1944年ベラルーシ攻勢はソ連のWW2における軍事的発展の集大成と言える作戦だった。バグラチオン作戦とも言われるこの攻勢は複数の方面軍が同時的に攻撃をしかけ、連続で作戦行動し、そして作戦的縦深で連結するものだ。その計画と調整には作戦術の概念が大いに作用し、各国では様々な研究が為され続けている。

 この広大な作戦には膨大な分析事項があるのだが、その中でも特に話題にされるのが、ロコソフスキーが提唱したとされる『同時的な2方向主攻』である。
バグラチオン作戦の主軸を示した図
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 バグラチオン作戦立案の過程において、広く知られるエピソードは次のようなものだ。
 「スタフカや参謀本部、そして各方面軍司令官を交えて、バグラチオン作戦の主攻に関し様々な議論が為される中、ロコソフスキーは2つの主攻を同時的に発起することを提唱した。従来の戦理に従うなら1つの主攻とそれを支える助攻であるので、他の将軍たちは戦力の分散になる彼の提案に反対した。しかしロコソフスキーは頑として意見を曲げなかった。2度、ロコソフスキーをスタフカは呼び出し納得させようとしたが彼は譲らず、そして最後にスターリンが『実際に担当する方面軍指揮官がこれほどかたくなだということは、その攻勢はよく考え抜かれた末の判断なのだろう』と言ってロコソフスキー案を許可したのだった。」
 この逸話は2010~2012年にかけてロシアの放送局チャンネル1で作られた大祖国戦争戦史ドキュメンタリー『Великая война(英:Soviet Storm: World War II in the East)』の第11回にも採用されている。様々な英語文献でも、時には日本でも2つの主攻という言葉は使われており、それがロコソフスキーの発案だというエピソードはロシア内外に広く浸透している。
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 ただ、これに関して様々な誤認をしているケースを見ることがある。本稿はまずバグラチオン作戦における2つの主攻とは何かを記し、次にその立案過程における上述のロコソフスキーのエピソードの信憑性に疑念が投げかけられていることに関し近年の検証の一部を紹介する。

赤軍参謀本部の基本計画


 ベラルーシ攻勢における特に前半の段階の作戦コードネームとして、アントノフ(当時は赤軍参謀本部副参謀総長。戦後に参謀総長)が「バグラチオン」という言葉を1944年5月の覚書の中で使用した。[出典:ソ連参謀本部制作, バグラチオン作戦1944年6月23日~8月29日,   ボリューム1、パート1、第2項] 
 ※完成
後にソ連参謀本部軍学校にて使用された教材でもある。初版の完成年度不明。赤軍参謀本部時期かもしれないが、ソ連参謀本部時代に使用されているのは確実なため、ソ連参謀本部と記す。ハリソンにより英語化された。この書籍はグランツが2001年に英語化した別のソ連参謀本部によるバグラチオン作戦の解説資料”BELORUSSIA 1944”とは別のものである。グランツの翻訳資料は作戦が開始された後の流れについて記したものである。一方でハリソンが訳した方の参謀本部資料は作戦開始前の準備についての記述も多く、初期計画に関し詳細な説明が為されており、その上で実際の行動時にどう変化が生まれたのかがわかりやすい。

【フェイズ】

 ベラルーシ攻勢全体で参画した方面軍は北から順に以下のようになる。

 (第2バルト方面軍:イェレメンコ司令官)
 第1バルト方面軍:バグラミャン
 第3ベラルーシ方面軍:チャルニャホフスキー
 第2ベラルーシ方面軍:ザハロフ
 第1ベラルーシ方面軍:ロコソフスキー
 (第1ウクライナ方面軍:コーネフ)※後期のウクライナ→ポーランド方面。ベラルーシ域ではないが、連結した攻勢。

 ベラルーシ攻勢において、その計画全体のフェイズは最も広く見て2つに分けられる。(※作戦/戦術的にはもっと細かく段階性は分けられる。後述)ドイツ軍のベラルーシ突出部の戦力を殲滅する第1フェイズ(図の深赤色)、戦線が平坦になってからのベラルーシ両側のバルト海方面とウクライナ西端→ポーランドを含む更なる広正面一斉拡張の第2フェイズ(図の薄赤色)である。
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 第1フェイズに参加したのは、第1バルト(北端)、第3ベラルーシ(中央北側)、第2ベラルーシ(中央)、第1ベラルーシ(南端)の計4個方面軍である。基本的にバグラチオン作戦とはこの4個方面軍の行動が大半を占める。アントノフの覚書に記されるように、ベラルーシ突出部を除去するのが”バグラチオン”のゴールだったからだ。その後作戦的停止無しにベラルーシ攻勢は続けられ第2フェイズへ移った。(※第2フェイズではその両側に各々1個方面軍ずつが追加されたが、他の方面軍の活動を入れたり、逆にこれらは含めない場合もある。連動しているので一緒に考えるのが望ましい。また、パルチザンの調整された大規模活動をもう1つの作戦単位として追加するものがあり、これは赤軍参謀本部と似た考え方である。

 以下はこのベラルーシ攻勢前半期≒バグラチオン作戦として扱う。初期計画で参謀本部が考えていたバグラチオン作戦の縦深は250㎞、作戦期間45~50日間である。この数値からわかるように、ミンスク周辺までが最初の計画の到達目標ラインであった。この達成のために戦力として、77個歩兵師団、3個戦車軍団、1個機械化軍団、1個騎兵軍団が置かれ、更に予備として32個歩兵師団を用意するとされた。[同上]  ※よってこの総数は後期ベラルーシおよびポーランド序盤は含まれない。この総数というのは資料ごとにどの時期までを範囲とするかが違い、異なることが多い。

 (※ベラルーシ攻勢全体が遂行された結果を振り返った分析で、参謀本部は実際にどうなったかの段階を3つにわけられるとし、第1期を6月23日~7月4日の敵中央軍集団主力の撃滅とミンスクの奪取および次の拡張軸方向のための進展、第2期を7月5日~8月2日の攻勢拡張及び敵予備到着とその撃破そして東プロイセンとヴィスワ川への到達、第3期を8月3日~29日の敵作戦的逆襲の撃退及び各局地的攻勢作戦での進展、と記した。[ソ連参謀本部,  ボリューム2、序文]
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【全体コンセプト】

 バグラチオン作戦に関する赤軍参謀本部が戦争直後に作成した資料では、以下のように全体コンセプトが述べられている。
「複数方面軍でのベラルーシ作戦は、複数の強烈なる正面攻撃を複数の軸で発起し、連続して縦深での攻撃の拡張を、各軸が集心的になるように実施し、それによって作戦的縦深での敵主力の側面及び後背を突いて、敵戦力を包囲し撃滅することを狙うものとされた。」
[ソ連参謀本部,  ボリューム1、パート1、第2項]
 重要なのは、
複数方面軍(multi-front)での
同時的(simultaneously)な
複数軸攻撃(several axis)が
作戦的縦深(operational depth)で
集心的(converging)に
 拡張していくことだ。
 具体的に、参謀本部は「同時的に6つの区域に敵防御の突破を達成することを計画し、ヴィテブスクからバブルイスクまでの戦線に沿って全部で600㎞以上の幅で行う。」「作戦的な5方向の攻勢は、にどこが主攻の軸かを誤認させ、敵戦力を分散させ、そして敵防御を突破することを可能とするだろう。」と記している。[同上]
 バグラチオン作戦の初期目標であるミンスク、スウツク線への到達は、1943年10月に命じられた最高司令部からの命令に既にあった。失敗した1943末期~1944初期の各攻勢との違いは、各方面軍にはるかに多い戦力が一斉に与えられ、単一の作戦として協調行動をとるよう参謀本部にしっかりとした統一的計画があったことである。[ワルシュp.104]

 まさにソ連の広正面攻勢と縦深打撃、そしてそれらの集心的調整という面で作戦術の重要事項を網羅した見事な計画だった。注意すべきは、バグラチオン作戦全体コンセプトは包囲攻撃ではなく、幾つかの戦術的包囲を内包しながらも、作戦的には突出部先端への複数の正面打撃なことである。[ワルシュ, p.343] 参謀本部の計画解説からもわかるように、ミンスク域での敵包囲はあくまで手段の1つであり、目的は敵戦力の殲滅だ。戦術的包囲の他に、多数の正面攻撃と高速の縦深進撃を重視していた。
 作戦は管理上3つに段階性にわけることができる。突破口形成、作戦的当座目標の確保、作戦的縦深目標の達成である。当座目標が作戦的に浅い縦深での敵戦力の撃滅に置かれ、作戦レベルの突破口形成と事実上1つなぎの行動とされることが多く、参謀本部はこれをまとめて方面軍の当座(第1段階)目標とし、その後の作戦的縦深での拡張を順次的(第2段階)目標と呼んでいる。例えば第3ベラルーシ方面軍なら、「ヴィテブスク=オーシャの敵戦力の撃破に続いて、シャンノ=オーシャの線を奪取することを当座目標とする。それからの順次的目標としてボリソフ到達と第2ベラルーシ方面軍との接合による敵ボリソフ域集団の撃滅を狙い、べレジナ川西岸へ到達すること。」[ソ連参謀本部,  ボリューム1、パート1、第2項]

