戦史の探求

戦史の情報を整理し探求するサイトです。 古今東西の全てを対象とし、特に戦況図や作戦図に着目しながら戦略・作戦・戦術について思索します。

カテゴリ: 戦例

 ウィリアマイト戦争の最終盤においてジャコバイト・ウィリアマイト両軍は最も激しい戦闘を交え、文字通りの決戦となりました。その会戦はイギリス・アイルランド史において極めて重大な出来事として知られています。そして本会戦の戦術は野戦での包囲戦術に対し重要な思索を与えてくれています。 
 本拙稿はアイルランドで人々が戦い抜いた終末、オーグリムの戦いについて記述したいと思います。
1691_Battle of Aughrim_片翼包囲と死闘
→【ボイン川の戦い_1690_迂回】の歴史上での続きとなります。続きを読む

 マニューバにおいて迂回は年月を経るごとに重要性を増し、あるいは重要視されるようになってきています。

 西欧の近世と呼ばれる時代、野戦築城は既に一般化し強大な効果を会戦にもたらしていました。迂回はそれを攻略するための極めて有効な対策手法として戦史に姿を見せてくれます。本稿はその戦例の1つ、17世紀末に行われたボイン川の戦いについて記述しようと思います。
Battle of the Boyne_迂回と包囲 の戦例

 アイルランド史において最も重要な会戦の1つであり、イギリス政治史で議論が近年進むジャコバイト関連ですが軍事面以外は概略となることご容赦下さい。続きを読む

 第2次チェチェン紛争の最初期においてチェチェン武装勢力は幾度かロシア連邦軍の部隊に損害を与えました。
 本記事はその内の「776高地の戦い」(別名ウルス・ケルトの戦い)を紹介したいと思います。
 それまでゲリラ戦をしていたチェチェン・イスラム過激派が勝負に出て山岳地帯で大規模な攻撃に討って出て発生した戦です。

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 1992年、ロシア連邦軍は混乱の中で新たな門出を迎えました。
チェチェン紛争_侵攻ルート
 ソ連の解体による組織改編、経済苦境による軍予算の縮小、組織の腐敗などの様々な苦境に直面します。必死で再編が進められる中で彼らはかつてのソ連構成国への軍事侵攻を行います。その内の1つがチェチェン紛争と呼ばれるものです。
 この軍事侵攻は様々な教訓を新生ロシア連邦軍に、時に軍事的に大いなる反省を必要とするものを彼らにもたらしました。

 その中の1つ、2000年3月に行われたセルギエフ・ポサードOMONの伏撃について、C.W.Blandy氏の文献を基軸に分かっている範囲で記載しようと思います。

 最初に結論を書いておきます。この戦闘はOMONによる「見事な」待ち伏せ攻撃であり、そして救いのない同士討ちと考えられています。
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 帝政ローマは地中海を中心とする大国として君臨し途轍もない業績を達成しました。

 その広大な版図をもたらした一要素、ローマ軍団の存在は戦史の中に膨大な戦例を遺してくれています。
 今回は彼らが突き進んだ北西の果、ブリタニアの戦役で女王ブーディカ率いる反抗勢力と行われたワトリング街道の戦いに関して記述しようと思います。
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 ソビエト連邦はWW2で人類史最大の戦争に勝利し、その軍事理論は今なお多くの戦史家を惹きつけています。
 WW1の途上で生まれたソ連軍はその直後からWW2までの間に東アジアから中央アジア、そして東欧と北欧に至るほぼ全域で戦争を行っており、大戦間における戦闘経験は世界で最も多い国の1つとなります。これらの中から軍事理論家やWW2で優れた手腕を発揮する将軍たちはその姿を現して来ました。
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 本記事はWW2の作戦指揮官の最高峰と讃えられることもあるロコソフスキー将軍が参加した1929年の中ソ紛争におけるマンジョウリ・ジャライノール攻勢について記述しようと思います。
 騎兵の活躍した戦いであり、同時にソ連が国産設計した戦車の最初期にあたるT-18戦車の実戦としても知られています。続きを読む

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