戦史の探求

戦史の情報を整理し探求するサイトです。 古今東西の全てを対象とし、特に戦況図や作戦図に着目しながら戦略・作戦・戦術について思索します。

 近世西欧における攻城戦はかつてのローマの如く大規模な土木工事を城攻めの際に行うことが頻繁に見られるようになりました。そして守る側もまた巨大で複雑な要塞群をもって彼らを迎えました。

 今回はその中の1つ、パルマ公が行ったアントワープ包囲戦について記載しようと思います。

 オラニエ公ウィレムを中心とするオランダ独立派が行った80年戦争初期の中でも危機の一つとして数えられる戦いです。近世において名高いパルマ公はこの戦いで欧州戦史にその個性を刻み込みます。
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 古代ギリシャでは戦争術の歴史の礎となった数々の会戦が見られます。
 今回はその中から基礎軍事理論の1つ、戦力集中原則の古典戦例を紹介したいと思います。
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 会戦の名は「デリウムの戦い」または「デリオンの戦い」と呼ばれ、ペロポネソス戦争中にアテネとテーベが相対した重要な戦闘の1つです。
 典型的なギリシャ・ファランクスの戦闘であると同時にそこから次の時代へ繋がる戦術の端緒を伺わせる戦いでもあります。

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 戦史において古代ギリシャとオリエントは欠かすことのできない発展の礎と位置づけられています。トゥキュディデスやクセノフォン、アッリアノス、フロンティヌス等の戦史家達は軍隊の動きをある程度把握できるほど詳細な記録を編纂し残してくれました。

 本稿はペロポネソス戦争初期において、個々の戦闘技術で上回るスパルタ軍の重装歩兵にアテネ軍が作戦・戦術によって対抗したスファクテリアの戦いについて記述します。
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(以下本文敬略)続きを読む

 米独立戦争・南部戦域において1つの転機となる会戦がありました。キャムデンの戦いと呼ばれることになるこの会戦で独立派・大陸軍は危機的な戦況へと追い込まれることとなります。
 英国軍の練度と装備が充実していたため優勢だったと言われることの多い独立戦争ですが、この時に見せた王党派・英国軍の戦術は実に明確でかつ果敢なものでした。
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(以下本文敬略)


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前回塹壕の戦い←                 →初回及び参考文献

 629年、イスラムの敵として戦いムハンマドを打ち負かしさえしたハーリドがイスラム勢力に参加したことは大きな出来事でした。彼は30代後半で既にアラビアの中では随一といって良い軍歴を持っていましたが、この後の戦歴はそれを遥かに上回ることとなります。これは彼のムスリムとしての最初の会戦の記録です。

 ムタの戦い。この会戦でイスラム勢力は敗北します。
 ただ、敗北したが故に、ムタの戦いをして彼はこう呼ばれるようになります。

 『神の剣』ハーリド・イブン・アル・ワリード

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<ウフドの戦い_625_ムハンマドに勝利したハーリド>
→ ウフドの戦いは本リンク参照
(以下、本文敬略)
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 包囲を行ってくる敵に対してどう対処するかという命題について戦史には様々な応えが記されています。そもそも包囲を行える部隊組織を持ち、発案しくる敵指揮官は優れた相手であることが多く、それを上回る戦術は卓越したものとなります。

 第3次ラムラの戦いは包囲を企図した者とそれに対抗した戦術が現れた良質な戦例です。

 この戦いの指揮官、十字軍国家の王ボードゥアン1世は中東で戦歴を積み重ねてきました。
 直近の会戦で対決したファーティマ朝軍は数で上回っていたためか尽く包囲を試みており、第1次ラムラ会戦では包囲が失敗し、第2次ラムラ会戦では前回の欠点を見事に改善し包囲戦術を成功させボードゥアンを破りました。学習し成長したとも言えるこの敵に対してボードゥアンもまた戦術的な変化を持って再び戦に挑みます。
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(以下 本文敬略)
第1次ラムラ会戦及び第2次ラムラ会戦に関する記事は本リンク参照
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