 第1ベラルーシ方面軍にスタフカが課した任務は、「その主力右翼集団をもって、バブルイスク域敵集団を撃滅し、それからプホヴィチ(Pukhovichi)=スウツク(Slutsk)=アシポヴィーチ(Osipovichi)の領域へ到達すること。」「プホヴィチ=スウツク=アシポヴィーチの領域へ到達することを目的とする攻勢の拡張を順次的に方面軍は行うこと。」「戦術的防御ゾーンの突破の成功を拡張するために機動集団を用いること。」
[同上]

 各方面軍要約すると次のようになる。

【第1バルト方面軍】
 ①当座目標:西部ドヴィナ川へと強襲しベシャンコーヴィチ域を奪取(第3ベ方面軍右翼と協働すること)。
 ②順次的目標:レペリ(Lepel)=シュヴェンチョニース(Svencionys)方向へと拡張し、ポラツク域から後退してきた敵集団を撃滅。

【第3ベラルーシ方面軍】
 ①当座目標:ヴィテブスク=オーシャの敵戦力の撃破に続いて、シャンノ=オーシャの線を奪取(第1バ方面軍左翼と協働すること)
 ②順次的目標:ボリソフ(Borisov)到達と第2ベラルーシ方面軍との接合による敵ボリソフ域集団の撃滅を狙い、べレジナ川(Berezina)西岸へ到達。

【第2ベラルーシ方面軍】
 ①当座目標:ドニエプル河へ到達し西岸へ橋頭保を確保(第3ベ左翼と協働すること)。
 ②順次的目標:その主力を用いてドニエプル河を押し越え、モギリョフ(Mogilev)を奪取し、それから攻勢をベレジノ(Berezino)=スミロヴィチ(Smilovichi)方向へと拡張。

【第1ベラルーシ方面軍】
 ①当座目標:バブルイスクの敵集団を撃滅し、バブルイスク、グルシャ(Glusha)、グルスク(Glusk)域を奪取。右翼の一部は第2ベ方面軍がモギリョフの敵を撃滅するのを補助すること。
 ②順次的目標:プホヴィチ、スウツク、アシポヴィーチの領域へ到達することを目的とする攻勢の拡張。[同上]

 「これを進めるために、スタフカが特に重要だと捉えていたのが、ヴィテブスク域とバブルイスク域に位置する、つまり敵戦力の両翼にあたる所にいる敵集団を撃破することであった。それから、3個のベラルーシ方面軍は敵中央軍集団主力を包囲し殲滅することとミンスクを解放することを目指し、ベラルーシの首都即ちミンスク方向へ向ける。」[同上]
_位置1

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 よくバグラチオン作戦について話す場で、このバグラチオン作戦全体のコンセプトである複数軸同時攻勢がロコソフスキーの言う複数主攻だと混同されてしまっているのだが、実際は別物の話である。

 ロコソフスキーの2つの主攻とは、あくまで彼の担当した『第1ベラルーシ方面軍の作戦の中で』攻撃軸を2つ同等に置いたことにある。方面軍指揮官が自部隊管轄内の計画に主導をなす普通の話だ。
 それは既に上述の参謀本部の全体コンセプトから読み解くことができる。敵を6つの防御区域に切り刻むために、『5つの攻撃軸を4個方面軍で』創生するという箇所だ。これは必ずどこかの方面軍が2つ以上の作戦的攻撃軸を持たねばならないことを意味する。そして、上記の各方面軍の順次的目標こそが基本指向軸を示しており、第1バルト方面軍のレペリ=シュヴェンチョニースのように他の方面軍は2つの地点つまり単一線で結べる方向軸を形成するよう命令が与えられているが、唯一第1ベラルーシ方面軍だけが、プホヴィチ、スウツク、アシポヴィーチという全く別の3地点、即ち軸を形成すると2つになるような命令となっている。これこそが2つの攻撃軸なのである。
 次章は第1ベラルーシ方面軍の作戦の説明へ移る。

第1ベラルーシ方面軍全体での右翼と左翼の2つの独立した指向軸

 これも2つの主軸の話に混乱をもたらしている要因なのだが、第1ベラルーシ方面軍が極めて巨大な戦線を担当していたことに留意する必要がある。ロコソフスキーが直前の時期に他の指揮官を凌ぐ手腕を見せたこともあり、参謀本部は議論の末彼に非常に重い任務を任せることにした。[ワルシュ(2009), pp.104~116]
 ※別稿作成すること。バグラチオン作戦直前の1943~1944前期ベラルーシ攻勢にソ連が失敗していることに関し、特にソコロフスキーの2つの失敗と戦後の地位に基づく隠蔽に関するワルシュの考察を参照。確かに
ソ連参謀本部の公刊戦史に詳細記述無し。回想録調査中。
 1944年初頭、ドイツ南方軍集団及び中央軍集団南端への攻勢が進展して突出したウクライナ方面の北端と、今回のベラルーシ方面の接合部を、分割せずに全てロコソフスキーに管理させたのである。実務として第1ベラルーシ方面軍はコーベリ市(現ウクライナ西北端)からブリピャチ湿地帯の広大な範囲をまたいで、バブルイスク市東のロガチョフ(現ベラルーシ東部中央)までを担当範囲とされたのだ。[ソ連参謀本部, , ボリューム1、パート2、第3項]
 これは同作戦に参加した他方面軍の管理戦線の3~5倍にあたる。
バグラチオン作戦の戦線
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 【※注釈】
 これもよく誤解されていることなのだが、方面軍とは戦力の量を表す単位ではない。作戦に沿って編成される部隊の名称である。ソ連の軍事学において方面軍を作戦レベルとしているが、単純に戦術的編制の足し算で一定値以上に達したものを方面軍と捉えるのは誤りである。方面軍はあくまで担当する作戦を遂行するための作戦レベルの管理をするためのものなので、その作戦内実次第で、兵数も戦線の長さも著しく変化させてよい。勿論シンプルに足していった結果として発生するテンプレートと呼ぶべき基準は存在するが、それは単なる机上の仮定計算のために使われるだけでありこだわるものではない。時に方面軍は、ドイツにおける軍単位より規模が小さく、時に遥かに巨大となる。例えば1943年7月、ロコソフスキーの中央方面軍はクルスクで71万1575人の兵数を持っていたが、1944年6月即ちバグラチオン作戦直前に彼の第1ベラルーシ方面軍は125万人に達した。1944年のこの作戦の赤軍にとっての鍵となる役割だったからだ。対照的に、1944年6月の第2ベラルーシ方面軍はちょうど30万人を超える程度の兵数だった。[ワルシュ(2009), pp.262~263] ※この数値は別説あり。
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 作戦の内実によって方面軍は著しく変化すると言っても、流石にバグラチオン作戦直前の第1ベラルーシ方面軍は異常だった。プリピャチ湿地帯を挟むことで通常の戦線より広く担当できるという理屈はわかるが、むしろ湿地帯と膨大な距離のせいで方面軍の左翼と右翼は真っ二つに分断されて、その管理を酷く困難にしていた。ただ、ベラルーシ攻勢が成功した直後に見えてくるポーランド、ワルシャワ奪取のためを考えると、ウクライナ北西端の戦力を管理下においたことは後に両翼攻撃の連携をよく取れることになる。単にもう1つ方面軍を増やしスタフカと参謀本部の業務を煩雑化するより、統合されていた方が良い結果になる。それには、巨大な戦線と複雑な縦深を采配する作戦指揮官の能力が優れていれば、という前提が必要になる。

 これにより戦線総延長約700㎞に及び、右翼の指向軸バブルイスク→バラナヴィーチ→ブレスト→ワルシャワと、もう1つ左翼の指向軸コーベリ→ヘウム→ルブリン→ワルシャワという2つの独立した攻勢軸をロコソフスキーは管理することになった。[Кардашов, 章Снова на Висле ] ※700kmはやや大きい数値?細かい屈曲もカウントか。直線なら550~620㎞。

