戦史の探求

戦史の情報を整理し探求するサイトです。 古今東西の全てを対象とし、特に戦況図や作戦図に着目しながら戦略・作戦・戦術について思索します。

 2011年3月よりアラブの春と呼ばれる寡占型政府打倒運動が始まった。それは単純な民主化のみならず民族主義、宗教主義、そして諸外国の思惑を巻き込み巨大な武力衝突の場となりみるみるうちに秩序を崩壊させた。反体制派の初期の隆盛と外国の支援、ISILと呼ばれるイスラム過激派の勃興、クルド系北部勢力の伸張、シリア政府軍の逆襲。各々の戦役は限られた軍事力の中で苦心して造られたものである。ここにその戦役集を一部紹介したい。

…そのうち各戦役書いて行く予定です。すいません。

『ラッカ戦役』 北域SDF及び有志連合の南進_北部_2017/1/17~4/5

Raqqa Campaign (2016~2017)
 複数の大規模な戦術的攻勢が連動し最終的に一つの作戦目標に対し結集している。高度な連携であり、見方によっては複数の小戦役群による作戦術概念の適用と言う者もいるようだ。

『ユーフラテスの盾作戦』トルコ系軍の北部拡張_北中部_2016/8/24~2017/3/26

Trukish Occupation of Northan Syria 
Operation Euphrates Shield 

『アレッポ東域攻勢』 北域政府軍の東進_北中部_2017/1/17~4/5

East Aleppo Offensive (2017 Jan~)

『マスカネ平原攻勢』 北域政府軍の南進_北中部_2017/5/9~7/8

Maskanah Plains Offensive


『ホムス東域攻勢』 中央政府軍の東進_中部_2017/3/5~5/12

Palmyra Offensive (2017)
Eastern Homs Offensive

『シリア南部砂漠戦役』 政府軍の南部反体制派抑え込み_南部_2017/5/7~7/13

Syrian Desert Campaign

『シリア中央戦役』 政府軍の大拡張_中部_2017/7/14~10/21

Central Syria Campaign

 この中央戦役はロシア・イラン・シリア政府軍の作戦術の結集であるとみなしている。
 北部の『マスカネ平原攻勢』、中央部の『ホムス東域攻勢』、南部の『シリア南部砂漠戦役』という3つの離れた場所での戦役は全て一つの戦略のために立案された攻勢であり、作戦術の概念に基づき指揮が行われている。これらの戦役が同時的に行われ、連続的に進行し、最終的に結集させた作戦術の結果こそこの『シリア中央戦役』とそれに伴う政府軍の戦略的優勢の確定である。
 

『シリア東部戦役』 政府軍SDFの競争_東部_2017/9/14~12/17

East Syria Campaign

『オリーブの枝作戦』 トルコ系軍のアフリン奪取_北西部_2018/1/21~

    2018/1/21よりトルコ軍及びTFSA(親トルコ派自由シリア軍)はシリア北西突出部のアフリン州への軍事侵攻を開始した。トルコ政府はこの作戦を「オリーブの枝作戦」(Operation Olive Branch)と名付け、権力集中を行っているエルドアン大統領肝いりの戦争として発動した。

オリーブの枝作戦概要 (戦略目標、作戦基本方針、戦力、地形区分、時間区分)

作戦前期の陸軍の戦術的傾向

作戦中期の陸軍の戦術的傾向

作戦後期の陸軍の戦術的傾向


トルコ軍の空爆・砲撃に着目した進軍経過

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前回ウフドの戦い_片翼包囲 ←          →初回及び参考文献

 ウフドの戦いで示した偽装退却、小迂回、背面攻撃、そして片翼包囲への迷いのない連続的戦術はハーリドの後の戦いで振るう戦術の前触れとも言えた。ただウフドは数で圧倒しておりハーリドだけでなく友人のイクリマ、総司令官のスフヤーンの手腕による所もあっただろう。ハーリド個人が抜きん出た才能を示すのはイスラムに加わってからであった。今回記述する627年の塹壕の戦いは彼がイスラムと戦った最後の会戦である。

