスを備え付けておいたのだ。冬季用ボックスとは、側壁を補強し上部を丸太で覆い降下入口は藁で織られたカーテンで閉じられる深い壕のことだ。冬季用ボックスの中に停車したT-34戦車の下に暖房機器を置き、戦車内を8~12℃の良好な温度に保ちすぐにエンジンをかけられるようにした。この掘り下げられたボックスから出て戦闘用塹壕へ移る時が来たら、その戦車は撃つことも前進し攻撃を実行することもできたのだった。これらの構造物は来る攻勢へ必要な燃料消費の節約へ貢献したのだった。

 作戦中、修理及び後送用の様々なパーツの使用順序及び活用方法は、その戦車部隊により実施される作戦の特性、縦深、期間と速さ、構成そして技術的条件によって決定された。戦車の損傷と故障の性質に応じて、修理作業の量と複雑性は3種類(軽度即興修理、中度、重度)に分けられ、それぞれが異なった資材と整備環境を必要とするものだった。

 機甲編制のための技術支援小隊及び中隊は、ルーティン的な修理を遂行し各装甲車両に従事している乗員を補助するよう企図されている。必須のチューニング、固定、溶接、その他機械作業を行うようになったのと同様に、各機構や機器の損傷したパーツを交換することによるトラブルシューティングがあり、この最も多いタイプの修理は減少した。これらの部隊のおかげで、短期補修で充分な機械の大半が、その落伍した場所で直接的に復活したのだった。属する部隊から離れてしまわないように修理部隊は一所に長く留まらず移動した。

 軍団修理部隊移動式戦車修理基地)は、作戦区域を前進しながら中度修理を実施した。その場所で損傷または摩耗した部隊と戦車の部品が交換された。残りの部隊と火器は技術的状態、調整必要性、信頼性のチェックを受けた。中度修理タイプは定期総点検中、予備として用いることもできる。この移動式戦車修理基地は軽度修理もやることができ、機甲編制内の修理部隊が遂行する時間が無い時に代わりにしてくれる。攻勢期間中、戦車及び機械化軍団の修理施設は機能不全車両集積場(СПАМ)の作業の大半を行う。

※訳注:1つのСПАМには同じ担当の修理チームがおり、入れ替わりや増強はあったが、スパムナンバーとはある種の修理後送部隊のナンバーを事実上示す。例えば後送中隊指揮官ドルマトビッチ氏は1941~1944年に第100スパムへ勤務し、北西地域の各地を移動していった。1つの機能不全車両集積場の担当者であったが、地図座標上の同じ場所に勤務していたのではない。後述の図にスパムが移動していることが示されている。
https://www.moypolk.ru/soldier/shlyakov-fedor-dolmatovich


 戦車軍の修理用機械は作戦初日には展開されない。しかし中隊の後送に伴い彼らはその技術的能力を機能し始める。その後、戦闘の進展の中で彼らは主に中度修理を必要とする戦車を復旧する。かなりの頻度で軍直下修理大隊と後送部隊は、各編制を強化するための1つの手段として用いられた。例えば第5親衛戦車軍の東プロイセン作戦がある。軍修理及び後送部隊の分散的な活用は、主に前進が比較的低速で激しい戦闘に従事した時に実施され、或いは軍の各編制が各自の方向にかなりの距離を前進した時になされた。
 各部隊の修理能力の分配は第4戦車軍のヴィスワ=オーデル作戦のデータにより裏付けられている。各旅団によって648輌の戦車及び自走砲が修理され、各軍団では150輌が、そして軍によって171輌が直されたのである。

 戦車軍が戦闘を開始した時および作戦的縦深で行動をしている時、全ての修理部隊機能は活動中の各部隊の近くへと移動させるべきである。戦闘部隊がその日のタスクが完了し集結エリアへ入った時に、修理部隊もしばしば同じ所に配置された。それは可能ではあったのだが、ただし攻勢前進率が1日15~20kmの範囲にある時だけできたのであった。

