戦史の探求

戦史の情報を整理し探求するサイトです。 古今東西の全てを対象とし、特に戦況図や作戦図に着目しながら戦略・作戦・戦術について思索します。

タグ:対包囲

 ナポレオンの最後の戦い、ワーテルローの戦いで彼を破った勝者として抜群の手腕を認められている人物
初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー

 ワーテルロー以前にインドで快進撃を続けたことで英国内で彼の名声は確立していました。そして続いて対ナポレオン戦争へ挑みスペインでスルト、ジュノー、マッセナ達ナポレオン配下の優れた将軍を相手に優勢に進め欧州中にその名を知らしめます。
 彼は戦略的には攻勢でありながら、会戦では優位な地形を占め態勢を整え相手を待ち受ける守戦を得意とし慎重なその采配は高い評価を得ています。
 
 ただ勿論ウェリントン公は常に優位な地形で防戦という状態を迎えられたわけではありません。時に自分から突撃が必要な際には激烈な攻勢に出ました。
 今回はウェリントン公の指揮官として初期の、そして彼にとって最も血塗れた損失をだした戦いの1つだと言われるアッサイェの戦いについて記載しようと思います。

Battle_of_Assaye_advance
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 包囲を行ってくる敵に対してどう対処するかという命題について戦史には様々な応えが記されています。そもそも包囲を行える部隊組織を持ち、発案しくる敵指揮官は優れた相手であることが多く、それを上回る戦術は卓越したものとなります。

 第3次ラムラの戦いは包囲を企図した者とそれに対抗した戦術が現れた良質な戦例です。

 この戦いの指揮官、十字軍国家の王ボードゥアン1世は中東で戦歴を積み重ねてきました。
 直近の会戦で対決したファーティマ朝軍は数で上回っていたためか尽く包囲を試みており、第1次ラムラ会戦では包囲が失敗し、第2次ラムラ会戦では前回の欠点を見事に改善し包囲戦術を成功させボードゥアンを破りました。学習し成長したとも言えるこの敵に対してボードゥアンもまた戦術的な変化を持って再び戦に挑みます。
スライド9

(以下 本文敬略)
第1次ラムラ会戦及び第2次ラムラ会戦に関する記事は本リンク参照
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 包囲戦術・作戦は軍事史において古今東西変わらずその有効性を示し続け、今や米軍の教範に戦術上最も検討優先度の高いマニューバとして記されています。
 しかし包囲を行おうとすれば勝てるというわけではなく、相手もまた優れた軍事知識を持つ将校である場合に包囲を成功させることは至難であり、逆襲を受け敗北することもあります。特に相手の包囲を上回り逆襲する手法は対包囲(反包囲)という括りを為され、恐らく戦術という観点では最も高度な手法の1つが見られるでしょう。
 といっても複雑な対包囲もあればシンプルなものもあります。時に対包囲というより包囲側の自滅的な要素もありますが、いずれも迅速で大胆な決断力を必要とします。なぜなら全て巨大なリスクを背負わなければできないマニューバだからです。

 今後このサイトではある程度、包囲戦術の各タイプごとの戦例をあげた後、それらに対する対包囲戦術・包囲戦術失敗の戦例を定期的に投稿していこうと考えています。

 この記事はその最初の投稿となります。会戦の名は「ラムラの戦い」、中世に行われた十字軍騎士とアラブ兵の戦闘です。
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(以下本文敬略)
(対包囲戦術の例:第3次ラムラの戦いは本リンク参照続きを読む

【包囲運動の基本概念】

3-1. 包囲運動の概説

 包囲(envelopment)は戦史において突破と並びその絶大なる効果を示してきたマニューバです。
包囲は敵の側面や後背を含む複数方面から行われる攻撃であり、実行ためには指揮官や兵卒に高い練度が必要です。
 包囲は古より現代まで試行錯誤がなされ発展し続けています。ある程度の原則を基にしながらも時に新技術や兵科により全く斬新な包囲方式が考えられることもあります。

Maneuver-3_クロコトニッツァの戦い_ブルガリアの包囲殲滅戦術
                                       (戦例:Battle of Klokotnitsa_ブルガリア軍が東ローマの大軍を包囲撃滅)

米軍野戦教本 FM 3-90 Tacticsにおいては以下のように定義されています。
「包囲とは、敵現在位置において撃滅するために、敵軍の側面を目標として追い求めることによって攻撃部隊が敵防御の主体を回避することにつとめる運動の1つである」
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