 このようにバグラチオンにおいてこの右翼と左翼はそれぞれ独立して作戦行動をとることになるが、最終的にワルシャワという単一目標へ向けて収束的に進むという点で、非常に広範囲かつ長時間ではあるが、戦力の集結による両翼包囲攻撃を狙った従来の軍事理論通りのものである。この右翼左翼独立2軸も2つの主攻の話ではないのだ。
第1ベラルーシ方面軍の各軍

 赤軍参謀本部はベラルーシ攻勢を複数の段階に分けて計画しており、第1段階に第1ベラルーシ方面軍から参加するのは右翼=プリピャチ川北部の4個軍(第3、第48、第65、第28軍)とスタフカが送り出した予備戦力とした。[ソ連参謀本部, , ボリューム1、パート2、第3項]
 ※中央=プリピャチ湿地帯中央は第61軍
 ※左翼=ウクライナ北西端は第70軍、第47軍、第8親衛軍、第69軍、第2戦車軍

 この戦力で突破口形成に必要な打撃力を生み出すため、ロコソフスキーは中央の広大な範囲を第61軍にのみに任せ、右翼と左翼の狭い範囲に衝撃グループを2つ構築することにした。ただしバグラチオン作戦第1段階では右翼のみが完了され、当該期間では左翼の衝撃グループは構築開始された時期である。第1ベラルーシ方面軍は、バグラチオン作戦での作戦域(右翼)は幅240㎞、更に『主要衝撃グループ』と参謀本部に呼称された突破範囲は29㎞まで絞られていた。[ソ連参謀本部, , ボリューム1、パート2、第3項]
※この第1ベラルーシ方面軍右翼の攻勢幅240㎞という数値はグランツ訳の方の参謀本部資料でも同じく採択されている。p.19参照。
※ただし、突破範囲に関してグランツ翻訳の方は28㎞としている。p.53参照
 第1べ方面軍司令部はその有する戦力の大半をこの突破主軸に集中した。この右翼240㎞分でみると歩兵師団は62%、戦車及び自走砲は90%、野砲は93%、迫砲は63%が主軸に投入することにしたのである。[ソ連参謀本部, グランツ翻訳, p.53]

『2つの主攻』:右翼部隊に2つの離心的攻撃軸の設定

 今回テーマとなる2つの主攻とは、このプリピャチ湿地帯で分断された左翼と右翼の2つでの時期のズレた攻勢のことではない。なぜなら右翼がミンスク方面の攻撃を成功させ、且つBaranovichi線に到達した後に、初めて左翼は大規模な活動を行うからだ。[ソコロフ, 第9章] ベラルーシ攻勢前半期において、中央を極端に薄くするリスクを冒し、ロコソフスキーはスタフカに課せられた任務を達成するために右翼にその戦力の多くを集中させた。つまりバグラチオン作戦では右翼前進1つのみなのである。しかし、この攻勢は複数の方面軍同士で連携を取る必要があり、そのために右翼は複雑なマニューバを求められた。その中にあるのが2つの主攻である。

【2つの集心的攻撃軸の後の、2つの離心的攻撃軸による拡張】

 参謀本部の計画で与えられた順次的目標のプホヴィチ、スウツク、アシポヴィーチの3地点を地図上で見ると、アシポヴィーチはバブルイスクに最も近く、第1目標の包囲を達成した際に敵背面の進出域となるであろう付近から次に進む場所だ。ここから北北西のミンスクへ向かう途上にプホヴィチはある。それとは別に、バブルイスクから真っすぐ西へ進んだ方向にスウツクはある。つまり第1目標である防御線周辺に居る敵主力の撃滅をバブルイスク域への集心的攻撃(2つの攻撃軸がこの際も発生するが作戦レベルではバブルイスク1方向 ※詳細後述)で達した後、第2目標を達するため、バブルイスク→ミンスク方向と、バブルイスク→スウツク方向という完全に離心的な2つの攻撃軸を形成するのだ。
2つの主攻_2つの離心的攻撃

 参謀本部の全体計画で示されている様に、ミンスク方向こそが敵中央軍集団主力を包囲殲滅するための作戦的縦深での重要目標である。更に言えば、敵が離脱を試みるルートはドイツ本土への最短距離である北西方向なので、包囲における後背というべき位置を担当するのがベラルーシ戦線全体での左翼を担当する第1ベラルーシ方面軍によるミンスク突進なのである。敵を取り逃さぬために、この重要性は極めて大きい。
 一方でスウツク軸は、バグラチオン作戦での4個方面軍の攻勢全体では左外翼に該当する。ベラルーシ攻勢第1段階において、この進展はそれほど重要でないが、ベラルーシ西端そしてポーランドへ入る第2段階という位置づけにおいて、左翼との合流を果たすことになる方面軍全体の前進方向である。尚且つそれを連続的に行うためを考えると、突出部をミンスク部隊が形成してしまい両肩の除去のためにワンテンポ遅れるということを防ぎ、連続的攻勢の速度を作戦レベルで上昇させる位置づけとなる。スウツク→バラナヴィーチを確保することは、ミンスク周辺の敵退路を防ぐこと、そして何より敵が新たな防衛線を敷くのにバラナヴィーチが非常に有力であるため、それを前もって打破する必要があった。[ソコロフ, 第9章], [ワルシュ p.376]

 「方面軍は比較的浅い縦深における初動の割り当てを行い、その後、作戦の過程で順次的に行う攻勢の拡張はスタフカからの指示に従うものとする。」[ソ連参謀本部, , ボリューム1、パート1、第2項]という計画内容にあるように、スタフカが後半期の采配に多くの責任を負っていたのだが、ロコソフスキーが第1フェイズ実行段階でスウツク軸に相当な注力をしていることは、その視野の広さを伺わせる。ワルシュはこれを作戦的、戦略的意味での追撃重視として絶賛している。[ワルシュ p.377~379]

 本質的に、バグラチオン作戦は第1ベラルーシ方面軍に尋常ならざる重責を負わせていたことがこの2方向主攻の発生原因である。ミンスク方向の敵殲滅とスウツク→ワルシャワ方面への高速の進撃、その広大な両行動が著しく作戦-戦略レベルの状況を向上させるものだったのだ。従ってこの2つの攻撃は共にベラルーシ攻勢全体で見て非常に重大な価値を持ち、両方が達成すべき重要軸であった。故に、どちらかを助攻として1つの主攻にしたほうが戦術的に効果的でそして何より方面軍司令部にとって配分管理の優先付けができてより楽だったが、作戦レベルの意味合いを鑑みて2つの主攻という役割になったのである。
 もし従来の軍事コンセプトとロコソフスキーが呼んでいる主攻1つで他は助攻とするものなら、バブルイスク→ミンスクを主軸とし戦力配分を集中させ、スウツク軸は部隊を進ませるにしても相対的に小さく、もし敵の反撃が激しければそれ以上そちらにリソースを割くのではなくあくまで主軸優先とするものになるはずである。もしかするとそれでも、他の攻勢で実際に起きたように、攻勢の結果として最後に2方向の進出を両共に達成できたかもしれない。だがそれは結果論で「そとづら」だけを図面で見たときにそう見えるだけの話であり、内実は2つの主攻などではない。計画の段階で特に重視すべき基準点の設置において、そして遂行中の方面軍司令部の戦力及び補給配分の量とタイミングの決定のために、2つの主攻という考え方は1つの主攻と他の助攻とは決定的に異なる。これが重要なのだ。このために、ロコソフスキーは右翼戦力を第16航空軍含めて2等分し、どちらかを優先とするという基本指針を与えず、各軍には固定的な計画は押し付けず、イニシアチブを発揮することを奨励し、そしてそれらを最速の判断を下しながら管理することで柔軟性と迅速性の両方を達成したのである。

 『2つの主攻』とは、第1ベラルーシ方面軍の右翼において、当座目標への集心的攻撃を行う際に2つの攻撃軸のどちらかが停滞しても目的を達せられるようにした攻撃のことであり、そして順次的目標へ向かう段階において設定された、離心的2方向への戦力等分的かつ計画上の優先順位付けをしない同時進撃の話だったのだ。
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[※グランツ翻訳版参謀本部資料のp.9にある各方面軍の最も重要な攻撃軸に関する説明に置いて、バブルイスクを占拠した後に「この軸はbifurcate=2つに分かれてバブルイスク→ミンスク軸とバブルイスク→スウツク軸へと向かう。」と明確に記されている。2つの主攻を理解するならこの資料がもっとも要約が短くされているだろう。]

