戦史の探求

戦史の情報を整理し探求するサイトです。 古今東西の全てを対象とし、特に戦況図や作戦図に着目しながら戦略・作戦・戦術について思索します。

タグ:ソ連

 ソ連とロシアで使用されてきた戦術レベルの中隊及び大隊防御フォーメーションの説明と、技術発展の中で別のフォーメーションに改革すべきだとし提案された新型案の紹介をしてみようと思います。
Trefoil formation by a company
 20世紀末のソ連において(もしかすると21世紀のロシア軍内の一部でもまだ) 議論された防御隊形があります。 それはトレフォイル=三つ葉と呼ばれた隊形です。これは極めて大胆な変化を防御の基盤にもたらし得る発想でした。
 強大な軍事力を有する敵と対峙する戦場において、ソ連軍内では従来の防御隊形では技術的発展や新たな性質に十分対応できないと考え、新型フォーメーションを提案した者達がいました。今回はまずWW2から現代まで使用されている従来の2梯隊型防御フォーメーションを説明した上で、次に新型案を巡る議論の一部を訳します。
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  騎馬戦士よ!ラワ戦法などに首を突っ込まず、
  自らの命を惜しむがいい。

プーシキン詩作『騎馬戦士』(1829年)
(鈴木淳一, "В.В.コージノフ『19世紀ロシア抒情詩論(スタイルとジャンルの発展)』翻訳の試み(3)", p.67より抜粋)
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 ラワという軍事単語は現在はあまり使われません。ただ戦史を調べていく中で特定の人々、例えば旧日本軍の戦術書籍を読む方々はこの言葉に出会い、なぜ固有名詞化されているか気になったかと思います。
lava_various

 本件はよくある話ですが、調べれば調べるほどわからなくなるテーマでした。ラワとは戦術的概念であるという説明の他に、フォーメーション寄りの解釈をしているものが少なからずあったからです。資料元のロシア国内ですらこの解釈に混乱があるという話を見た時、どれか1つの書籍にあるものをそのまま主張するのではなく、複数の資料を列挙して示しておくことにしました。ですのでラワとは何かの普遍的定義を導くのではなく、複数解釈ある背景を説明する方に比重を置きました。
 かなり厄介なテーマでしたがようやく調べが進んだので簡易ながら覚書を残します。同じく興味を持つ人がいつか現れ、調べた時に少しだけ助けになれたら幸いです。続きを読む

 ソ連のアフガニスタン紛争は山岳ゲリラ戦に関する多くの教訓を残しました。戦後1991年、フルンゼ軍事アカデミーで数多の戦闘記録を集め分析した書籍が編纂され、それは米軍指揮幕僚大学とも共有されました。その中に山岳ゲリラの掃討を成功するために満たさねばならない3つの基本事項があります。

1偵察 preliminary reconnaissance
 事前に偵察を行いゲリラ部隊のいる場所を明らかにしておかねばならない。その際にはゲリラ戦力の編制と彼らがどう動くかの予想をつけておくこと。

2ブロック limit / constrain / block
 ゲリラの移動を拘束しなければならない。戦術的空挺強襲や急襲部隊などを用いて敵ゲリラの撤退ルートを全て塞ぎ、逃げようとする敵をブロック部隊の打撃に晒せるようにする。

3掃討 sweeping
 敵戦力は我が方の主力掃討部隊によって撃滅されねばならない。あるいは正面攻撃をもって撃滅する。(撃退などではなく、撃滅しなければならない。)

 この内のどれか1つでも満たしていなければ、(相手側にミスが無い限り)ゲリラ掃討任務の成功は難しくなるとされています。敵と密接に接触し情報を入手し、ブロック部隊がマニューバを行い配置につくと同時に戦闘によって敵をくぎ付けに拘束し、そして敵ゲリラ部隊を包囲し撃滅すること。これがソ連軍が1978年から89年までの長きに渡りアフガニスタンで戦争をして数多くの戦例で犠牲を払い確認した山岳戦の基本事項でした。

 前回はこの3つの基本事項を具体的な戦例の中で説明しました。
【アフガンゲリラ山岳戦例集_1980s_掃討作戦】
http://warhistory-quest.blog.jp/20-Jan-24

 この基本を踏まえた上で応用的な戦例を1つ紹介しようと思います。既にソ連側もゲリラ側も疲弊し、しかし戦術的な知見が積み重なり洗練されてきた時期である1984年、ソ連・アフガン政府の連合軍が掃討作戦を実施します。そこでゲリラ側は逃げ続けるのではなくあるタイミングで逆襲を仕掛けました。場所はパンジシール渓谷南西部、指揮官はアフマド・シャー・マスード、この戦争で最も名を馳せた将です。
1982_マスードの対包囲_高地と町の同時攻撃_All