 部隊の前進率の急激な増大は、WW2最終期の構成作戦の特徴でもあり、技術支援に関する一度は受容された組織体制を改定することを迫った。修理部隊の数も含み、後方で蓄積をしてしまっていたので、(高速前進中には)以前に確立された修理部隊運用手順は良い結果をもたらすことができなかった。軍の有する全ての修理及び後送手段を中央統制型にする必要があったのだ。

 これが実行されたのは例えば1945年1~2月の第1親衛戦車軍の攻勢期間に、軍修理大隊、軍団移動式戦車修理基地が設けられ、さらに常備の2つの軍後送施設及び2つの機能不全車両集積場が後送及び修理グループとして創られた。この期間における修理及び後送手段の活用に関する幾つかの考えが、表24に示されるデータから読み解ける。

 各機能不全車両集積場は1つの地点で3~16日間、戦車及び自走砲を修理や後送し(てから次の地点へ移動し)た。この計40日間で、彼らは227輌の戦闘車両を修理し、356輌を検査して故障を減少させ、それによって各戦闘車両に高水準の戦闘能力を保たせたのである。

 原則として、戦車軍の軍事評議会の決定に基づき軍技術科(第1親衛戦車軍)指揮官補佐のП. Г. Дынера技術少将が提案し、きたる戦闘を考慮すると、以下の変更をこれまでの戦車技術支援システムに行うこととなった。
・全ての中度修理は軍修理部隊に任せられる。
・軍団修理部隊は各編制から撤退して軍へと移ること。彼らは軽度修理タスクを任ぜられる。
・大隊/旅団修理部隊は軽度修理タスクを免除され、行う義務があるのはメンテナンスのみとする。

 (※ 軍事史ジャーナル1967年第4号КАРПЕНКОの論考にこの箇所は詳しく書かれている。速過ぎてかつ複数方向へ分散すると、無理について行こうとする修理部隊と連絡途絶したりカバーできない車両が放置される。修理部隊が取り残されたり、そのための護衛を残さなければならないなどの効率性低下をもたらす。第2親衛戦車軍のヴィスワ=オーデル作戦がその実例。よって軍がまとめて管理するほうが良いとなった。)

《 表24:1945年1~2月の第1戦車軍における修理及び後送の活用記録 》
表24_戦車軍の戦闘作戦
図_スパムの移動

(※訳者追加 図:上述の期間のスパムが実際に移動した地点 出典:ソ連軍事史ジャーナル1967年第4号p.20


 この作戦中、機能不全車両集積地点は軍団攻勢主軸上で40~50kmごとに展開された。それらは各々次の事項を備えていた。
・1個戦車修理中隊
・1個機械作業小隊
・後送用トラクター
・スペアパーツ積載車両
・燃料
・通信および偵察用の軽車両
彼らは一所に最大6~9日間駐留しすることが可能であり、なのでここに集積された全ての戦車修理業務が完了するまでに、行動中の部隊からは150㎞かそれ以上も離れることがあった。(※2つのスパムが交互に追い越すように前進している。修理部隊には高い移動力があることが望ましい。)

 この修理部隊運用方法のおかげで、戦車軍は戦闘中に修理対象となった殆ど全ての機甲車両を復旧し業務に復帰させることができた。車体修理基地の業務管理の中央統制化は、修理済み車両を前線業務に戻す組織もシンプルにしてくれた。充分な技術的補助とメンテナンスを受けた後に、5~10個のグループがそれらを各部隊に向け送った。その結果1945年2月1日時点で戦車及び自走砲は(第1親衛戦車軍が)書類上保有していた758輌のうち577輌つまり76%が前線で可動状態になれていたのだ。

 修理部隊のスペシャリスト化は、損傷した軍用車両の迅速な復帰を組織的に行うために重大な役割を果たした。専門化のおかげで修理技能も向上し、作業の生産性と質も改善された。1943年に編成されてから、移動式の戦車集合修理工場は方面軍後方区域において直接的に膨大な数の戦車エンジン、機器、部品を直してくれた。このおかげで軍装備修理の実践にとって、最も先進的な集合修理手法を広く導入するための必要な環境が創れたのだ。