立案過程を巡るエピソード

 1980年にソ連でロコソフスキーの伝記を書いたカルダショフは、バグラチオンの1つ前の時期の計画議論を紹介している。ロコソフスキーが考えたのは己が第1ベラルーシ方面軍の左翼と右翼を用いて2段階の攻勢で、対峙する敵中央軍集団の西翼を粉砕する案である。具体的には、前提としてミンスク方面の敵を撃破するため右翼の戦力を増強する事とし、その上で左翼がまずは北上しブーク川(ポーランドとベラルーシ国境付近)東岸を確保する。これにより完全な遮断はできないが、ベラルーシのドイツ軍は後方が脅かされ動揺する。その次の段階で右翼と左翼は北方向に一斉攻撃に出る。左翼の西側面は第1段階で確保したブーク川が効率的な防御線になってくれる。広く深い楔を敵ベラルーシ防衛軍の南西に打ち込み、敵後方へ右翼左翼が前進、ベラルーシ全体を30日間で破綻させるというものだ。この案を最高司令部へ提議したが、ウクライナ突出部にいる左翼が北進しベラルーシ後方を遮断するには戦力が足りないということで、最終的に却下された。ただしその詳細で記されていた(右翼の)打撃方向と段階、連続作戦は参謀本部の後のベラルーシ攻勢計画に参考となったという[Кардашов, 章Снова на Висле ]
 この案はロコソフスキー回想録「兵士の義務」には書かれていない。興味深い案ではあるが、本稿は実際に遂行されたバグラチオン作戦の立案過程の検証に移ることとする。
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 上述の案が却下されたため、参謀本部の意向に沿って次の修正計画をロコソフスキーは5月11日までに提出した。[Кардашов, 章Снова на Висле ]
 ここからが問題の過程である。

【ロコソフスキーの証言】

 ロコソフスキーの回想録《兵士の義務》には、わざわざ1つの章がそのために割かれ、章題も「Оба удара — главные」つまり両方の打撃が主攻なのだと強く主張するものとなっている。以下に立案過程の該当箇所を抜粋翻訳する。(※この箇所はロコソフスキーがバグラチオン作戦20周年記念で軍事史ジャーナルに寄稿した解説とほぼ同じ。)

 「地形と敵状の研究をした結果、私は方面軍右翼で2つの攻撃を別個のセクターで発起するのが望ましいと確信した。第3軍と第48軍をもってロガチェフ域からバブルイスクそしてアシポヴィーチへ向かう。その一方で第65軍と第28軍をもってベレジナ川の南流域から出発し、スウツク一般軸上のオザリチ(Ozarichi)へ向かうのだ。更に、この両攻撃は共に主攻とするべきだ。これは主力をそこに集中する1つの主攻で発起すべきとする従来の観念とは異なるものだ。いくらか通常ではない決断をすると、我々は悪名高き戦力分散を選択することになるのだが、ポーランドの泥濘地帯において我々の作戦は他に選択肢が無かった。或いはより正確に述べるなら、それ以外に成功へと続く道が無かった。

 重要なのは、ロガチェフ、バブルイスク軸の地形では攻勢開始時に第3軍と第48軍の一部しか集結することができなかったことだ。もしこのグループが他の区域での攻撃による支援を受けることができなければ、敵はここで突破を阻止してしまうだろう。敵は攻撃されていない戦線の各箇所から戦力を抽出してこの地点に移送することが可能となってしまう。ところがもし、2つの主攻をするなら全ての問題が解決される。同時に2つの主力集団を右翼の戦闘へと投入する(この2つはその相対的制限性故に1つの区域にするのは認められない)、すると敵はマニューバを行える現実的な可能性を喪失するのだ。そして初期の成功がたとえもしこの2つの内の1つの区域だけであったとしても、ドイツ軍は1つの困難な位置におかれることになり、我が方面軍の精力的な攻勢拡張を確実なものとするだろう。
 (中略 ※ソコロフの抜粋と、1997年版兵士の義務で齟齬あり。ソコロフが2段落多い。ウェブ版の欠落。

 攻勢計画が最終的な結論を固めるためにスタフカで議論されたのは5月22日と23日である。(※訳注:日付誤り。後述。)我々の方面軍左翼でのルブリン軸への攻勢に関する提案は認可された。だが、右翼での2つの均等な攻撃という我々の決断は強い批判を受けた。最高司令官とその補佐たちは第3軍が保持しているロガチェフ域のドニエプル河橋頭保からうって出る1つの主攻を実施することを主張したのだ。2度、私はスタフカの提案を受けて再考するよう隣の部屋に呼びだされた。そのそれぞれの『再考の時間』の後も、その度に気力を新たにして、私は自身の決断を固持する必要があった。私が堅く自身の見解を主張したのを確信し、スターリンは我々が提示した形態での作戦計画を承認したのだった。
 彼(スターリン)は言った。『方面軍司令官のその断固たる決意は、この攻勢組織が徹底的に考え尽くされているということを示している。これこそが信頼できる成功を保証するものなのだ。』 」[ロコソフスキー, 章Оба удара — главные ]

 カルダショフの記した伝記にはより詳細な会話の流れが記されているが全体の流れは同じだ。ただ、特に最後の決定に関しスターリンの判断だったことがわかりやすくなっている。

 要約すると、スタフカ各人の反対を受けてもロコソフスキーは自身の2つの主攻案を3度主張し、そして最後にスターリンが折れる形で承認したというエピソードであり、この逸話は広く様々な書籍に書かれロコソフスキーが赤軍の中でも特別な才覚を持っていたという事例とされる。
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【疑念を抱かせる立案過程の様相】

 だがこのエピソードは大きな問題を抱えており、手放しで賞賛していいものではない。

 まず第1に、もしこの議論の流れが本当だとすると、非常に不健全な作戦決定プロセスがバグラチオン作戦で発生したことになる。ロコソフスキーを特別視するこのエピソードは、逆にスタフカの他の軍事役職および各司令官そして参謀本部が最後まで理解せず、スターリンの採決をもって強引に決定されたという流れを意味する。それも特に重要なベラルーシ突出部側背を担う西端の第1ベラルーシ方面軍で、である。意見が分かれ議論がまとまらなかったならまだしも、ほぼ彼しかいなかったような書き方がされている点が特におかしい。意見対立が起き確証を得られない事柄に最高司令官がその責任と権限をもって決断をする、というのは珍しくない話だが、これほど重大な作戦計画に関し大半の軍事プロフェッショナルを納得させられるだけの論理性が提示されないまま決定するのはリスクが大き過ぎる。ワルシュ(2009)論文で触れられている様にバグラチオン前の各攻勢評価でロコソフスキーの才覚がベラルーシに関わる他の司令官より優れているのがほぼ明らかになり、恐らく赤軍参謀本部と彼と個人的親交のあるスターリンはその評価を下していただろう。だからといってスターリン自身すら納得いっていないのに信じて進めるのは本来は良い事ではない。彼が優れているから他の者が思いつかなかった発案をしたならわかるが、その案の理屈を何度話してもスタフカの他の軍事プロフェッショナルが理解できなかったのには、そもそもその案の合理性に問題があったか、或いはこのエピソードが事実とは違うのではないかという疑念を抱かせる。
 (※他が納得しなくても司令官が意思を押し通した事例は存在する。ドイツ軍でもセヴァストポリ要塞地帯の北東突出部の遮断のため、司令官は敵領域の目の前で渡河して突進をしかける作戦を発案し、参謀たちの反対を受けながらも意見を曲げず実行した話は、その司令官の名を記すまでも無い程度には有名だろう。だがその司令官は、それを己の手柄だと誇るどころかむしろ参謀たちを納得させられなかった自分の力量を無念に書かれている、フランス戦の事例でも時間があれば部下を納得させるよう徹底的に話し合うことを推奨している。
 現代の軍事指揮統制システムにおいて、意思決定とは多種の分野の専門家たちを含めサポートする者達の意見をすり合わせて行うことを理想とする。天才的個人は望ましいが、英雄主義に依存することは否定されており、特に時間がある場合はその傾向が増大する。)


 次に、5月26日(正確な会議の日付。後述)という作戦直前の会議は計画の基幹最終決定のためのものであり(そして実際そうであった)、その時に新たな提案があるのはおかしい。
 参謀本部作戦部局部長シュテメンコが回想録ではっきりと述べており、そして参謀本部資料でも示唆されている様に、いつも参謀本部は計画の立案にあたって方面軍司令部の意見を重視し密に意見を伺っていた。全体計画などいくつものセクターで機密はあったものの、参謀本部は作戦レベルの計画を一方的に押し付けることもなく、また方面軍司令部が勝手に行うこともしない体制が赤軍には作られていた。単なる連絡のやり取りだけでなく現場にジューコフとヴァシレフスキーが足しげく通っていたのはそのためだ。[シュテメンコ, 戦中の参謀本部, 1989年版, 第7章]
 (※同資料は1960年代末に初版が作成され既に英語化がされている。または参謀本部の役割と人員紹介を行っている第7章は1982年に出版されたソ連の各軍事コンセプトの紹介を包括的に行った英語資料"The Soviet Art Of War Doctrine, Strategy, And Tactics"のパート2第2章においてピックアップされている。)

