戦史の探求

戦史の情報を整理し探求するサイトです。 古今東西の全てを対象とし、特に戦況図や作戦図に着目しながら戦略・作戦・戦術について思索します。

カテゴリ: 包囲

 16世紀、中~西欧において銃の性能と戦術の発展は、他の様々な要素と絡み合いながら戦場の様相を少しずつ変えつつあり、異なった度合いながらその事象は世界各地でも見られました。今回は西アフリカ戦史において重大な契機と捉えられ、そして幾つかの誤解をかつてされていたBattle of Tondibiについて記します。

 この戦例の中では戦史で注目される幾つもの事象を見ることができ、非常に意義の深いものとなっています。

・火薬技術と戦列銃兵について全く未知の軍が、火薬にあまりにも偏った依存をした軍と対決した
・モロッコ軍歩兵において銃兵が占めた割合が50%を超え、更に殆ど槍兵がおらず戦闘した可能性がある
・銃兵vs騎兵の発生
・銃兵vs弓兵の直接的対決が起きた
・包囲戦術の敗北
・牛の突撃または塁壁化戦法
・砂漠を横断する長期行軍とその膨大な損失
・会戦に勝利できても後の広域の統治支配を行える軍ではなかった
・宦官の指揮官
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  騎馬戦士よ!ラワ戦法などに首を突っ込まず、
  自らの命を惜しむがいい。

プーシキン詩作『騎馬戦士』(1829年)
(鈴木淳一, "В.В.コージノフ『19世紀ロシア抒情詩論(スタイルとジャンルの発展)』翻訳の試み(3)", p.67より抜粋)
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 ラワという軍事単語は現在はあまり使われません。ただ戦史を調べていく中で特定の人々、例えば旧日本軍の戦術書籍を読む方々はこの言葉に出会い、なぜ固有名詞化されているか気になったかと思います。
lava_various

 本件はよくある話ですが、調べれば調べるほどわからなくなるテーマでした。ラワとは戦術的概念であるという説明の他に、フォーメーション寄りの解釈をしているものが少なからずあったからです。資料元のロシア国内ですらこの解釈に混乱があるという話を見た時、どれか1つの書籍にあるものをそのまま主張するのではなく、複数の資料を列挙して示しておくことにしました。ですのでラワとは何かの普遍的定義を導くのではなく、複数解釈ある背景を説明する方に比重を置きました。
 かなり厄介なテーマでしたがようやく調べが進んだので簡易ながら覚書を残します。同じく興味を持つ人がいつか現れ、調べた時に少しだけ助けになれたら幸いです。続きを読む

 1917年末に開始されたロシア内戦は拡大し、ボリシェヴィキと呼ばれたレーニンらの政府勢力は各地で戦線を開くことになります。諸反対勢力の蜂起だけでなく諸外国の干渉は事態を複雑化しました。
 1918年初頭に労農赤軍の創立が正式に宣言されボリシェヴィキは一部で反撃を開始するも白軍や外国軍によって幾度か危機を迎えます。3月にドイツら中央同盟国軍に大規模な領土割譲を認める代わり戦争を収束させるブレスト=リトフスク条約を締結。ただ諸白軍との戦争は続き、しかも今度はWW1の戦勝国が介入を本格化します。ボリシェヴィキはモスクワを中心としながらペトログラード(後のレニングラード)やスモレンスクを保持する領域で耐えロシア各地で支持者が入り乱れます。

 1919年は特に厳しい時期であり、レーニンは帝国時代の首都だったペトログラードの放棄を悩むほどになります。この時ペトログラードへ迫ったのはそれまであまり日の目を見ていなかったバルト三国周辺、特に陥落していなかったエストニアから進む北西軍でした。率いていたのはWW1オスマンとの戦線で活躍したユデーニチ将軍です。彼は連合軍の支援を受け、関係勢力を驚かせる進撃を見せました。
1919_ユデーニチの攻勢と赤軍の反撃

 以下にはユデーニチ北西軍と対したペトログラード周辺の赤軍及びトロツキーについて中心に、その戦闘の一部を鉄道路線に着目しながら記載します。
別記事→【資料紹介_ロシア内戦_戦況図集】に全体図はあります。

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 第2次チェチェン紛争の最初期においてチェチェン武装勢力は幾度かロシア連邦軍の部隊に損害を与えました。
 本記事はその内の「776高地の戦い」(別名ウルス・ケルトの戦い)を紹介したいと思います。
 それまでゲリラ戦をしていたチェチェン・イスラム過激派が勝負に出て山岳地帯で大規模な攻撃に討って出て発生した戦です。

map_104連隊
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 1992年、ロシア連邦軍は混乱の中で新たな門出を迎えました。
チェチェン紛争_侵攻ルート
 ソ連の解体による組織改編、経済苦境による軍予算の縮小、組織の腐敗などの様々な苦境に直面します。必死で再編が進められる中で彼らはかつてのソ連構成国への軍事侵攻を行います。その内の1つがチェチェン紛争と呼ばれるものです。
 この軍事侵攻は様々な教訓を新生ロシア連邦軍に、時に軍事的に大いなる反省を必要とするものを彼らにもたらしました。

 その中の1つ、2000年3月に行われたセルギエフ・ポサードOMONの伏撃について、C.W.Blandy氏の文献を基軸に分かっている範囲で記載しようと思います。

 最初に結論を書いておきます。この戦闘はOMONによる「見事な」待ち伏せ攻撃であり、そして救いのない同士討ちと考えられています。
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 戦史において古代ギリシャとオリエントは欠かすことのできない発展の礎と位置づけられています。トゥキュディデスやクセノフォン、アッリアノス、フロンティヌス等の戦史家達は軍隊の動きをある程度把握できるほど詳細な記録を編纂し残してくれました。

 本稿はペロポネソス戦争初期において、個々の戦闘技術で上回るスパルタ軍の重装歩兵にアテネ軍が作戦・戦術によって対抗したスファクテリアの戦いについて記述します。
BC425_Battle of Sphacteria_1

(以下本文敬略)続きを読む

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