戦史の探求

戦史の情報を整理し探求するサイトです。 古今東西の全てを対象とし、特に戦況図や作戦図に着目しながら戦略・作戦・戦術について思索します。

タグ:機甲戦

 現代強度市街戦における小規模部隊での機甲+工兵+歩兵の一体化に関する資料紹介記事の補足として2点記しておきます。
【強度市街戦での工兵再拡大及び機甲と歩兵との一体化】
http://warhistory-quest.blog.jp/21-Oct-11

①市街戦に於いて機甲車両は非常に有用であり、それはWW2~最新の戦例によって明確に証明され、市街戦専門家たちの支持を得ていること。

②市街戦時代の到来によって戦場は陣地戦と消耗戦の性質を色濃く示すため、Maneuver Warfare理論は大きな変化を求められている。その解釈として、King教授を筆頭にそもそもManeuver Warfareはもう終わったと唱える者たちが居る。それに反対する意見もあり両者には前提認識のくい違いがあるが、いずれにせよ現代軍が直面する現実として、『positional warfareの拡大』または『maneuver warfareの都市環境適応化』が求められている。

 日本のみならず米軍内でも戦車は市街戦では使えないという認識の人が意外なほどに多いようです。彼らに市街戦研究者たちは少々いらだっているようですが、その有用性が証明されていることを粘り強く何度も説明してくれています。
 Maneuver warfare終了説はだいぶ前からありますが、King教授はかなり強く主張しているので色々と議論を呼んでいます。

< 以下詳細 >
Battle of Mosul_20161107
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 循環移動射撃(カルーセル、トラゥザーズ)戦法について紹介した前回の記事に続き、それを組み込んだ戦術的行動について調査しましたので記載しようと思います。
 機甲の循環移動射撃が組み込まれ得る戦術は様々あり、現在シリアでの実戦やロシア軍の演習で試されています。いずれも極めて強力なものであり、相手がもしそれを把握しておらず巧みな対処ができなければ破滅的な影響をもたらし得ます。それらは真新しいものではなくむしろ歴史的に幾つもの巨大な実績をあげた戦術の現代への適合と統合という意味での進化に近いものでした。循環移動射撃戦法がもたらす効果はその戦術を構成する一要素として、例え循環移動射撃が単一では敵に重い損害を与えていなくとも、全体の戦果に対し大きな貢献をしています。
 以下の事項について特に着目して記述しました。

・偵察‐打撃コンプレックスの活用
・機甲のノマド式運用
・長時間制圧射撃と別チームの移動支援
・誘引からの分断、包囲、逆襲(マニューバラブル防御の一部)
カルーセル_偵察からの打撃

関連
前回の循環移動射撃(タンク・カルーセル、ファイヤ・カルーセル、タンク・トラゥザーズ)、シリア式塁壁に関する調査記事。
リンク→タンク・カルーセル戦法_機甲による循環移動射撃
http://warhistory-quest.blog.jp/20-Apr-15

攻撃時に後退を含む頻繁な移動を許容し、継続的な射撃を行うタイプの戦闘技法とそれを用いた包囲戦術の事例
リンク→弾性の包囲概説と戦例
http://warhistory-quest.blog.jp/18-Apr-12
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冷戦期、西ドイツをワルシャワ条約機構から防衛するためNATO軍が配備されていましたが、その中でもよく議論されたフルダ・ギャップと呼ばれる場所があります。そこはドイツ中央部に位置し、東ドイツの領土が最も突出した箇所に面している所です。北ドイツ平野に比べ中央~南部は山が多く侵攻には手間がかかります。ただここは天然の障害物となれる大きな河川のフルダ川と山系が国境沿いにあるのですが、そこを越えると大きな障害が無く一挙にフランクフルト周辺の広大な平野と人口・産業地帯そして米軍の重要後方拠点まで進出できてしまうため注目されました。
標高_ドイツ中央部東西ドイツ地図_高速道路

 1980年米軍の高級将校たちがある会議にWW2のドイツ国防軍でその名を馳せたヘルマン・バルクとフォン・メレンティン両将軍を招きました。その目的はフルダ周辺に配備されている米陸軍第5軍団の兵棋演習でした。
 米軍側はデピュイ大将、オーティス中将、ゴーマン中将を筆頭に、軍団区域の南を担当する歩兵師団の戦術プランを説明しドイツの両将軍の質疑に答えました。一方でドイツの両将軍はその場で戦場や戦力の説明を受け、それから軍団区域の北の第3機甲師団の戦術プランを彼らが考え話すことになります。この両者のコンセプトや経験は米軍関係者にとって参考になるものでした。
 兵シミュレーションなどを作成しているBDM社の協力の下、彼らは4日間の戦術的な分析議論を行い、後に会議内容をまとめたレポートをデピュイ大将が作成しました。

 William E. Depuy, (1980), "Generals Balck and Von Mellenthin on Tactics: Implications for NATO Military Doctrine"