 故に2つの主攻というものがそれほど大激論/反対を浴びるならば、必ずそれ以前の報告書及び通信で既に議論が始められているはずだ。その論争が4月~5月前半にあったという資料は今の所発見されていない。もし本当にロコソフスキーが提案したのだとしてもそれは参謀本部やスタフカのメンバーから大反対を受けるものではなく、或いはそもそも参謀本部またはスタフカの側が発案し現場担当のロコソフスキーに実現性の意見を伺ったところから始まったという、ポジティブな議論の流れだっただろう。
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 そして最後に、このエピソードが赤軍参謀本部の戦中または直後の公式資料で確認できず、同会議出席者の回想録にも存在し無いことを記されなばならい。2つの主攻が従来と違うかなどについて触れているジューコフの回想録でははっきりと否定されている。戦後しばらくして書かれた各書籍の出典を辿って行くと、ロコソフスキー回想録または彼の寄稿したベラルーシ攻勢解説を基にした伝記か、或いは不明瞭であることが大半であった。

 そうして様々な違和感を抱く独ソ戦史の研究者たちはこのエピソードの検証を始めたのである。

エピソードと矛盾する史料

【日付の誤り_ソコロフの確認】

 ソコロフ博士のロコソフスキー研究書の露語版(2009年)では、ロコソフスキーの各種失敗や回想録の誤りにも触れられている。2つの主攻エピソードをそのまま回想録引用し、否定はしていないものの、この最高司令部会議の日付は誤りで実際には5月26日のものであったこと、そして会議が複数日続いていたものだったことを記している。ソコロフはスターリンのオフィス訪問記録を探ることで、バグラチオン作戦の会議は5月25日から始まったことと、各日の出席者も特定した。(※ロコソフスキー回想録の5/22~23は赤軍の高級指揮官は来ていない。)初日5/25の会議はスターリンらソ連国家防衛委員会のメンバーに加え、ジューコフ、参謀総長ヴァシレフスキー、参謀本部で立案を具体的に担当していたアントノフと作戦局長シュテメンコ、そして赤軍以外の各軍の代表者として砲兵科の統括ヴォロノフ、機甲科のフェドレンコ、赤色空軍のノヴィコフ、赤軍政治部のシュチェルバコフが出席した。ロコソフスキーは出席していない。26日は上述の面子に加え各方面軍の指揮官が呼ばれている。
 「明らかに、初日の会議でこそ、参謀本部と各軍事組織の代表者レベルの議論が行われ、バグラチオン作戦に関する主にどのような戦力が作戦の遂行に必要かが議論された。2日目に、各方面軍と軍レベルの諸任務と作戦序盤での推定前進速度とその各攻撃軸に関して方面軍指揮官を交え決定された。」[ソコロフ, 第9章]
 回想録の日付は誤りだったが、26日に上述のエピソードがあったというのはまだあり得る。
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【第1べ方面軍司令部が発信した文章の調査_イサエフ】

 このエピソードに関して疑念を抱き、調査を行ったのがА.В.イサエフ(2022年現在ロシア大統領府国家経済行政学院の軍事経済史センター所長)である。調査内容詳細は2014年にまとめられ出版されたベラルーシ作戦の専門書籍『ОПЕРАЦИЯ «БАГРАТИОН» : «СТАЛИНСКИЙ БЛИЦКРИГ» В БЕЛОРУССИИ』の164~177頁に載っている。イサエフ所長が探ったのは第1ベラルーシ方面軍司令部が提出した報告書の記録である。そこには幾つかの興味深い記述が残されていた。

 例えば1944年3月に方面軍司令部は最高司令部に対し、春の雪解け後の作戦の考慮事項を送っており、その中に4つの攻撃軸に関する評価がある。最初の2つはモギリョフ市まわりであり後に他の方面軍が担当するので割愛するが、3つ目がロガチェフ周辺からバブルイスクへの攻撃軸(実際に行われたバブルイスク攻撃の右翼)であり、これを効果的と第1べ方面軍司令部は分析している。4つ目がパリチからバブルイスクへの攻撃軸(実際のバブルイスク攻撃の左翼)であり、こちらは困難な点が多く効率的でないとしているのだ。つまり結論として、ロガチェフ→バブルイスクを最も有効な攻撃軸で他軸は非効率的だと提唱しており、それが意味するのは1つの主攻だとイサエフは述べる。

 そして方面軍司令部の意見は次のような変遷を辿る。1944年5月12日に方面軍司令部からスターリンへ向けた報告において、最初のページに2つの攻撃軸の話があり、主攻(Главный удар)としてバブルイスク、アシポヴィーチ、ミンスクつまり北西軸を、一方で助攻(Вспомогательный удар)としてパリチ、スウツク、バラナヴィーチつまり西軸を提唱している。後に2つの主攻となるこの2つの軸の位置づけとして、第1ベラルーシ方面軍司令部は12日時点では片方を助攻とすべきと考えていたのである。これが腹案として両方主攻なのを、一時的に反対をかわすために助攻と表面だけ言葉を繕ったのではないことが、同書にある第28軍の役割でわかる。実際はスタフカ予備の第28軍は西軸の進展を確実にするために左翼に投入されこれは必須であったが、この5月文書では、第3軍と第48軍がバブルイスクへ南東から攻撃しベレジナ川へ近づいたら、この両軍の境界部に新たな軍を投入し、バブルイスク市の奪取とアシポヴィーチへの拡張をさせるべき、と述べられているのだ。第28軍と第9戦車軍団は第1ベラルーシ方面軍に渡す話が既についていたことを示唆される文も記されおり、またこれも重要だが、第16航空軍の投入に関し主軸方向へ集中させようとしていることを示唆する内容もある。

 これらを受けてイサエフは改めて有名なジューコフ回想録を振り返り(※該当箇所, 2巻19章)、ロコソフスキーが2つの主攻と言っているのが一般に知られているがそれは誤りであり、5月20日時点で参謀本部に基づきスターリンが承認済みであり、ロコソフスキーが訪問してくる前だと言うジューコフの主張を見返している。
 (※ジューコフ回想録の内容に関しては、もはや常識的であるが、信憑性は低く多くの箇所で事実と異なると指摘されており、第一線の独ソ戦研究者がそのまま何の検証も無く最有力情報源として引用することは少ない。ただ、大まかな流れなど正しい箇所もあるので、逆に言えば全てを検証なく否定することもない。ソコロフはジューコフ回想録は断言するための根拠ではなくあくまで参考程度の書き方に留めている。ジューコフのいうように5月20日時点で2つの攻撃が計画されていたとしても、それが明確に2つの主攻だと表現されている資料もないことに留意すべきである。)

 1944年5月31日、スタフカ指令第220113号が発令され、2つの攻撃を実施すること(нанося два удара)とされ、第3軍と第48軍のアスポヴィーチ北西軸と、第65軍と第28軍のスウツクの西軸という等分された2つの軸であることが明記された。

 6月7日、更に新しい作戦計画詳細が立てられ、それに基づき各軍は増援を受領した。この際に第3軍には独立した機械化編制である第9戦車軍団、第65軍には第1親衛戦車軍団が渡されている。6月計画で第16航空軍は1集中ではなく、バブルイスク方面の第6航空団が、スウツク方面に第8航空団が割り当てられることとなった。更に新しい部隊としてプリーエフ率いる騎兵機械化グループ(第4親衛騎兵軍団、第1親衛機械化軍団)が割り当てられ、第28軍&第65軍が作った突破口へ投入され、アスポヴィーチかスウツクのどちらかの軸へ向かうとされた。

 第3軍司令官ゴルバトフの回想録で兵力を移すよう指示された話などがある。兵力内訳(後述の備考に添付)をみると第3軍は明確にこの方面軍中で最大の戦力であり第9戦車軍団が与えられていることから重大な衝撃グループであったことがわかる。2つの均等な攻撃にするために第3軍の削減がなされていったのは作戦発起が近づいてからであり、ロコソフスキーが初期からそれを目論んでいた痕跡はゴルバトフ回想録には無い。