 故障または損傷した部品を稼働するものに交換することによる修理も実施され、各車両が修理のために停留していなければならない時間を劇的に減少させたし、エンジンやその他部品の高水準な修理のために複雑な技術機器を全ての部隊が扱えなければならないというわけではなくなった。結果として、軍事領域で運用される修理部隊の移動性は向上し、野外修理はシンプルになり、生産能力も増大させれたのである。
 WW2において修理部隊の専門化が極めて広範に行われたことはしっかりと覚えておくべきである。移動式修理工場、修理部隊、軍および軍団に属する個々の修理旅団の再編を経て達成された。それは限られた時間で高い品質の修理業務を為し遂げるために貢献してくれた。例えばヴィスワ=オーデル作戦期間での戦車修理に特化した第152移動式戦車修理基地は、一時的に第2親衛戦車軍へ従属し、そのおかげで限られたスペアパーツ/専用機器/器具を分散することなく迅速に軍事機器を復旧することができ、修理に集中することができた。
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 攻勢作戦中に戦闘車両を迅速に復旧し、戦車編制の有する高い戦闘能力を維持できるかどうかは、修理/後送部隊との継続的かつ密接な連携にかかっている。例えば損傷車両集積地点での部品の修理作業の場合、損傷車両を探したり損傷車両の場所へと修理チームが向かう(或いはより生産性があったり機器が使用可能な修理プロセスへ移動する)無駄な時間が減るので、戦車がそこに待機することになる期間が大きく減少した。この場合、復旧のために集中した機材や資金を防護する組織よりやりやすくなりもした。特に第2親衛戦車軍の指揮官補佐Н.П. Юшинは、1945年の全ての作戦において上述の原則に基づいて戦車技術業務を組織するという結論に達した。
 けれども機能不全車両集積場にある戦車を修理するその巨大な利点にもかかわらず、戦力の急速な前進や沼沢地帯での作戦などでは、難しい準備作業と計画時間の消費に後送が影響された場合、損傷機器の一部しかそこで修理されず、特に戦闘車両は多くの作業が必要になることはなかった。なぜなら追加で、メンテナンスのプロセス中に解っている部分の修理が実行されていたからだ。なのでヴィスワ=オーデル作戦での第4親衛戦車軍の修理部隊による739輌の軽度修理の内、380輌はメンテナンス期間中に実施されていた。
 
 戦車編制が戦闘即応性を保つ上で重要なのが、特に作戦区域の特殊条件(樹木の茂った沼沢地、山岳、砂漠地帯)での攻勢中に、軍用備品を適切に組織化して運用することだ。そういった難しい環境下での作戦例として第5親衛戦車軍がベラルーシ作戦での前進した際の事例がある。戦車は樹木茂る沼沢地や砂地を克服せねばならず、更に道路を外れて作戦行動を執り、極めて高い進撃速度、数日間は60km/日に達する前進率を出さねばならなかった。業務時間は最短に抑えられた。7月中旬までに、燃料消費量は900~1300km分に達し、エンジンの稼働時間は160~170時間にもなった。落伍車両が増大し、特に重度なものが機械的理由で発生した。うち幾つかは、エンジンとシャーシそのものを交換しなければならなかったのだ。こういった状況下で、方面軍司令官の決定により第5親衛戦車軍には7月10日~15日うちの数日間を戦闘車両のメンテナンス及び修理に割り当て、そして全ての機器と兵器を順に運搬したのだった。
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 技術的観点の偵察を行う事もまた問題を解決する上で少なからず重要なものだった。1944~1945年の第1親衛戦車軍の諸作戦の経験に裏付けられている。戦車軍の機能不全車両集積場からの機甲修理/補給/後送に関連する全ての将校は技術偵察に参加した。8~10個のグループが作られ車で移動した。
 各エリアの技術偵察は半径25~30kmの範囲内で実施された。戦闘車両が立ち往生してしまう所を特定し、さらに損傷の性質も見極め、そのおかげで後送及び修理部隊のより効率的な運用と予期される後送及び修理にかかる待機時間の削減を可能にした。

