戦史の探求

戦史の情報を整理し探求するサイトです。 古今東西の全てを対象とし、特に戦況図や作戦図に着目しながら戦略・作戦・戦術について思索します。

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 1965年、インドとパキスタンは短いながらも激しい戦争を行いました。北部のジャンムー&カシミール地方の領有を巡る対話は頓挫し武力解決を政治指導部は決意します。最初は様子見のような衝突を行い、次第にエスカレートし互いに強力な軍事攻勢を実施しました。

 この戦争は主に4つの段階で分類されます。
第1フェイズ】:1月から起きた南部カッチ湿地帯での衝突、これは準軍事組織が最初に動き軍同士の衝突は小規模で終結。インドは『アブレイズ』作戦による西方動員開始。

第2フェイズ】:パキスタンが『ジブラルタル』作戦を発動しインド実効支配カシミールへ大量のゲリラを浸透させる、それに反応してインドは対ゲリラ作戦として停戦ラインを越えハジピール突出部へ攻撃する。

第3フェイズ】:カシミール西部停戦ラインを越えたインド正規軍に脅威を感じたパキスタン政府はジャンムー近域で正規軍による侵攻作戦『グランドスラム』を実施。インド軍は押し込まれたが逆襲し機甲戦が発生する。
  記事リンク→http://warhistory-quest.blog.jp/19-Nov-15

第4フェイズ】:カシミールではなくその南傍であるラホール地域でのインド軍の攻勢『リドル作戦』が発動。だがパキスタン軍は即座に撃退し第1機甲師団が逆侵攻の突進をしかけた。それにインド第2機甲旅団が反応し「WW2以降で史上最大の戦車戦」とインド軍が謳う戦いが発生。
  記事リンク→http://warhistory-quest.blog.jp/19-Nov-22
pakistan_offensive_1965

 1965年戦争は両国政府が「敵を撃退し勝利した」と宣言しそれに則った報道が為されてきましたが、2000年前後から特に軍人の手によって当時の記録を再分析する試みが進み、2010年代には複数の記事や本が作られました。それらの資料は部分的な勝利での戦術的に優れた行動を行った将兵を称えながらも、伝達ミスや深刻な戦略的失敗が互いにあったことを浮き彫りにしています。

 今回は第1と第2フェイズのゲリラ戦及び対抗作戦について記述し、次回は第3と第4フェイズの機甲戦について書こうと思います。続きを読む

前回バドルの戦い←           →初回及び参考文献

3-1. メッカ・クライシュ族の再侵攻とハーリドの参陣 [the battle of Uhud]

メッカvsメディナ
 西暦624年、ムハンマド率いるメディナ・イスラム勢力はバドルの三叉路の戦いで数倍のメッカ・クライシュ族を撃退し有力者の1人ハカムを戦死させた。この寡兵で得た勝利はイスラムを勢いづかせるには充分であり、メディナの勢力は更に増大を始めた。
 一方で権威を失墜させ有力者を何人も失ったメッカ・クライシュ族は焦っていた。交易と参拝で成り立つメッカで部族と己が神の沽券を失えば取り返しがつかないことに成ってしまう。有力者が戦死したことで事実上の指導者となったスフヤーンは、部族会議を開き復讐を行うことを決定した。
 スフヤーンはバドルと同じ戦い方では勝てないことを悟っていた。彼は時間をかけ充分な準備をしてから出撃することに決めた。バドルの戦いから1年弱たった625年、スフヤーンは装備を整えると復讐戦を開始した。その中には騎兵部隊等の隊長格として参画したハーリドの姿があった。
 家族の中には既にイスラム側に行ってしまった者もいたが、武門の一族マフズーム家の誇りを賭け彼は戦いに赴く。


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