 以上をもって、イサエフはこの2つの主攻はロコソフスキーの発案ではなく、あの有名な会議のエピソードは事実と異なる可能性があると述べている。彼は、2つの主攻はむしろ参謀本部が主導となって計画し、それを方面軍と相談して進められたのではないかと提唱している。[イサエフ, pp.164~177]

【ロコソフスキーの腹心の回想録】

 また、第65軍司令官バトフの回想録においてバグラチオン作戦を5月後半にロコソフスキーが彼ら各軍司令官に説明する話が載っており、各方面軍の攻撃軸のこと、第1べ方面軍右翼はまずバブルイスクへ収束的な攻撃を行う旨、プホヴィチ、スウツク、アシポヴィーチまで第1べ方面軍が進出する旨が語られたと記されている。バトフはロコソフスキーを敬愛する者達の中でも特に信奉している人物であり、この方面軍指揮官が如何に優れていたかを部下として多数証言を残している。その彼の回想録にも、5月前半かそれ以前からロコソフスキーがこの2方向主攻を練っていたという話は載っていない。バトフはロコソフスキーにとっても最も信頼する腹心であり、この攻撃で重要な役割を担うので全く相談しないということは考えにくい。ただ、バトフの回想録は実際にどのような攻勢だったかを端的に説明していくスタイルなので、立案過程であったのを省かれている可能性はある。[バトフ, 1974年版, pp.393~395]
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【参謀本部の態度】

 立案過程に関し、グランツ翻訳の方の参謀本部資料は詳細を書いていないがpp.19~20において5月31日にスタフカからの正式な指示で第3軍と第48軍のアシポヴィーチ軸と、第65軍と第28軍のスウツクの軸が明記され、それに従って「方面軍指揮官ロコソフスキーが順次的目標として2つの方向への攻撃を決定した」と記されている。これはハリソン翻訳の方の参謀本部資料のボリューム1、パート2、第3項にある「第1ベラルーシ方面軍司令官の意思決定」での書き方と同じで、2方向を「立案した」のが誰かは書かれていないが「決定した」のは方面軍司令官としている。勿論その前にスタフカ/参謀本部の意思決定として2方向の攻撃が定められた上でである。
 1943年後期ウクライナでの2つの攻勢で実際にやってのけたように、ロコソフスキーは最初は参謀本部/スタフカの基本計画に従って準備するが、現実の状況を見て攻撃軸を抜本的に変更する決断を迅速に行う。ワルシュ(2009)p.267で念押しされている様に、方面軍の実施段階での主攻撃軸の決定は方面軍司令官の責務だからであり、それが作戦レベルのコントロールにおいて重大な影響を及ぼす要素であるからだ。

 参謀本部はロコソフスキーが立案したとは記録していないし、そして他の誰かが発案したとも書いていないのだ。重視したのは手柄や名声の争いではなく、実際の責任を負うことになる決断者の名前なのである。詳細な偵察調査をする前の段階ではその制限性の少なさ故に、様々な発想を様々な部署の者達がすることができ、誰かが抱いた案を別の誰かが同じように考えていることもあり得る。だからこそ参謀本部は各方面軍、軍、その他組織に駆け回って情報と意見を集め、自身で有力な案の候補を幾つか作り、再度現場の担当者たちに伺い、状況が進展し新たにわかっていく条件に照らし合わせ現実性に基づき絞っていく。この過程において多くの場合、高度な教育と経験を積み尚且つその才覚において最高層の者達は似たようなアイディアを頭に巡らせる。それが最後の結論とはしなくても、複数ある候補案の中の1つとして被らせる。この立案システムの中では誰が最初に発案したかは重要ではない。
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 以上の調査により、2つの主攻がロコソフスキーではなく参謀本部が主導であった可能性は濃くなったと言える。ただ、そうだとしても参謀本部はロコソフスキーの意見を伺い重要な参考にした上で有力案を具体化しスタフカに決定させている。また、参謀本部と方面軍司令部の膨大で頻繁なやり取りの中で、ロコソフスキーが非公式的意見として複数の候補の内の1つとして発案してから検討が進められた可能性も低いながら残ってはいる。いずれにせよ最終決定計画のために彼の影響も、そして参謀本部の貢献も大いにあったという点だけは確実である。









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以上です。
ここまで読んで頂きありがとうございました。

備考:個人名なき参謀本部

 重要な史料を提示したとはいえイサエフの検証はまだ足りておらず、その書籍中の資料は断言できるだけの確証へは至っていない。ただ赤軍参謀本部の役割を再評価する試みは、ソ連軍事史における英雄主義からの脱却の潮流の1つであり、今後もより深く進んでいくだろう。

 ジューコフ、コーネフ、ロコソフスキー、マリノフスキーといった名によって軍事戦略/作戦/戦術を個人の才覚で説明するのではなく、組織として練り上げた計画と調整の内実を重視する。(その点に関し、参謀本部の立案業務の事実上の長としてアントノフは少しずつ名を高めているが、彼が天才的発想をしたというより参謀本部の代表として記される。)プロイセンの継承国とドイツの軍事理論を学んだと言われる幾つかの国において、19世紀に大モルトケが示唆したあるべき姿とは全く違う、非常に目立つ活動的な権威へと参謀本部は進んでいった。その一方で、WW2における赤軍参謀本部は真に裏方に徹しきった。赤軍参謀本部は分析と立案において極めて大きな役割を果たしたにもかかわらずそれを喧伝することは決して無く、戦中はスターリンやジューコフの名に隠れ、そして戦後には両名への批判ののちには”スタフカの計画/指示”という表現になり、そこに参謀本部やアントノフがどう関わっていたか書かれていることは特に米独において少なかった。ソ連崩壊後公開が進み赤軍参謀本部は再評価されつつあるが、未だその資料の不足により断片的なものにとどまっている。

 また、赤軍参謀本部が作る分析資料では、英雄主義的個人名で軍事作戦/戦術を語ることを極端に忌避しており、それが自身に適用されていることは望ましい事だった。(※これは個々の兵士レベルの英雄的戦闘のエピソードを記録したものとは別の、あくまで作戦計画に関する話。)
 上述のベラルーシ攻勢のみならず他の攻勢作戦についても、戦中/戦争直後の参謀本部公刊戦史/作戦分析資料は個人名を極力抑え、例えば主語が「方面軍は」「その方面軍司令部は」或いは「その方面軍司令官は」という書き方になっており、特に作戦の立案と決定、実施について説明する際にはその傾向が強い。参謀本部自身の作業も、最初に役職を書いても後の各行動を個人名で表現されることは皆無に近い。誰か将軍個人の才覚にその作戦が依存していたなどという表現は全く無く、軍/方面軍司令部とスタフカ及び参謀本部そしてその代表を介した頻繁な意見交換と協議により計画が立案及び開発されていく健全で現代的なプロセスを記録している。もしかするとその理想のために意識的にそういう書き方にされているのかもしれない。
 これはドイツ軍のホート将軍の回想録でも同じような意見が載っており、部隊を率いた司令官の個人名ではなく「司令部」を主語にするほうが適切であるとするのはソ連軍のみならず各国の将校で見られる。
 (※唯一の例外が最高司令官のスターリンだ。バグラチオン作戦本では控えめだが、クルスクや1942-43冬季攻勢のための参謀本部公刊戦史において、時に具体性を欠きながら「同志スターリン」の貢献について異様な礼賛が行われている。これは戦中/戦争直後の作成資料であることが影響しているだろう。)
 (※あまりに参謀本部は主張が少なかったために、戦後しばらくすると戦中の統制指導層の一部として様々な失敗や貢献の低さを糾弾されるようになった。これに対して1960年代末になってようやく反論したのがシュテメンコだった。彼は参謀本部の仕事について話した回想録を記し、その中で参謀本部を構成したメンバー1人1人への賛辞を送っている。彼の回想録「戦中の参謀本部」は多くのことを明らかにしてくれてはいるが、ただ、1989年版の序文で述べられている様に、この本はタイトルにあるような参謀本部の活動内容を解説する学術的なものではなく、シュテメンコの個人視点から見た様々なエピソードが載る回想録なので、各作戦での参謀本部の影響詳細を求めるには不十分だった。)