 今回はこのレポート内容について記そうと思います。一部翻訳している箇所もありますが、基本的にデピュイ大将の書いている文の要点を内容を把握できる程度にメモ書きしたものとなります。
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 先に自分ならどうするか考えてみて頂けると、後々の思索が深まると思います。ですのでまず始めに戦域およびソ連軍の戦力と初期配置のみにした図を貼っておきます。地形は上図を参照ください。AlsfeldからBad Hersfeld中心までは直線距離33.5㎞です。
 米軍は第5軍団所属の第3機甲師団が北に、第8機械化歩兵師団が南に配置されます。戦力詳細は次のようになりますので、よければこれをまずどこに初期配置するか考えてみてください。
第3機甲師団の域内戦力
  機甲=6個大隊
  歩兵=5個大隊(全て機械化)
  砲兵=8個大隊(全て自走砲化)
  騎兵=3個大隊(機甲偵察車両)

第8機械化歩兵師団の域内戦力
 機甲=5個大隊
 歩兵=6個大隊(全て機械化)
 砲兵=9個大隊(全て自走砲化)
 騎兵=2個大隊(機甲偵察車両)

 ※師団サイズは米軍第3機甲師団は約15000人、ソ連の戦車師団は1個あたり12000人前後としてください。
 ※1960年代のIvashutin将軍の文書によるとソ連の作戦は核兵器使用の有無に関わらず実行可能とされた。
NATO演習_00
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 AirLand Battleと機略戦の理論を押し進めていた冷戦末期の米軍がこのコンセプトを自国なりのやり方で導入するために、委任戦術Auftragstaktikが根付いた将兵がどういった行動を取れたのか、研究した論文についての試訳です。
 前半はAuftragstaktikとはどういうコンセプトだったのか、その歴史の概略と共に記されています。
リンク↓【試訳_委任戦術とその歴史概略】
http://warhistory-quest.blog.jp/19-Dec-15

 この後半は論題通りの主箇所、チル川の戦いにおけるドイツ第11装甲師団の戦例について書かれています。
恐らくドイツ側の説明はほぼ不要なほど有名ではあると思いますが
・ソ連の天王星作戦によりスターリングラードで包囲された第6軍
・マンシュタイン元帥のドン軍集団が解囲を試みた冬の雷雨作戦
・ソ連が南部に展開するドイツ軍全体の崩壊を試みた(小)土星作戦
に関係しています。

 スターリングラード解囲のためのドイツ軍攻勢とは別に、その直前からソ連第5戦車軍はチル川突出部を潰そうと継続的な攻勢を仕掛けました。そこで第48装甲軍団は敵を撃退するために苦闘することとなります。
 互いに思い通りに行かなかった点は多々あるものの、その戦闘内容は教訓に富んだものであると米軍は解釈しており、本論文はそれを具体的にAuftragstaktikが根付いた指揮と統制に着目し記述しています。
図3_1942年18日~19日_第11装甲師団のチル川沿いでの逆襲
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 以下、試訳

Order Out of Chaos : チル川の戦いにおけるドイツ第11装甲師団の活動

【著者】Robert G. Walters 米陸軍大尉 (当時)
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  1965年印パ戦争において9月第2週は最大規模の衝突が同時的に複数起きた期間となりました。両国は機甲部隊を投入し積極的な侵入を行い、そして守る側でも機甲部隊に重大な役割を任せることになります。

 その舞台となったシャカルガル突出部北域での戦い(Battle of PhilloraとBattle of Chawinda)そして南の戦い(Battle of Asal Uttar)はインドでは度々「WW2以降で最大の戦車戦」というフレーズを持って紹介されます。実際に最大なのかの戦例比較検証はともかく、確かに彼らがそう言いたくなるほど機甲部隊は激しい戦闘を繰り広げました。戦車に対抗するために戦車をぶつけなければならないというルールは戦争には無く、実際に対戦車砲や航空機が戦果を挙げていますし現代なら対戦車誘導ミサイルなど数多くの効率的手段があるのですが、1965年印パ戦争では両軍総司令部の問題もあり戦車対戦車の局面が大規模に発生し非常に興味深いものになっています。

 今回はその中でも極めて見事な戦術が実行されたアサル・ウッターの戦い(別名ケム・カランの戦い)について記そうと思います。
battle of Asal Uttar_9月10日_午後戦闘ピーク-min

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 1965年の印パ戦争はエスカレートを続け、後期は完全な正規軍同士の正面衝突となります。ジャンムー&カシミール地方根本の突出部周りで会戦が複数行われ、短期間ながらも攻守が入れ替わる流動的な戦闘が起きました。

 それらの攻勢が開始された原因は、ある重要地点を救うために別の重要地点に攻撃をかけるという戦略を両国共に取ったからでした。しかしそれは充分な準備なしに攻撃と反撃を実施する事態を引き起こし、戦闘部隊の活躍とミスの両方があったことで決定的な戦果へと到ることは困難でした。
 今回はその一部、Operation Grand SlamとBattle of Lahoreの2つについて記述してみたいと思います。戦術面ではパキスタン機甲旅団による川を背にした狭域での積極的迎撃戦闘に着目しています。

※1965年戦争のフェイズ1とフェイズ2は【ジブラルタル作戦_ハジピール山道の戦い_1965_ゲリラ浸透と対抗作戦】を参照 リンク↓
http://warhistory-quest.blog.jp/19-Nov-08

※長くなるためWW2以降で史上最大の戦車戦とインド軍が謳うアサール・ウッターの戦いとフィロラの戦いは次回以降。
北部_第15師団戦域_9月8日午後
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