戦史の探求

戦史の情報を整理し探求するサイトです。 古今東西の全てを対象とし、特に戦況図や作戦図に着目しながら戦略・作戦・戦術について思索します。

カテゴリ: 戦例

 リビア内戦において、2020年5月まではLNA(トブルク政府側)の戦略的攻勢期でした。そしてついに2020年6月初頭にそれは崩れ、GNA(トリポリ政府側)の攻勢期に移りました。より詳細部に触れるとGNAの逆襲作戦『憤怒の火山』などがあり両軍の膠着状態がトリポリ近郊で長らく続き、交通の要衝や空港を激しく奪い合う膠着期間がありました。

 その中で見られた作戦および戦術は興味深いものであり、戦史上幾度も議論された事象に関係していました。今回はリビア内戦の中でも最上級に大規模で大胆な、2019年4月よりLNAが発起した西部戦役の攻勢主軸を巡る紹介と考察をしてみたいと思います。
20190404_西部戦役
 軍事的/非軍事的を問わず多くの要因が戦局に影響を与えましたが、本稿で焦点とするのはただ1点、LNAのトリポリ突進は作戦レベルで適切な軍事的判断であったかどうか、それのみです。軍事的概念に置き換えるなら、周辺の敵拠点を占領せずに大規模補給拠点から遠く離れた敵中核都市の奪取に主力を突進させる方針の是非、となります。
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 古代ローマ、この強大な国家には何度か変質をした転換点がありました。その内の1つが前1世紀に起きたガリア戦争及びローマ内乱期です。これらの戦争の中で幾人かの優れた将軍、そして後世で研究されることになる高度な戦術と作戦が記録されることになります。この転換期にユリウス・カエサルは絶大な影響をもたらし歴史上において比類なき人物としてその存在を刻み込みました。
 彼の賛同者は最高の賞賛を与え反対者は最大の批判をし、歴史に興味を抱かない人々の間ですら名を覚えさせてしまうほど、カエサルはあまりにも魅力的人物なのでしょう。軍事面においてもカエサルは単に会戦に勝ったというだけでなく高度かつ複雑な軍事理論を遂行しており、極めて卓越した将なのは間違いありません。

 ただ、あるいは故にと言うべきでしょうが、彼と戦った者達もまた忘れられるべきではない活躍をしています。政治、外交、軍事、文才、コミュニケーション能力…ほぼあらゆる面で圧倒的に優れていたカエサルに対しそれでも戦いを挑んだ人々の存在は何かの意味を残したのだと思います。
 今回はその中のティトゥス・ラビエヌスという人物の戦史を紹介したいと思います。人物の伝記はBlake Tyrrellが記してくれていますので本稿ではテーマとはせず、幾つかの軍事理論の方を主題としその実戦例としてラビエヌスの戦史記録を取り上げることとします。(よって紹介する会戦の時系列を意図的に並べ替えます。)

 かつて副司令官としてカエサルと共に戦い、後にカエサルを相手に戦い、そしてカエサルに会戦で勝利した1人の軍人の記録です。

BCE52_Battle of Lutetia_4
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 東ローマのユスティニアヌス、そしてササン朝のカワード1世は恐らくこの2大国の長き歴史の中でも有数の名を知られた君主です。彼らの時代に両国間国境は大きく動きはしないものの多くの衝突を繰り返しました。まさに大国らしい大規模な軍事戦略と強かな外交の中で、幾名もの将が会戦を行い名を残します。そして531年にとある戦役がユーフラテス川沿いで発起されました。

 カリニクム戦役と呼ばれるこの時東方戦線の司令官を務めたのは後に東ローマで最高の将と称えられるべリサリウスでした。米軍や英軍ではかなりの人気があり日本でも知名度は東ローマの中ではずば抜けた将軍だと思います。まだ若きべリサリウスはこの戦役でもその優れた才覚の片鱗を見せササン朝の侵攻に対抗します。
 一方ササン朝の遠征軍を率いたのはアザレテスと呼ばれる軍人でした。彼は記録が少なく恐らくあまり知名度の無い人物ではありますが、本戦役でその手腕を明確に示すことになります。1つは会戦を避けようと退却し作戦全体を見直した視野の広さで、そしてもう1つはあのべリサリウス率いる東ローマ軍を壊滅させた戦術で、アザレテスは素晴らしくそして後世の人々が幾つかの軍事理論を理解するのに役立つ指揮を戦史に残してくれました。