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 もう1つ注目すべきは、赤軍参謀本部はその立案時において現場の方面軍司令部との意見交換を密にしていたことだ。それが代表を介したものであるかは重要ではない。赤軍参謀本部はスタフカの意見に基づき立案をすることもあるが、かなりの計画が赤軍参謀本部がむしろ提案者であり、或いはより正確に言えば、代表者たちの会議まで到達する前に消える案も含め、複数の候補案を具体化しながら提示しスタフカのものとして各方面軍司令部に意見を伺っていた。方面軍司令部からも積極的に、上述の第1ベラルーシ方面軍の具体的報告のように、戦線の状況と攻めるべき位置や方向を伝えてもらっていた。赤軍参謀本部は一方的に方面軍に戦力や補給そして作戦計画を配分してその中で現場にやりくりさせるのではなく、あくまで指令を出すのは多くの検討を経た後の話であり、立案の途中経過においては方面軍または戦線の管理部門と相互の意見交換を行い現実性を高めていった。上述の資料でも触れられてもいるし、より具体的な話なら例えばロコソフスキーを支えたニコライ・アンティペンコ(中央および第1ベラルーシ方面軍の兵站実務の総責任者)の1967年の回想録などを参照すると、兵站に関し方面軍の意見で多くのことが取り入れられたことがわかる。
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  状況から考えてイサエフの言うようにバグラチオン作戦立案時のロコソフスキーのエピソードは事実と異なるだろう。ただしそれは最後の決定のプロセスと反対者の描写に関してのことであり、立案の過程においてロコソフスキー(より正しい表現をするなら第1ベラルーシ方面軍司令部)の意見が大きく影響を与えた可能性は充分残っている。むしろ影響を与えていない方が立案プロセス上不健全であると言える。ロコソフスキー自身が常に自分の隷下の各軍司令部や方面軍司令部内の部下の意見を聞くことの重要性を何度も説いている。公的な報告書とは別にざっくばらんに意見を交わし合う電話や会談中に何気ない口頭ベースで提案しそれが記録に残らないことはあり得るため、誰が最初の発案かを立証するのは困難を極める。そして、発案者という話を好む戦史趣味者は多いが、赤軍参謀本部にとって誰が最初かなどというものはさして重要ではないのである。複数人が別個で同時に提案する時も有れば、スタフカの1人がその場所の状況に詳しくも無いが思い付きで言ってみる時もあり、それらはその初期において他にもある候補案の1つでしかなく、分析の中で現実性を持ち始めるのは組織の内部及び各組織同士が意見を深く交し合った後なのだ。その協議を経ても尚、何が正しいか明確に合意に到れない不明瞭な事柄に関し司令官は決断を下す。故に計画立案に置いてその責任を司令官は負うが、その手柄は司令部全体で分かち合う。方面軍司令部でも参謀本部でもそれに変わりはない。必要なプロセスを経た上で個人ではなく司令部という組織として提出される計画、そこには”英雄”の個人名は不要なのである。

バブルイスク攻撃の戦術

【バブルイスク攻撃コンセプト】

 戦術レベルにおいて、具体的にはバブルイスク攻撃という最初のフェイズで、2つの別個の衝撃グループが集心的攻撃を形成するようになっていた。バブルイスク攻撃は両翼包囲とも言えるがより性質として色濃いのは、べレジナ川東岸の第3軍&第48軍によるバブルイスクへの正面攻撃と、川の西岸にいる第65軍&第28軍による左からのバブルイスク側背への回り込みという金床的な片翼包囲だった。後背に回り込む第65、第28軍は都市へ深く突入はせずむしろその主力は迂回し西、そして北西へと到達するように急速に前進した。左の部隊は包囲に注力するのではなく、のちに西方向へ展開しやすいようになっていった。それは騎兵機械化グループ(CMG ※Cavalry-Mechanized Groupが該当単語として使用されている。[ソ連参謀本部 ボリューム2、ワルシュ p.364等] 常時ではないが今回はManeuver Groupと同一のものとして扱われる。が更なる急速な拡張をスウツクへ向かう西軸に形勢する出発地点を作り上げ、自身も西へ向かうのに最速で移れる布石となっていた。ただし、各軍もCMGも計画内とは別に最初の攻撃の命令文書中においてスウツク方向へ行けと明言されることはなく、ミンスクまたは(=or)スウツクの「どちらか」と書かれていた。[ソ連参謀本部, , ボリューム1、パート2、第3項]

第1ベラルーシ方面軍右翼のバブルイスク攻撃詳細

 よって2つの別個の主攻は、作戦の最初の段階で集心的な包囲攻撃を形成し敵防御線主力を確実に逃さないようにしながらも、後半段階で2つの離心的軸へ向かうに都合のいい状況になるよう設計されていたのである。そして、各戦力は初期命令においてどちらかの軸に行く優先を明記されたのではなく、どちらも可能性があることを示唆されていた。これがロコソフスキーの計画で非常に素晴らしい点であり、実際の実行時には計画になかった調整をこの方面軍指揮官は行い、縦深への追撃をより速いペースで可能とした。

【実際の進展】

 附図を載せる。
バブルイスク攻撃_1バブルイスク攻撃_2バブルイスク攻撃_3

バブルイスク攻撃_4バブルイスク攻撃_5バブルイスク攻撃_6
 この6月28日21:00までがバブルイスク包囲の推移戦況図である。
 重要なのは第65軍管轄区域内において第18歩兵軍団とその先鋒がバブルイスク北西アシポヴィーチまで到達し確実に拠点を広げていることだ。そしてこれらの部隊と第65軍の管轄区域について、ロコソフスキー率いる方面軍司令部が与えた新たな指令が姿を現す翌日29日の位置、その位置に着目すると良いだろう。
バブルイスク攻撃_7バブルイスク攻撃_8バブルイスク攻撃_9

 6月30日21:00において、第65軍をメインに西軸へと戦力が大規模に転進させられている。既にCMGや戦車軍団といった予備に持っていた機動部隊を2つの軸へ先行させており、スウツクは30日時点で完全に奪取している。そして全く止まらず連続的に、2つの主攻の拡張を具体的に第1ベラルーシ方面軍は実行していくのである。

 詳細はハリソン訳参謀本部資料ボリューム2およびグランツ訳第3、第4章を参照。
 マニューバ・グループについてのみ追記予定。




 参謀本部及びスタフカの計画した1944年夏季攻勢コンセプト。実際の攻勢は彼らの予想を上回った。
1944夏季攻勢計画_


備考:その他

【ロコソフスキー回想録≪兵士の義務≫の扱い】

 ロコソフスキーの回想録には少なからず誤りが含まれており、今回のエピソードがそのうちの1つに追加されても驚くものでもない。作戦全体の流れなどは凡そ正しいのだが、日付や彼我の戦力数値、そして個人レベルでの戦闘描写は他のソ連軍公式またはドイツの資料と異なっており現在までの検証で明らかに事実ではないとわかるものがある。例えばスターリングラード末期のドイツ軍戦車の描写はソコロフが指摘しているようにおかしなものであるし、戦力数は赤軍参謀本部やその他公刊戦史と違うことも珍しくない上に、ロコソフスキーが一体何を参照して書いたのか出典は記されていない。21世紀に知られるようになったパンフィロフの28人の逸話が捏造であったことに関し、ロコソフスキーが回想録内に採用していることもそうだ。参謀本部公刊戦史にすら記録されてしまった[ソ連参謀本部, モスクワの戦い, パート3, 第9章]この話は、近年捏造が明らかになったものであるので当時は鵜呑みにしていても仕方ないと擁護できるのではあるが、ロコソフスキーの場合は彼らの部隊を管理していた責任者でありしかも当時戦場が近かったこともあり、少しでも検証して知っていなければならない立場であったとも言える。彼はその手の詳細に関し詳細に調査するほどこだわっておらず、回想録は別の目的のために書かれいている。
 そもそもロコソフスキー回想録『兵士の義務』は、詳細に戦況及び司令部の内実がどうだったかの推移を記録したものではなく、そのタイトル通り「将兵が如何な行動をすべきか」に関し彼の意見とその実際の例を記したという傾向が随所で色濃く出ている。キュロスの教育の現代軍事版の様なものだ。もちろんその記述は全く信用できないと頭ごなしに否定されるものではないのだが、少なくとも公式記録に残りにくいエピソード的ものに関しては半信半疑の態度で臨んでも損はないだろう。今回の話も、司令官は例え上層部から反対を受けようとも安易に迎合するのではなく自軍司令部の意見を強く述べるべきである、そして上層部は部下のイニシアチブを尊重すべきであるというロコソフスキーが頻繁にしている主張の1つであり、そのエピソードの真偽よりも内容からの訴えの方が重要であろう。