 多くのその他の組織的措置も実施され、それらは作戦中の技術支援に貢献した。
 例えば1944年夏の第2親衛戦車軍において、修理及び後送に関し追加が必要になることが判明した。廃棄措置をとられた敵戦車や鹵獲トラクターがあったが故に、軍団の移動式戦車修理基地に3~4輌の戦車(牽引車)で構成される複数の後送小隊が設けられた。人員の技術訓練は改善していった。ルブリン=ブレスト作戦開始までに、425人のドライバーが様々なカテゴリーに割り当てられた。第1親衛戦車軍のヴィスワ=オーデル作戦準備期間においては、32人のマスタークラス、70人の1級、151人の2級ドライバーが訓練された。軍司令官の決定により、攻勢中に歩兵部隊の人員から追加で技術支援業務部隊に割り当てられることがあり、例えば第3親衛戦車軍はそうしていた。その他活動も計画された。
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 作戦中に、準備期間と同様に、戦闘兵員かつ修理人員である者達は英雄的な多くの活躍を見せてくれた。彼らの仕事は利他的であり、直面する各課題を解決する独創的なアプローチをしてくれた。
 大縦深へ高速で攻勢を行ったことで知られるヴィスワ=オーデル作戦中に、メンテナンスを組織化する際の難題が浮かび上がった。T-34のTO-2メンテナンス(технического обслуживания №2)には最低でも12時間かかったのだが、そのような時間を作業員に与えることができないと判明していた。そこで第49親衛戦車旅団では、工兵中佐С.Г. Каракодовが分解技術点検を2~3時間いくつかの段階で実施する事を提案した。これはかなり大変な作業だと判明したのだが、それでも良い結果をもたらしてくれた。すぐにこの経験は全軍に共有された。
 東ポメラニア作戦では、同旅団にいた若き戦車修理工Орешкинはコルスン=シェフチェンコ作戦から既に軍でキャリアを積んでいたのだが、この作戦でも素晴らしい活躍を見せた。ザメンティン村近郊でマトヴェーエフ中尉の車両が第1戦車中隊の一部として活動している際に損傷してしまった。戦車は動けなくなったが闘いを続け、砲と機関銃を撃ち続けた。ナチス軍はそのT-34に激しく火力を集中した。そばに後送する車両がなかったのでその戦車はもはや救いようがないように思えた。だがそこで技術科の中隊副指揮官Орешкин中尉に率いられた修理工が救助に現れたのだ。敵射撃が続く中、損傷個所の修理を迅速に成し遂げ、その戦車は攻撃を再開できたのだった。(※修理人員が最前線のしかも戦闘中の場所へ駆けつけ、後送プロセスを省くパターン。)これは闘いの生涯を過ごす戦車と自走砲たちのために如何に技術作業員が英雄的行動をしたかの実例だ。この戦闘の功績で、Орешкинは2つ目の勲章を授与され、後にベルリン作戦で3つ目を授与された。
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 広範に技術支援措置は良い結果をもたらしてくれた。ヴィスワ=オーデル作戦での第1親衛戦車軍においてそれは特徴的であり、技術的原因で105輌の戦車が行動不能になり、そして東ポメラニア作戦では40輌が(付け加えるとベルゴロド=ハリコフ作戦では334輌、プロスクーロフ=チェルノフツィー作戦では263輌が)動けなくなったのである。各戦車軍が遂行した13個の作戦結果に基づくと1日平均の戦車復旧数は1943年には13~25輌だったのが、1945年には22~28輌に増大した。(表25参照)

《 表25:攻勢作戦中の戦車軍の車両修理実績 》
表25_戦車軍の戦闘作戦

 資材を維持することは結果として部隊の戦闘能力を維持することに繋がり、そのために各戦車軍の人員が素晴らしい仕事を成し遂げた証左は、作戦中に定期大規模修理へと行く前に幾らかの戦闘車両がエンジン保証期間を超えてもなお活動を続けたことに示されている。例えば1945年1~2月の第2親衛戦車軍のデータに基づいている。(表26参照)

