戦史の探求

戦史の情報を整理し探求するサイトです。 古今東西の全てを対象とし、特に戦況図や作戦図に着目しながら戦略・作戦・戦術について思索します。

タグ:インド

 片側に通行困難地帯という地理的条件を有する時、軍の戦術的/作戦的な選択にどのような影響をもたらすかは必須の検討事項です。特に「水場側への」片翼包囲にするか「水場側からの」包囲にするかというテーマで考え別拙稿を作成しようと思います。本稿はその実戦例の1つとして記しました。
 取り上げているのはラスワリーの戦い、18世紀末~19世紀初頭にインドで行われたマラーター戦争における会戦の1つです。英国の名高いウェリントン公ではなく、インドでの戦歴なら彼より長いジェラルド・レイク将軍が指揮を執りました。
ラズワリーの戦い gif

 戦術的/作戦的な要素の考察は別拙稿参照。
⇒リンク 【開放翼から通行困難地帯へ向けた翼包囲の合理性】及び【水場側からの片翼包囲の戦例集】
http://warhistory-quest.blog.jp/20-Oct-26
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  1965年印パ戦争において9月第2週は最大規模の衝突が同時的に複数起きた期間となりました。両国は機甲部隊を投入し積極的な侵入を行い、そして守る側でも機甲部隊に重大な役割を任せることになります。

 その舞台となったシャカルガル突出部北域での戦い(Battle of PhilloraとBattle of Chawinda)そして南の戦い(Battle of Asal Uttar)はインドでは度々「WW2以降で最大の戦車戦」というフレーズを持って紹介されます。実際に最大なのかの戦例比較検証はともかく、確かに彼らがそう言いたくなるほど機甲部隊は激しい戦闘を繰り広げました。戦車に対抗するために戦車をぶつけなければならないというルールは戦争には無く、実際に対戦車砲や航空機が戦果を挙げていますし現代なら対戦車誘導ミサイルなど数多くの効率的手段があるのですが、1965年印パ戦争では両軍総司令部の問題もあり戦車対戦車の局面が大規模に発生し非常に興味深いものになっています。

 今回はその中でも極めて見事な戦術が実行されたアサル・ウッターの戦い(別名ケム・カランの戦い)について記そうと思います。
battle of Asal Uttar_9月10日_午後戦闘ピーク-min

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 1965年の印パ戦争はエスカレートを続け、後期は完全な正規軍同士の正面衝突となります。ジャンムー&カシミール地方根本の突出部周りで会戦が複数行われ、短期間ながらも攻守が入れ替わる流動的な戦闘が起きました。

 それらの攻勢が開始された原因は、ある重要地点を救うために別の重要地点に攻撃をかけるという戦略を両国共に取ったからでした。しかしそれは充分な準備なしに攻撃と反撃を実施する事態を引き起こし、戦闘部隊の活躍とミスの両方があったことで決定的な戦果へと到ることは困難でした。
 今回はその一部、Operation Grand SlamとBattle of Lahoreの2つについて記述してみたいと思います。戦術面ではパキスタン機甲旅団による川を背にした狭域での積極的迎撃戦闘に着目しています。

※1965年戦争のフェイズ1とフェイズ2は【ジブラルタル作戦_ハジピール山道の戦い_1965_ゲリラ浸透と対抗作戦】を参照 リンク↓
http://warhistory-quest.blog.jp/19-Nov-08

※長くなるためWW2以降で史上最大の戦車戦とインド軍が謳うアサール・ウッターの戦いとフィロラの戦いは次回以降。
北部_第15師団戦域_9月8日午後
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 1965年、インドとパキスタンは短いながらも激しい戦争を行いました。北部のジャンムー&カシミール地方の領有を巡る対話は頓挫し武力解決を政治指導部は決意します。最初は様子見のような衝突を行い、次第にエスカレートし互いに強力な軍事攻勢を実施しました。

 この戦争は主に4つの段階で分類されます。
第1フェイズ】:1月から起きた南部カッチ湿地帯での衝突、これは準軍事組織が最初に動き軍同士の衝突は小規模で終結。インドは『アブレイズ』作戦による西方動員開始。

第2フェイズ】:パキスタンが『ジブラルタル』作戦を発動しインド実効支配カシミールへ大量のゲリラを浸透させる、それに反応してインドは対ゲリラ作戦として停戦ラインを越えハジピール突出部へ攻撃する。

第3フェイズ】:カシミール西部停戦ラインを越えたインド正規軍に脅威を感じたパキスタン政府はジャンムー近域で正規軍による侵攻作戦『グランドスラム』を実施。インド軍は押し込まれたが逆襲し機甲戦が発生する。
  記事リンク→http://warhistory-quest.blog.jp/19-Nov-15

第4フェイズ】:カシミールではなくその南傍であるラホール地域でのインド軍の攻勢『リドル作戦』が発動。だがパキスタン軍は即座に撃退し第1機甲師団が逆侵攻の突進をしかけた。それにインド第2機甲旅団が反応し「WW2以降で史上最大の戦車戦」とインド軍が謳う戦いが発生。
  記事リンク→http://warhistory-quest.blog.jp/19-Nov-22
pakistan_offensive_1965

 1965年戦争は両国政府が「敵を撃退し勝利した」と宣言しそれに則った報道が為されてきましたが、2000年前後から特に軍人の手によって当時の記録を再分析する試みが進み、2010年代には複数の記事や本が作られました。それらの資料は部分的な勝利での戦術的に優れた行動を行った将兵を称えながらも、伝達ミスや深刻な戦略的失敗が互いにあったことを浮き彫りにしています。

 今回は第1と第2フェイズのゲリラ戦及び対抗作戦について記述し、次回は第3と第4フェイズの機甲戦について書こうと思います。続きを読む

 サンスクリット語の「 व्यूह = Vyuha(ビューハ)」は軍事的には部隊配置という意味で使われ、「一般的なビューハ」は陣形と捉えられます。ただしあくまで一時的な位置関係を示すのみであり、そこから流動的な展開をするのが殆どです。

 古代インドの陣形について参考程度ですが判った範囲で紹介しようと思います。…ご覧になればお分かりになるかと思いますが、色々と困惑させてくれる陣形集です。
 最初はお伽噺だと気にしていませんでしたが、バクシ少将が大真面目に資料を作成したのを見て慌てて調べ直しました。
Garuda_vyuha_(eagle_like_array) - 2
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 ナポレオンの最後の戦い、ワーテルローの戦いで彼を破った勝者として抜群の手腕を認められている人物
初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー

 ワーテルロー以前にインドで快進撃を続けたことで英国内で彼の名声は確立していました。そして続いて対ナポレオン戦争へ挑みスペインでスルト、ジュノー、マッセナ達ナポレオン配下の優れた将軍を相手に優勢に進め欧州中にその名を知らしめます。
 彼は戦略的には攻勢でありながら、会戦では優位な地形を占め態勢を整え相手を待ち受ける守戦を得意とし慎重なその采配は高い評価を得ています。
 
 ただ勿論ウェリントン公は常に優位な地形で防戦という状態を迎えられたわけではありません。時に自分から突撃が必要な際には激烈な攻勢に出ました。
 今回はウェリントン公の指揮官として初期の、そして彼にとって最も血塗れた損失をだした戦いの1つだと言われるアッサイェの戦いについて記載しようと思います。

Battle_of_Assaye_advance
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