4-1. ウフドの戦いの後

メッカvsメディナ
 ウフドの戦いはハーリドの活躍も有りメッカ・クライシュ族(以下メッカと呼称)の勝利に終わった。メッカ側の最有力者スフヤーンはメディナ・イスラム勢力(以下イスラムと呼称)がこれで衰退していくであろうと踏んでいた。復讐戦を見事果たしたことで面目は保たれたこともあり、彼はメディナへの突入をすることなくメッカへの帰還の途に着いた。

 しかし彼の予想に反しムハンマドはここから再び立て直していく。彼は敗北したとは言え戦術的には優れた才覚の端緒を見せていた。帰途のメッカ軍を襲撃し自分たちが終わっていないことを内外に示すことにも成功していた。そして2年も絶たぬうちに以前を上回る勢力を獲得するのであった。

 ハーリドはウフドの勝利にも関わらず一族の者が戻っってこないことに関心をいだき始めていた。何より現状のメッカの支配体制に不満があったであろう。続きを読む

前回バドルの戦い←           →初回及び参考文献

3-1. メッカ・クライシュ族の再侵攻とハーリドの参陣 [the battle of Uhud]

メッカvsメディナ
 西暦624年、ムハンマド率いるメディナ・イスラム勢力はバドルの三叉路の戦いで数倍のメッカ・クライシュ族を撃退し有力者の1人ハカムを戦死させた。この寡兵で得た勝利はイスラムを勢いづかせるには充分であり、メディナの勢力は更に増大を始めた。
 一方で権威を失墜させ有力者を何人も失ったメッカ・クライシュ族は焦っていた。交易と参拝で成り立つメッカで部族と己が神の沽券を失えば取り返しがつかないことに成ってしまう。有力者が戦死したことで事実上の指導者となったスフヤーンは、部族会議を開き復讐を行うことを決定した。
 スフヤーンはバドルと同じ戦い方では勝てないことを悟っていた。彼は時間をかけ充分な準備をしてから出撃することに決めた。バドルの戦いから1年弱たった625年、スフヤーンは装備を整えると復讐戦を開始した。その中には騎兵部隊等の隊長格として参画したハーリドの姿があった。
 家族の中には既にイスラム側に行ってしまった者もいたが、武門の一族マフズーム家の誇りを賭け彼は戦いに赴く。


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前回←                      →【初回及び参考文献】 

2-1. イスラム初の会戦 ー バドルの三叉路の戦い ー

 
メッカvsメディナ
 西暦624年、イスラム勢力にとって史上初の会戦が訪れた。場所はバドルの三叉路と呼ばれる3つの道の交差点だった。この戦いにハーリド・イブン・アル・ワリードは加わってはいない。ただこの戦いは来たるハーリドの才能が初めて歴史に現れるウフドの戦いの直前の戦いであり、ハーリドの敵将としてのムハンマドの軍事手腕を語る上で欠かせないためここに記述することとする。
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前回 ← →次回

1-1. 武門の一族

 ハーリド・イブン・アル・ワリードはクライシュ族の中の有力一門である マフズーム家(バヌー・マフズーム)の生まれである。マフズーム家は特に戦ごとに責務を負う一族であったと言われている。この一族はクライシュ族が戦で乗る馬を育て訓練し、遠征軍の準備とその仕組を調整することができた。訓練された馬だけでなく未調教の若馬やラクダも乗りこなし馬上で戦えるようになることを求められた。それ故に戦時においてこの一族の者が指揮官格を占めることが多くあったのである。その武門の空気を吸いハーリドは育っていくこととなる。
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He promised himself battle. He promised himself vicotry. And he promised himself lots and lots of blood.
      ー『 神の剣:ハーリド・イブン・ワリードの生涯と戦役集』第1章より抜粋 ー 
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 本稿はイスラム勃興を支えた不世出の将ハーリド・イブン・アル・ワリードの参加した数多の戦役とその会戦における指揮を追っていくものである。そしてその中で彼がなぜ圧倒的な戦歴にも関わらず不遇の扱いを受けたのか、特にその軍事勢力の特性から紹介したい。

イスラムの勃興
< イスラム勃興期の急激な勢力拡大 >
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