《 表26:1945年1~2月第2親衛戦車軍におけるエンジン保証期間を超過して活動した戦車及び自走砲数 》
表26_戦車軍の戦闘作戦
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 作戦中の機器復旧の管理は、機甲修理及び補給統制作戦グループから送られる技術科の指揮官補佐により実施された。技術科は頻繁に軍司令所の所に設置され、一方で機甲修理及び補給統制作戦グループは軍野戦統制における第2梯団の所に置かれた。隷下部隊との連絡は、主に移動可能の手段によって実施された。ヴィスワ=オーデル作戦とベルリン作戦だけは特別な無線網または指揮官ネットワークを通して連絡が行われた。可能なときはいつでも、情報は有線通信ラインを通して受領された。

 攻勢中の技術支援を管理するための主な活動とは何か、戦闘記録が示しているのは次の事項である。
・各機器状態に関するデータ収集
・各部隊へのタスク設定
・修理及び後送業務のパーツの手配
・部隊の戦闘能力をメンテナンス及び復旧するための諸問題のモニタリングと補助
 最後の措置は1944~1945年の諸作戦での第2親衛戦車軍の経験に基づいており、軍団及び旅団から提出される報告書の分析において、担当者がコンタクトをとって行われた。機器状態は毎日、各車両のモーター動力消費量と燃料及び潤滑油の残存使用可能量は5日に1回、運用や修理及び(機材)補給は1か月に1度の基準でモニタリングされていた。全体として、そういったレポートの定期性のおかげで情報が迅速に流れ、状況に応じた必要な決定をするという適応化ができたのである。

 よって、技術支援体制を組織し実施したWW2の諸記録は、戦車軍に行われた各措置が極めて効果的であり戦闘能力の維持及び復旧という目的に貢献したということを証明している。諸問題を解決するために各状況に合わせ独創的なアプローチが執られたことが重要であり、それによって更に進歩的な形態や手法そしてテクニックのやり方を見つけだすことを可能とした。結果として1944年の諸作戦の時点で既に技術支援における諸問題は成功裏に解決されていった。だからリヴォフ=サンドミール作戦で第1親衛戦車軍は損傷した戦車及び自走砲の80%を復旧できたのだ。1945年の諸作戦の頃には戦闘車両の復旧率は90%以上に到達していた。工場または戦場の現場で『復活せし』戦車たちの素晴らしい活躍を強く念押ししたい。軍事科学の博士号を持つИ.М.ゴルシェコ中将はWW2へ参画したが、その回顧録においてそれら復旧活動に関して特に愛情を込めて書いてくれている。
 戦車及び自走砲の復旧のための模範的なる作業を評価し、修理部隊の何千人もの兵士、下士官、士官が勲章を受け取ったのである。

第3項:物資(燃料および弾薬)の在庫基準

(続きます。長くなるため別記事に。)

第4項:人員の補充


(続きます。)