【第1ベラルーシ方面軍司令部の決定計画詳細】

 この基本計画コンセプトに基づきロコソフスキーが実施した決定と準備結果の詳細は、次のようになった。
 バグラチオン作戦第1段階参加戦力:第1ベラルーシ方面軍右翼の編成は以下のように巨大で充足した戦力にされた。[ソ連参謀本部, , ボリューム1、パート2、第3項]
・第3軍
 (第35、第40、第41、第46、第80歩兵軍団、第9戦車軍団、第36、第193、第223戦車連隊、第340親衛重自走砲連隊、5個自走砲連隊、1個火炎放射戦車連隊、1個地雷除去戦車連隊、1個自走砲旅団、第1、第2工兵旅団、第7、第48架橋旅団+砲兵隊増強(省略)
・第48軍
 (第42、第29、第53歩兵軍団、第42重戦車連隊、第231戦車連隊、3個自走砲連隊、1個重自走砲連隊、第10工兵旅団、第8戦闘工兵旅団+砲兵隊増強)
・第65軍
 (第18、第105歩兵軍団、第44、第356歩兵師団、第115歩兵旅団、第1親衛戦車軍団、第251戦車連隊、第345、第354自走砲連隊、2個重自走砲連隊+砲兵隊増強)
・第28軍
 (第3親衛歩兵軍団、第20、第128歩兵軍団、第30親衛重戦車連隊、第347重自走砲連隊、1個戦車連隊、3個自走砲連隊、1個火炎放射戦車連隊、1個地雷除去戦車連隊、第516火炎放射器連隊+砲兵隊増強)

・第16航空軍

・方面軍予備
 (第4親衛騎兵軍団、第1親衛機械化軍団、第2親衛対空砲師団、第219戦車旅団、第75、第1822自走砲連隊、第4親衛騎兵軍団、第1715自走砲連隊、第36、第57工兵旅団、10個戦闘工兵独立大隊、第9親衛独立工兵大隊、1個自動車化工兵旅団、第6、第8独立工兵大隊軍用犬随伴、第27防御建設隊)
バグラチオン作戦開始時の第1べ方面軍右翼の各軍の戦力
< 第1ベラルーシ方面軍右翼各軍の戦力 東端の第3軍が圧倒的に大きく、次に西端の第28軍が大きい。第3軍は後に削減され戦力を他軍に渡す。 [出典:イサエフ, (2014), p.174] >
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 敵を打ち破るためのこの多方面作戦の中で、第1ベラルーシ方面軍の右翼は、プリピャチ川北域に位置し、第3、第48、第65、そして最高司令部付き予備から派遣される第28軍をもって作戦第1段階に参加する。
 敵第9軍戦力は2つの軸方向即ちバブルイスク軸とグルスク軸に多く配置されている。最も重要なバブルイスク軸にそって35㎞範囲で、第9軍主力は集中している。グルスク軸には55㎞範囲で4個歩兵師団が軍団第1梯団としている。5月及び6月第1期において敵の活動は第1べ方面軍の左翼に目が行っており、航空及び地上偵察及び爆撃の80%が集中している。
 1944年5月末の作戦準備開始までに、第1べ方面軍は第3、第48、第65軍、第16航空軍を右翼に配置しておく。右翼での衝撃部隊はスタフカの予備で増強される。6月1~23日の期間にスタフカ予備から第28軍、第4親衛騎兵軍団、第1親衛戦車軍団、第9戦車軍団及び多数の航空、砲兵、工兵、その他部隊が送られる。方面軍予備からも部隊を(1個歩兵師団、1個自走砲旅団、2個戦車連隊など)右翼へ移す。これらにより、作戦開始までに、方面軍右翼の全体戦力は4個諸兵科連合軍、1個騎兵軍団、2個戦車軍団、1個機械化軍団、14個砲兵師団、7個砲兵旅団、1個自走砲旅団、26個戦車及び自走砲連隊、5個航空軍団、11個独立航空師団、2個の渡河工兵旅団となる。
 これによりバグラチオン作戦第1段階での方面軍の活動域(240㎞)で戦闘員兵数は3.3:1となる。大隊数は3.5:1である。1㎞あたりの大隊数密度は1.6個/km:0.5個/kmである。更に主攻撃軸の29㎞幅では8.3個/km:1.4個/kmまで戦力差を集中により広げ、充分な兵数及び装備数での数的優位を得て、突破を確実なものとする。
 一方で左翼では、6月15日あら第8親衛軍と第2戦車軍が方面軍に到着しプリピャチ川南域に集中を始める。バグラチオン作戦を右翼が開始するまでに、左翼は衝撃グループを編成するに留める。
 方面軍司令官K.K.ロコソフスキー将軍は、バブルイスク→ミンスクに沿った我が軍の作戦的好条件を活用し、そして(ベラルーシ突出部全体でみると)敵側面の位置をとれていることを活用し、方面軍右翼のロガチェフ(Rogachev)北部及びパリチ(Parichi)南部の狭い区域から、2つの戦力グループによる強力な攻撃を発起し、敵防御の突破、そしてバブルイスクへ向けた集心的攻撃へと拡張し、敵抵抗中心の大都市バブルイスクを奪取することを目的として敵バブルイスク集団の戦力を包囲し撃滅、その後にプホヴィチ域とスウツク域へと彼の主戦力を到達させることを計画した。
 方面軍の主タスクは、バブルイスクの敵戦力を包囲及び撃滅すること、そしてバブルイスク域、グルシャ域、グルスク域を奪取すること、右翼の一部を持って第2ベラルーシ方面軍を補助すること。
 順次的タスクは、攻勢をプホヴィチ域へ到達するためにバブルイスク→ミンスク軸へ拡張することと、スウツク域へ到達するためにバブルイスク→スウツク軸方向へと拡張する事である。
 これらのタスクを達成するために、方面軍右翼の1つ目の衝撃グループ(第3、第48軍)は、ロガチェフの北域から構成を発起し敵防御を15㎞にわたって突破、それから攻勢をバブルイスク及びプホヴィチ方向へと拡張する。
 右翼の2つ目の衝撃グループ(第65、第28軍)はパリチ南部から攻撃を発起し、敵防御をRadinの南14㎞に渡り突破し、それから攻勢をRomanishche(Romanishchi)→グルシャ(Glusha)方向とRomanishche→グルスク方向へと拡張する。
 方面軍の騎兵‐機械化グループは、左側の衝撃グループの所に配置され、V'yunishche(Vyunische座標52.8604430076976, 28.903206211520242 ※グルスクの東)とハラドーク(Gorodok※グルシャの西)方向への攻勢を拡張し、それから状況次第ではアシポヴィーチ(Osipovichi ※ミンスク軸)またはスタリエ・ダローギ(Starye Dorogi ※スウツク軸)そしてスウツクへ向かう。
 方面軍司令官の決定に基づき、右翼の有する4個諸兵科連合軍全ては方面軍の攻勢第1梯団に投入される。軍内部の組み立ては、第3軍と第65軍が2梯団方式のオーダーとし、第48軍と第28軍は単一梯団方式とされた。
 方面軍右翼による攻勢作戦は縦深130㎞に到ると計画された。

 同時期に、方面軍左翼には6月の進展の間に、左翼はその対面の敵戦力を拘束してミンスク方向への増援に行かれるのを妨害する任務を課した。
[ソ連参謀本部, , ボリューム1、パート2、第3項]

 第2梯団として拡張を担当する騎兵機械化グループが、ミンスク軸かスウツク軸どちらへ向かうかが事前に確定していないことは非常に重要だ。これがまさに2つの主攻の難しい所だろう。その攻勢作戦縦深として設定された130㎞というのは攻勢発起するロガチョフ周辺からアシポヴィーチ付近までの距離であり、即ちミンスクまでの半分少々だけが最初の攻撃計画内で設定されたのだ。同参謀本部資料には方面軍指揮官の決定に続く章で軍指揮官の決定が記されているが、各諸兵科連合軍はミンスクやスウツクまたはバラナヴィーチを到達する目標にはおいていない。また、第65軍司令官バトフの回想録においてそれらが指示されていた痕跡がない。即ち、バグラチオン作戦において参謀本部及び方面軍司令部は、大縦深の目標とその効果を検討し共有していたが、それを確固たる設定命令の形には初期段階においてはしなかった。敵戦力がどのように動くのか、また自軍戦力がどういった損耗と進展になったかの現実に合わせて調整を加えた上で、命令として発することになる。

 翻訳中 追記




__メモ____________________________________________

バグラチオン第2段階のために、ドイツ防御線がミンスク後に敷かれるラインを破壊するため、Baranovichiは重要 ワルシュ p.376

6月30日、CMGのPliyevがスウツクを奪取。 ワルシュ p.378

Кардашов Владислав Иванович, (1980),  "Рокоссовский"

Коллектив авторов, (2015), "Беларусь. Памятное лето 1944 года (сборник)"におけるМ. А. Гареев の論考。やはり2つの均等な攻撃がロコソフスキー提案という逸話を紹介されている。