戦史の探求

戦史の情報を整理し探求するサイトです。 古今東西の全てを対象とし、特に戦況図や作戦図に着目しながら戦略・作戦・戦術について思索します。

タグ:古代ローマ

 ローマ内戦において2人の優れた軍指揮官が衝突しました。1人はガイウス・ユリウス・カエサル、恐らくその名はローマ史のみならず全歴史上最も知られています。もう1人はグナエウス・ポンペイウス。マグヌス(偉大なる)という尊称と共に呼ばれる彼は若くしてローマ史上屈指の軍事功績を挙げ、強力なコネクションを地中海全周域に持つ人物でした。
 一般的には『内乱記』に依拠したカエサルの視点を軸に軍事推移を説明する方が多いですが、本稿は「カエサルの敵」側に比重を置きポンペイウス及び元老院が何を計画し行動に移していったかを記すこととします。そしてポンペイウスの軍事計画を理解することは、カエサルが(時にギャンブルと呼ばれるほどの)リスクを冒した作戦行動をとった理由を説明することに繋がります。2人の計画と行動は合理的で、会戦での戦術のみならず戦略‐作戦の領域で各個たる意味を持っていました。戦略上の位置づけを把握することは、2人のとった幾つかの戦術的行動に関する疑問への回答ともなると思います。

 Sheppard(2006)は 2人の対決を専門に扱った書籍の副題を『巨神たちの激突(Clash of the Titans)』としています。まさしくポンペイウスは絶大な力を持ち、カエサルへ最大の敵として立ちはだかりました。本稿は両者の合理性と作戦失敗へ到ったその背景をポンペイウスを主眼に記していくこととします。
Pompeius Strategy

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  包囲に対抗するための方策として鈎型陣形と呼ばれるものがあります。
 陣形とは書いていますが、その意図は敵が多角的攻撃をしてきた際に自軍部隊が『側面を曝したまま攻撃を受けないようにする』戦術コンセプトであり、幾何学性よりもその効果の方に本質的な意味があります。包囲形にされることをある程度想定に入れるという特徴があり、包囲攻撃を受ける際にそのインパクトが緩和されます。その点で対包囲戦術の1つとして、多くの戦で使用されました。ただし鉤型で対抗するということは受動的で複数のリスクもありました。
1642_Battle of Honnecourt_鉤型陣形の敗北

 今回はそれらの包囲をされた際に側面を曝さないようにした戦術的行動を鈎型陣形と呼称し、その基礎概念について記そうと思います。如何にして鈎型陣形をとった軍が勝利したかは、古代ローマ・ガリア戦役の2戦例(ビブラクテ、サビス川の戦い)を取り上げ詳解しようと思います。

 本稿は鈎型陣形が耐久により包囲攻撃に対し勝利した事例に説明の重点が置かれています。けれども鈎型陣形はそれ単体での耐久勝利よりもむしろ他の逆襲戦術と組み合わされることで大きな威力を発揮したものです。それらの戦術を理解するための基礎としても必要であるため、まず単体について記そうと思います。
→別拙稿 鉤型陣形を組み合わせた逆襲 後日作成します。続きを読む

 古代ローマ、この強大な国家には何度か変質をした転換点がありました。その内の1つが前1世紀に起きたガリア戦争及びローマ内乱期です。これらの戦争の中で幾人かの優れた将軍、そして後世で研究されることになる高度な戦術と作戦が記録されることになります。この転換期にユリウス・カエサルは絶大な影響をもたらし歴史上において比類なき人物としてその存在を刻み込みました。
 彼の賛同者は最高の賞賛を与え反対者は最大の批判をし、歴史に興味を抱かない人々の間ですら名を覚えさせてしまうほど、カエサルはあまりにも魅力的人物なのでしょう。軍事面においてもカエサルは単に会戦に勝ったというだけでなく高度かつ複雑な軍事理論を遂行しており、極めて卓越した将なのは間違いありません。

 ただ、あるいは故にと言うべきでしょうが、彼と戦った者達もまた忘れられるべきではない活躍をしています。政治、外交、軍事、文才、コミュニケーション能力…ほぼあらゆる面で圧倒的に優れていたカエサルに対しそれでも戦いを挑んだ人々の存在は何かの意味を残したのだと思います。
 今回はその中のティトゥス・ラビエヌスという人物の戦史を紹介したいと思います。人物の伝記はBlake Tyrrellが記してくれていますので本稿ではテーマとはせず、幾つかの軍事理論の方を主題としその実戦例としてラビエヌスの戦史記録を取り上げることとします。(よって紹介する会戦の時系列を意図的に並べ替えます。)

 かつて副司令官としてカエサルと共に戦い、後にカエサルを相手に戦い、そしてカエサルに会戦で勝利した1人の軍人の記録です。

BCE52_Battle of Lutetia_4
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 攻城戦における形式の1つ坑道戦について今回は記載しようと思います。ドゥラ・エウロポス遺跡は古代ローマ/ササン朝間の武装や技術の極めて重要な資料であり、そちらの紹介も兼ねています。
 戦闘推移だけ読む方は【3世紀のドゥラ・エウロポス攻城戦_城壁補強】まで飛ばしてください。

DuraEuropos-PalmyraGateDura_mine_gas



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 帝政ローマは地中海を中心とする大国として君臨し途轍もない業績を達成しました。

 その広大な版図をもたらした一要素、ローマ軍団の存在は戦史の中に膨大な戦例を遺してくれています。
 今回は彼らが突き進んだ北西の果、ブリタニアの戦役で女王ブーディカ率いる反抗勢力と行われたワトリング街道の戦いに関して記述しようと思います。
Street-6
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 古代西アジアにおいて2つの大国が熾烈な戦いを繰り広げました。高名なローマとパルティアの戦争です。彼らの戦争は数多の犠牲の上に成り立つ名将と呼ばれる者達を生み、戦史に大きな教訓を残しました。その初期に行われた戦いの1つ、カルラエの戦いは後の時代でも使われ続ける代表的な戦術を示してくれています。

 この戦いは片側の圧倒的勝利に終わりますが、決して敗者が、その将と兵士たちが嘲笑を受けるような姿勢を見せたからではありません。カルラエの戦いにおいてローマ軍とパルティア軍はどう戦ったかのかを歴史書の記述から思索しながら追ってみることとします。
carrhae-overall
(以下本文 敬略)続きを読む

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