 以下にはカリニクム(現ラッカ周辺)で行われた会戦での水場側への片翼包囲、兵士統制の難しさ包囲の困難性とリスク、対包囲戦術としての鈎型陣形、そして会戦へ到るまでの退却行について注目しながらその戦史を紹介しようと思います。
531_Battle of Callinicum_gif

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 ソ連のアフガニスタン紛争は山岳ゲリラ戦に関する多くの教訓を残しました。戦後1991年、フルンゼ軍事アカデミーで数多の戦闘記録を集め分析した書籍が編纂され、それは米軍指揮幕僚大学とも共有されました。その中に山岳ゲリラの掃討を成功するために満たさねばならない3つの基本事項があります。

1偵察 preliminary reconnaissance
 事前に偵察を行いゲリラ部隊のいる場所を明らかにしておかねばならない。その際にはゲリラ戦力の編制と彼らがどう動くかの予想をつけておくこと。

2ブロック limit / constrain / block
 ゲリラの移動を拘束しなければならない。戦術的空挺強襲や急襲部隊などを用いて敵ゲリラの撤退ルートを全て塞ぎ、逃げようとする敵をブロック部隊の打撃に晒せるようにする。

3掃討 sweeping
 敵戦力は我が方の主力掃討部隊によって撃滅されねばならない。あるいは正面攻撃をもって撃滅する。(撃退などではなく、撃滅しなければならない。)

 この内のどれか1つでも満たしていなければ、(相手側にミスが無い限り)ゲリラ掃討任務の成功は難しくなるとされています。敵と密接に接触し情報を入手し、ブロック部隊がマニューバを行い配置につくと同時に戦闘によって敵をくぎ付けに拘束し、そして敵ゲリラ部隊を包囲し撃滅すること。これがソ連軍が1978年から89年までの長きに渡りアフガニスタンで戦争をして数多くの戦例で犠牲を払い確認した山岳戦の基本事項でした。

 前回はこの3つの基本事項を具体的な戦例の中で説明しました。
【アフガンゲリラ山岳戦例集_1980s_掃討作戦】
http://warhistory-quest.blog.jp/20-Jan-24

 この基本を踏まえた上で応用的な戦例を1つ紹介しようと思います。既にソ連側もゲリラ側も疲弊し、しかし戦術的な知見が積み重なり洗練されてきた時期である1984年、ソ連・アフガン政府の連合軍が掃討作戦を実施します。そこでゲリラ側は逃げ続けるのではなくあるタイミングで逆襲を仕掛けました。場所はパンジシール渓谷南西部、指揮官はアフマド・シャー・マスード、この戦争で最も名を馳せた将です。
1982_マスードの対包囲_高地と町の同時攻撃_All

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 山岳ゲリラの掃討作戦を成功するために満たさねばならない3つの基本事項があり、それは『偵察ブロック掃討』であるとソ連軍は述べました。
 この内のどれか1つでも満たしていなければ(相手側にミスが無い限り)ゲリラ掃討任務は成功が難しくなります。山岳ゲリラ掃討作戦では敵と密接に接触しそして情報を入手し、ブロック部隊がマニューバを行い配置につくと同時に敵をくぎ付けに拘束し、そして敵ゲリラ部隊を包囲し撃滅します。
 積み重ねられた全史の戦闘記録はこれが必要であることを示していますが、今回は特に1980年代のアフガニスタン紛争での戦例を複数取り上げ、具体的に上記3つの基本事項がどう影響したかを説明していこうと思います。
アフガン戦例集_掃討

参照元文献_米軍と共有したソ連フルンゼ軍事アカデミー編纂書籍

 アフガニスタン紛争は軍事侵攻をしたソ連と現地協力政府アフガニスタン民主共和国に対し各地方勢力が主にゲリラで戦ったものです。ソ連軍では侵攻初期から様々な課題が浮き彫りとなり、戦争中にそれを改善していこうと尽力し戦争後もその試みは続けられました。1991年にソ連軍はこの戦争の山岳ゲリラ戦例を多数まとめあげその軍事的分析、教訓集を作り上げます。『アフガニスタン共和国でのソ連軍の戦闘活動集』と名付けられた本書はフルンゼ軍事アカデミーとして知られる指揮幕僚の最高学府で編纂され使用されることになります。

