戦史の探求

戦史の情報を整理し探求するサイトです。 古今東西の全てを対象とし、特に戦況図や作戦図に着目しながら戦略・作戦・戦術について思索します。

カテゴリ: 対包囲

  1965年印パ戦争において9月第2週は最大規模の衝突が同時的に複数起きた期間となりました。両国は機甲部隊を投入し積極的な侵入を行い、そして守る側でも機甲部隊に重大な役割を任せることになります。

 その舞台となったシャカルガル突出部北域での戦い(Battle of PhilloraとBattle of Chawinda)そして南の戦い(Battle of Asal Uttar)はインドでは度々「WW2以降で最大の戦車戦」というフレーズを持って紹介されます。実際に最大なのかの戦例比較検証はともかく、確かに彼らがそう言いたくなるほど機甲部隊は激しい戦闘を繰り広げました。戦車に対抗するために戦車をぶつけなければならないというルールは戦争には無く、実際に対戦車砲や航空機が戦果を挙げていますし現代なら対戦車誘導ミサイルなど数多くの効率的手段があるのですが、1965年印パ戦争では両軍総司令部の問題もあり戦車対戦車の局面が大規模に発生し非常に興味深いものになっています。

 今回はその中でも極めて見事な戦術が実行されたアサル・ウッターの戦い(別名ケム・カランの戦い)について記そうと思います。
battle of Asal Uttar_9月10日_午後戦闘ピーク-min

続きを読む

 今回は片翼が一時的に押し込まれ包囲形が見え始めた時、そこから逆襲する戦術の事例としてアヴァライールの戦い(Battle of Avarayr)を紹介したいと思います。この会戦はアルメニア史およびアルメニア正教にとって極めて重大な戦争として位置づけられておりますが、ササン朝側に重点を置きながら紹介したいと思います。
451_battle of Avarayr_9

続きを読む

 包囲を行ってくる敵に対してどう対処するかという命題について戦史には様々な応えが記されています。そもそも包囲を行える部隊組織を持ち、発案しくる敵指揮官は優れた相手であることが多く、それを上回る戦術は卓越したものとなります。

 第3次ラムラの戦いは包囲を企図した者とそれに対抗した戦術が現れた良質な戦例です。

 この戦いの指揮官、十字軍国家の王ボードゥアン1世は中東で戦歴を積み重ねてきました。
 直近の会戦で対決したファーティマ朝軍は数で上回っていたためか尽く包囲を試みており、第1次ラムラ会戦では包囲が失敗し、第2次ラムラ会戦では前回の欠点を見事に改善し包囲戦術を成功させボードゥアンを破りました。学習し成長したとも言えるこの敵に対してボードゥアンもまた戦術的な変化を持って再び戦に挑みます。
スライド9

(以下 本文敬略)
第1次ラムラ会戦及び第2次ラムラ会戦に関する記事は本リンク参照
続きを読む

 包囲戦術・作戦は軍事史において古今東西変わらずその有効性を示し続け、今や米軍の教範に戦術上最も検討優先度の高いマニューバとして記されています。
 しかし包囲を行おうとすれば勝てるというわけではなく、相手もまた優れた軍事知識を持つ将校である場合に包囲を成功させることは至難であり、逆襲を受け敗北することもあります。特に相手の包囲を上回り逆襲する手法は対包囲(反包囲)という括りを為され、恐らく戦術という観点では最も高度な手法の1つが見られるでしょう。
 といっても複雑な対包囲もあればシンプルなものもあります。時に対包囲というより包囲側の自滅的な要素もありますが、いずれも迅速で大胆な決断力を必要とします。なぜなら全て巨大なリスクを背負わなければできないマニューバだからです。

 今後このサイトではある程度、包囲戦術の各タイプごとの戦例をあげた後、それらに対する対包囲戦術・包囲戦術失敗の戦例を定期的に投稿していこうと考えています。

 この記事はその最初の投稿となります。会戦の名は「ラムラの戦い」、中世に行われた十字軍騎士とアラブ兵の戦闘です。
スライド6

(以下本文敬略)
(対包囲戦術の例:第3次ラムラの戦いは本リンク参照続きを読む

↑このページのトップヘ