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 山岳ゲリラの掃討作戦を成功するために満たさねばならない3つの基本事項があり、それは『偵察ブロック掃討』であるとソ連軍は述べました。
 この内のどれか1つでも満たしていなければ(相手側にミスが無い限り)ゲリラ掃討任務は成功が難しくなります。山岳ゲリラ掃討作戦では敵と密接に接触しそして情報を入手し、ブロック部隊がマニューバを行い配置につくと同時に敵をくぎ付けに拘束し、そして敵ゲリラ部隊を包囲し撃滅します。
 積み重ねられた全史の戦闘記録はこれが必要であることを示していますが、今回は特に1980年代のアフガニスタン紛争での戦例を複数取り上げ、具体的に上記3つの基本事項がどう影響したかを説明していこうと思います。
アフガン戦例集_掃討

参照元文献_米軍と共有したソ連フルンゼ軍事アカデミー編纂書籍

 アフガニスタン紛争は軍事侵攻をしたソ連と現地協力政府アフガニスタン民主共和国に対し各地方勢力が主にゲリラで戦ったものです。ソ連軍では侵攻初期から様々な課題が浮き彫りとなり、戦争中にそれを改善していこうと尽力し戦争後もその試みは続けられました。1991年にソ連軍はこの戦争の山岳ゲリラ戦例を多数まとめあげその軍事的分析、教訓集を作り上げます。『アフガニスタン共和国でのソ連軍の戦闘活動集』と名付けられた本書はフルンゼ軍事アカデミーとして知られる指揮幕僚の最高学府で編纂され使用されることになります。

 時を同じくして米ソ冷戦が終わり両国は急接近していました。CIAの現場職員が驚くほどに両国はもう敵でなくなるのだとと上層部から通達が入ります。それは軍事面でも同じで、なんとソ連軍はこの極めて貴重な軍事資料を作成後「即座に」米軍と共有しました。フルンゼ軍学校で出版されたのは1991年であり、米軍が正式に受領し翻訳して英語版を製作したのは同じ1991年です。ソ連軍は赤裸々に自分たちのミスが記された、そして膨大な血と金を代償に得た軍事的教訓の実例を米軍に直接明かしました。そこにはアフガン侵攻の基本戦略軍事コンセプト、そして対山岳ゲリラ戦術の説明も載っています。訳者のグラウ中佐を筆頭にソ連軍事研究の大御所グランツ大佐などが関わり、米国指揮幕僚大学外国軍事研究室(FMSO)の責任の下で英語版が発行されることになります。米軍側もこの資料を自軍が将来戦う可能性のあるタイプの戦役であると大切に受け止めました。文章の構成はまず実戦記録が短く記され、次にフルンゼ軍学校の分析、そして米軍の(FMSOがレビューした)英語版編纂者のコメントが追記される形となっています。

 「軍部同士の暫定的な交流プログラムが実施拡大されており、米ソ両軍の巨大な相違を橋渡しする試みが為されその2国の軍は将来、統合作戦と平和維持作戦をする可能性がある。」
L.W.グラウ

 これは英語版の前文(p.XX)に書かれた記述の抜粋です。ソ連はロシア連邦へと変わり、現在2020年時点では両国は友好的とは言えず、本格的な米ロ統合軍事作戦という90年代に抱かれた夢は難しい情勢です。それでも2001年からアフガニスタンで新たな戦争を続ける米軍にとってこの資料は非常に高い価値があり、開戦時の将校の中の何人かあるいはかなりの人数が読んで参考としていたはずです。実際に2000年に発行された米陸軍野戦教範FM3-97.6 Mountain Operationsには多分にこのフルンゼ軍学校の本の内容が反映されており、実戦例と図もそのまま参照しているものがあります。

「これはソ連・アフガン戦争における最初の暴露資料である。そしてこれが最後の資料でないことを祈っている。」
D.M.Glantz Introductionより抜粋

 この書籍の中には膨大な数の戦例が記されていますが、本記事はその中から掃討作戦について記された箇所を参照とし記すことと致します。
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冷戦期、西ドイツをワルシャワ条約機構から防衛するためNATO軍が配備されていましたが、その中でもよく議論されたフルダ・ギャップと呼ばれる場所があります。そこはドイツ中央部に位置し、東ドイツの領土が最も突出した箇所に面している所です。北ドイツ平野に比べ中央~南部は山が多く侵攻には手間がかかります。ただここは天然の障害物となれる大きな河川のフルダ川と山系が国境沿いにあるのですが、そこを越えると大きな障害が無く一挙にフランクフルト周辺の広大な平野と人口・産業地帯そして米軍の重要後方拠点まで進出できてしまうため注目されました。
標高_ドイツ中央部東西ドイツ地図_高速道路