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訳者あとがき

 修理及び後送部隊は平時注目度の低さと裏腹に、戦場を(特に複数の連続した作戦を実行する上で)根本的に変化させる力を有している。しかも組織体制さえ整えばそれを安定してもたらしてくれる。修理及び後送部隊の個々の修練度、組織体制、規模を高水準にすることの重要性を実戦記録は証明している。戦線移動により修理/整備体制が整っていなかったため、満州攻勢作戦で落伍車両の内63%以上を故障が占めてしまうほどに跳ね上がったことはあまりにも鮮明にその効果を示している。現代の戦車/自走砲が備える機器の高性能複雑化は、WW2よりも短期修理可能範囲を減少させているかもしれない。それでも今なお膨大な影響を彼らは確実にもたらしてくれるだろう。
 しかし戦争前に修理後送へ予算配分を大規模にできる国はほぼ存在しない。現実的には開戦直前/後、組織の急激な拡大を求められる。動員は戦闘兵員だけでなく、こういった技術者を多数含んで計画されねばならず、軍用機材へ適応するための特別講習などによる短期間での習熟課程を構築しておく必要がある。演習や机上研究では、修理後送の技術的な問題とその解決策が戦場でどれだけどのようにでるかを特定しきるのは不可能であり、実戦経験での知見向上を経なければ1944~1945年の修理後送部隊のとてつもない水準は到達不可能だ。他国での戦争に自国兵器を送れる国は部分的に知見を追加できるだろう。
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 攻勢作戦には、一度始めた攻撃は前進した範囲を保持するべきであり、重い損失を出しても途中で元いた位置へ後退するのはできるだけ避けるべきという指針がある。これは落伍車両が原因の1つだ。今回明示されたように、車両は回収さえできればかなりの割合が復旧でき、また、戦闘以外でも移動時に技術または地形的問題で大量に落伍する。つまりある地域から後退すると、そこに残してきた軽度~中度損傷の車両まで復旧不可損失に事実上なってしまうので、部隊の戦闘能力の再編に著しい悪影響をもたらしてしまうのだ。もし後退せず戦線が維持できれば、全く戦力の再編度合いは変わってくる。防御側は、迎撃陣地の優位性を発揮している間は良いが、後退段階に移ると急激に損失の様態が変わる。これは現代戦でも追撃時に戦果が著しく増大する理由の1つであり、攻勢が守勢より望ましいと唱える者達の根拠の1つともなるだろう。逆に言えば、事前準備をし整然と実行される後退がもしできれば防御側はより連続した抵抗力を増大させられる。 
 いずれにせよ最前線上で出る損失だけでは連続した戦闘作戦の評価はできない。攻防両者の復旧率とその速度も考慮にいれる必要がある。
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 作戦が成功した時敵戦力が崩壊することを期待するだろうが、一方でどれだけの自軍損失を許容する前提で作戦を立案するか、これは非常に設定が難しい基準値だ。それを決めるための1つの要素が、攻勢中のテンポと作戦間のインターバルであり、これにより敵防御に態勢を立て直す時間を与えるか否かが決まる。突破口形成時に大きな損失を出すこともその重要性を証明している。
 しかし強力な個人携行兵器と仕掛けられた爆薬は少数でも足止めやが後方の妨害を効果的にできるようにした。都市化の進展は戦力を飲み込み易くし、更に問題を及ぼすようになった。今も昔も図上に描かれた作戦/戦術のマニューバと部隊記号のみでは、それを成し遂げるために兵士がどれほど苦しみ、機材が消耗していったかを真に語れることはない。鮮やかに素早く進撃が成功したように見える時も、内実は想定以上の大損害を受けている場合がある。逆に作戦途中で損失を減らす方を優先し、進撃速度とテンポを減らす場合もある。それは軍事戦略上の優先事項が作戦レベルの指揮官に適切に伝達共有されているか次第となるだろう。
 唯一敵が心的に打ち負かされ役割を放棄し逃走した場合のみ、目標地点へ損失極小かつ最速で辿り着ける。それすら、地理的な目標を達しても敵戦力が残存し各地へ散らばり、長期的な損失へ繋がる危険性に21世紀の米軍は直面することになった。『スマートな勝利』など現代戦に存在しない。
 独ソ戦後期における本データは、ソ連が戦訓を取り込み到った結論の1つの形を示している。20日前後を1つの攻勢作戦期間とし、その短期間に膨大な損失を出すことを許容してでも、大規模な進撃を成し遂げ敵防御を作戦的縦深に渡って粉砕し立て直させない方を選択した。彼らはより広い視野で考え、そちらの方がトータルで国家への損害が少ないと判断したのだ。更に作戦間インターバルの短縮と戦力回復速度の増大をするための体制を整備していた。それは単体の方面軍内で完結する作戦だけでなく、複数方面軍を組み合わせた戦略-作戦的攻勢において、より広大でハイテンポの連続作戦を生み出した。これは1人の天才的指揮官や発想のみでは決して成し遂げることができない、組織としての広範な整備の後に可能となった結果である。
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追記

 メモを追記していく。

Профессор генерал армии А. РАДЗИЕВСКИЙ "Военно-исторический журнал" №2, 1976 го