 時を同じくして米ソ冷戦が終わり両国は急接近していました。CIAの現場職員が驚くほどに両国はもう敵でなくなるのだとと上層部から通達が入ります。それは軍事面でも同じで、なんとソ連軍はこの極めて貴重な軍事資料を作成後「即座に」米軍と共有しました。フルンゼ軍学校で出版されたのは1991年であり、米軍が正式に受領し翻訳して英語版を製作したのは同じ1991年です。ソ連軍は赤裸々に自分たちのミスが記された、そして膨大な血と金を代償に得た軍事的教訓の実例を米軍に直接明かしました。そこにはアフガン侵攻の基本戦略軍事コンセプト、そして対山岳ゲリラ戦術の説明も載っています。訳者のグラウ中佐を筆頭にソ連軍事研究の大御所グランツ大佐などが関わり、米国指揮幕僚大学外国軍事研究室(FMSO)の責任の下で英語版が発行されることになります。米軍側もこの資料を自軍が将来戦う可能性のあるタイプの戦役であると大切に受け止めました。文章の構成はまず実戦記録が短く記され、次にフルンゼ軍学校の分析、そして米軍の(FMSOがレビューした)英語版編纂者のコメントが追記される形となっています。

 「軍部同士の暫定的な交流プログラムが実施拡大されており、米ソ両軍の巨大な相違を橋渡しする試みが為されその2国の軍は将来、統合作戦と平和維持作戦をする可能性がある。」
L.W.グラウ

 これは英語版の前文(p.XX)に書かれた記述の抜粋です。ソ連はロシア連邦へと変わり、現在2020年時点では両国は友好的とは言えず、本格的な米ロ統合軍事作戦という90年代に抱かれた夢は難しい情勢です。それでも2001年からアフガニスタンで新たな戦争を続ける米軍にとってこの資料は非常に高い価値があり、開戦時の将校の中の何人かあるいはかなりの人数が読んで参考としていたはずです。実際に2000年に発行された米陸軍野戦教範FM3-97.6 Mountain Operationsには多分にこのフルンゼ軍学校の本の内容が反映されており、実戦例と図もそのまま参照しているものがあります。

「これはソ連・アフガン戦争における最初の暴露資料である。そしてこれが最後の資料でないことを祈っている。」
D.M.Glantz Introductionより抜粋

 この書籍の中には膨大な数の戦例が記されていますが、本記事はその中から掃討作戦について記された箇所を参照とし記すことと致します。
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 AirLand Battleと機略戦の理論を押し進めていた冷戦末期の米軍がこのコンセプトを自国なりのやり方で導入するために、委任戦術Auftragstaktikが根付いた将兵がどういった行動を取れたのか、研究した論文についての試訳です。
 前半はAuftragstaktikとはどういうコンセプトだったのか、その歴史の概略と共に記されています。
リンク↓【試訳_委任戦術とその歴史概略】
http://warhistory-quest.blog.jp/19-Dec-15

 この後半は論題通りの主箇所、チル川の戦いにおけるドイツ第11装甲師団の戦例について書かれています。
恐らくドイツ側の説明はほぼ不要なほど有名ではあると思いますが
・ソ連の天王星作戦によりスターリングラードで包囲された第6軍
・マンシュタイン元帥のドン軍集団が解囲を試みた冬の雷雨作戦
・ソ連が南部に展開するドイツ軍全体の崩壊を試みた(小)土星作戦
に関係しています。

 スターリングラード解囲のためのドイツ軍攻勢とは別に、その直前からソ連第5戦車軍はチル川突出部を潰そうと継続的な攻勢を仕掛けました。そこで第48装甲軍団は敵を撃退するために苦闘することとなります。
 互いに思い通りに行かなかった点は多々あるものの、その戦闘内容は教訓に富んだものであると米軍は解釈しており、本論文はそれを具体的にAuftragstaktikが根付いた指揮と統制に着目し記述しています。
図3_1942年18日~19日_第11装甲師団のチル川沿いでの逆襲
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 以下、試訳

Order Out of Chaos : チル川の戦いにおけるドイツ第11装甲師団の活動

【著者】Robert G. Walters 米陸軍大尉 (当時)
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