 1980年米軍の高級将校たちがある会議にWW2のドイツ国防軍でその名を馳せたヘルマン・バルクとフォン・メレンティン両将軍を招きました。その目的はフルダ周辺に配備されている米陸軍第5軍団の兵棋演習でした。
 米軍側はデピュイ大将、オーティス中将、ゴーマン中将を筆頭に、軍団区域の南を担当する歩兵師団の戦術プランを説明しドイツの両将軍の質疑に答えました。一方でドイツの両将軍はその場で戦場や戦力の説明を受け、それから軍団区域の北の第3機甲師団の戦術プランを彼らが考え話すことになります。この両者のコンセプトや経験は米軍関係者にとって参考になるものでした。
 兵シミュレーションなどを作成しているBDM社の協力の下、彼らは4日間の戦術的な分析議論を行い、後に会議内容をまとめたレポートをデピュイ大将が作成しました。

 William E. Depuy, (1980), "Generals Balck and Von Mellenthin on Tactics: Implications for NATO Military Doctrine"

 今回はこのレポート内容について記そうと思います。一部翻訳している箇所もありますが、基本的にデピュイ大将の書いている文の要点を内容を把握できる程度にメモ書きしたものとなります。
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 先に自分ならどうするか考えてみて頂けると、後々の思索が深まると思います。ですのでまず始めに戦域およびソ連軍の戦力と初期配置のみにした図を貼っておきます。地形は上図を参照ください。AlsfeldからBad Hersfeld中心までは直線距離33.5㎞です。
 米軍は第5軍団所属の第3機甲師団が北に、第8機械化歩兵師団が南に配置されます。戦力詳細は次のようになりますので、よければこれをまずどこに初期配置するか考えてみてください。
第3機甲師団の域内戦力
  機甲=6個大隊
  歩兵=5個大隊(全て機械化)
  砲兵=8個大隊(全て自走砲化)
  騎兵=3個大隊(機甲偵察車両)

第8機械化歩兵師団の域内戦力
 機甲=5個大隊
 歩兵=6個大隊(全て機械化)
 砲兵=9個大隊(全て自走砲化)
 騎兵=2個大隊(機甲偵察車両)

 ※師団サイズは米軍第3機甲師団は約15000人、ソ連の戦車師団は1個あたり12000人前後としてください。
 ※1960年代のIvashutin将軍の文書によるとソ連の作戦は核兵器使用の有無に関わらず実行可能とされた。
NATO演習_00
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 AirLand Battleと機略戦の理論を押し進めていた冷戦末期の米軍がこのコンセプトを自国なりのやり方で導入するために、委任戦術Auftragstaktikが根付いた将兵がどういった行動を取れたのか、研究した論文についての試訳です。
 前半はAuftragstaktikとはどういうコンセプトだったのか、その歴史の概略と共に記されています。
リンク↓【試訳_委任戦術とその歴史概略】
http://warhistory-quest.blog.jp/19-Dec-15

 この後半は論題通りの主箇所、チル川の戦いにおけるドイツ第11装甲師団の戦例について書かれています。
恐らくドイツ側の説明はほぼ不要なほど有名ではあると思いますが
・ソ連の天王星作戦によりスターリングラードで包囲された第6軍
・マンシュタイン元帥のドン軍集団が解囲を試みた冬の雷雨作戦
・ソ連が南部に展開するドイツ軍全体の崩壊を試みた(小)土星作戦
に関係しています。

 スターリングラード解囲のためのドイツ軍攻勢とは別に、その直前からソ連第5戦車軍はチル川突出部を潰そうと継続的な攻勢を仕掛けました。そこで第48装甲軍団は敵を撃退するために苦闘することとなります。
 互いに思い通りに行かなかった点は多々あるものの、その戦闘内容は教訓に富んだものであると米軍は解釈しており、本論文はそれを具体的にAuftragstaktikが根付いた指揮と統制に着目し記述しています。
図3_1942年18日~19日_第11装甲師団のチル川沿いでの逆襲
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 以下、試訳

Order Out of Chaos : チル川の戦いにおけるドイツ第11装甲師団の活動

【著者】Robert G. Walters 米陸軍大尉 (当時)
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